都への旅の三日目の夜、伊月さんと私は、宇の国の温泉宿の一室で月を見ていた。
部屋には大きな窓があって、窓の前に小さなテーブルと椅子が二脚並べられている。
仲居さんがお酒を持ってきてくれて、伊月さんも食後のお酒を楽しんでいるみたいだった。
アクシデント的に伊月《いつき》さんと一緒にお風呂に入ってしまった後、私はお湯にのぼせてしまったらしく、気が付いた時には伊月さんに介抱されていた。
伊月さんは、「反省する」と言って、悪い事をしてしまった子犬のようにシュンとしていた。
あんなに、「那美どのは男がどういうものか分かっておらん!」って怒ってたのに、今ではすっかりリラックスしたのか、落ち着きを取り戻したのか、それとも本人が言うように、本当に「反省した」のか、いつもの物静かな伊月さんになった。
「那美どのは飲まんのか?」
「私は今日は遠慮しておきます。」
「まだ具合が悪いか?」
「いいえ。具合はいいです。ご飯もすっごく美味しくてすっかり元気になりました。でも、明日も早起きしなきゃいけないから。」
今夜はこの部屋で伊月さんと一緒に寝る。
お酒を飲むと次の日、顔がむくむから、そんなのを明日の朝一番に伊月さんに見られるのは嫌だ。
「あの、兵五郎さんの村の人たちは今日何か食べてるでしょうか。」
「あれだけの金子があれば、しばらくは食いつなげるだろう。」
「国を治める人によって、住んでいる人たちの生活が随分変わると清十郎さんが言っていました。」
「それは確かにそうだ。」
「清十郎さんが、伊月さんが於の国主だったら、あんなに民を飢えさせてなのにって言ってました。」
「清十郎がそんなことを?」
「はい、それで、私、ピンと来たんです。」
私は空になった伊月さんのお猪口にお酒を注いだ。
「兵五郎さんとの戦いの後からずっと、伊月さんのやってることが不可解だったんですが…。」
「何が不可解だった?」
「普通、あそこまでしないって思って。護衛させるだけにあんな大金を与えて、非常食まで全部ふるまっていました。」
伊月さんは黙って私の話を聞いている。
「もちろん、非常食や金子も、あとから調達できる伝手があるからそうしたって分かりますけど、それにしてもその調達できる伝手が、亜国から結構離れたこんな所にあるのも不思議です。」
私は以前よりもずっと近くに重なり合っている二つの月を見つめた。
綺麗な二つの半月だ。
「それに、一時的に金子をやるだけじゃなくて、その後も召し抱えて役目を与えるなんて、普通しないです。」
「那美どのは誠に聡い人だな。それで、ピンと来たこととは?」
「伊月さんの志の高さです。 伊月さんって、伊に帰って伊と亜を両方押さえるのが当面の目標だって言ってましたよね? でも、もしかして、さらにその後に、このタマチ帝国全土を治めたいって思ってますか? もし、そうだったら伊月さんが兵五郎さんにしたことも納得です。」
伊月さんはフッと微笑みを漏らした。
「那美どのの言う通りだ。こうやって亜の外に出る機会を得る度に、方々に仲間を増やし、布石を打っている。どんなに領地の手に入らぬ戦も、文句を言わず引き受けてきたのはそのためだ。領地や扶持を得る前に、人を得たいのだ。」
―― 伊月さんは人材をすごく重んじているんだ。
「もちろん、兵五郎のような者たちに手を貸すのも打算のためだ。できるだけ地方の強者たちに恩を売っておきたい。いざという時に協力してもらいたいからだ。」
武術大会の時に伊月さんに会いに来た各地の豪族たちを思い出した。
皆、伊月さんにお礼を言ってたっけ。
「こんな私を那美どのは蔑むだろうか。」
「お互いに利があれば、それでいいじゃないですか。伊月さんが兵五郎さんに言っていたことです。」
ただのお人好しではここでは生き残れないことは十分に理解できる。
むしろ、こうやって、自分の志のために、先を見越して、何年も何年も小さな努力を怠らない伊月さんは、ただ者じゃないと思う。
