蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

 西大都市の繁華街の隣に位置する大通りには、新しい市の誕生に合わせて、計画的に建てられた市の建物がいくつも存在している。

 全国でも一、二、と云われるほど外観が美しい市役所、四階建ての市立図書館は三階まで全国各地の書籍が集まり、四階はヨーロッパの一流パティシエがオーナーを務めるカフェまで置いてある。

 強い存在感をアピールするように濃い灰色で四方を覆われた警察署、四階からガラス張りで隣に分館まで持った電気会社。公園と見間違うほどの広さを持った水道局は緑と水場が目を引き、西洋の美術館をモチーフに作られた国立の分館ビルも目新しい。

 国と県が所有する建物は他にも点在しており、「関係者以外立ち入り禁止」の看板を掲げている場所もある。各建物には堅苦しい名前が記載され、身分証や許可証を確認する警備員、建物まで距離がある門と通路がそれぞれ設置されていた。

 名を聞いてもぴんと来ない建物も多くあった。大通りから中道に入ると「コンサルタント」や「事務所」とつく小会社があり、社員の出入りしか見られない真新しい建物がいくつも立ち並んでいる。


 市役所と水道局をはさんだ通りもそうである。しかし、そんな中、他の建物に比べると、より殺風景とした外観と広大な敷地を持っている建物があった。


 太く長い鉄筋の門に、その横に佇む強面の警備員のセットは、この通りではお馴染みの光景だが、敷地内を囲むように建つ高い塀は圧倒的である。二メートルの高さが四方に続き、硬化な分厚い黒鉄が敷地内を守っているようだった。

 隣には似たような塀に囲まれた裁判所が場を構えているが、その塀は大理石に似た素材で造られているため品がある。双方の建物に向かい合うのは、堅苦しい雰囲気でそびえたつ議員会館と税理事務所である。目立つ事もなく静まり返っている通りは、車や歩行者もちらほらとしかいない。

 高い黒塀に囲まれたその建物は、壁に「国政機関」と記されていた。長い鉄の門からは、だだっ広い駐車場を拝むことが出来る。その駐車場の奥に、ほとんど窓のない黒真珠のような四角い建物がそびえ建っていた。

 この通りには限定された者しか入れない建物も多くあるので、将軍のような雰囲気を持った高齢の男や、若くして高級スーツに身を包んだ男たちが乗った外国車が頻繁に出入りする光景も珍しくはない。大通りには注目の若社長が運営する大企業もあったので、話題にすら上がって来ないのだ。

 国の高い役職に就いている者たちがその場所を畏怖するほど、そこには多くの国家機密が詰められていた。「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた看板の横に立つ警備員が、多くの給料をもらっている優秀な軍人だという事を知っているのは、この建物の本来の存在意味を知っている者たちだけである。

 とあるお偉い肩書きを持った男がこの建物を訪問した際、その警備員を見て慌てたように頭を下げた話は、付き人たちの間では有名だった。

 国政機関は国立のものであったが、本来の名を「国家特殊機動部隊総本部」といった。各地に秘密裏に分館を持っており、その建物には国で有数の頭脳を集めた「国家特殊機動部隊研究所」や、お面を着用した戸籍すら持たない「国家特殊機動部隊暗殺機構」をはじめとした国一番の人材が集まる総本部である。
 そこに務める者たちは総称でエージェントと呼ばれ、国が立ちあげた特殊部隊の軍人として日々務めていた。長い総称を使う事は滅多になく、国家の重要役職に就いている人間たちはそこを「特殊機関」と呼んだ。

 もともと、特殊機関総本部は、東京の国会議事堂地下と地上の二つに拠点を置いていた。本部を新しく移す事になった時、国が西大都市という新たな市を立ち上げるに至って、そこに巨大な国家機密の建物を作る計画を建てたのである。

 土地開拓の際、数年かけて最下層の階を持った地下を作り、都市計画でその周辺内に裁判所などを設けて建物の注意を外へと向けさせた。周辺にある近づきがたい雰囲気の「コンサルタント」や「事務所」も、表向きは税理士や弁護士事務所だが、そこに務める者は全て特殊機関の関係者であった。

