次の日、手習い所の仕事が終わり、研究室に行くと、オババ様が、今日は城下町に出かけるので、ついて来いという。
人混みの嫌いなオババ様が、人にお遣いを頼まずに自分で行くなんて、めずらしいな。
「今日は八咫烏も連れていく。」
と、言うので、ますますめずらしい。
オババ様と、呼び出された八咫烏さんと、三人で亜国の城下町に来た。
今日も亜国の城下は賑わっている。
「人混みは好かぬ。さっさと用を済ませて帰ろうか。」
オババ様は正次さんの企画した武術大会にお酒を贈るらしく、酒屋に向かう。
「オババ様、まさか、俺に荷物持ちをさせるつもりじゃないだろうな。」
八咫烏さんが言う。
「そのまさかじゃ。察しがいいな。」
「やっぱりか!」
八咫烏さんがガクっと頭を垂れたが、オババ様が八咫烏さんにも酒をやるから、というと
「それならば仕方がないな。」
と、荷物持ちの役に納得したようだった。
城下町では行く先々で、オババ様に声をかけてくる人がいる。
「オババ様、先日は雨乞いをして下さってありがとうございます。おかげで野菜の仕入れが滞りなくできています。」
町の人が次々とオババ様を見つけ、近寄っていく。
「うん、それは何よりじゃ。」
「オババ様、川の堰を直して下さってありがとうございます。おかげで今年は洪水がありませんでした。」
「ん。また何かあれば頼るが良い。」
前から思っていたけど、オババ様は、町の人たちからずいぶん慕われているんだな。
歓迎ムードの町人たちの反応に関心していると、誰かから呼びとめられた。
「那美先生」
名前を呼ばれて振り向くといつも手習い所にくる生徒さんのご主人だった。
「家内に算術を教えて頂きありがとうございます。おかげで家の家計が助かっております」
「あ、いえ。それは何よりです。」
少し立ち話をした後、その人は何度も頭を下げながら帰って行った。
「那美もなかなか町の者たちと馴染んでいるようだな。」
オババ様が感心したように言った。
「そうですね、手習い所でもタカオ大社でも色んな人に会いますから。オババ様の所の巫女っていうだけで良くしてくれます。」
「いや、那美の順応が早いのじゃ。」
お目当ての酒屋に着いて、オババ様は私と八咫烏さんに外で待つように言いつけ、自分は店の中に入って行った。
その時…
「八咫烏様!」
「城下にいらしてたんですねー!」
黄色い声が聞こえてきて、大勢の町娘たちが近寄ってきた。
―― わっ
きゃあきゃあと騒ぐ女の人たちがぐるりと八咫烏さんを囲み、私は輪から弾きだされた。
―― えっとー、あのー?
「八咫烏様、町に降りてくるなんて、めずらしいですね!」
「八咫烏様、お久しぶりです!会いたかったんですよ!」
「私もです、文を出したのに返事をくれなくて、つれないですわ。」
「ごめんな。もうちょっと落ち着いたらゆっくり返事を書くからな。」
―― す、すごいモテっぷりだ・・・
私は唖然として様子をみるほかない。
この前、自分には人間の女の方から寄ってくるって豪語してたけど、本当だったんだ。
妙に感心して眺めていると
―― あれ…???
遠巻きに伊月さんの姿が見えた。
―― あ! 伊月さんだ!
挨拶をしようと駆け寄ろうとするけど
―― え…
足が止まった。
よく見ると伊月さんは女の人と一緒だった。
―― きれいな、人、だな…。誰だろう…?
伊月さんにいつものように声をかけて、誰ですか?って聞けばいいのに、なぜか胸の奥がきしむような感覚に覆われて一歩も動けなくなった。
見たくないという気持ちもあるのに、なぜか目をそらせない。
―― 私、どうしちゃったんだろう...
「こらこら、俺はオババ様のお遣いで町にきているのだ。これでは仕事ができないだろ。」
八咫烏さんが女性たちをなだめる声が後ろから聞こえる。
「お仕事の邪魔はできませんね。」
「また城下に出てきて下さいね。」
それぞれに挨拶しながら女性たちは一人、また一人と去っていったようだった。
私はまだ伊月さんの様子を見ながら固まっている。
二人は店の前で何か買い物をしているようだった。
―― あの店は確か…
伊月さんがいつか私を連れて行ってくれた女物の反物や髪飾りが売ってあるお店だ。
―― あの女の人に何か買ってあげてるのかな…って、私には関係ないことだ。
慌てて見ないようにうつむいた時、
「お? あれは伊月だな?」
町娘の輪がなくなり、八咫烏さんが伊月さんに気がついたみたいだ。
「おい、伊月―!あ、キヨも一緒か! 久しいな!」
八咫烏さんがひらひらと手を振ると、伊月さんもこちらに気づき近づいてくる。
「人だかりができてると思ったら、八咫烏だったのか。」
「まぁ、いつものように女達が俺を放っておかなくてな。」
伊月さんと一緒にいる女性も伊月さんの後ろをついてきて、私たちに向かってゆっくりと頭を下げる。
―― うわー、近くで見るとさらにきれいだ!
騒ぐ胸を押さえながら、平静を装い、私も頭を下げる。
「ん? 伊月と、キヨも一緒か。」
そこにオババ様が店から出てきて、伊月さんと連れの女性に声をかける。
「はい。オババ様、お久しぶりでございます。」
キヨと呼ばれた女性はにっこりとほほ笑む。
―― す、すごいっこの美女スマイルの破壊力!
「私はそろそろおいとましますね、伊月様。」
キヨさんは伊月さんにも100万ボルトの笑みを向けた。
「わかった。」
「では、皆さま、失礼します。」
キヨさんは皆におじぎをして、優雅に去っていった。
―― 誰だろう、あの人。
―― もしかして、伊月さんの彼女かなぁ。オババ様も八咫烏さんも、あの人のこと知ってるみたいだし。
キヨさんの後ろ姿を眺めながら、私は胸が騒ぐのを抑えられなかった。
伊月さんときよさんは並んで歩いてると、とてもお似合いだった。
きよさんは、スラっと背が高くてスタイル抜群。
着物もとても綺麗な物を着ていた。
―― デートのための勝負服ってやつかな?
それに、キヨさんが歩くと、すれ違う男の人たちが振り返っていた。
かなりの美人だ。
「…と、いうわけだ、どうだ、那美。」
―― え?
