普通、(あるじ)くらいの上位武士ともなれば、一人でふらっと町に行かれたりはしない。
必ず自分の居場所は留守のものに知らせておき、いつ城からの徴集(ちょうしゅう)があってもいいようにしておく。
そして外出する時は、大抵、従者が護衛している。
荷物持ちもこの従者がする。
(あるじ)の場合、いつもはこの役目を、源次郎(げんじろう)か、私、清十郎(せいじゅうろう)にお任せになるのだが、今日は、一人で行くと仰せになられたそうだ。
荷物も自分で持つと背中にからわれたらしい。

(あるじ)流石(さすが)に一人ではいけません。」

源次郎(げんじろう)反駁(はんばく)して、

「では清十郎(せいじゅうろう)を呼べ。」

ということになったらしい。

「お呼びですか?」

「オババ様の所へ出かけ、その後、城下で飯を食うだけだが、今日は、そなたは雲隠れしていろ。」

「は。」

(あるじ)が雲隠れという時は、誰にも姿を見せずに、付かず、離れずの距離で護衛をしろという意味だ。
敵に一人でいると見せかけ、油断を誘い、(おとり)になったりする時にそうなさる。

こういう時には源次郎(げんじろう)ではなく必ず私にお呼びがかかる。
私が(しのび)だからだ。

―― しかし、オババ様の所へ行く道のりにも、城下にも、そうそう敵などおるまいに?

私は小首を傾げた。

(あるじ)は最近、春が来ておられる。」

不意に源次郎(げんじろう)がコソコソと(ささや)いた。

「は?」

「オババ様の所へ身を寄せている娘で、那美(なみ)様という。」

「その娘に会いに行かれるというのか?」

ウンウン、と源次郎(げんじろう)がうなずく。

「この前、薄桃色の(ふみ)が届き、その返事を書くように申し立てたのだが、(ふみ)は性に合わぬので直接会いに行くと。」

「う、薄桃色だと? 直接会いに?!」

(あるじ)が薄桃色の(ふみ)を読む姿がどうしても思い浮かばない。

「そなたに雲隠れしろと仰るのも、きっとあのデレデレ顔を見られぬように、だ。」

「あ、(あるじ)がデレデレだと? あり得ぬ。」

「いーや、俺は見た。あんな顔をする(あるじ)は初めて見た。」

そこに(あるじ)の声がした。

「おい、清十郎(せいじゅうろう)。行くぞ。」

「は、只今、参ります。」

源次郎(げんじろう)は留守を頼んだぞ。」

「は、承知。」

「行って参る。」

「お気をつけて。」

オババ様の所でも、遠巻きから見守ってはいたが、なるほどデレデレだ。
普段は口を一文字かへの字にして、微笑むことなどないのに、フッと力が抜けるように笑みを漏らすことが何度もあった。
さらにコロコロ変わる女の表情に、主はタジタジである。
どんな(いくさ)の時もあんなアタフタとなさることはないのに。

―― しかし、那美(なみ)様といったか? 不思議な方だ。

別に(あるじ)は全く女と話さないというわけでもない。
城に行けば、自然と武家の娘や、国主(こくしゅ)の親戚の姫君たちとも会われる。
だが、たいていの城の女は(あるじ)をさげすんでおられる。
鬼武者(おにむしゃ)と呼ばれ、敵や魔獣を殺すこと夜叉(やしゃ)のごとし、と(うわさ)を立てられているので(まあ、その(うわさ)もまんざら嘘ではないが)、身分のある女たちはたいてい野蛮な獣をみるような目で(あるじ)を見る。
身分が高くない女たちはたいてい(あるじ)を見て怖がって、震えて、会話もせずにどこかに行ってしまう。

―― しかし那美(なみ)様は違うな。

身分や家柄や素性や見た目など一切気にせずに、(あるじ)の人柄だけを見ておられる気がする。

そのうち、城下に行くと、(あるじ)は、先日の戦場(いくさば)で見かけたある男を、追跡するようにと命じられた。

―― やはり、源次郎(げんじろう)の思い違いではないのか? (あるじ)は何か大切な仕事をされている。

―― きっと那美(なみ)様と一緒に行動しているのも敵を(あざむ)くためか...

しかしその直後に、頬を赤らめながら那美(なみ)様の肩を抱いて、少しぎこちない様子で鰻屋(うなぎ)を出てきた(あるじ)を見て

―― いや、仕事もあるが、やはりそれなりにお楽しみなのでは…

という考えに変わった。

兎にも角にも、雲のように隠れて、(あるじ)の命令通りに、この男の尾行に専念しよう。