君がくれた物語は、いつか星空に輝く

 雨の音が昼休みの教室にあふれている。
 みんなの話す声や、お昼の放送の音も遠くで聞こえるほど、雨音がすぐそばでしている。

 無理やり食べていたお弁当を半分くらいであきらめてフタを閉じる。
 食欲がない理由は、たくさん。
 叶人のこと、家のこと、そしてなによりも大きいのは――優太への気持ちに気づいたことだ。

「優太がこんなに長いこと休むなんて珍しいよね」

 日葵が、もう三日も主を待ち続けている机に箸先を向けた。
 誰かが優太の名前を出すたびに、ドキンと胸が鳴っている。

「風邪を引くなんていつぶりくらいなんだろう。ね、聞いてる?」
「風邪なんて珍しいよね」

 日葵にバレないようにすると、そっけない口調になってしまう。
 チラッとこっちを見てから、日葵は「だね」とうなずいた。

「もう熱はないみたいだから来週からは大丈夫って言ってたけどね」

 日葵は優太と連絡を取ってるんだ。私は、自分からLINEはしていない。
 今までもそれほど頻繁にメッセージを交わしていたわけじゃないけれど、自分の気持ちに気づいてからはますますできなくなった。

 ――優太が好き。

 まるで私が私に教えているかのように、その言葉ばかりが頭に浮かんでしまう。
 『恋に落ちる』という言葉が、昔から不思議だった。
 落ちるなんて、まるで悪い状態になっているように思えたから。
 『恋にあがる』のほうがふさわしい言葉のような気がしてたけれど、実際にその境遇になるとわかった。

 優太を好きになるほどに、存在はどんどん大きくなり苦しさが増すし、幸せな気持ちなんてほとんど感じていない。
 『恋に落ちる』は、正しい言葉なんだと実感している。

 あれ以来、『パラドックスな恋』はあまり読んでいない。
 憧れ、同化して読んでいた物語も、今はまるで違う展開になっている。

 小説の主人公は大雅に告白され、現実の私は告白を回避したあと、優太への恋心に気づいてしまった。

 ただひとつ心配なのは、大雅が私をかばい事故に遭ってしまうこと。
 どこまで小説の世界が反映されているのかはわからないけれど、それだけは回避しなくてはならない。

 スマホを開き、久しぶりに『パラドックスな恋』の画面を開いてみる。
 大雅に告白されたシーンで更新は止まったままだった。
 これじゃあ、危険を回避することができない。

 大雅が事故に会うのは、雨の日の交差点。
 ぶつかる直前に車のブレーキ音がしたことは覚えている。
 つまり、事故のときに私は大雅のそばにいたってことだ。
 じゃあ、どういう状況だったのかと考えてもその先は思い出せないまま。

 今の私がふたりきりで大雅と町を歩くことはないだろうから、ひょっとしたら事故が起きる未来は既に回避している可能性だってある。
 いや、私がいないせいで、ひとりで歩いているときに事故に遭う可能性も否定できない。
 もしも生命にかかわるような事故が起きてしまったら、私は一生自分を許せないだろう。

 ……これからどうすればいいのだろう。

「なによ暗い顔して。こないだのケンカは仲直りしたんでしょ?」

 日葵の声に、ぼんやりと優太の席を見ていたことに気づく。

「それはすっかり大丈夫」
「ふーん」

 興味なさげにつぶやいたあと、日葵が「五時」と言った。

「五時って?」
「大雅のお見舞いにしか行かなかったら、あとで恨み節を聞かされることになるでしょう。ほら、優太ってそういうの傷つくタイプだから。部活休むから五時まで待ってて」

 ああ、そういうことか。お見舞いなら、会いに行く正当な理由になるよね。

「わかった。待ってる」
「大雅も誘う?」

 当たり前のように尋ねる日葵に口を閉じた。

「ああ、そっか。悠花は大雅の記憶はないんだもんね。わかったよ、ふたりで行こう」

 気持ちを汲んでくれる日葵にホッとした。
 日葵がトイレに行っている間、ほかの男子としゃべっている大雅を見た。
 今日も楽しそうに笑っている。
 人間は慣れる生き物らしく、小説世界から飛び出てきた彼を見てもなんとも思わなくなっている。
 ううん、名前が一緒なだけで、大雅は小説とは関係ないのかもしれない。
 だって今の状況は、あまりにも物語からかけ離れてしまっているから。

 優太は今ごろなにをしているのだろう。
 熱はもう下がったのかな。
 なぜ私は優太を好きになってしまったのだろう。
 ただでさえ、悲しい出来事ばかり起きる毎日が、恋をすることでもっと苦しくなるのに。

 いくら否定しても無駄なこと。
 毎日のなかで、優太のことを考える時間ばかりが大きくなっていく。

「ねえカッシー」

 うしろから木村さんが声をかけてきた。
 どうやら私のあだ名はカッシーで決定したらしい。

「今、聞こえたんだけどさ、笹川くんのお見舞いに行くの?」

 笹川……ああ、優太のことだ。
 苗字で呼ぶことなんてないから、一瞬わからなかった。

「家が近所だからしょうがなくだよ」

 ごまかして笑えば、口のなかに苦いものを感じた。

 こんなふうにごまかしてばかり。
 木村さんは気にする様子もなく「へえ」と言ったあと、委員会の話をしてきた。
 内容は委員長がおっかないということと、文化祭での役割について。
 上の空にならないよう話を聞いていると、大雅と目が合ったけれど、すぐに逸らされる。
 ただのクラスメイトと目が合うなんて、よくあること。
 きっと彼にも深い意味なんてない。

 窓の外は雨でけぶり、校門さえ見えない。
 この雨が、恋の熱を冷ましてくれればいいのに。
 だって幼なじみの優太に告白なんて、絶対にできないから。
 優太の気持ちを知りたいと思いはじめている自分を止めてほしい。
 今までと同じように気兼ねなく話ができる関係でいたい。

 それでも、恋を雨からかばっている自分もいる。

 やっと見つけた宝物をこわしたくない。
 雨におびえながら、この恋が尽きることを恐れている。
 どちらにしても、弱い私がここにいる。

 恋なんて――したくなかった。


 放課後になりいくぶんおさまった雨に、クラスメイトはあっという間に教室からいなくなった。
 トイレでいつものように『パラドックスな恋』を確認しても、あいかわらず更新はされていない。
 小説の物語にある通りに行動していないからなのかもしれない。

 日葵は部活に休みの申請をしに行くついでに、優太に持っていくプリントを職員室にもらいに行っている。
 教室に戻ると、窓辺に大雅が立っていた。
 雨を読むように、じっと空に顔を向けているうしろ姿が、小説と重なった。

 イヤだな、と思った。
 否が応でも小説のなかで告白されたシーンを思い出してしまう。
 憧れてやまなかったあのシーンも、実際に起きてしまうのは避けたい。

 私に気づいた大雅が、「ああ」とふり返り、窓枠にもたれた。

「カバンがあるからまだいると思ってた」
「あ、うん」
「最近あまりしゃべってなかったからさ。これからユウのお見舞いに行くんだって? 木村さんが教えてくれたんだ」
「うん……」
「うん、しか言ってくれないんだね」

