*
抄華と羅衣源が去り、元の静けさが戻ってきた建物内にて、九尾は至る所に視線を彷徨わせていた。ここは自分の建物だ。だから、物珍しそうに内装を眺めているわけではない。考え事をしていたのだ。
ついさっきまで目の前にいた、抄華という女について。
「あいつの手……」
九尾は差し出された抄華の手のひらを思い出す。彼女の手は、色白で、皺もなく、とても綺麗だった。そう、綺麗だったのだが。
「あの邪気の量は、尋常じゃない。一体どこから……?」
九尾は見えない何かを睨みつけるように目を細めた。グルル、と歯を立てて唸りが響く。
そう、九尾には視えていたのだ。抄華が見せた手に、僅かながら強い邪気が纏わりついていたことを。
先ほどの光景を思い出す。彼女の手を覆うように付いた、赤紫色の煙。毒々しく、ずっと見ていると胸騒ぎがしてくるような色。
本来、人間に邪気が憑くことなどまずない。人間事態が邪気を操ることはなく、それができるのはあやかしのみだからだ。
「あれは、おそらく鬼のものか」
あやかしは、神力の強さでどんな奴がその神力を使ったか分かる。また、神力が使われた目的も。
普通、神力は白に銀色が霞みがかっているような、見えないほどの色をしている。それは、当たり前の色。浄化されている正常を表す。人々に平等な幸せをもたらす、自然な神力の証だ。
しかし、あやかしの中には、稀に神力を悪い方向に使うものがいる。例えば、人を呪ったり、不幸を与えたり、逆に自分にだけ幸福が来るようにしたり。
そんな風に扱われた神力は、抄華の手に纏わり付いていたように悍ましい色に変わってしまうのだ。それこそが邪気。
昔は見なかった変色だが、ここ最近、人間が増えると共に汚染された神力もまた、増してきていた。
そこから察するに、邪気のほとんどは人間を目的に扱われてきたのであろう。
「世の中、落ちぶれたもんだ……」
昔はこんなことなどなかったのに。人間は清く信仰深い生き物で、あやかしもまた、世の中のために生きていた。その理が今、朽ちかけている。
九尾は体をくねらせてその姿を変貌させながら、悲しみを携えた瞳で呟く。
そやがて、人間の見た目になると、ふぅっと深くため息をついた。心の奥底の感情を吐き出すように。そして、再び頭上を見上げる。
こんな汚れた世界でも、力を変えぬものや、神聖なものは残っている。例えば、帝の祓い技や、清め技。
帝の一族は、代々受け継がれた、邪気に対抗する技を持っている。それは一族の血に刻まれ、継承することが掟だった。帝の一族の力だけは、後世に絶対的に受け継がれるだろうと見える。
羅衣源も、例に漏れずその力を持っている。先祖から続く祓いと清めの技を、彼はすでに習得しているのも知っていた。
あやかしの九尾であるからこそ感じられる彼の偉大な力に、今は縋る他ない。
「まぁ、あいつならば何とかできると思うが」
九尾ならぬその男は足を組み直す。手を両膝の上に置き、周囲の水晶玉を一つずつ見回した。
「頼んだぞ、羅衣源」
そして、また目を瞑って瞑想を始めた。彼の周りに漂う神聖な雰囲気が強くなる。甘さと妖しさを思わせる香りが濃くなる。そして、彼のあやかしである匂いが薄まっていった。
代わりに、他のあやかしの匂いが高まる。濃密な神力の香りに、人間の姿となった九尾は片目を開いた。
「まさか……」
嫌な予感がした。いや、これはもう予感ではなく前触れか、と彼は考え直す。
九尾が座る畳の前で、窓も付いておらず空気も入れ替わっていないのに、つむじ風が起きた。円を描くように吹き出す風は、次第に色が付いた煙と共に回り始める。
そして、風が止んだ時、そこには猿と虎と狸、そして蛇が混ざったような生き物がいた。
「やはりお前か、鵺」
九尾はため息をつく。鵺は笑い声を上げながら体をくねらせた。
「久しいな、九尾よ」
「ここへ何しに来た」
「来た?いやいや、わしはずっと前からここに居たぞ」
ずっと前、という言葉に九尾は眉をひそめた。
「ずっと前、だと?」
「ああ」
鵺は頷き、顔角を上げながら部屋を飛び回る。
「いやはや聞いたぞ聞いたぞ!とうとうあの帝に番が現れたらしいな!」
「それも聞いていたのか」
となれば、羅衣源と抄華が入ってきた時に感じた不思議な気は鵺によるものだったのか、と今更ながらに気づく。
「いやあ、実に面白いのう。あの女嫌いで、女に見向きもしなかった帝と運命を共にする女が現れるなんて。しかも見てみればあの通り!まるで仲睦まじい夫婦ではないか!」