「たかが人質風情がタマチ統一などと大それた夢を見るのはおかしいと思うか?笑ってもいいぞ。」
「そんなこと、思いません。むしろ、伊月さんなら出来ると思います。」
私が力を込めて言い切ると、伊月さんは少し驚いたように目を見張った。
「私、兵五郎さんたちを見て、思ったんです。誰も飢えずに人から物を盗らなくても生きていける世の中になったらいいなって。そう思うのは甘いかなって清十郎さんに聞いたら、そんなことはないと言ってくれました。清十郎さんが、伊月さんならそれができるって信じてる証だと思います。清十郎さんだけじゃないです。皆そう思っていると思います。」
「そう言ってくれるとありがたい。」
伊月さんは私に顔を寄せて、チュッとおでこにキスをした。
「きゅ、急に何ですか。まじめに話しているのに。」
「つい。那美どのを愛おしく感じた。」
「う…。伊月さんお酒飲むとそういうこと平気で言いますよね。いつも全然言わないのに。」
「そ、そうか? 気づかなかった。」
もう、と言いながら、私はまた空になった伊月さんのお猪口にお酒を注いだ。
「でも、伊月さんについては、まだまだ不可解なことが多いです。」
「何が不可解なのだ? 聞けば答えるぞ?」
「あ、別に言わなくてもいいんですよ。伊月さんのことを少しずつ知っていくのは謎解きみたいで楽しいので。」
「まったく、那美どのにはかなわんなぁ。」
そういうと、伊月さんはすっと立ち上がり、私を横抱きにした。
「な、何ですか?」
「そこそろ布団に行こう。横になりたい。」
私はそっと布団《ふとん》に寝かされ、伊月さんも、隣に敷いてある布団《ふとん》に横になった。
さっき仲居さんが敷いてくれた二組の布団《ふとん》はしっかりくっつき合っている。
「安心しろ、あとで私の布団《ふとん》は向こうの端っこに持って行く。」
そういって、伊月さんはそっと私の髪を撫でた。
「私も那美どのについては不可解なことばかりだ。」
「え?私が?」
「ああ。」
伊月さんが少し眠そうに、いつになく無防備な顔をした。
―― あ、どうしよう。可愛い。
「まず、とても高い教育を受けていることが分かる。読み書きができ、算術ができるだけでなく、社会のしくみもよく分かっている。特に貨幣のことや政についてもよく知っているのは驚くべき事だ。」
「それは、私のいた世には教育制度があったからです。」
伊月さんが私の前髪を優しく梳いた。
少し、くすぐったくて、心地よくて、私もちょっとだけ眠くなる。
「最初は武家か貴族の出身かと思ったがそうでもなさそうだ。民草を思いやり、誰とでも分け隔てなく接する。」
「だって、私、庶民ですもん。」
伊月さんはフッと笑った。
「その割には…」
伊月さんは私の手をとって、指先にチュっとキスをした。
「水仕事もしたことのないような美しい手だ。そして…」
伊月さんはそのまま私の手を撫でた。
「とても世間知らずだ。」
「す、すみません・・・。」
「別に悪い事だとは言っていない。ただ、色々と危なっかしくて放っておけぬ。」
伊月さんはまるで私の手に頬ずりするように、私の手を自分の頬において、その手を自分の手で覆った。
「一番不可解なのは、そのにおいだ。」
「に、におい??」
「何故いつもそんなにいい香りがする?」
「な、何言ってるんですか。伊月さんだっていつもヒノキのお香のいい匂いますよ。」
「私のは香のにおいだが、那美どのは那美どのの香りだ。」
「ど、どんな香りですか? もしかして、くさい、とか?」
私は慌てたように言った。
「ははは。とんでもない。花のような甘い匂いだ。」
私は自分の耳が熱くなるのを感じた。
伊月さんがいよいよ眠そうな目をする。
私は伊月さんの頬に置かれた手で、そっと伊月さんの顔を撫でた。
「もう寝て下さい。疲れているでしょう?」