 小さく笑う大雅のうしろで雨が再び激しく降り出した。
 いつもみたいにごまかして乗り切ればいいのに、なんの言葉も浮かんではくれない。

「僕が一緒だと困っちゃうよね?」
「そんなこと、ないよ」

 しどろもどろな私の声を、雨音が奪っていく。
 しばらく続いた沈黙のあと、大雅は窓ガラスを指さした。
 雨粒が集まり、下へと流れている。

「人生は分岐点がたくさんあるね」
「分岐点?」

 ガラスを伝う雨がふたつに分かれ、ほかの雨と結合してまた分かれていく。

「いくつもの分かれ道があって、僕たちは右へ左へと歩いて行く。状況によってどちらかにしか進めないことはあったとしても、最終的には自分で選んでいるんだよ」

 大雅の言っていることがよくわからない。
 固まる私に、大雅はさみしそうに笑う。

「大丈夫だよ、悠花に告白はしないから」
「え……?」

 告白って言ったの?

「僕が告白するのを恐れている。だから、前みたいに話せなくなったんだよね? 悠花が嫌がることはしないよ」
「待って。そうじゃなくて……」
「悠花は自分の信じた道を進んでいってほしい。迷ったって大丈夫。悠花の選んだ答えを応援する人はたくさんいるから」

 歩き出す大雅の腕を思わずつかんでいた。
 思ったより強い力で握ったことに気づき、パッと手を離した。

「ごめん。あの、私――」

 ――大雅は小説世界から出てきたの?
 ――大雅は本当に私の幼なじみなの?

 どちらの質問をしても、大雅は困るだろう。

 大雅の言うように、私は分岐点で優太を好きになる道を自分で選んでしまった。
 ううん、選んだんだ。

 でも、大雅が事故に遭う可能性はゼロとは言い切れない。
 だとしたら、私にできることはなんだろう。

「正直に言うとね……大雅に告白されなくてよかったって思ってる」
「だろうね」

「でも」と、勇気を出してその顔をまっすぐに見た。

「ひとつだけお願いがあるの。明日以降、雨の日の夕方は駅前に行かないでほしいの。詳しく言うと、夕焼けが見えるのに雨が降っている日。ヘンなこと言ってるってわかってるけど、すごく大事なことなの」

 小説では雨の夕方に大雅は事故に遭う。
 その状況を回避できれば大雅は助かるかもしれない。

「どうしても行かなくちゃいけない用事があっても、駅裏の交差点だけには近寄らないでほしい」

 言うそばからおかしなことを言っているってわかってる。
 それでもちゃんと伝えなくちゃ。
 もう、あとで後悔するのはイヤだから。

「前に町案内をしたときに大きな交差点があったよね。お願いだから、お願い――」
「わかったよ」

 大雅はこぶしを口に当ててクスクス笑った。

「あいかわらずヘンな人。ま、悠花らしいけどね」
「……ごめん」
「許しが出るまでは、雨の日に駅前には行かないと約束する」

 ホッとする私に大雅は「じゃあ」と教室を出て行った。
 体中から力が抜ける気がした。
 ひとり残された教室で雨を見た。
 窓ガラスにはいくつもの分かれ道を雨が流れている。
 私は今、正しい分岐点を選べているのかな……。

「悠花」

 低い声に目をやると、うしろの扉に日葵が立っていた。
 ひと目でわかる、日葵が不機嫌だって。

「あたし、悠花のことわからないよ」

 今のやり取りを見ていたのだろう、日葵は大股で歩いてくるとまっすぐに私をにらんだ。

「大雅のことどう思ってるの? 『覚えてない』って言ったかと思えば、『好きだよ。心が覚えている』とか言ったり。で、次はまた『覚えてない』で、今は『告白されなくてよかった』って、なによそれ」

 怒っていると言うより、日葵は悲しんでいるように見えた。

「大雅のお見舞いのときだって、かなり協力したつもりだよ。なのに、なんで理解不能なことばっかりするわけ!?」

 声を荒らげる日葵を見てわかった。
 ああ、そっか。そうだったんだ……。

「私、自分のことで精いっぱいすぎて、日葵のことわかってなかったね」
「あたしは関係ないでしょ。今は、悠花のことを言ってるの」

 悔し気に顔をゆがませる日葵を、空いている席になんとか座らせた。
 前の席にある椅子にうしろ向きで座ると、机越しに日葵と向き合う。

「日葵は、大雅のことが好きなんだね」

 そう言う私に、日葵は短く息を吸い込んだ。

「……違う」

 言葉とは裏腹に、日葵の瞳が潤むのがわかった。

「大雅のことが好きなのに、私に遠慮してくれたんだよね?」
「だから違うって」

 かぶりを振る日葵の手を握った。
 ハッと顔をあげた日葵の目が、唇が髪が、恋をしていると叫んでいるように見えた。
 小説じゃなく、本当に恋に落ちた人はこんなにリアルな表情をするんだね。

「私、日葵にウソをついてた。本当にごめん」
「いいよもう。大雅だって悠花のことを好きなわけだし、あたしに遠慮しなくても――」
「好きじゃない」
「…………」

 握る手に力が入るのがわかっても、ここで止めちゃいけない。

「大雅のこと、最初から好きだと思ってない。一度、日葵に『大雅が好き』って言ったよね。それがウソなの」

 雨音に紛れ、日葵の唇が「は?」の形で動いた。

「なに言ってるの。いい加減にして。なんでそんなひどいことを言うのよ。大雅は悠花のことが好きなんだよ。それ、なの、に……」

 怒りが悲しみに変わり、涙となって日葵の瞳からこぼれ落ちた。
 日葵はずっと私に遠慮してくれていたんだ。
 私たちが両想いなことを知り、自分の気持ちを抑えて協力してくれていた。
 どれだけ悲しかったのだろう……。

 手を離すと日葵は慌てて涙を拭った。

「ぜんぜんわからない。なにがどうなってるのよ」
「私もわからないの。でも、日葵には全部話をしたい」
「話って? なんの話をするのよ」

 怒り口調に戻る日葵に、背筋を伸ばした。

「これから話をすることが信じられないかもしれないし、私のことが嫌いになるかもしれない。だとしても、日葵だけには知ってほしい」

 日葵だけじゃなく、優太にもこの不思議な出来事を伝えようとした。
 最初の反応であきらめたのは、私のほうだ。
 あの分岐点で選んだ道は、『話せない』じゃなく、『話さない』だったんだ。

 ハンカチで涙を拭う日葵が、渋々ながら小さくうなずいてくれた。

「じゃあ、聞く」

 大切な友達に、私のことを知ってもらう。
 これが私の選んだ道だ。

「前に『パラドックスな恋』の話をしたこと覚えてる?」
「ああ、こないだ見せてくれた小説投稿サイトのやつでしょ? 最初しか読んでないけど、それと同じことが起きてるって言ってたよね」