私に話しかけられていると気がついてはっとする。
「聞いてなかったのか。」
オババ様が私の顔を覗き込んだ。
「す、すみません、考え事してて。」
オババ様、八咫烏さん、伊月さん、私は、お酒を買って、タカオ山まで運んでいる途中だ。
歩きながらも、私はさっき仲良さそうにお店を見ていた二人の光景を忘れられずにいた。
「いつもヘラヘラして能天気なオヌシが考え事などとは、めずらしいのぅ。」
オババ様は私が何を考えているのか気づいたみたいに、不適な笑みを浮かべた。
そこに、八咫烏さんがスッと寄ってきて、言った。
「那美、何か悩みがあるなら俺に言えよ?」
「あ、はい。ありがとうございます。で、でも、何でもないです。大丈夫。」
―― キヨさんのことが気になるとは言えない。
何とかごまかそうとしていると、オババ様が話を戻す。
「せっかく城下に来たのだから、何か欲しいものを買ってやると言っている。」
「え?」
「何でも欲しいものを言え。ワシが買ってやるぞ。」
「あ、いえ、特に欲しい物はないです。オババ様の所では何不自由なくさせてもらってますし。」
伊月さんが溜息をもらす。
「私も那美どのに何かおとり捜査の礼を差し上げたいが、何も要らないと言うばかりだ。」
八咫烏さんも溜息をもらす。
「お前も無欲なやつだな。綺麗な着物や簪でも買ってもらったらどうだ?」
「いや、別にそういうのは…。」
特にほしい物も思いつかない。
「じゃあ、物じゃなくても、何か叶えたい願いはないのか? 行きたい所とか?」
八咫烏さんが提案してくれる。
「願い? 行きたい所?」
強いて言えば、もっと伊月さんと一緒に時間を過ごしたい。
また、あの月がきれいに見える、月の峠に行きたい。
でも、いくつもの厄介事を抱えて忙しそうにしている伊月さんにそんな我儘を言いたくない。
それから、さっきのキヨさんって人が誰なのか、どんな関係なのか知りたい。
でも聞きたくない。
「那美どの、今思い浮かばなくとも、お礼の件、よく考えておいて欲しい。」
「わ、わかりました。」
何故か伊月さんの目を真っすぐ見ることができずに視線をそらしてしまった。
「そういえば、伊月、今日も源次郎がおらんのぅ。」
ふとオババ様が言う。
「別の用事にやっております。」
「よほど手が足りておらんようだな。」
「そうなのです。はやく人を雇わねば。」
「那美、オヌシ伊月の所でしばらく手伝え。」
「え?」「は?」
オババ様の提案に伊月さんも私も同時にびっくりする。
「オヌシの作っておる、あの、らいたー?とかいう火付け具も出来たし、研究室の方はしばらく休んで、手習い所の仕事の後に伊月の家に行け。」
「だがオババ様、我が家のようなむさ苦しい男所帯に...」
「わ、私で良ければ、お手伝いさせて下さい!」
私は伊月さんの言葉を遮った。
もっと伊月さんと一緒に時間を過ごせるチャンスだ。
伊月さんの役に立てるかもしれないなら、なおさら手伝いたい。
―― もしかしてオババ様、私の考えが読めるの?
「そうか? そうしてくれれば我が家は助かるのだが。」
「決まりだな。」
オババ様が決定した。
「那美が伊月の所に入り浸りになるのは面白くねぇな。俺もちょこちょこ様子を見に行く。」
八咫烏さんがいたずらを企ててる子供みたいに口の端を吊り上げて言う。
「八咫烏は来なくていい。」
「いや、行く!」
皆でワイワイ言いながらタカオ山までお酒を運んでいる間も、
私はキヨさんの事ばかり考えて、気持ちに靄がかかったみたいだった。
大抵いつも冷静沈着な私だが、この頃、感情の揺さぶりを制御出来なくて困っていた。
「太元法師、いらっしゃるか?」
私は忙しい合間を縫って亜国城近くにある禅寺を訪れた。
「伊月か。」
「座禅を組みたく罷り越しました。」
「うむ。入れ。」
何か悩みや迷いがあると、私はここに来て座禅を組む。
私は目をつぶり、自分の抱えている問題を整理する。
まず、おとり捜査の時、那美どのが拐かされるのを見て心がこの上なく掻き乱された。
普段、部下に危ない任務を任せることは多々ある。
だが部下の力量を吟味し、出来ると確信があるものに任務を任せるのだ。
那美どのも十分に力があり、論理的に考えて出来ると判断したから最終的にあの捜査に協力してもらったのだ。
それなのにいざ任務が始まってからの自分の取り乱しようは有りえなかった。
堀も私を見て幻滅したかもしれない。
将の器でないと思ったかもしれない。
その後、犯人の捕縛に成功して屋敷に戻った夜も大いに失態をさらした。
多少の怪我をする部下を見るのは日常茶飯事だ。
だけど那美どのが擦り傷をこしらえただけで取り乱し、さらには、那美どのに薬を塗っている時にやましい気持ちを抱いてしまい、それを制圧するのに苦労した。
どうしようもなく気持ちが高ぶったかと思えば、那美どのに心配され、世話をやかれ始めると、この上なく気持ちが緩んで、幸せな気分になった。
特に那美どのの膝を借りると緊張感が保てずに、不覚にも寝てしまった。
皆が慌ただしく炊き出しをしたり、女達の身元を調べたり忙しくしている中、私だけ安らぎの中にいて警戒心のかけらもなく眠りに落ちた。
武士としてありえぬ失態だ。
そして極めつけは八咫烏だ。
八咫烏は幼き頃から一緒に育ってきた。
よく喧嘩もするが、あれほどにやつに対して腹を立てたことはなかった。
八咫烏が那美どのの唇に触れるかという程に顔を近づけた時、自分の怒り狂う感情に戸惑った。
八咫烏が女を口説く所など、嫌と言うほど見てきているのに、何故かあの時だけは許せぬと思った。
―― 一体私はどうしてしまったのだ。
「伊月、いつになく長考しておるようだな。」
「太元法師、私は自分がわかりません。」
「話してみろ。」
私は太元法師に今までの事を話した。
「それで、お前はその問題に対してどう解決しようとしておるのだ?」
「那美どのとの接触を減らした方がいいのではないかと思います。」
「果たしてそれは解決かな?それともただの回避かな?」
「か、回避です。」
私は首をうなだれた。
私にはまだこの問題を解決する覚悟ができていないのだ。
「では、その那美という女を回避するとする。お前と会わなくなった女はいずれ他の男から、特に八咫烏から言い寄られるだろう。」
「そ、それは・・・。」
「そうなったら、その女は他の男と、もしくは八咫烏と結ばれるやもしれぬな。」
「なっ...。」
「それでもお前は平静を保てるのか。」
「それは…。」
「女を避けるくらいで平静を保てるようになると考えるのは浅はかすぎる。」
「確かに。」
「伊月、お前は、武将である前に、一人の男だ。」
「それはどういう…。」
「一人の男として、女の一人くらい幸せにできる器量を持っておらねばならん。」
「しかし、戦において、私の弱みになりそうで・・・」
「そう思うのは経験がないからだぞ。女は男を強くする。天がこの世に陰と陽を作ったように、男だけでも女だけでもこの世は成り立たん。」
「はい…。」
「そして、伊月。自分の気持ちを認めるのを恐れるな。自分の気持ちに素直になれば、そこまでこじらせず...いや、悩まずとも済むものを・・・」
「こじらせ…?」
「とにかく、自分の気持ちを否定せず、なぜ自分の気持ちが制御できないのか、曇りのなき眼で見極めよ。」
「はい。」
私は座禅を組みなおし、自分の気持ちを見つめなおした。
どうしようなく那美どのに惹かれているのは自分でも気づいていた。
那美どののことになるとどうしようも心が乱れるその理由は…やはり、そうか。
私はようやく気が付いた、というより、認めた。認めざるを得なかった。
―― これが人を好きだという感情なのか。これが独占欲というものなのか。
「伊月、何か気づきがあったようだな。」
太元法師が私の変化に気づき、声をかけた。
「はい・・・。太元法師、私はどうやら、那美どのを好いておるようです。 ただ...。」
「ただ、何だ?」
「あの人が私の近くにいて危ない目に合うのは耐えられません。」
「お前の近くにいようがいまいが、危ない目に合う時は合うものだ。 お前が強くなって守れば良いではないか。」
「ですが、那美どのは私といても幸せになれるとは…」
「では、八咫烏がお前に聞いたことを、私もそなたに問う。 お前はその那美という女に本気なのか?」
「え?」
「お前がその女を本気で好いておるのなら、その女が幸せになるかどうか、ではなく、何が何でも幸せにするのだ。 全力をかけてその女が幸せになるようなことをすると覚悟を持つだけだ。」
