伊月が平八郎を連れて城に出掛けている間、留守番をしていた源次郎のところに、堀と八咫烏が連れだってやって来た。
「主は平八郎と一緒に城に行っていますよ。」
源次郎が二人につげると、堀と八咫烏は顔をみあわせ、うなずきあった。
「好都合だ。」
そういって、二人とも客間に陣取ったので、源次郎はお茶を入れる。
武術大会が落ち着いてから、この三人は隙があれば集まって、那美と伊月について話し合っている。
堀と源次郎は、二人の関係を円滑に勧め、なんとか縁談にまで持っていきたいと思っている。
二人はこれまで浮いた話の一つもなかった主人の世継ぎ問題を気にしていたのだが、運命的な出会いから、相思相愛になった那美と結婚してくれれば将来の懸念も減る。
一方、八咫烏はそういったことには全く興味がないけれども、伊月をからかうネタが欲しいのと暇を持て余しているので、よく、この二人の「那美と伊月を応援する会」に参加している。
「近頃、平八郎の様子はどうだ?」
堀が心配そうな顔をして切り出した。
今日の議題は那美と伊月ではなく、平八郎だった。
「平八郎は、あの、翼竜退治の時に、殿の愛の告白を一部始終聞いておったそうだな?」
「そうなのですよ。あの間も、あの後も、平八郎はしばらく抜け殻のようにしておりました。」
八咫烏は茶をすすりながらニヤニヤしている。
「まさか、あの伊月がそんなことをするとはなぁ。」
「殿はやる時にはやる男だ! 今まで気になる女子がいなかっただけで…。とにかく殿は漢だ!」
八咫烏は堀の主張を鼻で一笑した。
「いやいや、あいつの堅物ぶりはこれからも続くと思うがな。これから平八郎とひと悶着などあると、なお面白いのだがなぁ。」
「それは、ありえませんね。平八郎は横恋慕などするやつではないですよ。」
源次郎が即座に応える。
「そうなのか?」
八咫烏はどこかつまらなさそうに言った。
「あいつは、どこか間抜けたやつだとは思っていたが…。自分の恋心に気付きもせずに、初恋が終わったようだな。」
堀が苦笑いをしながら言ったが、それを聞いて八咫烏はガハハハッと笑った。
「平八郎の天然自然にボケたお人好しなところは、どことなく那美と似ているな!」
「あ、確かにそうかもしれませんね。」
源次郎はそう言いながらも、少し心配そうに言った。
「平八郎は那美様のことも慕っておりますが、主のことも慕い、敬愛しておるので、まあ、納得せざるを得なかったのかと。」
堀も大きく頷いて言った。
「それに、あのお二人の幸せそうなご様子を見れば、誰も間に入る隙はないだろうな。」
八咫烏は面白くなさそうに舌打ちをした。
「俺も本気で那美を狙っていたのだがなぁ。」
八咫烏は畳の上にゴロンと寝転がった。
「何というか、那美の、俺を見る目が白々しいというか、『無』なんだよなぁ。抜け殻のような目で俺を見るのだ。伊月には熱烈な視線を送るのに!あのような悪鬼顔、どこがいいのだ!」
「何だ、お前も嫉妬か?」
「まぁ、普通、女人は八咫烏と主が並んでいたら、八咫烏に行きますからね。」
源次郎が暗に那美の不思議な趣味を指摘する。
「堀様、平八郎に女子を紹介して下さいませんか? 私も何人かに会わせてみます。」
「ああ、そうしよう。 八咫烏、お前も女を平八郎に会わせろ。」
「馬鹿を言え。俺に寄ってくる女は俺を目当てに来ているのに、そういう女を他の男に紹介すれば、俺が恨まれるぞ。女の恨みは怖いからなー。」
何か過去の事を思い出したのか、ブルブルと八咫烏は身震いをした。
「まぁ那美様も雷を落としましたからね…。」
ポツリと源次郎が言って、堀もやはり女は怖いなとつぶやいた。
「ところで、都行きの件はどうなった?」
堀が話を変えて質問すると、源次郎は嬉しそうな顔をした。
「主は浮かれていますよ。」
八咫烏がガバっと畳から起き上がった。
「浮かれている伊月という物が全然想像できん!」
「ずっと口元が緩んでおります。護衛隊の編成も、都までの道筋や、宿の手配も、ニタニタしながら計画しております。」
「うわー、俺はそれは見たくねぇな。」
そう言って、また八咫烏がバタリと畳の上に大の字に倒れこんだ。
「都行きの道中では那美様とずっとご一緒できるのだから、浮かれるのも仕方ないだろう。」
堀がうんうんとうなずきながら言った。
「主は今、内藤の件でお忙しいし、生田からの尾行の件もあり、那美様とは最低限しかお会いになりません。この、都行きを機会に、もっと進展して欲しいものです。」
「尾行されているのか。面倒だな。生田は殿と那美様の関係を探っているのだな?」
「そうです。先日、主と那美様と三人で城下に飯を食いに行きましたが、その時もつけられていました。」
「まぁ、どうせ、その尾行していたやつらは今ごろ清十郎が…」
「その通りです。」
八咫烏はゴロンと寝返りを打って、源次郎の方を向く。
「それにしても、伊月と那美の逢瀬にお前が一緒だったのか? 野暮な奴だなー。」
「し、仕方ないではありませんか! 主の護衛なのですから!」
「那美様にも尾行がいるのか?」
堀が声をひそめて言った。
「おりましたが、誰かさんがおっぱらったようですよ。」
そう言って、源次郎は寝転がっている八咫烏を見た。
八咫烏はきまり悪そうにゴロンと寝返りを打ち、源次郎に背を向けた。
「伊月が酒をおごるというので仕方なく協力しただけだ。」
そこに家の戸が開き、伊月と平八郎が帰って来た。
「何だ、そなたら、また来ていたのか。最近やけによく来るな。」
伊月は訝し気に眉をひそめた。
「あ、殿、お願いがあります。今夜、平八郎をお貸し願いませんか?」
「それは構わぬが、何をする?」
「平八郎に会わせたい者がおりまして。」
伊月はより一層眉をひそめ、「良からぬ遊びを教えるなよ。」と、だけ言って自室に入って行った。
この日から、堀と源次郎が平八郎にやたらと女を会わせるようになった。
いよいよ都へ出発する前日になった。
―― そろそろ準備しないと!
都に行くのには結構時間がかかる。
基本、徒歩で行くので、順調にいくと、片道で3、4日くらいだそうだ。
―― 行って帰るだけで8日くらいかかっちゃうな。それに加えて、都での滞在は3日間くらいだって言っていたから、多く見積もっても2週間はみておかないと。
2週間分の教材やら、レッスンプランやらは、もう作ったから、あとは荷造りだけだな。
―― とは言っても、あんまり荷物がないや。
私は持って行こうと思っていた服を畳の上に並べた。
―― 皇帝に会う時は向こうが礼服を用意してくれるらしいし、あとは動きやすい普段着と寝巻くらいかな。
旅行は正直言って楽しみだ。
私はタカオ山と亜国の城下町くらいしか行ったことがないから、ここを出た世界がどうなっているのか知りたい。
でも危険も多いと聞いた。
盗賊も出るし、魔獣も出るし、あやかしも出る。
タカオ山周辺で見るあやかしたちは、皆オババ様を恐れているから、人に悪さはしないけど、一歩この当たりを出れば、悪いあやかしもいると聞いた。
「しかし、人間もそうだが、あやかしも、見た目では、判断してはいかぬぞ。」
と、オババ様が、旅行が決まった時に私に言った。
「見た目が凶悪そうだからといって悪いあやかしとは限らん。ただ、あやかしは本能のままに生きておるから、人間の常識とは違った行動をすることが多い。それでも悪意がないものが多いのじゃ。」
「本能のままに生きているっていうのは、夕凪ちゃんや八咫烏さんを見ててわかります。」
私がクスクス笑って言うと、オババ様もうなずいた。
―― でも一番本能のままに生きているのはオババ様のような気もするけどな。
「でも、悪意があるかどうか、見分けるコツみたいなのはありますか?」
「オヌシのことだ。悪気を感じれば、すぐにわかるさ。」
私は、内藤のまとっている、黒く渦巻くような気を思い出した。
―― きっと、ああいうのだろう。
私はオババ様を見て、大きくうなずいた。
治安の悪いタマチ帝国での旅は少しの不安がある。
―― でも、
伊月さんが、「那美どのは私が守るから心配するな」って言ってくれた。
本当にカッコよくて、頼もしい、私のスーパーヒーローだ。
思い出して、思わずニヤついてしまう。
「那美ちゃん、何、ニヤニヤしてるの?キモイよ。」
「ぎゃー!夕凪ちゃん、いつからいたの!びっくりした。」
荷造りと伊月さんのことを考えるのに夢中になってたら、急に夕凪ちゃんに声をかけられてびっくりした。
「さっきから声かけてたのに、一人でニヤニヤしてて妄想の世界に入ってたから…」
「うっ...ごめん。」
「どうせまた伊月さんのこと考えてたんでしょ?」
「そ、それは・・・」
「それよりも、これ、あげる。」
「これは何?」
夕凪ちゃんは私に小さなお守り袋をくれた。
「道中、狸に化かされても、すぐに暴くことができるお守りだよ。」
「そんなのあるの!? すごい! ありがとう! 都のお土産買ってくるね!」
「うん! 期待してる!」
_______
そして、いよいよ出発当日、早朝。
まだやっと日が昇り始めたころ、タカオ山に伊月さん率いる護衛隊が迎えに来てくれた。
―― す、すごい数!
