君がくれた物語は、いつか星空に輝く

「なんでそんなことが言えるのよ」

 お母さんの声に、夕食の席はひりついた。
 視線は横に座るお父さんにまっすぐ向けられている。

「いつまでも叶人の部屋をそのままにしておけないから整理しよう、って言っただけだろ。別にヘンなことじゃない」

 不機嫌に鼻でため息をつくお父さん。
 カシャンと乱暴にお母さんが箸を置く音が続いた。

「だから、なんでそんなひどいことが言えるの、って聞いてるの。まるで叶人の存在を忘れようとしているみたいじゃない」
「そんなつもりはない。お前こそ、なんでそんなに突っかかるんだよ」

 今日のおかずは肉団子の甘酢とナスのお浸しとコーンスープ。
 和食、洋食に中華が混在している。
 どれもおいしそうだけど、おいしそうじゃない。
 食事は味だけじゃなく、環境や雰囲気が大事なのにな。

 私の座る左斜め前の椅子は、二年間以上も主の帰りを待っている。

 ぼんやり椅子を眺めていると、
「悠花だっておかしいと思うでしょう?」
 お母さんが同意を求めてきた。

 いつだってそうだ。
 ふたりがケンカをすると私にジャッジを託してくる。

「……え?」
「聞いてなかったの? お父さんが叶人の部屋を片づけるって言ってるの。あの子の存在を消そうとしてるのよ」
「そうじゃない。整理するくらい、いいよな?」

 ふたりは私が答えを出せないことを知ってて聞いてくる。

「……ごめん。わからない」
「わからないことないでしょ。なんで自分の意見を言えないのよ」
「そんなんじゃ社会に出たときに苦労するぞ」

 ほら、こうして私に矛先を向けることで直接対決を避けているんだ。
 ふたりの怒りはベクトルとなり、家族の間を行き来する。
 最終的には私に向けられることが多いし、それも仕方ないとあきらめている。

 お父さんは食事の途中で席を立ち、自室に戻ってしまった。
 お母さんはイライラを隠さずにため息ばかり。

 冷めたおかずはどれも同じ味に思えてしまう。
 ただ口に入れ飲みこむだけの作業をくり返しているみたい。

「ねえ、悠花」

 さっきよりいくぶんやわらかい声でお母さんが言った。

「ひょっとしたら、お父さんとお母さん、別れることになるかもしれない。そうなってもいい?」

 私が答えないことを知ってるから聞いてるんだよね?

 もう一度、叶人の席を見やった。
 叶人が入院する前はどんな会話をしていたのか、思い出そうとしても浮かんでこない。
 お互いに無関心を装っていた記憶だけは、永遠に消えないアザ。
 叶人との思い出を美化する資格は、私にはない。

 重い空気のなかで食べる食事はなんて味気ないんだろう。


 久しぶりに入った叶人の部屋は、あのころのままだった。
 六畳の部屋は叶人だけの天体観測所。
 壁には星の天体図が描かれた大きなポスターが貼ってあり、窓辺にはクリスマスプレゼントでもらった天体望遠鏡が飾ってある。
 ベッドの横にある小さな地球儀は、天井に星空を映すことができる簡易型のプラネタリウム。

 叶人はいつも星空のことばかり考えていた。
 空ばかり眺める叶人には、あまり友達もいないようだったけれど、本人は平気だったみたい。
 まだ話をしていた時期に、この部屋に入ったことがあった。

『なんで星ばっかり見てるの?』

 そう尋ねた私に、叶人は照れたように笑った。

『僕はね、いつか雨星を見てみたいんだ。雨星が降る日に奇跡が起きるんだよ』
『雨星ってなに?』
『んー。実は僕もよく知らないんだよね。雨星は必要な人が自分で知って、必要な人のもとにだけ現れるんだって』

 くしゃっと無邪気に笑っていたっけ。

 雨星の意味はわからなかったけれど、偶然見つけた『パラドックスな恋』に同じ単語が出てきたときは驚いた。
 私があの小説を愛してやまないのは、叶人の面影を感じられるからかもしれない。
 とはいえ、あの小説のなかにも雨星の意味についてははっきりと書かれていなかったけれど……。

 机の上には惑星を模ったキーホルダーや、SF映画のチラシが几帳面に飾ってある。
 小さい椅子に腰をおろして、部屋を見渡しているとベッドの下になにかあるのが見えた。
 絨毯に這いつくばり手を伸ばすと、それは大きな本だった。
 図鑑くらいの大きさで、『宇宙物理学における月と星について』という固いタイトルに似つかわしくなく、表紙にはかわいいイラストがクレヨンタッチで描かれている。
 パラパラとめくると、図入りで宇宙についてひとつずつ解説をしている本みたい。
 本を裏返すと、印刷された紙がラミネート加工されて貼ってあった。

『長谷川私設図書館 う―13469』

 ひょっとして……図書館の貸し出し本?

 背表紙をめくるけれど貸し出しカードは見当たらない。
 思い返せば、長谷川私設図書館の話を叶人がしていた気がする。
 『星の本がたくさんある図書館があるんだよ』って……。

 叶人が亡くなって二年が過ぎようとしている。
 その期間、ずっと借りていたなら大変なことだ。いくら図書館とはいえ、延滞代金の請求があることも考えられる。

「どうしよう……」

 お母さんに相談しようと思ったけれど、機嫌の悪さに拍車をかけてしまうのは目に見えている。
 とりあえず部屋に本を持ち帰ろう。返却については一度問い合わせてみればいい。
 事情を話せばわかってもらえるかも……。

 ついでに簡易型のプラネタリウムも借りることにした。
 前から興味があったし、このまま整理されてしまうのは惜しい気がしたから。
 コードをだらんと垂らしたまま小さな地球儀みたいな機械を手にすると、思ったよりも軽かった。

 自分の部屋に戻る。
 叶人の部屋と比べると、なんて主張のない部屋なんだろう。
 カーテンを閉める前に空を確認した。
 今夜は雲が覆っていて、月も星も見えない。まるで我が家のように真っ暗で不穏な空だ。

 過去を忘れられないお母さんと、前に進みたいお父さん。

「どっちが正しいと思う?」

 そんなこと聞かれても叶人は困るだろう。
 どっちを選んだとしても悲しいと思うから、答えることができなかった。
 ふたりにはそんな私の気持ちなんてわからないよね……。

 カーテンを閉めてから、プラネタリウムをセットし部屋の電気を消した。
 スイッチを入れると、モーター音もなく天井にぼやけた夜空が映し出された。
 本体の軽さに反して、まぶしいほどの光が機械から放たれている。

 脇にあるノズルで調整するけれど、なかなかピントが合ってくれない。
 機体は自動で回転するらしく、空も同調してゆっくりと動いている。
 ベッドに横になると、まるで山の頂上で寝転んでいる気分。
 星の名前はわからないけれど、天の川くらいはわかる。

 叶人も同じ星空を見ていたんだね。

 叶人のことを、ずっと考えないように生きてきた。
 彼の死を思い出すたびに大声で叫びたくなるし、泣けば涙と一緒に思い出までもこぼれ落ちてしまう気がするから。

 学校にもちゃんと行けているし、ご飯だって食べられる。
 忘れたわけじゃない。
 でも、思い出せば、彼に対してやさしくなかった自分のことも同時に悔やんでしまうから。

 お父さんとお母さんも、現状の苦しみから逃れたいからこそ変化を望んだり拒んだりしているのかもしれない。
 叶人がいなくなってから、居場所がなくなった家族はみんな迷子になっている。

 私も同じだよ、叶人。

 泣きたくないのに、あまりに人工の星が美しくて視界は潤む。
 亡くなったあとで後悔したって遅い。昔、なにかの本に書いてあったことが今さらながら胸を締めつける。
 もっと話せばよかった。もっと話を聞いてあげればよかった。
 病気になり孤独になった叶人に、私はなんにもできなかった。

