伊月は都までの道のり、歩きながら、前日の宿での出来事を頭の中で反芻した。
―― 必要以上に狼狽えたな。
那美が湯治場で夫婦の真似事をし始めた時のことを思い出した。
一緒の部屋に泊まるのに、夫婦だというのが一番自然だし、那美が純粋に伊月の体を心配してやってくれたということも理解している。
―― なのに、あの時は邪な考えに支配された。
那美に「あなた」などと呼ばれ、腕を組まれ、仲居から「奥様」「旦那様」などと言われて、どうしようもなく浮かれて、舞い上がった。
もしかしたら那美が自分とそういうことをしてもいいと、言外に言っているのではないかという考えが一瞬頭をよぎった。
それで、期待を込めてそうなのかと問いただすと、那美は全然そういうつもりはなかったと言った。
しかも部屋の端っこに布団を離して寝ると言われて、結構、いや、かなり、傷ついた。
―― いや、わかっていたはずだ。那美どのがまだそういう準備ができてないことを。
自分が拒否されたような気持ちになって、ついむきになり、那美に説教じみた事を言ってしまった。
それでも、ただただ伊月のことを心配して、自分が廊下で寝るなどと言う那美をみて、伊月は自分のやましさが嫌になった。
―― 心頭を滅却すれば、なんとかなるはず…
そう、思い、一緒の部屋で寝ることを了承すると、那美は嬉しそうに笑っていた。
―― 何なんだ、この可愛さは。このような可愛い那美どのと一晩一緒に過ごして、何もするなというのか!? まこと、生殺しではないか。
あの時は、そう思って多少の苛立ちを覚えた。
「主、お顔の色が優れませんが、大丈夫ですか。」
横を歩いていた平八郎が心配そうに言う。
「大事ない。」
短く答えると、
「やはり主には個室に寝ていただいて、私どもが那美様の護衛をするべきでした。野宿の後に廊下で寝られたのは主だけです。他の皆は布団でぬくぬくと寝ましたのに。」
「そ、それはいい。」
平八郎は、伊月が廊下で護衛に徹していたので、疲れているのだと解釈したようだ。
昨晩、那美と一緒の部屋で布団でいちゃいちゃしながら眠りこんだなどとは口が裂けても言えない。
―― 今朝、那美どのの寝顔も見れたしな。
伊月は空を見上げて、那美の寝顔を思い出した。
何の不安もなさそうにスヤスヤ眠っている那美は小動物のようだ。
髪を撫でても、頬に口づけても、あんなことやこんなことをしても起きなかった。
―― あれは、癒されたな。
「あ、主?どうかされましたか?」
「ど、どうもしておらん。」
伊月は、きっと、ゆるみきっていただろう顔を慌てて引き締めた。
タヌキに化かされたときに女には気を付けるように皆に言ったのだ。
―― 自分がこうもたるんでいてはいかん!
―― 那美どのの可愛さにいつも翻弄されているなどとは口が裂けても言えない。
―― しかも湯殿であんなことをしたなどとは...
伊月は湯殿での出来事を頭の中で反芻した。
―― あれはやりすぎた。
仲居が伊月を湯殿に案内した時は驚いた。
家族湯などという贅沢な作りになっていて絹の湯帷子まであった。
―― 貴族はこのように遊興するのか
と思いながらも、仲居が去った後、脱衣所に取り残され、どうしようか悩む。
湯殿の中では那美が、「ここにある1パーセントの食料でもあの村に分けられたら…」とつぶやいてる。
―― ぱーせんと、とは何だろうか。
―― あの村の者のことを考えているのか。
那美が伊月の中に沸き上がる欲望に無頓着で、純粋に兵五郎たちの村人たちを思っている様は、愛おしい。
しかし、こんなにも欲望を募らせているのが自分だけだと思うと、苛立ちも募った。
そして、無邪気にふるまって伊月の欲望を煽る那美に、多少なりともいたずら心が沸いた。
那美を少しからかうつもりで、意を決して、何事もないように風呂に入って行く。
―― 何だ、どうせこんな暗い所では何も見えんではないか。
少し興醒めしながらも、伊月は体を洗いはじめた。
案の定、那美が伊月に気づき、騒ぎ始める。
―― いい反応だな。
狼狽える那美の声を聞いて、伊月のからかい心が少し満たされる。
「洗い終わった。そっちに行くぞ。」
「え、ちょ、ちょっと待って下さい。じゃあ、私、出ますから...」
「駄目だ。」
慌てて湯船から出ようとする那美の手首を掴まえて、湯船に引き戻した。
那美を横に座らさせて緊張で震える那美の肩を抱いた。
そのまま頭を撫でたりして、焦る那美の反応を楽しみ、その辺で解放する予定だった。
―― しかし、あの瞬間、我を失ってしまった。
水にぬれた白い絹の着物が、那美の体に張り付いて、体の線がくっきり見えた。
絹の張り付いた那美の体の曲線は、官能的すぎて、その瞬間、自分の中の野獣が大きく育ち、那美を手放せなくなった。
さらに那美がたたみかけるように「い、伊月さんが...い、色っぽすぎます。」と、苦しそうに言った。
―― なんなんだ、それは・・・
もしかして、那美も自分のことを、欲しているのかもしれないと淡い期待が胸をよぎって、性急に口づけた。
なのに那美は身をよじって、伊月の口づけから逃れようとする。
―― やはり嫌なのか・・・
何とか暴走する自分を止めて、那美の体を抱いたが、でもそれも間違いだった。
那美の体が密着すると、また我を失いそうになる。
翻弄され続けて苛立ちはピークに達した。
「那美どのは分かっていない。」
「な、何がですか…」
「そなたのすること、言うことが、いつも私を煽っているということを。」
「そ、それは…」
「そなたと二人きりになる度、私がどれだけ我慢を強いられてるか。那美どのは全然分かっていないのだ。私がそなたにどんな事をしたいのかを。」
恨み事を言って、那美の警戒心を煽ろうとした。
そのまま自分の手から逃げてくれれば、ひどいことをせずに済みそうだと思った。
それなのに、逃げ出すどころか、那美は伊月にギュッと抱きついた。
「伊月さん、好きです。」
「く…そ...」
そして、もう自制が効かなくなった。
全ての理性が飛んだ。
那美の口内を蹂躙して、耳を食んで、舐めて、那美の荒い息づかいと乱れた声を楽しんだ。
体を撫で上げて、那美が肌を震えわせる様子を楽しんだ。
那美の華奢な首筋に舌を這わせると、自分の頭を那美が抱きしめ、甘美な吐息をもらした。
那美が悦び、自分を受け入れてくれているかもしれないという感じがあった。
そして、薄絹の着物に手をかけ、その体を暴こうとした瞬間、那美の体から全ての力が抜けた。
「な、那美どの?」
完全にのぼせているみたいだった。
「大丈夫か? おい、しっかりしろ。」
そこでやっと我に返り、慌てて那美を湯から出した。
脱衣所でぐったりする那美を横たえ、水を飲ませ、体を冷やした。
冷静になると、自分のしたことの恐ろしさが後悔となって襲ってくる。
よく考えれば、那美が悦んでいたんじゃなくて、ただ具合が悪くて抵抗できなかっただけだとしたら。
―― 私は那美どのを無理矢理抱いてしまうところだったぞ!
―― しかも、こんな初心な人を、こんな湯殿で抱くなんて!
伊月は自分で自分の両頬をバシバシ叩いた。
伊月は深く、深く、ふかーく、反省した。
―― もう、淡い期待を持つのは辞めた方がいい。
伊月は自分を戒めた。
―― 那美どのは自分を受け入れる準備はまだできていない。それで決まりだ。
那美を介抱しながら、那美を抱くのはちゃんとした夫婦になってからだと誓った。
一旦そう決めてしまえば、すっと心が落ち着いた。
―― あとは、那美どのの言動に必要以上に心を動かされぬことだ。
どんなに可愛い事を言われても、されても、「那美どのは自分を受け入れる準備はまだできていない」を合言葉に乗り切ろうと心に誓った。
お詫びのしるしに、今朝、宿場町の店で買った髪飾りを贈ったが、あんなもので償えるだろうか。
「それにしても、那美様と清十郎様や他の隊員たちと、随分と打ち解けられていらっしゃるみたいですね。」
平八郎の言葉に、現実に引き戻される。
「ん?」
籠の方に目をやると、確かに清十郎や他の者が籠のまわりで那美と楽しそうに話している。
「那美様は隊の皆に別け隔てなくよくしてくださいます。素晴らしいお方ですね。」
「あぁ。」
「ずっと籠の中においでになって退屈されているかもしれませんね。」
「そうだな。先を急ぐぞ。」
「は。」
伊月は都への道を急いだ。
旅が始まって四日目の夜、私達の一行は都に入った。
結構遅い時間だったけれど、市中の家には、まばらに灯りがともっている。
なんとか、まだ市中の人々が起きている時間帯には迎賓宮に入ることができた。
―― 都はすごく蒸し暑いな。
到着するとすぐに迎賓宮の女官たちが私を部屋に案内し、武官たちが伊月さんたち一隊を別の建物に案内しようとした。
これには伊月さんが抗議した。
「護衛隊を那美どのから引き離す理由は何か?」と、説明を求めた。
「宮廷のしきたりに則り、全ての宮は女用の建物と男用の建物に分かれております。女用の建物には警護の武官以外の男は入れないことになっています。どうぞご理解を。」
納得のいかなさそうな顔をしながらも、宮廷の決まりごとです、と念を押され、伊月さんたち護衛隊は別の建物に案内されて行った。
この何日か、ずっと伊月さんの近くにいたからか、お休みなさいも言えないまま伊月さんの姿が見えなくなって寂しくなる。
部屋に通されると、女官たちが荷ほどきから、食事から、湯あみまで手際よく手伝ってくれた。
ふかふかの布団も用意されてた。
「明日は東三条様が皆様をご案内されるそうです。明後日には帝への拝謁がかないます。」
「そうなんですね。明日は東三条さんがいらっしゃるのは何時ごろになりそうですか?」
「昼過ぎにとおっしゃっておいででした。」
女官が教えてくれる。
―― 昼すぎならまだ少し時間に余裕があるな。
私は少し夜更かしして、文を書くことにした。
荷物の中から筆記具を出して、オババ様、夕凪ちゃん、お仙さんに文を書き始める。
―― タカオ山を出発してまだ四日しか経ってないけど、もう、皆に会いたいな。
向日葵畑の化けダヌキのこと、ミノワ稲荷のお祭りのこと、山賊のこと、温泉に入ったこと、隊のみんなの様子なんかを書いて封にしまった。
―― よし、明日、女官たちにお願いして、文を出そう。
私は布団にもぐりこんだ。
でも、眠気はやってこない。
―― 伊月さん、どうしてるかな? 皆、ご飯食べたかな?
