「あんたなんかいらない! 最初から引き取らなければよかった。あの事故の時、一緒に死んでしまえばよかったのに!」

叔母に罵倒され、確かにもう限界だと思った。

――このまま生きていたって、何もいいことなんてない。

私、白河(しらかわ)澪(みお)は十歳の時までは、幸せな子供だった。

優しい母と父、少し生意気だけど可愛い二つ年下の妹と、平凡だけれど穏やかに日々を送っていた。

私には生まれつき、相手の感情が『色』になって見えるという厄介(やっかい)な体質があった。
例えば見ている相手が楽しい気持ちだと、その人の周囲が黄色やピンクなどの明るい色に。
そして攻撃的だと赤、悲しんでいると青という風に。それぞれの色のもやがオーラのように、その人を包んでいる風に見えるのだ。
幼い頃の私は、他の人間もみんな同じように、人の感情が見えているのだと思っていた。

それ故、最初家族に「心の色が見える」と言った時は、たいそう不思議がられた。
だが私の家族は柔軟だったのか、素直に私の体質を受け入れてくれた。

しかし交通事故に遭い、すべてが変わってしまった。

十歳の時、私たち家族四人は旅行へ向かった。
父が山道を運転していた時、居眠りをしていた対向車が突っ込んできた。
それを避けようとした私たちの車は、崖から転落した。父と母と妹は死に、私だけが生き残ってしまった。


そんな私を引き取ったのは、叔父と叔母だった。
だが彼らが欲しいのは私の両親が残した保険金だけで、私はいらなかったようだ。
私と話す時、ふたりは常に灰色のもやに包まれ、不快な感情を漂わせていた。
叔母は何度も「面倒を見てもらっているのに感謝して、私たちのためにしっかり働くんだ」と命令した。

私はその通りだと考え、彼らのために懸命に自分のできることをしようと思った。
家族のいなくなった私を引き取ってくれた叔父と叔母に感謝しよう。そうすればいつか彼らも私を好きになってくれるかもしれないと。

そうして私は、家事をすべてすることになった。
掃除も洗濯も料理もまかされ、失敗すれば大声で罵倒され、水を浴びせかけられた。
真冬でも彼らが気に入らないと外に閉め出されたり、私が作った料理でも私自身は食べることを許されなかったりした。


そんな生活が続き、私は十七歳、高校三年生になった。
叔父と叔母の私への感情はずっと灰色のまま変わることはなく、私もいつしか彼らに期待することをやめた。

「高校を卒業したら就職して、給料を全部私たちに渡しなさい」と言われていた。
その言葉を疑問には思ったが、それでもここまで育ててもらった恩を返すべきなのだろうと思った。

そして昨晩、いつものように叔父と叔母に料理を作った。
最近彼らは顔を合わせると、いつも喧嘩している。
どうやら私の両親が残した保険金を使い切り、もうお金がほとんど残っていないようだ。
それなのに、叔父はまともに働かず賭け事をし、叔母も飲み歩いているから双方を責めて罵るのだ。
喧嘩の後、叔父は怒りながら家を出て行った。

私は叔母に、夕食を食べるかどうか尋ねた。声をかけなれば、後で罵倒されるからだ。
だがどちらにしろ彼女の機嫌は悪く、私の顔を見た途端に叔母は叫んだ。

「うるさいっ! あんたなんかいらない! 私の家がおかしくなったのは、全部あんたのせいだ! 最初から引き取らなければよかった。あの事故の時、一緒に死んでしまえばよかったのに!」