 涙声の日葵に、うなずく。

「日葵は私が書いたんじゃないか、って疑ってたけど、信じてほしい。あの小説を書いたのは本当に私じゃないの」
「まさか、優太が書いてるとか?」

 それも違うだろう。
 もしそうだとしても、小説と同じことが起きている説明にはならない。

「最初からきちんと話すから、聞いてくれる?」

 日葵はハンカチを置いて大きくうなずいた。

 起きたことを順番に話していく間、日葵はただ黙って聞いてくれた。
 話は行ったり来たりして理路整然とはいかなかったけれど、なんとか先を続けた。
 話し終わるころにはあたりは暗くなっていた。
 雨もあがったらしく、虫の声が小さく聞こえている。

 日葵はじっとうつむいていたけれど、静かに「つまり」と口を開いた。

「大雅が事故に遭う未来があるかもしれない、ってこと?」
「確実にとは言えないんだけど、小説のなかではそうなってる」
「空に夕焼けが出てるのに雨が降ってることなんてあるの?」
「小説のなかではそう書いてあったと思う」
「そのあとは、どうなったかわからない、と?」
「……うん」

 話せば話すほどに、『こんな話、信用されなくて当然だ』と思った。
 もし私が日葵に同じことを説明されても、信じられるかどうかわからない。

「ごめん。やっぱりよくわからない」

 素直に日葵はそう言ったけれど、さっきより表情は明るかった。

「だってそうでしょう。こんなの、あたしが読む漫画の世界だもん」
「うん」
「でも、信じたい気持ちはある。だから、協力する。あたしも大雅のことちゃんとチェックする。特に雨の日は厳重な警戒態勢を取るから」
「え……」

 驚く私に、日葵は首をかしげた。

「なんで悠花が驚くのよ。あたしのほうが何倍も驚いてるんだからね」

 冗談めかせる日葵に、今度は私が泣きそうになる。なんとかこらえながら、

「ありがとう。うれしい」
 と伝えた。

「友達なんだから信じるのは当たり前。と言いながら、前のときは全然信じてなかったけど」

 ニカッと笑ったあと、日葵は窓の外を見た。

「今日はもう夕焼けも終わってるし、雨も降らないだろうから大丈夫だね。明日からも気をつけないとね」
「そうだね」

 机の上には『パラドックスな恋』が表示されたままで置かれている。
 指先で画面をスクロールさせながら、日葵が目を伏せた。

「悠花が言うように、大雅が小説のなかの人だとしたら、いつかは消えちゃうのかな。それだと悲しいな……」
「うん」
「そのときは、あたしの気持ちも一緒に消えちゃうんだろうね。でも、この気持ちが消えないほうが、もっと悲しくなる日が来るんだろうなあ」

 日葵がやっと見つけた恋なら、私は全力で応援したい。
 でも、大雅が消えた世界にひとり残されるのはもっと悲しいだろう。

「悠花だって同じだよ」
「私も?」
「あたしの好きな漫画でも、クライマックスで異世界がリセットされて終わるオチがあるの。そうなったら、悠花が優太を好きな気持ちも一緒にリセットされることもあるんだから」

 これまでの私なら、そういう分かれ道が訪れても受け入れただろう。
 優太とまた友達として話をすることができる未来なら、それはそれで構わないと。

「悲しいね」

 でも、もう優太への気持ちを知ってしまったから。
 ふたりして涙を拭ってから、同時に少し笑った。

 日葵は、私の大事な友達だ。




 玄関のドアを開けて顔を出した優太の髪はボサボサだった。
 ずっと寝ていたのだろう、目も腫れぼったいし、何年も着ているのを見るシャツはプリント部分がはげてから久しい。
 これまではだらしなく見えていたことも、優太らしいと思ってしまう。
 胸のドキドキに気づかないフリで、エコバッグを差し出す。

「これ、お見舞い」

 優太は「マジで!」と大きな声をあげ、なかを漁り出す。

「お、あったあった」

 彼の好きな青いスポーツドリンクは、私もよく買うようになった。

「久しぶりにあがってく?」

 優太の実家は平屋建ての一軒家。
 庭が広いので、近所の子はよくここで集まっていた。

「今日はやめとく。体の具合はどう?」

 首を鳴らすように左右に傾けると、優太は唇を尖らせた。

「昨日くらいから平気だったんだけどさ、親が休めって言うからしょうがなく休んだんだよ。普段はほったらかしのくせに、こういうときだけ厳しいんだよな。コロナも陰性だったのに」

 ボヤく優太の向こうで、
「聞こえてるよ!」
 と、おばさんの声がした。

「聞こえるように言ってんだよ」
「あんたねぇ」

 奥のドアが開き、おばさんが顔を出した。
 おばさんは私が子どものころからずっとおばさんで、今も昔も変わらない気がする。
 短い髪にふくよかな体つき。日葵はよくいたずらをしておばさんに叱られていたっけ……。

「あんたの体はどうでもいいの。ひと様にうつしたら大変だから休ませたのに文句ばっかり言って。悠花ちゃんからも言ってやってよ」
「ですよね。休んで正解です」

 おばさんに同調する私に、優太はムスッとしている。

「この子、学校で迷惑かけてるでしょう? ほんとごめんなさいね」
「いえいえ」

 おばさんが数歩近づき、「あら」と声を丸くした。

「悠花ちゃん、またかわいくなったんじゃない?」

 おばさんとは先週も帰り道で会ったばかりだから、こういう言葉を信用してはいけない。
 愛想笑いする私に優太は苦い顔でサンダルを履いた。

「あーうるさい。悠花、外に行こう」

 トンと肩を押され、玄関から出されてしまう。

「悠花ちゃんまたね」
「はい、また」

 挨拶の途中でドアが閉められてしまった。
 外に出ると、優太はエコバッグを持ったまま大きく伸びをした。

「一日寝てたから逆に疲れたわ」
「ぜいたくな悩みだね」
「あの人、やたら様子を見にくるし、ちっとも落ち着かなかったけどさ」

 ペットボトルを一本渡された。
 青色のスポーツドリンクは、夜の色が溶けたみたいに薄暗い色になっている。

「それだけ優太のこと心配してくれてるんだよ」
「まあ、そうなんだろうな。で、今日はあのふたりは来ないの?」

 その質問の答えは、ここに来るまでに考えてきた。

「お見舞いは私の担当なの」
「大雅の見舞いも悠花だけだったもんな」

 優太は水たまりを避けながら空を探すように顔をめぐらせた。

「さっきまで雨が降ってたのに、もう月が出てる」

 ペットボトルで目を覆い、月を眺める優太。
 髪も服もキマってないけれど、どうして目が離せないのだろう。子どものころから一緒にいたのに、今さら恋をするなんて……。

 日葵が言ってたように、大雅が小説のなかに戻ったら、私の恋も消えるのかもしれない。

「月が泳いでる」

 優太の声に、私もペットボトルを目に当て顔をあげた。
 ちゃぷんちゃぷんと揺れる波の向こうで、丸い月が揺れている。

「キレイだね」
「キレイだな」

 どうか、この気持ちが消えませんように。
 苦しくても、かなわなくてもいい。誰かを好きになれた自分を失いたくない。

 月はまだなにかを探して、果てしない銀河をさまよっている。







【第四章】

恋が叫んでいる



 六時間目の授業は英語Bだった。
 ネイティブとはいえない発音で、担当教師が英文を読みあげているなか終わりのチャイムが鳴った。
 先生がいなくなると、とたんにザワザワし出す教室。