今まで皆でワイワイ食事して、寝るときも誰かが側にいて、一緒に行動していたのに、急に一人になって、周りに人はいるけどお世話されるばかりで、話し相手がいなくなって、寂しくなった。
これが三日間続くのかな、と思うと少し気が落ち込む。
私は布団から出て、自分の荷物の中から、今朝、仲居さんから受け取った贈り物の髪飾りを取り出した。
―― かわいい。
私は鏡の前に行って、雪洞の灯りの下で、そっとその髪飾りをさしてみた。
朝早くから宿を出て、これを用意してくれてたなんて、嬉しい。
伊月さんには色々ともらってばかりだ。
何かお返ししたいけど、伊月さんのシンプルな部屋を思い出す。
伊月さんはいらない物を持つのを嫌うタイプな気がする。
―― 伊月さん、もう寝たかな。
私はいよいよ伊月さんのことが恋しくなって、もう一度文机に行き、文を書き始めた。
伊月さんへ、と筆を走らせた瞬間、私の後ろに誰かの気配がした。
「恋文でも書いているのか?」
重低音の男の人の声がして、慌てて振り向く。
薄暗くてよく見えないけど、部屋の柱に寄りかかっている背が高くて、がたいがいい人がいる。
「だ、誰?」
その人はどすん、どすん、と足音を立てて私に近づいてくる。
男の目が暗がりの中でも金色に光っているのが分かった。
「こ、来ないで! それ以上近づくと、痛い目に合わせますよ!」
私はとっさにカムナリキを放とうと、懐の数珠に手を伸ばした。
―― あ!
数珠が手元にないことに気づいた。
もう寝る準備をしていたので、数珠は枕元に置いていた。
―― どうしよう。ここからじゃ、届かない!
私の抗議を無視して、男はドカンと私の横に腰を下した。
私はその人を見て驚いた。
「お、鬼?」
私の隣に陣取った鬼はニヤリと笑って私の顔を覗き込んだ。
「ああ、鬼だ。私が恐ろしいか?」
確かに怖い。
今まで色んなあやかしを見てきたけど、見た目がダントツで怖い。
額の両側から突き出た二つの曲がった角、赤くて硬そうな皮膚に、大きな体、口の中に収まらない犬歯。
長く伸びた鉤爪に、伸びきった髪、そして、大きな金棒まで担いでいる。
―― 怖いけど、危害を加える気がないのなら、怖がらなくてもいい。
前にオババ様が私に教えたことを反芻した。
どんなあやかしを見ても見た目で判断しないこと。
「正直、見た目はその、怖いですけど、こんな夜中に、用事はなんですか?」
私の反応を見て、鬼がビックリしたような顔をした。
「泣き叫ばぬのか?」
―― 見た目が怖いからって泣き叫ばれたら傷つくよね...
源次郎さんが言ってたけど、以前、伊月さんが、ころんだ子供を抱き起したことがあって、その子を助けたにも関わらず、泣き叫ばれて逃げられたことがあるらしい。
うん、見た目で判断、だめ。
―― それに、今気づいたけど、私ってば、雷石、持ってるじゃない!
伊月さんがくれた髪飾りに雷石がはまっていることを思い出した。
「私に危害を加えるのなら、あなたを泣き叫ばせますよ。」
私は丹田に自分のカムナリキを溜め、自分の周りに雷の気をまとわせた。
「なっ、この俺を脅すのか?」
「夜中に女性の寝室に無断でずかずか入り込んで、ただで済むと思ってるんですか?」
鬼は私の顔をまじまじと見つめた。
殺したりするつもりなら、もうとっくにそうしているはず。
「俺の名は酒呑童子だ。お前の名は?」
「え?あなたが酒呑童子?鬼の頭領の?」
ラノベやマンガやゲームでは妖艶な美男子に描かれる酒呑童子が、典型的な赤鬼の姿でビックリした。
「私は那美です。それで、用事は何ですか。」
「酒を飲まぬか?」
「へ?」
「酒の相手が欲しい。」
「私、明日、大切な用があるから、お酒は遠慮します。」
「頼む、一杯だけ、付き合え。」
「どうして私なの?」
「俺は酒と女が好きだ。」
「いや、そんなドヤ顔で言われても… ここはスナックじゃないんだから!」
「すなっく?? とにかく、ここから、いかにも美味そうな女の匂いがしてな。」
「その美味そうな匂いって何ですか?八咫烏さんからも同じことを言われました。」
「や、八咫烏を知っておるのか? もしや、お前、あいつの女か?」
なぜか酒呑童子が一瞬ひるんだ。
「八咫烏さんの女なんかじゃありません。」
酒呑童子はそれを聞いてどこかホッとした顔をした。
―― 八咫烏さんと何かあるのかな?
「とにかく、一杯付き合え。俺はお前のような女が好みだ。」
そういって、酒呑童子は私の肩をすっと抱いた。
「ちょ、触らないで下さい!」
パチンッ、と酒呑童子の手を払う。
そこに、外から女官の声がした。
「那美様、どうかなされましたか? 入りますよ。」
そして、部屋に入った瞬間、酒呑童子を見て、女官は悲鳴を上げた。
女官は転がるように部屋から逃げていき、部屋の周りが騒然となった。
まさに泣き叫んでいる。
そんな女官を見る酒呑童子の横顔が少しだけ悲しそうだった。
私の部屋の外では、女官たちの足音と、悲鳴と、話し声がどんどん大きくなっていく。
「そろそろ逃げた方がいいんじゃないですか?」
「俺と一緒に来ないか? 俺の屋敷で酒の相手をしろよ。」
そして、また酒呑童子は私の肩を抱いた。
―― この、エロおやじ!
「那美どの!」
その時、部屋の扉を勢いよく開け放って伊月さんが飛び込んできた。
ちょうど私が、カムナリキを放出して、バチン!と、雷の気で酒呑童子の手を払った。時だった
「いってー! 何したんだ?」
酒呑童子が私から離した手をフリフリしている。
伊月さんは刀を抜いたまま走りこんで来て、私を自分の背中に隠した。
そのまま酒呑童子に対峙した。
「伊月さん、大丈夫です。危ない鬼じゃないです。」
「しかし、こんな夜更けに、そなたの部屋に入り込んでいる。」
伊月さんはそのまま酒呑童子を睨み据えている。
「ちっ。無理矢理でも攫って行こうと思ったが、お前は女のくせに強いなぁ。」
酒呑童子がそう言った瞬間、伊月さんが刀を振り上げた。
「だ、大丈夫です。お願いします。斬らないで下さい。」
私は思わず伊月さんの着物の袖を引っ張った。
「…。」
伊月さんは無言で刀を止める。
すると、バタバタと足音が聞こえて他の護衛隊の人たちも部屋に入って酒呑童子を取り囲んだ。
「けっ、面倒になったな。」
そして遅れて宮廷の武官も私の部屋を包囲する。
酒呑童子はゴンッと、持っていた金棒を床に叩きつけた。
「また会いに来る、那美。」
その瞬間、その体の周りに煙が出ると同時に、酒呑童子の姿が消えた。
「那美どの、怪我は?」
伊月さんはさっと刀を鞘に戻し、私の方を振り向いた。
「怪我はないです。大丈夫です。」
伊月さんは私の姿を見て、一瞬目を見開いた。
―― え?
そしてすぐに周りを見回し、布団を引っ張って来て、私を布団でぐるぐる巻きにした。
―― な、なに? どうして?
私が事情を聞く前に、伊月さんは声を大きくした。
「一体ここの警備はどうなっている!」
伊月さんが宮廷の武官達に怒号を浴びせるも、官人たちは、ただ、あたふたとしている。
「我ら一隊が交代で見張りをする!我らの寝所をこちらの宮に移してもらう!」
宮廷のしきたりも無視して、伊月さんが言うと、女官も武官もそれに従い、護衛隊のための寝所を私の部屋の近くに用意し始めた。
伊月さんは自分の家臣たちに部屋の周りで待機するように命じた。
「清十郎! 那美どののお側にいろ!」
「は。」
そういうと、伊月さんは建物を歩き回り、武官長に警護の甘いところを指摘して回った。
建物の全体を見て、見張りの武官たちの配置を変えさせた。
そして見回りのスケジュールを確認して、もっと見回る時間の間隔をランダムにすることなどを言いつけている。
あやかしを避けるための結界が弱いところも見つけ出し、対策を講じた。
「いいか、ネズミ一匹寄せ付けるな!」
「は!」
いつの間にか宮廷の武官たちまでもが伊月さんに従っている。
―― すごい。どこに行ってもリーダーシップを発揮してるな。
感心して見守っていたのだけど、あまりに不思議なことがあって、清十郎さんに聞いてみる。
「あの、清十郎さん、私、なんで簀巻き状態になってるんでしょうか?」
「那美様の寝間着姿を他の者の目から隠すため、主のご配慮でしょう。」
「あのう、すごく蒸し暑いんですが...」
「すみません、もう少しご辛抱下さい。」
建物の点検を終えて、伊月さんが私の所に戻って来てくれた。
そして、私の目の前に座り、そのまま、がばっと頭を下げた。
「私がついていながら、この失態だ。誠にすまない。許せ。この通りだ。」
「や、止めて下さい! 謝らないで下さい。」
私は伊月さんの手を握りたかったけど簀巻き状態になっているので文字通り、手も足も出ない。
「あの、この布団、取ってもらえませんか? すごく暑くて…」
伊月さんが清十郎さんに目配せすると、清十郎さんはさっと部屋から出て欄間にかかっていた御簾を下ろした。
「誠にすまんが、今夜はこの部屋のふすまも、扉も、障子も開け放ったままにさせてほしい。御簾を下しておくだけだ。いいか?」
「はい。大丈夫です。私もその方が安心です。」
全ての御簾が下ろされて、周りから視界が遮られたのを確認し、部屋の中に二人きりになったのを確認すると、伊月さんが、私をぐるぐる巻きにしていた布団を取ってくれた。
「ふわー、あ、暑かったぁ。」
私は思わず襟元を少し開けて、ひらひらと手で風を送った。
伊月さんはその様子を見て、青ざめたような顔で固まっている。
―― あ、はしたなかったかな。
私は慌てて居住まいをただした。
「あの、一番に駆けつけてくれてありがとうございます。」
伊月さんは、ハッとしたように私と目を合わせて、すぐに目をそらした。
―― な、何?