「まあ、それはお前のいう通りだな」
二人の姿は、九尾から見ても一目瞭然だった。
羅衣源は今まで、数多なる女に詰め寄られ、交際や結婚を申し込まれていた。が、全て断ったと聞いている。
それは、相手が番ではないという理由だけではないだろう。
欲に目が眩み、帝の妻という地位を自分のものにしたいがために結婚する。そんな、自分勝手な生き方の女が、彼の周囲には多かった。その性格に難色を示し、以来女嫌いになったとも考えられなくない。
「それにしてもめでたやめでたや。これで国に良い兆しが差すといいのう」
「そうだな。だが、思うように上手く事は運ばないだろう」
番の存在は確かに偉大だ。人間の中で唯一神力を持った者。そして、結ばれた相手の神力をも強めてくれる存在。神力が強まれば、国を守る力も強まる。すると、日本国の平和も長続きする。芋づる式に良いことが起こるのだ。
それ故、番一人が、この国の運命を握っていると言っても過言ではない。番つがいは、国にとっても、帝にとっても、なくてはならない者である。
「それにしてものう、それにしてものう」
鵺は相変わらず、喋りながら天井を張っていた。勇ましい虎の手足で弾む体は茶色い狸という、なんともチグハグした光景に少々眩暈が襲ってくる。
「見たか九尾。あの番に巻きついていた、ただらぬ邪気を」
「ああ、見たとも」
「随分と多くの邪気に囚われておったな。一体どこで憑かれてしまったのか」
「……」
彼女は何処から邪気を拾ってきたのだろう。それは、九尾の中でも解決することができない疑問だった。
「近頃のあやかしはあまり人間に姿を見せぬからのう。珍しい事じゃ」
「それは普通のあやかしの話だろう」
「ほう」
鵺が動きを止め、興味深そうに細めた瞳で九尾を見下ろす。
「普通の、か。ならば、魔落ちの奴らは違うとでも?」
「違うさ」
九尾は睨みつけるような表情で鵺を見る。だが、滲み出る怒りは鵺に向いておらず、別の生き物に向けられているようだった。
「魔落ちしたあやかしは、逆に人間との接触を好む。ああいう奴らは大抵、人間目的だからな」
「ふむ、なるほどな。人間を自身の望みのために利用する、というわけか」
「それがあいつらのすることだ」
魔落ちしたあやかしは、自身の欲望のために力を使う。体が朽ち果てようと、神力が穢れようと、それに気づかず暴走を進める。九尾たち普通のあやかしからすれば、それは悍ましい行動だ。
「にしても、この国も随分と落ちぶれたのう」
鵺がまた、天井を這いずり始める。どうやら常に動いていないといけない性分らしい。
「太古の昔、あやかしは人のために尽くし、人はあやかしのために尽くしておったのに」
「時代が変わったんだ。昔ほど人間は信仰深くなってねぇよ」
そう、昔は魔落ちのあやかしなどあり得なかった。あやかしと人間は共存し、お互いのために生きていたようなものだったから。
しかし、近年になってその秩序が乱れている。
「人間はどんどん欲深くなる。にも関わらず、面倒なことや都合のいいことは見て見ぬ振りをする。一体なんだというのだ」
「しょうがねぇ。人間は生活が便利になればなるほど、その快適さに溺れ、欲求が膨らむんだろうよ」
例えば、灯り。大昔、人間は木と木を擦り合わせて起こした火を、唯一の光と崇めていた。だが、今となっては布に油を染み込ませ、そこに火を付けることで灯りを長持ちさせている。風邪の影響等で火がすぐに消えるということはなくなった。
例えば、食事。それこそ、火を扱って間もない時代は、命懸けのものだった。自ら編み出した道具で獣を狩り、その肉を火にくべて食らう。狩りはうまく行く時と行かないときがあり、特に冬は食べ物にありつけず餓死する者が多かった。
ところが今は、生産という技術を学び、自分たちで食物を作り、蓄えるようになった。さらには、焼くという行動だけでなく、煮る、蒸す、漬ける等の調理法を編み出し、調味料というものまでを生み出してしまった。
人間の進化というのは恐ろしい。たった数十年で様々なことが変わってしまうのだから。いや、変えていってしまうのだから。
それ故に、心が満たされる条件も変わる。今までの贅沢が当たり前になると、それ以上のものを求める。そして、それがありきたりになるとまたその上を目指す。まるで終わりのない階段を登っているようだ。