 涙でゆがんだ星たちは、ぼやけて光っていた。


 □□□□□□
「僕は悠花と新しい思い出を作っていくよ。そのほうが新鮮だもんね」
 ひょいと立ちあがる大雅の表情が、逆光で見えなくなる。
 ズキンと胸が痛くなった。
 自分を責めながら、なぜか大雅から目が離せない。
 ――あるわけない。
 ――こんなの恋じゃない。
 何度自分に言いきかせても、どんどん頬が赤くなるのを感じる。
 もっと大雅の顔を見ていたい、そう思った。
(つづく)
 □□□□□□


 いつものように学校のトイレでスマホを確認すると、『パラドックスな恋』は更新されていた。
 昨夜までは更新されていなかったのに、第一章の終わりに当たる夕日を見たシーンまでが記されていた。

 けれど、内容はこれまで読んできた展開そのまま。
 優太に当たる伸佳は夕焼け公園には来ていないことになっているし、主人公は大雅への淡い恋心を抱きはじめている。
 現実世界で起きたことは、小説に反映されないということなのかもしれない。
 これからの展開はどうなるのだろう。
 第二章を思い出そうと目を閉じる。

「……あれ?」

 なぜだろう、夕焼け公園のシーンのあとどうなったかが浮かんでこない。
 こんなこと、はじめてのことだ。
 体を小さくして意識を集中させると、ようやくぼんやり展開が浮かんだ。

「そっか……。大雅が風邪を引くんだ」

 今日起きることなのかはわからないけれど、大雅が学校を休んだ日に私はお見舞いに行く。そして、妹である知登世ちゃんに会うんだ。

 最後はふたりきりで夕焼け公園に行き、私は大雅への恋心を確信する、という流れ。

 憧れてやまなかった展開なのに、不思議と冷静な自分がいる。
 大雅とちゃんと話ができていないからかもしれない。
 夕日を見たのも、結局はふたりきりじゃなかったし……。
 しばらくぼんやりと画面を眺めてから、スマホをスカートのポケットにしまった。

 そろそろ始業のチャイムが鳴るころだ。トイレから出ると、ちょうど木村さんが登校してきたところだった。

「おはよう」
 と、相好を崩す木村さん。久しぶりに近くで顔を見た気がした。

「あ、おはよう」

 ふたりで並ぶ形で教室へ向かう。

「柏木さん、次の委員会って何日だったか覚えてる?」
「えっと、今度の金曜日じゃないかな」
「金曜日かぁ。どうせ草むしりの続きだよね。腰が痛くなるし汚れるし、ほんと苦手。そんなんだったら映画観に行きたいよ」

 ぶすっとする木村さんがなんだかかわいい。
 私と木村さんが入っている環境整備委員会は、名前はかっこいいけれど、やっていることは草むしりや備品チェックなど地味なものばかりだ。

「金曜日は……」

 あまりにも小さな声なことに気づき、言い直すことにした。

「金曜日は雨の予報。中止が期待できるかも」

 そう言う私に、木村さんはなぜかうれしそうに笑った。
 自分でも気づいたのだろう、「違うの」と片手を胸の前で振った。

「最近の柏木さん、すごく話しやすいからうれしいなって思って。あ、前が話しにくかったわけじゃないからね」
「そう、かな」

 なんだか急に恥ずかしくなり、そこから会話を交わすことなく教室に入る。
 自分の席へ直行すると、待ち構えていたのだろう、日葵が「ねえ」と体ごとうしろを向いた。
 大雅が風邪で休むという報告かもしれない。

「大雅からLINEが来てさ、風邪引いて休みみたい」
「うん」
「え、知ってたの?」

 つい当たり前のようにうなずいてしまった。

「知らない。ごめん、ねぼけててちゃんと聞いてなかった。風邪なんだね」

 しどろもどろに訂正すると、日葵は大雅の席のあたりに視線を向けた。

「大雅って今、ひとり暮らしの状態なんだって。家族はあとで引っ越してくるって言ってた」
「へえ……」
「昔から大雅って体弱かったよね」
「そうなんだ」
「幼稚園で遠足とか行った翌日は、たいてい寝こんでたよ。日常と違う変化があると、体調が悪くなっちゃうみたい。転入したてで疲れが出たのかもね」

 妹の知登世ちゃんが来るからから大丈夫だよ、と言いそうになる口を閉じた。
 あれは小説のなかの話だ。
 このあと、小説のなかで日葵役の茉莉は私にお見舞いに行くように進言するという流れだ。
 身構えていると、隣の席で寝ていた優太がムクッと顔をあげた。

「ビタミン系の飲み物と、エナジー系の炭酸飲料、あとはお弁当だって」

 ぶっきらぼうに言うと、大きなあくびをしている。

「なに、優太にも連絡来てたんだ?」

 日葵の問いに優太は眠そうな目で「ん」と答えた。

「俺は部活あるから、日葵が行くって伝えておいた。あとは頼む」
「なんであたしなのよ」
「しょうがねーじゃん。だって、悠花は大雅のこと覚えてないんだから」

 え、私が行くんじゃないの?
 驚きのあまり声の出ない私に、優太はやわらかくほほ笑んだ。

「覚えてないのにお見舞いに行くのはキツいだろうしさ」
「ちょっと待ってよ。悠花、大雅のことマジで覚えてないの?」

 日葵が思いっきり首をかしげた。

「あ、うん。覚えてないの」
「全然?」

 日葵が問い詰めるように顔を近づけたのでうなずく。

「全然、ちっとも、まったく」

 小説とは前後しているけれど、たまに会話がシンクロしている。
 呆れたような顔の日葵がうなずいた。

「じゃあ放課後、ふたりでお見舞いに行くことにしよう。きっと会えば少しずつ思い出せるはず」

 ふたりで……。そうだよね、そのほうがいいかもしれない。

 答えるよりも早く、
「後藤さん」
 兼澤くんが日葵に声をかけた。

 兼澤くんとはまだしゃべったことはないし、こんなに近くで見るのも初めてのこと。
 長めの前髪にメガネのせいでどんな表情なのかよくわからない。

「どうかした?」
「あの……この間言ってた漫画なんだけど、全巻手に入ったから」

 メガネをかけ直しながら言う兼澤くんに、日葵は紙袋を見やったあとパチンと拝むように手を合わせた。

「ごめん。漫画の話は学校ではナシってことで」
「あ……でも」

 兼澤くんが手にしている紙袋にはおそらくその漫画が入っているのだろう。

「別にヘンな意味じゃないんだけど、学校ではテニスに燃えているキャラでいたいの。それに漫画は電子で読むから大丈夫なんだ」
「そう」
「うん、ありがとうね」

 自分の席に戻っていく兼澤くんがかわいそうに思え、日葵に声をかけたくなった。
 けれど、日葵はもう私に背を向けてしまっている。
 結局なにも言えないまま、机とにらめっこをした。

「今のはねえよ」

 優太の声に顔をあげた。

「うるさいな。優太には関係ないでしょ」
「関係なくねえよ。カネゴンがかわいそうだろ」

 そういうあだ名を優太につけられているところが逆にかわいそうになる。

「うるさいな。放っておいてよ」

 席を立つ日葵に声をかけられなかった。
 優太も舌打ちを残してどこかへ行ってしまった。

 こんな展開は小説にはなかった。
 といっても、あの小説は短いし、日常の細かなところまで記載するのは難しいだろう。

 まあ……日葵は恋愛が苦手だって公言しているから、男子との接点も作りたくないのかも。
 私だってそうだ。あの小説の主人公みたいに、もっと大雅に近寄りたいのに勇気が出ない。
 大雅を心配する気持ちがないわけじゃないけれど、ひとりでお見舞いに行くのを避けられてよかった、と思う自分がいる。

 私の発言や行動でいろいろと変化しているんだろうな……。
 なんだか、小説の主人公を裏切っているような気がした。

 さっきから日葵は右手にはスマホ、左手には重いエコバッグを持って歩いている。
 私も荷物を持つと言ったけれど、『悠花には重すぎる』と一笑された。

「あそこのマンションだね」

 大股で歩く日葵に置いて行かれないようについていく。
 大雅のお見舞いに向かっているなんて不思議だ。
 小説の世界を体験したいと思っていたけれど、それはあくまで私が小説のなかに飛びこみたいというもの。
 まさか、現実世界で同じことが起きるとは思わなかった。
 しかも、微妙にズレているし……。

