本当にかすかだったが、隣の宮から、女官(にょかん)たちが騒ぐ声が聞こえ、私は慌てて女人専用の宮の方へ走った。
廊下で腰を抜かしている女官が「お、お、お、鬼です」と震える声で言った。

那美(なみ)どのの部屋はどこだ?」

プルプルと震えながら、女官の指さす部屋の扉を遠慮なく開け放つ。

那美(なみ)どの!」

部屋の中は暗くてよく見えなかったが、はっきりと見えたのは角の生えた大男が那美(なみ)どのの肩を(いだ)いていた所だった。

―― 絶対に許さん!

斬りかかろうとしたところで、黄色い閃光が走り、バチン!と音がした。
すぐに那美(なみ)どのがカムナリキで抗戦したのだとわかる。
そのまま走りこんで来て、二人の間に入り、鬼に対峙(たいじ)した。

伊月(いつき)さん、大丈夫です。危ない鬼じゃないです。」

「しかし、こんな夜更けに、そなたの部屋に入り込んでいる。」

夜中に女人(にょにん)の部屋に忍び込む理由など、たくさんはない。
那美(なみ)どのが止めなければ、すぐにでも殺していたところだ。

「ちっ。無理矢理でも(さら)って行こうと思ったが、お前は女のくせに強いなぁ。」

―― やはり、この野郎、殺す!

刀を振り上げると、後ろから、那美(なみ)どのが私の袖を引っ張った。

「だ、大丈夫です。お願いします。斬らないで下さい。」

「…。」

ここで殺しては、那美(なみ)どのが怖がるかもしれぬ。
そう思って耐える。
他の護衛隊の者たちが那美(なみ)どのの部屋を包囲すると、鬼は「また会いに来る、那美(なみ)。」と言って、煙を巻いて消えた。

―― 名前で呼んだ、だと!? また、来るだと!?

どうにか怒りを抑えながら、刀を鞘に納め、那美(なみ)どのの方へ振り返る。

那美(なみ)どの、怪我は?」

―― な!

那美(なみ)どのは、夏用の薄い、今にも透けて見えそうな湯帷子(ゆかたびら)一枚を細い伊達絞(だてじ)めで絞めているだけの、あまりにも無防備な姿だ。
私は、すぐに布団を引っ張って来て、那美(なみ)どのを布団でぐるぐる巻きにした。

―― 鬼にも護衛隊にも誰にも見せてはいかぬ姿だ!だが、見られた!

私の中に怒りが浸透した。

「一体ここの警備はどうなっている!」

怒りをぶつけるように言うも、官人たちは、ただ、あたふたとしている。

―― これだから、実際に(いくさ)に行かぬ武官など役に立たぬ!

「我ら一隊が交代で見張りをする!我らの寝所をこちらの宮に移してもらう!」

―― だが一番の役立たずは、私だ。

清十郎(せいじゅうろう)! 那美(なみ)どののお(そば)にいろ!」

「は。」

私は着いてすぐにしておくべきだったことを始める。
これまで泊まった宿や村では毎回やってきたことだが、今回これを(おこた)ってしまったのは完全に私の失態だ。
建物を歩き回り、建物の全体を見て、警備の行き届いていない所を確認した。
そして武官たちに効果的な見回りの方法を指示した。
あやかし避けの結界が弱いところも見つけ出し、対策を講じた。

