内田は問いただした。しかし、長い沈黙を置いた後、金島がようやく切り出した言葉は『すまない』だった。
『今は何も言えない……ただ、私は一番お前たちに信頼を置いている。私が関わってしまった事件に、必ずお前たちを巻き込んでしまうだろう。そのときは、全面協力を頼む』
信頼できるチームで取り組むことになる、といって金島は電話を切った。
通信の途切れた携帯電話を訝しそうに眺める内田を前に、毅梨が暑さを感じたように襟元を緩めた。
「おい、内田、一体何が起こっている?」
「さぁ、俺にもよくは分かりません。それが東京で起こっていて、公にされていない事件と関わっている可能性が高いってことくらいですかね」
「そもそも管轄が違うだろう」
煙草をくわえた捜査員が、そう言って顔を顰めるが、内田は見向きもしなかった。パソコンを無造作に机の上に起き、ポッキーを五本丸ごと歯で噛み砕いた。その据わった瞳には、スイッチが入ったかのように闘志が浮かび上がっている。
「実を言うと、金島さんから頼まれた件で俺が情報を探し出すたびに、その痕跡をキレイに消してる奴がいるんですよ。普通の機器じゃあ到底間に合わないくらいの、すげぇスピードで。だから、ハッキングもバレていない状況なんだと思います」
「つまり、お前にとっては味方になるのか?」
毅梨が、分からんなと顔を顰めて言う。
「情報を探るお前を追っているとなると、味方じゃない可能性しか思い浮かばねぇんだが。――お前、そんなんで大丈夫なのか?」
「やばい組織だったら、捜し出されて殺される可能性があるって言いたいんでしょ? 俺もこの道に入って長いですし、さすがにまずいと思ったら、即相談か報告くらいしてますよ。何しろ、調べ出した時点で既に、こっちの場所が向こうに探知されてますし」
あっさり白状した内田に、男たちが揃って「はぁ!?」と目を剥いた。それを横目に、内田は「まぁ聞いてください」と話しを続ける。
「だけど、誰かを寄越されたり危険な妨害行動にあったりという、俺が構えていたような事態は何一つ起こっていないんです。そのうえ、こっちの動きを妨害するような行動にも一切出てきていないんで、今のところ敵だとも断言できないっつうか」
というか、と内田は忌々しげに舌打ちした。
「俺のパソコンの中身を覗きこんで、何度も侵入されていることが気にくわねぇ。痕跡も残さないくせに、わざわざトップ画面に置き手紙ときてやがる」
それを見せるために仕事机にパソコンを戻したらしいと気付いて、毅梨たちが揃ってそこを覗きこむ。
内田は、彼らに見えるように少し椅子を後ろへとずらした。
「恐らくですが、こりゃあ随分と大きな組織みたいっす。様子を見るために、わざと野放しにされてるみたいな感じなんすよ。だから、金島さんが一体何に関わっているのか、めちゃくちゃ気になるところっすね。――つか、俺のデータから情報をばんばんを引き出してるのとかも、マジむかつくわ」
毅梨と三人の捜査員は、ノートパソコンのトップ画面中央に、剣に交差する拳銃のロゴマークが張り付けられている事に気付いた。それを縁取る装飾は、警察機関のマークに入っているものと似ているが、背景の日の丸には、国防総省で見かけるような鷹の絵がある。
「……ペンタゴンかと思ったぜ」
捜査員の一人がそう述べて、隣にいた別の男が「んな訳ないだろ」と間髪入れず指摘し、毅梨たちが熟考するように慎重な顔付きで揃って黙りこんだ。
対する内田は不服そうな表情で、唇を一文字に引き結んだ。
高知県警察本部刑事部捜査一課で、内田のもとに金島から電話連絡が入った頃。
午後十時十二分、パチンコ店の屋上には二つの影があった。
一人はすらっとした体格をした男で、顔には狐の面をかぶっていた。彼は直立不動しナンバー1に続く、直属の上司にしてはずいぶんと若い青年、ナンバー4を見つめている。
ナンバー4である雪弥は、アンテナ上部を戻した携帯電話を耳に当てていた。力なく三日月を見上げる瞳は、殺気も感じないほど静まり返っている。