「肝を冷やした。まさか宮廷の警備がこんなに甘いとは…。」
そのまま私と目を合わせない伊月さんを訝しく思った。
「那美どの、何があったか、全て話してくれぬか?」
「えっと、あの鬼、ただの酔っ払いエロおやじでした。」
「えろ、とは何だ?」
「えっと、ちょっと、やらしいっていうか、すけべっていうか…」
「や、やはり何かされたのか?」
その時、やっと伊月さんが私の目を見てバッと両肩を掴んだ。
「何もされてないですけど…」
「こ、ここに触れていたのを見た!あの悪鬼めが那美どのの肩を!」
伊月さんは私の肩を何度もさすった。
「落ち着いて下さい。それ以外は特に何も…」
私は酒呑童子とのやり取りを全て話した。
「あの、エロ酒呑童子め!那美どのに酒の相手をさせようなどと、遊び女のように扱いおって!許さん!」
「お、落ち着いて下さい。でも言葉の使い方は合ってます。」
「もしかして、こ、こ、これもそうなのか?」
伊月さんはツッと私の鎖骨を触った。
「へ?」
伊月さんは怒りに震え、酒呑童子もびっくりの鬼の形相で、声を絞り出すように言う。
「この跡も…」
―― あっ
私は、着物の襟元をきゅっと閉めた。
それはキスマークだった。
さっき暑くて襟を緩めちゃって見えたんだ。
「違います! これは…」
私は、御簾の向こう側にまだ人がいるのを考慮して、伊月さんの耳元で囁いた。
「これは昨日、宇の湯殿で伊月さんがつけたんじゃないですか!」
「あ…」
伊月さんは、しまったというような顔をして、シュンとした。
「忘れるなんて、酷いです。」
私が伊月さんをにらみつけると、伊月さんの顔がどんどん赤くなった。
「す、すまん。つい頭に血が登って…。」
伊月さんは小声で言うと、私の髪に挿した桔梗の髪飾りをそっと触った。
「それは...」
「これは…」
私は、もう一度、伊月さんの耳元で囁いた。
「伊月さん何してるかなって、ずっとずっと考えてたら寝られなくて…。お休みなさいも言えなかったから。だから、こうやって、もらった髪飾りを挿して、伊月さんのこと思い出してたら寂しくなくなるかなって...」
「な…」
「そんなことしてたら鬼が来たんです。」
恥ずかしいけれど、本当の事を言った。
「髪飾り、ありがとうございました。すごく、嬉しいです。」
馬鹿なことをしてって笑ってくれるかと思ったんだけど、伊月さんはギュッと両方の拳を握りしめて、小刻みに肩を震わせている。
「あの…?」
「に、似合っている…」
伊月小刻みに肩を震わせながら、小声でささやいた。
―― この反応は何なの?
「あ、それに、これがなかったら、カムナリキが使えなくて、攫われていたかもしれません。」
「な、何?」
「寝ようと思ってたので、あの、カムナの玉のついた数珠を手元に持ってなかったんです。でも、この髪飾りのお陰でカムナリキが使えました。」
伊月さんはまだギュッと両方の拳を握りしめて、小刻みに肩を震わせている。
そのまま、ふうううううと長い息を吐いた。
「今宵は、もう心配ないので、ゆっくり休め!」
伊月さんは急に大きい声を出して、スクっと立ち上がり、私に背中を見せて歩き出した。
一瞬だけ御簾をガバっと開けて外に出て、またガバっと御簾を下ろした。
そのまま皆と一緒に見張りをするつもりらしく、廊下に座り込んだみたいだった。
私は、伊月さんの反応を訝しがりながらも、布団に横になった。
―― 寝られるかな?
と思ったけど、伊月さんや皆が近くにいるからか、安心感があった。
―― 伊月さんにはちゃんとお布団で寝てほしいのにな。
そう思いながらも、すぐに眠りに落ちてしまった。
本当にかすかだったが、隣の宮から、女官たちが騒ぐ声が聞こえ、私は慌てて女人専用の宮の方へ走った。
廊下で腰を抜かしている女官が「お、お、お、鬼です」と震える声で言った。
「那美どのの部屋はどこだ?」
プルプルと震えながら、女官の指さす部屋の扉を遠慮なく開け放つ。
「那美どの!」
部屋の中は暗くてよく見えなかったが、はっきりと見えたのは角の生えた大男が那美どのの肩を抱いていた所だった。
―― 絶対に許さん!
斬りかかろうとしたところで、黄色い閃光が走り、バチン!と音がした。
すぐに那美どのがカムナリキで抗戦したのだとわかる。
そのまま走りこんで来て、二人の間に入り、鬼に対峙した。
「伊月さん、大丈夫です。危ない鬼じゃないです。」
「しかし、こんな夜更けに、そなたの部屋に入り込んでいる。」
夜中に女人の部屋に忍び込む理由など、たくさんはない。
那美どのが止めなければ、すぐにでも殺していたところだ。
「ちっ。無理矢理でも攫って行こうと思ったが、お前は女のくせに強いなぁ。」
―― やはり、この野郎、殺す!
刀を振り上げると、後ろから、那美どのが私の袖を引っ張った。
「だ、大丈夫です。お願いします。斬らないで下さい。」
「…。」
ここで殺しては、那美どのが怖がるかもしれぬ。
そう思って耐える。
他の護衛隊の者たちが那美どのの部屋を包囲すると、鬼は「また会いに来る、那美。」と言って、煙を巻いて消えた。
―― 名前で呼んだ、だと!? また、来るだと!?
どうにか怒りを抑えながら、刀を鞘に納め、那美どのの方へ振り返る。
「那美どの、怪我は?」
―― な!
那美どのは、夏用の薄い、今にも透けて見えそうな湯帷子一枚を細い伊達絞めで絞めているだけの、あまりにも無防備な姿だ。
私は、すぐに布団を引っ張って来て、那美どのを布団でぐるぐる巻きにした。
―― 鬼にも護衛隊にも誰にも見せてはいかぬ姿だ!だが、見られた!
私の中に怒りが浸透した。
「一体ここの警備はどうなっている!」
怒りをぶつけるように言うも、官人たちは、ただ、あたふたとしている。
―― これだから、実際に戦に行かぬ武官など役に立たぬ!
「我ら一隊が交代で見張りをする!我らの寝所をこちらの宮に移してもらう!」
―― だが一番の役立たずは、私だ。
「清十郎! 那美どののお側にいろ!」
「は。」
私は着いてすぐにしておくべきだったことを始める。
これまで泊まった宿や村では毎回やってきたことだが、今回これを怠ってしまったのは完全に私の失態だ。
建物を歩き回り、建物の全体を見て、警備の行き届いていない所を確認した。
そして武官たちに効果的な見回りの方法を指示した。
あやかし避けの結界が弱いところも見つけ出し、対策を講じた。
「いいか、ネズミ一匹寄せ付けるな!」
「は!」
―― 私が、悪い。あの時に安易に官人たちの言葉を受け入れ、那美どのを一人にしてしまった。
一通り、できるだけの対策を講じ、那美どのの部屋に戻る。
布団にくるまって大人しくしている那美どのの前に座り、頭を下げた。
「私がついていながら、この失態だ。誠にすまない。許せ。この通りだ。」
「や、止めて下さい! 謝らないで下さい。」
那美どのは簀巻き状態になっている布団の中で手足を動かしているのだろう、もぞもぞしている。
そんな姿まで可愛い。
―― こんな時にまで、私はこの人に惹かれてしまうのか…
自分自身に呆れかえっていると、那美が困ったように訴える。
「あの、この布団、取ってもらえませんか? すごく暑くて…」
清十郎に目配せすると、清十郎は欄間にかかっていた御簾を下ろしはじめた。
「誠にすまんが、今夜はこの部屋の襖も、扉も、障子も、窓も、開け放ったままにさせてほしい。御簾を下しておくだけだ。いいか?」
「はい。大丈夫です。私もその方が安心です。」
全ての御簾が下ろされて、周りから視界が遮られたのを確認して、那美どのを布団から解放する。
「ふわー、あ、暑かったぁ。」
那美どのは襟元を少し開けて、ひらひらと手で風を送った。
扉が開け放たれて、月明りで明るくなった部屋の中で、私はその様子を見て、驚いた。
那美どのの、鎖骨の少し下あたりに、赤い跡がある。
―― もしかして、あの鬼が…?
嫌な予感がして、冷や汗が出た。
「あの、一番に駆けつけてくれてありがとうございます。」
那美どのの言葉にハッとするが、直視できずに目をそらした。
もし、あの鬼が、那美どのに、ひどいことをしていたのなら…
―― 私はあの鬼を殺すだけで、怒りをおさえられるだろうか。
「肝を冷やした。まさか宮廷の警備がこんなに甘いとは…。」
もし、そのせいで、あの鬼が、那美どのに、ひどいことをしていたのなら…
―― 宮廷を焼き尽くしても、私は自分の怒りをおさえられるのだろうか。
「那美どの、何があったか、全て話してくれぬか?」
「えっと、あの鬼、ただの酔っ払いエロおやじでした。」
私は深刻に聞いているのに、那美どのは、どこかあっけらかんとしている。
「えろ、とは何だ?」
「えっと、ちょっと、やらしいっていうか、すけべっていうか…」
「や、やはり何かされたのか?」
嫌な予感が的中してほしくない、しかし、もしそうなら…
私は那美どのの両肩を掴んで目をのぞきこむ。
「こ、ここに触れていたのを見た!あの悪鬼めが那美どのの肩を!」
私は那美どのの肩を何度もさすった。
それ以上にひどいことをされたのなら、もしそうなら…
―― 私は自分を一生許せぬ!
「落ち着いて下さい。それ以外は特に何も…」
那美どのは、思いつめる私とは対照的に、どこか、のほほんとしている。
本当にひどい目にあったという感じではない。
那美どのの声音を聞いて少し安堵するも、実際に何があったのかはわからない。
やがて、那美どのが、何があったか、少しずつだが、話してくれる。
まず、さっきの鬼が酒呑童子だったということに驚いた。
なるほど、あの結界をやすやすと敗れるだけの力があるわけだ。
よく聞けば、那美どのを酒の相手にしようとしたらしい。
「あの、エロ酒呑童子め!那美どのに酒の相手をさせようなどと、遊び女のように扱いおって!許さん!」
「お、落ち着いて下さい。でも、エロっていう言葉の使い方は合ってます。」
―― どうやら、ひどいことはされていないようだけど、
―― では、あの赤い跡は何だ? 虫刺されか?
那美どのが隠し事をしているようにも見えない。
疑問はぬぐえないので、意を決して聞いてみる。
「もしかして、こ、こ、これもそうなのか?」
私は那美どのの着物の襟もとを少し下げて、鎖骨を触った。
どう見ても虫刺されには見えぬ。
―― もし鬼の仕業なら、もしそうなら、もしそうなら…
私の手が怒りに震える。
「あっ。」
那美どのは、着物の襟元をきゅっと閉めた。
「違います! これは…」
那美どのは、きょろきょろと周りを見渡し、御簾の向こう側にまだ人がいるのを確認した。
―― やはり、人前では言うのが、はばかられたのか。
―― もしこれが、まこと、鬼の仕業なら、鬼も、武官たちも、都ごと焼き尽くしてやる!