「そうだな…布団を…向こうに…」
「もう、いいです。ここで寝て下さい。」
伊月さんは素直に目を瞑った。
「那美どのといると気が緩んでしまって…」
眠そうな伊月さんの髪を撫でていると、やがて、すやすやと寝息が聞こえ始めた。
―― この寝顔を見るの、とても幸せだな。
私も、伊月さんの頭を撫でながら、いつの間にか眠りに落ちていた。
―――
朝起きたら、もう伊月さんの姿がなかった。
仲居さんが言うには、
「先に行って準備しなければならないことがあるから、あとでお供の方を迎えにやるということでした。ゆっくり朝餉を食べて準備していてよいとおっしゃってましたよ。」
「そうなんですね。ありがとうございます。」
「ところで、これを私にお預けになりました。」
仲居さんは私に布に包まれたものを渡した。
「昨日、あなた様がお支払いなされたお部屋の追加料金をお返ししたいと。」
「もう、良かったのに…」
「ふふふ。妻は気丈な女だから私がやっても受け取らんので頼むと仰っていました。」
―― 今更だけど、お芝居だって分かってるけど、妻って響きがむずがゆい。
「それと、これも。」
仲居さんは私の手をとって、小さな箱を手渡した。
「これは?」
「これも私から渡してほしいと頼まれました。夫婦喧嘩の仲直りのしるしだそうですよ。」
そういって、仲居さんはニコニコしながら朝食の準備をしてくれた。
箱の中を開けると、桔梗の形をした髪飾りだった。
花弁は薄い紫色の石でできていて、その真ん中にはキラキラと光る雷石が一つはめられている。
―― わぁ綺麗。
箱の底に小さく折りたたまれた紙が入っていた。
開いてみると、『那美どのの髪に合うかと思って。』と、書かれている。
―― 伊月さん…
嬉しくて、思わず、髪飾りをキュッと胸に抱きしめた。
「本当に仲睦まじいご夫婦ですね。微笑ましいです。さぁさ、朝餉をお召し上がり下さい。」
仲居さんが用意してくれたご飯も食べ終え、旅装に着替えていたら、びっくりした。
首元に、真っ赤な跡がついている。
「あ、あの時の!」
私は昨日湯殿で、沢山伊月さんにキスされたとこを思い出した。
―― こ、これって、キスマークってやつ??
初めてのことに鼓動が高鳴る。
鏡でまじまじと見ると、昨日のことが生々しく思い出される。
どうしよう。恥ずかしすぎる。
―― でも、嬉しい気もする。
でも、人に見られるのはすっごい恥ずかしい!
私は着物の襟でしっかりと隠した。
準備万端になったころに、平八郎さんが迎えに来てくれ、仲居さんにお礼を言って、宿を後にした。
宿場町の出入り口の門には護衛隊の人たちが集まっていた。
出発の前に伊月さんが、今日はどこにも泊まらずに今夜そのまま都入りすると言った。
「今日の道行きは少し長くなるが都は近い。もう少しだ。」
ここ宇の国は都に近いこともあって、貴族たちが行くような施設が沢山ある。
行く先々で神社仏閣のような宗教施設も沢山あったし、花街のような遊興地もあった。
山があっても良く整備されていて、牛車が通れるくらいの道が整えられている。
建物も大きくて綺麗なものばかりだ。
でも、一歩そういう場所から出ると、農村や市中には飢えに苦しむ人たちもいた。
物乞いや、病に倒れていて動けない人がたくさんいる。
殺伐とした雰囲気に羅生門の小説を思い出した。
―― この辺では籠から出してもらえそうにないな。
伊の国で景色を楽しみながら、のんびり歩いたのが懐かしい。
「那美様、お暇でしょう? 私でよろしければお話相手になりますよ。」
清十郎さんが籠の外から話しかけてくれた。
私としては清十郎さんのことも色々と知りたいのだけど、清十郎さんは忍なので、出自とか色んなことが謎に包まれているし、きっと聞いても答えてはくれない。
「じゃあ、また伊月さんの武勇伝を聞かせてくれませんか?」
これを皮切りに、また、籠の周りの人が集まって、「伊月さんの強さが尊い会」の会合が始まった。
