仮想空間に巻き込まれた男装少女は、軍人達と、愛猫との最期の旅をする

 ログがエルの顔を覗きこみ、「どうした」と神妙な顔で訊いた。

 棘もない気遣うような深く低い声は聞きなれなくて、違和感を覚えた。けれどエルは、らしくない大人びた表情をするログに、子共扱いするなよ、と言い返す気力もなかった。

 人形達の泣き声が、嫌な憶測をかきたてて止まらないでいた。

「変だよ。だって、これって、まるで……誰かの夢そのものみたいじゃないか」

 誰かが見た光景や、誰かが望んだ世界が、希望と悪夢に満ちた一つの世界を作り出している。

 エルは、屈んで近くなった彼の深いブラウンの瞳を見つめ返した。ログの瞳に映り込む自分が、ひどい表情をしているのが見えた。

「ここには、……支柱が作り出している仮想空間には、一体誰がいるの? あの子達は、きっとその人にとって『悪意のない友達』なんじゃないの? だから、みんなで守ろうとしているんだ」

 幼い頃、人形に名前を付けて遊んだ。友達だからと小さな鞄に入れて連れ歩き、いつか両親が一緒に行こうと約束してくれた、色鮮やかで可愛らしい遊園地を想像していた。
「……これは、一つの憶測でしかないが、セキュリティー・エリアの生成方法や在り方については、既にスウェンの方で一つの仮定が立っているーー」

 ログが声を落として説明しながら、「とりあえず行こう」とエルの背に片腕を回して促した。

 動き出せないエルを見て、彼が初めて戸惑うように眉を下げた。どうしたらいいのか分からない、という初めて見るログの弱った表情に気付き、エルは、ようやく深呼吸しながら瞬きをした。

 無理やりにでも引っ張っていく方法もあるのに、それをしないんだな。

 変な男だ。よく分からない。脳裏にそんな疑問が小さく浮かんだが、エルはそこまで考える余裕はなくて、こっくりと肯いてログの目から視線を外した。

「――マルクが作った仮想空間は、構築自体が不完全だったんだろう」

 二人は目を合わさないまま扉の中をゆっくりと進み、ログが仮説について話した。

「仮想空間で設定されたセキュリティーの動きについて、スウェンは……作り上げたプログラムとは別の意思があるんじゃないか、と疑っている」
 遠くなってゆくテディ・ベアの泣き声が、悲痛さを孕んで響いて来る。

 エルは無意識に、ボストンバックのベルトを強く握りしめた。城の中には暗黒が広がっており、隣を歩くログの顔さえも見えなかった。

 すると、暗闇の中ではぐれないようにするためか、ログがエルの腕をしっかりと掴んで、こう言った。

「俺だって信じたくはねぇ。マルクが作り上げた仮想世界には、一つの支柱に、一人の人間が使われて、『その人間を想う何者かの心や意思が宿っているセキュリティー』があるなんて事は」

 ああ、まるで悪夢だ。

 エルは、一筋の光りがこぼれる長方形の出口を見据えた。

 出口の向こうには、おぞましい一つの真実が二人を持っていた。

          ※※※

 小さな頃、色鮮やかな風船に憧れた事がある。

 ふわふわと浮かぶ丸い球体の存在は、幼い彼女にとっては不思議そのもので、それを沢山もらう事が出来たなら、一緒に空を飛んでいけると信じていた。

 遊園地には行った事がなかった。テレビや広告のチラシで見かけるたび、どんなところだろうと自分勝手な想像を楽しんだ。

 絵本を読んでくれる母の話は楽しく、素晴らしいパレードや、美しいお姫様、背の高い魔法使いや、お菓子の家がとても魅力的に思えた。人形遊びが好きだったから、彼らがお喋りの出来る友達だったら良かったのにと、飽きずに素敵な世界を空想した。

 ピンク、黄色、赤、緑、たくさんのクレヨンを使って絵を描いた。金色の長い髪をした、優しくて可愛いブルーの瞳の女の子の絵を好んで描いた。

 幼い子が描く稚拙な絵でさえ、母にとっては誇らしくて嬉しい事だったのだろう。

 母は、子共が描く絵を見て「素敵な女の子ね」と微笑み、飽きる事なく我が子を褒めた。父は、「二人はきっとどこかで出会って、親友同士になれるだろう」と夢を語った。
 誕生日に、幸福の言葉が書かれたテディ・ベアを送るという発想が、どこから来たのかは覚えていない。

 いつか来る誕生日には、立派なテディ・ベアを買ってあげよう、と父は約束した。うちは立派な家ではないけれど、きっと特別な年に、君に特別なテディ・ベアを贈るから楽しみに待っておいで、と。