那美どのは、そっと私の耳元で囁いた。
「これは昨日、宇の湯殿で伊月さんがつけたんじゃないですか!」
「あ…」
私の中で膨らんでいた怒りの湯気が、一気にプシューと音を立てて頭から出て行った気がした。
「忘れるなんて、酷いです。」
那美どのが恨めし気に、私をにらみつける。それも可愛い。
―― そうか、鬼より私の方が那美どのにひどいことをしたのだった。
「す、すまん。つい頭に血が登って…。」
―― しかし、鬼の仕業じゃなくてよかった。
安堵が広がり、そうか、私がつけた跡だったか、と少し嬉しくもなった。
―― 都を焼き尽くすのは一旦やめよう。
落ち着きを取り戻して、改めて那美どのを見ると、今朝私が送った桔梗の髪飾りしている。
―― やはり、似合っている。
しかし、寝間着姿で今にも寝るという段になって、なぜそれを挿しているのか、ふと疑問になり、そっと髪飾りを触ってみた。
「それは...」
「これは…」
那美どのはもう一度私の方に顔を近づけて耳元で囁く。
「伊月さん何してるかなって、ずっと考えてたら寝られなくて…。お休みなさいも言えなかったから。だから、こうやって、もらった髪飾りを挿して、伊月さんのこと思い出してたら寂しくなくなるかなって...」
「な…」
心臓を鷲掴みにされた気がした。
何なんだ、それは。
阿呆だろう。なぜそんなことを夜中にしている。
可愛いすぎるだろう。
「髪飾り、ありがとうございました。すごく、嬉しいです。」
抱きしめて口づけたい衝動にかられるが、御簾越しには護衛隊がいる。
私はギュッと両方の拳を握りしめて、衝動を抑える。
「あの…?」
「に、似合っている…」
そう言いながら、眉根を寄せて、にやけてしまいそうな顔を引き締める。
「あ、それに、これがなかったら、カムナリキが使えなくて、攫われていたかもしれません。」
「な、何?」
「寝ようと思ってたので、あの、カムナの玉のついた数珠を手元に持ってなかったんです。でも、この髪飾りのお陰でカムナリキが使えました。」
やはり、那美どのが、どれだけ強いカムナリキを持っているとはいえ、寝込みを襲われれば太刀打ちできない。
―― この人が鬼に攫われなくて、本当に良かった。
―― この人が鬼に傷つけられず、本当に良かった。
安堵と同時にまた衝動が湧き出る。
抱きしめたい。抱きしめたい。抱きしめたい…。
那美どのに触れたい衝動を、どうにかこうにか押さえこんで、ふううううう、と息を吐いた。
「今宵は、もう心配ないので、ゆっくり休め!」
これ以上一緒にいては鬼よりもひどいことをしてしまいそうだ。
私は自分の中の衝動を制御して、御簾の外に出た。
そのまま廊下に腰を下ろして、今夜の護衛の位置に着く。
背後で御簾の中の那美どのが、布団に横たわった気配がした。
―― 怖がって寝られないかもしれぬ。
と、一瞬心配したが、かすかに寝息が聞こえて来て、拍子抜けする。
―― やはり、那美どのは能天気だなぁ。
怖い目に合ったというのに、恐れもせずにあの酒呑童子と対等に話していたのだ。
女官は泣きわめくばかりだったし、武官ですらもあの鬼を見て、ひるんでいたというのに。
―― 能天気というか、怖いもの知らずというか、やけに肝が据わっている。
そこも可愛い。
―― はぁ、私はどうかしていまっている。毎秒那美どのが可愛くてどうしようもない。
私は清十郎に所用を言いつけて、この夜は朝日が出るまで寝ずの番をした。
酒呑童子の侵入事件のお陰?で、伊月さんたちの寝所が、同じ建物内に移された。
護衛隊の皆とも一緒に食事したりできるようになったのだけど、この朝餉の場に伊月さんはいなかった。
清十郎さんいわく、一晩中寝ずの番をしてくれていたらしい伊月さんは、明け方から仮眠を取っているそうだ。
―― 伊月さんにはいつも守られているな。少しでも休んでほしいのにな。
「心配はご無用ですよ。昼近くまで寝れば睡眠は十分に取り戻せます。」
清十郎さんが言ってくれる。
「那美様がご無事で本当に良かったです。一時はどうなることかと…。」
平八郎さんが青ざめた顔で言った。
「よう! 俺にも飯をくれ。」
そこに、珍しい人がズカズカと入って来た。
「あ、八咫烏さん、お久しぶりです。於の国で見た以来ですね。」
迎賓宮の女官たちは色めき立って、いそいそと八咫烏さんに膳の用意を始める。
「俺がいなくて寂しかったか?」
私と清十郎さんの間にドカッと座って、八咫烏さんが私の顔をのぞきこんだ。
「あ、大丈夫です。寂しいとかではなかったです。」
「失礼なことを即答するな。」
八咫烏さんは何事もなかったかのようにそのまま朝餉を食べ始めた。
「お前、酒呑童子にさらわれようとしたんだってな。」
「本当にさらうつもりだったかは謎ですが、昨日、寝所に入られました。八咫烏さんのこと、知っているような感じだったんですが、お知合いですか?」
「知り合いというか、俺は一応、神使だからな。あやかし全般には知られているし、恐れられている。」
「はぁ、何か、意外です。」
「何故だ。俺はこう見えて、霊験あらたかな神の使いだぞ。見目麗しいだけでなく…」
「あの、八咫烏様…」
力説している八咫烏さんの周りに女官が集まって来た。
今日の予定は決まっているのかとか、歌を詠むのが好きかとか、色々と質問攻めに合っている。
―― ふふふ。いつもの光景だな。
私はさっさと朝餉を終えて、昨日書いた文を女官の一人に出してもらうようにお願いした。
それから、もう一つ女官にお願いをした。
―――
予定通り、東三条さんがトヨさんを引き連れて、昼ごろに現れた。
「東三条さん、トヨさん、お久しぶりです!」
「那美様、お久しぶりです。都までお越しいただき、ありがとうございます。あ、これは、共舘様。」
そこに、仮眠から起きて準備を整えた伊月さんがやって来た。
昨日の夜、私の部屋に駆けつけてきてくれた時は、ラフな着流し姿だったのだけど、今日はしっかり袴をはいて、キッチリした格好をしている。
―― はぁ。今日もかっこいい。
東三条さんは私達を見るなり、昨日の酒呑童子のことを詫びた。
「お恥ずかしながら、都では武官が不足しています。」
「そうなんですか?」
「はい。帝をお守りするだけで精一杯の武官しかおりません。面目次第もなく…」
「大丈夫ですよ。伊月さんたちが守ってくれていますから。伊月さんたち、すっごく強いんです。」
東三条さんは私の言葉にニッコリ微笑んだ。
「さて、今日は、都をご案内します。まずは風鈴寺にご案内します。」
「風鈴寺?」
「はい。女性に人気の観光地ですよ。」
「わぁ楽しみです!」
東三条さんの護衛隊も入れると相当な人数での移動になりそうなので、伊月さんは、清十郎さんと平八郎さん以外の隊員には自由行動を命じた。
隊員の皆さんも自由に都を見て回れることになり、嬉しそうだった。
家族にお土産を買いに行くと話していたり、有名な観光スポットに行く予定を立てている。
八咫烏さんは相変わらず女官に取り囲まれているので放っておくことにするらしい。
―― 皆も少しは楽しんでくれないと、ずっと護衛や戦いばかりじゃ疲れちゃうよね。
東三条さんは、牛車を二つ用意してくれていて、そのうちの一つを私達が使うように言って、自分とトヨさんはもう一つの牛車に乗り込んだ。
牛車の屋形は4人乗りだけど、平八郎さんと清十郎さんは歩くと言って聞かなくて、結局、車に乗ったのは私と伊月さんだけだった。
狭い屋形の中に伊月さんと二人きりになり、胸が高鳴り始める。
「伊月さん…。」「那美どの…。」
私達は二人同時に口を開いた。
「な、何ですか? 伊月さんから、言って下さい。」
「あ、いや、その着物を着てくれたのだなと思って。」
「あ、はい。」
私がまだ尽世に来てすぐのころに、伊月さんが生活に必要そうなものを大量にくれたのだけど、その中に入っていた、夏用の絽の着物を今日はじめておろした。
季節としてはもうずっと前におろしてもよかったのだけど、とても質の良い着物なので、日ごろ家事をしたり、手習い所でバタバタ働くのに、この着物を着るのは勿体ないな、と思っていた。
「伊月さんがくれた、この着物、今日みたいなお出かけの時に、ちょうどいいかなって思って。ありがとうございます。」
「あ、いや…。その、綺麗だ。」
「あ、ありがとうございます。」
お酒も飲んでないのに、今日は珍しくド直球でほめられて、思わず顔がゆるんだ。
「那美どのは何を言おうとしていた?」
「伊月さん、少しは休めたのかなって気になってて。」
「ああ。十分に寝た。」
伊月さんの顔色は良さそうだ。
「よかったです。それから、これ…」
私はさっき女官にお願いして用意したものを渡した。
「弁当?」
「はい。伊月さん、朝ごはん食べなかったから。」
亜や伊では皆、朝、昼、夜と三食ご飯を食べるのだけど、都では、基本、お昼ご飯を食べない風習だと聞いた。
今日は、東三条さんが都案内をしてくれるので、お昼ご飯を食べられない可能性が高い。
私や皆はしっかり朝ごはんを沢山食べたから、一食くらい抜いても平気だけど、伊月さんは朝ごはんも食べずに夜までは辛いよね。
「いや、結構、腹が減っていたので助かる!」
伊月さんは嬉しそうにそう言って、さっそくおにぎりを取り出し、ほおばり始めた。
「ん…うまいな。」
「ふふふ。よかったです。けっこう無理矢理台所を使わせてもらったので、女官たちがびっくりしていました。」
「那美どのが作ったのか?」
「はい。余っていた食材を使わせてもらったので、ありあわせですけど。」
伊月さんは、うまいうまいと言いながら、お弁当を食べている。
気に入ってくれたみたいで良かった。
「那美どのの作るものはいつも美味いな。」
「それは良かったです。」
―― きゃ!
