仮想空間に巻き込まれた男装少女は、軍人達と、愛猫との最期の旅をする

 セイジとスウェンは、床に広がった血液の前で、深く落胆したように膝を折っていた。言葉を失うログが合流すると、スウェンのは淡々と手短な事後報告を行ったが、入口にエルがいる事に気付くと慌てて駆け寄った。

 初めエルは、スウェンに何を言われているのか分からなかった。

 舌打ちしたスウェンが、何やらログに罵倒の言葉を続けざまに発したところで顔を向けると、鮮血が広がる視界が、セイジの腹の向こうに隠れて見えなくなった。

 目の前に、セイジが立ち塞がったのだとようやく気付けた時、エルは、静かな眼差しで三人の男達を順番に見た。

 何故だが、舌が乾いて言葉が出て来なかった。必死に考えてみたが、掛ける言葉が探せない。


 俺は平気だ、強い子だもの。大丈夫だ、ちっとも大丈夫――……


 エルは、大きく呼吸しながら自分に言い聞かせた。

 人体実験が行われていた事については、スウェンに死体の話を聞いた時から、ずっと自分の中でも最悪な展開の一つとして推測してはいた事だった。
ただ、実感が持てなかったのだ。こうして、生々しいものを目の当たりにするまでは。

 エルは、口下手らしいセイジが戸惑う様子を眺めた。徐々に緊張が収まるのを感じて、場違いにも、セイジは優しい人なんだなと思ったりした。気遣われている自分が、守られる弱い人間のように思えて情けなくなった。

 死体が目の前にあるわけじゃない。ただ、使われてしまったという証拠が見えてしまっただけだ。俺は、もう誰かのお荷物になるつもりはない。とりあえず、落ち着こう。

 その時、手に暖かいものを感じて、エルは我に返った。そちらに目を向けると、ボストンバッグから顔を出したクロエがいて、力なく行き場を失っていたエルの手の甲を舐めていた。

 ああ、彼女には悲惨な光景が理解出来ていませんように。

 エルはそう願いながら、彼女の頭を撫でた。

「――俺は大丈夫だよ、ありがとう」

 エルはセイジをどけようとしたが、彼は神妙な顔で首を横に振ると、両手を広げてこう言った。
「見なくてもいい。私達も動揺してしまって、君の事を、その……少し失念してしまっていたところもあって……すまない」

 言葉選びに苦戦した彼が、最後には酷く申し訳なさそうに謝って来た。

 セイジが悪い訳ではない。エルは、首を左右に振って「俺の方こそ、ごめん」と返した。

「あれには、人間が使われているんだね……?」

 確認するべく訊いた自分が、どんな顔をしているのか分からなかった。表情には出さないよう意識したつもりだったが、セイジが言い辛そうに視線をそらした。
大丈夫、心の動揺に慣れるまでに、あともう少しだけ時間がかかるだけだから。

 先程、ログから、スウェンの憶測について支柱の生成に一人の人間が使われている事は聞いており、現場を見れば答えは明らかだった。何よりセイジ達の反応を見ても、推測が真実であった苦悩が見て取れた。

 ならば、もうこれ以上の回答は必要ないだろう。巻き込まれて、連れられているだけのエルが聞いていい話でもない。
 大きな目的と、己の役割を最低限知れていればいい。だから、全部を理解する必要はないのだ。

 エルは潔く身を引く事にした。これ以上、セイジを困らせるのも可哀そうだ。

「すまない。こちらとしても、推測の段階で――」
「うん、分かってる。俺は事情を深く訊ける立場じゃないし、きっと俺には必要のない深い事情だったって事ぐらい、ちゃんと分かっているから、もういいよ。ごめんね」

 セイジは、屈強な大男だったが、まるで子供みたいな人だとエルは思った。励ますようにどうにか笑い掛けると、彼がどこか安堵したような、それでいて心配し戸惑うような気配も漂わせた。