部屋には大きな窓があって、窓の前に小さなテーブルと椅子が二脚並べられている。
仲居さんがお酒を持ってきてくれて、伊月さんも食後のお酒を楽しんでいるみたいだった。
アクシデント的に伊月《いつき》さんと一緒にお風呂に入ってしまった後、私はお湯にのぼせてしまったらしく、気が付いた時には伊月さんに介抱されていた。
伊月さんは、「反省する」と言って、悪い事をしてしまった子犬のようにシュンとしていた。
あんなに、「那美どのは男がどういうものか分かっておらん!」って怒ってたのに、今ではすっかりリラックスしたのか、落ち着きを取り戻したのか、それとも本人が言うように、本当に「反省した」のか、いつもの物静かな伊月さんになった。
「那美どのは飲まんのか?」
「私は今日は遠慮しておきます。」
「まだ具合が悪いか?」
「いいえ。具合はいいです。ご飯もすっごく美味しくてすっかり元気になりました。でも、明日も早起きしなきゃいけないから。」
今夜はこの部屋で伊月さんと一緒に寝る。
お酒を飲むと次の日、顔がむくむから、そんなのを明日の朝一番に伊月さんに見られるのは嫌だ。
「あの、兵五郎さんの村の人たちは今日何か食べてるでしょうか。」
「あれだけの金子があれば、しばらくは食いつなげるだろう。」
「国を治める人によって、住んでいる人たちの生活が随分変わると清十郎さんが言っていました。」
「それは確かにそうだ。」
「清十郎さんが、伊月さんが於の国主だったら、あんなに民を飢えさせてなのにって言ってました。」
「清十郎がそんなことを?」
「はい、それで、私、ピンと来たんです。」
私は空になった伊月さんのお猪口にお酒を注いだ。
「兵五郎さんとの戦いの後からずっと、伊月さんのやってることが不可解だったんですが…。」
「何が不可解だった?」
「普通、あそこまでしないって思って。護衛させるだけにあんな大金を与えて、非常食まで全部ふるまっていました。」
伊月さんは黙って私の話を聞いている。
「もちろん、非常食や金子も、あとから調達できる伝手があるからそうしたって分かりますけど、それにしてもその調達できる伝手が、亜国から結構離れたこんな所にあるのも不思議です。」
私は以前よりもずっと近くに重なり合っている二つの月を見つめた。
綺麗な二つの半月だ。
「それに、一時的に金子をやるだけじゃなくて、その後も召し抱えて役目を与えるなんて、普通しないです。」
「那美どのは誠に聡い人だな。それで、ピンと来たこととは?」
「伊月さんの志の高さです。 伊月さんって、伊に帰って伊と亜を両方押さえるのが当面の目標だって言ってましたよね? でも、もしかして、さらにその後に、このタマチ帝国全土を治めたいって思ってますか? もし、そうだったら伊月さんが兵五郎さんにしたことも納得です。」
伊月さんはフッと微笑みを漏らした。
「那美どのの言う通りだ。こうやって亜の外に出る機会を得る度に、方々に仲間を増やし、布石を打っている。どんなに領地の手に入らぬ戦も、文句を言わず引き受けてきたのはそのためだ。領地や扶持を得る前に、人を得たいのだ。」
―― 伊月さんは人材をすごく重んじているんだ。
「もちろん、兵五郎のような者たちに手を貸すのも打算のためだ。できるだけ地方の強者たちに恩を売っておきたい。いざという時に協力してもらいたいからだ。」
武術大会の時に伊月さんに会いに来た各地の豪族たちを思い出した。
皆、伊月さんにお礼を言ってたっけ。
「こんな私を那美どのは蔑むだろうか。」
「お互いに利があれば、それでいいじゃないですか。伊月さんが兵五郎さんに言っていたことです。」
ただのお人好しではここでは生き残れないことは十分に理解できる。
むしろ、こうやって、自分の志のために、先を見越して、何年も何年も小さな努力を怠らない伊月さんは、ただ者じゃないと思う。
