ガラス扉を開けた宵月が、鼻から小さく息を吐いて「あまり危険な事はなさいませんよう、お願い致します」と言い、やや乱れた髪を後ろへと撫でつけた。
「蒼慶様は旦那様の不在中、蒼緋蔵邸の全てを任されており、お客様のお相手をしなければなりません。すぐにでも動きたいお気もちはお察ししますが、あなた様は蒼緋蔵邸の内部をよくは存じ上げていない。蒼緋蔵家の決まりで『役職』によって入れる部屋もあれば、入れない部屋もあるのです。ですから、勝手に『散歩』をされても困ります」
うっかり迷い込んでしまわないかどうか、と問われれば自信はない。一族の権力的な事柄には部外者のつもりでいるので、それが関わる場所に間違っても足を踏み入れてしまうような事態は、避けたい気持ちはあった。
だから雪弥は、素直に従う事にして「分かりましたよ、勝手に調べたりしません」と、降参するように胸の前で小さく両手を上げて答えた。そもそも、兄がこのように悠長にしている事については、一つの可能性も浮かんでいた。
「兄さんの事だから、恐らくは今回の件に関して、他にも何か掴んでいる事があるんでしょう? ほほ推測を絞り込んで、何かしら既に考えている事もある」
違いますか? と、雪弥は吐息混じりに問いかけてみた。すると、宵月が澄ました表情で「はい」と返してきて、こう続けた。
「お察しの通り、蒼慶様にはお考えがあります。そして、先に伝えておくようにと指示を頂きましたので、お伝え致します。どうやら侵入者は、蒼緋蔵邸で今日『開封の儀』が行われる事を知っていて、それを狙っている可能性がある――と、蒼慶様はおっしゃっておりました」
「『開封の儀』?」
「蒼緋蔵には、三大大家となってから今に至るまでの『役職』が、全て記録されている本が存在しているようなのです。次期当主は、正式に就任予定が承認された後、継承の日取りが決まるまでの間に、まずはそれを受け継ぐのがしきたりのようでして」
蒼緋蔵家には、代々の当主にしか継承されていない情報や物が、いくつか存在している。そのうちの一つが、代替わりする次の『役職』の記録を記すためにも必要なその本だ。
つまりは、一番目の引き継ぎ作業みたいなものである。それを『開封の儀』と呼んでいるらしい。手短に説明された雪弥は、つまり就任に向けての準備みたいなものか、と簡単に解釈した。
「隠し扉の鍵が解除されるよう、現当主である旦那様が事前に仕掛けを操作して設定した日が、本日の零時なのです」
「ふうん、それは知らなかったな……。わざわざ先にその本を継承するのは、次期当主がそこに、自分の代の『役職』の名前を書き記していく決まりでもあったりするの?」
「そのようです。就任されるまでには全役職が決定致しますから、それまでに仕上げるのが決まりだそうです」
そう答えながら、彼が感情の読めない目でこちらを見据える。
「そこに一度記されたら、たとえなんらかの事態が起こって、その中の一人が欠けてしまっても、次の当主に引き継がれるまで『役職』の者が変わる事はございません――それが、ずっと昔に定められた蒼緋蔵家の継承ルールといわれています」
宵月が含むような口調でそう説いた。
ようするに、当主が代替わりしないうちに『役職』の人間が変わる事はなく、席が空いたとしても埋め直されるのはないという事だろう。とはいえ、蒼緋蔵家内で独自に続いている制度でもあるので、雪弥としてはいまいち実感はなかった。
「過去の役職が記録された本というのは、わざわざ隠し扉の向こうに隠すほど重要な物なんですかね?」
「歴史が古い一族ほど、その歴史や記録の重要性は上がりますよ。いくつもの時代を過ごしてきた三大大家や、表十三家や裏二十一家は、家系図や『役職記録』だけではない、門外不出の歴史書も存在しているといいます」
雪弥を室内へ促しながら、宵月は淡々と口にした。
「あなた様にも分かりやすいよう申しますと、蒼慶様が今夜手にしなければならないその本は、時代を超えて受け継がれている博物館級の貴重な本というわけです。それが狙われている可能性が非常に高い、ということでございます」
蒼緋蔵家以外にも『役職』といった制度があり、同じように記録された書物が残されているらしい。経ている年月からすれば、貴重な記録には違いないだろうけれど、一族内の事というだけなのに何故そこまで重要視されているのか?