籠を持つ人達、馬を引く人たち、 荷物を持つ人たち、全部で20人くらいいる。
その中に平八郎さんと清十郎さんもいた。
そして、伊月さんも今日はいつもと違う旅姿で笠をかぶっている。
「お、おはようございます! よろしくお願いします。」
皆に頭を下げると、護衛集団も頭を下げてくれる。
平八郎さんが私の荷物を預かってくれて、荷物を全部、馬の背に乗せてくれた。
「あの、こんな人数で行かなければ危ないんですか?」
私はお見送りのために頑張ってボサボサ髪のまま早起きして来てくれたオババ様に耳打ちした。
「まぁ、こんなもんだ。これでも少ない方じゃ。」
伊月さんが馬から降りて、籠に乗るように促す。
「オババ様、夕凪ちゃん、しばらく会えなくなるので寂しくなります。」
「那美ちゃん、無事でね! 都に着いたら、文をちょうだい!」
「うん! ありがとう、夕凪ちゃん!」
「那美、その護衛隊が危ない目に合ったら、ちゃんと助けてやれよ。」
「ええと、それって立場が逆じゃ・・・。」
「おっと、忘れておった、こいつを持っていけ。」
オババ様が私に渡したのは短刀だった。
「自分の身は自分で守らねばならない、ということもあるが、それは御神刀じゃよ。悪いあやかしが来たらこれを振りかざすと一目散じゃ。」
「おぉー。すごい! ありがとうございます!」
「それから、こいつを連れていけ。」
そういってオババ様が木の上を指さすと、木の枝に止まっていたカラスが一羽舞い降りてきて、私の肩に止まった。
「オ、オババ様、なぜ八咫烏まで!」
伊月さんが抗議の声を上げる。
―― あ、やっぱり八咫烏さんなんだ。
なんだか、カラス姿の八咫烏さんが可愛くて、思わず頭を撫でた。
「飛べるやつがおったら何かと便利だろうが。」
伊月さんは渋々「確かに…。よし、こき使ってやる。」と言った。
私は八咫烏さんを肩に乗せたまま、籠に乗り込む。
「オババ様、夕凪ちゃん、行ってきます!」
「無事で行ってこい!」
「いってらっしゃい!」
伊月さんが出発の号令をかけ、護衛隊は動き出した。
籠の簾はあけ放たれている。
あけ放たれた簾から、夕凪ちゃんとオババ様が見えなくなるまで、手を振った。
もう少しでタカオ山を出るという所までくると、羽音をならせて、一匹の鳩が籠にとまった。
「吉太郎! お見送りに来てくれたの?」
「そんなんじゃない。土産の催促に来た。帰りに伊国の鳩まんじゅうを買って来いよ。伊国にはうまい物がたくさんあるからな。」
「わかったよ。お見送り、ありがとう。」
「見送りではない! とくにかく、気を付けて行ってこい! 無事に、早く帰って来い。」
それだけ言って、吉太郎はさっさと飛び立ってすぐに見えなくなった。
「全く、素直じゃないやつだな。吉太郎は。」
カラス姿の八咫烏さんが言った。
「夕凪ちゃんと話してたけど、吉太郎はツンデレなんです。」
「ツンデレ? それは何だ?」
「表面的な態度はツンツンしてて冷たいけど、本当は優しくてデレデレな部分もあるんです。」
「ほう…。」
「夕凪ちゃんが言ってたけど、吉太郎は、とあるメス鳩と一緒にいる時にはすごくデレデレしているそうなんです。可愛いですよね。ふふふ。」
「そうか…ツンデレか。面白い言葉だな。」
八咫烏さんはカラス姿で表情がよくわからないのに、何か人の悪い笑いを浮かべたような気がした。
「何か企んでます?」
「…別に」
八咫烏さんは、それから、俺は寝ると短く言って、籠の隅の方で目をつむった。
カラス姿で寝ている八咫烏さんはますます可愛い。
―――
タカオ山を出てしばらく経った。
私は先頭を黒毛を引きながら歩く伊月さんの後ろ姿をこっそり見た。
―― 旅装束の伊月さんも颯爽としててカッコいいな。
私の視線に気づいたのか、伊月さんは振り返り、目が合った。
そのまま歩みを緩めて、籠の横に来てくれる。
「那美どの、旅路は長い。歩きたい時は歩いていいし、疲れたら籠に乗ってもいい。馬に乗りたい時はそう言うといい。ただ、於の国は治安が悪いので、於の国では籠の中にいてほしい。」
「はい、ありがとうございます。あの、伊月さん…。」
「何だ?」
「大きい声で言えないんですが…。」
私がそう言うと、伊月さんは少し近づいて、耳を寄せてきた。
「旅装の伊月さんも、すごくカッコいいです。」
「なっ…」
伊月さんは一瞬かたまった。
「何を言うかと思えば、そのような能天気なことを!」
「すみません。でも抑えきれなくて。」
その時、「はぁぁぁああああ。」と、盛大なため息が聞こえた。
「お前ら俺の前でイチャイチャするな!」
カラス姿の八咫烏さんだった。
―― あ、忘れてた。
「す、すみません。」
伊月さんもバツが悪そうに、「八咫烏まで籠に乗らんでもいいぞ。」と言い捨てて、隊の前に戻って行った。
「あ、行っちゃった。」
「あいつも、たいがいツンデレだな。」
八咫烏さんがボソっと言った。
「そ、そうですか? 伊月さんはずっと優しいですよ?」
「はぁ?」
八咫烏さんは私に白い目を向けて、「お前の頭の中はお花畑だな。」と言った。
やがて、伊月さんの護衛隊は市街地を抜けた。
人が見えなくなり、畑すらもなくなり、ただただ野山が広がっている。
夏の盛りで鮮やかに萌える緑の山野の上には青く澄み渡る空が広がっている。
―― 綺麗だな。
しばらく夏の景色を堪能して、手持ち無沙汰になったので体を動かしたくなった。
「あの、歩いてもいいですか?」
籠を運んでいる人達に聞くと、私を籠から下ろしてくれた。
私が籠から降りると、八咫烏さんは、こんなチンタラ行く行列は飽きた、と言って、どこかに飛んでいってしまった。
私が歩き出したのを見て伊月さんが自分の近くに来るように手招きをした。
嬉しくて思わず伊月さんに駆け寄る。
「籠の中は飽きたか?」
「少し。体を動かしたくなりました。この辺は、のどかな所ですね。」
「ああ。この辺は伊の領地との境目だ。しばらくはこの景色が続く。」
「綺麗な景色です。」
「今日は伊の国を横断して、於と伊の国境あたりで宿をとる予定だ。」
「尽世での旅行は初めてなので、ワクワクします。でもちょっと気になることがあって。」
「どうした?」
「八咫烏さんです。やけに大人しいっていうか。ずっとカラス姿だし。」
「私の予想ではオババ様に何かの任務を言い渡されたのだ。」
「任務?」
伊月さんは眉根を寄せて、ふいっと前を向いて行った。
「気にするな。好きにさせておけばよい。それよりも、向日葵は好きか?」
「向日葵ですか? 好きですよ!」
「もう少し行くと、向日葵畑がある。その辺で休憩を取ろう。」
伊月さんの言った通り、しばらく歩くと、休憩にちょうどよさそうな広場があった。
大きな欅の木が立ち並び、並木道っぽくなっている。
小川も流れ、向日葵の畑もある。
観光スポットなのか、旅行者たちがちらほらいて、大きな欅の下で休憩している。
「わぁー綺麗ですね!」
私は青空の下で満開に花を咲かせている向日葵を見渡した。
「行ってみたいか?」
「いいんですか?」
「構わぬ。」
伊月さんはそういって、護衛隊には、小川の近くで休憩をするように言いつけた。
皆が小川で水を汲んだり、おにぎりを食べはじめるのを見届けてから、二人で向日葵畑の方へと歩き始めた。
「わぁ、近くで見ると、すっごく大きいですね!」
向日葵畑に入ると、私よりも背が高い花たちに囲まれる。
花は私の顔よりも大きい。
鮮やかな黄色が青空に映えてとても綺麗だ。
「伊月さんって、向日葵よりも背が高いんですね!」
「私は六尺二寸あるからな。」
後ろを歩く伊月さんを振り返って見て、改めて伊月さんの背の高さに驚く。
六尺二寸って、多分190cmくらいだ。すっごい高い。かっこいい。
「伊月さん、ちょっと、待って下さい。そこで止まって下さい!」
向日葵の花に伊月さんの顔が隠れて、着物を着て歩いている向日葵のお化けみたいに見えた。
「あはは!」
「こら、笑うな。」
伊月さんはあきれたように言って、不意に私を抱き上げた。
「きゃ。」
子供が大人に抱えられるように、だっこされて、伊月さんと目線が一緒の高さになる。
向日葵の花より少し上の目線だ。
「ここから見る眺めもなかなかだぞ。」
「わぁ。」
今度は、私がさっきまで見上げていた花を見下ろす形になる。
どこまで見ても黄色の花弁が揺れていて、それ以外に見えるのは青い空だけだった。
「背が高いと、世界が違って見えるんですね。」
私は感動して花畑を見渡した。
次の瞬間、伊月さんは、そっと私を地におろして、私を自分の背中に隠した。
そして、すっと刀の鞘に手を置いた。
―― な、何?
「何か気配がする。」
伊月さんがそう言って目線をやった方向を見ると、向日葵がガサガサと動いている。
しばらく見守っていると、花の間から、人が現れた。
綺麗な着物を着て黒くて艶々の垂髪の女性だった。
―― すごい綺麗な人だな。
「すみません、お侍様、この辺に川か井戸はありませぬか? 飲み水を探しております。」
「小川ならあちらにまっすぐ行くと良い。」
伊月さんが指をさすと、その人はお礼を言ってそちらの方向に歩き始めた。
こんな豪華な着物の女性が一人でこんな所で何しているんだろうと思った瞬間、その女の人は、きゃぁと小さく悲鳴を上げ、地にしゃがみこんだ。
「だ、大丈夫ですか?」
私が慌てて声をかけると、その人は私のことをガン無視して、今にも泣きそうなウルウル目で伊月さんを見上げた。
―― え?
「足をひねってしまったようです。 もう歩けませぬわ。」
「…仕方ない。おぶって行こう。」
伊月さんはため息をついて、地面に足をつき、女性に背中を見せた。
私はその時、その女の人がニヤっと笑ったのを見逃さなかった。
―― 絶対わざとだ!
女性はいかにも弱々しそうに伊月さんの背中に体を預けた。
―― うわーなんか、演技がむかつく!
「那美どの、すまぬ。このまま皆の所まで戻ろう。」
「…はい。」
―― この人、伊月さんの優しさを利用して、何するつもり?
私は警戒しつつも、女性をおぶって歩き始めた伊月さんの後を歩く。
「このような所で、女人一人で何をなされている?」
伊月さんが女性に声をかけると、仲間と別れてしまって、探しているのだと、言う。
さらに、「一人になってしまって、どうしていいのかわからなくて…」などと、いかにも泣きそうな声を出して、伊月さんの背中に頬をすり寄せた。
―― な、な、何なの!!
イラつきながら後ろを歩く私のことは、ここにいないも同然のように眼中にないらしい。
やがて皆の姿が見えると、平八郎さんが私達に気付いて、手を振ったので、私も手を振り返した。
この嫌な感じの女性の近くにいたくなくて、私は思わずそのまま平八郎さんの方に走って行った。
「な、那美どの?」
伊月さんが私の名前を呼んだけど、知らない。
私のイライラは結構ピークに達している。
ようやく、伊月さんが小川の近くで女性をおろすも、その人は伊月さんの袖をつかんで引き留めた。
そのまま何やら話をしている。
―― もう、知らない!