 教科書をカバンにしまい、意味もなく窓越しの空を見た。
 九月末の空はあまりに高く、青色も薄く感じられる。
 明日から天気は下り坂らしい。

 『パラドックスな恋』は、大雅が悠花に告白したシーンで止まっている。
 もう更新をしないのかもしれない。

 改めて確認すると、現実とは違うことがたくさんある。
 例えば、主人公に小学三年生までの記憶がないこと。
 両親の仲がよいこと。
 両親が大雅をよく思っていないこと。
 図書館で借りた本について主人公の幼なじみは心当たりがあること。

 ほかにも、細かなところでは、台詞を口にする人が違っていたりもする。
 現実の流れだって、私が大雅の告白を避けたことで大きく変わっている。
 大雅が事故に遭う展開も起こらない可能性だってある。

 それでも、念のために大雅には気をつけてもらわないといけない。
 事故が起きるのは、夕焼けの広がる雨の日。
 そういう日が来たら、大雅に念押しをしないと……。

 ひとり反芻していると、
「あの英語じゃ、話せるようになるとは思えない」
 と、うしろの席で木村さんがため息をついた。

「キムみたいにハリウッド映画ばかり見てるわけじゃなさそうだからね」
「スラングとか、くだけた会話とかを学びたいんだけどな。まあ、受験対策用の英語だからしょうがないけどさ」

 小説には木村さんだって登場していなかった。
 そう考えると、小説世界とはどんどん離れていってる気がする。

 ……日葵が大雅に恋をしていることもそうだよね。

「あー、やっと終わったね」

 くるりとふり向いた日葵にドキッとしてしまう。
 心の声が聞こえたわけじゃないんだろうけれど、日葵は鋭いところがあるから。

「後藤さん」

 兼澤くんがおずおずと日葵の席に近づいてきた。
 またしても紙袋を手にしているのでギョッとする。
 前回、無下に断られたことを覚えていないのだろうか。

 けれど日葵は、
「あ、もう持ってきてくれたの?」
 ピョンと立ちあがり、うれしそうに紙袋を受け取っている。

「テレビ版のファーストシーズンと映画版。ブルーレイでいいんだよね?」
「そうそう」

 中身を覗きこんだ日葵が、ギュッと胸のところで紙袋を抱きしめた。

「ありがとう。アニメ見てみたかったから助かる」
「いえ……」
「中間テスト終わったら見るから、それまで借りてていい? 文化祭までには返せると思うんだけど」

 兼澤くんは顔を真っ赤にして「いつでもいいよ」と言い、席に戻っていく。

「漫画の話は学校ではナシなんじゃなかったっけ?」

 バッグに紙袋をしまう日葵に意地悪を言うが、
「そうだっけ?」
 と、とぼけている。

「漫画がすごくおもしろかったからアニメも観たくなっちゃってさ。全部持ってるって言ってたから貸してもらったの」

 日葵は大雅への恋心を打ち明けて以降、さらに明るくなったと思う。
 身構える必要がなくなったからなのか、兼澤くんとも漫画やアニメの話を平気でしている。

 一方、私は優太とうまくしゃべることができずにいる。
 恋って、人を強くしたり弱くしたりするんだね。
 日葵は強い防具を身に着け、私は薄着で戦っている気分。

 ――戦う、って誰と?

 考えれば考えるほどよくわからなくなる。
 優太を意識するほどに、モヤモヤした気分になってしまうのはなぜだろう。

 トイレにでも行ってたのだろう、席に戻って来た優太が難しい顔をしている。

「どうかしたの?」

 日葵が尋ねると、優太は両腕を組んだ。

「大雅がいた」
「え?」

 好きな人の名前に敏感に反応したのは日葵。
 大雅は今日、急用ということで学校を休んでいる。

「どうして大雅が学校にいるわけ? 人違いじゃないの? 本当にいたの?」

 質問しすぎなことに自分でも気づいたのだろう、日葵は中腰になっていた腰をドスンとおろした。

「あ、今のはウソ。なんでもない」

 なんて、バレバレの態度でごまかしている。

「俺も人違いじゃないかって思ったけど、あれは大雅だった。ホームルームから参加するのかな」

 日葵の動揺に気づかない優太に安心したのだろう、日葵は身を乗り出した。

「こんな時間から登校? そんなことある?」
「俺に聞かれてもなあ」

 ふたりの会話を聞きながら、イヤな予感が胸に生まれていた。
 こういうシーン、小説のなかでなかったっけ……。

 たしか私が……。

「あっ!」

 急に大声を出す私にふたりの視線が集まった。
 浮かびかけた小説の内容が消えそうになるのを必死で押しとどめる。

「たしか……主人公が、学校を――そう、風邪で休んだんだ」
「なんだよ、また小説の話かよ」

 茶化してくる優太に「静かにして」と日葵が鋭く言った。

 ギュッと目を閉じると、あのシーンの文章がふわりと頭によみがえった。

 □□□□□□
 ベッドに横になったとたん、スマホが着信を知らせて震えた。
 表示されているのは茉莉の名前。
「もしもし。もう学校終わったの?」
『……なんだって』
 やっと聞こえた声は、茉莉らしくない小声だった。
「ごめん。なんて言ったの?」
 スマホに耳を寄せて尋ねると、茉莉は震える声で言った。
『大雅、また転校することが決まったんだって』
 と。
 □□□□□□

 心配そうにふり返る日葵と目が合った。

「思い出せたの?」
「日葵」

 その腕をギュッと握った。

「大雅、転校するかもしれない」
「……まさか。だって転入してきたばっかりなのに?」

 半笑いの日葵の目がせわしなく左右に動いている。

「小説のなかではそういう展開になってたと思う」
「理由は思い出せないの?」
「理由……」

 そうだよ、転校するには理由があるはず。
 なにかが起きて、大雅は転校することになったんだ。

「お父さんの仕事の関係かも」

 自信なさげに言うと、「ないない」と優太が右手を横に振った。

「大雅の父親って、俺たちが小学生のときに亡くなったろ。覚えてないの?」

 そう言われても、私には大雅の記憶すらない。

「お前ら、マジで小説の読みすぎだって」

 カラカラ笑う優太に、日葵が「やめて」と強い口調で言った。

「優太にはわからないだろうけど、悠花には大変なことが起きてるんだからね。そもそも、大雅が学校にいるって言ったのは優太じゃん」
「はいはい、余計なことは言いません」
「なによその言いかた」
「別にヘンなこと言ってねーし」