「ええ、殺しませんでしたよ」
上司であるナンバー1に、雪弥は静かな口調で続けた。
今、手頃な高さに腰かけている彼は、ゆっくりと視線を正面へ戻した。そこには、月明かりに振動する巨大な肉片がある。
「その代わり、邪魔だったので全ての四肢を切り落としましたが」
告げる声は柔らかい。だが、その言葉は戦慄を覚えるほどに冷酷な内容だった。
青年が腰かけているのは、胴体と首だけが残った巨体生物の上だった。既に人だった頃の形相をなくしてしまっているその口には、狐面の男によって猿ぐつわがされていた。辺りには切られた手足が四方に散らばり、血を吹き出すことなく振動を続けている。
「薬が利いている効果なんですかね? 切り口が一瞬で塞がって、びっくりしました。まぁ、おかげで返り血も浴びなかったし、出血死の恐れもなくなったんですけど」
『……適切な判断だったと思う。カメラで現場の様子はずっと見ていたが、あのままでは確実に、優秀な第四部隊の隊長を失っていただろう。だが、その里久とかいう青年の命も長くはない可能性がある。これまで東京で上がった筋組織が発達した薬物検挙者は、みな姿戻ることなく死んだからな』
つい先程ゲームセンターで普通に言葉を交わした青年だったと聞いて、少し気遣うような声色で、ナンバー1は告げる。
「なるほど、こういう姿を見るのは、あなたは初めてではないんですね。――とはいえ、ここまで変容している状態で、尚且つ生きたまま確保出来たのも初めてで、今進めてる薬の件と併せて早急に調べるわけですね?」
『その通りだ。場合によっては、白鴎学園内の薬物使用者に関しての処置が変わる。先程手に入った情報では、赤い薬はレッドドリームと呼ばれ、麻薬でも覚せい剤でもない代物らしい』
それを聞いて、雪弥は「ああ、だからか」と凪いだような心で思った。
先程、まだ人の姿をしていた里久が赤い夢といっていたのは、レットドリームだと分かって、それをぼんやりと思い起こす。
『今回手に入れた二つの薬の現物についても、すぐ調べに当たらせる。どのような反応を引き起こすものかが分かれば、事の真相把握にも繋がるだろう。もしかしたら、青い方を継続して使用する事で、体内に何かしらの変化が起こり、そこに赤い方が加わってようやく反応が起きる――という線が強そうだけどな』
実際の使用者たちを調べている中で、色々と判明し始めていることもあるようだ。必要になれば話をされるのだろうと察して、雪弥は一人頷く。
「なるほど、そっちもそっちで、結構調査に進展があるみたいですね? まぁ、あとは任せますよ。僕は引き続き、こっちでの現場調査を進めますんで」
雪弥は電話を切ると立ち上がった。
そのまま屋上から降りようとした彼に、狐面の彼がが歩み寄ってきて、すっと小さな物体を差し出した。それは、一瞬にして里久の四肢を切り落としたとき、雪弥の腹ポケットから飛び出したストラップ人形だった。
「白豆、無事保護しておりました」
男が、報告時と変わらない様子で、抑揚なく真面目にそう告げる。
雪弥は白豆を受け取り、彼をじっと見つめた。戸籍すら持っていない暗殺部隊は、ナンバーズとは別の組織と括られている。エージェントに素顔を見せることはなく、知っているのは彼らをまとめるナンバー1だけであった。性別も明らかにされてはおらず、彼らは男女問わずに変装するという特技を持っている。
「そういえば、君をなんて呼べばいいのか訊いてなかったね」
ニックネームはあるの、と雪弥は囁くように尋ねた。向かい合う彼は一歩身を引いて、頭を下げながら「いいえ」と否定の言葉を述べる。
「ナンバー4の望むままに。昔からのように狐野郎と呼んでくださっても結構です」
「あ~、アレはただの行き当たりばったりというか八つ当たりというか……うん、じゃあ夜狐(やぎつね)って呼ぼうかな。こうして顔を合わせるときって、大抵夜だから」
雪弥は語尾を弱めて言葉を切ると、ふと視線をそらせた。