「な、那美様、大丈夫ですか?」
むくれている私の顔を平八郎さんが覗き込んだ。
「大丈夫です!水を飲んできます!」
そう言って、私は小川の下流の方にかけて行った。
竹の水筒に水を補給して皆の所に戻っていくと、護衛団の皆と談笑しているさっきの美女が見えた。
護衛団の皆はその美女にずいぶん見惚れているみたいで、へらへらしている。
―― 確かにきれいだけど、あの人は同性から嫌われるタイプの女性だよね!
私は、フン、と鼻をならした。
そして、その美女を囲むようにできた護衛隊の輪の中に伊月さんや清十郎さんがいないことに気付く。
―― あれ? 伊月さんはどこに行ったのかな?
そう思った時、目線の先の美女の体に重なって、うっすらと何かが見えた。
―― ん?
もう一度よく目を凝らして見ると、その美女と重なってタヌキが見える。
「あ、あの人、化けダヌキだ!!」
「やはり、そうか。」
「ぎゃー! んんん!」
いきなり後ろから声をかけられて、びっくりして叫びそうになった私の口を、押さえられた。
「しー。私だ。」
伊月さんだった。
そのまま伊月さんは私を皆から見えない岩陰に連れて行き、ようやく手を離した。
「び、びっくりしたじゃないですか!どこにいたんですか?」
「そなたを探していた。」
ふう、と私は一息ついた。
「おどろかせてすまなかった。」
伊月さんはポンポンと私の頭をなでながら、岩陰から化けダヌキが扮した美女と、その人を取り囲む護衛隊を覗き見た。
「しかし、よく化けダヌキと気づいたな。どう見ても人間にしか見えぬ。」
「これのおかげかな。」
私は夕凪ちゃんからもらったお守り袋を、帯の隙間から取り出して、伊月さんに持たせた。
「おぉ、これを持っておると、タヌキが見えるぞ!」
「やっぱり、これのお陰だったんですね。」
―― 夕凪ちゃんに感謝だな。
「なんと!男のタヌキだったのか!どでかい二つのアレまで下げているな!」
「そ、そんな所まで見なくていいじゃないですか!」
伊月さんは私にお守り袋を返すと、はぁと、大きなため息をついた。
「あれが私の背に乗っていたのか…」
と、言って、顔を青ざめさせて、身震いした。
「タヌキでも女だったらよかったんですか?」
「いや、そういう意味ではない!」
伊月さんは慌てて私の手を取った。
「そ、それより、今はあのタヌキを何とかせねば。」
「そ、そうですね。」
「大方、我らをだまして、荷物でも盗む気だろう。殺気は感じられぬ。」
「ど、どうしましょう?」
「荷を確認しに行こう。」
そう言って、私たちは馬をつないでいる所に行ってみる。
荷物の見張りをしている護衛隊の人に、さっきの女性と似たような着物の美女が話しかけている。
「やはり仲間がいたな。見張りと他の奴らを女で引き付けて、別の仲間が荷を盗む魂胆だな。」
伊月さんは小声で私に囁きつつ、向日葵畑の方を指さした。
「あ!」
花畑の陰にタヌキが3匹隠れているのが見えた。
全部で5匹だ。
「それにしても、男の人って美女に弱いんですねぇー、皆あんなにニマニマして。」
「ん…。鍛えなおさなければいかんな。」
伊月さんは舌打ちをした。
「那美どの、平八郎に、さっきの女を取り押さえるように言ってもらえぬか? 私はこっちの4匹を相手する。」
「わかりました。」
頼む、と言って、伊月さんが岩陰から出て行き、荷物の見張りと話している女性に向かって歩いて行った。
私も、他の護衛隊の人たちが集まっているところへ行き、平八郎さんを探した。
「あ、那美様!」
平八郎さんが私を見つけて、小走りにかけてきた。
「探しましたよ。主のお姿も見えないし。」
「平八郎さん、あの女性、化けダヌキなんです。」
「え?」
「皆の気をひいて、他の仲間のタヌキが荷物を盗もうとしていて、伊月さんはそっちを懲らしめています。あの女性を取り押さえるようにと言ってました。」
私が早口で事情を説明すると、平八郎さんは急いでさっきの女性に化けたタヌキの所に行き、皆に向かって叫んだ。
「その女をとらえよ! 盗賊の一味だ!」
「な、何?」
護衛隊の皆は抜刀して構える。
女は険しい顔をして、「よくも!」と叫んだ。
その瞬間、女の頭から角が出て、口から牙が出た。
「お、鬼だ! 般若だ!」
護衛隊の皆が少しひるんだ。
「違います!化けダヌキです!鬼じゃありません!」
私が叫ぶと、皆は、ハッとしたように、平静を取り戻し、般若顔の元美女にかかっていった。
平八郎さんはすぐさま「お前たちは荷物の確認と、主の援護を!」と言って数人を伊月さんの方へ送る。
そこに、さっきまで全然姿が見えなかった清十郎さんがどこからともなく現れた。
「那美様は私がお守りいたします。」
清十郎さんが言った。
「伊月さんの方に化けダヌキが4匹いました。」
「じゃあ、そちらに行きましょう。こちらはもう、かたがつきそうです。」
般若顔の元美女はとらえられて、ついに本当のタヌキの姿を現したみたいだった。
「うげー、こんな爺ダヌキだったのかー」と、皆が叫ぶのを聞きながら、私たちは伊月さんの方へと向かった。
「うわっ!」
護衛隊の人たちが女性に化けたタヌキと、他のタヌキ2匹を取り押さえていたけど、残りの一匹が、巨大な小入道に化けて暴れまわっている。
周りにいた旅行者たちも大慌てで逃げ惑って、パニック状態だ。
―― あれ、伊月さんはどこ?
そう思った瞬間、急に、そこにあった、欅の大木がガサガサと揺れた。
「うぉおぉおぉ!」
と、叫び声が聞こえ、声の方を見上げると、その欅の高い位置にあった木の枝から、伊月さんが飛び出てきた。
伊月さんの体はそのまま宙を舞いあがり、小入道の頭めがけて刀を振り下ろした。
―― い、伊月さんが飛んでる!!!
ゴン!!!!!
と、すごい音がして、伊月さんの刀は小入道の額に命中した。
その瞬間、小入道の体から煙が出て、小入道が小さなタヌキの姿になった。
伊月さんはしっかりきれいにシュタッと着地して、優雅に刀を収めている。
「逆刃で打っただけなので死んでいませんよ。」と、ハラハラしている私に清十郎さんが教えてくれた。
さっきの般若顔の元美女のタヌキを捕まえた他の護衛達の人たちも皆こちらに駆けつけてきた。
伊月さんが気絶して伸びている小入道のタヌキの首根っこを掴んで持ち上げると、まわりにいた旅行者も護衛隊の人たちも、皆が歓声をあげ、伊月さんに拍手を送った。
「おい、起きろ!」
伊月さんがタヌキの頬をペチペチと打つと、タヌキは目覚めた。
「ぎゃー助けて下さい!私たちが悪かったですーーー!」
と、涙目で手足をばたつかせた。
「それでは盗んだ物を全て返すように、そなたの仲間に言うのだ。さもなくばそなたをタヌキ鍋にして食ってやるぞ!」
「か、勘弁して下さい! お、お前ら―全部返せ!」
護衛隊の人たちに捕らえられていたタヌキたちが、それを聞いて、一斉に体をブルブルと震わせはじめた。
―― な、なに?
すると、タヌキたちの立派な二つのアレの間から、じゃらじゃらと色んなものが落ちてきた。
「ど、どこに隠していたんだ...」
伊月さんがゲッソリとした表情をした。
「あ、これは私の財布です!」
タヌキのあそこから落ちてきた物を見て、平八郎さんが叫んだ。
「あ、私の財布も! 印籠も! いつの間に!」
護衛隊の人たちや旅行者の人たちの物がずいぶんとスラれていたようだった。
皆はウゲーと言いながらも渋々自分の持ち物を拾った。
「ど、どうか、御勘弁をー。もう二度としません。」
タヌキは涙目で訴える。
「神に誓えるか?」
尽世では神に誓うというのは一大事だ。
この世では神がわりと身近にいて、神の怒りを買うと、本気で天罰が下る。
自分から神にした約束、神への誓いは絶対守らないと、何が起こるか分からない。
「ち、誓います!」
「よし、では、ここにいる、雷神の巫女、に宣告せよ。」
伊月さんはタヌキの首根っこを持ったまま、私の方に向けた。
「ら、雷神に誓います。もう二度と人の物を盗みませぬ!」
タヌキは震えながら言った。
―― ちょ、ちょっとかわいそう。
可愛いタヌキたちを見ると胸が痛むけど、盗みはやっぱり、ダメだよね。
伊月さんはタヌキを下すと、皆に捕らえていた他のタヌキたちも離すように言う。
「行け。」
そういうと、タヌキたちは一目散に逃げて行った。
旅行者たちはまた歓声を上げてパチパチと伊月さんに拍手喝采を送った。
―― やっぱり、伊月さん、カッコいい!
旅行者たちは伊月さん率いる護衛隊にお礼を言って、ひとしきり頭を下げて去って行った。
旅行者たちが去って行ってから、護衛隊の人たちは、全員、こっぴどく伊月さんに叱られた。
特に荷物の見張りをしていた人はひどかった。
「あの時、那美どのが化けダヌキだと気づいていなければ、大切な荷を全部持って行かれていたかもしれぬ。皆そろって鼻の下をのばしよって!」
皆は本当にすまなそうな顔をして、シュンとしている。
「そなたら、自分の顔を鏡で見たことあるか?」
―― へ?
この言葉には、私も含め、皆がきょとんとしていた。
「そもそも、あの女が本当にそなたらと仲良くなりたくて純粋な気持ちで近づいたと思ったのか?そなたらがよほどの美男子でない限り、そなたらのような男に進んで寄って来る女は何かたくらみがあると思え。」
―― そ、そんなぁ。それはあまりにも自虐的じゃ?