そう言って、近くにあったグラスの酒を私の顔に浴びせかけた。


その言葉で、それまで堪えていたものがぷつりと切れた気がした。

――確かに、死んでしまえばいい。

このまま生きていても、私は叔父と叔母が死ぬまで、彼らのために働き続けるしかないのだ。
そんな人生なら、今終わらせたってかまわない。

叔母の言葉を聞いた直後、私は家を飛び出した。

叔母は「どこに行くんだ! 戻って来い!」と叫んでいたけれど、もう何も関係ない。
叔父と叔母の言うことを聞く必要もない。そう考えると、少しだけ心が軽くなった。


特に都会でもない、変わった物があるわけでもないこの町の良いところが、ひとつだけある。
海が近いことだ。

せめて最後は、あの美しい海で死にたいと思った。

私は海までの道を歩いた。
十月になり、寒くなってきたので泳いでいる人がいないのはもちろん、海岸の周囲には誰もいなかった。

夜に染まった海は暗く、どこまでも底がないように見えた。

私は覚悟を決めて、海に向かって一歩ずつ歩いた。
靴の中に、海水が染みこんでいく。
あまりの冷たさに思わず逃げたくなったけれど、歯を食いしばって足を進める。

その時、自分がまだ制服を着たままだったのに気が付いた。制服のスカートが濡れて、重くなっていく。

そして私は、海の中に眩い光を放つものがあるのに気づいた。

「何、あれ……?」

海なのに、そこだけぽっかりと穴が空いて、光が漏れているのだ。

どこかに通じているトンネルのようだ。そんなものが海にあるわけがないのに。
不審に思って顔をしかめると、その穴から何か声が聞こえた。
動物の鳴き声のような、もしくは泣いているような、歌っているような声が。

「誰かいるの?」

そう問いかけると、波の表面に、うっすら白い物が揺れたのが見えた。
咄にその白に向かって手を伸ばす。すると向こうからも、ぐっと力を込めて掴まれる。

光はいっそう輝きを増し、私を包み込んだ。
そして私は、光に引き込まれた。

「――っ!」

驚いて声をあげようとした瞬間、水を飲んでしまった。
必死にもがくけれど周囲は暗く、何も見えない。自分が上を向いているのか、下に向いているのかすら不明だ。
海の水が冷たくて、針で全身を刺されているように感じる。
呼吸ができなくなり、口から泡が逃げていく。

苦しい。
自分から死のうと決めたけれど、やはり苦しくて、泣きそうになる。

手足を動かしてもがこうとするけれど、水が冷たいせいでほとんど身動きが取れない。

だんだん意識が遠ざかって行く。
暗い海の中、為す術もなく、深く深く沈む。

もう息が続かない。だんだん意識が遠のき、このまま死ねるのだろうかと考える。


――その瞬間。

目の前が、突然鮮やかな白でいっぱいになった。
驚いて、また口からごぼっと泡が漏(も)れた。

「え?」

私の目の前に、信じられないものが現れた。
それはどこからどこ見ても。


白い龍、だった。

全長は私の身長の五、六倍はあるのではないか。とにかく大きい。
物語の中でしか見たことのない、白くて神秘的な姿。
普通だったら、そんな得体の知れない生き物を目にすれば、恐怖でいっぱいになるだろう。

しかし、私は思わずその龍の美しさに見とれてしまった。
龍の瞳は、宝石のような赤だった。龍は澄んだ赤い瞳で、じっと私を見つめる。

……あぁ、なんて綺麗なんだろう。

この龍は、私を食べるだろうか。こんな美しい龍に食べられて死ぬのなら、それもいい。 

そんなことを考えながらぼんやりと見とれていると、白い龍は私の身体を自分の背に乗せた。まるで、どこかに案内するとでも言うように。

その上不思議なことに、龍に乗った途端、あれほど苦しかった息が続くようになった。地上と同じように、呼吸しても苦しくない。
もしかしたら、これは夢なのかもしれない。もしくは、私はもう死んでいるのかも。

疲れ切った私は、目蓋を閉じて龍の背に身を預けた。
龍は目的地が定まっているらしく、迷うことなく一直線に進んでいく。 

白い龍が泳いで、泳いで、泳いで。どのくらいの時間が経ったのか。数分のようにも、数時間のようにも感じた。

やがて海の中に、豪華絢爛な美しい城があるのが見える。

その城は透明な水の膜に包まれていた。
私が住んでいたのとは、明らかに別の世界だった。
竜宮城が実在するのであれば、きっとこんな佇まいだろう。

その城を見て、私は妹が人魚姫の絵本が大好きだったことを思い出した。

妹は「お姉ちゃん、絵本を読んで。人魚姫を読んで」と何度もねだった。
私が絵本を読むと妹は喜び、父と母は私の頭を撫でてくれた。
家族のことを思い出し、涙がこぼれる。死ねば、父と母と妹にまた会えるだろうか。