 ようやくマンションのエントランスに近づく。
 小説を読んだときに想像する建物よりも少し大きかった。
 きっと知登世ちゃんにこのあと会うのだろう。

 あれ、そのあとどうなったっけ……。
 また先の展開がぼやけている。
 思い出そうとしても、知登世ちゃんとどんな話をしたのか、そのあとどうなったかが思い出せない。何度も読んだ物語なのに、なぜだろう。

 たしか……大雅への恋心を確信するんだよね。

「でもさあ」エコバッグを軽く振りながら日葵がぼやいた。

「最近、優太ってムカつかない? なによエラそうに」

 今朝の言い合いが尾を引いているらしく、今日は最後までふたりの間に会話はなかった。

「そうだね。でも……」
「兼澤くんだって、なにもみんながいるところで漫画のこと言わなくてもいいじゃんね」
「うん。でも、漫画の話くらいはいいんじゃない?」
「やだよ。だってあたし、今――」

 言葉を呑み込むようにあごを動かしてから、日葵は不機嫌そうな顔を向けてきた。

「ていうか、恋愛なんてしたくないって言ってるでしょ」
「そうだけど……」
「もうこの話は終わり。大雅も風邪治ったみたいだし、ふたりで元気づけてあげようよ」

 マンションの入り口からなかに入ると、日葵はちょうど出てきた男性と入れ違いで自動ドアのなかに入った。私も閉まる前に滑りこむ。

 ここで知登世ちゃんが現れるはずなのに……。

 キョロキョロとしているうちに、日葵はさっさとエレベーターに乗りこんだ。

「悠花、早く」

 せかす声に私もエレベーターに乗った。
 二階のボタンを押すと、音もなくエレベーターのドアが閉まった。
 ふわっと生まれる浮遊感は一瞬のことで、すぐに二階に到着する。

 先に降りて右へ進もうとする私に、
「ねえ悠花」
 と、日葵が呼び止めた。

 ふり向くと、日葵が困ったような顔でまだエレベーターのなかにいた。

「悠花に聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「え……うん」

 どうしたんだろう。
 日葵はドアが閉まらないように押さえながら、眉間にシワを寄せている。

「この前さ、大雅のことどう思ってるのか聞いたじゃん。あのときはごまかしてたけど、ちゃんと聞かせてよ」
「それって……なんで?」
「だって大雅の記憶がないって言ってたから。覚えていないのに、それでも好きなのかな、って?」

 日葵の疑問にはうなずける。
 小説の世界では主人公に同化して大雅に恋をしている。
 けれど、二学期になり現れた現実世界の大雅に恋をしているのかと尋ねられると、やっぱりよくわからない。

 ここもまた物語が変わる分岐点なのだろう。
 大雅とのハッピーエンドを目指すなら、正しい道へ進まないといけない。
 なんだか、一度やった恋愛シミュレーションゲームを再プレイしているみたい。

 すう、と息を吸ってからまっすぐに日葵を見た。

「好きだよ。記憶はなくても、心が覚えている気がしてる。今はちゃんと思い出せていないけど、気持ちは変わらないよ」

 あの小説の主人公ならきっとこう答えたはず。
 日葵はしばらく黙っていたけれど、やがて「ふっ」と笑った。

「そっかー。悠花もちゃんと恋をしてるってことか」
「日葵だって兼澤くんのこと、ちゃんと考えてあげたほうがいいよ。漫画を借りてみるのはどう?」
「急に恋愛の達人っぽくなるのやめてよねー。あたしは恋愛はしないんだって。恋愛なんてしたら、自分の感情だけじゃなくて友達関係までおかしくなりそうだし」

 よくわからないことを言ったあと、日葵はエレベーターの外にエコバッグをひょいと置いた。

「ということで、あたしは帰るから」
「え!? どうして? 大雅の部屋、すぐそこだよ」

 いきなりの急展開に驚いてしまう。
 ドアを押さえていた手を離した日葵が、胸の前で小さく横に振った。

「ここが距離をグッと縮められるチャンスなんだからがんばりなよ。バイバイ」

 あっけなく目の前でエレベータのドアが閉まった。
 いきなりの展開に驚いてしまうけれど、ふたりきりで話す機会が小説よりも少ないのはたしかだ。
 でも、このあと知登世ちゃんに先に会うんだよね。
 大雅とふたりきりになれるのは、帰り道、送ってもらうときだったはず。

 意を決し202号室の前へ行く。
 うしろをふり返るけれど、知登世ちゃんは姿を現さない。
 とりあえず先に進まなくちゃ。
 インターフォンを押すと、しばらくして「はい」と大雅の声が聞こえた。

「あの、悠花です。お見舞いに来ました」
「え、悠花!? ちょっと待ってて。今、お風呂に入ってたところでね。すぐに着替えるから」
「はい」

 敬語で話している自分に気づき、肩を上下させ深呼吸をした。
 待っている間、廊下の手すりに腕を置いて外の景色を眺める。

 あ……日葵が帰っていくのが見える。
 いつも元気なイメージなのに、太陽が作る長い影のせいで落ちこんでいるように見えた。
 ふいに日葵がふり返った。

「日葵」

 きっとこんな小さな声じゃ届いていないのに、日葵は大きく手を振ってくれた。
 影も一緒に手を振ってくれている。
 私も精一杯腕を伸ばして手を振った。

 うしろでドアの開く音がした。

「お待たせしてごめんね」

 まだ濡れた髪の大雅が、黒いスウェットを着て立っていた。
 顔色もいいし、にこやかな笑顔は体調がよくなったことを表している。

「あれ、日葵も来るって聞いてるけど?」

 あたりを見回す大雅に、
「そうだったんだけどね、急用みたいで……。これ、三人からのお見舞い」
 とっさに理由をつけ、エコバッグを手渡す。

 ガバッとエコバッグを開けた大雅が、うれしそうにスポーツドリンクを取り出した。

「うれしいな。食べ物も飲み物も底をついてたから助かるよ」
 よほど喉が渇いていたのだろう、ペットボトルのフタを取り、一気飲みする大雅。
 玄関には大雅の靴しか置いていない。

「あの、知登世ちゃんは?」
「グッ」

 喉からヘンな音を立てた大雅が、ムセそうになっている。
 なんとかこらえてドリンクを口から離すと、思いっきり首をかしげた。

「僕、知登世のこと話したことあったっけ?」
「あ、ごめん」

 ヤバい。思わず口にしてしまった。
 現実世界では知登世ちゃんについて知らないことになっているんだった。
 言い訳を考えていると、「そっか」と大雅はうなずいた。

「ユウから聞いたんだね」
「あ……うん。そうなの」

 優太に感謝しながら大げさにうなずいてみせた。

「知登世は転校してから生まれたから年が離れてるんだけど、僕よりもしっかりしてるんだよ」

 ふにゃっとした笑みで宙を見る大雅。
 もうこれ以上余計なことは言うまい、と自分に言い聞かせる。

「来週あたりかな。家族みんなで越してくるよ。それまではひとり暮らしをしてるってわけ」
「うん」
「だから、いくら幼なじみでも悠花を家にあげることはできないんだ。男女ふたりが同じ部屋にいた、ってウワサが広まったら悠花に悪いし」

 申し訳なさそうに言う大雅に、慌てて両手を横に振った。

「ぜんぜんいいよ。そもそも風邪なんだから寝てないと」

 小説のなかでは知登世ちゃんがいたから部屋にあげてもらえたってことか……。
 真面目な大雅に好感を持ちつつ、一歩下がった。
 このあと、大雅は『じゃあ、途中まで送るよ』と言うはず。
 ふたりで夕焼け公園に行き話をするのが第二章のメインイベントだから。
 そこで私は大雅への気持ちを知ることができるのかな……。