 彼らは選び抜かれた鋭兵たちであり、どの特殊部隊にも勝る戦力を持っていた。偽名と嘘の経歴を常に持ち替え、一般企業や政府、刑事に紛れ込んで活動した。

 本部で活動する「国家特殊機動部隊技術研究課」や各地にある分館の「国家特殊機動部隊所属員」とは違い、本部直属で現場に立つエージェントは、武器の扱いや戦闘術も一流で、頭も切れる優秀な戦士たちだった。

 国家特殊機動部隊総本部のエージェントたちは、ナンバーでランク分けされている。個人が持つ技術や能力で与えられる数字が決まり、各地を転々とする日々の仕事ではナンバーを呼び合うのが常だった。

 所属するエージェントは百の桁からあったが、一桁は九つの席しかない。一人でエージェント数十人分の価値があるとされる彼らは、エージェントやそこに所属する者たちの頂点に君臨していた。

 一桁の数字に就いた九人のエージェントは、国家特殊機動部隊総本部トップクラスの幹部である。そのナンバーだけでも国を動かすほどで、歴代の日本総理大臣の後ろには、常にその九人のエージェントがいた。

 彼らは表では自分が動きやすい地位におり、その優秀な頭脳と能力を活かして大臣や最高裁判官、警視総監などといった役職に紛れ込んでいるが、一桁ナンバーの情報は国家機密のため明らかにはされていない。仕事で関わらざるをえなかった人間が、ごく一部の顔ぶれや、そのナンバーの存在を知っているにすぎないのだ。


 そんな特殊機関の総本部では、国家特殊機動部隊技術研究課によって、日々機材や武器などの発明が行われていた。エージェントが最強として恐れられるのも、彼らが作る物があったからといっても過言ではない。


 アメリカやロシアに続く変形型の小道具は、最軽量で持ち運びができ、スーツ型防弾具は打撃や衝撃を抑える優れ物である。三段階変速バイクは、搭載されたミサイル砲の威力に耐え、タイヤは高い場所からの落下や銃撃にもびくともしなかった。

 最近日本で誕生したもので、海外のエージェントたちに「傑作だ」と呼ばれているものがある。技術班と研究所が共同で開発した、新たなテクノロジーで作り上げた戦闘用車両である。

 前後に武器を搭載しているのは勿論だが、こちらは三段変速に加えて、風圧や走る場に対応する外部変形も備わっていた。走りやすさを優先されているので、ミサイル砲を防ぐことはできないが、従来と違って長距離跳躍とバランス走行にも耐えられる。またデザインがこれまでの堅苦しさから一変し、日本の新型プリウスとあって人気も上々だった。
 彼らが作る武器は、女性でも扱えるほど軽く、反動が抑えられたものも多い。ヨーロッパに出回っているペン型銃も、杖型を改造した日本の技術がそのまま行き渡っている。

 反動が抑えられている小型ミサイル砲もあり、身体の小さな子供や女にでも手軽に扱える代物だった。潜入捜査でドレスを着る女性にとって、太腿にも隠せるタイプの爆弾や超小型砲は現場で大いに活躍していた。

 総本部は、一見すると車も少なく整然としていたが、エージェントたちは様々な場所から地下通路によってやって来る事が多かったため、建物内は騒がしさに溢れていた。

 その地下一階の技術研究課では、時間が空いたエージェントたちが顔を出し、武器の性能を確かめながら技術向上に協力することが日常的に行われている。


 そんな技術研究課は、もっとも人の出入りが多い場所であった。いつも気さくで陽気な空気が溢れているのだが、今日は本部の中でたった九席しかない一桁ナンバーの人間がいたため、室内は張り詰めるような緊張感に包まれていた。そのナンバーを耳にした者は、「よりによって」という顔で黙りこむ。

 技術室に訪れていたのは、一桁ナンバーでも驚異的な身体能力を持ったナンバー4であった。かれこれ八年その地位についているにも関わらず、その人間はひどく若い容姿をしている。

 左手で差し入れのクッキーをつまみながら、悠長に大型の銃を軽々と右手で構え持つ青年がナンバー4だ。

 彼はほとんど正面を見ないまま、的の中心に銃弾を撃ち込み続けている。未完成なその銃の重さや反動を知っている白衣の技術班たちと同様、他のエージェントたちも気圧されたように息を呑んで、その光景を見つめていた。

 発砲音を抑えられたといっても、ジェット機用ミサイル砲の圧縮に成功したばかりの大型銃である。まだ試作段階のため、反動する力と発砲する際の風圧で、空気が重々しく揺れた。