「いいか、ネズミ一匹寄せ付けるな!」

「は!」

―― 私が、悪い。あの時に安易に官人たちの言葉を受け入れ、那美(なみ)どのを一人にしてしまった。

一通り、できるだけの対策を講じ、那美(なみ)どのの部屋に戻る。
布団にくるまって大人しくしている那美(なみ)どのの前に座り、頭を下げた。

「私がついていながら、この失態だ。誠にすまない。許せ。この通りだ。」

「や、止めて下さい! 謝らないで下さい。」

那美(なみ)どのは簀巻(すま)き状態になっている布団の中で手足を動かしているのだろう、もぞもぞしている。
そんな姿まで可愛い。

―― こんな時にまで、私はこの人に惹かれてしまうのか…

自分自身に呆れかえっていると、那美(なみ)が困ったように訴える。

「あの、この布団、取ってもらえませんか? すごく暑くて…」

清十郎(せいじゅうろう)に目配せすると、清十郎(せいじゅうろう)欄間(らんま)にかかっていた御簾(みす)を下ろしはじめた。

「誠にすまんが、今夜はこの部屋の襖も、扉も、障子も、窓も、開け放ったままにさせてほしい。御簾(みす)を下しておくだけだ。いいか?」

「はい。大丈夫です。私もその方が安心です。」

全ての御簾(みす)が下ろされて、周りから視界が(さえぎ)られたのを確認して、那美(なみ)どのを布団から解放する。

「ふわー、あ、暑かったぁ。」

那美(なみ)どのは襟元(えりもと)を少し開けて、ひらひらと手で風を送った。
扉が開け放たれて、月明りで明るくなった部屋の中で、私はその様子を見て、驚いた。
那美(なみ)どのの、鎖骨の少し下あたりに、赤い跡がある。

―― もしかして、あの鬼が…?

嫌な予感がして、冷や汗が出た。

「あの、一番に駆けつけてくれてありがとうございます。」

那美(なみ)どのの言葉にハッとするが、直視できずに目をそらした。
もし、あの鬼が、那美(なみ)どのに、ひどいことをしていたのなら…

―― 私はあの鬼を殺すだけで、怒りをおさえられるだろうか。

「肝を冷やした。まさか宮廷(きゅうてい)の警備がこんなに甘いとは…。」

もし、そのせいで、あの鬼が、那美(なみ)どのに、ひどいことをしていたのなら…

―― 宮廷を焼き尽くしても、私は自分の怒りをおさえられるのだろうか。

那美(なみ)どの、何があったか、全て話してくれぬか?」

「えっと、あの鬼、ただの酔っ払いエロおやじでした。」

私は深刻に聞いているのに、那美(なみ)どのは、どこかあっけらかんとしている。

「えろ、とは何だ?」

「えっと、ちょっと、やらしいっていうか、すけべっていうか…」

「や、やはり何かされたのか?」

嫌な予感が的中してほしくない、しかし、もしそうなら…
私は那美(なみ)どのの両肩を(つか)んで目をのぞきこむ。

「こ、ここに触れていたのを見た!あの悪鬼めが那美(なみ)どのの肩を!」

私は那美(なみ)どのの肩を何度もさすった。
それ以上にひどいことをされたのなら、もしそうなら…

―― 私は自分を一生許せぬ!

「落ち着いて下さい。それ以外は特に何も…」

那美(なみ)どのは、思いつめる私とは対照的に、どこか、のほほんとしている。
本当にひどい目にあったという感じではない。
那美(なみ)どのの声音を聞いて少し安堵するも、実際に何があったのかはわからない。
やがて、那美(なみ)どのが、何があったか、少しずつだが、話してくれる。

まず、さっきの鬼が酒呑童子(しゅてんどうじ)だったということに驚いた。
なるほど、あの結界をやすやすと敗れるだけの力があるわけだ。

よく聞けば、那美(なみ)どのを酒の相手にしようとしたらしい。

「あの、エロ酒呑童子(しゅてんどうじ)め!那美(なみ)どのに酒の相手をさせようなどと、遊び女(あそ め)のように扱いおって!許さん!」

「お、落ち着いて下さい。でも、エロっていう言葉の使い方は合ってます。」

―― どうやら、ひどいことはされていないようだけど、
―― では、あの赤い跡は何だ? 虫刺されか?

那美(なみ)どのが隠し事をしているようにも見えない。
疑問はぬぐえないので、意を決して聞いてみる。

「もしかして、こ、こ、これもそうなのか?」

私は那美(なみ)どのの着物の(えり)もとを少し下げて、鎖骨(さこつ)を触った。
どう見ても虫刺されには見えぬ。

―― もし鬼の仕業(しわざ)なら、もしそうなら、もしそうなら…

私の手が怒りに震える。

「あっ。」

那美(なみ)どのは、着物の襟元(えりもと)をきゅっと閉めた。

「違います! これは…」

那美(なみ)どのは、きょろきょろと周りを見渡し、御簾(みす)の向こう側にまだ人がいるのを確認した。

―― やはり、人前では言うのが、はばかられたのか。
―― もしこれが、まこと、鬼の仕業(しわざ)なら、鬼も、武官たちも、(みやこ)ごと焼き尽くしてやる!