 けれど、
「じゃあ、今日はありがとう」
 あっけなく大雅がそう言うから、私もうなずくしかなかった。

「お大事にね」

 そう言ったあと、私は階段に足を進める。
 階段を一歩ずつおりていると、ドアが閉まる音に続き内側からロックをかける音がした。

 ……なぜかホッとしている自分がいた。

 町は静かに今日という日を終えようとしている。
 夕焼け公園のベンチに座り、少しずつ光を失っていく世界を見ていた。
 目の高さまで落ちてきた太陽が、うろこ雲を金色に染めている。
 風は秋の色が濃くなり、もう夏はいないと教えてくれている。

 大雅とふたりきりで来るはずだったベンチにひとり。
 不思議とさみしくはなかった。

 それよりも一度、現状を把握したいと思った。
 時間が経つごとに、小説の展開が頭からこぼれ落ちていくみたい。
 ここにも大雅とふたりで来たことは覚えているけれど、台詞のひとつも浮かんでこない。
 どんどん小説の展開とずれていくことで、未来が消去されている気さえしている。

 そもそも、今起きていること自体説明がつかないことだらけ。
 大雅に会うことができたら、絶対に好きになると思っていた。
 物語の主人公として彼に恋をし、最後は結ばれる、と。

 でも、大雅への気持ちを考えてもよくわからない。
 恋をするってどういうことなのだろう。

「これじゃあ日葵と同じだ……」

 日葵は無事に帰れたのかな。
 なんだか今日はいつもの日葵と違う気がしたけれど、応援してくれているんだからがんばらないと。

 背筋を伸ばし自分を奮い立たせるそばから、心の声が聞こえてくる。

 ――恋はがんばってするものなの?

 ああ、もうなにがなんだかわからない。
 これから先、どうやって大雅と接していけばいいのだろう。
 ため息をつくと同時に、砂利を踏みしめる音がしてふり返る。
 ひょっとして大雅が来てくれたの?

「なんだ。やっぱりここにいたか」

 夕日に照らされた人影は――優太だった。

「なんで?」

 思わず強い口調になってしまうけれど、優太は気にする様子もなく当たり前のように隣に腰をおろした。

「部活早あがりして大雅んとこ行ったんだよ。そしたら日葵は来てないって言うし、悠花も帰ったって聞かされてさ」
「ああ……」
「俺も帰ろうと思ったんだけど、空がコレだからさ」

 長い指で上空を指す優太に、
「私も同じ。ちょっと夕日が見たくなったの」
 そう答える。

 なぜだろう、驚きよりもうれしさが勝っている。

「俺たち最近ここばっか来てるな」
「だね」
「大雅、すっかり回復したみたい。月曜日からは学校に来れそうだってさ。はい、これ」

 バッグから取り出したペットボトルを手渡してきた。

「って、悠花と日葵が買ったやつを失敬してきたんだけど」
「あ、うん」

 まだひんやり冷たいペットボトルのなかには、薄い青色のスポーツドリンクが入っている。
 たしか小説のなかでは透明色だったよね。

 同じペットボトルを手にした優太がいたずらっぽく笑った。

「え、二本もらってきたの?」
「大丈夫。俺がおすすめのヤツと交換してきたから。ついでに冷凍食品も差し入れしたし。それより、ほら見て」

 ペットボトルを目に当てると、そのままあごをあげる優太。

「こうして空を見るとキレイだからやってみて」
「…………」
「あ、バカにしてんだろ?」

 ペットボトルを目に当てたままで抗議する優太に笑ってしまう。

「そうじゃないけど、だまそうとしてない?」
「違う違う。まるで海の底から空を見ているみたいで不思議な感じがするんだ。マジだからやってみてよ」

 目を閉じてまぶたにペットボトルを当ててみる。
 冷たい感触に、すっと気持ちが落ち着くようだ。

 ゆっくり目を開ければ、そこには波打つ空が広がっていた。

 薄紫色にひろがる世界は決して視界がいいとは言えないけれど、夕焼けに変わりゆく空のグラデーションが美しかった。
 細くたなびく雲は海藻のようにゆらゆら揺れている。
 沈みかけた太陽は、波の向こうにあるみたい。
 優太の言う通り、海の底から空を見ている気がする。

「ほんとだ。海のなかにいるみたい。あの鳥も魚が泳いでいるみたいに見える」
「だろ。俺って天才」

 ペットボトルを目から離すと、キヒヒと笑う優太がいた。
 風が、優太の髪をやさしく揺らしている。

 この瞬間を切り取って保存できたらいいのに。

「もちろん、普通に見る空がいちばんだけどな」

 大雅につられて、私も真上に目をやる。
 夕暮れは濃くなり、夜の藍色が広がっている。小さな星の光が見えた。

「雨星って知ってる?」

 そう尋ねたのは、自分の意志だった。
 叶人が話していた雨星のことを、優太に聞いてみたくなったから。

「知ってるよ。叶人がよく言ってたもんな」

 当たり前のように言った優太が、なつかしそうに目を細めた。

「やっぱり叶人、いろんな人に教えてたんだね」
「あいつ、言うだけ言って、どんな星なのかは自分も知らないんだって。スマホで検索しても出てこねーし」
「私も。だからいまだに解明できてないんだよね」
「あいつは俺たちに大きな謎を残した。図書館でも行かないと解明は難しいだろうな」

 『図書館』のキーワードに、叶人が借りていた本のことを思い出した。
 ハッとする私に優太はきょとんとしている。

「叶人の部屋で図書館の本を見つけたの。よく行ってた図書館らしくて、星の本がたくさんあるんだって」

 たしか長谷川私設図書館、という名前だったはず。

「今さら返しに行くつもり?」
「だって借りっぱなしにしているのもよくないでしょう?」

「そうだけど」と言ったあと、優太は半分くらいに減ったスポーツドリンクを目に当ててまた空を眺めた。

「じゃあ俺もつき合ってやるよ」
「ほんと? それすごく助かるよ」

 ホッとする私に、優太は目だけをこっちに向けた。
 やさしい笑みを浮かべる優太を久しぶりに見た気がする。
 緩んだ目じりや白い歯に胸がひとつ音を立てた。

「……なに?」

 だけど、口から出るのはそっけない言葉ばかり。

「いや」と首を横に振り、優太が座ったまま両手を伸ばして伸びをした。
 上空で離された手がすとんと落ちる。

「うれしいな、って」
「なにが?」

 優太は立ちあがると、前方にある手すりに腰をおろしふり向いた。

「長いこと叶人の話を悠花のほうからはしなかったろ? 話したくないんだろうなって思ってたから俺もできなかった。だから、今すごくうれしい」
「あ……そう、だよね」

 モゴモゴ口のなかで言う私に「でもさ」と優太は言った。

「叶人のことを思い出すことで傷つくこともあるかもしれない」
「うん」

 たしかにそうだ。
 思い出すたびに誰もが心を揺さぶられ、ぎこちなくなっているから。
 お父さんとお母さんは、本当に離婚するのかな……。

「でも大丈夫」

 顔をあげても、逆光のせいで優太の表情がよく見えない。

「いざとなれば俺が守ってやるからさ」

 ……小説のなかでは大雅が言っていた台詞。

 たまに会話の主が変わることがあっても、ここまで完全に入れ替わることはなかった。
 これは……どういうこと?