 連射されるミサイル砲に畏怖する者たちの気も知らないで、青年は細い身体からは想像できないほど激しく乱射し続ける。防音を防ぐためのヘルメットも、五十メートル離れた的を捉える機材も付けていない。

 青年は、虫も殺せない小奇麗な顔をしていた。色素が薄く蒼みかかった灰色にも見える髪から覗く大きな黒い瞳は、瞳孔の縁が不自然に碧い円を描いている。その顔にまるで殺気はないが、獰猛な肉食獣のように縮小した彼の瞳孔は、見ている者に冷酷な死を思わせた。

「碧眼の、殺戮者……」

 白衣をつけた高齢の技術班が呟いた。

 ナンバー4は、その身一つで殺人兵器にもなりうるエージェントであった。彼は十代という若さで一桁ナンバーを与えられ、物騒な事とはほど遠い外見と気性で、死と破壊をもたらすギャップから「ペテン師」「道化」という異名もつけられている。

 青年は、国家特殊機動部隊総本部では、異例といえるほど平凡な性格の持ち主だ。エージェント見習いでも裕に出来る「別の人間になりすます」事が不得意で、ぎこちない愛想笑いも学生時代から変わらなかった。

 物珍しい事があると興味を持って近づき、「それも知らないのか」と小馬鹿にされそうな事も平気で尋ねて真剣に感心した。時々年齢よりも遥かに若い表情を浮かべて笑い、自分が就いている地位も関係なく接する事が常だった。
 彼の頭の中には、上に立つ者としての策略や陰謀といった思考はないのではないか、という噂がある。青年のナンバーを知らなかった女性がケーキをお裾分けした際、数日後に訪れた彼が「これ美味しかったから、食べてみて」といって彼女が務めている部屋にメンバー分のケーキを置いていった。誰が持ってきたのかもわからないケーキを美味しく頂いた後、差し入れ人がナンバー4だと知って騒然となった話は有名だった。

 上位ナンバーが、下ランクの者と通常に接すること事態異例である。しかし、彼に限ってはそんな事がしょっちゅう起こった。

 そのため、一見すると普通の青年にしか見えない彼が、ナンバー4だという事すら初対面の人間は信じない。現場を見て知った者だけが、事実に困惑と恐怖を感じて黙り込むのである。

 ナンバー4は、これまで一度も仕事を失敗した事がなかった。所属する班やナンバーによって仕事内容は変わってくるが、ほとんどは警察や政府といった表の機関が対応できない黒い仕事が大半である。武器を持って、相手を力づくで抑え込むことが多い。

 それを、青年は命令一つで簡単にやってのけた。正式にナンバーを与えられる事になったとき彼は十七歳だったが、すでに暗殺の仕事を数え切れないほどこなしていた。

 全てたった一人で現場に乗り込むという異例のものだったが、仕事を終わらせる事に数分とかからなかった。冷酷で残酷なほど俊敏に人の命を奪い、彼は現場を地獄絵図のように血で染め上げた。

 どこまでも平凡で、エージェントから一番程遠いと呼ばれていた青年だった。それと同時に、一桁ナンバーで最も残酷な殺人兵器であり、歴代の中で最も殺しと破壊を楽しむエージェントも彼だと称されていた。

 どちらが本当の彼なのかと噂立ち、恐れられたその異名は「碧眼の殺戮者」とされ、「ペテン師」「道化」という言葉が常に後ろからついてまわった。初対面である場合、彼が一桁エージェントであると信じられない者が続出している事もその所以である。

 国家特殊機動部隊技術研究課に、新たに配属された二人の新人も「ペテン」や「道化」にでもあったような心境だった。あんなのがナンバー4なのかと、二十分前に鼻で笑ったばかりである。その新人たちは、今となってはただ「有り得ない」という表情を浮かべるばかりで、言葉もなく身体を強張らせていた。

「あ、電話入れるのを忘れてた」

 不意に恐ろしい音の連射が止み、思い出したように青年が独り言をもらした。

 間が抜けそうなほどのんきな口調である。澄んだ高いアルトの声が、静まり返った室内に響き渡った。

          ※※※

 ナンバー4と呼ばれる青年の名は、蒼緋蔵(そうひくら)雪弥(ゆきや)といった。今年で二十四になるとは思えないほど童顔な青年である。とても温厚でおっとりとしており、エージェントの中では珍しくのんびり屋だった。