 険悪な雰囲気のなか、胸騒ぎはどんどん大きくなっていく。
 チャイムの音がし、教室に先生が入ってきた。

「あれ、山本くん」

 前の扉近くの女子が驚いた声を出した。
 見ると、先生のうしろから大雅が入って来るところだった。
 目が合うが、すぐに逸らされる。

「今日はみんなに報告したいことがあります」

 教壇に立つ先生の隣に大雅は並んだ。
 転入してきた日と同じ光景に、前の席の日葵は固まったように動かない。

「山本くんがこのたび、転校することになりました」

 みんなの驚く声が教室に広がった。
 優太を見ると、『マジかよ』の形で口が動いている。
 みんなが落ち着くのを待って、大雅は一礼した。

「急なことで僕も驚いています。短い間でしたがありがとうございました」
「山本くんはいろいろ手続きがあるから、今日は挨拶だけしに来てもらいました。もういいぞ」
「はい」

 教室を出ていく大雅に、誰もがあっけに取られている。
 小説のなかでは描かれなかったシーンだ。

 鼻をすする音が聞こえる。

 日葵は肩を震わせて泣いていた。

 夕焼け公園に人の姿はなかった。
 ベンチに日葵と並んで座る。
 曇天の空の下に見える町は灰色にくすみ、そのまま夜を連れてきそう。

「大雅、来るって?」

 右斜め前の手すりに腰をおろした優太は、今日は部活を休んだそうだ。
 それくらいの緊急事態が起きている。

「あと五分で到着するよ、って」

 日葵がLINEの画面を読む声には張りがなく、彼女の動揺が表れている。

「急な転校ってなんだよ。俺たちには相談してくれてもよくね?」

 優太も不機嫌さを隠そうともしない。
 私は……あいかわらずこの先のシーンがまったく思い出せずにいる。
 小説のなかの大雅は、転校が決まったあと事故に遭うのだろうか?
 それとも、もっと先の話なのだろうか。

「悠花の言ってたこと、やっぱり本当だったね。大雅の転校も、小説のなかに書いてあったんだね」

 私だけに聞こえるように小声で言う日葵の瞳には涙が浮かんでいる。

「ごめんね。直前にしか思い出せなくて」
「ううん。だって、転校を止めることはできないだろうから……」

 そっと手を握ると、日葵の膝に涙がひと粒落ちた。

「あ、きた」

 手すりから体を起こした優太が大きく手をあげた。
 ふり向くとゆっくり歩いてくる大雅が見えた。
 まだこの制服を着てそんなに経っていないのに、もう転校するの?

 ……なにか思い出しそう。

 一瞬見えかけた映像をたぐり寄せようとするけれど、つかんだそばからボロボロこぼれ落ちていくようだ。

「お待たせ。この坂はさすがにのぼるのキツイね」

 なにも変わらない笑顔。なにも変わらない態度。
 日葵はゆがみそうになる顔を必死でこらえている。

「お待たせ、じゃねーよ。転校のこと、なんで俺たちに言わなかったんだよ」

 腕を組む優太の横に腰を下ろした大雅。

「そう言われると思ってたよ」
「言うに決まってるだろ。やっと再会したってのに、あまりにも急すぎんだろ」

 涙をこらえる日葵をチラッと見た優太が、また視線を大雅に戻す。

「ちゃんと説明してくれるんだろうな」
「そのつもりで来たよ。本当なら、ウソの理由――父親の転勤とかにしたかったけど、うちの家庭環境はバレてるしね」

 大雅の瞳はいつもより暗い。
 まるで雨が降り出しそうなこの空に似ている。

「あ……」

 思わず言葉がこぼれたけれど、みんなには聞こえていない。
 そうだ、たしか大雅が転校する理由は……。

 すうっと息を大きく吸いこんだあと、大雅は「病気なんだ」と言った。
 小説でもたしか本当の理由は病気だった。

「詳しくは言えないけど、僕の血に問題があるんだって。このまま進むと死んじゃうみたいでね」
「そんなっ」

 短い悲鳴を日葵があげた。

「このところ体調が悪くて学校も休みがちだったよね。風邪だと思ってたけれど、詳しい検査をして発覚したんだ」

 淡々と語る大雅に、隣の優太はぽかんと口を開いたままで固まっている。

「自分の人生の残り時間を知ったときはショックだった。毎日泣いたし、家族もそうだった。でもね、神様はいるんだよ」

 もう日葵は涙を隠すことなく嗚咽を漏らしている。

「神様、って?」

 そう尋ねると、大雅はまっすぐに私を見た。
 久しぶりにちゃんと目が合った気がした。

「生前、うちの父親はアメリカで血液の研究をしていたんだ。そのときに知り合った有名なドクターに相談したら『アメリカに来い』って言ってくれたんだよ」

 小説のなかでもこんな展開だった気がする。
 大雅は病気が発覚してアメリカへ行った。
 そうすると事故に遭うのは、この直後のこと?
 それともそのシーンは飛ばされたってことなの?

「治るのか?」
「あいかわらずユウはせっかちだね。ドクターが言うには、半年くらいはかかるだろけど完治するって。早ければ早いほうが治療をはじめやすいから、すぐに向かうことにしたんだ」

「ねえ」と消えそうな日葵の声が聞こえた。

「また……会えるんだよね?」

 転校のショックと病気の発覚により、もう日葵の顔はくしゃくしゃになっている。
 嗚咽を漏らす日葵の肩に、大雅は右手を乗せた。

「約束はできないんだ」
「そんな!? ……あ、ごめん。そうだよね」

 恥じらうようにうつむく日葵に、大雅は腰を折った姿勢のまま続けた。

「日葵に伝えたいことがあるんだ。君は……幸せになれるよ」

 急にそんなことを言う大雅に、私だけじゃなくほかのふたりも時間が止まったように動きを止めた。

「ユウだって悠花だって同じ。僕たちの道はここで離れていく。いつか会えるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、僕がいなくてもきっと幸せになれるから。だから、ここでさよならだよ」

 無意識にうつむいていたみたい。
 砂利をする音に顔をあげると、日葵が立ちあがっていた。

「なに言ってんのよ。さよならなんて言うわけないでしょ。今じゃ世界のどこにいたって連絡は取り合えるんだから」

 強気な口調で言いながらも、日葵の頬には涙がとめどなく流れている。
 声が震えている、顔がゆがんでいる。

「ああ、そうだよね」
「近況報告はちゃんとしてよね。で、元気になったら顔くらい見せてよね」
「その日を楽しみにしているよ」

 やさしく答える大雅に、日葵はやっとホッとした顔をした。

「いつアメリカに経つの?」
「あさっての日曜日の予定なんだ」

 日葵の口が『日曜日』と声にはせず動いた。

「でも『さよなら』じゃないんだからね。あたしたちは昔も今もこれからも、ずっと友達でしょ」

 日葵はどんな気持ちで『友達』と言ったのだろう。
 自分の気持ちを必死で抑えて大雅を見送ろうとしているんだ。
 けなげな日葵を見ているだけで胸がえぐられそうなほど苦しい。