「そんな顔すんなよ。冗談だよ」

 ひょいと手すりから離れた優太に、
「わかってるって」
 軽い口調を意識しつつ立ちあがった。

「でも……ありがとう」
「おう」

 背中で答えた優太はバッグを手に歩き出す。
 やっぱり優太は名前の通りやさしい人なんだ。
 ぶっきらぼうだけど、ちゃんと気にしてくれている。

 じんとお腹が熱くなっている気がして、右手を当てた。

 ひょっとしたら私は……優太のことが――。

 そこまで考えたとき、脳裏にフラッシュバックのように映像が映し出された。
 雨ににじんだ横断歩道、遠くの夕焼け、ブレーキの音。
 これは、小説のなかで起きる展開だ。
 文章を読んで想像していた光景がはっきりと思い出せる。

 急に立ち止まる私に、優太がなにか言っているけれど声が頭に入ってこない。

 なぜ忘れていたのだろう。
 このまま物語を追ってしまうと、あの展開に行きついてしまう。

 大雅は――交通事故に遭ってしまうんだ。


 リビングに顔を出すと、お母さんがサッとなにかを隠したのが見えた。

「ただいま」

 洗面所に水筒を置き、そのまま手を洗う。

「遅かったのね。疲れたでしょう、先に着替えて来たら?」

 こんなやさしい言葉をかけてくるのは、なにか隠している証拠。
 親子そろってウソが苦手だからすぐにわかる。

「なに見てたの?」

 ソファを指さすと、「ああ」と作り笑顔を消した。

「住宅情報誌を見てただけよ」

 忙しく夕食の準備をはじめたお母さんに「そう」とだけ伝え、部屋に戻った。
 着替えている間も、ずっと大雅のことが頭にある。
 恋とかじゃなく、大雅が事故に遭う未来を思い出してしまったから。

 動揺する私を知り、優太は何度も理由を尋ねてきたけれど言えなかった。
 こんな話、誰も信じないし、信じさせる自信がない。

 スマホを開くと、大雅の部屋にお見舞いに行ったところまで更新されていた。
 ふたりきりでの夕焼け公園はまだ載っていない。これまで読んできたものと同じ展開だ。

「どうしよう……」

 部屋のなかをウロウロしてもなにも解決しない。

 大雅が事故に遭うことを避けるには、どうすればいいのだろう。
 事情を説明しても、絶対に理解してもらえない。
 大雅が事故に遭うのは、夕焼けのなかで雨が降っているという変わった天気の日。
 星雨は降っていたのだろうか。
 意識を集中して思い出そうとしても、やっぱりダメ。そもそも、星雨がなんなのかわからない私にはたどり着けない答えなのかもしれない。

 事故が起きたあとの展開はどうなるんだっけ?
 その先にまだなにかあったような気がする。

「悠花」

 声にギクリとしてふり返るとお母さんがドアを開けて立っていた。

「何度も呼んだのよ」
「あ、ご飯?」

 平然を装おうとしてもムリだ。
 霧のなかを覗くようにぼんやりした未来に、不安が押し寄せてきている。
 お母さんが、しばらく考えてから口を開いた。

「さっき見られちゃったから正直に言うわね。しばらくお父さん、帰ってこないことになったのよ」
「……それってどういうこと?」
「別居することになったの。たぶん、離婚することになると思う。この家は売ることになるだろうから、それで賃貸物件を探してたの」
「そう」

 そんなこと急に言われても、今はなんの情報も入ってこない。

「そう、って……悠花はそれでいいの?」

 いいわけないじゃない。叶人がどれだけ悲しむと思ってるのよ。
 どうしてこんなことになるの?

 だけど……気持ちはやっぱり言葉になってくれない。

「ごめん。今はちょっと考えられない」

 相当ショックを受けたと思ったのだろう、

「ごめんなさいね」
 と、お母さんはため息を残して部屋をあとにした。
 背を丸めたうしろ姿が、どこか今日の日葵に重なる。

 気持ちを落ち着かせようと、窓を開けて夜を見た。斜め上に月が光っている。
 右側にはいくつかの星が光っていた。

 心の騒がしさに反して、やけに静かな夜だった。


 ここのところずっと雨が降っている。

 放課後になっても変わらない天気は、心のなかに雨が溜まるように気持ちを重くしていく。

「柏木さん、まだ帰らないの?」

 帰り支度をする木村さんに声をかけられた。
 今日の委員会の草むしりは雨のため中止。代わりに備品チェックをやらされた。

「せっかくだから宿題していこうかな、って」
「雨もすごいしね」

 最近は木村さんとも普通に話をするようになった。
 話をするようになって知ったことは、木村さんは大の映画好きだということ。
 それも私たちが生まれる前に上映していた作品を愛していて、今日も備品チェックをしながらいろいろと教えてくれた。

 あいかわらず上手な返しはできなくて謝ったところ、木村さんは『いいのいいの。聞いてくれる人がいるだけでうれしいから』と笑っていた。

 通学バッグを手に取ると、木村さんは「ね」と私に言った。

「もしよかったらなんだけど、ニックネームで呼んでもらうことってできる?」
「木村さんのニックネームはキムだよね?」
「みんな苗字からつけたあだ名だと思ってるけど、女優のキム・ノヴァクからつけてるの。誰も知らないけどね」
「そうなんだ」

 キムなんとかという女優のことを知らない私に、木村さんは「あのね」とうれしそうにはにかんだ。

「ヒッチコックの『めまい』とかで有名な女優さんでね。すごく憧れているの。キレイなだけじゃなく、演技が私を魅了して離さないの」

 キラキラした瞳で語る木村さんに、私まで笑顔になってしまう。

「わかったよ、キム」
「よろしく、カッシー」

 そう言ったあと、木村さんは首をかしげる。

「カッシーはしっくりこないから考えておくね。バイバイ」
「バイバイ」

 手を振ったあと、急にさみしくなったのはなぜだろう。

 スマホを取り出し、更新分まで小説を確認することにした。
 お見舞いに行った帰りに、大雅と一緒に夕日を眺めている描写を目で追う。
 小説のなかには、主人公が恋した大雅がいる。
 でもあの日、一緒に夕日を見たのは優太だった。

 大雅の席を見る。
 風邪のあと復帰した大雅は、前よりももっと話しかけてくるようになった。
 クラスのみんながウワサするくらい、私たちの距離は近づいている。

「でも……」

 自分のなかに彼への想いがないことは、この数日で自覚している。

 ――私は、大雅に恋をしていない。

 元々、小説のなかの悠花とは見た目も性格も違いすぎるから、主人公になれないとわかっていたから。
 それよりも、もっと心配なのはこの先の展開だ。

「とにかく事故だけは避けないと……」

 あいかわらず『パラドックスな恋』の展開は忘れたままだけど、大雅が事故に遭うことだけはわかっている。
 どんなふうに事故に遭うのか、どれほどの傷を負うのかは思い出せないけれど、何度もくり返し読むほど好きな話だからバッドエンドではないはず。

 連載が進めば思い出せるかもしれない。
 そこまでは『大雅に恋する私』でいて、そばにいたほうがいいだろう。

 窓ガラスに伝う雨を見た。流れて、ほかの雨粒と同化して、また離れていく。
 まるで私の心みたい。いろんな感情がくっついたり離れたりしている。

「……待って」

 思わず声にしていた。
 この場面を覚えている。これは……小説のなかにも出てきたはず。

 ガタッ。

 音にふり向くと、大雅が私を見てうれしそうに口元をカーブさせた。

「あれ、悠花」

 やばいな、と身構える。このシーンは……。

「課題明日までだったの忘れてて取りにきたんだ。悠花は電気もつけずになにしてたの?」
「私は委員会、すぐ帰ろうと思ったんだけど、雨が激しいから――」

 途中で言葉をごくんと呑みこんだ。
 思い出したばかりの記憶を急いで上映する。

 □□□□□□
 雨の音がさっきよりもすぐ近くで聞こえた気がした。
 私と一緒に空が泣いているみたい。
「私は平気。だって、今は傷ついてなんかいないから。大雅とまた会えたこと、すごくうれしく思ってるんだよ」
「僕もだよ」
「だったら教えて。いったい私たちになにが――」
「悠花のことが好きなんだ」
 □□□□□□

 そうだった。ここで大雅に告白をされるんだ……。

 ということは、小説の物語は終盤に入っていることになる。
 どうしよう。
 あれほど憧れていた告白のシーンなのに、自分の気持ちを確認した今、それを受けることはできない。

「雨が激しいから、日葵が部活終わるの待ってたところ」

 とっさの言い訳につけ加え、
「もうすぐここに来ると思うよ」
 けん制もしておく。

 告白できない状況にしておいたほうが、大雅とふたりきりになる機会は減らせるはず。
 なんとかこの場面をすり抜けないと、と自分に言い聞かせる。

 私の決意も知らずに大雅はスルスルと机の間を抜けると、優太の机の上に腰をおろした。

「雨だね」
「あ、うん」

 あいまいに答え、カバンを整理した。

「なにか、悩んでるの?」
「ううん、別に。私、帰らなくちゃ」

 強引に立ちあがる私の腕を、大雅はつかんだ。
 思ったよりも大きな手に驚きながら、思考がフリーズしてしまう。

「なあ悠花」

 ――ダメ。

「話したいことがあるんだけど――」

 ――それ以上言わないで。

「離して!」

 強引に手を振りほどくと、傷ついた目をした大雅が視界のはしに映った。
 ううん、これは私の錯覚なの……?