その時、牛車がガタンと大きく揺れた。
車輪が石ころか何かを踏んだのだろう。
「あ、伊月さん、ほっぺにご飯ついちゃいましたよ。ふふ。」
「ここか?」
「いえいえ、そっちです。」
私は伊月さんの方に身を乗り出した。
「取ってあげます。」
そう言って、伊月さんの頬に手を伸ばして、ごはんを取った。
その瞬間、伊月さんが私の手を取って、そのままご飯粒を取った私の指をペロリと舐めた。
「な、何するんですか?」
「飯粒を食った。」
伊月さんはニヤっと笑った。
「もう…。」
お弁当を食べ終えて、不意に伊月さんが私の手を取った。
「誠に美味しかった。ありがとう。」
「完食してくれて嬉しいです。」
「いつかそなたには、きちんとした侍女をつけてやれるようにする。」
「へ?」
いきなり話題が飛んで私は目をぱちくりした。
「あの、迎賓宮の女官のような人たちですか?」
「いや。なよなよした都の女官のような者ではなく、いざとなったら戦えるような武家の出身の者がいいな。」
きっと伊月さんは夜の警備のことを考えているのだろう。
「とにかく、まずは一人から、となるが、女中もいれると、ゆくゆくは4,50人くらいだろうか...」
「そ、そんなに人、いるんですか? きゃ!」
ガタン、ガタンと牛車が揺れて、止まった。
目的地に着いたらしい。
伊月さんは私の手を握っていた手に力を込めた。
「とにかく、いつか、きちんとした侍女をつけてやれるように頑張る。それまで、辛抱してくれるか?」
「あ、は、はい? ありがとうございます?」
よく分からないけど、真剣な面持ちの伊月さんに返事をすると、嬉しそうに頬を緩ませていた。
「風鈴寺に着きましたよ。」
東三条さんの声がして、外に出ると、そこは立派なお寺の門の前だった。
門の中から、チリチリと涼やかな風鈴の音が聞こえてくる。
「わぁ!素敵!」
門をくぐると、境内に歩くまでの道に、アーチのように竹枠が組まれていて、その竹枠に所狭しと風鈴が飾られている。
一歩足を踏み入れると、風鈴を見上げながら歩く、まるで、風鈴のトンネルだ。
「皆、花風鈴小径と呼んでいます。」
東三条さんが説明してくれる。
透明のガラスの風鈴の中には花弁が詰め込んであって、花が水の玉の中に閉じ込められているようにも見える。
目で見ても涼やか、耳で聞いても涼やかだった。
「都の蒸し暑さが吹き飛ぶようですね。」
平八郎さんも目をキラキラと輝かせている。
風鈴を楽しみながら、境内までのんびり歩き、お参りを済ませると、住職が客殿に案内してくれた。
「きゃー! 何これ、可愛い!!!」
私は案内された客殿に入った瞬間、思わず、叫んだ。
床の間にある窓がハート型にくりぬかれていたのだ。
そこから日の光が入り、床にもハート型の陽だまりが出来ている。
「これは猪の目窓といいます。猪の目の模様を模した形ですので。」
住職が説明してくれた。
「猪の目は魔除けの文様なのですよ。」
「魔除け、なのですか。」
ハートの意味とは随分違うのにびっくりする。
住職に促され、部屋の中に座ると、天井に目が行った。
「わぁ、天井まで可愛い!」
客殿の天井には丸形の天井絵が所狭しと敷き詰められていて、それぞれの丸形に、花や風景や文様が描かれている。
可愛らしい色合いでまとめられた天井絵に思わずため息がもれる。
「なんて素敵なお部屋!」
「いかにも女の人が好みそうな可愛らしい意匠のお部屋ですね。」
平八郎さんもいつものエンジェルスマイルで言った。
「窓から見える庭の景色もいいですねー。」
平八郎さんもはしゃいでいるのがわかる。
そのうちに住職が抹茶とお茶菓子を持って来てくれて、私たちは一服しながら雑談を楽しんだ。
私は隣でお茶を飲む伊月さんにこそっと耳打ちした。
「私のいた世界では、あの形はハートって言って、心とか、愛とかを表す形なんです。」
「そうか。魔除けとは随分違う意味だな。」
「でしょう? だから、魔除けって、びっくりしました。」
そこにトヨさんがニコニコしながら聞いてきた。
「那美様は、あの天井絵の中で気になる文様がございますか?」
「そうですね、あの文様は何でしょう?」
私はふと気になったものを指す。
「あれは青海波といいまして、果てしなく続く海の波を模したものです。平穏な日常が海の波のように永久に続きますようにという願いが込められているのですよ。」
「まあ、素敵ですね! じゃあ、あれは?」
質問攻めにする私に東三条さんとトヨさんが色々と教えてくれた。
「それから、あれは、桔梗の花を模した文様です。那美様の髪飾りと一緒ですね。」
「あ、はい。桔梗、可愛いですよね。」
私は伊月さんにもらった髪飾りをそっと触った。
「桔梗の花言葉は永遠の愛です。二心なき、誠実な愛の印にございます。」
「え? そうなんですか?」
「ゴホッ、ゴホッゴホゴホ。」
伊月さんがお茶を飲みながらむせ始めた。
「だ、大丈夫ですか?」
私は思わず、伊月さんの背中をさすった。
「だ、大丈夫だ。すまん。」
東三条さんがニコニコとしながら続ける。
「その髪飾りを那美様に贈られた方は本当に那美様を想っておいでなのですね。」
「え…。」
私は恥ずかしくなってうつむいた。
耳が熱く感じたから、きっと赤くなっていたのだろう。
―――
風鈴寺の次に、東三条さんとトヨさんは、私たちを商店街に連れて行ってくれた。
所狭しと土産物屋が並ぶ通りに来た。
清十郎さんも、平八郎さんも、都の思い出に、何かお土産を買っていたみたいだった。
私も、夕凪ちゃんやお仙さんたちにお土産を買った。
「伊月さんは何も買わないのですか?」
「別に土産を買ってやる者がおらんからな。」
「いるじゃないですか!」
「は?」
「正次さんと、源次郎さん!」
「いや、あいつらは...」
「平八郎さんは何か買っていましたよ。源次郎さんに。」
「しかし、あいつらが欲しい物など、皆目見当もつかぬ。金をやれば勝手に欲しい物を買うだろう。」
伊月さんはとても現実的な考え方をする人だ。
でも、都には都でしか買えない何かがあるはずだ。
「また、そんなこと言ってぇ。お酒なんてどうです?亜の国では飲めない地酒なら珍しいんじゃないですか? お金があってもなかなか手に入らないじゃないでしょう?」
「まぁ、そ、そうだな。」
私は半ば強引に伊月さんの袖を引いて、酒屋に入った。
酒屋の店主に事情を説明して、都でしか手に入らないお酒を見繕ってもらう。
「どのような味がお好みですか?」
「正次さんは辛口でスッキリしたもの。源次郎さんは少し甘くてまろやかなもの。ですよね?伊月さん?」
「そ、そうなのか? 知らんかった。何故、那美どのが知っている?」
「だって、タカオ山での宴でも、武術大会でも一緒に飲んだじゃないですか。」
「そ、そうか…、そのたった二回で…。」
酒屋の店主は笑いながら「やはり女人の情報収集能力は優れていますねぇ」と言った。
酒屋を出ると、源次郎さんも清十郎さんも風呂敷いっぱいに買い物したものを抱えていた。
―― ふふふ。楽しそうで良かった。
この後、東三条さんたちは夕ご飯にと、私たちを豪華な料亭に連れて行ってくれて、フルコースの会席を堪能した。
―― なんて贅沢な一日だろう。
帰りの牛車の中では、また伊月さんと二人きりになった。
「平八郎さんと清十郎さん、なかなか牛車に乗ってくれませんね。」
「まぁ、どちらかというと、歩く方が快適だからな。」
「確かに。狭いし、けっこう揺れますもんね。」
「牛車はたいてい重い衣装をまとった貴族が乗る物だ。」
「もしかして、伊月さんも歩きたいんですか?」
「まあ歩く方が性に合っているが、この機を逃すと、次はいつ那美どのとゆっくり話せるか分らんからな。」
「え?」
伊月さんは私の頬をそっと撫でて、そのままチュっと軽くキスをした。
―― 私と二人きりになりたくて牛車に乗ってるってこと?