 その時、ログとりやりとりを放り投げたスウェンが、「ああ、もうッ」と半ばやけくそのような声を上げた。

「エル君。君、ちょっと利口過ぎるよ。僕が見ていて心配するぐらい従順で物分かりが良すぎるんだ。もうちょっと我が儘になったって、誰も君を責めたりしないんだからさ」

 スウェンは、少し苛立ったように片手を持ち上げ、髪をぐしゃぐしゃと掻き毟った。

 少し離れている間に、彼なりに考える事でもあったのだろうか。エルは、スウェンならば都合良く流して放っておいてくれると思っていたばかりに、意外に思って、冷静でない様子の彼へ目を向けた。

 クロエがそれとなく一同を見渡し、少しだけ小首を傾げると、そっとボストンバッグの中に戻っていった。
 セイジが、不安そうにスウェンを見た。ログが「で、どうするんだ」とスウェンに掴まれたせいで乱れたジャケットを整えながら、ぶっきらぼうに指示を仰ぐ。

 スウェンはログに一瞥をくれたが、すぐに自己嫌悪の表情を浮かべて、視線をそらした。

「さっきはすまなかったね、ログ。ちょっとした八つ当たりだった。らしくなかったよ、全く。――この子には、きちんと説明する。それが僕の判断だ」
「そうか」

 ログは支柱へ視線を戻すと、腕を組んで黙りこんだ。

 スウェンは深く息を吐いた。二度ほど深呼吸した後歩き出し、エルに向かい合うと、困ったような顔で微笑みかけた。

「とは言っても、この光景は、あまり見ていいものではない。エル君、一度『回れ右』をしようか」

 エルは一つ肯くと、支柱を背に立った。ログが支柱を見張るようにその場で腰を下ろし、セイジが彼のそばについた。


 二人から三メートルも離れていない場所で、エルとスウェンは改めて向かい合った。

「まずは、どこから話そうか。そう、君は『人間が使われているか』とセイジに訊いたね。その答えは『YES』だ。推測の段階だけど、一つの支柱に一人の人間が使われている可能性が高い。素材となった身体のどの要素が、どう使われているのか、どのように製造されているかについては解明されていないが――今の時点で、質問はあるかい?」
「ないよ」

 エルの真っ直ぐな答えを聞くと、スウェンは肯いて先を続けた。
「僕らがここへ潜入するまでに、三十六名の被害者が確認されていた。そのうち六体の遺体が発見され、二十九人は行方不明のままだ。現在、仮想空間には六つの支柱が存在しており、僕らは、そこに六人の被害者との関連性を結び付けている」

 とはいえ、実際に入ってみるまでは一つの可能性でしかなかったけれど、とスウェンは言葉を濁した。

「じゃあ、誰かが見た風景のようだと感じたのも……?」
「ああ、仮想空間は『夢』をモデルに創造されたシミュレーション・システムだ。【仮想空間エリス】は、軍が一から演習場に仮想都市を設計けれど、マルクが急ぎ作ったオリジナルの仮想空間はそうじゃない」
「つまり、世界観について何も『設計』がされていない?」
「そうなるかな。『夢』は記憶や理想や願望、恐怖といった精神面が色濃く反映されるもので、使われたのが人間だと想定すると、例えば二番目の支柱の人は、最近見た映画の設定やシチュエーションの中に黒い服の男たちがいた、とも連想される。――まぁ、これは推測でしかないよ、どうとでも考える事はできるし」

 完全なバーチャル世界なのに、同時に『夢』も関わってくるのも妙な話だよ、とスウェンは思案気に宙を見やった。
「『エリス・プログラム』が未完成だった頃は、個人の記憶が見えてしまう事もあったらしいけれど、そもそも精神を電気回路で繋げて、頭の中にリアルな偽物の世界を作り上げるなんて机上空論だ」