 笑え、と自分に指令を出すと、すんなり唇が動いてくれた。

「もう大雅、それセクハラだよ」
「あ、ごめん」

 宙をかくように指先を動かしてからパタンと手をおろす大雅。

「なんかごめん。ちょっと話がしたかっただけなんだ。でも、やめておくよ」

 どうしていいのかわからずうつむく私を置いて、大雅は教室を出て行ったようだ。
 遠ざかる足音は、すぐに雨音に紛れ聞こえなくなった。

 ……危なかった。

 ため息をつき、教室のカーテンを閉めた。
 窓の外は灰色の世界。これじゃ、今夜は星も見えない。
 大雅を好きな自分を演じるのも難しいとなれば、どうやって事故を防げばいいのだろう。
 もうわからないよ……。

 そういえば、叶人の借りていた本を返しにいかないと。
 ついでに雨星についても調べてみよう。
 違うことで頭のなかを埋めようとするのに、さっきの傷ついた大雅の顔が浮かんでしまう。
 誰かに悲しい思いをさせるのは、なんて痛いんだろう。





【第三章】

月が銀河を泳いでいる



「図書館なんて久しぶりなんだけど」

 日葵が大きな声で言うから、「シッ」と人差し指を唇に当てる。
 もうこれで何度目かの注意だ。

「でもさあ、こんな暗くて本を読めるのかなあ」

 天井を指さす日葵には、声を小さくする意思はなさそう。
 駅前から普段は乗らない方面行きのバスに乗り、揺られること三十分。
 山の中腹にある図書館は、噂には聞いたことがあったけれど訪れたのは初めてのこと。
 館内は広いわりに薄暗く、天井からはオレンジ色の照明がいくつかぶら下がっている。
 日葵が言うように、図書館にしては暗すぎる。

「とりあえず本を返すんだろ」

 うしろで優太がそう言うが、貸し出しカウンターにも二階の閲覧スペースにも職員らしき人はいなかった。
 それどころか、土曜日というのにほかにお客さんの姿もない。

 ふと、この光景をどこかで見た気がした。
 ああ、そうだ。『パラドックスな恋』でも同じ場面があったよね。

 最近は直前にならないと小説の内容が思い出せないことが増えている。
 たしか、大雅が学校を休んでいて、その間に『雨星』について調べに図書館へ行くシーンが出てきたはず。

 主人公が手にした本を見て、幼なじみふたりが顔をこわばらせる。
 そして、意味ありげにごまかされるというシーン。

 叶人が借りていた本を改めて見る。
 クレヨンタッチの表紙は、小説内で出てきた本と同じだ。

 今日来るとき、バスのなかでふたりに本の表紙を見せた。
 日葵も優太も、どちらもこの本は初めて見たと言ってたし、それはウソではないと思う。

 それに改めて考えると、小説の内容との乖離はほかにもある。
 あの日から大雅は私にあまり話しかけてこなくなった。
 あんな露骨に拒否してしまったから、そうなるのも当然かもしれない。

 まるで小説と逆の展開になっているし、これでは雨星が降る日に大雅を助けられないことになる。

「ね、ここに座って」

 閲覧コーナーを指さすと、ふたりは素直に座ってくれた。
 正方形のテーブルの脇にあるスイッチを押すと、

「わ、まぶしい!」

 日葵が顔をそむけた。テーブルの四方につけられたライトが白く光り、上空からはさらに明るいLEDの照明が照らしている。

「なるほど、これで本が読めるってことか」

 感心する優太に、日葵はたいくつそうに椅子にもたれた。

「ここの見学会に来たわけじゃないんだよ。さっさと終わらせてお茶でもしようよ」
「いっそのことその本、カウンターに置いて逃げちゃおうか」

 どこまで本気かわからない口調で優太は言った。

「それはヤバいって」

 笑い声をあげた日葵が、「いけない」と口を両手で覆った。
 ふたりにちゃんと話をしたい。おかしなことを言うと思われてもいい。
 せめて、今の状況だけは伝えておきたかった。

 ううん……助けてほしかった。

「ちょっとだけ話をしたいの」

 そう言うと、ふたりは顔を見合わせてからこっちを向いた。

「ふたりに改めてヘンなことを聞くと思うけど、ちゃんと答えてほしいの」

 日葵は口を押えたままの恰好でうなずき、優太は「ああ」と答えた。
 なんて説明すればわかってくれるのか、と数秒考えても言葉が選べない。
 視線を落とすと、そこには叶人が借りた本が置かれている。
 テーブルの照明が当たり宙に浮いているように見えた。
 『宇宙物理学における月と星について』のタイトルを指先でたどった。

「もう一度確認するけど、ふたりはこの本を見たことがないんだよね?」
「ないよ」「ない」

 同時にふたりが答えた。
 長い経験だからわかる、やっぱりウソは言っていない。
 小説と現実世界の差がひとつ、と心のなかでメモる。

「あと……私って小学三年生までの記憶がないの?」
「へ?」

 日葵が「そうなの?」と質問をした私に尋ねてくる。

「私はあるつもりなんだけど、ふたりから見たらどうなのかな、って」

 ギイと椅子を揺らせた優太が口を閉じたままでうなった。

「たしかに大雅のことは忘れてるみたいだけど、それくらいなんじゃね?」
「むしろ大雅の記憶だけすっぽり抜けてるように思えるよ」

 そうだよね、と胸をなでおろした。
 だって、私には昔の記憶もおぼろげながらだけどちゃんとあるから。

 叶人が生まれた日のこと。
 叶人が寝るまで心配で眠れなかったこと。
 叶人と遊んだこと。

 たくさんの思い出が今も記憶として刻まれている。

「じゃあさ、小学三年生のときに私が交通事故にあったことって覚えてる?」

 ふたりは黙って首を横に振るので、今度こそ安堵の息をつけた。
 小説の設定と違い、大雅はただ転入してきただけということになっているみたい。

 だとしたら、いったいなんのために大雅はこの世界に現れたのだろう。
 雨星はどんな奇跡を起こしてくれるのだろう……。

 今後の展開を考えても、わかっているのは大雅が事故に遭うこと。
 その先は……ああ、やっぱりうまく思い出せない。

「記憶とか事故とかって、どういうこと? やっぱり悠花、なんかあったんだろ?」

 優太が椅子を揺らしながら尋ねた。
 ふたりにこの不思議な現象を理解してもらうことはあきらめた。
 小説と現実が混ざり合っているなんて意味がわからないだろうし。

「なんでもないよ。ちょっと聞いてみただけ」

 ごまかしてみても優太にはお見通しなのだろう。
 目を細め疑うような視線を送ってくる。

「そう言えばさあ」

 テーブルに両肘を置いた日葵が、光のなかでつぶやいたので、
「なになに」
 その話題にすがりつくことにした。
 けれど、日葵の表情もどこか浮かない。

「こないだ大雅のお見舞いに行ったとき、なんかあったの?」
「なんかって?」
「ほら、ふたりの間に進展とかあったのかなーって。その後の報告がないからさ」

「ああ」と答えてから首を横に振る。

「エコバッグごと渡して帰ったよ」
「え……なんで?」

 日葵の声が固くなった気がした。

「なんでって。大雅、風邪引いてたし、女子ひとりで部屋に入れるわけにいかない、って言われたから」
「……へえ」

 なにか考えるように日葵はうつむいてしまったので、表情が見えなくなる。
 本をペラペラとめくる優太は興味がなさそう。

「日葵?」

 尋ねると、日葵はハッと顔をあげて笑みを作った。

「残念だったね。またきっとチャンスはあるよ」
「あ、うん」
「あたしが作ったチャンスを無駄にしたバツは重いよ。帰りにジュースをおごること!」
「だから大声を出しちゃ――」