普通に仲良くなろうとして近寄ってくる女性もいるはずだよ、とは思ったけど、皆は「確かに…」と納得している。
「まぁ、そのくらい警戒を怠るなということだ。任務中は特に、だ!」
「は!」
皆は気を引き締めなおして、奪われかけていた荷物の点検などを始め、改めて出発の準備を始めた。
伊月さんは、「私は水を汲みに行く。」と、言って小川の方に歩き始めたので、私もついていく。
私は歩きながら、ずっと気になったことを伊月さんに聞いてみる。
「あのう、さっき、私が、あの人は化けダヌキだって言った時に、やっぱりなって言ってましたけど、伊月さんはいつ気が付いたんですか?」
「化けダヌキだと気づいたわけではなかったが、私に恐れを抱かず近づいてくる女人は十割あやかしと決まっている。だから、絶対人間ではないと思った。」
「え?」
十割って100パーセント人間の女性が近づいて来ないって自信があるの?
「若い時から幾度となく騙され...いや、今はそれはいいのだが。」
「ええぇ? 伊月さんが美女に騙された過去があるなんて!」
―― さっき皆に言ったことは自分の教訓でもあるってこと?
「だ、だから最初に那美どのにも人間かと聞いたのだ…」
「そ、そんな理由もあったんですか?」
といっても、私は美女じゃないけど。
びっくりしている私を他所に、伊月さんは小川で水を汲みながら、周りを見回した。
誰も見ていないことを確認すると、私の手を引いて、そっと、大きな岩の陰に入る。
そして、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「タヌキとはいえ、女子をおぶったので、怒っていたのだろう?」
「別に怒っていません。」
「怒っていると顔に書いてあった。」
「…」
私はそのまま無言で伊月さんをにらんだ。
伊月さんは、すまん、と言って、私をギュと抱きしめた。
そのまま私の後ろ頭をなでなでして、もう一度、すまん、と言う。
伊月さんがこんなに抱きしめてくれたのは、武術大会の後に月の峠に行った時以来だった。
さっきまで怒っていたのに、ぎゅーってされて、なでなでされて、嬉しさの方が勝ってしまう。
「も、もう、いいです。謝らないで下さい。…しょうがないです。」
化けダヌキだったとはいえ、女性があんなこと言って、むしろ助けない方が非情だって思うし。
それに私が怒っていたのは伊月さんに、というより、むしろあのタヌキに怒っていたのだ。
「許してくれるか?」
それなのに、伊月さんはシュンとした顔をして私の目を覗き込む。
―― どうしよう。かわいい。
「ゆ、許します。」
「良かった。」
「でも、自分が背負ったタヌキが男だったってわかって、ちょっとがっかりしていませんでした?」
「そ、それは、誰でもあのような物を背にからっておったと思えばぞっとするだろう!」
そう焦ったように言って、私の両手を取った。
「そういう那美どのも、今日は八咫烏とずっと一緒だったではないか。」
「へ?」
「何も考えずそなたの側でへらへらとしているあいつがどれだけ腹立たしいか…。那美どのもそんな八咫烏の頭をなでたり、やたらとあいつのことを気にかけたり…」
「い、伊月さん、もしかして、焼きもちですか?」
伊月さんは、私の手をキュッと握ったまま、顔を赤くして、目をそらした。
―― どうしよう。すごくかわいい。
「焼きもちやくのって私ばっかりだと思ってましたけど…。伊月さんも焼きもち焼くことってあるんですか?」
「…ある。」
少しすねたようにそう言った伊月さんが愛おしすぎて、私はたまらず自分から伊月さんに抱きついた。
「な、那美どの?」
「ヤバい。心臓爆発します。キュン死します。」
「だ、大丈夫か? 胸が痛いのか?」
「伊月さんが好きすぎて胸が痛いってことです!」
「な…!!」
伊月さんは意味がわからないと言いながらも、私を抱きしめ返してくれた。
「わ、私も謝ります。カラス姿だったので、思わず頭をなでてしまいました。」
「ゆ、許さぬ。」
「え?」
―― どうしよう、相当怒らせたのかな?
私は心配になって伊月さんの顔をのぞきこむと、
「この償いは後でたっぷりもらう。」
と言って、ニヤリと笑った。
―― あ、本気で怒ってるわけではなさそうだけど、何か、嫌な予感。
「償いって...何をすればいいですか?」
「今夜、私と一緒に祭りに行ってほしい。」
「え?祭り?」
「まあ、宿に着いた時に、疲れていなければ、だが。」
いきなりの提案にビックリする。
「今夜泊まる予定の宿場町で祭りがあるのだ。」
「そういうことなんですね! それは行きたいです!」
「オババ様とも関係の深い神社での祭りだから、安心して良いだろう。」
「わあい! 楽しみです!」
久しぶりに伊月さんと一緒にゆっくり時を過ごせると思うと胸が弾んだ。
「良し」と言って、伊月さんは笑みを浮かべると、皆のもとへ歩き出した。
「でも、それって全然償いになってないですよ? 私も行きたいですから。」
「そうか、では別の方法で償ってもらわねばな。」
伊月さんはまた、ニヤっと悪だくみをするような笑いを浮かべた。
―― 余計なこと、言っちゃったかも…。
護衛隊は出発した。
休憩するはずだったのに、余計に体力を使ってしまう事態になってしまった。
それなのに、歩みのスピードは全然落ちない。
さすがに皆、鍛えられているって感じがする。
「あの、伊月さんって、この国で幼少期を過ごしたんですよね?」
ふと、今歩いているところが伊の国だということに思い至る。
「ああ。この辺は私の庭のようなものだ。」
とても懐かしいと言った声色で伊月さんが言った。
「幼いころはやんちゃでよく城を抜け出して色んな場所に行ったものだ。」
「ふふふ。やんちゃな伊月さんも可愛いでしょうね。」
私は思い切り、澄んだ空気を吸い込んだ。
「伊の国は綺麗ですね。」
「そうだな。災害が比較的少なく、自然豊かで、農業も、漁業も栄えている。」
伊月さんが言ったことは納得がいく。
どこを見ても自然が豊かだし、飢えている人などは、今の所いなかった。
だから、余計に他の国からも狙われちゃうんだよね。
「伊には海もあるんですね。」
「ああ。ここから随分南に行くが、ある。帰りはそちらを通って帰ろうと思っている。」
「わぁ。海、見たいな。」
「海も好きなのか?」
「はい。海も山も好きです!」
伊月さんは、ふっと笑った。
伊月さんが早くこの国に帰ってこれますように。
私はそっと、雷神にお願いをした。
しばらく歩いていたけど、さすがに足が痛くなってきて、籠に戻った。
―― 私のせいで行進が遅くなったら嫌だし。
もう何時間も歩きっぱなしなのに、皆、すごいよ。
私ももっと足腰が強かったら、ずっと伊月さんの横で歩けるのになぁ。
ふと見ると、私の乗っている籠のすぐ横にいる護衛の人が、少しシュンとした顔をしている。
「あのう、大丈夫ですか?」
「あ、はい。すみません。色々と反省していました。」
さっき、皆、伊月さんに怒られちゃったもんね。
「あんなに綺麗な女性が来たら気を取られるのも仕方ないですよ。」
私はクスクス笑いながら言った。
「主や清十郎様は、全然気にも留めずに、すぐにあの場を去られました。」
―― それは伊月さんには美女に騙された過去が...
「け、経験値の差ですよ、きっと…。皆さんはまだ若いし。」
私はよくわからないフォローをする。
「それに主はあの女人を背にからっている時にも仕切りに那美様を気にしておられましたよ。」
「そ、そうですか?」
その護衛の人は大きく頷く。
「主には色々とかないません。」
「あの…」
私はさっきから誰かと語りたくて仕方なかった話題を振ってみる。
「あの伊月さんの小入道との立ち回りもすごかったですよね?」
その人はさっきまでシュンとしていたのに、伊月さんの戦いぶりを思い出したのか、急に目を輝かせ始めた。
「はい、いつの間にか木の上におられて…!」
「あれはすごかったですよね!すっごい飛んでましたよね!」
「そうなんですよ! 自分の目を疑いました!」
「やっぱり、伊月さん、カッコいいですよね! あんなに大きいのにあんなに身軽だし!」
そこに、近くを歩いていた別の人も会話に入って来た。
「主は男でも惚れます! あんなに大きいのに、動きが速いですし! 大体あの木からどうやって飛び降りてきたのか...」
「そう! 動きが見えないんですよ。 速すぎて!」
「私には清十郎さんが解説してくれました!」
「ははは。那美様は主のことが本当にお好きなのですね。」
「あ、はい…。」
はしゃぎすぎていたことに恥ずかしくなって俯く。
「でも、そういう皆さんも、伊月さんのこと尊敬しているんですね。」
「はい。ここにいる皆は主の強さに憧れてついて来ております。」
「あのう、伊月さんの武勇伝とかありますか?」
「ありますとも!」
いつしか籠の近くを歩いていた人たち数人が集まってきて、伊月さんの武勇伝をいくつも教えてくれた。
私は伊月さんの武勇伝を聞く度に、キャーとかワーとか言って、一人で萌えていた。
この日はそのまま宿に着くまで、ワイワイとみんなで、伊月さんの強さが尊すぎるという話で盛り上がり続けた。
予定の宿場町には時間通りに着いた。
泊まる宿もきちんと手配されていて、着いてすぐに、部屋に案内される。
「疲れたか?」
伊月さんがそっと気遣ってくれる。
「疲れていません。お祭り行きたいです!」
「一刻後に迎えに行くからしばらくは休め。」
「はい!」
「私の部屋は隣なので何かあればすぐに呼ぶといい。」
「わかりました!」
沢山歩いたけど、タヌキの襲撃以外は拍子抜けするくらいに平和な旅路だった。
景色もきれいだったし、天気も良くて良かったな。
私は荷ほどきを済ませ、お茶を飲んでほっと一息する。
窓から外を眺めるとこの伊国の宿場町の様子が目に飛び込んで来る。
そこには食事処も酒屋もあって結構賑わっている。
亜の国の城下町とはまたちょっと違った雰囲気で、一人で出歩いている女性も多く見かける。
―― この辺の治安は亜国よりいいのかな
亜国の女性たちよりも警戒心が低い気がした。
―― ここに帰りたいんだな、伊月さんは。
少しゆっくりしていると、宿の人が湯浴みができることを教えに来てくれた。
―― せっかくだからお祭りに行く前に少し汗を流そうかな。
私は軽く湯浴みを済ませて、持ってきた浴衣に着替えた。
―― 夏祭りと言えば浴衣だよね。
準備が終わると丁度そこに伊月さんが迎えに来てくれた。
「那美どの、そろそろ準備は良いか? 祭囃子が聞こえてきたようだ。」
「はい。準備はできてます。」
私は待ちきれないというように慌てて部屋の外に出た。
―― あ、ヤバい。
伊月さんはいつも袴を履いてキッチリしているけど、今は着流しを着ている。
いつもよりずっとカジュアルな姿で新鮮な感じだ。
―― それもそれで、すごくかっこいい。好き。
「伊月さんは着流し姿もカッコいいんですね。」
思ったことがそのまま口をついて出てしまう。
「な、那美どのの浴衣姿も…」
伊月さんはその後を言い淀み、顔を赤くしてクルっときびすを返して私に背を向けた。
「い、行くぞ。」
そう言って歩き始めた伊月さんの背中を追う。
―― ふふふ。 伊月さん、照れてるっぽい。
町に繰り出すと、お祭りのせいか、さっきよりも人が増えている。
狐っぽい尻尾が着物から出ている人、というかあやかしも多い。
きっとお稲荷様の神社のお祭りだからだろう。
「あちらがその神社だ。鳥居が見える。」
私には人混みでよく見えないけれど、人よりも頭一つ背が高い伊月さんには神社の鳥居が見えてるらしい。
「私には人の頭しか見えません。」
「ははは。そうか。那美どのは小さいからな。」
そう言って、伊月さんは私の頭をポンポンと撫でた。
―― うっ
それだけで、自分の鼓動が速くなるのを感じる。
仲見世の通りに差し掛かると、さすがに人の混雑具合が尋常じゃないレベルになった。
伊月さんはそっと私の手を取って、指を絡めた。
―― こ、これはもしかして、恋人つなぎというやつ?