「たかが人質風情がタマチ統一などと大それた夢を見るのはおかしいと思うか?笑ってもいいぞ。」
「そんなこと、思いません。むしろ、伊月さんなら出来ると思います。」
私が力を込めて言い切ると、伊月さんは少し驚いたように目を見張った。
「私、兵五郎さんたちを見て、思ったんです。誰も飢えずに人から物を盗らなくても生きていける世の中になったらいいなって。そう思うのは甘いかなって清十郎さんに聞いたら、そんなことはないと言ってくれました。清十郎さんが、伊月さんならそれができるって信じてる証だと思います。清十郎さんだけじゃないです。皆そう思っていると思います。」
「そう言ってくれるとありがたい。」
伊月さんは私に顔を寄せて、チュッとおでこにキスをした。
「きゅ、急に何ですか。まじめに話しているのに。」
「つい。那美どのを愛おしく感じた。」
「う…。伊月さんお酒飲むとそういうこと平気で言いますよね。いつも全然言わないのに。」
「そ、そうか? 気づかなかった。」
もう、と言いながら、私はまた空になった伊月さんのお猪口にお酒を注いだ。
「でも、伊月さんについては、まだまだ不可解なことが多いです。」
「何が不可解なのだ? 聞けば答えるぞ?」
「あ、別に言わなくてもいいんですよ。伊月さんのことを少しずつ知っていくのは謎解きみたいで楽しいので。」
「まったく、那美どのにはかなわんなぁ。」
そういうと、伊月さんはすっと立ち上がり、私を横抱きにした。
「な、何ですか?」
「そこそろ布団に行こう。横になりたい。」
私はそっと布団《ふとん》に寝かされ、伊月さんも、隣に敷いてある布団《ふとん》に横になった。
さっき仲居さんが敷いてくれた二組の布団《ふとん》はしっかりくっつき合っている。
「安心しろ、あとで私の布団《ふとん》は向こうの端っこに持って行く。」
そういって、伊月さんはそっと私の髪を撫でた。
「私も那美どのについては不可解なことばかりだ。」
「え?私が?」
「ああ。」
伊月さんが少し眠そうに、いつになく無防備な顔をした。
―― あ、どうしよう。可愛い。
「まず、とても高い教育を受けていることが分かる。読み書きができ、算術ができるだけでなく、社会のしくみもよく分かっている。特に貨幣のことや政についてもよく知っているのは驚くべき事だ。」
「それは、私のいた世には教育制度があったからです。」
伊月さんが私の前髪を優しく梳いた。
少し、くすぐったくて、心地よくて、私もちょっとだけ眠くなる。
「最初は武家か貴族の出身かと思ったがそうでもなさそうだ。民草を思いやり、誰とでも分け隔てなく接する。」
「だって、私、庶民ですもん。」
伊月さんはフッと笑った。
「その割には…」
伊月さんは私の手をとって、指先にチュっとキスをした。
「水仕事もしたことのないような美しい手だ。そして…」
伊月さんはそのまま私の手を撫でた。
「とても世間知らずだ。」
「す、すみません・・・。」
「別に悪い事だとは言っていない。ただ、色々と危なっかしくて放っておけぬ。」
伊月さんはまるで私の手に頬ずりするように、私の手を自分の頬において、その手を自分の手で覆った。
「一番不可解なのは、そのにおいだ。」
「に、におい??」
「何故いつもそんなにいい香りがする?」
「な、何言ってるんですか。伊月さんだっていつもヒノキのお香のいい匂いますよ。」
「私のは香のにおいだが、那美どのは那美どのの香りだ。」
「ど、どんな香りですか? もしかして、くさい、とか?」
私は慌てたように言った。
「ははは。とんでもない。花のような甘い匂いだ。」
私は自分の耳が熱くなるのを感じた。
伊月さんがいよいよ眠そうな目をする。
私は伊月さんの頬に置かれた手で、そっと伊月さんの顔を撫でた。
「もう寝て下さい。疲れているでしょう?」
「そうだな…布団を…向こうに…」