 カツカツ、と革靴の音が聞こえた。
 誰かが階段をあがってきている。
 オレンジ色の照明のなか、長いシルバーの髪が見えた。
 優太も気づいたらしく本から顔をあげた。
 女性だと思ったけれど、近づくにつれて長身の男性であることがわかる。 
 優太も長身だけどもっとスリムで、繊細なイメージで髪色によく似たスーツを着ている。
 ネクタイはスーツよりも少し濃い色で切れ長の目によく似合っている。

「いらっしゃいませ。ちょっと外出していたものですみません。館長の長谷川と申します」

 彼が頭を下げると、肩の下あたりまでの髪がサラサラと波のように動いた。
 年齢は二十代後半、もしくは三十歳くらいだろうか。
 美しい顔をした男性だと思った。

「こんにちは」「こんちわ」

 さすが体育会系というべき瞬時の挨拶をするふたりに、私も遅れて頭を下げた。

「お邪魔しています。うるさくしてすみません」
「構いませんよ。ここはあまりお客さんも来ませんから」

 ほほ笑む長谷川さんの瞳が、優太の手元にある本で止まった。

「それはひょっとしてツータス・パンシュの本ですか?」
「俺じゃないです。こいつのです」

 人差し指でさしてくる優太をひとにらみしてから、再度頭を下げた。

「弟が長い間お借りしたままだったようです。本当に申し訳ありませんでした」

 まだ笑みを浮かべている長谷川さんが、どこかアンドロイドに見えてくる。
 顔立ちが整いすぎているからそう思ってしまうのかな……。
 私をじっと見つめたまま長谷川さんが、あごに手を当てた。

「あなたは柏木悠花さんですか?」
「……そう、です」

 ゆっくりと目を細めると、長谷川さんはやさしく目を細めた。

「そうでしたか。叶人くんからよく話は伺っていました」
「叶人が……」

 思いもよらない場所で叶人の名前が出てきた。
 でも、叶人が借りた本だし、長谷川さんと顔見知りになっていてもおかしくないだろう。

「お世話になりました」

 改めて礼をすると、長谷川さんはさみしげに目を伏せた。

「大変でしたね。大事な人を亡くされ、さぞかしお辛いでしょう」
「いえ……はい」
「その本は叶人くんのお気に入りで、よく読んでおられました」

 日葵が優太になにかコソコソ話をし、そっと席を立つのが見えた。
 優太も「別にいいのに」とつぶやきながら席を離れていく。
 ふたりきりで話をさせよう、という日葵の気遣いだろう。

 向かい側の席に腰をおろした長谷川さんの顔が、照明でさらに白く光る。
 私も元の席に座った。

「あの……叶人が亡くなったことは誰に聞いたのですか?」

 本が部屋にあったのなら、お母さんではないはず。

「本人からですよ」
「え、本人……?」

 本人って、まさか叶人から聞いたってこと?
 驚く私に、長谷川さんがゆるゆると右手を横に振った。

「すみません、言葉足らずでした。私と叶人くんは年齢は離れていますが、友達なんです。彼が入院してから毎日のように連絡はし合っていました」

 そんなこと、全然知らなかった。
 長谷川さんは少し考えてからスマホを取り出すと、画面を操作した。

「彼はこう書いています。『毎日必ずメッセージを送るよ。三日続けて届かなくなったときは、もう僕はいないと思ってね』と」
「……そうでしたか」
「二年前、連絡が来なくなって三日が過ぎた日に、静かに友の死を受け止めました」

 本を手元に寄せた長谷川さんは、まるでそこに叶人がいるかのように小さく笑みを浮かべている。

「なんだか……ホッとしました。叶人にも友達がいたのですね」
「今でも彼は私の親友です」

 そう言って、長谷川さんは奥の席でボソボソ話しているふたりを見やった。
 あのふたりが私にとってそうであるように、というようなやさしい目線で。

「もうひとつ伺いたいことがあるんですけど……」

 視線を私に戻すと長谷川さんは目尻を下げた。

「叶人がよく『雨星が振る日に奇跡が起きるんだよ』と言ってたんです。それについて、ご存じですか?」
「なつかしい。たしかによく言っておられましたね。けれど、私には残念ながら雨星についての知識がなく、叶人くんからも教えてもらえませんでした」
「そうでしたか……」

 バッグに入れているスマホで『パラドックスな恋』を開いて見せようと思ったけれど、きっと長谷川さんには意味がわからないこと。

「雨星は実在するんでしょうか?」
「流星群のことかな、と予想したのですが不正解でした。占いで『雨星人』という分類の名前もあるそうですが、それもダメ。誰もその謎を解くことはできないのです」

 困った顔の長谷川さんに、思わず笑ってしまった。

「叶人の言う奇跡ってなんだと思いますか?」
「それもまた謎ですが、星にまつわる奇跡はたくさんあるんです。例えば流星群が奇跡を運んでいてくれるとか、『奇跡の星』と呼ばれる星を見つけたら奇跡が起きるとか。古代から、人は夜空を見あげて願い続けているのでしょう」

 奇跡なんて起きないからこそ、そう呼ばれている。

 もう二度と叶人には会えないし、仲がよかったとは言えない私に会いたいとも思っていないはず。

「彼はいつもあなたのことを心配していましたよ」

 けれど、長谷川さんがそんなことを言うから、胸が大きく跳ねてしまう。

「私のこと……ですか?」
「入院してからは特にそうでした。どんどん元気がなくなる悠花さんのことばかり、メッセージに書いてありましたから」
「ああ……」

 漏らす言葉に、向こうのふたりがなにごとかと顔を向けているのが見える。
 同時に鼻の奥がツンと痛くなった。

「私……全然いい姉じゃなかったんです」
「それはあなたから見た事実であって、彼にとっては違うかもしれませんよ。本当に悠花さんのことを心配していましたから」

 こみあがる涙はあっけなく頬にこぼれ落ちた。
 私なんかをどうして心配してくれたの?
 この涙は、後悔と懺悔と取り戻せない時間を嘆いてこぼれていると思った。

「叶人が亡くなってから、友達にも叶人の話ができなくなりました。それどころか、普通の話もできなくなって……」
「はい」
「両親の仲も悪くなって、離婚するかもしれない。それなのに……なにも、言えないんです」