嬉しくなって、伊月さんの肩に自分の頭を預けた。
そのまま伊月さんが私の肩を抱き寄せた。
―― そういえば…
「あのう、伊月さん、桔梗の花言葉、知っていたんですか?」
私は、偶然だと確信していた。
伊月さん、絶対、花言葉とか知ってるタイプではなさそう。
「し…知っていた。」
「ええええ? 本当ですか?」
私はびっくりして、ガバっと上半身を離して、伊月さんの顔を見た。
「…。」
伊月さんは目元を赤らめて、無言のまま目線をそらした。
「偶然だって思ってました。花言葉とか詳しい感じじゃないかなって。」
「源次郎が…あいつが花言葉に詳しく、私に色々と知恵をつけるのだ。」
伊月さんは目線をそらしたままボソリと言った。
「私、花言葉、あまり詳しくなくて、気づきませんでした。えと、じゃ、じゃあ、永遠の愛って…」
「嫌だったか?」
「そんな...う、嬉しいです! すごく嬉しいです!」
―― どうしよう、キスしたい。ぎゅってしたい。
「あの、伊月さん…。」
「ん?」
私はたまらず、伊月さんにぎゅーっと抱きついた。
グラリ、と牛車が揺れた。
「な、那美どの?」
少しびっくりしながらも、伊月さんは抱きしめ返して、私の髪をそっと撫でてくれた。
「あの、もう一度、口づけしてくれませんか?」
恥ずかしさを押し込めていう。
「断る。」
「へ?」
きっぱり断られて、悲しくなった。
意図をさぐろうと伊月さんの目を覗き込む。
「今は那美どのにしてもらいたい。」
「え?」
伊月さんは、顔をぐいっと近づけた。
「ほら。早く。」
「じゃ、じゃあ、目を瞑って下さい。」
伊月さんは素直に目を瞑った。
―― まつ毛長い... 綺麗。
そう思いつつ、私から、そっと、口づけをする。
ゆっくり唇を離そうとすると、後頭部を手で押さえられた。
「全然、足りぬ。」
「で、でも…。」
伊月さんは逃がしてくれなかった。
「ほら、早くせぬと、手を離さんぞ。」
「うぅぅ。」
私は恥ずかしさを押し込めて、もう一度自分から口づけ、伊月さんの下唇をそっと噛んだ。
「もっと奥までだ。」
伊月さんはもう片方の手で私の頬を持って上向かせた。
「ほら、舌を出せ。」
私は言われるがままに舌を出して、自分から伊月さんの口の中に侵入する。
「ん…。」
私の舌は伊月さんの舌にすぐに絡めとられた。
牛車のすぐそばでは、人が歩く足音が聞こえるのに。
こんなことしてちゃダメだと思うのに。
伊月さんのされるがままになってしまった。
「んん…んっ...はっ」
ようやく解放され、最後にまた、チュっと軽いキスが落ちてきた。
「意地悪…」
「那美どのがそういう反応するのが悪い。」
伊月さんは人の悪い笑みを浮かべた。
でも、全然嫌じゃなくて困る。
「あ、主!」
イチャイチャして二人の世界に入っていたら、牛車の外から清十郎さんの声がした。
牛車が止まる前に伊月さんはサッと屋形から出た。
その瞬間に、牛車が止まり、周りが騒がしくなった。
私も慌てて外に出ると、東三条さんの護衛の人たちが騒然としていた。
牛車を出て、私はびっくりした。
もう少しで迎賓宮に着く、という所で、酒呑童子と八咫烏さんが道をふさいでいる。
迎賓宮からも騒ぎを聞きつけた伊月さんの護衛隊が出てきた。
おろおろする東三条さんや武官たちの前に出て、伊月さんが抜刀した。
そのまま、刃を酒呑童子に向ける。
「伊月、待て、刀をしまえ。」
八咫烏さんが、伊月さんを手で制する。
「八咫烏、その者は昨夜、那美どのの寝所に入り込み、那美どのを攫おうとしたのだぞ! なぜ庇いだてする?」
「俺は那美に話があって来たのだ。お前に用はない。」
酒呑童子がふてぶてしい態度で伊月さんに言う。
「私はお前に用がある。昨夜の那美どのへの非礼な行為、とうてい許されぬ。男として片をつけたい。一対一、決闘を願い出る。」
私が慌てて止めようとするその前に、八咫烏さんが言った。
「伊月、落ち着け。都では私闘は禁じられている。それに、酒呑童子は那美と話がしたいだけだ。ひと時、時間をやれ。もう勝手に迎賓宮に忍び込んだり、那美が一人の時に近づかぬと、起請文を書かせた。」
八咫烏さんが鬼の花押つきの起請文を見せた。
「伊月さん、ひとまず私と話があるそうなので、話しをさせてください。」
私は、伊月さんの刀を持つ手をきゅっとにぎった。
伊月さんはため息をついて、刀を下した。
「今日は八咫烏と那美どのに免じて時をやる。話をするなら、ここでしろ。」
酒呑童子は素直にうなずいた。
「それで、話ってなんですか?」
私は酒呑童子をまっすぐに見た。
「俺の嫁になれ。」
「お断りします。」
「そ、即答すぎるだろ! しかも冷静か!もうちっと考えるか、びっくりするとか、何か、もっと反応しろ!」
あたふたとする酒呑童子に、伊月さんを始め、護衛隊の皆がしらけた目を向けている。
「俺が鬼だからか? 醜いからか?」
「いやいやいや、鬼とか醜いとか以前に、そもそもそんなプロポーズで女の人が落ちると思うのがおかしいでしょう?」
「ぷ、ぷろ? 何だ?」
「求婚という意味です。」
これには、八咫烏さんも、護衛隊の皆も、うんうん、とうなずいている。
「お前、その前に那美を口説いたのか?」
八咫烏さんが、酒呑童子に聞くと、「酒を一緒に飲もうと誘った」と、答える。
それを聞いて、八咫烏さんが、はぁぁぁと大きくため息をついた。
酒呑童子はまた私を見て、「俺の口説き方が悪かったのか?」と、聞いた。
「いや…口説かれてるって全然知りませんでした…。」
「か、金ならあるぞ。屋敷もでかい。いい暮らしをさせてやる。」
「いや、別にそういうの良いです。」
「じゃあ、断る理由は何だ? 俺のことがそんなに嫌な理由を教えろ。」
私は少し、苛立っていた。
せっかく牛車の中で伊月さんといい感じだったのに…。
しかも酒呑童子のせいで、昨夜も今も大騒ぎだし、護衛の人たちも休まらない。
それに、しっかり断ったのに、結構しつこい。
―― ああ、もう、いい加減にして!
私は酒呑童子の前に仁王立ちになった。
「酒呑童子は女が自分の思い通りにならないと無理矢理さらって酒の相手をさせると言いましたね。」
「そうだ。」
「そして自分が醜いから女にモテないと思い込んでいます。」
「そうだ。」
「だから女は無理矢理さらわなければ仕方ないと思ってるんですか。」
「そうだ。」
「それは間違いです。酒呑童子が女にモテない理由は生まれ持った見た目じゃありません。」
「だが、見た瞬間に誰もが泣き叫び、話もできんぞ。」
「そりゃ、そんな金棒持ってるからでしょうがぁ!」
「か、金棒のせいか?」
「そんな物騒な物もって歩いているガタイのいい人がいたら、どんなイケメンでも警戒するでしょ!」
「イケメン?」
「見目麗しい男という意味です。」
「そ、そうなのか…。」
「まず、その、俺は強いぞっていうアピール…主張するような身なりをやめて下さい。ガラ悪すぎです!それだけでいきなり泣かれる確率は1割減ります。」
「お、おう。でも、1割か...」
「自分では醜い醜いって言ってるけど、顔はそんな言うほど醜くないですよ。ただ、もっと身綺麗にすればいいんです。」
「何?」
「髪も整えず、ボサボサですし、だいたい、上半身裸で腰巻一つとか、ワイルドすぎて、それも怖がられる理由の一つです。しかも、その虎柄の腰巻はダサすぎて本当にありえないから。大阪のおばちゃんじゃないんだし!」
「わいるど? おおさか? よく分からんが、虎柄かっこいいと思ってた。」
「きちんと着物を着て、身なりを整えて、筋肉をみせるならチラ見せくらいがいいです。そうすれば、いきなり泣かれる確率があと2割くらい減ると思います。」
「お、おう。そ、そうなのか?」
酒呑童子は八咫烏さんの方を向いて、意見を仰ぐように見た。
「正論だ。」
八咫烏さんが私の言葉にお墨付きを与えた。
「とにかく、酒呑童子の一番の問題は、生まれつきの見た目のせいと決めつけ、自分の身辺を整える努力をしないことです。
努力をしないで、酒ばかり飲んで、女の人の気持ちを考えず、安易に人をさらうから、余計に悪い噂が立ってこわがられるんです。身なりを整え、少しずつでも、周りの人に優しくしてください。そうしたら、怖がられることも少なくなります。」
「分かった。俺が酒をやめて、努力して、身ぎれいになって、人さらいをやめたら那美は俺の嫁に来るのか。」
「来ません。」
「ま、また即答か! なぜだ?」
「私には心に決めた人がいます。それに、酒呑童子は私の事を好きだと勘違いしてるだけだと思うからです。」
「勘違い? どういうことだ。」
「私が酒呑童子を恐れずに普通に話すからそれが珍しいだけで、私の事を本当に好きじゃないと思うんです。もし私より若くてかわいいピチピチの女の子が、怖がらずに寄ってきて、酒呑童子さま素敵♡とか言ったら、絶対そっちになびきます。」
「う...。」
「とにかく、私には好きな人がいて、その人以外は眼中にありません。分かったら、もう私につきまとうのはやめて下さい。」
私は、踵を返して、伊月さんの方に向かって歩き始めた。
「ま、待て、那美。もう一つだけ。」
「何ですか?」
「た、確かに若い女がそんな風に寄ってきたら拒む自信はないが、今この時点で那美に心底惚れているのは事実だ。それは否定するな…。」
酒呑童子はそういうと、涙をにじませた。
「そ、そんな泣かなくても…」
酒呑童子は、こらえられなくなったのか、うめき声を上げて本格的に泣き始めた。
「じゃ、じゃあ、お気持ちだけ受け取ります。でも、本当にもう、付きまとわないで下さい。」
「那美、待ってくれ…。」
その瞬間、酒呑童子は私の手を取ろうとしたが、伊月さんが私を引き寄せ、背中に隠した。
「酒呑童子、しつこいぞ。お前も男ならメソメソ泣くな。」
伊月さんが諭すように言った。
八咫烏さんが見かねたように、酒呑童子の肩に腕を回した。
「酒呑童子、もう気が済んだだろ? 今夜は俺が付き合うから、飲むぞ。」
八咫烏さんは、私達に、騒がせてすまなかったなと言って、酒呑童子を連れたまま飛んで行った。
二人の姿が見えなくなると、護衛隊の人がわっと歓声を上げた。
「いやー鬼の頭領と悪名高い酒呑童子が泣いておりましたなー!」
「鬼も那美様には敵いませんでしたね。」
「しかしあの酒呑童子が切実に恋心を告白していましたな。」
「鬼といえども失恋の痛みには耐えれなかったようですな。」
と、わいわい言っている。
伊月さんは一人、複雑そうな顔をしていた。
私もちょっと複雑な気持ちだった。
酒呑童子はあの見た目のせいで今まで沢山の拒絶を味わったんだろう。
「那美様」
東三条さんとトヨさんが歩み寄って来た。
「とんだ者に好かれてしまいましたね。でも、酒呑童子があのように辛抱強く人と話ができるとは知りませんでした。那美様のお陰で新たな発見がありました。」
東三条さんが言う。
「あの、お騒がせしてすみませんでした。それから、今日はとても楽しかったです。本当にありがとうございます。」
「那美様も、共舘様も、今夜は鬼の襲来も御座いませんので、どうぞ、ごゆっくりお休みください。明日は帝への謁見ですので、またお忙しくなります。」
トヨさんが言った。
「お気遣い、ありがとうございます。」
伊月さんもお礼を言った。
私達は東三条さんとトヨさんに何度もお礼を言って迎賓宮に帰った。
迎賓宮ではお風呂の準備がしてあり、相変わらず、女官が手際よく寝る準備を手伝ってくれる。
手際が良すぎて、護衛の人たちと話したり、伊月さんと話したりする時間もなく、お風呂場から寝所へと連れて行かれる。
今夜は隣の部屋に伊月さんが泊まっているということもあり、私の寝所の扉を閉めていい、という事になったらしいことを女官が教えてくれた。
―― 良かった。伊月さんも今夜はお布団でしっかり寝れそうだな。
それにしても、酒呑童子にちょっときつく言い過ぎたかな。
あんなに泣いちゃうなんて思いもよらなかった。
これを機に人さらいをやめてくれたらいいんだけど。
私はそんなことを考えながら、眠りについた。
今日は帝に拝謁する日ということで、それはもう、たくさんの着物を着させられた。
何枚重ねるんですか?っていうほどに、女官たちは着物を私の体に重ねに重ねまくった。
「お美しいですよ。」
女官たちはどこか嬉しそうだ。
―― う、動きにくい!