「人間ってのは、大きな力を秘めている。それこそ、俺たちが知り得ることのないほどな。そして、何処までも自分勝手だ」
「ほぉー、やはりお年寄りはなんでも知ってるのう」
「誰が年寄りだっ!」
九尾は大口を開けて鵺を威嚇した。しかし、相手は呑気に笑うのみ。
「はて、九尾は何年生きておったか」
「ざっと3000年だな」
「ほう、やはり年寄りではないか」
「お前に言われたくはねぇな!お前こそいくつなんだよ」
「わしは2500年ほどじゃ」
「大して変わらねぇじゃねぇかよ」
たかが500年。あやかしの寿命は人間とは比べ物にならないほど長い。よって、たった数100年の差などないに等しい。九尾はそう思ったのだろう。
「それに、あやかしは生きた年数も大切だが、何より神力の強さが最も重視されるんだ」
だから、いくら長生きといえど、力がなければ意味がない。経験に見合った神力を蓄えていなければ、意味がないのだから。
「そんな悲しいことを言うでない。わしはお前の力を信じとるぞ、九尾」
「へいへい、お前に信じられたところで嬉しくもなんともねぇからな」
「相変わらず照れ屋じゃのう」
「だから違うっつってんだろ!」
あやかし同士の言い争い。それは決して危険なものではなく、むしろほのぼのとしていた。
「ったく、お前が来るとろくなことがない。とっとと帰れ」
「ひどいのう。せっかくの話し相手になってやったのに」
鵺は嘘が張り付いた涙を流しながら、静かに地面へと降り立つ。
「でもいいものが見れたわい。これからあの帝と番がどんな運命を辿って行くか楽しみじゃ」
空を見上げるように鵺は首を上げ、にっと三日月型に口端を吊り上げた。とても嬉しそうに見えながら何処か不気味さを感じる、不思議な笑みを。
「まさか見てるだけなわけねぇよな?」
「ほっほっほ、まさかな。だが、わしはあまり手助けが得意ではない」
「むしろ襲ってそうな気がするしな」
「それは聞き捨てならんが……、わしはあやつらが本当に救いを求めている時だけ手を差し伸べよう」
「その言葉が嘘じゃねぇといいけど」
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抄華と羅衣源が去り、元の静けさが戻ってきた建物内にて、九尾は至る所に視線を彷徨わせていた。ここは自分の建物だ。だから、物珍しそうに内装を眺めているわけではない。考え事をしていたのだ。
ついさっきまで目の前にいた、抄華という女について。
「あいつの手……」
九尾は差し出された抄華の手のひらを思い出す。彼女の手は、色白で、皺もなく、とても綺麗だった。そう、綺麗だったのだが。
「あの邪気の量は、尋常じゃない。一体どこから……?」
九尾は見えない何かを睨みつけるように目を細めた。グルル、と歯を立てて唸りが響く。
そう、九尾には視えていたのだ。抄華が見せた手に、僅かながら強い邪気が纏わりついていたことを。
先ほどの光景を思い出す。彼女の手を覆うように付いた、赤紫色の煙。毒々しく、ずっと見ていると胸騒ぎがしてくるような色。
本来、人間に邪気が憑くことなどまずない。人間事態が邪気を操ることはなく、それができるのはあやかしのみだからだ。
「あれは、おそらく鬼のものか」
あやかしは、神力の強さでどんな奴がその神力を使ったか分かる。また、神力が使われた目的も。
普通、神力は白に銀色が霞みがかっているような、見えないほどの色をしている。それは、当たり前の色。浄化されている正常を表す。人々に平等な幸せをもたらす、自然な神力の証だ。
しかし、あやかしの中には、稀に神力を悪い方向に使うものがいる。例えば、人を呪ったり、不幸を与えたり、逆に自分にだけ幸福が来るようにしたり。
そんな風に扱われた神力は、抄華の手に纏わり付いていたように悍ましい色に変わってしまうのだ。それこそが邪気。
昔は見なかった変色だが、ここ最近、人間が増えると共に汚染された神力もまた、増してきていた。
そこから察するに、邪気のほとんどは人間を目的に扱われてきたのであろう。
「世の中、落ちぶれたもんだ……」
昔はこんなことなどなかったのに。人間は清く信仰深い生き物で、あやかしもまた、世の中のために生きていた。その理が今、朽ちかけている。
九尾は体をくねらせてその姿を変貌させながら、悲しみを携えた瞳で呟く。
そやがて、人間の見た目になると、ふぅっと深くため息をついた。心の奥底の感情を吐き出すように。そして、再び頭上を見上げる。