私は目が覚める思いだった。
そうだ。私に足りなかったのはそういう覚悟だ。
こんな浅はかな私を見捨てずに、元服後も何かと教えを授けてくださる太元法師に頭を下げて寺を後にした。
私は手習い所の仕事の合間を縫って伊月さんの
屋敷に頻繁に出入りするようになった。
「那美どの、新しい家の者を紹介する、平八郎という。」
伊月さんが会わせてくれた人は源次郎さんより少し若い男性だった。
源次郎さんにも劣らずアイドル顔でニッコリ笑うとかわいい。
「はじめまして、那美様。平八郎と申します。」
「地方の豪族のもとにいたが、弓取の才があるので引き抜いて、今ここで暮らしている。だが家事は向かぬようで...」
「あらら」
伊月さんの屋敷の中が、源次郎さんがいたら絶対に有りえなかった状況になっている。
「平八郎に家事を教えてやってはくれぬか?」
「はい、もちろんです。」
「すみません、お恥ずかしいです。」
「ふふふ。大丈夫です。私に任せて下さい。伊月さんはお仕事に専念してくださいね。」
伊月さんの屋敷には色んな人が出入りする。
毎日文を届けに来る飛脚便の人、伊月さんが注文しておいた物を届けに来る人、剣術の稽古をしにくる人たち、伊月さんの軍で働く家来たち。
時々来客の対応をしつつ、私と平八郎さんは、料理、洗濯、掃除、何でも一緒にした。
「主に引き抜かれた時には天にも昇る心地でした。すぐに剣術の稽古をつけてもらえると思ったんですが、甘かったです。」
伊月さんは平八郎さんに家事ができるようにならないと、剣術の稽古が出来ないと言ったらしい。
「一体どうしてですか?」
「生活の基本がきちんと出来ぬ者に剣術はできぬと仰せでした。生活が乱れておる者は剣が乱れると。」
「そうなんですね。興味深い考え方です。」
おとり捜査の時も思ったけど、伊月さんのもとで働く人たちって統率が取れていて、役割分担もしっかりされているのか、働き方に無駄がない。
そういうのも日々の生活を整える力と関係してるのかな。
「私も主のように強くないたいですから、家事も頑張ります。」
平八郎さんはとても素直で誠実な人だ。
純粋に伊月さんを慕っている感じが伝わってくる。
「昨日の夜、源次郎様が帰って来られて、ついでに八咫烏さんも来られて、皆で那美様が作って下さっていた食事を食べました。」
「八咫烏さんまで来たんですか? 源次郎さんは本当に忙しそうですね。食事はお口に合いましたか?」
「すっごく美味しくて、皆びっくりしてました。」
「良かったぁ。皆さんの好みがまだわからないから。」
「那美様の料理を食べたあとに源次郎さんが作った物を食べられなくなると皆で笑って言っておりました。」
「大げさですよ。」
源次郎さんは武術大会の準備で忙しいらしくて帰って来るのがここのところ、おそいらしい。
時々源次郎さんが昼間に帰って来て家事をしようとするけど「那美様のおかげですることが全くございません。」と言っていた。
―― 少しでも役に立てたらいいんだけど。
伊月さんは本当に忙しくて、同じ屋敷にいても殆ど会話をする時間もない。
でも、伊月さんが仕事しているのを遠目に見ているだけで嬉しかった。
―― 仕事をする伊月さんも、カッコいいな。
平八郎さんの家事スキルが上がっていくと同時に仕事が出来るスピードが上がって、私が伊月さんの屋敷で過ごす時間もだんだん短くなっていく。
―― もう少し伊月さんとお話できたらな…
とは思うものの、キヨさんの一件以来、私は伊月さんにどう接していいか分からなくなっていた。
時々お仕事の合間を縫って、伊月さんが私の様子を見に来てくれるのだけど、何故か伊月さんの目をまっすぐに見られない。
この前も、「ひと段落ついたら、一緒にお茶でもどうか。」と伊月さんが言ってくれたけど、
「あ、あの、実は研究したいことがあって、早くタカオ山に戻らないと…。」
「そうか。」
伊月さんと話せて嬉しいはずなのに、何故かその場からすぐに立ち去りたい衝動が駆け巡る。
「ここの片づけ終わったら、今日はすぐに帰りますね。」
「ああ、あまり根をつめぬようにな。」
こんな感じで最近ずっと、無意識に伊月さんを避けてしまっている。
―― 一緒に時間が過ごせて嬉しいはずなのに、どうして?
今日も、伊月さんの屋敷での手伝いを終えて、いそいそと帰ろうとすると、伊月さんに呼び止められた。
「私ももうすぐオババ様の研究室に行くので一緒に行こう。あと四半刻ばかり待ってくれぬか。」
「あ、いえ、私、急ぎの用があるので、先に一人で帰ります。」
急ぎの用事なんてないって見え透いているのに、伊月さんは私の訳の分からない言い訳に対して、何も言わなかった。
でも、代わりに私の目をじっと見た。
挙動不審になっているのが自分でも痛いほど分かる。
思わず目をそらしてしまう。
「えと、失礼します。また、明日。」
私は居心地が悪くなって立ち去ろうとした。
ドンッ
―― え?
伊月さんは私の横にある壁に手をついて、私が行こうとするのを遮った。
「あの...?」
―― これって壁ドンってやつ?
「那美どの…。私に何か言いたい事はないか?」
伊月さんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
距離が近くて急に心臓が騒ぎだす。
「い、言いたい事?」
「悩みがあったり、何か抱えていることがあるのではないか?」
―― こんな時までこの人は私の事を心配してくれてるんだ。
私は自分の馬鹿さ加減が嫌になった。
自分の子供っぽさのせいで、伊月さんに失礼な態度を取ってしまって、
それでも伊月さんは私が何か悩んでるんじゃないかって心配してくれて...。
―― こんな自分が大嫌い。
「うっ…」
無意識に、私の目に涙が溜まっていく。
「な、なぜ、泣く? はらでも痛いのか?」
―― 本当、なぜ泣いているんだろう。
伊月さんは大人の男の人だ。
他の女の人と時間を過ごすことくらいあるだろう。
それなのに、それだけで気になって気になって、こんな馬鹿みたいに挙動不審になっちゃうのは何故なんだろう。
―― そっか、私、伊月さんのこと…
不意にこの瞬間、私は自分の気持ちに気づいてしまった。
―― そっか、私、この人の事、好きなんだ。
私は改めて伊月さんの目を見た。
伊月さんのヒノキのお香の香りを感じる。
__ あぁ、やっぱり好きだな…
胸の奥がキュンとうずいた。
恋愛という恋愛をしたことがない私には手に持て余す感情だった。
「那美...どの...」
―― この人のこと独り占めしたいって思ったんだ。
何て馬鹿なんだろう。
伊月さんは人質とはいえ隣国の王子様で、沢山の武士を纏める将軍だ。
私みたいに何も持ってない異界の女が釣り合うわけもない。
なのに他の女性にヤキモチなんて、本当に馬鹿みたい。
「ごめんなさい…」
堪えようと思ったけれど、こらえきれずに涙が頬を伝った。
「な、那美どの?」
「いつか、きちんとお話しします。でも今日は無理…。ごめんなさい。」
私は伊月さんの腕をそっと押しのけた。
太くて傷だらけで頼もしい腕だ。
何度もこの腕に助けられた、愛しい腕だ。
「ま、待て。せめてこれを持っていけ。」
伊月さんは私の手を握って、自分の手拭いを乗せた。
「あ、ありがとうございます。」
私はそのまま伊月さんの顔を見らずに屋敷を飛び出した。
私の恋は、自分の気持に気付いたと同時に、ほぼ終わりを告げた。
「おぃ、那美の作った飯を食わせろ。」
今日も今日とて八咫烏が、ずかずかと伊月の屋敷に入って来た。
「ど、どうした?」
いつも嫌味の一つや二つ言い返す伊月が食卓におらず、平八郎と源次郎が辛気臭い顔で夕餉を食べている。
「伊月はどこだ?」
「あるじなら縁側で酒を飲まれております。」
「こんな雨の夜にか?」
「那美様と何かあったようで不貞腐れております。」
源次郎がいつものごとく白けたように言った。
平八郎が言うには、那美が泣きながら出て行ったのだそうだ。
―― あの不器用男め。
八咫烏が縁側に行くと、何ともしょぼくれた図体のでかい男が一人酒を飲んでいる。
「おい。俺にも飲ませろ。」
八咫烏はドカッと伊月の隣に腰を降ろして、持ってきた湯のみを差し出した。
伊月はちらっと八咫烏を見ると、渋々八咫烏の湯のみに酒を注ぐ。
「何があった?」
「那美どのに避けられている。」
「そんなことは知っている。」
「は?」
「それより俺が聞きたいのは、今日、何故、那美が泣いていたかだ。」