 国家特殊機動部隊には、暗殺部隊を除いて本当の名と家族がある。彼らは同僚にも本名は明かしておらず、与えられたナンバーの他、仲間内では自分でつけたニックネームを使用しているが、その中で唯一とくにこだわる事もなく「雪弥です」と名乗る異例のエージェントは彼一人だった。

 ナンバー三十番から上の者は、数字の高さによって権力のある職と肩書きを持っているが、異例のエージェント雪弥は、とことん権力に興味を示さなかった。

 外で彼を見かけた際、「普通のサラリーマンをしています」と語っているところを目撃した仲間たちが震え上がった、という話は、ここでは有名である。
 異例なエージェント、雪弥は少し特殊な生い立ちをしていた。蒼緋蔵家といえば本家、分家ともに大手の企業会社を持ち、弁護士、裁判官、医者、国会議員などを多く排出する一族で、広大な土地を持った国内有数の大富豪である。しかし、彼は蒼緋蔵現当主の正妻の子ではなく愛人の子だった。

 奇妙なのは、そんな雪弥と蒼緋蔵家の関係である。蒼緋蔵現当主の正妻である亜希子は、夫の愛人である紗奈恵(さなえ)をあっさりと受け入れたのだ。

 紗奈恵は仲は良くても、蒼緋蔵家の豪邸に住まう事はしなかった。出身県の隣にある、埼玉県の安アパートに住んでいた。不憫に思った当主と亜希子の提案は以前からあったが、四年経ってようやく紗奈恵が妥協し、雪弥たちは東京に建てられた一軒家に住む事になった。

 住宅街にある、小さな庭ばかりがついた二階建てのこじんまりとした家だった。紗奈恵はそこで、普通の子供として雪弥を育てた。

 雪弥が歩き回れるようになった頃から、蒼緋蔵家と紗奈恵の交流は、より一層深くなった。彼女は雪弥が四歳になると、遠出も大丈夫だと判断して彼を連れて蒼緋蔵邸に行くようになった。

 亜希子には雪弥より四つ年上の息子と、三つ年下の娘がいたが、当初雪弥は紗奈恵のそばから離れず、遠目で彼らを見ているだけだった。

 幼いながらに蒼緋蔵家関係者からよそよそしい雰囲気を肌で感じて、愛人の子である意味を理解していたのである。そんな雪弥を見て、亜希子の子供たちも、はじめは遠慮して遠目から見ているといった様子だった。

 一緒に過ごす中で、三人の関係はしだいに変わり始めた。

 雪弥は「兄」と「妹」が紗奈恵と接するのを見て、彼らが自分の母を「もう一人の母親」として想ってくれている事に気付いた。家族なんだ、という実感が込み上げたときには彼らが特別な存在になっていて、それから亜希子の息子は「兄さん」、娘の方は「可愛い妹」になった。


 雪弥が兄弟たちと話せるようになってしばらく経った頃。双方とも子育てが忙しくなり、当主の仕事が増えていたとき紗奈恵が病に倒れた。診察の結果は、悪性の癌だった。当主と亜希子は、蒼緋蔵家の主治医がいる設備が整った病院を紹介したが、紗奈恵はそれを断って地元の病院に入院した。

 当時小学生だった雪弥は、既に中学生までの勉強を終わらせていたほど賢かったから、医者から話を聞いて母が長くない事を悟った。「母が望むことを」と心に決めて、紗奈恵が抗癌治療を希望しなかった時もそれを受け入れた。

 懇願し「長く生きていて」するよりも、最後まで自分らしく生きたいといった紗奈恵に「じゃあ僕の出来る事をせいいっぱいする」と子供らしかぬ考えを持っていた。

 紗奈恵は数カ月に一度だけ、家に帰れるばかりで、それ以外はずっと病室での入院を強いられた。それでも、雪弥は常に母の傍に寄り添い続けた。早朝一番に顔を出し、学校が終わるとすぐに病院へと向かった。

 面会時間が終わるまで紗奈恵と過ごす日課は、中学生になっても変わらなかった。たった一人残された家での家事疲れもあったが、彼は一度だって弱音を吐かずにそれを続けた。当主が週に二回、仕事の時間を削って会いに来たときの紗奈恵の嬉しそうな顔を見るだけで、雪弥は満足だった。
 紗奈恵の医療代は、決して少ない金額ではなかった。中学一年生の春、病室に訪れてきた蒼緋蔵家の見知らぬ人間たちが、突然一方的に話を切り出した。雪弥は大富豪の家と、愛人となった自分たちの立場の難しさを実感した。