城の真上には、なぜか眩い満月があった。海の中のはずなのに。
私は目を細め、小さな声で呟いた。

「綺麗……。大きな月の下に、城が浮かんでいる」

死ぬ間際に、美しいものが見られてよかった。
そう満足してしまうほど、幻想的な眺めだった。


龍の背に身体を預けたまま、私は意識を失った。


「……ちょっとぉ、しっかりしなさい。生きてるー?」

私は誰かに声をかけられていることに気付き、ハッとして目を開いた。
叔父と叔母の声ではない。もちろん、両親や妹の声でもない。

聞いたことのない人の声だ。
女性と男性の中間のような、掠(かす)れた不思議な響きだった。

私が顔を上げると、整った顔立ちの男性が、こちらを覗き込んでいた。
彼の顔には華やかな化粧が施(ほどこ)されている。

目が大きく、鼻も高く、口も大きい。派手な顔だな、と思う。
背中まで伸びる漆黒の長い髪は、後ろで一つに結われている。
肩幅が広く体格はがっしりしているので、一目で男性だと分かった。

私が呆然としていると、彼はにこりと微笑んだ。

「あら、意識があってよかったわぁ、神子(みこ)様」

喋り方も、やはりやわらかい。
それに、“みこ”という言葉に面食らう。
巫女って、神社にいる巫女だろうか。どちらにせよ、私は巫女ではない。

「巫女? いや、違うけど……」

私は咄嗟に彼の“色”を見た。
彼の心は、オレンジ色の光を灯していた。オレンジは、優しさを現す色。
おそらく親切にしてくれようとしているのだろう。

私を不思議に思っている色も混じっているけれど、警戒よりは興味が強いようだ。
とにかく攻撃するつもりがないらしいと分かり、ほんの少し安心する。

「アタシは麗孝(りきょう)よぉ。あなたの案内役を任せられているわ。よろしくね」
「麗孝、さん」

話し方と外見からして、オネエってやつだろうか。
東洋系の顔立ちだが、名前を聞いた時点で、おそらく日本人ではないのだろうなと思った。

何よりその服装も見たことのないものだった。彼の身につけている灰色の服は袴(はかま)に近いが、日本人が式典などで着用する物とも少し形が違う。
 
私は意識を失う寸前、龍の背に乗り、海を渡ったことを思い出した。
ハッとして自分の格好を確認する。制服は濡れていなかった。
海で溺れたはずなのに、どうして?
麗孝が着替えさせたというわけでもなさそうだ。

それから私は建物の中を観察する。

知らない場所だ。
どこかの部屋の床に寝かされていたようだ。薄暗く、とにかく天井が高いということしか分からない。

「ここ、どこなの?」

「ここは白陽国(はくようこく)よ」

「……え?」


何を言っているのか、さっぱり分からない。聞いたこともない国名だ。困惑している間に、麗孝が私を立ち上がらせる。

「さ、あなた、こっちに着いて来て」

「えっ? あの、どこに行くの?」

「いいから、大人しくアタシに着いて来てちょうだい。悪いようにはしないから」

笑っているのに、悪寒がするような笑みだった。
力では敵いそうにないので仕方なく、麗孝の後ろについて歩く。

「ねぇ、ここはどこなの。一体私をどうするつもりなの」

何も説明してくれない。完全に無視だ。
何なのここは。知らない間に外国にいて、捕まっているなんて。
死のうとして海に入ったけれど、何をされるか分からないのは怖い。
言うことを聞きたくなかったけれど、逃げるのも難しそうだ。

朱塗りの円柱が並ぶ長い廊下を、まっすぐに進んで行く。
一体どこまで続くのかも分からないほど長い。回廊のようだ。
やがて麗孝が口を開いた。

「これから、あなたを陛下に紹介するわ」

「陛下?」

「皇帝陛下よ」

「こ、皇帝!?」

「そう。あなたが本当に神子なら、まずは陛下に報告しないといけないの」

どうやら麗孝は、この城の主(あるじ)に挨拶しろと言っているらしい。
皇帝というのが本当なら、この国で一番偉い人ということだろう。
ということは、やっぱりここは日本じゃないんだ。日本には皇帝はいないもの。