「おい、ちょっと待て、何故、私が避けられていると知っているのだ? 言ったことはないぞ。」
「いやいや、一緒にオババ様のところに酒を運んだだろうが。」
伊月は訳が分からずに八咫烏を複雑な面持ちで見ている。
―― 気づいておらんのか、こいつは。
「お前、阿呆だな。」
「な、何だいきなり。」
「いつから那美がお前を避けているか考えろ。そしてその日に何があったか思い出してみれば明々白々だろうが。」
伊月は顎を撫でながら考え込んでいる。
一生懸命思い出そうとしているのだろうが、思い当たる節がないらしい。
「おい、それよりも、なぜ那美が泣いたのか教えろ。お前が泣かせたのか?」
「...おそらく。」
伊月がいうには、あまりにも避けられて苛立ちが募り、
那美が去ろうとする退路を断ち、何があったのか問いただしたということだ。
「多分、おそれられたのだろう。」
―― 源次郎が白けた顔を向けるのも無理はない。
「八咫烏、なぜ私は避けられている?」
「教えてやるか。自分で考えろ、阿呆が。」
「考えても分からぬから聞いておるのではないか。」
「お前がその調子だと、遅かれ早かれ平八郎に負けるぞ。」
「は? 平八郎に?」
「あの二人は気が合いそうだからな。」
「な、何?」
―― 何も気づいておらんのか、こいつは。
八咫烏は呆れたというように、ため息を付き、湯のみの酒を飲み干した。
「お前、あれだけ俺を牽制したんだ。平八郎に負けるなよ。じゃあな。」
「お、おい!」
八咫烏はカラスの姿になって、雨の夜空に飛んで行った。
―――
次の日、どんな顔をして伊月さんに会えばいいだろうと思いつつも屋敷にお邪魔すると、平八郎さんしかいなかった。
伊月さんはお城に行ってお仕事することも多い。
この日も、伊月さんは源次郎さんを連れてお城に行ったそうだ。
平八郎さんと私はいつものように家事をして、一段落した。
することもなくなったので、そろそろ、タカオ山に帰ろうと思った時、ふと平八郎さんの袴の裾に目が行った。
「あの、平八郎さん、袴の裾がほつれていますよ。」
「あ、本当だ。お恥ずかしい。」
「良かったら、ほつれを直しましょうか?」
「いいんですか? では、別の着物に着替えてきます。」
平八郎さんが部屋に戻っていき、私は裁縫箱を取り出した。
―― 今日はすごく天気がいいなぁ。
さみだれの季節には似合わず、珍しく青空が広がっていた。
私は縁側まで行き、空を見上げた。
「今日はすごく天気が良くて気持ちいいから、ここで袴の修繕してもいいですか?」
私は日当たりの良い縁側に陣取って袴を持ってきた平八郎さんに聞いた。
「もちろんです。では、お礼に、お茶とお菓子をお持ちしますね!」
「気を使わなくてもいいですよ。」
「いえ、ぜひさせて下さい。とは言え、お菓子は那美様がさっき作られた物ですが。」
平八郎さんはどこか嬉しそうにお茶の準備をしに部屋に戻った。
私は縁側に座ったままで袴の修繕を始める。
―― ここの方が部屋の中より明るくて作業がはかどるな
しばらくして、平八郎さんがお茶とお菓子を持ってきた。
一緒に並んで縁側に座り、二人で同時にお茶をすする。
久しぶりにゆったりと時間が流れている気がしてほっと息をついた。
「何だか心がほっこりします。」
「私も同じ事を考えていました。」
「奇遇ですね。きっとこの天気のせいですね。」
平八郎さんに微笑みかけると、平八郎さんが真剣な表情で見つめてきた。
「那美様の笑顔、久しぶりに見ました。」
「え?」
「このところ、ふさぎ込んでおられたので心配していたんです。」
―― そ、そうかな…。
「私ってもしかしたら思ってることがすごく顔にでやすいのかもしれないです。」
「そうですね、那美様は表情がコロコロ変わられます。私でよろしければ相談に乗りますよ?」
平八郎さんの気持ちは嬉しいけど、最近自覚してしまった私の伊月さんに対する恋心の相談なんてできるわけもない。
―― でも…
「えっと、何かを知りたいのに知ってしまったら、心が傷つきそうで怖いことってありますか?」
「うーん。知ってしまったら傷つくかもしれない真実というのはどういうことでしょう…」
「例えば、好きになった人がもうすでに別の人と恋仲かもしれないだとか…」
「え?」
「例えば、ですよ、例えば。あと例えば、今まで親友と思ってた人が本当は自分をだまそうとしているかもしれないとか…。あと例えば、今まで親だと思ってた人が実の親じゃないかもとか…。」
ごまかすために適当なたとえ話を付け足す。
「…そうですね。私はやはり傷ついても真実を知りたいと思います。真実を知らなければ前に進めませんし、対策もこうじることができませんから。」
「…やっぱり、そうですよね。」
私は手の平をきゅっと握りしめた。
―― やっぱり真実を確かめよう。
―― キヨさんとの関係を聞こう。
聞いたところで何かが変わるとも思えないけど、せめて伊月さんを避けないようにしないと。
―― でも、何て聞いたら…
―― はっ、本人に直接聞かなくても…
私は袴の修繕を終えて、平八郎さんに袴を返しつつ、それとなく話を振ってみた。
「あの、平八郎さん、皆さんは忙しくて彼女とかいても逢瀬の時間もなさそうですよね?」
「かのじょ、とはどういう意味でしょう?」
「えぇっと、恋仲の女性のことです。」
「あぁ、堀様も源次郎さんも女性に人気ですのでそういう方がいらっしゃるかもしれませんね。」
―― 伊月さんのことには触れなかったな!
平八郎さんから聞き出す作戦は失敗してしまった。
「ところで那美様はどうなのですか?」
「え?」
「あっ、女性に対して不躾な質問でしたか?」
「ううん、別に大丈夫ですよ。私は結婚もしてないし、恋仲の男性もずっといないです。仕事と、自分の好きなことばっかりしてたから。」
「そうですか。ここのところ、恋仲の男性の事でお悩みかと思っていました。」
「そ、そんなんじゃないですよ。平八郎さんは?」
「私も那美様と同じです。」
「そっか。お互い、いつか素敵な人が見つかるといいですね。」
平八郎さんに微笑みかけると平八郎さんも微笑み返してくれる。
やっぱり癒されるな、このエンジェルスマイル。
「私、そろそろ、オババ様の所へ戻りますね。」
「はい、あの、袴、ありがとうございました。またお世話になってしまいました。」
「いえ、こちらこそお茶ありがとうございました。話も聞いてもらって嬉しかったです。」
私はお礼を言ってタカオ山に戻った。
____
平八郎が那美の後ろ姿を見送っていると
「こんなところで何をしている、平八郎?」
後ろから声がして、振り向くと眉根を寄せた伊月が立っていた。
「あ、主、裏口からお帰りでしたか。先ほどまで、那美様とお話をしていたのです。お茶と団子、いかがですか。お茶は私が入れましたが、お団子は那美様特製ですよ。」
伊月は平八郎の横に腰かけ団子をほおばる。
「さっき、恋仲がどうのって話が聞こえたんだが。」
「はい。那美様に恋仲の男性がいらっしゃるかお聞きしたのです。ここのところ塞ぎこんでおいででしたので、もしかしたら恋仲の男性についてお悩みではないかと思ったのです。」
「・・・・。」
しばらくの沈黙の後、伊月がいつになく難しい顔をして平八郎に迫った。
「平八郎、その話、詳しく聞かせろ。」
―― 今日こそは、避けずにちゃんと伊月さんと向き合おう。
私は気持ちを切り替えることにした。
伊月さんに彼女がいてもいなくても、例えこの気持ちをあきらめなければならなくなっても、一緒にいる間は楽しく過ごして、いい思い出を作りたい。
そう心に決めながら伊月さんの屋敷で今日も雑用をこなす。
―― と、言っても、今日も空振りかな。
伊月さんは今日もまた、源次郎さんと出かけているらしかった。
平八郎さんに部屋の掃除を頼んで、私は台所で作り置きする物を準備していた。
もうそろそろ、家事も終わって、切り上げようと思っていた時だった。
台所の扉がスパンと開いた。
びっくりして扉の方を見ると、伊月さんが立っていた。
「い、伊月さん。びっくりしました。こんにちは。」
伊月さんは今帰ってきたばかりみたいで、荷物の入った風呂敷を背中に背負っている。
荷ほどきもせずに無言で台所にずんずん入って来たかと思うと、私の腕をつかんだ。
「え?」
「話がある。こちらに。」
私は伊月さんに腕を引かれるままについて行く。
廊下に出ると、パタパタと足音が聞こえた。
「那美さま!少々お待ち下さい。」
―― ん?
