エルが、タオルで足を拭いている間、ホテルマンはクロエに声を掛け、ボストンバックに手を入れて彼女の頭を撫でていた。彼は続いて風呂敷から小さなクッションを取り出すと、バッグの中のクロエの寝心地の質を向上させ、満足げにボストンバッグをエルへと手渡した。
その様子をじっと見つめていたログが、「ちょっと待て」と怪訝な顔でホテルマンを呼び止めた。
「お前、どこからタオルやらクッションやらを取り出してんだ?」
「必需品は全て、この風呂敷の中に収まっておりますよ?」
「明らかに風呂敷以上の物がごっそり出てるだろうが」
「はて、そうでしたかねぇ」
ホテルマンは首を傾け、とぼけた笑い声を続かせた。
ログの眉間に深い皺が入ったが、スウェンがぎこちなく彼の肩を叩いてこう言った。
「あまり追及しない方がいいよ。きっと余計面倒な事になりそうだし、僕の方にまで話が振られる可能性がある。僕は、ビジネス以外のやりとりを彼とはしたくない。最小限にとどめたいんだ」
「……そんなんでいいのか、お前」
そこまでホテル野郎が苦手なのか、とログが目で問い掛けたが、スウェンは視線すら合わさなかった。
小休憩を挟んだエル達は、軽くなった足で木々の生い茂る深い道を先へと進んだ。
水を含んだ土は、次第に乾燥し始めた。ホテルマンが調子のずれた鼻唄を行うと、ログが苛立ってそれを注意した。視界が悪い場所だからこそ、小さな物音にも敏感になる必要があった。
最後となるこのセキュリティー・エリアが広範囲であり、多くの場所を抱えている事をスウェンは危惧していた。ホテルマンの言っていた「荒れ放題の土地」が複数のセキュリティー反応だとすると、この仮想空間は完成度が高いといえる。
ここを超えれば、ようやく目的の『仮想空間エリス』へと辿りつけるので、事は慎重に進めなければないという意識も高まっていた。
道はしだいに細く険しくなり、足元に大粒の石が増え始めた。
地面の乾き具合に対して空気は湿気をまとい、風はやや冷気をまとった。木々はやがて高さを変化させ、幹も葉も色濃くなり、手入れされていない雑草が道の左右に生い茂る。
消炎の匂いに先に気付いたのは、先頭を進んだログだった。
生き物が焼ける匂いは、すぐ他のメンバーの鼻先を掠めるようになった。その匂いは次第に濃厚になり、スウェンが顔を歪めて鼻に手をあて、こう呟いた。
「……戦場の匂いだ」
エルは、蝿の飛ぶ気配に気付いて、茂みの方に目をやったところで息を呑んだ。そこには、生物だったものの肉塊が無造作に転がっていた。
それは乾き切った黒い血の跡を残した、雑草を握りしめた人間の腕だった。本物の死体を見た事はなかったから、エルは一瞬だけ、呼吸の仕方を忘れてしまった。
落ち着こうと意識したが、堪え切れない吐き気が込み上げた。これまでのセキュリティー・エリアでは、襲い掛かってくる『敵』も流血なんてなかった。
怖い、恐い、気持ちが悪い……
その時、不意に、冷たい大きな手がエルの視界を覆った。
「落ち着いて下さい、小さなお客様。アレは既に生きていない、ただの肉塊です。動いている者の他は、演出の小道具だと思えばいいのですよ。貴女が心まで痛める必要はない」
ホテルマンが、エルの耳元で囁いた。
どこか冷たい言い方だったが、不思議とエルの心は落ち着いた。リアリティはあるが、現実ではないのだと改めて自分に言い聞かせる事が出来た。
エルは、ホテルマンに「俺は大丈夫」と答えて、その冷たい手を解いてもらった。足を止めたエルを、セイジが心配そうに待っていた。同じように立ち止まったログとスウェンとも目が合ったので、エルは遺体の一部へは目を向けず、強く顎を引いて何も問題はない事を伝えた。
ホテルマンを除く四人は、警戒しつつ足を進めた。