 恋はなんて悲しくて苦しいんだろう……。

 はあ、と大きく息を吐き出したあと、日葵はバッグを肩にかけた。

「ちゃんと連絡して。またね」

 逃げるように小走りで去っていく日葵を、
「待てよ」
 優太が追いかけて行った。

 大雅はふたりを見送るようにさみしげに目を細めている。
 私も日葵を追いかけたい。
 日葵を強く抱きしめてあげたい。

 でも、今は……どうしても知りたいことがあった。

「大雅に聞きたいことがあるの」
「うん」

 わかっていたように間を置かずに大雅はうなずく。
 もっと早く聞く勇気が持てればよかった。
 日葵みたいに、ちゃんと言いたいことを言えたなら……。

「大雅は、小説のなかから出てきたの?」
「え、なにを言ってるの?」

 こういう答えが怖くて、ずっと言葉にできずにきた。
 自分の弱さを理由にして逃げ続けてきた。
 でも、自分の言いたいことを隠したってなにも変わらない。

「大雅の転入は、『パラドックスな恋』という小説と同じ。そのあともまるで小説を読んでいるように同じことが起きた。偶然だって何度も思った。でも、違う。大雅は小説からこの世界にやって来たんだよ。お願いだから本当のことを教えてほしい」

 私から視線を逃がし、大雅は天気を読むようにあごをあげた。

「大雅」

 気おくれしそうな自分を奮い立たせて言葉を続ける。

「最近は、小説の内容と少しずつ変わっていってる。これはなにを意味しているの? 大雅はなんのために私の前に現れたの? この先にいったいなにが起きるの?」

 しばらく宙を見ていた大雅が、静かに私を見た。
 悲しみに満たされた瞳に、なぜだろう、優太と見た泳ぐ月を思い出した。

「あなたは……誰なの?」
「じゃあ、君は誰なの?」

 やわらかい声で尋ねる大雅に、
「私は……」
 言葉が詰まった。

「みんな自分の人生では主人公なんだよ。小説によく似た設定になったとしても、それをなぞるだけじゃなく、自分の意志で物語を進めていくんだ」

 言っていることはわかる。
 でも、私が知りたいことはそんなことじゃない。

「昔から僕は思っていた。悠花は自分の言いたいことを口にしない。誰かに道を譲り、自分を卑下することでごまかしてきた。そんな悠花の変化が、毎日の選択肢に影響しているんだよ」
「ちゃんと答えて。大雅は実在するの? どうして、どうして……」

 私のことじゃない。大雅のことを聞きたいのに、うまくはぐらかされている。
 どんな言葉も大雅には伝わらないような気がして、続く言葉が見つからない。
 ふいに大雅が空を指さした。

「もうすぐ雨星が降るよ」
「え……」
「小説の内容と、これからのことを思い出して。悠花は自分で自分の未来を開いてほしい。君ならできるはずだから」

 そう言うと、大雅は歩き出す。
 追いかけることもできず、さよならも交わせないまま、公園を出ていくうしろ姿を見送った。

 その向こうに大きな雨雲が浸食してきている。

 もう会えない予感が胸を、世界を、悲しい色で覆っていた。



 夕食の席は久しぶりに家族がそろった。
 お父さんは食べたらまた出ていくらしく、テーブルの横には旅行用のトランクが置かれている。
 さっきから会話がないまま、もうすぐ夕食は終わろうとしている。
 今日のおかずは、コロッケとナスのお浸しに卵サラダ。

「食欲ないの?」

 箸が進まない私に、お母さんが声をかけてきた。

「そういうわけじゃないけど……」

 大雅の言葉が気がかりで、とても食事どころじゃない。
 もうすぐ雨星が降る、とはどういうことだろう。
 小説の主人公は雨星を見たのだろうか。

 ふいに強い頭痛が襲ってきた。
 最近は、小説の展開を思い出そうとすると頭痛が起きるようになった。
 まるで、思い出させないように『頭痛ボタン』を押されている気分。

 カシャンと箸を置く音に顔をあげると、お母さんはなぜかお父さんをにらんでいた。

「ほら、だから言ったじゃない。悠花にだって悪影響が出てるのよ」
「別居しようと言ったのはそっちだろ? なんでもかんでも俺のせいにするなよ」
「今のまま続けるほうが不自然だから提案しただけよ。もうこれ以上先延ばしにしても仕方ないじゃない」

 ふたりの声が頭の上を滑っていくようだ。
 耳がシャットアウトしているのだろう、言葉の意味が理解できない。
 思えば昔からそうだった。どんな言葉も悲しみの前では素通りするだけだった。

 大雅は言っていた。
 『悠花の変化が、毎日の選択肢に影響しているんだよ』と。
 流されるまま右へ左へ進むよりも、自分の未来を自分で選択していきたい。

「お父さん、お母さん」

 背筋を伸ばした私に、ふたりはハッと顔を向けた。
 子どもの前で言い争ったことを恥じるように、ふたり揃ってバツの悪い顔をしている。

「私はふたりが納得した上で離婚するなら反対しないよ」
「ほら、悠花だって――」

「でも」と、大きな声でお母さんの口を止めた。

「その前に、ちゃんと考えるべきだと思う」
「考えるってなんのことを?」

 キョトンとするお母さんの目を見つめた。

「叶人が亡くなってしまってからの私たちのこと」

 ふたりの前で叶人の名前を出すのはいつ以来だろう。
 お父さんは目を見開いたままでじっとしている。
 お母さんは花がしおれるように視線をテーブルに落としてしまった。

「叶人が亡くなってからね、この家も一緒に死んだみたいだった。お母さんは叶人の思い出から離れないし、お父さんは元気そうなフリをしてた。私は……叶人のことを必死で思い出さないようにしてきたの」

 叶人がいつも座っていた席に、今は誰もいない。

 ぽっかり空いた席で、たしかに叶人はたのしそうに笑っていた。

「叶人が中学生になったころから、私、あんまりしゃべってなかった。挨拶もそこそこで、決して仲のよい姉弟じゃなかったと思う。急に入院することになっても、すぐに戻って来るだろうって思ってた」

 でも、そんな日は来なかった。
 叶人が亡くなったのは小説の話じゃない、現実のこと。

「真実から目を逸らせることで、なんとか乗り切ろうとしていたと思う。お母さんもお父さんも、きっと同じなんだよ。同じくらい悲しくて、やりきれなくて、それでもなんとか生きているんだよね?」

 悔しそうなお父さんの横顔を見たのは、叶人の葬儀のとき以来かもしれない。
 お母さんは怒っているのか悲しんでいるのかわからない表情で唇をかみしめている。

「『叶人のため』に仲良くするのは違うと思う。もちろん『私のため』でもない。ふたりが決めた決断に私は反対しないつもり。ただ、私は……ちゃんと叶人の死について受け止めようと思う。そうすることを選択したの」