「君は、まるで夜をまとった狐だ」
夜風が彼の髪を柔らかに揺らし、しばらく風音が二人の耳もとで騒いだ。去ったあとの静寂には、肉片と里久が身をよじる音ばかりが残る。
前触れもなく歩き出した雪弥に、第四暗殺部隊隊長、夜狐が深々と頭を下げた。「お見事な名、大事に致します。いってらっしゃいませ」という言葉に雪弥は答えず、陽気に笑む白豆を左手ごと腹ポケットに入れて、人通りのない裏手へと飛び降りた。
※※※
何事もなかったかのように歩き出す雪弥の足取りは、非常にゆっくりとして力がない。路地をしばらく歩き進んだ後、明かりがまだある大通りに抜けようと方向を変えたのは、閉店した商店街の静けさに気付いた頃だった。
一方通行の信号は、赤を点滅させていた。人の気配はまるでなく、シャッター通りとなった交差点まで薄暗い道が五メートルほど続く。
そこにもみ合う三つの人影を見つけ、雪弥はようやく足を止めた。
「くそっ、この酔っぱらい親父が!」
それは、学校ですっかり聞き慣れてしまった暁也の声だった。静寂に満ちていた雪弥は、そのただならぬ様子の声を聞いて我に返り、その光景を見入った。
壁にもたれて座り込むスポーツウェアの修一の前に、黒い学ランを脱ぎ捨てた暁也が立っていた。彼が対峙しているスーツを着崩した中年男性は、頭にネクタイを巻いて「このクソガキどもめ、何時だと思ってる!」と喚き散らしている。
男性はひどく酔っているようで、八つ当たりに似た罵声を二人の少年に浴びせていた。雪弥は大人げなさを感じながらも、二人の少年に「こんな時間に何をしているのだ」と思わずにはいられなかった。
大人として対応するのも面倒になり、躊躇することなく彼らに歩み寄って、雪弥は男性の背後に立った。革の財布を振り上げる毛深い手首を軽く掴み、その動きを止める。
次の瞬間、体重八十キロは越えているであろう小太りの男性が、巨人に振り上げられた小人のように、宙を一回転して地面に叩きつけられた。手加減されたため顔面骨折もしておらず、打撲だけで意識を飛ばして静かになる。
雪弥は、男の意識が衝撃で飛んだことを確認し、視線を持ち上げて呆れたように二人の少年を見やった。
「君たち、こんな時間に何してるの」
右頬を赤く腫れ上がらせた修一が、背中を壁に預けながら半ば茫然と雪弥を見上げた。修一を庇うように身構えていた暁也の赤いシャツには靴跡がつき、額の左側が薄い打撲となって盛り上がっている。
考えてみれば、咄嗟に助けてしまった自分も深夜徘徊だ。出歩いていた言い訳を考えながら、ひとまず二人を助け起こして手を引いたまま大通りへと足を向けた。
助けてくれた雪弥に対し、修一と暁也はしばらく口を開かなかった。そんな事も気にせず先導するように手を握ったまま、雪弥は少年組とシャッター通りを通り過ぎて、大通りの南側終点にあるコンビニまで言葉なく歩いた。
コンビニの前に置かれているベンチに二人を座らせると、店内でハンカチを購入する。それから、水道の水で濡らしてそれぞれに渡した。
「腫れちゃうといけないからね」
「…………おう」
暁也がぶっきらぼうに答え、修一は空元気に「ありがとう」と言って少し痛みが残る頬にハンカチを当てた。暁也はしばらくシャツについた靴跡を手の甲で払い、そのあと薄らと腫れている額の左側へとハンカチをやって顔を歪める。
見たところ、それほど強く打たれたというわけではさそうだ。二人はスポーツが出来る人間なので、もしかしたら反射的に上手く身体をそらしたのかもしれない。切り傷もひどい鬱血も見られず、腫れているのも今だけだろうと分かった。
「で、なんで君たちはここにいるのかな?」
「なんでって、カラオケだよ」
一息ついてから尋ねた雪弥に、そう間髪入れず答えたのは修一だった。
現在の時刻は、午後十時半近くだ。それを伝えるように、雪弥は呆れた眼差しを浮かべて腕を組み、ベンチに座る二人を見下ろした。