しばらくすると視界が開け、藁で出来た屋根を持った小さな民家が、ぽつりぽつりと建つだけの村に出た。
車が四台通れる白い砂利道の先には、村の中心的な建物らしい、鼠返しのついた木とマントだけで作られた塔があった。塔に張られたマントは破け、建物を支える足は折れて歪んでいた。
村は、小さな争いに巻き込まれた跡のように荒んでいた。半分以上の民家が既に焼け崩れ、木炭と灰の塊が目立った。屋根や塔の下や、開かれた家には引き裂かれた人間と家畜の死体が転がり、消炎と血の匂いが漂う中で、食事を続ける小ぶりな怪物が蠢いていた。
道に転がる牛の死骸に乗っていた生物が、大きな耳を反応させてエル達を振り返った。
大きさは猫程で、顔は蝙蝠だが小さな丸い眼球が三つあり、腹だけが膨れた骨と皮だけの黒い身体は、固い皮膚に覆われて、蜥蜴のような尾を持っていた。エルはもう一度、転がっている死体の残骸は偽物なのだと、自分に言い聞かせた。
現場の小さな怪物に目を止めたホテルマンは、特に驚きもせず、しばし冷静に観察して「なるほど」と呟いた。
「恐らく吸血獣でしょう。東側で被害が拡大していると噂で聞きました」
「僕には、小さな悪魔に見えるけどね」
半ば腐りかけた死体に群がる生物を見据えたまま、スウェンが苦い顔で答えた。
「どっちにしろ、ここでは人間が餌になってんだ。喰われないよう先に進むしかないだろ」
ログが言って銃を手に取ると、セイジが素早くライフルを組み立てて「援護する」と告げつ。
スウェンが空を見て方角を定め、それから地理的状況を確認した。
「塔の奥に傾斜の高い階段が見える。地図通りであれば、恐らく丘を超えて山に入れるルートのはずだ。出来るだけ離れないよう皆でここを突破しよう。えっと――」
スウェンは、そこでホテルマンを振り返った。
「――君、その」
「ホテルマンとお呼びください、親切なお客様」
「え、なんかそれ嫌だ……――まぁ、呼び方はいいや。とりあえず吸血獣とやらについて、君が他に知っている事を教えて欲しい」
「血と肉を主食とし、群れで行動しているという事ですかねぇ。前足の機能はあまり発達していないようで、爪はほとんどないとか。噛まれた場合のウィルス感染等は認められていません」
「成程、上出来だ」
牛の死骸の上にいた吸血獣が、のそりと立ち上がった。前足は非常に短く、ぴんと立てた耳は猫科動物のように長かった。
別の人間の影にいた吸血獣達も立ち上がり、耳障りな甲高い声を上げた。道の左右から同じ姿をした吸血獣がぞろぞろと数をなし、兎のような長い足でぎこちなく歩き出て来た。そのうちの一匹が、尾を振り上げて地面を打ちつけ、鈍りを落としたような音を上げた。
「……なるほど、主に後ろ足と尻尾が発達しているわけか」
スウェンがそう言って目配せし、素早くロケットランチャーを構えたタイミングで、全員一斉に駆け出した。
突っ込んで来た人間に反応し、吸血獣も一斉に飛びかかって来た。吸血獣達は跳躍すると、次々にミサイルのように突進し、スウェンの前方を固めたログとセイジが、銃とライフルで応戦し道を切り開いた。
どこから湧き出しているのか、吸血獣の数は一気に膨れ上がった。
セイジが持つ、ライフルの先端に吸血獣が噛み付いた。顔の半分以上が口かと思えるほど大きな噛み口に驚異しながら、セイジが反射的にライフルの先端部分で振り払う。頑丈なのは口許だけなのか、吸血獣は地面に叩きつけられると、大きな頭を支える細い骨が砕かれて痙攣を起こした。
ログは、飛びかかって来る吸血獣を躊躇なく撃ち続けた。弾が吸血獣の腹部に命中すると、まるで水風船が破裂するように血が噴き出す。獲物を喰い損ねていたらしい吸血獣は、腹が膨れておらず、動きは素早いが撃ってもわずかな血さえ出なかった。