こんな汚れた世界でも、力を変えぬものや、神聖なものは残っている。例えば、帝の祓い技や、清め技。
帝の一族は、代々受け継がれた、邪気に対抗する技を持っている。それは一族の血に刻まれ、継承することが掟だった。帝の一族の力だけは、後世に絶対的に受け継がれるだろうと見える。
羅衣源も、例に漏れずその力を持っている。先祖から続く祓いと清めの技を、彼はすでに習得しているのも知っていた。
あやかしの九尾であるからこそ感じられる彼の偉大な力に、今は縋る他ない。
「まぁ、あいつならば何とかできると思うが」
九尾ならぬその男は足を組み直す。手を両膝の上に置き、周囲の水晶玉を一つずつ見回した。
「頼んだぞ、羅衣源」
そして、また目を瞑って瞑想を始めた。彼の周りに漂う神聖な雰囲気が強くなる。甘さと妖しさを思わせる香りが濃くなる。そして、彼のあやかしである匂いが薄まっていった。
代わりに、他のあやかしの匂いが高まる。濃密な神力の香りに、人間の姿となった九尾は片目を開いた。
「まさか……」
嫌な予感がした。いや、これはもう予感ではなく前触れか、と彼は考え直す。
九尾が座る畳の前で、窓も付いておらず空気も入れ替わっていないのに、つむじ風が起きた。円を描くように吹き出す風は、次第に色が付いた煙と共に回り始める。
そして、風が止んだ時、そこには猿と虎と狸、そして蛇が混ざったような生き物がいた。
「やはりお前か、鵺」
九尾はため息をつく。鵺は笑い声を上げながら体をくねらせた。
「久しいな、九尾よ」
「ここへ何しに来た」
「来た?いやいや、わしはずっと前からここに居たぞ」
ずっと前、という言葉に九尾は眉をひそめた。
「ずっと前、だと?」
「ああ」
鵺は頷き、顔角を上げながら部屋を飛び回る。
「いやはや聞いたぞ聞いたぞ!とうとうあの帝に番が現れたらしいな!」
「それも聞いていたのか」
となれば、羅衣源と抄華が入ってきた時に感じた不思議な気は鵺によるものだったのか、と今更ながらに気づく。
「いやあ、実に面白いのう。あの女嫌いで、女に見向きもしなかった帝と運命を共にする女が現れるなんて。しかも見てみればあの通り!まるで仲睦まじい夫婦ではないか!」
「まあ、それはお前のいう通りだな」
二人の姿は、九尾から見ても一目瞭然だった。
羅衣源は今まで、数多なる女に詰め寄られ、交際や結婚を申し込まれていた。が、全て断ったと聞いている。
それは、相手が番ではないという理由だけではないだろう。
欲に目が眩み、帝の妻という地位を自分のものにしたいがために結婚する。そんな、自分勝手な生き方の女が、彼の周囲には多かった。その性格に難色を示し、以来女嫌いになったとも考えられなくない。
「それにしてもめでたやめでたや。これで国に良い兆しが差すといいのう」
「そうだな。だが、思うように上手く事は運ばないだろう」
番の存在は確かに偉大だ。人間の中で唯一神力を持った者。そして、結ばれた相手の神力をも強めてくれる存在。神力が強まれば、国を守る力も強まる。すると、日本国の平和も長続きする。芋づる式に良いことが起こるのだ。
それ故、番一人が、この国の運命を握っていると言っても過言ではない。番つがいは、国にとっても、帝にとっても、なくてはならない者である。
「それにしてものう、それにしてものう」
鵺は相変わらず、喋りながら天井を張っていた。勇ましい虎の手足で弾む体は茶色い狸という、なんともチグハグした光景に少々眩暈が襲ってくる。
「見たか九尾。あの番に巻きついていた、ただらぬ邪気を」
「ああ、見たとも」
「随分と多くの邪気に囚われておったな。一体どこで憑かれてしまったのか」
「……」
彼女は何処から邪気を拾ってきたのだろう。それは、九尾の中でも解決することができない疑問だった。
「近頃のあやかしはあまり人間に姿を見せぬからのう。珍しい事じゃ」
「それは普通のあやかしの話だろう」
「ほう」
鵺が動きを止め、興味深そうに細めた瞳で九尾を見下ろす。
「普通の、か。ならば、魔落ちの奴らは違うとでも?」
「違うさ」
九尾は睨みつけるような表情で鵺を見る。だが、滲み出る怒りは鵺に向いておらず、別の生き物に向けられているようだった。
「魔落ちしたあやかしは、逆に人間との接触を好む。ああいう奴らは大抵、人間目的だからな」