建物の造りも麗孝の服も日本らしくないけれど、本当に白陽国という国にいるのだろうか。
そんなに長い間意識を失っていたのか。

それとも海で溺れて、別の国まで流れ着いた? まさか。

歩いていると、建物の壁や装飾など、いたるところに白い龍が描かれているのが見えた。
私はぽつりと呟く。

「……白い龍がたくさん」

「えぇ、そうよ。ここは白龍様に守護されている国だもの」

「あ、白龍って」

思わず叫んだ。

「あの、私、海で白い龍に会った! 背中に乗せてもらったの」

すると、彼はこちらに振り返り、眉をひそめる。
彼の色が複雑に混じる。
そこには、疑惑だけでなく、なぜか期待がほんの少し混ざっている。

「白い龍? まさか。陛下の力は、まだ目覚めていないはずよ。あなたの見間違いじゃない?」

「え……」

そうなのだろうか。
確かに、龍が実在したのかと言われると、夢だったと考えるほうが自然かもしれないけれど。
私は海の中で見た光景を思い出すために目を細める。


光り輝く、真っ白な龍。
月の下に浮かぶ、幻想的な城。
確かにあの白い龍が、私を助けてくれたと思ったのに。
あの龍が、この城を守っているという白龍ではないのだろうか。

しばらく歩き続けていた私たちは、やがて別の建物に移動する。
どうやら敷地の中に、いくつもの殿(でん)があるようだ。

長い石段を登ると、溜め息を吐きながら目の前にそびえる建物を見上げた。詳しいことは謎だが、ものすごく豪華だということは分かる。

そして一際立派な建物の前に、麗孝よりもずっと屈強な体格の男性が、ずらりと並んでいる。

見張りだろうか。武装していて、槍や剣を持っている。
ますます逃げ出すのが難しくなった。背中を冷や汗が流れる。
彼らは深く頭を下げ、大きな扉を開いた。

建物のどこかで香(こう)を炊いているらしく、風にのってふわりと上品な香りが流れてきた。

「ここよ」 

麗孝に促され、中に入って一番に目に飛び込んできたのは白い龍の装画(そうが)だった。
壁や柱のいたるところに宝玉が埋め込まれ、飛雲(ひうん)と白い龍が描かれている。

広間にはやはり物々しい格好の男たちが等間隔で並び、敬服の姿勢をとっている。
私はごくりと唾を飲んだ。

この世界のことがまったく分からない私でも、ここで何か無礼なことをしようものなら無事ではすまないだろうと感じ取ったからだ。
広間の王壇(おうだん)には、玉座(ぎょくざ)があった。

そこに、ひとりの男性が座っている。
誰が言わずとも、その威厳に満ちた空気で彼が皇帝なのだと分かる。

麗孝は先に歩いていってしまって、玉座の隣に控えた。
ひとりで広間の真ん中に置き去りにされた私は、途端に心細い気持ちになる。
私は立ち尽くしたまま、皇帝のことを見ていた。

金の刺繍が施された白い上衣を纏った美しい男が玉座に腰掛け、無表情でこちらを見下ろしている。
まるで神話に出てくる神様のようだった。

白い肌は陶器のように滑らかだ。
銀色の長い髪。
冷たく光る、聡明そうな赤い瞳。

皇帝と言うからてっきり年を取っているのかと思ったが、顔つきは若く、二十代前半くらいに見える。けれど彼の雰囲気には、重々しさがあった。

正面にいるだけで、押し潰されてしまいそうな威圧感だ。
ずっと見ていたら失礼だろうか。

そう考えて、瞬きした瞬間。

――足音一つしなかった。

いつの間にか、皇帝が私の目の前に立っていた。

驚いて目を丸くする。
皇帝と私の間は、十数メートルは離れていたはず。どうやって移動したのだろう。
戸惑っている間に彼は私の顎に白い人差し指をかけ、ぐいと上を向かせる。

「っ……」

思わずうわずった声が出そうになる。
間近で彼の顔を見て、息が止まりそうになった。

あまりに綺麗すぎて、恐怖すら覚えそうになる。
すべてが完璧で、生身の生き物だという気がしない。

この人が、皇帝……。