「あのね、もう少し早く帰れなかったのかな。もうほとんどの店が閉まってる時間帯なんだけど」
雪弥が言うと、二人の少年が同時に顔を顰めた。「お前、おっさんみたいなこと言うなよ」と修一が述べてきて、思わず返す言葉を失って黙りこむ。
君たちからしてみると、僕はおっさんだよね……
主張も出来ない台詞を心の中に抑え込み、雪弥は精神的なダメージから目をそらすように周囲の様子を目に留めた。通りはほとんど通行人の姿がなく、コンビニから続く商店街は全てシャッターが下りている。灯りがあるのは、大通りの中腹にあるショッピングセンターから奥に掛けてのみだ。
そう見回したところで視線を戻すと、ふくれっ面の暁也と目が合った。
「何?」
「つかさ、お前こそ何をしてたんだよ」
「君たちには言ったと思うけど、僕は進学に悩む受験生だよ? 東京から電子辞書を持って来るのを忘れたから、道に迷いながら茉莉海ショッピングセンターに行ったわけ。ついでに揃えていない電化製品もチェックして来たんだよ」
雪弥は咄嗟ながら、冷静に話を作り上げた。二人の少年は、互いの顔を見合わせて「なるほど」と声を揃える。
「いいかい、優等生の僕がすすめることは一つだ。厄介事に巻き込まれたくなかったら、夜遅くには出歩かないことだよ」
「でも、お前すっげぇ強いのな! もし絡まれたとしても、全然平気じゃね?」
素早く口を挟んだ修一には、反省の色が全くなかった。教訓となる出来事も、単純思考な頭の中に留まることができずに、そのまま古い記憶の倉庫へと呆気なくしまわれてしまったような様子である。
雪弥は一秒半でデマを考えると、興奮する彼に対して、わざとらしいくらい呆れた素振りで溜息をついて見せた。出来るだけ幼い少年の表情を意識し、言葉を選びながら語る。
「あれはたまたまだよ、本当に運がよかったんだ。あのおじさんを止めようとして手を掴んだら、下がぬめっていたみたいでね、自分からこけくれたんだよ。あそこまで太ると、バランスを取るのも大変なんだって事がよく分かったよ」
言いながら、倒れたままの男を思った。今は警察の巡回を制限しているため、誰かが見つけてくれないと男が保護されるのはだいぶ先になる恐れもある。
初めて金島本部長と連絡を取った夜、雪弥は電話で、茉莉海市を巡回している警察官の動きを制限するよう指示した。警察関係者が自分に話しを通すことなく、ここで勝手に動くことも禁じた。現状のところ、県警本部といった外の警察が茉莉海市に足を踏み入れることはまだ認めてはいない。
雪弥は少し考えたが、誰かが見つけてくれるだろうと期待する事にした。通りにはまだ人がちらほらと流れており、居酒屋やファミリーレストラン、パチンコ店やカラオケ店はまだ営業しているので人の出入りもある。倒れた男の存在に気付いた人間が、彼を近くの交番に連れて行く可能性は高いだろう。
「じゃあ、事故だったんだ。あ~、警察沙汰にならなくて良かったぁ」
「全くその通りだよ。僕の将来が台無しになるところだった」
「あ、そうだった、マジごめん……」
修一が素直に謝る隣で、暁也が胡散臭そうに雪弥を見やった。
「偶然って、結構続くもんか?」
「続くよ、今日の運勢は最高だったから」
「…………朝のニュースでやってる運勢占い、見てるのか」
「見てるよ」
そんな番組など知らないが、雪弥はとりあえずそう答えた。テレビを見る時間もない彼は、短い番組ですら「終始見た」という経験がない。特殊機関総本部や町中に設置されているテレビ、任務先に用意されているホテルの一室で、たまに見られる程度である。
番組の種類、出演者の名を上げられたと危惧した雪弥だったが、ふと彼の耳に入ったのは暁也の舌打ちであった。
「俺より早起きか……」
「え? そこ?」
雪弥は思わず尋ね返し、ややあってから口を閉じた。
修一は頬からハンカチを離しながら、「あのニュースキャスター美人だもんなぁ」と言ってほんわかと笑む。