思えば、手を握ったり、キスしたりしたことはあるのに、手をつないで歩くのは初めてだ。
伊月さんの横顔を見ると、「何か食べようか」と、立ち並ぶお店を物色している。
私ばっかりドキドキしている気がしてなんだか、ずるい。
―― キュルルルルー
その時、何やら美味しそうな匂いがして、私のお腹が盛大に鳴った。
「す、すみません。」
恥ずかしさにうつむくと、伊月さんが笑って、あれを食べようかという。
伊月さんが指さしたものは、天ぷらみたいな物だった。
「あれは何ですか?」
「しらすを使った揚げ物だ。しらすじゃが揚げという。伊国の名物だ。」
「そうなんですか? 食べてみたいです。」
伊月さんは揚げたてのしらすじゃが揚げを買って、私に一つ手渡してくれる。
アツアツのそれは、パン粉っぽいもので揚げてあるからコロッケにしか見えない。
そっと両手でしらすじゃが揚げを半分に割ってみて、びっくりする。
「く、黒い!」
中には黒いフィリングが入っている。
「ジャガイモをすりつぶしたものと、しらすと、竹炭が入っているのだ。」
「竹炭が? 珍しいですね。」
一口かじってみると、ほくほくのポテトとしらすの味がマッチしていて優しい風味が口の中に広がる。
「んー美味しいです!」
「伊の国にはうまい物が沢山ある。まだまだ食べるぞ。」
「はい!」
伊月さんは故郷の味を久しぶりに食べたいのか、堪能する気満々だ。
私も伊月さんの好きな物や、伊月さんが子供の時に慣れ親しんだ物をしれるのは嬉しい。
伊月さんと私は、仲見世通りを隈なく歩き、伊国名物を色々と食べた。
中でも美味しさがダントツだったのは、焼きそばだった。
この焼きそばは宮焼きそばと呼ばれているらしい。
普通の麺よりもコシがあって、独特の歯ごたえだ。
絡めたソースの上から、イワシの削り粉をかけているらしい。
お店の横においてある小さな椅子に二人で腰かけて、宮焼きそばを食べた。
「何ですか、この歯ごたえ!プルプル、もちもちしてて美味しいです!」
伊月さんも、そうだろう、と満足気に食べている。
「たれもジューシーで程よい甘みが美味しすぎます!」
「じゅーし?? おい、あまり慌てて、食べるな。」
伊月さんはそう私を諫めると、私の後ろ頭を手でおさえて、グイっと自分の方に引き寄せた。
―― な、何?
困惑する私をよそに、伊月さんは一瞬顔を寄せて、そのまま、私の口の端をペロっと舐めた。
「な、何するんですか!?」
耳が熱くなったから、きっと顔が赤くなったのだろう。
「たれがついていた。」
「な、だ、だからって、そんな風に取らなくても!」
伊月さんはドギマギする私とは対照的に、何事もなかったかのように普通に焼きそばを食べている。
「もぅ… 普通、人前でこんなことしないのに。」
「こんな人混みでは誰も見ておらん。」
「でも、でも、恥ずかしいし、ドキドキするじゃないですか。」
「そんなに怒るな。私も浮かれているのだ。」
「え?」
伊月さんは、バツが悪そうに目をそらして、焼きそばを無言で食べている。
「伊月さん、いつも冷静で落ち着いているから浮かれてるって全然わかりませんでした。」
「わからぬならその方がいい。」
「でも、ドキドキしたり、浮かれたりしてるの、私だけかなって思ってたので嬉しいです。」
「そ、そうか…」
焼きそばを堪能してお腹いっぱいになった私達は神社にお参りに行くことにする。
人込みではぐれないように、ずっと手を繋いでいてくれた伊月さんが、繋いだ手をサッと隠すように、後ろに回す。
―― 何?
そこに、タコ焼きを頬張る平八郎さんと伊月さんの家臣がやって来た。
「あ、主と那美様もお祭りにおいででしたか!」
平八郎さんはいつものエンジェルスマイルを向けながら近くに来た。
「はい。平八郎さんも、楽しんでいるみたいですね。」
「はい、那美様の都行きのお仕事を頂いたお陰で旅行が出来て楽しんでおります。」
そういうと、平八郎さんは、しまったと言う顔をして、伊月さんを見た。
「も、もちろん、護衛の仕事は命を賭してやりぬくつもりです。」
「日頃の仕事をきちんとすれば、時に楽しみに興じるのに、後ろめたい気持ちなどいらぬ。」
「は、はい。ありがとうございます。主も、お楽しみ下さい!」
そういうと、平八郎さんたちはもっと色んな物を食べ歩きするのだと言って去って行った。
私たちもまた歩き始め、神社の境内に入る。
赤い提灯がまばゆいほどに並べられていて、境内の建物を美しく照らし出している。
「わぁ綺麗。」
「稲荷は商売の神だ。那美どのも、開発した商品のことを願うといいだろう。」
「そうですね。もっと新しい物を開発してヒット商品を出したいです。」
「ひっと?」
「当たりってことです。」
私たちは手水舎で手と口を洗って、参拝客の行列に並んだ。
「あの火つけ具はヒットだったようだな。」
「おかげで追加注文が来ました。でもまだまだ高価なので、高貴な方や大店のお家にしか行き渡ってないみたいです。もう少し原価を安く抑えられれば庶子でも買えるようになるのに。」
「そうか。那美どのはそんな風に考えているのだな。誠に面白き人だ。」
「そうですか?」
「ほら、私たちの番だ。」
前の参拝客がお参りを済ませた。
私もお賽銭を投げ入れて、鈴を鳴らして、手を合わせる。
―― いつか伊月さんがこの国に帰って来られますように。
一生懸命お祈りをしていると、
「オババ様の所の巫女じゃな。」
女の人の声が聞こえた気がした。
「え?」
何かと思って周りを見回すも、それらしき声の主はいない。
「どうかしたか?」
「いえ、何も。」
―― 気のせいだったかな。
私たちはそのままお参りを済ませて、元来た方向に歩き始めた。
不意に伊月さんが私の手をきつく握った。
「何か来る。」
伊月さんが私の耳元でささやいた。
少し身構えた瞬間、私たちの目の前に狐の面をかぶっている女の人が立ちふさがった。
「伊国の王子と雷神の巫女よ…」
その人はそういうと、パチリと、指を鳴らした。
そのとたん、周りの喧騒が消え、祭りばやしの音も消えた。
視界から全ての人も消え、境内には私たちだけが立ってた。
私はわけがわからずにキョロキョロしている。
「私はここに祀られているミノワ稲荷だよ。」
そういうと、女の人の姿が消え、一匹の白い狐が現れた。
「こっちにおいで。本物の稲荷のお祭りに連れていってあげる。」
私たちの目の前にある境内の石段に、急に千本鳥居が現れた。
ミノワ稲荷を名乗る狐はその鳥居のトンネルに入り、走っていき、その姿が見えなくなった。
「え? な、なに?」
「どうやら、狐に化かされているみたいだな。」
伊月さんは楽しそうに言って、私の手をひいて鳥居の前に行く。
「行ってみるか?」
嫌な感じはしない。
むしろワクワクする。
「はい!行きましょう!」
最初の鳥居をくぐると、鳥居の間に今までなかった夜店が狐火とともに浮かび上がった。
それはとても幻想的で美しかった。
さっきまで静寂に包まれていた空間に、人間のそれとは違った音色のおはやしが聞こえ始めた。
「わぁ。」
そして、足元には沢山の狐たちが祭りを楽しむように歩いている。
狐たちが私の足元を通り過ぎるたびに尻尾が当たってくすぐったい。
―― すごいモフモフしている!
ゆっくり歩く私たちの元に、狐の面を付けた男の人がやって来て、りんご飴を一本ずつくれた。
「ありがとうございます。」
お礼を言うとその男の人の体がスッと消える。
「あの、これ、食べてもいいんですか?って、もう食べてる。」
伊月さんの様子を伺うと、もうすでにりんご飴をしゃりしゃり頬張っている。
「普通にうまいぞ。」
「ふふふ。じゃあ私も頂きます。」
―― ん?