 席を立つ私に、おかあさんがすがるような視線を向けてきた。

「お母さんだって……お母さんだって悲しいのよ」
「わかってる。でも、お父さんも同じくらい悲しいんだよ。悲しみへの向き合いかたが違うだけで、みんな自分の方法で叶人を思ってる」

 病院のガラス越し、スマホの会話、叶人の笑った顔。
 ずっと過去を思い出さないようにしてきた。
 小説の世界へ逃げ、現実世界から目を逸らしたんだ。

「だからもう叶人のことでいがみ合うのはやめようよ。冷静にどうすればいいのかふたりで話し合ってほしい。ふたりの悲しみをわかってあげられなくて、ごめんね」

 そう言い残し、二階の部屋へ戻った。
 電気をつけないまま、プラネタリウムのスイッチを手探りでONにした。
 ベッドに横になれば、天井に星空が広がっていた。
 叶人のことを考えながら見る空は、まるで本物みたいに見えるよ。
 あの星のどれかに叶人はいるのかな?
 悲しみに暮れる私たちを心配しているのならごめんね。

 頭痛は波が引くように消え、心の重さも少しだけ軽くなった気がした。


 日曜日の朝、スマホを確認すると『パラドックスな恋』は更新されていた。
 これまでは少しずつの更新だったのに、一気に第五章の途中まで公開されている。

 □□□□□□
「危ない!」
 横断歩道に足を踏み入れた大雅の手を必死で引っ張る。
 ブブブブブ!
 すごい音にふり返ると、大きな車が私たちを襲おうとしていた。
 とっさに大雅を突き飛ばすと同時に、腰のあたりにひどい痛みが生まれた。
 あっけなく転がる自分の体がアスファルトにたたきつけられる。歩道でしりもちをついた大雅が大きく目を見開いていた。
 ……よかった。大雅が無事でよかった。
 目を閉じれば、痛みはすっと遠ざかり、抗えない眠気が私を襲った。
(つづく)
 □□□□□□

 これは、主人公が小学三年生のときに大雅をかばって事故に遭ったときの場面だ。
 文字で見ると、忘れていた小説の内容が一気に思い出せた。

 ベッドに仰向けになり、ぼんやりと考える。
 このあと、逆に私が事故に遭いそうになるのを大雅が助けてくれるんだ。
 その先はまだぼやけていて思い出せないけれど、これで全体的な流れが把握できた。

 これほどまでに現実と違う流れなら、事故だって起きない気がする。
 ……そもそも、今日大雅はアメリカに経つそうだし、もうこの町にいないかもしれない。

 カーテンのすき間から曇り空が見える。
 台風でも来るのか、灰色の雲が形を変えながら流れていく。
 日葵は今ごろ落ちこんでいるのかな。
 夕焼け公園での日葵を思い出すと、胸が締めつけられる。
 やっと好きな人ができた日葵に、これから先どんな未来が待っているのだろう。
 私だって同じだ。優太に恋をするなんて、ありえないことだと思っていた。
 気づいたら心に優太がいて、想いは栄養分もないのに勝手に育っていった。
 ううん、今も毎日育っている。
 違う、これは言い訳だ。ぜんぶ、私が選択したことなんだよね。
 今日、大雅がいなくなることで物語は終わりを迎えるのだろうか。

 待っているだけじゃダメな気がした。

 着替えてから一階におりると、お母さんがぼんやりソファに座っていた。
 私に気づいたお母さんがなにか言いたげに口を開き、そして閉じた。
 昨日も一日、ろくに話もしなかった。お父さんも帰って来る気配はない。

 いびつに家族の形はゆがんでしまったけれど、不思議と悲しみは消えている。
 気持ちをきちんと伝えられたからなのか、あきらめの心境なのかはわからないけれど、すっきりしているのが不思議だった。

「ちょっと出かけてくるね」
「あ、うん。気をつけて行ってらっしゃい」

 どこか気弱そうに見えるお母さんに、「あの」と勇気を出した。

「こないだはヘンなこと言ってごめんね」
「なに言ってるのよ。ぜんぜんヘンなことじゃないわよ」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 ぎこちないまま外に出ると、今にも雨が降りそうな空が私を見おろしている。
 カサを手に歩き出すと、秋の風が私に抵抗するように吹きつけてきた。


 図書館にはあいかわらずお客さんはいなかった。
 薄暗い照明のせいもあると思うし、山の中腹に建っているのも理由のひとつだろう。
 館長の長谷川さんは、今日もスーツ姿で長い髪をひとつに結び、棚の本をチェックしていた。

「こんにちは。今日はおひとりですか?」

 声をかけるより早く、長谷川さんがにこやかに挨拶をしてくれた。

「あ、こんにちは」
「またここに来たということは、なにかお話があるのでしょうか?」 

 鋭い人だ、と普通に感心してしまう。

「はい。お時間があるときでいいので……」
「構いませんよ」

 長谷川さんは持っていた本を棚に戻すと、受付カウンターへ足を進めた。
 向かい側に座るよう勧められ、木製の椅子に腰をおろした。
 雨が降り出したらしく、屋根を叩く雨音がかすかに聞こえている。

 カウンターの上にはパソコンが一台と、以前叶人が借りっぱなしだった本が置かれていた。
 私の視線に気づいたのだろう、長谷川さんが「ああ」とうなずく。

「叶人くんのお気に入りの本をあれから何度も読んでいます。が、雨星についてはやはり載っていませんでした」
「そうでしたか……」

 カウンターに両肘を置き、顔の前で指をからませた長谷川さんが、メガネ越しの瞳で私を見た。

「私は雨星は造語だと思っています。叶人くんが作った、叶人くんだけがわかる言葉なんです」
「私も、そう思います」

 どれだけネットで調べても、雨星という言葉は見つからなかった。

「悠花さん、今日はどのような話で?」

 薄い唇に笑みをたたえる長谷川さんに、一瞬迷いが生じた。
 どんなふうに説明すればわかってもらえるのだろう。
 とにかく、思ったまま話をするしかない。

「前にここに来たとき、パラドックスについて説明してくれましたよね? 叶人から聞いたとおっしゃっていましたが、ひょっとしてそれ以外にもなにかパラドックスについて聞いていませんか?」