「もう、いいです。ここで寝て下さい。」
伊月さんは素直に目を瞑った。
「那美どのといると気が緩んでしまって…」
眠そうな伊月さんの髪を撫でていると、やがて、すやすやと寝息が聞こえ始めた。
―― この寝顔を見るの、とても幸せだな。
私も、伊月さんの頭を撫でながら、いつの間にか眠りに落ちていた。
―――
朝起きたら、もう伊月さんの姿がなかった。
仲居さんが言うには、
「先に行って準備しなければならないことがあるから、あとでお供の方を迎えにやるということでした。ゆっくり朝餉を食べて準備していてよいとおっしゃってましたよ。」
「そうなんですね。ありがとうございます。」
「ところで、これを私にお預けになりました。」
仲居さんは私に布に包まれたものを渡した。
「昨日、あなた様がお支払いなされたお部屋の追加料金をお返ししたいと。」
「もう、良かったのに…」
「ふふふ。妻は気丈な女だから私がやっても受け取らんので頼むと仰っていました。」
―― 今更だけど、お芝居だって分かってるけど、妻って響きがむずがゆい。
「それと、これも。」
仲居さんは私の手をとって、小さな箱を手渡した。
「これは?」
「これも私から渡してほしいと頼まれました。夫婦喧嘩の仲直りのしるしだそうですよ。」
そういって、仲居さんはニコニコしながら朝食の準備をしてくれた。
箱の中を開けると、桔梗の形をした髪飾りだった。
花弁は薄い紫色の石でできていて、その真ん中にはキラキラと光る雷石が一つはめられている。
―― わぁ綺麗。
箱の底に小さく折りたたまれた紙が入っていた。
開いてみると、『那美どのの髪に合うかと思って。』と、書かれている。
―― 伊月さん…
嬉しくて、思わず、髪飾りをキュッと胸に抱きしめた。
「本当に仲睦まじいご夫婦ですね。微笑ましいです。さぁさ、朝餉をお召し上がり下さい。」
仲居さんが用意してくれたご飯も食べ終え、旅装に着替えていたら、びっくりした。
首元に、真っ赤な跡がついている。
「あ、あの時の!」
私は昨日湯殿で、沢山伊月さんにキスされたとこを思い出した。
―― こ、これって、キスマークってやつ??
初めてのことに鼓動が高鳴る。
鏡でまじまじと見ると、昨日のことが生々しく思い出される。
どうしよう。恥ずかしすぎる。
―― でも、嬉しい気もする。
でも、人に見られるのはすっごい恥ずかしい!
私は着物の襟でしっかりと隠した。
準備万端になったころに、平八郎さんが迎えに来てくれ、仲居さんにお礼を言って、宿を後にした。
宿場町の出入り口の門には護衛隊の人たちが集まっていた。
出発の前に伊月さんが、今日はどこにも泊まらずに今夜そのまま都入りすると言った。
「今日の道行きは少し長くなるが都は近い。もう少しだ。」
ここ宇の国は都に近いこともあって、貴族たちが行くような施設が沢山ある。
行く先々で神社仏閣のような宗教施設も沢山あったし、花街のような遊興地もあった。
山があっても良く整備されていて、牛車が通れるくらいの道が整えられている。
建物も大きくて綺麗なものばかりだ。
でも、一歩そういう場所から出ると、農村や市中には飢えに苦しむ人たちもいた。
物乞いや、病に倒れていて動けない人がたくさんいる。
殺伐とした雰囲気に羅生門の小説を思い出した。
―― この辺では籠から出してもらえそうにないな。
伊の国で景色を楽しみながら、のんびり歩いたのが懐かしい。
「那美様、お暇でしょう? 私でよろしければお話相手になりますよ。」
清十郎さんが籠の外から話しかけてくれた。
私としては清十郎さんのことも色々と知りたいのだけど、清十郎さんは忍なので、出自とか色んなことが謎に包まれているし、きっと聞いても答えてはくれない。
「じゃあ、また伊月さんの武勇伝を聞かせてくれませんか?」
これを皮切りに、また、籠の周りの人が集まって、「伊月さんの強さが尊い会」の会合が始まった。