「あの、このりんご飴、食べたらすぐにカムナリキが回復しているのがわかります!」
「そうか?あの稲荷のはからいだろう。どうやら歓迎されているらしいな。」
そのまま夜店を冷やかしながら歩いていくと、一匹の狐が歩みよってきた。
「そこのお侍さん、弓を射てみないかい?」
狐が指さす方向を見ると、何匹か人間の姿をしているけど尻尾を出した狐たちが的めがけて弓を射ている。
的が遠いのか、なかなか的に当てられないでいる。
当てたとしても、真ん中にはほど遠い。
「あのかすみ的の中白に当てれば景品をやるぞ。」
その隣にある景品の山を見ると、可愛い狐のぬいぐるみや、お面がおいてあった。
「わぁ、可愛い。」
「何だ、欲しいのか? ならば弓を射よう。」
「その調子だぜ、お侍さん!」
狐に促されて、代金を払い、伊月さんが弓を取る。
それまで全然的に当てられなかった狐たちが弓を射るのを辞めて伊月さんに注目した。
「あれに当てればいいのか?」
「へい。」
「この距離でか?」
「へい。そうです。」
本当にいいのか…とつぶやきつつ伊月さんは的を見据えて、体制を整え、弓を引いた。
伊月さんの弓を引く姿が凛々しくて思わず見とれてしまう。
―― カッコいい…
ヒュンと、伊月さんの放った矢は風を切って、的の真ん中を射た。
うおお!と、周りの狐たちも私も歓声を上げ、拍手がなった。
何事かと野次馬ならぬ野次狐たちが集まって来る。
でも、何故か一人伊月さんは納得の行かない顔をしている。
「おい、店主、もう一本矢をくれ。全然威力が足りなかった。」
「何を言いますか。大当たりではありませんか。」
「いいから、もう一本、寄越せ。」
伊月さんは無理矢理代金を払い、もう一本矢を貰って弓を引いた。
今度も矢は風を切り、的の真ん中に当たった。
でも、今度はズドンッ!というすごい音がして、矢は的の後ろの分厚い巻き藁の向こう側にまで突き抜けていた。
「す、すごい!」
野次狐たちがわっと歓声を上げ、皆で拍手喝采を送る。
私も思わず狐たちときゃあきゃあ騒ぐ。
「伊月さんカッコいいです!」
「い、いいから、景品を選べ。」
伊月さんは私の背中を押して景品の山に連れて行った。
「私が選んでいいんですか? 伊月さんが弓を射たのに。」
「そなたのために射たのだ。」
「きゃー!嬉しい。じゃあ、これ。」
私は鍵を咥えている狐のぬいぐるみを選んだ。
―― うぅ。可愛い~。
嬉しくてぬいぐるみをきゅっと抱きしめた。
「そんな面妖な人形が好きなのか・・・」
「め、面妖って、可愛いじゃないですか。」
そこに狐の店主も反論してきた。
「面妖とは何だ!この人形は、この界隈で有名な俳優のコン吉様を模したものだぞ。コン吉様は一世一代の伊達役者で…」
「そ、そうか…。悪かった。」
店主の熱弁に伊月さんも押され気味だ。
「ところで、娘っ子。」
狐の店主が私に言う。
「もう一つ景品を選べ。このお侍さんは二本とも真ん中に当てやがったからな…」
「いいんですか?」
「いいも何も、そういう決まりだ。」
「わぁい!」
私はコン吉人形をもう一つ取った。
今度は口に玉を咥えているやつだ。
「そ、そんなにこれが好きなのか…?」
少し困惑気味の伊月さんに、ぬいぐるみをグイっと差し出す。
「一つは伊月さんのです。」
「は?」
「お願いです、もらって下さい。」
私は少し強引にコン吉人形を伊月さんの手に持たせた。
「な、なぜ…?」
伊月さんは困惑した顔をした。
―― う、強面の伊月さんがぬいぐるみ持ってるのって、なんだか…
ギャップ萌えして心臓が破壊されそうになったのを抑えて説明する。
「この旅の思い出に、伊月さんとお揃いのお土産が欲しいんです。だめですか? 」
「そ、そうか…。なら、貰っておこう。」
伊月さんはそれ以上反論せずにコン吉人形を貰ってくれた。
―― 良かった。
私たちは狐の店主にお礼を言って歩き始めた。
それからも狐たちは行く先々で昆布茶をくれたり、お団子をくれたり、踊りを見せたりしてくれた。
狐たちの踊りを見ていると、だんだんと千本鳥居の形が薄れていく。
「あ...」
次の瞬間、狐のお祭りのおはやしも聞こえなくなり、狐たちの姿も消えた。
気がつくと元の神社の敷地内にいた。
「どうやら、人間の方の祭りに戻ってきたらしいな。」
私たちは境内の裏にいるらしく、遠くから人の声やおはやしが聞こえるけど、
この周りには提灯もともってなかった。
「わぁ。すごい体験をしちゃいましたね。すごく楽しかったです。狐もみんなモフモフでかわいか・・・きゃ!」
急に伊月さんの手が私の腰に周って、体をグイっと引き寄せられた。
そのまま伊月さんは私の体をぎゅっと抱きしめた。
「い、伊月さん…」
伊月さんは私の肩に顔を埋めて深いため息をついた。
「今日一日、そなたが愛らしすぎて心臓がもたぬかと思った。」
「え?」
「ずっとこうしたかった。」
伊月さんはいつもの低く落ち着いた声で、でもどこか切なそうにそうささやいた。
そしてきつく抱きしめたまま私の髪の毛をそっと撫でた。
胸がきゅんとして私も伊月さんの背中にそっと手を回した。
「私も伊月さんがかっこよくて、ずっとドキドキしていました。」
「まったく、そういうことを言うから…」
伊月さんは呆れたようにいうと、私の顔を覗き込んだ。
「な、何ですか。」
「顔が赤いぞ。」
「だって、伊月さんが近いから・・・」
「これから何をすると思う?」
「な、何って何ですか?」
伊月さんがもっと顔を近づけた。
唇がくっつきそうでつかない距離だ。
「何をしてほしい?」
「そ、そんなの、わかってるくせに...」
伊月さんはフッと微笑んだ。
「わからん。言え。」
時々伊月さんは意地悪だ。
意地悪モードのスイッチがあるみたいに。
でもそんな伊月さんが嫌じゃなくて、その甘い命令に従ってしまう。
「口づけて・・・欲しいです。」
私がそういうと伊月さんはゆっくりとキスをしてくれる。
強引な口調とは裏腹の甘くて優しいキスだった。
ゆっくりと口の中を蹂躙されて、胸の奥が苦しくなる。
だけど嫌じゃない。
それどころかもっとって思ってしまう。
私はしばらく伊月さんの熱い唇を受け止め続けた。
伊の国ではのんびりと物見遊山で移動して、お祭りに行ったりもしたけど、
二日目からは伊の国境を超え、於の国境に入るので、伊月さん率いる護衛隊は軽く武装をしていた。
「於の国と亜の国の国交は今断絶していて情報が入りにくい。八咫烏に先を見てもらっているが、万一のために備えているのだ。」
伊月さんの説明通り、隊は必要以上に休憩を取らず、できるだけ山野を避け、次の宿場へと急いだ。
於の国は、亜と伊の国に比べて明らかに貧しいようだ。
田畑は枯れて、人々が痩せている。
私たちの行列を見て、物乞いをしてくる人もいた。
「あの山はどうしても超えなければいかぬ。」
ずっと山や森を避けていたけど、どうしてもそこを通らないと都には行けないらしい。
伊月さんは先に八咫烏さんに飛んでもらって、状況を確認した。
しばらく山道を進むと、八咫烏さんが戻ってきた。
「丑寅の方角から山賊が来るぞ。27人。馬はない。」
と、言った。
「地の利は向こうにある。逃げるには間に合わん。迎え撃つぞ。」
伊月さんが指示を出して、私を籠に隠し、山肌を背に籠を置いた。
伊月さんが黒毛にまたがり、刀を抜き、先頭に立った。
その左右に弓を持った平八郎さんと清十郎さんが陣取った。
他の人たちも荷物をおいて刀を抜き、私の籠の周りを囲んだ。
私は下げられた籠の御簾の隙間から外をのぞく。
やがて「うぉおおおお」と、怒号が聞こえ、武器を持った集団が走って向かってきた。
―― こ、怖い!
まず平八郎さんと清十郎さんが弓を放ち、次に槍を持った人達が前に出て応戦するも、山賊との距離はすぐに縮まった。
平八郎さんも、清十郎さんも、ついに刀を抜き、前に走って出て行く。
ガキン、ガキンと金属のぶつかる音がして、二人とも接近戦になった。
平八郎さんは、ぶつかった刀身で相手を押し倒し、相手の刀が地に落ちた。
平八郎さんは刀を失った相手にとどめを刺さずに、そこで躊躇した様子を見せた。
その瞬間、相手が懐から匕首を取り出し、平八郎さんに切り付けた。
―― あ、あぶない!
平八郎さんはとっさに後ろによけたが、匕首は腕に掠ったらしく、着物が割けた。
平八郎さんは、体のバランスを崩し、後ろに倒れこんで、尻もちをついた。
開いての男はそれを見逃さず、平八郎さんに襲い掛かる。
―― どうしよう! へ、平八郎さんが刺される!
その瞬間、伊月さんが馬上から降りて、平八郎さんの前に走り出た。
そして、匕首を振り回す男の胴を切った。
鮮血が飛び散り、男は絶命して、平八郎さんの前に倒れた。
―― うっ
こんなに大量の血を見たのは、日本で通り魔に襲われそうになった時以来だ。
気持ち悪くなって吐きそうになるのを一生懸命に抑える。
「あ、主・・・」
「ためらうな!そなたのためではない、ここにおる全員のためだ!」
伊月さんが大きな声で平八郎さんを叱咤する。
「立て、平八郎、清十郎、左右に付け。駆けるぞ!」
「は!」
伊月さんがサッと黒毛にまたがり、横原を蹴った。
そのまま一直線に盗賊集団の中に突っ込んでいく。
―― 伊月さん... 盗賊の頭領を直接狙ってるの?