エルは、ボストンバッグのチャックをしっかり締めて、皆に後れを取らないよう走った。脇から飛び出す吸血獣に気付くと、走り込んだまま地面を蹴り上げて足を大きく振るい、飛びかかって来た四匹の吸血獣をまとめて蹴り飛ばした。空中で進行方向へと身体の向きを変えつつ、別方向から飛び込んで来た吸血獣を蹴り上げ、落ちてきたところを叩き潰した。
エルの隣には、距離を置いてホテルマンがいた。彼はエルの活躍に「相変わらず、素晴らしい動きですなぁ」と張り付いた顔で褒め、後方から襲いかかる二匹の吸血獣の存在に気付くと、手刀で一撃し、ついでとばかりに、セイジの後頭部に飛びかかった一匹に素早く銀のナイフを放った。
ホテルの会食で並べられている銀のナイフは、セイジが奇襲に気付いた瞬間には、吸血獣の頭に突き刺さっていた。本来銀のナイフは肉断ち用ではないのだが、吸血獣の頑丈な頭蓋骨を突き破るほどの速さだった。
「やるじゃねぇか、ホテル野郎」
ログが思わずニヤリとすると、ホテルマンは「それほどの事でもございません」と読めない表情でニッコリと応えた。
こちらの騒ぎに誘われたかのように、前方方向から百ときかない吸血獣が次々に湧き出して来た。
そのタイミングを計ったように、先頭にいるログと立ち位置を入れ替えたスウェンが、ロケットランチャーで吸血獣を叩き払い、前方方向に群がった吸血獣に狙いを定めてすかさずロケットランチャーを撃った。
放たれたロケットランチャーの発射音に、空気が振動した。
ロケットランチャーの弾は、飛び出した勢いで近くの吸血獣たちを薙ぎ払い、着弾点で爆発すると、粉塵を巻き上げて爆炎と爆風で吸血獣達を一掃した。
後方からその様子を見ていた吸血獣は、武器を持った人間はすぐに喰えないだろうと判断したのか、武器を持たない獲物に狙いを定め、一斉に地面から飛び上がると、三人の男の後方にいるホテルマンとエルに襲いかかった。
スウェンとログ、セイジが気付いて振り返った時には、既に数十の吸血獣達が、エルとホテルマンの眼前に迫り、鋭利な牙を剥き出していた。
爆音の直後で耳がうまく音を拾えない。
エルは瞬きの間、一瞬時を忘れた。スウェンが、「守れ」と怒号したような気がしたが、彼の顔はすぐに吸血獣達の向こうに見えなくなってしまい、彼らがどんな表情を浮かべていたのか分からなかった。
けれど、エルの迷いは一瞬だった。
エルとホテルマンは、反射的に後方へ飛ぶと、コンマ二秒の間に敵との距離を計った。
傍観者となった軍人三人の存在を忘れたエルとホテルマンは、吸血獣との間合いを確認すると、ほぼ同時に地面を蹴り上げ、その高い身体能力をフルに活かして吸血獣達の上を軽々と飛び越えた。
空中に浮遊している時間は、ほんのわずかなものだったが、エルには、それがとても長い時間のように感じた。
衣服と髪、粉塵を乗せた空気の流れが、ひどくゆるやかに流れているように見えた。
エルは、ホテルマンの隣で眼下の吸血獣達を見降ろした。素早く銃を取り出すとロックを外し、間髪入れず地上にいる吸血獣の頭を狙って打ち込んだ。ホテルマンが懐から銀のナイフを複数取り出して、笑顔を貼りつかせたまま銀色の凶器を放った。
銃弾と、放たれた銀のナイフが、全て吸血獣達の頭に命中する。
先に足から着地したホテルマンが、そのまま後方へと手をつくように回転し、別方向から飛び込んで来た吸血獣を両の足を振りまわして薙ぎ払った。
エルは落下する直前に素早く銃をしまうと、ホテルマンに続いて両手で地面に着地しつつ、こちら側に向かって来る吸血獣達の数を視認した。邪魔だった一匹を右足で蹴り飛ばすと、もう一度身体を跳躍させ、腰元から抜いたコンバットナイフを煌めかせて、三匹の吸血獣の首を切り落とした。
