町は静かに今日という日を終えようとしている。
 夕焼け公園のベンチに座り、少しずつ光を失っていく世界を見ていた。
 目の高さまで落ちてきた太陽が、うろこ雲を金色に染めている。
 風は秋の色が濃くなり、もう夏はいないと教えてくれている。

 大雅とふたりきりで来るはずだったベンチにひとり。
 不思議とさみしくはなかった。

 それよりも一度、現状を把握したいと思った。
 時間が経つごとに、小説の展開が頭からこぼれ落ちていくみたい。
 ここにも大雅とふたりで来たことは覚えているけれど、台詞のひとつも浮かんでこない。
 どんどん小説の展開とずれていくことで、未来が消去されている気さえしている。

 そもそも、今起きていること自体説明がつかないことだらけ。
 大雅に会うことができたら、絶対に好きになると思っていた。
 物語の主人公として彼に恋をし、最後は結ばれる、と。

 でも、大雅への気持ちを考えてもよくわからない。
 恋をするってどういうことなのだろう。

「これじゃあ日葵と同じだ……」

 日葵は無事に帰れたのかな。
 なんだか今日はいつもの日葵と違う気がしたけれど、応援してくれているんだからがんばらないと。

 背筋を伸ばし自分を奮い立たせるそばから、心の声が聞こえてくる。

 ――恋はがんばってするものなの?

 ああ、もうなにがなんだかわからない。
 これから先、どうやって大雅と接していけばいいのだろう。
 ため息をつくと同時に、砂利を踏みしめる音がしてふり返る。
 ひょっとして大雅が来てくれたの?

「なんだ。やっぱりここにいたか」

 夕日に照らされた人影は――優太だった。

「なんで?」

 思わず強い口調になってしまうけれど、優太は気にする様子もなく当たり前のように隣に腰をおろした。

「部活早あがりして大雅んとこ行ったんだよ。そしたら日葵は来てないって言うし、悠花も帰ったって聞かされてさ」
「ああ……」
「俺も帰ろうと思ったんだけど、空がコレだからさ」

 長い指で上空を指す優太に、
「私も同じ。ちょっと夕日が見たくなったの」
 そう答える。

 なぜだろう、驚きよりもうれしさが勝っている。

「俺たち最近ここばっか来てるな」
「だね」
「大雅、すっかり回復したみたい。月曜日からは学校に来れそうだってさ。はい、これ」

 バッグから取り出したペットボトルを手渡してきた。

「って、悠花と日葵が買ったやつを失敬してきたんだけど」
「あ、うん」

 まだひんやり冷たいペットボトルのなかには、薄い青色のスポーツドリンクが入っている。
 たしか小説のなかでは透明色だったよね。

 同じペットボトルを手にした優太がいたずらっぽく笑った。

「え、二本もらってきたの?」
「大丈夫。俺がおすすめのヤツと交換してきたから。ついでに冷凍食品も差し入れしたし。それより、ほら見て」

 ペットボトルを目に当てると、そのままあごをあげる優太。

「こうして空を見るとキレイだからやってみて」
「…………」
「あ、バカにしてんだろ?」

 ペットボトルを目に当てたままで抗議する優太に笑ってしまう。

「そうじゃないけど、だまそうとしてない?」
「違う違う。まるで海の底から空を見ているみたいで不思議な感じがするんだ。マジだからやってみてよ」

 目を閉じてまぶたにペットボトルを当ててみる。
 冷たい感触に、すっと気持ちが落ち着くようだ。

 ゆっくり目を開ければ、そこには波打つ空が広がっていた。

 薄紫色にひろがる世界は決して視界がいいとは言えないけれど、夕焼けに変わりゆく空のグラデーションが美しかった。
 細くたなびく雲は海藻のようにゆらゆら揺れている。
 沈みかけた太陽は、波の向こうにあるみたい。
 優太の言う通り、海の底から空を見ている気がする。

