お仙さんやお仙さんのママ友さんたち、彼女たちの旦那さん方、他の手習い所の生徒さんたち、黒鍬衆の皆さんが、ほろ酔いのまま少しずつ帰って行く。
私は一人ずつ挨拶をして、来てくれた感謝を伝え、見送る。
―― 皆、楽しそうにしてくれてて良かった。
食事も美味しいって言ってくれたし、頑張って作ったかいがあったな。
何よりもオババ様の舞は感動的だった。
―― ただ、あれはないな。
オババ様はその後、グダグダに酔って、皆に絡み、酒癖の悪さを発揮していた。
源次郎さんや正次さんにも無理矢理飲ませていた。
八咫烏さんや猿の神使の皆は、オババ様の酒癖の悪さを知っていたみたいで、「絡まれぬうちに帰る。」と言って退散して行った。
夕凪ちゃんも眠いから寝るって、煙をまいて消えてしまった。
私が帰って行く皆のお見送りを終えて、宴を催した部屋に戻ると、オババ様、正次さん、源次郎さんが酔いつぶれてグースカ寝ている。
―― あれ? 伊月さんの姿が見えないな。
私は床で寝転がってる人たちが風邪をひかないように、お布団をかけてあげることにした。
別の部屋から布団を運んでいると、伊月さんが後ろから、歩いてきた。
「私が持とう。」
そういうと、伊月さんは私の手からスッと布団を奪い取った。
「あ、ありがとうございます。皆、酔いつぶれちゃって、寝てしまったので、お布団をかけようと思って。」
「酔っ払いどもにそこまでせずともよいのではないか?」
伊月さんはそう言いながらも、お布団を皆にかけるのを手伝ってくれた。
「伊月さんはどこか行ってたんですか?」
「ああ、馬の様子を見ていた。那美どのはもう眠いか?」
「いいえ。私、ほとんどお酒飲んでなくて、まだ眠くないです。」
「馬に乗ってみるか? 夜だから速駆はできぬが。」
伊月さんからの突然の提案に胸が弾む。
「いいんですか? 馬に乗ったことがなくて。乗ってみたいです!」
私と伊月さんは厩まで歩いた。
伊月さんが自分の馬を私に紹介してくれる。
黒くてツヤツヤの毛並みをした馬だった。
「黒毛という。」
―― ネーミングセンスがそのまんまでウケるかも。
―― せめて〇〇黒毛とかにしてもいいのに。
「黒毛さん、こんばんは。どうぞ宜しくお願いします。」
黒毛は私に鼻を寄せクンクンとにおいをかいだ。
恐る恐る頭を撫でると、もっと撫でろというように顔を擦り寄せてきた。
「ふふふ。かわいい!」
伊月さんに促され、私は黒毛の背中に乗せてもらう。
そして、私の後ろに伊月さんが乗った。
体が密着して、伊月さんの筋肉質な体を背中に感じて、どうしようもなく胸がドキドキし始める。
極めつけに、後ろから、伊月さんの手が私の両手を持った。
後ろから抱きしめられているような感覚に陥り、ドキドキがさらに加速する。
「ここに掴まっておけ。」
と言って、鞍の出っ張った所を持たせてくれる。
「は、はい。」
「タカオ山の西側に、ちょっとした崖がある。行ったことがあるか?」
「いいえ。そのへんはまだ。」
「そうか。ではあの崖まで行こう。」
伊月さんが私の顔の近くで話すから、重低音ボイスが耳元をくすぐって、さらに鼓動が速くなる。
―― ちょっと、心臓がもたない!