考える余裕はない。冷静に敵を殲滅する事だけを目的に、エルとホテルマンは飛び込んでくる吸血獣を殺し続けた。気付くと二人の周りに動く吸血獣は一匹もいなくなっており、外側へと投げ出された血の染みが、二人を囲うように円を描いていた。
二人の接近戦の様子を見ていたスウェンが、自身の呼吸を整えながら前髪をかき上げた。吸血獣達は、仲間の無残な死に様を見て恐怖したのか、いつの間にか辺りから姿を消してしまっていた。
「……こんな無茶苦茶な傭兵、うちのチームにもいなかったぞ。二人とも、すごく強いな」
呆気につられつつも、スウェンは正直な感想を口にした。とてもじゃないが、あの戦闘ぶりを見た後では接近戦で勝てる自信がなくなる。恐ろしいほど磨かれた身体能力と、天性の戦闘センスがなければ無理だ。
吸血獣がいなくなった事に遅れて気付き、エルは戦闘体制の緊張を解いた。コンバットナイフをしまうと、途端に鋭い闘気を消失させて、可愛らしい表情でコートについた粉塵を手で払い「そうかなぁ」と自信なく答える。
すると、彼女の隣で襟元を整えていたホテルマンが、襟元を整えながら「むふふふ」と妙な鼻息を上げた。
「『強い』そうですよ、小さなお客様。褒められましたね。いやはや、なかなかのナイフ捌きでした」
「そっちもナイフ投げてたじゃん」
「ふははははっ、いつかお金に変えてやろうと服に忍び込ませていた甲斐がありましたね! 結構なお値段ですので、ちょっと勿体ない気はしますが」
ああ、残念でなりません、とホテルマンが相変わらず胡散臭い顔で吐息をこぼした。先程まで戦っていた、冷酷な戦士の様が思い出せないほど普段通りだった。
銀のナイフも盗品なのか……クビになっても仕方ないのでは?
エルは、突っ込む気さえ起らず、悩ましげに首を捻った。とはいえ、彼とコンビを組んで戦うのはとてもやり易く、本当に似たタイプの接近戦闘員なのだろうなとも思えた。戦いの呼吸が同じなので、エルも非常に動きやすかったのだ。
「さあ、お客様たち、こんな所で悠長に話しなどしていられませんよ。逃げれば勝ち、というやつです!」
ホテルマンは片方の目を閉じる仕草を見せたが、作り物じみた顔では、乙女的ウィンクの再現は厳しかった。
スウェンが「うげ」と珍しく声を上げてドン引きし、セイジが「それ、やらない方がいい……」と今にも吐きそうな様子で口許を押さえ、ログがあからさまに顔を顰めて「見直して損したぜ」と盛大な舌打ちを一つした。
※※※
五人という少数部隊で、かなりの吸血獣達を再起不能に出来たようだった。
辺りには、吸血獣達の死体が多く転がっていた。吸血獣の殲滅が目的ではないので、襲いかかって来ない分に関しては深追いする必要もない。
「まぁ、確かに、彼のいう通りだね」
ホテルマンの言葉を思い返したスウェンが、諦めたような息を吐いてロケットランチャーを担いだ。
「無駄な体力の消耗は、出来るだけ避けよう」
いつ吸血獣達がまた襲って来るとも限らないので、エル達は駆け足で村を横断した。
村にある塔の奥にあったのは、断崖絶壁のような高い岩肌だった。そこには、岩で重ね作られただけの幅のかなり狭い階段が上まで続いていたが、傾斜が高く、階段を上がるというよりは、山肌の岩を登るような勇気と技術を強いられた。
ほぼ両手両足で登るしかない階段の頂上に、先にスウェン、セイジ、ログが辿り着いた。ログは丘の上に辿り着くや否や、膝を折って岩肌の階段へ目を戻した。
そこには、階段をのろのろと慎重に上がって来るエルの姿があった。ログは、彼女に手を伸ばした。
「ほれ、もうすぐだ、クソガキ」
「うるさい……別に、ちゃんと登れるし……」
エルは、どうにかそう言い返したが、内心の余裕は全くなかった。階段を両手で掴みながら、震える身体を心の中で叱咤し続けている。