 多くの分家や親族繋がりが存在し、当主に可愛がられている愛人とその子供として自分達は確かに嫌われているのだ、という事を知った。それだけではなく、この先もしかしたら、父や亜希子や兄妹たちに迷惑を掛けてしまう恐れがある事にも、雪弥は気付かされた。

「最低限の生活費や治療費は入れてやる。しかし、これ以上当主と私たちに関わらないで頂こう」

 前触れもなく訪れた男たちに対する嫌悪感よりも、家族に迷惑をかけたくないという想いから、蒼緋蔵家と縁を切る事を決意した。雪弥は母に代わって、二度と蒼緋蔵家の敷地内に足を踏み入れない事、彼らと今後一切関わらない事を男たちに告げた。

 決意しながらも、「これで良かったのよね」と言いながら紗奈恵は泣いた。父は苦渋したが、二人の覚悟を最後は受け入れて「けれど、どうか名字だけは残させて欲しい」としてその手続きを行い、形式上縁を切ったと公言しながらも病院に見舞いに来続けた。

 雪弥は自分の母に対する彼の想いの深さを感じながらも、父がしだいにやつれている事に気付いた。完全に蒼緋蔵家を断ちきるためにも、頑張って早く就職しようと決心した。


 そんな焦燥を引き連れたまま、季節は急くように流れて行き、雪弥が中学二年生になった春、母である紗奈恵が三十三歳の若さで亡くなった。

 紗奈恵の葬式は、十四歳の誕生日もまだ迎えていない雪弥の希望により、自宅でひっそりと行われた。蒼緋蔵家の人間は来ないようにと釘を刺した家は、数少ない紗奈恵の知人が時折来るばかりだった。

 一日泣いただけで、雪弥は恐ろしい精神力で立ち直った。その頃から、紗奈恵と一緒にいた時は感じた事がなかった、これまでにない苛立ちに似た感情を覚え始めた。

 それを紛らわすため、彼は学校の運動部に時々顔を出しては暴れた。今まで以上に勉学に励み、貪るように知識を詰め込んだ。睡眠もほとんど取らずに行動し続けるその姿は、まるで獣のようだった。

 雪弥は高校入試で全科目満点の数字を叩きだし、奨学金をもらって都内で有名な高校へと進学した。以前のような落ち着きは戻っていたが、どこか荒々しい一面が浮かぶようになっていた。

 ぶつかりそうになった学生を反射的に叩き伏せてしまったり、外で素行の悪い他校生にからまれた少年少女を見かけた時は、構わず声を掛けて、一人で十数人の不良を再起不能にする事も多くなった。

 多くの者たちは、雪弥に足か腕一つで地面に叩きつけられる。不良の間では「かなりの強者だ」とひそかに恐れられたが、彼自身は、ほんの少し力を入れて払っただけにすぎなかった。

 中学二年生の夏にカツアゲを仕掛けてきた大男を、腕一本で持ち上げた時も「運動部で暴れていたせいだろう」と彼は疑問を覚えなかった。なぜか無性に腹が立った中学三年生の秋、試しにコンクリート塀に拳を突き出して砕き割った時に初めて、力を十分に制御するよう努めた。
 自分では鍛えているつもりはなかったが、高校生になって一カ月もしないうちに、指二本でコンクリートを粉々に出来るまでになっていた。

 通学中に曲がり角から突っ込んできたトラックを腕一本で止めた彼が、「急ぐと危ないよ」と呆れたように告げた運転手は、しばらく中道のまん中で停車したまま放心状態だった。それを向かい側から見ていた原付バイクの中年女性が、ようやく気付いたように「今男の子が車に轢かれそうになった!?」と叫んだ声は、朝の住宅街に響き渡った。

 高校生になった雪弥は、本格的に蒼緋蔵家からの資金援助を断つため、バイトを始めていた。奨学金が降りているとはいえ、一軒家で一人暮らしするためには到底足りなかった。

 年齢的にも高額時給の仕事は出来ず、とりあえず夏休みに出来る限りのバイトを入れる事にした。原付免許を取って週七日、五つのバイト先を見つけ小刻みの日程で動き回ったが、不思議と疲れを感じなかった。