振り返ると、小走りに平八郎さんがこちらへ寄ってくる。
伊月さんはパッと掴んでいた腕を離した。
「平八郎さん、どうしたんですか、慌てて?」
「…。」
伊月さんは立ち止まり無言で様子を見ている。
「はい、お帰りになる前に、これをお渡ししたくて。」
「え?」
平八郎さんは懐から小さな巻物を取り出し、私に手渡す。
「これ、何ですか?」
「市で見つけた短歌集です。女性の好まれるような情緒溢れる短歌が沢山収めてあります。先日は袴のほつれを直して頂いたのに、しっかりお礼もできていませんでした。」
「そんなに気を使わなくてもよかったんですよ。でも、ありがとうございます。大切に読みます。」
平八郎さんの優しさが嬉しかった。
「あ、でも、私、短歌読んでも意味がわかるかなぁ。」
ふと不安をもらすと、平八郎さんはにっこりエンジェルスマイルを浮かべて言った。
「では良かったら私が那美様の時間がある時に解説いたします。」
「それは嬉しいけど、平八郎さん忙しいんじゃ?」
すると、さっきまで様子を見ていた伊月さんがスタスタと歩み寄ってきた。
「平八郎、お前も那美どのも当分忙しいだろう。短歌は武術大会が終わってからにしろ。」
「そうですね。主のおっしゃるとおりですね。」
平八郎さんは少し残念そうに見えた。
「じゃあ、私たちはこれから話すことがあるので。」
そう言うと、伊月さんは私の手をぐいっとひっぱり、また歩きだした。
「え、あ、い、伊月さん?」
伊月さんは振り返らずスタスタと歩く。
「あ、へ、平八郎さん、ありがとうございました! また落ち着いたら、お願いしますね!」
理由もわからず伊月さんに連れていかれながら、平八郎さんにお礼を告げる。
やがて伊月さんは厩に私を連れて行き、すっと手を離した。
そのまま有無を言わさず私の体を持ち上げ、黒毛の背中に乗せた。
「きゃっ、あ、あの、どこに?」
伊月さんはいつかしたように、私の後ろに乗ると、黒毛を歩かせた。
―― どうしよう。
伊月さんのことが好きだと自覚してしまい、改めて伊月さんに会うと、胸が張り裂けそうだ。
ただでさえドキドキするのに馬上ですごく密着していて、意識してしまう。
伊月さんの筋肉質な体を、着物から香るヒノキの香りを、どうしようもなく意識してしまう。
―― 私、今、きっと顔が真っ赤だ。
「無理矢理連れて来てしまってすまない。」
「あ、いえ…。」
「話したいことがあって。」
伊月さんは小高い丘の上で馬を止めた。
「わぁ。」
そこには紫陽花が咲き乱れる花園があった。
「綺麗!」
「降りてみるか?」
「はい!」
伊月さんは黒毛を木の幹に繋ぎ、私を馬から降ろす。
「こちらに…。」
そして、そっと私の手を取って歩き出した。
―― もしかして、伊月さん、私の事を喜ばせようとしてくれてる? だからこんな綺麗な所に?
ちらっと伊月さんの顔を見上げると、バチっと目が合った。
大好きな人の顔をこんなにしっかり目を合わせて見たのは、久しぶりだ。
「伊月さん…。」
愛おしさがこみ上げて来て、言いたいこともわからないまま、名前を呼んだ。
伊月さんはふっと笑うと、急に私の体を持ち上げ、横抱きにした。
「あのっ…足怪我してませんよ?」
「この辺は連日の雨でぬかるんでいる。」
伊月さんは私を抱いたまま、花園の中頃にある東屋まで歩いて、私をそっと降ろす。
離れていく伊月さんの体を引き寄せて抱きしめたくなる衝動にかられた。
伊月さんは東屋に置かれている石の長椅子が乾いているのを確かめて私を座らせた。
伊月さんはおもむろに背負っていた包みを背から降ろし、私に差し出した。
「これをやる。」
「え? これ、何ですか?」
伊月さんはぶっきらぼうにいいながら包みを差し出す。
「ほら、受け取れ。」
「は、はい。」
言われるままに包みを両手で受け取ると、ちょっと重たい。
伊月さんがするっと包んであった風呂敷をとくと中から綺麗な長方形の桐の箱が出てきた。
桐の箱には見た事のある紋が入っている。
―― あ、この紋って...
前に伊月さんが城下町に連れて行ってくれた時に立ち寄ったお店の紋だ。
そして、あの時、キヨさんと買い物してた時のお店でもある。
不思議に思いながら伊月さんの顔をうかがうと、
「かどわかし事件の捜査に協力してくれた礼だ。」
「これ、私にですか?」
「そなた以外に他に誰がいる?」
すっかり、あの店で、キヨさんのために何か買っていたのだと思っていたからびっくりした。
―― キヨさんにじゃなく、私に?
どうしよう、何か、ばかみたいに嬉しい。
「あ、ありがとうございます!」
あまりにも嬉しくて大きな声を出してしまう。
「そ、そんなに力まないで良いではないか。それより開けてみたらどうだ。」
私は伊月さんに言われるまま箱を開けた。
「わあ、可愛い!」
中にはきれいな淡い色の上質な絹でできた織物の反物が入っていた。
「それから、これも…。」
伊月さんは、もう一つの大きめの桐の箱を手渡してくれる。
そっと開けてみると、反物にぴったり合うデザインの帯、帯揚げ、帯紐だった。
帯には織糸に少し金糸が入っていて、繊細な刺繍が施してあり、とても上質なのがわかる。
「すごい! 可愛いーーーー!!!」
思わずため息が出るほど、上品で、でも可愛くて、思わずウットリする。
「こんなにたくさん、もらってもいいんですか?」
「…気に入らぬか?」
「まさか! とても綺麗です! こんな綺麗な正絹も、刺繍も、初めて見ました!」
「気に入ったなら、良かった。しかし、まさか平八郎に先手を取られるとは思わなかったが…」
伊月さんがボソッと何かいう。
「え? 何か言いましたか?」
「…別に。気にするな。」
「はい? それにしても、すごく上質な生地ですねぇ。ずっと触っていたいです。」
細かい匠の技が散りばめられた刺繍に感動して思わず細部に目を凝らす。
「それで着物でも作るといい。」
―― そっか、この世界では皆、基本的に自分の着物を自分で縫うんだ。
私は夕凪ちゃんに、着物の縫い方を教えてもらおうと決めた。
「本当に嬉しくて、何とお礼をいっていいかわかりません。」
私は貰ったものが汚れないようにそっと包み直し、箱に入れて、両腕で抱きしめた。
嬉しくて目頭が熱くなる。
私が馬鹿みたいなことに嫉妬して、伊月さんに失礼な態度とっていたのに、伊月さんは私のことを考えてくれてたんだ。
「い、つき、さん…。」
喉の奥が熱くなって、言葉が上手くでてこない。
「嬉しいです。」
思わず伊月さんを見上げると、ふっと伊月さんが笑って私の頬をむにっとつかんだ。
「うっ..。」
「ようやく笑ったな。」
伊月さんがいつになく優しく微笑みかける。
―― 伊月さんのいたずらっぽい笑顔、久しぶりに見た。
日に当たって伊月さんの漆黒の目がキラキラ光っている。
「あの、ひ、ひひゃいです・・・」
はははと笑いながら、伊月さんが手を離した。
―― もっと、こういう時間を伊月さんと過ごせたらいいのに。
そんな事を考えていると伊月さんはふと、恨みがましく眉根を寄せて私を見つめた。
「那美どの・・・いろいろと悩み事があったんだそうだな?」
「え?」
「ここ数日、那美どのの様子が変だったから、平八郎に探りを入れたら、親が実の親じゃないかもしれぬ、とか、何か、そういうことで悩んでるみたいだったと聞いた。」
「え?」
―― 私がごまかしで入れたたとえ話がメインの内容になってる?