「そ、その崖に何かあるんですか?」
「月がよく見える。」
伊月さんが手綱を握り、黒毛の横腹を軽く蹴ると、ゆっくりと前進し始める。
「うわぁ、結構ゆれるんですね。」
「あぁ。私に背中をもたれさせておけ。」
伊月さんの太くてゴツゴツとした片腕が私のお腹にそっと回って、体を支えてくれる。
ドキドキしながらも、私は伊月さんの大きな体に自分の背中を預けた。
伊月さんの息遣いや、心臓の音が聞こえた。
そしていつものヒノキのお香の香りが鼻をくすぐる。
「何だか、とても安心するな。」
「そ、そうか…」
―― あ、また、つい心の声が漏れてしまった。
「ほら、もう着くぞ。」
伊月さんがそう言うと、周りに繁っている木々の数が減り、先の方に岩肌がむき出しの崖が見えた。
そのまま真っすぐ馬を歩かせると、視界を遮る木々は完全になくなった。
ただ目の前に大きな月が二つ並んでいる。
「わぁ。」
山肌から突き出ている崖に立つと、夜の空に岩ごと浮いているような感覚に襲われる。
月が大きくて近い。
「月まで歩いて行けそう!」
雲ひとつない晴れた夜空は言葉では言い表せないほど綺麗だ。
伊月さんが、馬から降りて、私の手を取り、馬から降ろしてくれる。
「この月を肴に一献傾けようと思ってな。」
伊月さんは岩肌に腰を下ろすと、腰に下げた酒瓶を見せた。
私も伊月さんの隣に腰を下ろす。
「こんな景色を肴にお酒って、何て、ロマンチック。」
「ロマンチックとは何だ?」
「えっと、情緒的というか、趣があるというか。」
「私には皆目似合わぬ言葉だ。」
伊月さんは苦笑いをしながら、懐から手ぬぐいの包みを取り出した。
綺麗に包んである手ぬぐいを開くと、中からお猪口が二つ出てきた。
「那美どのも飲むか?」
「じゃあ、少し頂きます。」
私達はまたお酌しあって、改めて乾杯した。
私は伊月さんがくれたお酒を一口飲んだ。
「はぁぁ。おいしい。本当に月が綺麗ですね。」
美味しいお酒と綺麗な月にウットリしていると、伊月さんがぼそっと言う。
「そなたの方が綺麗だ。」
―― え?
私はびっくりして伊月さんを見つめた。
「な、何でもない。」
伊月さんは私から目をそらし、月を見ながらお酒をグイっと飲んだ。
―― 頑張ってお世辞言おうとしてくれたのかな?
八咫烏さんや正次さんと違って、不器用な感じの褒め方が妙にくすぐったかった。
「そういう伊月さんはとてもかっこいいですよ。」
私は空になった伊月さんの杯にお酒を注ぎながら言った。
「世辞など言わなくていい。」
―― 本心から言ったのにな…
「お世辞じゃないです。いつも思ってます。大きくて、カッコよくて、私を助けてくれて、私にとってはスーパーヒーローです。」
「すうぱあひいろ、とは何だ?」
「えっと、英雄ってことです。」
「英雄? 私が?」
伊月さんは心底驚いたように目を大きくした。
「城どころか砦一つ持たぬ、扶持暮らしの一介の将だぞ。」
伊月さんは言いながら自嘲気味に笑う。
「そんなこと関係ないです。伊月さんは私のスーパーヒーローです!」
お世辞で言っていると思われたのがヤケに悔しくなり、ムキになって言い返す。
別にお城や砦を持ってなくても、沢山の兵士を率いる将ってだけですごいと思うのに。
伊月さんは一瞬びっくりして、破顔した。
「そんなに力説せんでもいい。」
私も少し恥ずかしくなって、恥ずかしさを紛らわすために、お猪口のお酒を飲み干した。
伊月さんがまた、お酒を注いでくれる。
「那美どのはこの世に来て三カ月も経たぬうちにすっかり馴染んでおるようだな。お仙どのの様子も前と変わっていた。知識を得てどこか自信がついたようだった。」
「そうですか? そうだといいです。」
お仙さんやお仙さんのママ友達は算術を覚えて、家計簿をつけ始めた。
やりくりが上手くなって、どうすればいいのかわかるようになってきたと言っていた。
「そういえば、お仙さんは伊の国の出身だって言ってましたけど、伊月さんもですよね?」
「ああ。ここを真っすぐ西に行くと私の生まれた地だ。」
伊月さんは崖の先をゆび指さした。
「お仙さんが言ってました。伊の国の人はみんな、伊国の王子様が帰って来て、国主になってくれることを望んでいるって。伊月さんもそうですか?」
「そうか、お仙どのはそう言っていたのか。」
伊月さんは私の質問には答えずに遠い目をした。
「ならばいつか伊に帰らねばならぬな。」
私はまた空になった伊月さんの杯にお酒を注いだ。
「どういうことですか?」
伊月さんは月を見たまま悲しそうに言った。