那美(なみ)どのは、そっと私の耳元で(ささや)いた。

「これは昨日、()湯殿(ゆどの)伊月(いつき)さんがつけたんじゃないですか!」

「あ…」

私の中で膨らんでいた怒りの湯気が、一気にプシューと音を立てて頭から出て行った気がした。

「忘れるなんて、(ひど)いです。」

那美(なみ)どのが恨めし気に、私をにらみつける。それも可愛い。

―― そうか、鬼より私の方が那美(なみ)どのにひどいことをしたのだった。

「す、すまん。つい頭に血が登って…。」

―― しかし、鬼の仕業(しわざ)じゃなくてよかった。

安堵が広がり、そうか、私がつけた跡だったか、と少し嬉しくもなった。

―― (みやこ)を焼き尽くすのは一旦やめよう。

落ち着きを取り戻して、改めて那美(なみ)どのを見ると、今朝私が送った桔梗(ききょう)の髪飾りしている。

―― やはり、似合っている。

しかし、寝間着(ねまき)姿で今にも寝るという段になって、なぜそれを挿しているのか、ふと疑問になり、そっと髪飾りを触ってみた。

「それは...」

「これは…」

那美(なみ)どのはもう一度私の方に顔を近づけて耳元で(ささや)く。

伊月(いつき)さん何してるかなって、ずっと考えてたら寝られなくて…。お休みなさいも言えなかったから。だから、こうやって、もらった髪飾りを挿して、伊月(いつき)さんのこと思い出してたら寂しくなくなるかなって...」

「な…」

心臓を鷲掴みにされた気がした。
何なんだ、それは。
阿呆だろう。なぜそんなことを夜中にしている。
可愛いすぎるだろう。

「髪飾り、ありがとうございました。すごく、嬉しいです。」

抱きしめて口づけたい衝動にかられるが、御簾(みす)越しには護衛隊がいる。
私はギュッと両方の拳を握りしめて、衝動を抑える。

「あの…?」

「に、似合っている…」

そう言いながら、眉根を寄せて、にやけてしまいそうな顔を引き締める。

「あ、それに、これがなかったら、カムナリキが使えなくて、(さわ)われていたかもしれません。」

「な、何?」

「寝ようと思ってたので、あの、カムナの玉のついた数珠(じゅず)を手元に持ってなかったんです。でも、この髪飾りのお(かげ)でカムナリキが使えました。」

やはり、那美(なみ)どのが、どれだけ強いカムナリキを持っているとはいえ、寝込みを襲われれば太刀打ちできない。

―― この人が鬼に(さら)われなくて、本当に良かった。
―― この人が鬼に傷つけられず、本当に良かった。

安堵と同時にまた衝動が湧き出る。
抱きしめたい。抱きしめたい。抱きしめたい…。
那美(なみ)どのに触れたい衝動を、どうにかこうにか押さえこんで、ふううううう、と息を吐いた。

「今宵は、もう心配ないので、ゆっくり休め!」

これ以上一緒にいては鬼よりもひどいことをしてしまいそうだ。
私は自分の中の衝動を制御して、御簾(みす)の外に出た。
そのまま廊下に腰を下ろして、今夜の護衛の位置に着く。
背後で御簾(みす)の中の那美(なみ)どのが、布団に横たわった気配がした。

―― 怖がって寝られないかもしれぬ。

と、一瞬心配したが、かすかに寝息が聞こえて来て、拍子抜けする。

―― やはり、那美(なみ)どのは能天気だなぁ。

怖い目に合ったというのに、恐れもせずにあの酒呑童子(しゅてんどうじ)と対等に話していたのだ。
女官は泣きわめくばかりだったし、武官ですらもあの鬼を見て、ひるんでいたというのに。

―― 能天気というか、怖いもの知らずというか、やけに肝が据わっている。

そこも可愛い。

―― はぁ、私はどうかしていまっている。毎秒那美(なみ)どのが可愛くてどうしようもない。

私は清十郎(せいじゅうろう)に所用を言いつけて、この夜は朝日が出るまで寝ずの番をした。