黒毛の左右を平八郎さんと清十郎さんが守り、伊月さんは集団の最奥まで達する。
盗賊の頭領に伊月さんがそのまま切りかかり、その男も応戦するけど、戦いぶりにあまりの差があった。
伊月さんは向かってきた男の刀をよけながら、その腕をスパリと切り落とした。
「ぎゃぁぁぁあああああ!」
すごい悲鳴をあげ、その男は失った腕を見てパニック状態になっている。
伊月さんはすぐさま下馬してもう片方の男の腕をねじり上げた。
他の盗賊たちはその悲鳴を聞いて、動きを止めた。
「皆の者、得物を捨てろ。さもなくば、この者の首を取る!」
伊月さんは男の首に刀を当てた。
「降参すれば命は取らぬ!」
盗賊は皆、持っていた武器を地面に置いた。
「縄をかけろ!」
伊月さんの号令で皆がうなだれる盗賊たちに縄をかけ縛り上げた。
盗賊の頭領は、もうすでに意識がもうろうとしている。
「この者は止血をし、延命措置をしろ。」
「は。」
清十郎さんが腕を切り落とされた盗賊の頭領に応急措置を施す。
伊月さんはまた黒毛に乗って、私の所に駆けてきた。
御簾を開けて私の顔を見る。
「怪我はないか?」
「はい。誰もここまでたどり着きませんでした。」
「良し。もう少し待ってろ。」
伊月さんはまた御簾を下し、集団の元に戻った。
生き残った盗賊たちは後ろ手に縄でしばられ、伊月さんの前に座らさせられた。
「そなたらの頭領はあのざまで話しができぬ。代わりは誰か。」
「俺だ。」
さっきまで盗賊の長の近くにいた男が言った。
「我が名は共館伊月。皇帝の客人として都に参る途中だ。そなたらの仲間はここにいるだけか?」
男は不貞腐れたように何も答えない。
伊月さんの家臣がその男の喉元に短刀を当てた。
「答えねば切る。」
「わかった。俺らの負けだ。」
男は観念したらしく、話し始めた。
「仲間はここにいるだけだ。」
「妻子はおらんのか?」
「それを聞いてどうする。」
「いれば保護する。」
「な、何?」
「そなたらも妻子を養うためにこんな事をしておるのだろう。」
伊月さんの言葉を聞いて盗賊たちがざわめき始めた。
「名は何という?」
「兵五郎という。」
「兵五郎、そなたが私のために働くなら、飯を与え、妻子を養っても余りあるだけの扶持を与える。どうか?」
私は話の流れが思わぬ方向に行っているので、びっくりしてそのまま聞き耳を立てた。
「そ、そんな虫のいい話、信じると思うのか? どうせ何かに利用しようとするのだろう。」
兵五郎と名乗った男の疑いは当然の反応だった。
「利用するのはお互い様だ。互いの利害が一致すればいいではないか。そなたらは私のために働き、私は扶持を与える。どうか?」
「お、お前のための働きと言うのはどういうものだ?」
「身を改め、侍となり、於の国において、ここにいる巫女と荷物の護衛をすること。」
伊月さんは私の乗っている籠を指さす。
「それから於の国情を伊国の私の手の者に定期的に伝えることだ。」
「お、俺らを侍にするっていうのか?」
「ああ。そなたらは於の国の者だが、私の配下とし、いずれ亜国か伊国で働きに応じて家をもたせてやってもいい。全てはそなたらの働き次第だ。」
また盗賊団がざわつく。
「そう言って、お、俺らの妻子を売り飛ばす気ではないのか?」
「口約束で不安であれば起請文を書こう。」
起請文は神に誓いを立てる文章だ。
「ただし、一旦私の臣となれば、このような狼藉は一切許されんぞ。」
兵五郎と言った男の人は少し考えたように言った。
「しばし、仲間と話す時間が欲しい。」
「あいわかった。」
伊月さんはそういって、盗賊の集団から少し距離を取った。
盗賊たちは伊月さんが信頼に値するかどうか話し合いたかったらしいが、結果が出るのがはやかったらしく、話し合いはとても短かった。
「話し合いは終わりもうした。」
兵五郎さんが声を張り上げ、伊月さんたちがまた距離を詰めた。
すると、盗賊たちはいっせいに座り方を改め、皆が伊月さんに向かって頭を下げた。
「降参申し上げる。共舘様に下ります。どうぞ我らを臣下として頂きたく存じます。」
兵五郎さんが皆を代弁する。
―― す、すごい! 味方にしちゃった。
「よし、縄を解け。紙と筆をここに。」
伊月さんは兵五郎さんたちの縄を解かせ、自分は起請文を書いた。
伊月さんと兵五郎さんは、二人とも親指を噛み、その起請文に血判を押した。
「兵五郎、そなたらの居住区に案内せよ。今夜はそなたらの一族郎党に飯をふるまう。」
「あ、ありがとうございます!!」
兵五郎さんたちは涙を流しながら喜びの声を上げた。
伊月さんの率いる護衛隊は、死んでしまった盗賊と、腕を失った頭領のために、木を切って担架を作り、兵五郎さんたちの住んでいる所に運ぶ準備をした。
その間、私の所に伊月さんがもう一度やって来て、もう少し籠の中にいて欲しいと言った。
「私が手伝えることは、何もないですか?」
「あのような荒くれ者たちにそなたを見せたくないのだ。頼む。」
「わ、わかりました。でも、安全だって思ったら、何かお手伝いさせてくださいね。」
「ああ。その時は那美どのの手を借りる。」
護衛隊は、兵五郎さんの後に続いて移動を始める。
すると、「那美様、失礼します。」と言って、御簾が一瞬開き、清十郎さんが転がるように入ってきた。
「主の命にて、那美様をこの先護衛致します。」
「あ、ありがとうございます。」
すると、清十郎さんは、いきなり着物を脱ぎ始めた。。
―― な、何?
慌てて着物の袖で顔を隠してうつむくと、清十郎さんがクスっと笑った。
「那美様は初心で御座いますね。」
「い、いきなり、なんですか…」
「着替え終わりました。失礼しました。お顔をお上げ下さい。」
私は袖を下げて清十郎さんを見ると、清十郎さんは女の姿になっていた。
「あっ。」
―― そっか、女でいた方が、私の護衛をしやすいのか。
「この先は、キヨとお呼び下さい。今からは那美様の侍女に御座います。」
「は、はい。宜しくお願いします、キヨさん。」
「今回は悋気はなしでお願いしますね。」
「も、もうっ、キヨさん、今、それを言わなくてもいいじゃないですか。」
キヨさんは女性らしく、袖で口元を隠して、クスクス笑った。
兵五郎さんが案内した所には寂れた村があった。
畑があるが、荒れ果てて、草木一本生えていない。
餓死して死んだのか、やせ細った死体がゴロゴロ転がって、鳥や虫がその体をついばみ、異臭が漂っている。
兵五郎さんが声をかけると、壊れかけた小屋のような建物から、
女の人たち、子供たち、それから年よりたちがわらわらと出てきた。
兵五郎さんが皆に事情を説明し、伊月さんを紹介した。
腕を失った長と殺された人の家族は伊月さんたちが運んだ担架に群がり、泣き悲しんだ。
「仇討ちをしたい者がいれば、私が受けて立つ。」
伊月さんが呼びかけるが仇討ちをしようとする人は名乗り出なかった。
「皆、飢えで疲弊しております。」
兵五郎さんが言う。
「では、さっそく炊き出しを致そう。皆、椀を持ってこい。」
伊月さんが護衛隊に命じて炊き出しを始めると、お腹を空かせた人がお椀を片手にわらわらと集まる。
そこに、バサバサと羽音がして、人間姿で羽の生えた八咫烏さんが降りてきた。
なにか小脇に抱えている。
「おぉ、八咫烏、狩りはどうだ。」
「まずまずだ。」
そういうと、八咫烏さんは小脇に抱えていたものを、ゴロンと地に転がした。
猪だった。
皆は肉が食えると歓喜の声を上げた。
「兵五郎、さばけるか?」
「もちろんです。しかしこの辺りにはもう獣も寄り付かないのに、どこで仕留めて来られたんです?」
兵五郎さんが驚いたように言う。
「俺は一日に何十里も飛べる。」
八咫烏さんがどや顔で言うのをよそに、兵五郎さんは嬉しそうに猪をさばき始めた。
皆がむさぼるように食事をし始めると、伊月さんが、籠まで来て、御簾を開けた。
「思ったより、悲惨な状態だ。見たくないものを見るかもしれぬが、そなたが良ければ、外に出てもいい。」
「出ます。」
伊月さんに手を引かれて、きよさんと一緒に外に出ると、皆が不思議な物を見るような目で視線を送ってくる。
「タカオ山の巫女様だ。」
と、伊月さんが私を紹介すると、村の人が頭を下げた。
「え、えっと、頭を上げて下さい。」
私を拝んでいるおじいさんもいる。
「あ、あの、拝まないでください。」
私は伊月さんに促されて、一緒に床几に腰をかけた。
「那美どのも何か食べるか?」
「いいえ。私はいいです。」
食欲なんてなかった。
ただただ、村の人たちを見ると悲しさと、虚しさが胸を打った。
「兵五郎、ここへ。」
皆がお腹を満たし、落ち着きを取り戻したころ、伊月さんが兵五郎さんを呼び、金子の入った袋を授けた。
兵五郎さんが驚いて固まり、村の皆がざわめき始める。
「私たちはこれから都に行き、帰りは於の港町を通って伊に入る。私たちが於の領土にいる間、この隊とともに巫女と荷駄の護衛をすることを命ずる。それはその前金だ。」
「こ、こんなに…」
「乱暴狼藉を一切やめ、無事に勤めを果たせば、定期的に報酬を与える。」
「おぉぉぉぉ。」
女性たちもお年寄りもシクシク泣き始め、伊月さんの前にひれ伏した。
「悪い事をしなくても食べていけるのなら、そんなに良いことはありません。」
私も泣きたくなった。
こんなひどい状態になるまで、どうして誰も助けてくれなかったんだろう。
「このように田畑が育っておらんのは何故だ。」
「日照りでございます。干ばつが長く続いております。」
「雨ごいをする巫女はおらんのか。」
「こんな所まで誰も来てくれません。 於の国主からも見放されております。」
「あ、あの…」
私は立ち上がった。
「私、雨ごいしてみてもいいですか?」
「那美どの...」
「雷も一緒に来ちゃうかもしれないですけど、何度かオババ様と練習したことあるんです。成功するか分からないですけど。」
伊月さんが大きく頷いて、村の皆も期待の目で私を見た。
私はオババ様に言われたことを思い出し、心の中で反芻した。
懐に持った、伊月さんがくれた数珠を手に持つ。
深呼吸をしてカムナリキを雷石に流し込む。
伊の国のミノワ稲荷がくれたりんご飴のお陰でカムナリキはいつになくみなぎっている。
皆の飢えている様子を、餓死して死んでいった者たちを思って、どうしようもない悲しみをカムナリキに混ぜ込む。
「おぉぉぉぉ、雨雲が現れたぞ!」
そして、雷神に祈りを込めて雨を起こすようにお願いする。
やがて辺りが真っ暗になり、雨雲が村全体に広がったのが分かった。
「雷神よ、この村にご加護を!」
私は天に向けて両手を広げた。
すると、ザ――と音がして、雨が降り始めた。
ゴロゴロっと音がして、雷も鳴った。
村人が喜び、天を仰ぎながら踊り始める。