「その伊国の王子というのは私のことだ。」
「え? 伊月さんが伊国の王子様?」
「ああ。私もそなたの秘密を知っているから、そなたにも私の秘密を教えよう。」
伊月さんは崖の下を見ながら言う。
「伊国の前の国主は私の父だ。家督相続権のある息子は私一人で、子供の時に人質としてこの国に来た。」
そういった横顔が儚げでまるで月光に消えてしまいそうだった。
―― そういでば…
亜城の近に、位の高い武家の屋敷の並ぶ一画にある、一際小さい伊月さんの屋敷を思い出した。
―― そうか、隣国の王子だから位は高いけど、この国では冷遇されてるってことか。
伊月さんが城も持ってない扶持暮らしだと自嘲したのも納得がいった。
人質に出されずにそのまま家督を継いでいたら、一国一城の主になっていただろう人だ。
「共舘という氏は亜の先代の国主がくれた名だ。お仙どのもまさか私が伊国の前国主の息子とは思っていまい。」
異世界からやって来た私が新しい世界に馴染んでいるか伊月さんはいつも気にかけてくれてた。
そんな伊月さんも自分の意志に関係なく知らない土地に行かされた人だったんだ。
―― そして名前まで奪われて…。
「元々の名前は何ていうんですか?」
「豊藤だ。伊の国を興した一族の名だ。」
―― 豊藤伊月
私はなぜか伊月さんの本当のフルネームを心の中で反芻した。
―― 綺麗な名前。
「このことはお仙どの達には内緒にしておいてくれるか?」
伊月さんは私の顔を覗き込む。
「もちろん、言いません。約束します。」
私はうなずいて、伊月さんに小指を突き出した。
「それは何の仕草だ?」
―― あ、この世には指切りってないのかな。
「私のいた世では約束する時に、こうするんです。」
私は伊月さんの右手をそっと取って、その小指に自分の小指を絡めた。
「指切りって言うんです。」
「物騒な名だな。」
「ふふふ。はい。でも、それくらい本気の約束ってことです。」
「そうか。」
「はい。指切りです。約束の証です。」
「ああ。約束だ。」
伊月さんはいつになく優しい笑みを浮かべた。
私も笑みを返した。
「伊月さんと秘密を共有してるって、何か、嬉しいです。」
少し酔いが回ってきて、普段は恥ずかしくて言えなさそうな事が口をついて出てくる。
「なぜだ?」
「それは、伊月さんのこともっと知りたいからです。」
「な、なぜだ? 私のことを知っても何の得にもならんぞ。」
「得とかそういうの、関係なく、ただ知りたいんです。」
伊月さんは私の顔を覗きこむ。
「酔いが回っておるな? これは没収だ。」
伊月さんは私のお猪口を取り上げた。
「あー、伊月さん、いじわる。」
「そろそろ戻るぞ。」
伊月さんは私を立たせた。
自分で思うよりも酔っていたみたいで、足元がおぼつかない。
立ち上がる瞬間に少しよろけて、伊月さんの胸の中にすがってしまう形になった。
「す、すみません。」
「かまわん。そのまま歩けるか。」
「はい。」
伊月さんは私の腰をぐっと引いて体を支えてくれながら歩き始めた。
密着した伊月さんの着物越しに、心臓の音がする。
そしていつものヒノキの香りがした。
「伊月さんといると、安心します。」
「そ、そうか…。だが、あまり安心するな。」
伊月さんはため息まじりに言いながら私を馬に乗せた。
「安心するなって、どうしてですか?」
「分からぬなら、良い。」
ぶっきらぼうに言いながらも、伊月さんは馬に乗り、優しく私の体を支えてくれる。
「こんなに素敵な所に連れて来てくれてありがとうございます。」
「ああ。」
馬が歩き始める。
「この場所、ずっと崖って呼んでますけど、名前はないんですか?」
「名前?ないな。ただ、崖とか、あの峠とか呼んでいる。」
「じゃあ、月の峠って名付けましょう。特別感出るし。」
「いい名だな。」
「伊月さんと、また来たいです。」
「あぁ。」
馬上の揺れがとても心地良い。
「伊月さんと、もっと…一緒に...いたいです。」
「なっ、も、もう黙っていろ。…て、寝たのか? お、おい。那美どの?」
―――
朝目覚めたら、自室の布団で寝ていた。
―― え? どうやって帰ったんだっけ??
慌てて起きて台所に行くと、夕凪ちゃんが朝ご飯の支度を始めていた。
夕凪ちゃんによると、伊月さんが源次郎さんと正次さんを叩き起こして、日の出と同時に帰っていったそうだ。
―― もしかして伊月さんが私を部屋まで連れて行ってくれたのかな。失態をさらしてないといいけど。
この日、オババ様は昼過ぎまで起きてこなかった。