「でもさ、俺ら本当はこんな時間に帰る予定じゃなかったんだ。理由(わけ)あってカラオケ店に入ってたら、こんな時間帯になってたんだぜ」
修一は、そう切り出して仏頂面の暁也へと視線を滑らせた。
「話してもいいだろ? 雪弥って頭いいし、今日の運勢は絶好調だし、力になってくれると思うんだけどなぁ」
暁也はしばらく黙りこみ、「運勢は関係ねぇが」ときちんと指摘したうえで「分かったよ」と投げやりに答えた。
一見するとむっとしているが、眉間の皺は薄い。暁也はベンチの端へと寄って修一と距離を置くと、「座れよ。あんま大声で言えねぇことだし」と雪弥に、自分たちの間に座るよう言った。
暁也は、ひとまず雪弥がそれなりに喧嘩慣れしているか、体術を心得ていると踏んでいた。自身が蹴られた靴跡には水分はなく、中年男性が立っていた場所が滑りそうな場所ではないと知っていたからだ。彼は男性の太い手首に雪弥の白い手が伸びた後、一瞬視界から消えたこともはっきりと覚えていた。
短気で負けず嫌いだった暁也は、昔から身体ばかりを鍛え喧嘩にも自信があった。夜でも相手のパンチや蹴りが見えるほど動体視力も高かったが、あのとき、男を叩きつけた雪弥の手の動きは全く見えなかった。気付いたときには、力仕事など一つもしたことがなさそうな雪弥の上品な白い手によって、男が叩きつけられていたのだ。
どこか修羅場に慣れている印象を覚えた。崩れ落ちる男の後ろから一瞬見えた雪弥は、転がったゴミ屑ほども倒れた人間に興味を抱いていないのでは、と思えるほど冷たい瞳をしていた。
まるで「こんなものか」と物足りなさを含んだ瞳で見つめられたとき、暁也は一瞬、息が詰まるほどの殺気を覚えたのだ。それが瞬時に虫も殺せない少年の表情に戻って、何事もなかったかのように声をかけてきたのには驚いた。
隣に腰を下ろす雪弥を見つめ、暁也は「面白い」というように苦み潰すような笑みを浮かべた。彼はようやく、修一以外に面白味のある人間に巡り合えたらしい、と思った。自分で内気だといった気さくな性格や、古風な印象を引き連れた雰囲気も嫌いではない。
「で、何があったの?」
ベンタの中央に腰かけた後、雪弥がどちらを向けばいいか分からずに尋ねると、暁也の方が口を開いた。
「保険医の明美先生、覚せい剤とかやってんじゃないかと思ってさ」
明美という名が出て、雪弥は言葉を詰まらせた。「そう、保険医」と口の中で呟き、一呼吸置いて問う。
「その明美、先生って……」
うっかり名前のみで言いそうになって、雪弥は先生という言葉を遅れて付け足した。不安気に眉根を寄せる素振りをしつつも、情報を探るべく冷静に彼らの様子を窺う。
口をへの字に曲げてシャッター街を見つめる暁也は、ベンチに背をもたれると押し黙ったまま腕を組んだ。それを見た修一が、彼の言葉を引き継ぐように「もともと明美先生って、別の高校にいたらしいんだけどな」と切り出す。
「五月にうちの保険医が大学の方に移ってさ、新しく高校の保健室の先生として来たんだ。これがまたすっげぇ美人で、めっちゃ可愛いのよ」
あまり周りに聞かれていい話ではない、と汲んだ声量であるが、修一の声色に緊張した様子は見られない。
「へぇ、美人ねぇ……で、どうしてそこで、いきなり覚せい剤なんて物騒な名前が出て来るわけ?」
雪弥は、呆れ返る振りをした。修一と暁也を交互に見やった彼の表情には、「考えたらいきなり覚せい剤なんて、あるわけないじゃん。驚かすなよ」という雰囲気が作られている。
暁也は、視線をそらせて小さく言った。
「俺、保健室で明美先生とよく会うんだけど、修一に聞いて確かに変だなって思ったんだよ」
彼は思い出すように切り出して、つらつらと言葉を続けた。
「よく保健室を隠れ場にしてんだ。適当に仕事探すから進路なんて関係ないって言ってんのに、矢部は『将来をきちんと考えなさい』って煩くてよ。細腕のくせに、腕が痺れるくらいのクソ分厚い全国進学校一覧が載った本を押しつけてきて、そのうえ『一対一でとことん考えましょうか』って、マジありえねぇだろ? 俺はいつも一階の保健室に逃げ込んでやり過ごすけど――まぁ大半、そこから出てきた富川学長に睨まれる」