 スウェンの語りは、次第に独り言のような口調になった。しかし彼は途中で気付いたのか、話題を切り替えるように声の調子を戻して、こう続けた。

「つまり、急きょ作り上げられたらしい支柱には一人の人間が使われていて、六つのセキュリティー・エリアには、【仮想空間エリス】とは違った独立した世界設定がある。――とはいえ、僕が推測するに、当初の支柱は防衛の役割ではなく、『エリス・プログラム』の再構築と崩壊の歯止めのためのものだったんじゃないかと思うけど」

 実は研究が中止されていた時点で、『エリス・プログラム』は原因不明の崩壊を始めていたのだとスウェンは語った。システムと完全に停止状態に入り、だからこそ、再稼働するなど誰も考えていなかったのだ、と。
「マルクは、『エリス・プログラム』の製造については関わっていないけれど、初期のメンバーの一人ではあった。不可能を限りなく可能に近づけられるこの世界で、自分の知る知識を総動員して支柱を作ったんだろう」

 簡単に人間を殺して支柱を作る、という発想そのものが恐ろしいが、エルは同時に引っ掛かりも感じていた。

 何故そんな事をする必要があったのか。

 そもそも、どうやって停止状態のシステムを、たった一人で稼働させる事が出来たのだろう? 

「あの『支柱』を少し調べてみたけど、一つの支柱に、一人の人間の身体が丸ごと使われている可能性も出て来たよ」

 スウェンが話す声を聞いて、エルは彼に注意を戻した。

「でも、結局のところ現時点では謎ばかりだ。支柱がそうだとすると、他にも人間が使われている可能性はあるけれど――まだ憶測の域でしかない」
「でも、話しを聞いていると、以前からずっと関わってきたみたいに詳しいなぁって思うよ」

 エルが半ば感心すると、スウェンの笑みが僅かに曇った。
「――目を通しただけの資料や情報を、僕は人よりも少しだけ、早く記憶して処理してしまえるだけさ。僕の頭は、僕が意識しなくとも勝手に効率のよい分析を始めてしまう、病気みたいなものなんだよ」

 スウェンはそう述べると、考えの読めない眼差しをログとセイジのいる方へと向け、髪を後ろへと撫で上げた。

「そして多分、これも僕の『憶測』でしかないのだけれど、支柱に出来る人間は限られていたのではないかと思う。『エリス・プログラム』については、エリス以外の人間では第二の類似プログラムすら造る事は出来なかったらしい」

 それも不思議な話だよね、と呟くスウェンの横顔は、どこか冷ややかでもあった。

「彼らに共通する条件については予想もつかないが、マルク自身も、分からないまま支柱を作り上げたと僕は推測しているよ。時間はなかっただろうし、支柱によって精度にバラつきがあるように感じる。一つ目の仮想空間なんて、セキュリティーとしてはほとんど役に立たない状態だったからね」
 仮想空間としての大きさ、世界感などの構築完成度。セキュリティーとして外部からの侵入者に対する力の大きさに、差があるのだとスウェンは語った。五感に受ける感覚に関しては、現在いる三番目のセキュリティー・エリアの方が、断然完成度が高いように思われる。

 それはエルも感じていた事だったので、「確かに」と肯けた。生身の肉体なので確証はないが、匂いやリアルさについて考えると、この世界は現実世界に比較的近いとも言える。

「今の段階でほぼ推測が固まっている事は、マルクが造ったセキュリティー・エリアの製造・維持には、材料となる人間が必要だった。未だに戻らない二十九人の被害者については、マルクがエリス・プログラムを新たに構築する為に、今回の支柱とは別に、二十九人もの人間を犠牲にしたんじゃないかって事だ」
「そういえば、さっき『集めて作る』とか言っていた人形がいたけど、そういう意味だったのかな」

 エルは、思い出してそう言った。【仮想空間エリア】に、二十九人もの人間を投入したということなのだろうか?

 スウェンは、「どうだろうね」と沈んだ声で答えた。