 なぜ初対面の長谷川さんにこんなことを話しているのだろう。
 ポロポロこぼれる涙と言葉たちを止めることができない。
 バッグからハンカチを取ろうとしたときだった。

「おい」

 うしろから大きな声がして、優太が駆け寄ってきた。

「あんた、悠花になにか言ったのか?」
「え、ちょっと――」
「悠花になにか余計なこと言ったんだろ」

 食ってかかる優太を、なぜか長谷川さんはにこやかに受け止めている。

「優太、やめてよ」

 慌てて止める私を優太は不満げに見た。

「悠花だって叶人の話を振ってもずっと拒否してただろ。やっと最近になって話せるようになったのに、なんで初対面のこいつにペラペラしゃべってんだよ」
「それは……」

 自分でも主張がおかしいと思ったのだろう。
 優太は頭をブンブンと横に振ると、「もういい」と吐き捨て歩き出す。

「待ってよ」

 階段の手前でピタリと足を止めると、優太はまた首を横に振った。

「ごめん。俺、おかしいわ。失礼しました」

 最後の言葉は長谷川さんに言ったのだろう。

「構いませんよ」

 長谷川さんの答えに、優太はまたムッとした表情を浮かべ、そのまま階段を駆け足で下りて行ってしまった。

「待ちなって! 悠花、あたし追いかけるね」

 私の返事も待たずに、日葵も行ってしまった。これはマズい。

「すみません。私が泣いてしまったせいでご迷惑を――」
「いいですね」

 頭を下げる私に、長谷川さんはそう言った。

「友達っていいものです。悠花さんのためにあんなふうにぶつかってこられるんですから」

 それでもさっきの優太の発言は失礼すぎる。
 優太らしいと言えばそうだけど、怒りの根源がよくわからない。
 とにかく私も追いかけたほうがいいのはたしかなこと。

「私もこれで失礼します。あの、この本は……」
「このままでいいですよ。元の場所に戻しておきますので」

 座ったままの長谷川さんに一礼して歩き出した。
 テーブルの照明を消すスイッチ音とともに、二階は暗がりに沈んだ。

「パラドックス」

 ふいに声が聞こえ、思わず体ごとふり返ってしまう。

「パラドックス……って言ったのですか?」

 信じられずに尋ねると、長谷川さんは長い足を組んだ。

「その言葉をご存じですか?」
「詳しくはわかりませんが……聞いたことはあります」

 どうして長谷川さんがパラドックスを知っているのだろう。
 いや、別に『パラドックスな恋』について言っているわけじゃないんだ。

「パラドックスというのは、一見すると真実のように見えるけれど実は真実ではない、という意味で使われることが多い言葉です」

 立ち尽くす私に、長谷川さんは言葉を続けた。

「有名な例では『誕生日のパラドックス』があります」

 人差し指を立てる長谷川さんは、まるで催眠術師のよう。
 その指先に意識が吸いこまれていくみたい。

「同じクラスに四十人いたとします。そのなかで同じ誕生日の人がいる確率は何パーセントだと思いますか?」
「え……」

 突然はじまった問題。
 その間にも、ふたりは図書館を出たらしく、入り口のドアが閉まる音が聞こえた。

「あの……同じ誕生日ですよね。三六五日ぶんの四十だから……十%くらいですか?」

 満足そうにうなずくと長谷川さんは立てた指を左右に振った。

「今出した答えが真実のように思えますよね。しかし、理論上で導き出される答えは八十九.九%もあるんです」
「まさか」

 そんな高い確率で同じ誕生日の人がいるとはとても思えない。

「そのまさかです。ちなみに七十人のクラスがあったとすれば、理論上、九十九.九%になります」

 ぽかんとする私に、長谷川さんは自分の頭をポンと叩いた。

「失礼しました。実はこれ、叶人くんからの受け売りなんです」
「叶人がそんなことを……」

 スマホを開いた長谷川さんが、メガネをかけて操作する。
 髪に顔に天井からの光がスポットライトのように当たっている。

「最後のほうのメッセ―ジに書いてあります。『うちの姉はパラドックスに気づいてない節があります。いつもうわべだけで判断し、よろこんだり落ちこんだりしています。そんな姉も好きですが、人の奥にある真実も見てほしいものです』と。中学一年生とは思えない大人びた文章ですよね」

 クスクス笑う長谷川さんが立ちあがると、なぜか館内の照明がまた暗くなった気がした。
 まるでこのシーンはこれで終わり、と告げられた気がして、もう一度頭を下げてから階段を下りた。

 外に出ると、まだ三時前というのにすでに太陽が低い位置で鈍く光っていた。
 山の木々の間から漏れる光が、模様みたいに地面を浮きあがらせている。

 まるで夢から覚めたように急いで歩くと古ぼけた看板だけ設置されたバス停が見えてくる。
 ぽつんと立っているのは、優太だけだった。
 私に気づくと困った表情を浮かべた。
 幼なじみだからわかること。
 優太は私に謝るためにひとり待っていたんだ、って。

 口を開こうとする優太に、
「ごめんね」
 先に謝るとますます困った顔になった。

「なんで悠花が謝るんだよ」
「イヤな思いをさせちゃったから。でも、長谷川さんになにか言われたわけじゃないよ。むしろ、叶人に友達がいてよかったって思ってる」

 ぶすっとした優太はいつも思ったことを口にしてくれている。
 さっきも私が泣かされていると思って助けてくれたんだ。
 いつもいつも、優太はそばにいてくれていたのに私は謝らせてばかり。

「優太が言ってたこと、当たってる。私、ずっと叶人の話題を避けてきた」
「ああ」
「家でもそうだし、家族も同じ。みんな口にすると感情が乱されておかしくなっちゃう。まるで叶人の存在を忘れたがってるみたいだよね」

 風が揺らした木からまだ枯れるには早い葉が一枚、ひらひらと弧を描いて落ちた。
 横顔の優太が、「まあ」とつぶやいた。

「それでも最近は話をしてくれるようになってうれしいよ。さっきのは、俺が三年もかけた距離を、あの人が一瞬で飛び越えてきたからムカついただけ。悪いことしたな」
「日葵に怒られた?」

 顔を覗くと、バツが悪そうに優太は口をへの字に曲げた。

「怒られたなんてレベルじゃねーよ。激怒されて置いてかれた。『ちゃんと謝ってから帰れ』って、マジであいつ怖いんだよ」

 日葵らしいと笑ってしまう。あとでLINEしておかないと。

「ずっと思ってたことがあるの」

 足元でまだダンスをしている葉っぱを見ながら、言葉がするりと出てくれた。

「ああ」
「芸能人が亡くなったりすると、とたんに『最高の人でした』とか『私たちに元気をくれました』ってみんな言い出すでしょう? 叶人が亡くなったあとも同じ。みんな、叶人のすばらしさを語ってきたの」

 親も先生も親戚でさえも、私に涙を流しながら同じことを言っていた。

「だったらなんで叶人のこと、もっと気にかけてくれなかったの、って思った。どうしてお見舞いに来てくれなかったのって。亡くなってからいくら惜しんだって、叶人にはもう届かないのに」

 声が震えるのを抑えられない。
 視界がにじみ、枯れ葉もぼやけてみえた。

「……ごめん、違うの。今のは自分に言ってる言葉。病気が発覚してから亡くなるまで時間はあったのに、私はコロナを理由に最後しか会いに行かなかった。LINEはしても、当たり障りのないことばかり。そのことを二年間ずっと責めてるの。どんなに責めたって、もう遅いのに」

 ボロボロとこぼれる涙は、後悔の粒。泣いたって泣いたって、けっして消えないアザのように心に刻まれている。

 悲しみは、美しい景色もおいしい食べ物でさえもその色に変えてしまう。
 叶人が亡くなってから人としゃべるのが苦手になった私を、叶人はまだ心配してくれているの?
 私にはそんな資格ないのに……。

「生きているうちにもっと話せばよかった。もっと会いに行けばよかった。たとえガラス越しでも顔を見たかった」

 最後に会ったときですら、私は忍び寄る死から目を逸らしていた。そんな自分のことが許せない。
 袖で涙を拭いて横を見ると、にらむように前を向く優太の瞳から涙が一筋流れていた。

「え、優太……」
「悔しいよなあ」

 鼻をすすった優太が私を見た。

「悠花は苦しかったんだよな。二年間、ずっと苦しんできたんだよな」

 潤んだ瞳が太陽の光でキラキラ輝いている。まるで吸い込まれるようにその瞳から目が離せない。

「きっとどっちも真実なんだよ。悠花が感じていることも本当だし、周りの人が思っていることも真実。みんな悲しいのは同じなんだと思う」
「……うん」
「俺たちは弱いから、誰かの死を乗り越えるためについ慰めの言葉を口にしてしまう。亡くなった人を神像化しちゃうのも、そういう風潮を作り、自分を納得させるためなんだよ」

 真剣な声は初めて聞いた気がする。
 まるで心に語りかけるように、ゆっくりと優太は話を続けた。

「悠花がこうして少しずつ叶人のことを話せていることを、俺は誇りに思うよ。深い傷は消えないかもしれないけど、薄くすることはきっとできるよ」

 向こうからバスがやってくるのが見えた。

「優太……ありがとう」
「ヤバ。俺たちめっちゃ泣いてるし」

 慌てて涙を拭っている間にバスが止まった。
 さっきの葉っぱはどこかへ飛んで行ったみたい。

 ――ああ。

 不思議とその気持ちは抵抗なく心に着地した。
 やさしい彼の名前は優太。ずっとそばにいてくれたのに、気づくことができなかった。

 私は……私は、優太のことが好きなんだ。