 母親は、父の約束を楽しみに待つ我が子に、小さなストラップのテディ・ベアを買ってやった。新しいストラップ人形の友達に、娘が名前をつけて可愛がる姿を喜んだ。

 その子共は、貰った小さなテディ・ベアをストラップとしてではなく、一人の大切な友人としていつも連れ歩いた。ピンクの可愛い鞄を提げて、そこには、いつも小さな友人が顔を出した。


 特別な人に、特別なテディ・ベアを贈ろう。


 そんなCMソングを耳にする事が多い時代だった。恋人の名前が入ったテディ・ベアを男がプレゼントすると、同じように、自分の名前が入ったテディ・ベアを彼女が贈り、微笑みあう恋人同士のはにかむ顔が印象的なCM――。

 テディ・ベアの小さな友達を連れて、幼い女の子は、一人でどこまでも散歩した。小さな足で行ける範囲の街中を歩き回った。

 けれど、ある日、ふとした拍子に迷子になって、母をたくさん心配させてしまった。

 大きな声で助けを求めて泣き続け、ようやく見付けてくれた母が抱きしめても、しばらく涙は止まらなかった。独りぼっちは、たまらなく辛かった。

 散歩が好きになったきっかけは、母と同じ花柄のスカートを履いて、週に二回、父の職場までよく歩いたからだろう。

 保育園の勤務が終わると、父は慌てたように飛び出して来る。今日は一緒に帰れる日なのだから、少しでも早く会って、少しでも長く家族と過ごしたいじゃないか、というのが父の口癖だった。
 幼い頃の記憶は、大きくなるに従って忘れ去られてしまうけれど、何もかもが幸せに満ちていたような気がする。

 いつか、皆で遊園地に行こう、と母は言った。あなたのお父さんと私が、まだ若い頃に行った『夢の国』に、今度はあなたも一緒に行くのよ、とても素敵でしょうねぇ、と娘に夢を語った。

 父も、娘に約束してくれた。いつか、大きなテディ・ベアをプレゼントするよ。遊園地では、そうだな、まずは風船を買おう。お父さんが青、お母さんがオレンジ、お前はピンクがいいかな。うん、すごく楽しみだなぁ。

 大きなテディ・ベアも、歩く人形のお友達も、ふわふわと宙に浮かぶ風船も、いつか王子様が来てくれるような大きな城も、とても素敵な夢だと女の子は思った。
けれど、その子どもは思い描く夢だけで満足していた。父と母に抱かれて眠る時が、何よりも幸福だったからだ。

 女の子は夢を見る。

 もう少し待てば、母のように、髪の長さもようやく腰まで届くだろう。

 フリルのスカートを着て、友達のテディ・ベアを連れて。そうして、ピンクの風船を持って、父と母の三人で素敵なお城を散策する夢を見た。

              ※※※

 今にも止まってしまうのではないかと思うほど、その機械は一定の時間に、一度の強い鼓動と、深く息を吐き出すような震える稼働音を繰り返していた。

 開かれた白い空間には、ひどい熱気が充満していた。現実世界ではないはずなのに、その熱気が覗いた肌を打つ感覚はリアルだった。

 ホテルの最上階で見たような、鉄製の筒状の機器と沢山のコードは同じ光景だったが、目的とする支柱からは、大量の血液がもれて白い床一面に広がっていた。

 血とオイルの匂いが鼻をついた。白い床に広がった深紅は、一際鮮やかに映った。支柱から滲み出た血液は既に一部が柔らかく固形化し、まるで支柱の本体が流血を起こしているようにも思えた。

 あまりにもその赤い光景が強烈で、エルはしばらく、先に辿り着いていたセイジとウスェンの姿に気付けないでいた。
 セイジとスウェンは、床に広がった血液の前で、深く落胆したように膝を折っていた。言葉を失うログが合流すると、スウェンのは淡々と手短な事後報告を行ったが、入口にエルがいる事に気付くと慌てて駆け寄った。

 初めエルは、スウェンに何を言われているのか分からなかった。

 舌打ちしたスウェンが、何やらログに罵倒の言葉を続けざまに発したところで顔を向けると、鮮血が広がる視界が、セイジの腹の向こうに隠れて見えなくなった。

 目の前に、セイジが立ち塞がったのだとようやく気付けた時、エルは、静かな眼差しで三人の男達を順番に見た。

 何故だが、舌が乾いて言葉が出て来なかった。必死に考えてみたが、掛ける言葉が探せない。


 俺は平気だ、強い子だもの。大丈夫だ、ちっとも大丈夫――……


 エルは、大きく呼吸しながら自分に言い聞かせた。

 人体実験が行われていた事については、スウェンに死体の話を聞いた時から、ずっと自分の中でも最悪な展開の一つとして推測してはいた事だった。
ただ、実感が持てなかったのだ。こうして、生々しいものを目の当たりにするまでは。