 自宅に戻るのは風呂の時ばかりで、彼はほとんど外で仮眠と食事をすませていた。出前のバイトをしていたさい出会ったそば屋の老店主と仲良くなり、三つのバイトを切って早朝から深夜までそこで働きだしたのは、夏休みに入って一週間目のことだ。

 小さなそば屋は、たった一人の従業員を失って半年目だった。老店主を手伝いたいと思った雪弥は、「仮眠と食事をつけてくれるんなら、安い給料でも構わない」と提案したのである。九月からは学校が始まるので、その時までに昼間働いてくれる従業員を探す事も課題だった。

 十五もない客席を持ったかなり老朽化した小さな店だったが、決まった時間になると、それ以上の客が流れ込んだ。忙しくない時間帯は配達もある。職人技で次々に料理を仕上げる店主に、雪弥は一人とは思えないほど円滑に仕事を進めた。

 注文を取って料理を運び、レジを打って空いた席から皿を下げながら、テーブルを綺麗にすると同時に店主の仕事を素早くサポートした。客足が引くと、くたくたになった彼を尻目に、配達分のそばをバイクに乗せて「いってきまぁす」と陽気にバイクを走らせた。

 原付の免許のみしか持っていなかったが、このとき雪弥が乗っていたのは、十数年前からそば配達に使われているギアバイクだった。彼はコツを店主に教わっただけで、まるでこれまでずっとそうしていたかのような慣れた手つきでバイクを操った。警察に見つかったらどうしよう、といった不安はちっとも感じていなかった。

 何故なら雪弥は、片手で配達先の住所をチェックしながらでも、飛び出してきた車を避けられた。道路に車が渋滞していようがお構いなしに突き進み、老店主の美味しいそばを早く届けようという思いから近道を使った。


 オンボロバイクが住宅街の間に流れている川を飛んだ、――という困った悪戯電話に、交番の警察官が悩まされていたのもこの頃である。

 土日祝祭日以外、午後三時までに、そば屋の売上金を銀行に預ける仕事も雪弥が担っていた。夏休みも中盤を迎えた頃には、すっかりそば屋のバイトに慣れた。
 この日も、銀行の窓口時間がギリギリだった。いつものように反対側の道に出るため、民家の十センチ塀にバイクを乗り上げて走行し、いつもの道まで最短距離の近道で出たところで、予想外にもいつもの着地点の歩道に乗り上げて停まっている車があった。

 後部座席を黒いガラスに塗り替えられた高級車のフロント部分から、正装した運転手と目が合ったとき、雪弥の乗ったバイクは前輪が既に塀から飛び出していた。

 運転手の男が「そんな馬鹿な!」という表情で引き攣ったが、雪弥のほうは至って冷静だった。そのまま勢いをつけてアクセルを回すと、バイクごと跳躍するように身体を動かした。

 細いタイヤを一度バウンドさせた後輪が塀から離れ、車を飛び越えたところで前輪から着地すると、雪弥はブレーキを踏んで後ろタイヤを滑らせて、進行方向へとバイクの向きを変えたのである。

「上手いな」

 車内から低い声が聞こえたが、雪弥は興味がなかったので「どうも」と適当に答えて、そのままそこをあとにしようと――

 したところで、後ろから「ひったくりよ!」という声が聞こえた。バイクのミラーでちらりと確認するや否や右手を動かせていて、素早く伸びた雪弥の右手が、横を通過しようとしたバイクに乗っていた男の襟首を見事に捕えた。

 速度が出始めた原付バイクであったにも関わらず、男がまるで壁にでもひっかかったように、首元を固定したまま両足を振りこのように前方に大きく降って呻く。宙を浮いた男の足もとをバイクが離れ、歩道の上に乗り上げると同時に転倒して地面の上を滑った。

 十六歳の細い右腕一本に、成人男性が宙づりになっている状況であった。

 そのあと駆けつけた女性と、騒ぎに集まってきた大人たちに男を押しつけ、雪弥は「しまったッこんなことをしている場合じゃなかったんだった!」と慌てて銀行へと急いだ。

 残り五分というところで間に合ったのだが、何故か時間があるにも関わらず、目の前で銀行のシャッターが下り始めた。息をつく間もないままバイクを降りて走り、ぎりぎりで銀行に滑り込めて「セーフ」と思った矢先、「動くな!」という怒号とともに五人の覆面男たちに銃を突きつけられていた。