暁也がそう言ったところで、修一が口を挟んだ。
「富川学長ってさ、大学側の校長だよな? 大学生の講座の調整とかでよくうちのほうにきてるけど、最近は明美先生と出来てるって噂だし、お前がお邪魔だったんじゃね?」
「知るかよ、俺だって矢部から逃げるのに必死なんだ。進学とか押し付ける感じが苦手だし、嫌いだ」
大学の富川学長は、今回の事件の共犯者である。先程ゲームセンターで、その関係組織のシマという男が、彼の名前と共に「明美」という名前も出していたから、その話が本当であれば「高校側の保険医明美」も協力者の一人という線が濃厚だ。
雪弥は内心「やれやれ」と肩をすくめた。矢部についての話に発展した少年組の会話に、そろそろ軌道修正が必要であることを感じ、「明美先生が学長と出来てるのは置いといても、なんで薬物を疑うの」とさりげなく促した。
暁也は数秒口をつぐみ、声色を落としてこう言った。
「最近、明美先生変じゃないかって話になったんだ。全体的に痩せて、雰囲気が少し変わっただけかもしれねぇけどよ」
修一は雪弥を覗きこむように見ると、暁也のあとに言葉を続けた。
「どこがどうってのは分かんねぇけど、なんだろ、先生大丈夫かなって俺が勝手に思っちゃってさ。ちょうどテレビで、覚せい剤が出回ってるって報道があって、そういうのって怖いじゃん? 俺一人で勝手にてんぱっちゃってさ、すぐ暁也に電話したんだ」
ニュースをリアルタイムで見ながら、相談したのだという。そう話した修一の後を引き継ぐように、暁也が「おぅ」と言って言葉を続けた。
「それで手っ取り早く調べることにした。俺は保健室の常連だから、放課後に来ても全然怪しまれないだろ? で、今日いつもみたいに保健室に逃げ込んで、明美先生に『ちょっとベッド借りるぜ』って言ったんだ。先生がいなくなった頃に修一に見張らせて、俺は保健室を調べた。そうしたら、明美先生のバッグに使い終わった細い注射器が二本あったんだ」
暁也は言葉を切ると、意見を求めるように雪弥を見た。ゆっくりと正面へ向き直った雪弥の横顔に、修一も「どう思う?」と声に出して尋ねる。
二秒半の間をおいて、雪弥はすくっと立ち上がった。二人の少年を振り返った彼の表情には、ぎこちない笑みが浮かんでいた。
「保健室なら、注射器があって当然だろう? 慌てて片づけるのをすっかり忘れている事だってあると思うよ。それに、学校教師は定期的に身体検査を受けるんだ。もし違法薬物をやっているとしたら、尿検査ですぐ反応が出てバレてるよ」
検査は四月か五月にもあったはずだよ、と雪弥は知った振りで柔らかく説いて、わざと二人に考えさせる時間を与えるため一度言葉を切った。
修一と暁也は、まるで盲点だったと言わんばかりに顔を見合わせた。
「……そっか、薬物って取り締まりが厳しいって、ニュースでも言ってた」
「……そういや、前の学校では近くで薬が出回ってるって聞いたけど、こっちでは一つも聞かねぇな」
暁也の呟きに答えるように、雪弥は「そりゃあそうだよ」と相槌を打って話しを再開した。
「教師は月に一回、机や書類の確認作業があるらしいし、保険医に関しては三カ月に一回の検査と、学校医療のための定期研修が入るんだよ? そもそも、違法薬物なんてやっていたら、他の教師が真っ先に気付くでしょう。あれだけ危険な薬物についての特別授業をやってるんだからね」
雪弥は、短い息を吐いて腰に手を当てた。これで納得してくれたかい、という眼差しを受けた二人の少年が、理解に至ったという顔で「あ」と揃えて声を上げ、途端に気疲れしたように体勢を崩した。
思わず暁也が顔に手を当て「馬鹿馬鹿しい」と自身に呆れ返り、修一が「俺の早とちりかぁ、でも良かった、先生は単に仕事疲れだ」とベンチの上で腰を滑らせた。
二人が同時に溜息をつくのを聞きながら、雪弥はそっと眉を潜めた。