―― 確かにそういう話したけど、いろいろ間違ってるよ、平八郎さん!
「あ、いや、ちょっと違うんですけど…。」
「違うのか?」
「まあ、それは例え話なんですけど、悩んでたのは違わないです。」
―― うそは言ってないよ、ね?
「そういうことなら平八郎なんぞにわざわざ言わずとも、私に言えばいいだろう。」
―― え?
意外な伊月さんの言葉に目を瞬かせていると、
―― あ…
伊月さんがさらに眉間のしわを深めながら、そっと私の頭をなでた。
優しくて、大きな伊月さんの手が少しくすぐったい。
「那美どの、挙動不審すぎだったぞ…。そんなに悩むくらいならさっさと言えばいいではないか。」
―― もしかして、すごく心配してくれてたのかな・・・?
優しく髪をなでる手が温かくて、そして照れくさくて、胸が高鳴る。
でも、本当の事を言ってないから、なんだか、伊月さんの優しさを素直に受け取れない。
きっと、本当の事を言ったら、迷惑がられるかもしれない。
―― でも…
もうこれ以上モヤモヤしたくない。
ごまかして逃げたり、避けたりしたくない。
私は意を決して、伊月さんに話すことにする。
どうせ隠したって、また挙動不審になる自分を抑えきれずに、伊月さんに失礼な態度を取ってしまうかもしれない。
「あの、親が実の親じゃないかもしれないとか、それは本当に例え話しで、私が悩んでいたことは全然違うんです。」
「そうなのか?」
「はい。そんな感じで、知りたいけど知りたくない事がある時に、気持ちをどう整理したらいいんだろう?って話をしてて…。」
伊月さんは私から手を離して心配そうに顔を覗き込んだ。
「そなたの親御さんの事ではなかったのか?」
「いいえ。そもそも親は私の小さい時に亡くなってるし。」
「そうなのか? では、その知りたいけど知りたくないこととは?」
「しょ、正直に言いますから、ひかないで下さい。」
「大丈夫だ。言ってみろ。」
私は一つ大きく深呼吸をした。
キヨさんの事を言えば、伊月さんに私の気持ちが知られてしまう。
でも…。
私は膝の上でキュッとこぶしを握った。
「私、ずっとキヨさんのことが気になってて…。」
「ん? キヨのことが?」
伊月さんは、このタイミングでキヨさんの話題が出たのが意外すぎる、というような顔をした。
「ずっとキヨさんのこと知りたかったんです。でも、知りたくなくて。」
「一体、どういうことだ?」
「この前、キヨさんと伊月さん、逢瀬だったじゃないですか?」
「お、逢瀬? 私とキヨが?」
「はい。それを見て、ずっと気持ちがモヤモヤしてて…。それであんな態度をとってしまいました。」
―― 子供っぽいって、嫌らわれるかもしれない。
「ど、どういうことだ?」
伊月さんは、本当に何も気づかないみたいだ。
ものすごく困惑したような表情を浮かべている。
―― やっぱり、もうちょっと、はっきり言わなきゃ、伝わらない。でも…
私は思い切って、口を開いた。
「伊月さんだって大人の男性です。女性とデート...逢瀬に行くことだって自然だと思います。私を城下に連れて行ってくれた時も、女性の好きそうなこと沢山知ってて、あぁ女の人にも、逢瀬に行くのにも慣れているなって分かってたし。でも、どうしても、それが嬉しくなくて…。」
「な、何を言って...?」
「でも、私、結構色々我慢してたんです。伊月さん忙しそうだったから、かまってもらいたくても、できるだけ伊月さんの邪魔にならないようにしてたのに...。」
「那美どのを邪魔などと思った事は一度も...。」
思い切って、口を開いたら、どんどんため込んでいた気持ちが、堰を切ったように、あふれ出して、手に負えないくらいに大きくなって、そして、止まらくなった。
「伊月さんが、何かして欲しいことはないか、って聞いた時、本当はもっと伊月さんとお話したり、また月の峠に一緒に行ったりしたいって言いたかったんです。でも忙しい伊月さんにそう言えなくて。でも、伊月さん、そんな忙しい中でも、キヨさんとの逢瀬には時間を確保していたじゃないですか?」
「ちょっと待て、何か誤解が...」
「そんな中、あんな風に、キヨさんとイチャイチャしてるの見せられて、私、すっごく、嫌だ!って思っちゃったんです。私だって伊月さんと、もっと一緒に過ごしたいのにって。」
「イ、イチャイチャ? そ、それは断じて違う!」
「いいんです!私が勝手にモヤモヤしてただけなんです。伊月さんは何も悪くないです。私がただ、勝手に焼きもち焼いて、あんな態度取ってしまっただけなんです。失礼な態度取って、本当にすみません!」
「や、き、もち?」
伊月さんは私の言った事を反芻した。
そして、その瞬間、伊月さんの顔がブワっと赤くなった。
―― え?
そして、伊月さんは、がばっと背中を向けた。
「ど、どうしたんですか?」
背を向けている伊月さんの顔を覗き込むと、耳まで真っ赤にして、頭を抱えこんでいる。
―― どうしよう、嫌われちゃったかもしれない。
「あの…。やっぱり、あきれました?ひきましたよね?本当にすみません…。」
―― どうしよう、キモイって思われたらどうしよう。ウザイって思われたらどうしよう。重いって思われたらどうしよう。
言ってしまって、後悔の念が一気に押し寄せて来る。
背を向けたまま頭を抱え込んでいる伊月さんを見て、不安に胸をつぶされそうになった。
―― いざとなったら、友達として、もっと一緒に過ごしたいっていう意味で言ったって、ごまかそう!
なんて、ずるいことを考えていたら、伊月さんは背中を向けたまま、急に、スっと立ち上がった。
「う、嬉しい。」
「え? 今、何て・・・?」
何て言おうとしたのか聞こうとしたら、伊月さんがいきなり 「くそぉおおおお!」と 叫び始めた。
―― な、何が起こっているの? そ、そんなに嫌だったの?
しばらく叫んで少し落ち着きを取り戻したのか、伊月さんは、ふうと息を吐いた。
それからゆっくり石の長椅子に座りなおして、私の方を見た。
―― ああ、もう、ダメだ。絶対、嫌いって、キモイって言われる。
これから来るであろう絶望の淵を覚悟して、私は伊月さんの言葉を待った。
「う、嬉しいと言ったのだ。」
「へ?」
―― 嬉しいって?
「や、焼きもちなど、そ、そんな可愛い事を…。」
―― か、可愛いって? キモイじゃなくて?