「良かった。」
私はホッと一息ついた。
この夜、「このままでは疫病が蔓延する」と言って、伊月さんは、皆に命じ、村に転がる死体の処理を先導した。
伊月さんたちとの戦いで亡くなった人たちの弔いも兼ねた総合葬儀みたいになった。
兵五郎さんたちは伊月さんたちがそこまでしてくれたことにいたく感動していた。
夜もすっかり更けて、この日の移動は無理になってしまったけれど、この村には伊月さんたち一隊が泊まれるような家はなく、私以外は皆、野宿になった。
私は村の女性たちと、それから女性に扮したキヨさんと一緒に小さな小屋の中で寝ることになった。
「今日泊まる予定だった宿場には、明日早くに行って、もう一度そこで休めるよう算段を立てる。予定が少し狂ったが、許せ。」
伊月さんが私に言う。
「許せ、なんて言わないで下さい。私、伊月さんたちの今日の働き、素晴らしかったです。」
伊月さんはそれには応えず、ただ私の頭にポンと手を置いた。
「そなたにも辛い一日であったな。キヨがついているので、安心して休め。」
「はい。ありがとうございます。」
次の日の早朝、護衛隊は持っていた非常食を全部村人のために置いて、出発した。
兵五郎さんと他の男衆たちも護衛隊に加わり私たちを送ってくれる。
道中、伊月さんはずっと兵五郎さんと話しをしていた。
これからどうやって村を建て直せばいいのかを教えているようだった。
やがて、宇の国と於の国境に差し掛かり、伊月さんが 「次は港まで護衛の隊を組んで来るように。」と、いい含め、兵五郎さんたちと別れることになった。
兵五郎さんたちは私たちが見えなくなるまでずっと頭を下げて見送ってくれた。
―― やっと、於を抜けて、宇に入ったんだ。
とは言え、まだまだ郊外なので、山道が続き、集落は見えない。
日が頭上に上ったころ、土地が開け、宿場町が見えてきた。
今日はここで宿を取る、と、伊月さんが皆に言うと、皆も安堵の色を示した。
護衛隊は昨日の戦闘のあと、村の人たちを助け、炊き出しをし、けが人の看病をしたり、死体の埋葬をしたり、野宿したり、休みなく働いて、随分と疲れている。
この辺りは治安も悪くないのか、私も籠を出ることを許されて歩き始めた。
近くにいる清十郎さんに話しかける。
「ここの人たちは飢えてないですね。」
「ええ。ここは貴族がよく来る湯治場ですからね。」
「湯治場ってことは温泉ですか?」
「はい。皆も楽しみにしていますよ。那美様も湯に浸かって体をお休め下さい。」
「さっきの山からそんなに離れていないのに、随分と雰囲気が違いますね。」
「国を収める者次第で民の暮らしは随分変わります。我が主が於の国主ならもっと国を富ませられますのに。」
「私も改めて伊月さんすごいなって思いました。」
「主が人を切るのを見たのに、那美様は肝が座っておられましたね。」
「見てて気分がいい物じゃないです。正直吐きそうでした。でも生きるために必要なことだったんだって思います。不謹慎かもしれないですけど、殺されたあの人の代わりに、平八郎さんが助かって良かったって思いました。」
誰の命も平等だって言いたいけれど、あんな状況になって生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたら、そんなこと言ってられなくなるんだ。
誰しも自分の仲間を救いたい。
「誰も飢えずに人から物を盗らなくても生きていける世の中になったらいいなって思うのは甘いですか。」
「いいえ、そんなことはありません。そのようにお考えになる那美様だからこそ、主も心をお許しになっているのでしょう。」
「え? どういうことですか?」
清十郎さんはそのままの意味ですよ、と、言って、それ以上は話さなかった。
宿場町に着いたはいいけど、伊月さんは充分な部屋を確保するのに苦心していた。
予定が狂って一日到着が遅れたことと、貴族たちの夏の休暇の時期が今日から始まったみたいで、どこを見ても宿泊客でいっぱいだった。
どの宿も満室か、空いていても一つの宿につき、一部屋だけだった。
伊月さんは一番高そうな宿の唯一空いているひと部屋を私のために押さえてくれた。
その時、 「那美どのを一人だけ宿においてはおけぬ。こうなれば今夜は私が那美どのの部屋の前の廊下で寝ながら護衛する。」 と、伊月さんが平八郎さんに言っているのを聞いた。
私も一人で宿に泊まる勇気はない。
個室といっても、現代日本のホテルのようにしっかりした鍵があるわけでもないし、しっかりしたプライバシーがあるわけでもない。
宿は夜になると酔っ払いだらけになる。
ある程度カムナリキで自衛ができると言っても、寝てる時に何かあったら対応できない。
かといって、伊月さんが廊下で寝るのは絶対嫌だ。
―― ただでさえ昨日も野宿であんまり休めてないのに。
色んな宿と交渉をして、ようやく、全員の泊まる所が決まり、皆、散り散りに自分たちの宿へと行った。
皆が行ったのを見届けて、宿の仲居さんが私と伊月さんを部屋へと案内してくれた。
伊月さんが、では、私は予定通りここで、と廊下に居座ろうとしたので、
私は仲居さんに、すかさず、「この人と一緒に泊まります。」 と言って、伊月さんの腕に自分の腕を絡めた。
「な、那美どの…?」
伊月さんに何も言われないように言葉を遮った。
「さっきまでこの人と夫婦喧嘩してて、売り言葉に買い言葉で、あなたは廊下に寝てって言っちゃったんです。」
「まあまあ、そんなことだと思いましたよ。時々する夫婦喧嘩も円満の秘訣ですよ。」
仲居さんは、ニコニコしながら言う。
私の下手な芝居も信じてくれているらしい。
「でも、それはかまいませんが、追加料金になりますよ。」
「お金は私が払います。」
「な、那美どの!」
「もう、あなたは黙って部屋に入ってて! 私の荷物持って行ってよね。」
私は伊月さんをぐいぐい押して部屋に入れる。
「奥様の言う事はお聞きになった方がいいですよ。旦那さんは女房の尻に敷かれているくらいが丁度いいって言うんです。うふふ。」
仲居さんも乗ってきてくれる。
私は伊月さんを部屋に入れて、ふすまをピシっと閉めた。
懐から財布を出して、追加料金を払うと、「今夜は仲直り頑張って下さいね」と言って、仲居さんは嬉々として去っていった。
部屋に入ると、激おこ顔の伊月さんが座っていた。
―― いつになく、顔がこわい!
「伊月さん、すみません。でも、ああでもしないと、伊月さん廊下に寝るって言い張ると思って。」
「元よりそのつもりだ。那美どのはどういったつもりでこんな事を?」
「伊月さんにちゃんと、お布団で休んで欲しくて。」
「布団に寝ないことなど慣れている。こんな勝手をされては困る!」
伊月さんの声が大きくなって、私は一瞬ひるんだ。
「こ、困るって…。そ、そんなに私と一緒の部屋が嫌なら、私が廊下に寝ます!」
「な、何と?」
私は泣きたくなってうつむいた。
「どうして、そんなに拒むんですか。そんなに私が嫌なんですか?」
私の声が震えてしまい、泣きそうになっているのが分かったのか、伊月さんが焦り始めた。
「な、泣くな。拒んでいるわけではない。嫌ではない。ただ…。」
「ただ、何ですか?」
「一旦、ここに座ろうか…」
伊月さんが私を座らせ、私と膝を突き合わせる形で正座する。
「那美どのは、私が男だということを忘れているのではないか?」
「え? 忘れるわけないじゃないですか…。」
「では、那美どのは覚悟があってこうしたのか?」
「覚悟って何の覚悟ですか?」
「だ…だから…その…私と…その…そういうことをする…。」
急に、伊月さんは言い淀みながら、顔を赤くした。
その瞬間、私は伊月さんの言いたいことが分かった気がした。
―― そういうことって、男女のそういうことってこと?
そういわれると、私にその覚悟は全然できてない。
恥ずかしいけど、この年まで、私はそういう経験がない。
―― え? もしかしてそのために伊月さんを部屋に連れ込んだとか思われたの?
今度は私が焦り始めた。
「あ、いや、そういうんじゃなくて、そういうつもりじゃ全然なくて…!私はただ、伊月さんに休んでほしくて。わ、私はこっちの端っこに布団を敷いて寝ますから!伊月さんはあっちの端っこに布団を敷いて寝ればいいじゃないですか?」
「那美どの…」
「はい・・・。」
「那美どのは男がどういうものかわかっていない!」
「そ、そんなの、男になったことないから分かるわけないじゃないですか。」
伊月さんは盛大にため息をついて、どう説明すればいいんだ、と、ブツブツ言っている。
「つまりだな、私にとっては、那美どのと一緒の部屋で寝ながら手を出さないよう我慢するのと、廊下に寝るのとでは、前者の方がよほど苦しい修行になるということだ。」
「いやいや、そんな事、いい説明が出来たみたいなドヤ顔で言われても!」
「ドヤ顔とは何か?いや、そんな事は今はどうでもいい、とにかく那美どのは私にそういう苦行を強いろうとしているのだ。」
「う…」
私は言葉を失うと同時に伊月さんの言いたかったことがはらおちして、自分の顔がブワっと赤くなったことが分かった。
―― でも…
「だったら、やっぱり、私が廊下で寝ます。伊月さんがあんなに戦って、人を助けて、野宿して、皆のために宿の手配をして、すごく疲れている日に、廊下に寝かせるなんて、私にとって、とても苦しい修行です。」
「那美どの・・・。」
私が譲る気がないと分かったのか、伊月さんがため息をついた。
「わかった。今夜はこの部屋で寝る。で、できるだけ…我慢する。」
「良かった!」
私はホッと一息ついた。
「あ、でも、本当に私、そういうつもりで伊月さんを部屋に連れ込んだわけじゃないんです。そこはわかって下さい。」
「そ、そんなに念を押されると結構傷つく…。」
「え? 何て言ったんですか?」
伊月さんが何かボソボソと言っていたけど、「何でもない」と言われた。
もう一度言ってくれる気はなさそうだ。
「じゃあ、伊月さん、その旅装を解いて、少し楽にしてください。 私、お茶を淹れますから。」
「…わかった。ありがたく頂く。」
軽装に着替えた伊月さんにお茶を出していると、さっきの仲居さんが戻ってきた。
「お客様、湯殿の準備ができましたよ。温泉、いかがですか?」
「わぁ、温泉入りたいです!」
「ご案内しますよ。」
「先に行ってきたらどうだ。私はこの茶を飲んでから行く。」
「じゃあ、行ってきます!」
「それでは旦那様の方はまた後でご案内に上がりますね。」
「ああ、頼む。」
夫婦のお芝居を始めたのは自分だけど、普通に旦那様とか言われるとすごく恥ずかしい!
伊月さんは平然としているのに!
私は一人ドキドキしながら、湯殿に向かった。