 エルは、口下手らしいセイジが戸惑う様子を眺めた。徐々に緊張が収まるのを感じて、場違いにも、セイジは優しい人なんだなと思ったりした。気遣われている自分が、守られる弱い人間のように思えて情けなくなった。

 死体が目の前にあるわけじゃない。ただ、使われてしまったという証拠が見えてしまっただけだ。俺は、もう誰かのお荷物になるつもりはない。とりあえず、落ち着こう。

 その時、手に暖かいものを感じて、エルは我に返った。そちらに目を向けると、ボストンバッグから顔を出したクロエがいて、力なく行き場を失っていたエルの手の甲を舐めていた。

 ああ、彼女には悲惨な光景が理解出来ていませんように。

 エルはそう願いながら、彼女の頭を撫でた。

「――俺は大丈夫だよ、ありがとう」

 エルはセイジをどけようとしたが、彼は神妙な顔で首を横に振ると、両手を広げてこう言った。
「見なくてもいい。私達も動揺してしまって、君の事を、その……少し失念してしまっていたところもあって……すまない」

 言葉選びに苦戦した彼が、最後には酷く申し訳なさそうに謝って来た。

 セイジが悪い訳ではない。エルは、首を左右に振って「俺の方こそ、ごめん」と返した。

「あれには、人間が使われているんだね……?」

 確認するべく訊いた自分が、どんな顔をしているのか分からなかった。表情には出さないよう意識したつもりだったが、セイジが言い辛そうに視線をそらした。
大丈夫、心の動揺に慣れるまでに、あともう少しだけ時間がかかるだけだから。

 先程、ログから、スウェンの憶測について支柱の生成に一人の人間が使われている事は聞いており、現場を見れば答えは明らかだった。何よりセイジ達の反応を見ても、推測が真実であった苦悩が見て取れた。

 ならば、もうこれ以上の回答は必要ないだろう。巻き込まれて、連れられているだけのエルが聞いていい話でもない。
 大きな目的と、己の役割を最低限知れていればいい。だから、全部を理解する必要はないのだ。

 エルは潔く身を引く事にした。これ以上、セイジを困らせるのも可哀そうだ。

「すまない。こちらとしても、推測の段階で――」
「うん、分かってる。俺は事情を深く訊ける立場じゃないし、きっと俺には必要のない深い事情だったって事ぐらい、ちゃんと分かっているから、もういいよ。ごめんね」

 セイジは、屈強な大男だったが、まるで子供みたいな人だとエルは思った。励ますようにどうにか笑い掛けると、彼がどこか安堵したような、それでいて心配し戸惑うような気配も漂わせた。

 その時、ログとりやりとりを放り投げたスウェンが、「ああ、もうッ」と半ばやけくそのような声を上げた。

「エル君。君、ちょっと利口過ぎるよ。僕が見ていて心配するぐらい従順で物分かりが良すぎるんだ。もうちょっと我が儘になったって、誰も君を責めたりしないんだからさ」

 スウェンは、少し苛立ったように片手を持ち上げ、髪をぐしゃぐしゃと掻き毟った。

 少し離れている間に、彼なりに考える事でもあったのだろうか。エルは、スウェンならば都合良く流して放っておいてくれると思っていたばかりに、意外に思って、冷静でない様子の彼へ目を向けた。

 クロエがそれとなく一同を見渡し、少しだけ小首を傾げると、そっとボストンバッグの中に戻っていった。
 セイジが、不安そうにスウェンを見た。ログが「で、どうするんだ」とスウェンに掴まれたせいで乱れたジャケットを整えながら、ぶっきらぼうに指示を仰ぐ。

 スウェンはログに一瞥をくれたが、すぐに自己嫌悪の表情を浮かべて、視線をそらした。

「さっきはすまなかったね、ログ。ちょっとした八つ当たりだった。らしくなかったよ、全く。――この子には、きちんと説明する。それが僕の判断だ」
「そうか」

 ログは支柱へ視線を戻すと、腕を組んで黙りこんだ。

 スウェンは深く息を吐いた。二度ほど深呼吸した後歩き出し、エルに向かい合うと、困ったような顔で微笑みかけた。

「とは言っても、この光景は、あまり見ていいものではない。エル君、一度『回れ右』をしようか」

 エルは一つ肯くと、支柱を背に立った。ログが支柱を見張るようにその場で腰を下ろし、セイジが彼のそばについた。


 二人から三メートルも離れていない場所で、エルとスウェンは改めて向かい合った。

「まずは、どこから話そうか。そう、君は『人間が使われているか』とセイジに訊いたね。その答えは『YES』だ。推測の段階だけど、一つの支柱に一人の人間が使われている可能性が高い。素材となった身体のどの要素が、どう使われているのか、どのように製造されているかについては解明されていないが――今の時点で、質問はあるかい?」
「ないよ」

 エルの真っ直ぐな答えを聞くと、スウェンは肯いて先を続けた。