今、聞いた言葉が聞き間違えじゃないかと、一生懸命、思考を追いつかせようとしていると、伊月さんがまた、立ち上がって、「あ”ーーーーーーー!」と 叫び始めた。
―― その叫ぶのは何なの???
伊月さんはしばらく叫んだ後、また、ふうと息を吐いて、長椅子に座りなおした。
「まず、誤解を解きたい。キヨは私の部下で、優秀な忍だ。」
「え?」
「あの日も任務中だった。逢瀬などでは、断じて、ない。」
「え? えええええ?」
今度は私の方がブワッと赤面した。
―― 部下?
そうだとは知らずに勝手にデートだと想像を膨らませて、嫉妬していたなんて、恥ずかしすぎる。
私はあまりの恥ずかしさに顔を両手で隠した。
「は、恥ずかしいです。勝手に想像して...。すみません。」
でも、伊月さんが私の両手をそっと掴んで顔から離した。
それから私の頬をそっと両手ではさんで上向かせた。
伊月さんも顔が赤い。
「可愛い…。」
伊月さんは絞り出すように言うと、次の瞬間、私をぎゅっと抱きしめた。
―― え?
頭の後ろをきゅっと抑えられて、伊月さんの厚い胸板に顔を押し付けられる。
伊月さんの鼓動が聞こえる。
―― ど、どうして抱きしめられてるの?
どうしていいか分からずにかたまってしまう。
「い、伊月さん…。一体どうして…。」
伊月さんは私の肩に顔をうずめてため息をついた。
「私は…那美どのが可愛すぎて、おかしくなりそうだ。」
「え? な、なんで…。」
「しー。 しばらく、じっとしていろ。」
「は、はい?」
有無を言わせぬ甘い命令に私は口をつぐんだ。
この瞬間がいとおしすぎて、私もそっと伊月さんの背中に手を回した。
ごつごつしていて、大きくて温かい背中だ。
紫陽花の香りが私たちを包む。
ドキドキもするけど、安らぎもする香りだ。
私たちはしばらくそのまま体をくっつけあって、ただお互いの鼓動を感じていた。
伊月と那美が紫陽花の花園に行っていた頃…、
―― ん?
伊月の後に続いて屋敷に帰ってきた源次郎と堀は廊下に佇む平八郎を見つけた。
「おい。」
「あ、源次郎様、堀様。」
源次郎と堀は顔を見合わせ、二人とも平八郎の様子がおかしいと思っているというのを確かめあう。
「こんな所でぼーっと突っ立ってどうした?」
「あ、あの、さっきまで那美様に声をおかけしてお話をしていたのですが…。」
「おう、それでどうした?」
「急にあるじが来られて那美様を連れて行かれました。」
平八郎はどこか遠い目をしている。
源次郎も堀も平八郎の次の言葉を待っている。
「何かお話しがあると仰ったんですが….。」
「ん?」
平八郎の顔が急に憂鬱に沈む。
「おい、平八郎、大丈夫か?」
「は、はい。ただ何故か胸がモヤモヤするのです。」
そこにバサバサと羽音が聞こえた。
源次郎と堀が振り返ると、ニヤニヤしながら近寄ってくる八咫烏がいた。
「お前たち、面白そうな話をしているな。俺にも聞かせろ。」
平八郎はびっくりした表情をする。
「え? 面白そうな話とは?」
堀が平八郎の肩に腕を回した。
「平八郎、お前にもとうとう春がきたのか?」
「え? 堀様。春とは、どういうことですか? 今はさみだれの季節ですよ。」
源次郎が哀れみを込めた目を向けて、堀に対峙する。
「堀様、平八郎をあまりからかわないで下さい。こいつは耐性がないんで。」
「げ、源次郎様、耐性がない、とはどうゆうことですか?私は忍耐強い方ですよ?」
平八郎の反駁に源次郎は、ため息を一つついて、頭を左右に振った。
そして、八咫烏が平八郎の顔を覗き込んで言う。
「平八郎、その胸がモヤモヤするというのを、もっと詳しく説明してみろ。」
それからしばらく平八郎への尋問は続いた。
伊月さんの屋敷で家事手伝いをする日々も終わりを迎えた。
いよいよ武術大会の準備も整い、源次郎さんもずっとお家にいれるようになり、平八郎さんも一人で何でもそつなくこなせるようになって、私は手伝えることがほとんどなくなった。
少し寂しい気もするけど、伊月さんたちが元の生活に戻って、落ち着きを取り戻し始めているのは嬉しい。
―― それにしても伊月さんって本当に何を考えてるのかわからないな。
私はあの日、紫陽花の花園でキヨさんに焼きもちを焼いていたことを打ち明けた。
伊月さんは、私のヤキモチを可愛いと言いながら、私の事を抱きしめてくれた。
―― 本当に幸せすぎてどうにかなるかと思った。
思わずニヤけそうになる自分の頬を両手でペチンと叩く。
―― でも...でも!
私は焼きもちを焼いてたってことを打ち明けた事で、伊月さんのこと好きだって言外に言ったつもりだったんだけど…。
伊月さんが私の事をどう思っているのか、とか、そういうのは教えてはくれなかった。
それに、ハグ以外の進展も、今のところ、ナシ。
―― もどかしすぎる!
あの長いハグの後、普通にタカオ山まで馬で送ってくれて、普通にさよならして、普通に次の日も伊月さんの屋敷に行って家事手伝いやって、普通に伊月さんと雑談した。
―― 少なくとも嫌がられてないっていうのは分かったんだけど…。
あまりにも今までと変わらなさ過ぎて拍子抜けしている。
―― もう少し何か言ってくれても良くない?
―― もしかして、何か駆け引きされてる?
と、あれから悶々と考えている。
「これだから大人の男の人ってずるい。」
―― 私、駆け引きみたいなの、出来ないのに。
一つだけ違ったことはあった。
いよいよ明日は武術大会で、私が伊月さんの屋敷にお手伝いに来るのは最後の日という時、伊月さんが来て、コッソリ私の耳元でささやいた。
「武術大会の後、月が出たらあの峠に行こう。」
「え? いいんですか? 武術大会のあとも忙しいんじゃ?」
「大丈夫だ。だが、みんなには内緒だ。」
伊月さんの重低音ボイスが耳をくすぐって、秘密めいた逢瀬の約束にドキドキした。
―― もしかして、そこで少しは展開があるのかな?
なんて、淡い期待もある。
―― 明日は頑張っておしゃれしなきゃ。
そして、その日の夕方。
―― で、できた!!
私は伊月さんにもらった反物で作った打ち掛けを目の前に広げた。
―― わぁ、きれい!!
障子越しに届く柔らかな日の光に照らされて、刺繍模様がきらきら輝く。
―― これ、早く着たいな。
私は数日前に夕凪ちゃんとオババ様に反物を見せて、これで何を作ったらいいか相談した。
「おぉ、これは良い品じゃな。 伊月もなかなかやるではないか。」
「可愛いですね!那美ちゃん、やっぱり伊月さんといい感じじゃない?」
「これを打掛けにして、武術大会に着ていけばよい。」
「え、武術大会に、ですか?」
「うむ。これなら共舘家の客人として他の侍大将たちの前に出ても恥ずかしくないな。」
オババ様いわく、この武術大会は亜国傘下の豪族たちを呼んで盛大に行うそうで、私も伊月さんの客人として、位の高い武人たちとも会う機会がある。
「そ、そんな大事な会に私が行ってもいいのでしょうか?」
「良いから呼ばれたのだろう。まぁ、せいぜい伊月に恥をかかせぬくらいには礼儀作法を教えてやる。」
「うっ...。自信がない...。」
「人間って堅苦しいのが好きだよねー。あぁ、化け狸の私には面倒くさいわぁ。」
夕凪ちゃんは尻尾を振りながら言った。
「でも、こんなに綺麗な反物で作った着物を着られるのはうらやましいな。那美ちゃん、頑張ってね。」
「夕凪ちゃん、ありがとう。」
私はオババ様と夕凪ちゃんに教えてもらいながら作った打掛けをはおってみた。
―― わぁ。
思った以上に華やかだった。
豪華さのなかにも可愛さと上品さが共存している。
―― 間に合って、良かった。 それにしても…
「伊月さん、センスいいなぁ…。」
―― もしかして、女の人のプレゼント買い慣れてる?