そう疑問を覚えた時、ガラス扉を閉め直して、宵月がこちらを見た。
「先程、蒼慶様が本日の午前零時にしか開かない隠し扉に、こじあけようとした跡がある事を確認致しました。わたくしの方で、ざっと会議場や各部屋、書庫や各金庫のあたりも足を運んで確認してみたのですが、今のところ内部で『異常』が見られたのは、そこだけです」
「なんだ、既に屋内もチェックしたんですか?」
それなら先に言ってくれてもいいのに、と雪弥は唇を尖らせた。昔からこの執事は、主人である兄に許可されていなければ口を閉ざしているという忠実なところもあって、説明手順や言い回しが面倒なところもあるのだ。
「つまりその本というのは、兄さんが真っ先に確認しに行ったくらい、知ってる人間にとっては日頃から略奪者が現われる価値がある物なんですかね? 当主交代の際の短い期間しか表に出されないというし、たとえば遺跡の宝みたいな」
「場合によっては、殺生を犯してでも構わないという者がいるくらいには、価値があるでしょう。遠い昔、同じような風習を持つ一族が、その儀式の日に滅んだ事もあったといわれています」
かなり大袈裟で物騒な話だ、と雪弥は思った。たった一冊の本や、一族の歴史の記録の一端で、戦乱時代には名家同士の抗争などがあったというわけだろうか。
「穏やかではない内容ですね。大家とか名家って、元は武家でもあったとは聞いた事がありますけど、その関係ですか?」
「それも理由にあるようです」
宵月が、含む言い方をした。けれどその表情から、そちらの詳細については答える気はないようだとも見て取れて、雪弥は追って尋ねず小さく息を吐いた。
「分かりました。それで、色々と要因になりそうな事情とタイミングもあって、兄さんは警戒しているわけですね。実際に、警告か挑発みたいな動物の死骸も出ている事ですし」
「はい。前回の代では特に問題はなかったようですが、何が起こるか分からないと旦那様は心配されておりました。ですから蒼慶様は、『大丈夫だから』と旦那様を仕事へと遠ざけたのです」
「ああ、それで父さんは急きょ仕事になって、不在の状況になったんですね。――まぁ兄さんの考えている事は、よく分からないけれど、今晩僕を必要としているという事は確かなんだろうなぁ」
荒事になるというのなら身は引かない。雪弥は、冷やかな流し目をよそへと向けながら、そう思った。カラーコンタクトで黒く塗り潰された瞳孔が、僅かに淡い紺碧の光を帯びる。
その様子を、じっと見ていた宵月が、ふっと視線をそらして「さて」と空気を変えるように言った。
「蒼慶様から、雪弥様への指示を頂いております。一つは、庭園に降りてきて少しは、お客様のお相手をする事。もう一つは、あとで話があるとの事です」
「えぇぇ、僕に桃宮さんとの話しに加われと……?」
兄からの指示を聞いた雪弥は、露骨に嫌そうな表情を浮かべた。自分は口下手であると自負しているし、蒼緋蔵家の大事な客人と何を話せばいいのか分からない。しかも、出会い頭に迷惑をかけていたので、余計に口も重くなってしまう。
「兄さんだけで十分でしょうに」
「放っておいて、屋根にでも行かれたら大変危険です。蒼慶様も、そうお考えです」
「屋根に登る予定はないのですが。というか、それくらい別に危険な事でもないですよ。あれくらいの高さから落ちたって、怪我なんてしませんし」
「普通は死にます」
宵月はぴしゃりと言うと、外の庭園へ案内するために踵を返した。ふと、思い出したように足を止めて、自身の後に渋々続く雪弥を振り返る。
「蒼慶様から、先に伝えておけと、もう一つ伝言をもらっております」
そこで宵月は一度言葉を切り、蒼慶の言葉を真似るようにこう言った。
「『侵入者は、人間ではないのかもしれない。だから気を付けろ』」
どうしてか、その言葉がサクリ、と雪弥の胸に小さく突き刺さった。
◆◆◆
庭園にある花柄の装飾がされたベンチに腰かけ、紗江子と亜希子が笑顔でお喋りを続けていた。暇を持て余したアリスが、先程から相手をしてもらっている緋菜を連れ出し、花壇で揺れている花の名前を尋ねている。
屋敷から連れ出された雪弥は、噴水の枠に腰を下ろしてその光景を眺めていた。そばのテーブルセットには、一緒に移動してきた桃宮勝昭と蒼慶が腰かけており、そこには宵月が当然のような顔をして立っていた。
「そうですか。アメリカの大学を飛び級とは、素晴らしいです」
そう言った桃宮が、目尻に柔らかな笑い皺を浮かべて、真っ直ぐこちらを見つめてきた。
彼らの話を全く聞いていなかった雪弥は、まさか話題を振られると思っていなかったから、どうにかぎこちない愛想笑いを返した。一体、兄はどんな感じで、僕の大学の件を『世間話』に盛り込んだのだろうか、と思う。
「えぇと、そうでもないですよ」
雪弥は適当に答えながら、先程からずっと考えていた事へチラリと意識を戻した。最後に宵月が伝えてきた『蒼慶の伝言』が、頭にこびりついて離れないでいる。
――侵入者は人間ではないのかもしれない、だから気を付けろ。
人間ではない、といわれると、どうしてか夜蜘羅という男が連れていたモノが思い出される。
どんなに攻撃を与えても痛みを感じないように動き続けて、手足が有り得ない方に曲がったり伸びたりしていた存在だ。アレは前回の仕事で、とある『薬』によって変化した大学生のようなものとは、全く別とも感じていた。
どう違うのかと言われれば、表現がちょっと難しい。なんというか、元々アレは『あのまま』が本来の姿と形なのではないか、という直感的な想いと印象を抱いているというか――