私はゆっくりと伊月さんたちの待っている迎賓宮の門まで歩く。
一応オババ様から帝拝謁の作法は習ったけど、それでも心配だなぁ。
「お待たせいたしました。」
外に出ると、正装をした伊月さんが見えた。
―― 何それ、ヤバい。カッコいい。
伊月さんは直垂に侍烏帽子姿で、初めて見る装束だった。
何を着ててもかっこいいとか、どういうこと?
ゆっくりしか動けない私の手を取って、伊月さんは輿までエスコートしてくれた。
「那美どのは何を着ても可愛いな...」
輿に乗る瞬間、とても小さな声で伊月さんがボソっとつぶやいた。
私も伊月さんにかっこいいって言いたかったのに、もう、隊を率いて、出発の号令をかけている。
―― ずるいなぁ。
―――
護衛隊と一緒に宮殿に着くと、東三条さんとトヨさんが出迎えてくれて、すぐに帝にも拝謁できた。
帝は30代後半くらいに見える、上品さを具現化したような人だ。
「汝が異界から来た巫女、那美か?」
「はい。帝に拝謁でき、光栄です。」
「日ノ本から来たと聞いた。さらにタカオ山でオババ様の巫女として働いておるとも聞いた。」
「その通りです。」
「始皇帝の来られた世から来て、始皇帝の愛されたオババ様の元におるとは何とも縁を感じるな。」
タマチ帝国の始皇帝はオババ様の恋仲だったイケメンの元武将、重治さんだ。
「さて、これよりしばらく、そなたのいた日ノ本について色々と聞きたい。人払いをせよ。」
帝の言葉に従い、部屋には私だけ残された。
帝は、始皇帝がここに来て以来、日本がどういう風に変わったのか聞いた。
始皇帝がこの尽世に来たのが500年前くらいだから、私は戦国時代から江戸時代までの日本の歴史を大まかに説明した。
「戦がなくなったとは驚きだ。戦がなくなると国はどのようになるのか。」
帝と私は、丸一日をこういう話しをするのに費やして、日暮れが近くなってから人を呼び戻した。
そして、帝は庭先に控えていた伊月さんを呼んだ。
「迎賓宮に酒呑童子が出たと聞いた。迎賓宮の武官の長、大内の働きはいかに。」
「強力な妖術を使う酒呑童子の侵入を防ぐことは誰にとっても難しいことで御座います。多少の改善の余地があったとしても、大内様の非では御座いません。さらには大内様は私のような下々の武士にも意見を求め、迎賓宮の警護の改善に勤めておられます。大変ご立派にお勤めをされております。」
伊月さんは迎賓宮の武官長を庇ったようだった。
帝は頷いて、大内に咎め無しと言った。
「那美、よき時間を過ごした。礼を言う。また明日も同じ時刻に参内せよ。」
帝が去っていった。
―― つ、疲れたぁ。
私は重い着物を脱ぎ捨てて、大の字に寝転びたい衝動にかられた。
でもそうはいかなかった。
夜は夜で、迎賓宮でもてなしの宴を受けた。
宴が終わり、皆が湯あみを済ませたころ、八咫烏さんがフラっと戻って来たらしく、隣の部屋で伊月さんたちと何やらワイワイ話していたようだった。
私も会話に加わりたいけど、私の周りには女官がたくさんいて、いつも伊月さんたちとのグループからは少し距離を離されている。
宮廷のしきたりで、割と厳重に男女の区域が分けられている。
―――
次の日、私はまた同じように沢山の着物を重ね着して、参内した。
帝は私が都にいる間にできるだけ沢山の事を聞きたかったらしく、また丸一日かけての問答会だった。
とはいえ、これが都最後の日、明日は朝から出発するから、我慢だ。
と、思った瞬間、帝から、
「もう一日滞在を延長しろ。」
と言われてしまった。
「また明日も同じ時刻に参内せよ。」
―― き、きついよぉぉぉ。
そして夜はいつも宴だった。
みんな優しくて、美味しいものも食べさせてくれるけど、なかなか疲れがとれず、少しホームシックになっていた。
そして何より、深刻な伊月さん不足に陥っていた。
すぐ近くにいるのに、常に誰かが回りにいて、伊月さんとゆっくり話せていない。
伊月さんが格好良すぎて、胸キュンが止まらないのに、かっこいいですって伝えられなくて苦しい。
―― そうだ!
私は、都滞在の初日に鬼に邪魔されて書けなかった伊月さんへの文を書くことにした。
『伊月さんへ、
都では毎日美味しいものが食べれて、着飾って、とっても雅な生活ができるけど、あまり自由がない事が苦しいです。
特に、自由に伊月さんに話しかけたり、触れたりできないのが一番辛いです。
伊月さんの直垂と侍烏帽子の正装がとっても格好よくって、毎日ドキドキしているのに、それを伝えられないのも辛いです。
那美』
そして次の日、この文を、輿までエスコートしてくれる伊月さんにこっそり渡した。
また宮廷での丸一日かけての問答会がはじまった。
帝は私に定期的に文を寄こし、タカオ山周辺の情報を提供するように言い含めた。
そして、この日の謁見の最後に、私に位階と役職をくれる、という。
「皆の者、よく聞け。」
帝は皆の前で宣言した。
「那美を従四位上に叙し、参与に任ずる。」
参与は相談役といった感じの役職だ。
私は、『従四位上に叙する』と、でかでかと書かれた紙を受け取った。
―― 良かった。終わった。
これ以上滞在を延長するように言われなくて、少しほっとする。
帝はとてもいい人だけど、さすがに毎日これでは疲れる。
贈位の礼が終わって迎賓宮にもどり、最後の宴が催された。
―― いよいよ明日は出発か。
また都には参内のためにではなく、観光に来たいなと思った。
今回の旅行はお仕事のために来たから、少ししか観光できなかったけど、見どころはまだまだ沢山ありそうだよね。
東三条さんに連れて行ってもらった商店街で買った観光案内の本を見た。
写真がなくて全部文字だけの説明だけど、行ってみたい所が満載だ。
―― いつかお仕事じゃなくて、完全に休暇で旅行とかしてみたいな
そんなことを考えながら、私は眠りについた。
―――
いよいよ都を出発する朝、朝餉を終えて、出発の準備を始めた私のもとに、女官がやってきて、文をくれた。
―― あ、夕凪ちゃんとオババ様とお仙さんからのお返事だ!
堅苦しい都の雰囲気から解放される喜びと、お返事が来たことで、一気に気分があがった。
―― 道中、ゆっくり読もう。
私も旅装に着替えて、護衛隊の元に行く。
「皆さん、おはようございます。また帰りの道中も宜しくお願いします。」
私が挨拶すると、皆も挨拶してくれて、平八郎さんが私の荷物を馬に乗せてくれる。
そこに武官長の大内さんが来て、伊月さんに深々と頭を下げた。
「帝へお口添え頂いたと聞きました。酒呑童子が入ったというのに、何のお咎めもありませんでした。何とお礼を言っていいか。」
―― ふふふ。ここでも仲間を増やしてるな。
東三条さんも、トヨさんも見送りに来てくれた。
私達は迎賓宮の官人たちにお礼を言って出発した。
私は皆が見えなくなるまで手を振った。
都の最南の朱雀門を出ればもう都の外だ。
門を出る前に伊月さんが
「那美どの、いつか自分で馬に乗りたいと言っていたな。」
と、聞いた。
コクリと頷くと、私が教えてやるといって、平八郎さんに馬をもってくるように言いつけた。
平八郎さんが隊の後ろで引かれながら歩いていた馬を黒毛の横に並べた。
栗色の毛並みが綺麗な少し小ぶりの馬だ。
「馬の名前は栗毛という。」
―― やっぱりネーミングセンスがそのまま...。
―― 〇〇栗毛みたいにもうちょい特徴を付けてもいいのに。
伊月さんが基本的な馬への乗り降りの仕方を教えてくれた。
指導に従ってゆっくり馬に乗ると、私の姿勢を正し、手綱の持ち方、基本的な扱い方を教えてくれる。
そして、栗毛の馬銜にもう一本紐を付けて、伊月さんはその紐を持ったまま、自分は黒毛に乗った。
「何かあれば私が引いてやるので安心しろ。」
「ありがとうございます。」
そして、その瞬間、伊月さんが、「那美どの、受け取れ」と言ってさっと文をくれた。
―― 返事を書いてくれたんだ!
嬉しくなって伊月さんを見ると、「あとで読め」と短く言った。
黒毛に乗った伊月さんと栗毛に乗った私が並んで歩き出すと隊の皆もそれに続いた。
また伊月さんの近くにいれる。
私は隣で颯爽と黒毛を操る伊月さんを見ながらうっとりする。
「そろそろタカオ山が恋しくなったか?」
「はい。オババ様や夕凪ちゃんに会いたいです。でも、この旅が終わるのも少し寂しいですね。」
「そうだな。護衛隊の者たちも楽しんでいたようだ。」
「そうなら良かったです。伊月さんは楽しかったですか?」
「ああ、楽しかった。このように物見遊山で旅したのは初めてだ。いつもは戦でしか亜の国を出ないからな。」
この旅でも戦う場面が結構あったのに、伊月さんにしてみれば物見遊山のレベルなんだな。
遠征ではずっと野宿だし、ずっとずっと危険な目に合うんだよな。
そろそろ宇の国境に差し掛かるという頃、バサバサと、大きな羽音が聞こえた。
「あ、八咫烏さんが...と、あれ?」
伊月さんが馬をとめると、護衛隊の皆も歩みを止める。
「しゅ、酒呑童子?」
八咫烏さんと一緒に現れたのは、すっかり様変わりした酒呑童子らしき鬼だった。
伊月さんが刀の鞘に手をかけるのを、八咫烏さんが制する。
「別れを言いに来ただけだ。」
「那美…。」
「しゅ、酒呑童子? 見違えましたね!」
酒呑童子は髪をさっぱり切り、眉を整え、恐ろしく伸びていた鈎爪も綺麗に切りそろえている。
虎柄の腰巻の代わりに質のいい着流し姿で、襟元をすこし緩めて筋肉をチラ見せしている。
そして、金棒の代わりに腰に刀をさしている。
今まで裸足だったけど、今日は足袋も草履もはいていて、フォーマルな場所に行っても十分通用しそうだ。
肌も心なしかツヤツヤになったような気がする。
―― もしや八咫烏さんのコーディネート?