「ふむ、なるほどな。人間を自身の望みのために利用する、というわけか」
「それがあいつらのすることだ」
魔落ちしたあやかしは、自身の欲望のために力を使う。体が朽ち果てようと、神力が穢れようと、それに気づかず暴走を進める。九尾たち普通のあやかしからすれば、それは悍ましい行動だ。
「にしても、この国も随分と落ちぶれたのう」
鵺がまた、天井を這いずり始める。どうやら常に動いていないといけない性分らしい。
「太古の昔、あやかしは人のために尽くし、人はあやかしのために尽くしておったのに」
「時代が変わったんだ。昔ほど人間は信仰深くなってねぇよ」
そう、昔は魔落ちのあやかしなどあり得なかった。あやかしと人間は共存し、お互いのために生きていたようなものだったから。
しかし、近年になってその秩序が乱れている。
「人間はどんどん欲深くなる。にも関わらず、面倒なことや都合のいいことは見て見ぬ振りをする。一体なんだというのだ」
「しょうがねぇ。人間は生活が便利になればなるほど、その快適さに溺れ、欲求が膨らむんだろうよ」
例えば、灯り。大昔、人間は木と木を擦り合わせて起こした火を、唯一の光と崇めていた。だが、今となっては布に油を染み込ませ、そこに火を付けることで灯りを長持ちさせている。風邪の影響等で火がすぐに消えるということはなくなった。
例えば、食事。それこそ、火を扱って間もない時代は、命懸けのものだった。自ら編み出した道具で獣を狩り、その肉を火にくべて食らう。狩りはうまく行く時と行かないときがあり、特に冬は食べ物にありつけず餓死する者が多かった。
ところが今は、生産という技術を学び、自分たちで食物を作り、蓄えるようになった。さらには、焼くという行動だけでなく、煮る、蒸す、漬ける等の調理法を編み出し、調味料というものまでを生み出してしまった。
人間の進化というのは恐ろしい。たった数十年で様々なことが変わってしまうのだから。いや、変えていってしまうのだから。
それ故に、心が満たされる条件も変わる。今までの贅沢が当たり前になると、それ以上のものを求める。そして、それがありきたりになるとまたその上を目指す。まるで終わりのない階段を登っているようだ。
「人間ってのは、大きな力を秘めている。それこそ、俺たちが知り得ることのないほどな。そして、何処までも自分勝手だ」
「ほぉー、やはりお年寄りはなんでも知ってるのう」
「誰が年寄りだっ!」
九尾は大口を開けて鵺を威嚇した。しかし、相手は呑気に笑うのみ。
「はて、九尾は何年生きておったか」
「ざっと3000年だな」
「ほう、やはり年寄りではないか」
「お前に言われたくはねぇな!お前こそいくつなんだよ」
「わしは2500年ほどじゃ」
「大して変わらねぇじゃねぇかよ」
たかが500年。あやかしの寿命は人間とは比べ物にならないほど長い。よって、たった数100年の差などないに等しい。九尾はそう思ったのだろう。
「それに、あやかしは生きた年数も大切だが、何より神力の強さが最も重視されるんだ」
だから、いくら長生きといえど、力がなければ意味がない。経験に見合った神力を蓄えていなければ、意味がないのだから。
「そんな悲しいことを言うでない。わしはお前の力を信じとるぞ、九尾」
「へいへい、お前に信じられたところで嬉しくもなんともねぇからな」
「相変わらず照れ屋じゃのう」
「だから違うっつってんだろ!」
あやかし同士の言い争い。それは決して危険なものではなく、むしろほのぼのとしていた。
「ったく、お前が来るとろくなことがない。とっとと帰れ」
「ひどいのう。せっかくの話し相手になってやったのに」
鵺は嘘が張り付いた涙を流しながら、静かに地面へと降り立つ。
「でもいいものが見れたわい。これからあの帝と番がどんな運命を辿って行くか楽しみじゃ」
空を見上げるように鵺は首を上げ、にっと三日月型に口端を吊り上げた。とても嬉しそうに見えながら何処か不気味さを感じる、不思議な笑みを。
「まさか見てるだけなわけねぇよな?」
「ほっほっほ、まさかな。だが、わしはあまり手助けが得意ではない」
「むしろ襲ってそうな気がするしな」
「それは聞き捨てならんが……、わしはあやつらが本当に救いを求めている時だけ手を差し伸べよう」
「その言葉が嘘じゃねぇといいけど」
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