 今日に限って、本当に色々とついていないな、と思った。

 いつも通り老店主の元を出たはずなのに、雪弥は予想外ばかりに遭遇している現状に「なんだかなぁ」と呟いてしまった。

 飛び込んだ店内は、今まさに銀行強盗が行われるところであったのだ。男女構わず白い床にうつぶせになって両手を頭の後ろに組まされていたが、雪弥は恐怖よりも先に犯人の一人が発した言葉に苛立った。「金目の物を出せ」と脅されたからである。

「おじさんが頑張って稼いだお金を、なんで渡さなくちゃならないのさ」

 銀行の金庫ばかりではなく、客の財布からも現金を抜いていた犯人に苛立った雪弥は、近くにいた覆面男を一瞬にして叩きのめすと、素早く銃を構え直した四人の武器を素手で打ち払った。

 数発銃弾を発砲されたが、冷静に視界で銃弾を捕えていた雪弥は、それをすっと避け、一分もかからずに犯人たちを一網打尽にした。

 たまたまそこに居合わせていたのが、特殊機関ナンバー1の男だったのである。雪弥がバイクで飛び越えた車が、連続銀行強盗事件の助太刀に入ったエージェントトップクラス専用車だったのだ。
「そのシャツにそば屋山星と書いてあるが、ずいぶん鍛えられる仕事なのか?」
「うーん、まぁ結構人手不足で忙しいとは思いますけど……」
「ふうん。実は、そばが食べたいと思っていたところだ。そのそば屋は美味いか?」

 ダークスーツを着込んだ大男の唐突な問いかけに戸惑いながらも、雪弥はそば屋の場所を教えた。

 それが、雪弥と国家特殊機動部隊総本部トップの出会いだった。ナンバー1は客の振りをしてそば屋に入った後、十六歳だった雪弥に高時給のアルバイトを持ちかけたのだ。

 電話番号だけをもらったその数日後に、なぜかタイミングよく優秀な従業員が二人入り、夜遅くまで勤務しなくてもいい事になった。どうも胡散臭いような気配を覚えたが、時給の高さに負けてそのバイトを引き受ける事にした。

 他に掛け持ちをしている夜の仕事を切っても、じゅうぶんすぎる給料を手にする事が出来たからだ。雪弥は、それがエージェント補佐の仕事であるとは知らずに、しばらくは警察の手伝いだと信じたまま、彼らの仕事をサポートする事になった。


 その後、高校生にして正式に国家特殊機動部隊総本部に務めると、雪弥は早急に地位を確立していった。そして高校二年生への進学を控えた頃、彼は気付くと、ナンバー4の地位に就いていたのである。

             ※※※

 とはいえ、お互いの過去や経歴を明かす事が少ないのが、特殊機関という場所だった。他のエージェントたちにとって彼は、「雪弥」という本名を明かしているだけの得体の知れない上官でしかなかったのだ。

 ただ呟いただけなのに、技術室が緊張感が強まったのもそのせいである。

 周りの研究員やエージェントたちがうろたえる中、当の雪弥は、昨日蒼緋蔵家当主である父から連絡を受けた後、仕事の報告後に電話を入れるつもりだったことを思い出していた。

 目の前で力の差を見せつけられた二桁台のエージェントは、開発途中の小型銃を持ち上げたまま、ナンバー4が浮かべる気が抜けそうな表情を見て「裏があるのではないか」と息を呑む。

「性能はいいと思うよ」

 雪弥は、振り返って研究者たちに言うと、自然な動きで大型の銃をテーブルの上に置いた。くぐもるような余韻を持った重々しい音が室内に響き渡り、それがかなりの重量を持った武器であった事を研究員たちは再確認した。

 そもそも、彼が軽々と片手で持ち上げていた開発途中の大型銃は、本来は手で持つべきものではない。専用の土台に設置し、そこから標的めがけて発砲するのが理想のスタイルなのだ。

 なんか、いつも活気がないよなぁと思いながら、雪弥は静まり返った部屋を出た。入る前はいつも賑やかなのだが、なぜか扉を開けると、そこには調子が悪そうな空気ばかりが漂っているのである。

 小首を傾げた廊下で携帯電話を手に取ろうとした雪弥は、ふと顔を上げて立ち止まった。内部放送で、自分のナンバーが呼ばれたのを聞いたのだ。


「次の仕事の話かな」


 雪弥は明日の天気でも言うように呟き、慣れたように白い廊下を進み始めた。