「お前の言ったとおりだった。この姿にしてから、人々があまり恐れなくなった。」
「それは良かったです。」
「女をさらうのもやめた。そのかわり、八咫烏が女の口説き方を教えてくれると言った。」
「ふふふ。頑張って下さいね。」
「那美、タカオ山まで気を付けて行け。」
「ありがとうございます。酒呑童子も幸せになってね。」
酒呑童子はまるで別人みたいに、素直にコクリとうなずいた。
「気が変わったら、俺の所に嫁に来い。いつでも、いい暮らしをさせてやる。」
「気持ちだけ、ありがたく受け取ります。」
「じゃあ、気をつけてな。」
「酒呑童子もね。」
「そろそろ、行くぞ。」
八咫烏さんが、また、酒呑童子を連れて飛び立とうとする。
その瞬間、酒呑童子が伊月さんをまっすぐに見て言った。
「お前だけは気に入らない。お前の申し込んだ決闘を、いつか、必ず受けてやるから、その日まで腕を磨いておけ。」
「望むところだ。」
「余計なことを言わずに、ほら、さっさと行くぞ。」
八咫烏さんは、さっと飛び立った。
酒呑童子が私に手を振ったので、私も手を振った。
酒呑童子は姿が見えなくなるまで、ずっとずっと手を振っていた。
あやかしは基本、自由気まま、本能のまま生きている。
だけど、あまり自由にふるまいすぎて、人や他のあやかしに迷惑をかけすぎると、痛い目にあうこともある。
時々痛い目に合いながら、自分の欲望との折り合いをつけ、他のあやかしや人間と共存していく術を身に着けていく。
だけど、酒呑童子は力が強すぎて、あまり、痛い目に合ったことがなかった。
だから思い通りにならない事があると、暴れれば解決した。
欲しい物があると、奪えば済んだ。女もそうだった。
貴族の娘をさらった時にはさすがに大事になって武将たちに殺されかけたが、それ以外には、身寄りのない女をさらう分にはこれと言った問題が起きなかった。
だから、このところ、やりたい放題だった。
―― 俺が少しお灸を据えてやらねばな
そう八咫烏が思っていたところ、その必要がなくなった。
代わりに酒呑童子にお灸を据えたのは那美だった。
失恋して見苦しく泣きわめく鬼をなだめ、八咫烏が酒呑童子の屋敷に連れ帰ると、そこには酒呑童子が今までに攫ってきた16人の妻がいた。
「お前、さすがに、やりすぎだろ…。」と、八咫烏はドン引きする。
気になる女を攫ってきて、部屋を与え、飽きたらその女からは足が遠のいてしまう。
そして、また次の女を攫ってくる。
そういう生活を何百年も続けているみたいだった。
飽きられてしまった妻たちにも、新しくさらわれてきた妻たちにも、それなりに良い暮らしをさせているみたいだったし、妻たちも、身寄りがなく乞食同然に生きてきた者たちがほとんどで、逃げ出そうとは思わないみたいだった。
そこに愛情があるかどうかは謎だが、むしろ酒呑童子の経済支援には感謝しているという感じだった。
酒呑童子は八咫烏のことも、他の妻たちのことも眼中にないというように、グスグス泣いている。
「いい加減、泣き止め。」
「うぅぅぅ。」
これまで、女はただの欲望のはけ口とだけ思っていたのだろう。
その代わり、住むところと、飯と、金品を与えれば大人しく自分に従う、それが女だと思っていたようだ。
話しを聞けば、自分が飽きて女の寝所に行かなくなっても、特に文句も言わない。
寿命の短い人間の女はやがて年老いて死んでしまう。
だから、また若いのを攫ってくる。
女はいればいるだけ、身辺の世話をする者が増えるので、財力が許す限り攫って来て養っておく。
そういう生活だったらしい。
―― それなのに、那美には本気で惚れてしまったのか。
きっと力づくでやれば、那美のことも攫ってこられただろう。
でもそうしなかった。
無理強いをして、那美に嫌われることを恐れたからだ。
「俺は、那美の心が欲しいんだ…。うぅぅぅぅ。」
今では惚れた女にふられた、ただの情けない男になっている。
「那美はいい匂いがするだろ?」
「…ああ、する。」
「あれは、あいつの強いカムナリキのせいだと思う。」
「そ、そうか…。俺も、雷を当てられた。あれは、衝撃だった。」
酒呑童子は、雷の気を当てられたらしい自分の手をさすって、切なそうな顔をした。
―― き、気色悪いぞ!
八咫烏はまた、ドン引きしながらも、今回オババ様に言いつけられたことを思い出す。
各地を回って、暴れまわるあやかしや野獣の話を聞き、鎮めてくること。
手が付けられぬ者にはお灸を据えることも、改心の見込みがある者には教え導くことも神使の仕事だ。
手ひどく那美にお灸を据えられた鬼には、まさしく改心するチャンスが来ている。
「お前、那美に認められるような男になりたくないか?」
「なりたい。」
「よし、では、那美が言っていたことを実行するぞ。」
「ど、どうするのだ?」
「身なりを整える。妻たちを全員、呼べ。」
「お、おう?」
酒呑童子は16人の妻を全員集めた。
若いのから年寄りまで勢ぞろいだ。
―― 一応年を取った妻を捨てないのは褒めてやるが…
八咫烏は少し複雑な気持ちを押し込めて、女たちに言った。
「酒呑童子の身なりを変えるので、手伝ってほしい。お前たちも自分の亭主がかっこよくなると嬉しいだろ?」
女たちに手伝わせて、酒呑童子の体を洗い、髪の毛を切った。
爪も切りそろえて、女好きのするような着物を着せ、金棒を没収した。
「そもそも武器なぞなくても強いのに、なぜわざわざこのヘンテコな金棒を持っている?」
「かっこいいと思っていた。」
「趣味が悪すぎる。虎柄も今後禁止だ!」
妻たちの勧めで、眉も整え、香も焚き込めた。
16人の妻のうちの若い女たちの中には、酒呑童子の見違えた姿に頬を赤らめている者もいた。
「なかなかだな。よし、街に繰り出すか。」
試しに、酒呑童子を連れて、花街に繰り出してみる。
「俺がいると女が寄ってくるから、お前ひとりで歩いてみろ。」
「本当のことだが、自分で言ってるから、無性に腹が立つ。」
酒呑童子は恨みがましく八咫烏をにらみつつ、でも、言われるがままに、一人で花街を歩いてみる。
通りすがる時に、びくっとして、警戒する者はいたが、以前のように、酒呑童子の姿を一目見て、叫びながら逃げ出す者は誰もいなかった。
「よし、大いなる進歩だな。」
八咫烏は満足した。
酒呑童子もびっくりした。
「や、八咫烏! に、人間に、泣き叫ばれなかった!」
酒呑童子は嬉しそうに、 大はしゃぎで八咫烏に言った。
何かを努力することで、結果が出る、ということが初めての経験だった。
「よし、ではこれから、お前に女の口説き方を教える。」
「な、何故だ?」
「そうすれば、無理矢理に女を攫わなくても、向こうの方から女が寄って来るからだ。」
「そ、そんなことができるのか?」
「当たり前だ。お前も嫌々一緒にいられるより、いかにもお前に惚れているといったような惚けた目で近寄ってこられた方が嬉しいだろう?」
「そ、そんなことは経験がないから、わからんが、たぶん、嬉しい。」
「よし。まずは、自分の妻を口説き落とせ。一番見込みのある、何と言ったか、お静という女からだ。それができないなら新しい女を口説くのは無理だからな。自分から妻の寝所に行くのではなく、今夜は自分の寝所に来てほしいと妻に言わせてみろ。」
「で、できるのか? そんなことが?」
「時間がかかるが、できる。やってみたいか?」
「やってみたい!」
こうして、長期戦になるであろう、八咫烏の指導が始まった。
「伊月にも教えたことのない手練手管だぞ。ありがたく思えよ。」
「伊月というのは、あの、那美にべったりくっついている侍のことか?」
「ああ。」
「あいつは那美の男なのか?」
「ああ。」
「あ、あいつだって相当な悪鬼顔だぞ!」
「そうだ。だから、お前のことを醜くないと言った那美の言葉はうそじゃないだろう。」
「お前も俺が醜くないと思うか?」
「俺には正直、男の美醜などわからん。単刀直入に言うが、俺以外の男は皆、醜く見える。」
「お前な…。何か、イラっとするな…。」
「とにかく、それでも、那美は俺にはなびかなかった。俺ような美しい顔が好みじゃないらしい。珍しい女だ。」
「そ、そうか…。」
「それに、那美は伊月に…」
なぜか八咫烏は言い淀み、青ざめた顔をして、ブルっと身震いをした。
「何だ、言えよ。」
「那美は伊月に、伊月のことが可愛いと言ったそうだ…。」
「何だと???」
「この前、伊月が自慢げに言ってきた。」
「あの男が可愛いだと!?」
酒呑童子も赤鬼なのに、青ざめた顔をして身震いをした。
「とにかく、伊月のような男を可愛いと思って惚れる女もいる、ということだ。」
酒呑童子は複雑そうな顔をした。
「そういう女が、この世にいるのか。」
「いるぞ。時々、ものすごーーく、稀だが、俺のような眉目秀麗な男には目もくれなず、逆に伊月やお前のような男になびく女がいるのだ。お前も希望を持っていい。」
「お、おう。」
何とか落ち着きを取り戻した酒呑童子を屋敷に戻し、妻に対する接し方のいろはを再指導して、八咫烏は、伊月たちのいる迎賓宮へと戻った。
伊月たちに酒呑童子の現状を話す。
「あの、悪鬼め!16人も妻がいるのに、そのうちの一人に那美どのを加えようとは!無礼千万!万死に値する!」
伊月は予想通りの反応だった。
面倒くさいので放っておいて、八咫烏は大鬼の恋模様を面白がっている護衛隊の隊員たちに、酒呑童子の豹変ぶりを話して聞かせる。
隊員たちは八咫烏が酒呑童子に伝授したという女の口説き方を聞きたがったので、少しだけ教えてやる。
伊月はいかにも興味なさげに、部屋の隅の文机で仕事をしていたが、きっと聞き耳は立てているだろう。
―― 全く、素直じゃないやつだな。
伊月は酒呑童子に苛立ってはいるものの、ものの見事に那美にフラれた鬼に多少の同情をしていたようだった。
同じ男として、惚れた女にフラれるであろう痛みは容易に想像できるだろうから。
―― しかし、伊月の恋敵はあの大鬼と、この無邪気な小鬼か。
八咫烏は楽しそうに笑いながら清十郎と話をしている平八郎をちらりと見た。
源次郎が言ったように、最近は那美のことを吹っ切れているみたいではあった。
今回の旅に出る前に、源次郎と堀が、新しい出会いをと思い、色々女を紹介していたのだが、那美を超える存在にはまだ出会えていないようだ。
―― 伊月も苦労が絶えんなぁ。まあ、俺にとっては面白いし、からかい甲斐があるからいいが。
八咫烏は部屋の隅で黙々と仕事をする伊月の後ろ姿を哀れみをたたえた目で見た。