―― ・・・いや、そういうことは今、考えない!
このところの伊月さんとの曖昧な関係で増してきている不安を押し込めた。
―― 明日の武術大会に集中しよう。
武術大会に行くのは緊張だけど、けっこう楽しみにしている。
そして、武術大会の後に月の峠に行くのは、もっと楽しみだった。
本当は伊月さんと月の峠に行きたいって思ってたんだけど、伊月が忙しいから、わがまま言えなかったって、言ったこと、覚えてくれてたんだな。
私は少しの緊張と多くの期待の中、眠りについた。
いよいよ武術大会当日。
「那美ちゃん、すごく綺麗だよ!いつものじゃじゃ馬ぶりがうそみたい!」
「ありがとう...。 そんなにじゃじゃ馬なつもりなかったけど。 でも緊張するなぁ…。」
私は夕凪ちゃんに手伝ってもらって、きれいにお化粧され、髪もゆってもらって、伊月さんからもらった反物で作った着物をきた。
お茶の飲み方、話し方、歩き方、座り方、事細かにオババ様から指導を受け、準備満タンだ。
「伊月に恥をかかせぬようなふるまいをせねばな。」
「は、はい。」
念を押されて、オババ様が用意してくれた籠に乗った。
会場へ赴くと、
―― あ、伊月さんだ!
私は家臣に囲まれた伊月さんのところに近づいた。
「お、これは那美様!」
正次さんが私に気づいて声をかけたので、伊月さんもこちらに気付いて振りむいた。
「おはようございます、伊月さん、みなさん。」
「...っ!」
伊月さんが固まっている。
「あ、あのう、伊月さん? 」
「お、はよう。」
どことなくぎこちない伊月さんを見て、正次さんが大きな声を上げた。
「おおお! 殿が那美様に見とれておられる!」
―― え?
「なっ。堀、うるさい!」
伊月さんは肩を怒らせながら、早歩きでその場を立ち去った。
―― あ、行っちゃった…
反物のお礼を言って、着物の仕立て具合を見て欲しかったんだけど、不発に終わってしまった。
私は肩を落として用意された席に行く。
すぐに正次さんが近くに座って、声をかけてくれた。
「緊張せずともようございます。那美様はただそこで楽しく見学して下さい。」
「わ、わかりました。」
やがて伊月さんも席に着き、その近くに源次郎さん、平八郎さんたちも次々に座った。
「いやいやー、那美様、今日はまた一段とお美しいですね。」
源次郎さんが手放しでほめてくれて照れてしまう。
「あ、ありがとうございます、源次郎さん。」
「本当に、思わず見とれてしまいましたよ。」
「へ、平八郎さんまで!? ありがとう…。」
―― 一番何か言ってほしかった伊月さんは、私の方を見てくれないな。
やがて、続々と招待客が集まってきて、伊月さんに挨拶をする。
殆どは亜国の地方の豪族らしい。
殆どの武将が伊月さんにお礼の言葉を言っている。
「先日は魔獣討伐に兵を貸していただき、ありがとうございました。」
「砦の修繕を手伝って頂きありがとうございました。」
伊月さんって、やっぱりすごいんだな。
こんなに沢山の武将たちから慕われてる。
観客たちのあとに会場に入って来たのは競技参加者だ。
みんな各地から集まった腕に自信のある男たちだそうだ。
―― うわー、皆強そうだなぁ。
伊月さんにも負けず劣らずの強面で、いかにも屈強そうな人が沢山いる。
伊月さんがおもむろに立ち上がり、言う。
「これより、武術大会を始める。」
ざわついていた会場が一瞬でシンと静まった。
「競技は、力比べ、弓、やり、剣術、柔術。どの競技においても、存分にそなたらの力量を発揮せよ!」
「おぉぉお!」
伊月さんの掛け声に、男たちの荒ぶる声が響き渡る。
―― す、すごい!
私はその迫力に気圧されそうになった。
観客たちにとっては良い余興なんだろうけど、この試合で優勝すれば、立身出世になる、ということで、競技に参加している名もない若者たちにとっては真剣な勝負の場だ。
―― 伊月さんは実力主義者なんだな。
どの競技も大いに盛り上がり、観客たちも思わず立ち上がり、特定の人を応援したりする人も現れた。
競技ごとに誰が勝つか賭けをしている人たちもいた。
絶えず、お酒が配られていて、最後の方では相当に酔っぱらっている人もいた。
私もお酒を少し飲みながら、色んな人たちとお話をして、ほろ酔い気分だ。
―― 皆、楽しそうだな。
これまで正次さんを始めとして皆この会を成功させようと頑張っていた理由がわかった気がした。
若い人材のスカウトだけではなく、今、交流のある人たちとの親交を深める意味もあったんだ。
だけど、最後の競技が行われている時、私はふと不思議な気を感じた。
―― これは...!
私がまだ尽世に来てすぐのころ、城下町で感じた、黒い渦巻いたような気だ。
私は伊月さんに知らせようと思い、伊月さんの方を向くと、
―― あ
キヨさんが、お酒を持って、伊月さんの横に座った。
私は何故か、それを見て、伊月さんのもとに行けなくなった。
キヨさんは伊月さんにお酌をして、一緒に飲んで、何やら話している。
―― な、何か、二人の距離、近くない?
キヨさんは自分の体を伊月さんの体にもたれかけさせるように寄せていく。
―― もしかして、キヨさん、伊月さんのこと誘惑してる?
私は、きゅっとこぶしを握った。
伊月さんはいつもと変わらない様子だけど、キヨさんはもしかして伊月さんのことを好きなのかもしれない。
―― だって、何か秘密の話するって言っても、あんなに近くなくてよくない?
私は近距離でお酒を飲んでいるキヨさんと伊月さんのことが気になってしまい、完全に黒い渦巻く気の男の話をするタイミングを逃した。
やがてキヨさんは、そっと、伊月さんの肩に両手を置いた。
そして、伊月さんの耳元にぐいっと顔を近づけて、何かをささやいている。
―― な、何、そんな、イチャイチャしてるの?
そして、次の瞬間、伊月さんがキヨさんにささやき返す。
私は悪いと思いつつも聞き耳を立てた。
「すきだ。す...」
―― え
途中からよく聞こえなかったけど、伊月さんがキヨさんに「好きだ」って言ったのは確かに聞こえた。
―― 伊月さんもキヨさんのこと…
私は泣きたくなって、その場でうつむき、かたまった。
ただの部下だって言ってたけど、それ以上の関係にしか見えない。
あんなに距離近いし、耳元でささやき合ってるし、なんなの…
―― やっぱり大人の男の人ってずるい!
私は気持ちを伝えたのに、伊月さんは、私のことどう思っているか、気持ちを伝えてはくれなかった。
ただハグしただけで、曖昧にされて。
もし、伊月さんは、私の気持ちも分かった上で、キヨさんともいい感じで、両天秤にかけようとしていたとしたら…。
そう考えたら、泣きたい気持ちに怒りも加わった。
周りで起きてることがどうでも良くなった。
今すぐ帰って、布団にもぐって泣きたい。
―― でも、もう少し、我慢しないと!
私は泣きたくなるのを必死で抑えて、持っていた盃に入っていたお酒をグイっと飲みほした。
「那美さま、飲みっぷりが良いですね?」
平八郎さんが、私のところに来て、またお酒を注いでくれる。
「平八郎さん、私、今日、飲みます!」
「いいですね! 私もお付き合いしますよ!」
平八郎さんも乗ってきてくれたので、私はそれ以上、伊月さんの方を見らずに、ずっと平八郎さんと飲んでいた。