 小さく首をかしげる長谷川さんに気おくれしそうな気持ちを奮い起こす。

「不思議なことが起きているんです」

 信じてもらえなくても、言わずに後悔するのはもうやめよう。小説のなかの登場人物が実際に現れたことの謎を解きたいと思った。

「二年前からよく読んでいる小説があるんです。それと同じことが現実に起きているような気がするんです。ううん、起きているんです」

 長谷川さんの表情に変化はなく、ただ先を促すようにうなずいている。

「何度も読んでいるからストーリーも覚えているはずなのに、なぜか先の展開がうまく思い出せないんです。その小説にも雨星のことが出てくるんです。これってなにか……」

 言うそばから自信がなくなってしまう。
 おかしなことを言っているのはわかっているけれど、どうしてもこの先のヒントがほしかった。

 わずかに頭痛の気配がする。
 遠くから近づいてくる痛みに、こぶしを握って耐える。
 しばらく沈黙が続いたあと、長谷川さんは大きく息を吐いた。

「『パラドックスな恋』のことですね」
「え……」

 雷のような衝撃が体を貫いた。
 まさか、長谷川さんから作品のタイトルが出てくるなんて思ってもいなかった。

「そうです! 『パラドックスな恋』です! 長谷川さん……なにかご存じなんですか?」

 思わず体を乗り出す私をはぐらかすように長谷川さんはマウスを動かし、パソコン画面を点灯させた。
 薄暗い館内はまるで星空。明るいカウンターが宇宙船みたいに思えた。

「実は、誰にも言ってないことがあるんです」

 画面の光を浴びながら長谷川さんがつぶやいた。
 キーボードを操る音が続いたあと、長谷川さんは画面に向かってほほ笑んだ。

「叶人くんが入院してしばらく経ったあとのことです。彼からLINEで『相談がある』とメッセージが来ました。てっきり、病気のことかと思ったのですが、違いました」
「はい」
「長い文章になるから、とメールアドレスを聞かれました。数日が過ぎ、メールに届いたのは、『パラドックスな恋』のあらすじだったんです」
「え……。じゃ、じゃあ、あの小説は叶人が書いたのですか?」

 昔から本が好きで読んではいたけれど、あの小説は中学一年生が書いたものとはとても思えなかった。

「いえ、そうじゃありません。叶人くんが書いたのは、彼が病床で見た夢の内容です。メモのように羅列されています」

 モニターを回転させた長谷川さんから、画面へ視線を移す。そこには、メモ画面が表示されている。

 ■■■■■■
・お姉ちゃんが学校に行く
・山本大雅という転入生が来る
・幼なじみは大雅を覚えているが、お姉ちゃんは覚えていない
・お姉ちゃんは小学三年生のときに大雅をかばって事故に遭った
・事故のせいで昔の記憶をなくしている
・夕焼け公園で大雅を好きになる
・雨星が降る日に大雅が事故に遭う
・大雅は大きな病気を抱えている
 ■■■■■■

 その下には、各項目について詳しく書かれていた。
 それはすべて、『パラドックスな恋』の内容と一致している。

「これって……」

 声が震えているのが自分でもわかる。

「入院している間、叶人くんは少しずつこの物語の夢を見たそうです。なにか意味があるのじゃないか、と思うのも不思議じゃないですね」
「じゃあ、誰が小説に――」

 長谷川さんが照れたように目線を逸らしていることに気づいた。

「私が書きました。小説なんて書いたことがなかったのですが、叶人くんの夢を作品にしたいと思ったんです。ひょっとして、本当にこれと同じことが起きているのですか?」

 なにがなんだかわからない。混乱する頭を必死で整理しながら「はい」と答えた。
 納得したようにうなずいた長谷川さんが椅子にもたれた。

「叶人くんは正夢を見たのでしょうね」
「でも、最近は小説とは違う展開になっているんです。だけど、大雅が事故に遭う可能性はあるわけですよね」
「私にはわかりませんが、叶人くんは『お姉ちゃんが幸せになるといいな』とずっと言ってましたよ」
「…………」

 叶人が生きていたころは両親も仲が良かったし、私も恋なんてしていなかった。

「長谷川さんがこの小説を投稿サイトに載せたのは二年前ですよね?」

 叶人が亡くなって落ち込んでいるときにこの小説を見つけたことを思い出した。

「ええ。書くごとに叶人くんに見てもらい、修正をしておりましたが、残念ながら完成にたどりつくことなく叶人くんは……」

 悔しげに目を伏せてから、長谷川さんは続けた。

「そこからひとりでなんとか完成させたんですよ」
「どうして今は『連載中』になっているのですか?」

 そう尋ねる私に、
「叶人くんの遺言だからですよ」
 と、長谷川さんはあっさりと答えた。

「遺言?」
「悠花さんが主人公と同じ高校二年生になったら、一旦非公開にして、二学期初日から時期に合わせて順次公開し直してほしいと言われました。公開日を細かく予約できるので、それも指示に合わせて登録しておきました」

 そっか……。物語のはじまりは高校二年生の二学期だった。
 叶人は、予知夢を見たのかもしれない。

「すごく……不思議です」

 思ったことを言葉にすると、長谷川さんはクスクスと笑った。

「この世は不思議なことだらけです」
「どんどん小説の内容と変わっているのはどうしてなんでしょうか? どうして私は先の展開が思い出せないのでしょうか? これから一体、なにが起きるのですか?」

 矢継ぎ早に質問を重ねる私に、長谷川さんは「わかりません」とだけ答えた。

「そんな……」

 また、頭痛が強くなっていく。

「こう考えてはいかがでしょうか。悠花さんは現実世界を生きておられる。あの小説こそがパラドックスなんです」
「意味がわかりません。ごめんなさい」

 しょげてしまいそうになる私に、長谷川さんはメガネを取り顔を近づけた。

「パラドックスとは、見た目と実際が違うこと。悠花さんの選択により、変わった物語こそが正解なのです。叶人くんが書いたあらすじを見せることはできますが、それでは意味がないでしょう。悠花さん、あなたは虚構の世界を忘れてもいいんですよ」
「でも……」

 ここから先、ひょっとしたら大雅が事故に遭うかもしれない。
 そう思うといてもたってもいられない。

「教えてください。星雨についての説明は小説のなかにありましたか?」
「いえ、ありません。だからこそ叶人くんに何度も尋ねたのですが、最後まで教えてもらえませんでした。前にも言いましたが、彼自身もわからないままでしたから」

 言われてみればたしかに『パラドックスな恋』においても、雨星の描写はなかった気がする。

「悠花さん」

 改まった口調で長谷川さんは背筋を伸ばした。

「この小説はあくまで叶人くんが見た未来です。悠花さんの選択で現実が変わっているのなら、小説から提示されたヒントを参考に、今やるべきことをすべきです」
「今、やるべきこと……。あの、大雅が事故に遭う可能性はあると思いますか?」

 長谷川さんがテーブルの上で指を組んだ。

「どうでしょう。例えば、事故に遭う日付が変わったとかは考えられますね。小説のなかでは不思議な天気の夕刻だったと思います」
「でももう大雅はアメリカに……」

 そこまで言ってハッと気づく。
 本当に今日、大雅はアメリカに旅立ったの?
 ちゃんと確認していないことが急に不安になってくる。

 今の時刻は午後三時。
 まだこの町にいるのなら、ひょっとしたらこのあと事故に遭うのかもしれない。
 音を立てて椅子を引く私に、長谷川さんは目を丸くした。

「あの……私、行きます。いろいろ、ありがとうございました」
「気をつけて行ってらっしゃい」

 穏やかな笑みに頭を下げ、図書館を飛び出せば、雨が絶え間なく世界を灰色に染めていた。