「ほんとだ。海のなかにいるみたい。あの鳥も魚が泳いでいるみたいに見える」
「だろ。俺って天才」

 ペットボトルを目から離すと、キヒヒと笑う優太がいた。
 風が、優太の髪をやさしく揺らしている。

 この瞬間を切り取って保存できたらいいのに。

「もちろん、普通に見る空がいちばんだけどな」

 大雅につられて、私も真上に目をやる。
 夕暮れは濃くなり、夜の藍色が広がっている。小さな星の光が見えた。

「雨星って知ってる?」

 そう尋ねたのは、自分の意志だった。
 叶人が話していた雨星のことを、優太に聞いてみたくなったから。

「知ってるよ。叶人がよく言ってたもんな」

 当たり前のように言った優太が、なつかしそうに目を細めた。

「やっぱり叶人、いろんな人に教えてたんだね」
「あいつ、言うだけ言って、どんな星なのかは自分も知らないんだって。スマホで検索しても出てこねーし」
「私も。だからいまだに解明できてないんだよね」
「あいつは俺たちに大きな謎を残した。図書館でも行かないと解明は難しいだろうな」

 『図書館』のキーワードに、叶人が借りていた本のことを思い出した。
 ハッとする私に優太はきょとんとしている。

「叶人の部屋で図書館の本を見つけたの。よく行ってた図書館らしくて、星の本がたくさんあるんだって」

 たしか長谷川私設図書館、という名前だったはず。

「今さら返しに行くつもり?」
「だって借りっぱなしにしているのもよくないでしょう?」

「そうだけど」と言ったあと、優太は半分くらいに減ったスポーツドリンクを目に当ててまた空を眺めた。

「じゃあ俺もつき合ってやるよ」
「ほんと? それすごく助かるよ」

 ホッとする私に、優太は目だけをこっちに向けた。
 やさしい笑みを浮かべる優太を久しぶりに見た気がする。
 緩んだ目じりや白い歯に胸がひとつ音を立てた。

「……なに?」

 だけど、口から出るのはそっけない言葉ばかり。

「いや」と首を横に振り、優太が座ったまま両手を伸ばして伸びをした。
 上空で離された手がすとんと落ちる。

「うれしいな、って」
「なにが?」

 優太は立ちあがると、前方にある手すりに腰をおろしふり向いた。

「長いこと叶人の話を悠花のほうからはしなかったろ? 話したくないんだろうなって思ってたから俺もできなかった。だから、今すごくうれしい」
「あ……そう、だよね」

 モゴモゴ口のなかで言う私に「でもさ」と優太は言った。

「叶人のことを思い出すことで傷つくこともあるかもしれない」
「うん」

 たしかにそうだ。
 思い出すたびに誰もが心を揺さぶられ、ぎこちなくなっているから。
 お父さんとお母さんは、本当に離婚するのかな……。

「でも大丈夫」

 顔をあげても、逆光のせいで優太の表情がよく見えない。

「いざとなれば俺が守ってやるからさ」

 ……小説のなかでは大雅が言っていた台詞。

 たまに会話の主が変わることがあっても、ここまで完全に入れ替わることはなかった。
 これは……どういうこと?

「そんな顔すんなよ。冗談だよ」

 ひょいと手すりから離れた優太に、
「わかってるって」
 軽い口調を意識しつつ立ちあがった。

「でも……ありがとう」
「おう」

 背中で答えた優太はバッグを手に歩き出す。
 やっぱり優太は名前の通りやさしい人なんだ。
 ぶっきらぼうだけど、ちゃんと気にしてくれている。

 じんとお腹が熱くなっている気がして、右手を当てた。

 ひょっとしたら私は……優太のことが――。

 そこまで考えたとき、脳裏にフラッシュバックのように映像が映し出された。
 雨ににじんだ横断歩道、遠くの夕焼け、ブレーキの音。
 これは、小説のなかで起きる展開だ。
 文章を読んで想像していた光景がはっきりと思い出せる。

 急に立ち止まる私に、優太がなにか言っているけれど声が頭に入ってこない。

 なぜ忘れていたのだろう。
 このまま物語を追ってしまうと、あの展開に行きついてしまう。

 大雅は――交通事故に遭ってしまうんだ。