蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

 いざ若い子供たちの中に飛び込んでみると、自分がどれだけ浮いた存在であるのか再認識出来た。一人の大人として、子供たちの中でその存在が目立っているのである。

 教壇に立っている間、彼は込み上げる震えと逃げ出したい衝動を堪えるのに精いっぱいだった。男女合計二十四名が見渡せる場所で、雪弥は強く思った。


 二十四歳が十七、八歳の振りなんて絶対に無理がある、と。


 そのとき、一段と教室が騒がしさを増した。驚く雪弥をよそに、次々に生徒たちが口を開く。

「どこの高校から来たの?」
「すごく綺麗な髪ねぇ」
「部活とかやってた?」
「彼女とか、もういるのか?」

 え、え? …………えぇぇぇええええええ!

 雪弥は驚きを隠せなかった。今にも立ち上がりそうな勢いの若者たちを前に、黒板側へと一歩後ずさる。

 ばれてない! しかも、嬉しいんだか悲しいんだか全然疑われてない!

「はいはい、質問は授業時間以外に……」

 弱々しい咳払いを一つした矢部がぼそぼそと言い、雪弥は我に返って、ぎこちない微笑みを浮かべ直した。今にも引き攣りそうな顔を、どうにか笑みで塗り替える努力をする。

「じゃあ、そうですね……案内役がてら、修一君の後ろに席を用意しましょうかね……」
「よっしゃ!」

 修一は、座ったままガッツポーズをした。一目見て、転入生がまとう自然で穏やかな雰囲気が気に入ったからである。絶対良い友人になるぞ、と修一は動物的勘でそう思っていた。

 まずはどんなスポーツに興味があるのか聞こう、と考えている彼の隣で、暁也はじっと雪弥を観察する。矢部と話している転入生は、普通の学生に見えて「やっぱり遺伝的な髪色なのか……?」と呟き、威嚇するように顔を顰めて腕を組む。


 矢部から「生徒たちへのサプライズで席を用意していなかった」とようやく聞き出せた雪弥は、強い視線を感じて教室の後ろへと目をやり、こちらを凝視する一人の少年に気付いた。


 色が抑えられた赤い短髪に着崩した他校の制服を見て、この教室には不良がいる事を認識した。新参者が来たことに対する不良の行動を予測したとき、つい困惑の表情を浮かべてしまう。

 もし喧嘩を吹っ掛けられたり、リンチされそうになったらどうしよう。

 昔から、自分の力は少々強いらしい、とは分かっている。

 しかし頭では分かっていても、なぜか自動反撃に出てしまうのも少なくはないので、関係もない生徒を病院送りにするわけにはいかないしなぁ、と雪弥は悩んだ。

 その隣で矢部がぼそぼそと指示を出していたが、何人もの生徒たちが主張して来た「聞こえない」という言葉もあって、そばにいた雪弥の耳からも、矢部の声がかき消えてしまった。
 クラスで一番大柄な目が細い男子生徒によって、雪弥の席はすぐに用意された。相撲取りを目指しているというこの生徒は、森重(もりしげ)平(へい)次(じ)といった。高校生にしてはかなり大柄で、その身長も百八十センチを裕に越えていた。

 制服を着ていなければ、少し幼さが残る顔をした大学生である。雪弥は彼を見て、自分がすんなり高校生に溶け込めた理由の一つを理解出来たような気がした。

 実際、高校三年生の生徒たちは大きかった。大半は百七十三センチある雪弥より低かったが、発育の良い生徒たちは百七十センチ近くあった。顔や体格に幼さが残るだけで、ほとんど大人と変わらない。


 雪弥は日本の高校を途中で退学していたので、普通の高校三年生の基準が分からなかった。自分が高校生として溶け込めているとは到底思えず、全く疑われていない現状が不思議でならないが、エージェントの新人がよく言われているように、任務は度胸であると思い込む事にして半ば楽観を心がけた。


 じゃないと多分、精神的に参るのが先だ。今日一日がもたなくなる。

 修一の後ろに席を構えた雪弥は、黒板を向く少年少女たちを眺めるように、一時間目の授業を迎えた。真新しい教科書を開き、どうにか「緊張して授業を受けています」という振りをする。

 簡単な英文の教科書に飽きて眠気まで覚えてしまい、授業開始から五分で女教師の話しをボイコットした。黒板に書かれる文字を他の生徒たちのようにノートを取りながら、眠気覚ましに教室にいる子供たちの観察を始める。

 そこで雪弥が驚いたのは、眼鏡を掛けた「委員長」と呼ばれている前列の男子生徒よりも、斜め前に座っている暁也という少年の方がずば抜けて賢いことだった。

 一時間目の今の授業は、女教師が担当する英語だった。暁也は教科書すら広げてはいなかったが、その教師が唐突に突き付けた難しい問題もすらすらと解いた。授業の雰囲気を壊す事もなく静かに黒板を眺める姿は、雪弥の知っている不良とは少々雰囲気が違う。

 観察を更に続けると、暁也と真逆の生徒がいる事にも気付かされた。雪弥の前席にいる修一は、ほとんど勉強が出来なかったのである。

 基本的な問題は何となく理解しているようなのだが、ほぼ勘でやっているような気もする。教師に易しい問題を当てられても、修一は小首を傾げて「分かんねぇ」と真顔で返した。教師が落胆し、クラスメイトたちも呆れた表情を隠せないほど清々しい「だって分かんねぇんだもん」という言葉を残して、修一は席に着いた。

 受験生なので、自分の案内役をさせるよりは勉強をさせた方がいいのでは……

 雪弥は、後ろから見える引き出しから雑誌が飛び出している光景を見て思った。しかし、教師が修一少年の机の横に積まれている教科書やノートを注意する様子がなく、誰もそこに目を向ける様子がない事にも気付いた。

 ふと気になって、他の生徒たちに視線を滑らせてみた。

 女友達に手紙を書く女子生徒、教科書に落書きをして楽しむ数人の生徒たち。女教師の目を盗んで読書する真面目な風貌の少年に、机に堂々とお菓子を置いて、口をもごもごとさせる少年少女たち――

 なんだか、とてものんびりとした学校だ。
 高校生って、こんなものなのかなぁ。

 授業風景を後列席で眺めながら、雪弥はしばらく考えて、どうやらそういうものらしいと苦笑した。授業中であっても、この教室では楽しげな会話が溢れていた。時々女教師も黒板に字を綴ることを中断して、生徒たちの話しに入っていく。

 自分が学生だった頃は、勉強とストレス発散、母の見舞いばかりで気付かなかったのだが、思い返してみると似たような光景があったような気もする。考える事が多くて、やるべき事が重なっていて余裕がなかったせいで、今の今まで気付きもせず忘れていたらしい。


 そうか、『普通』ってこんなもんか。


 なんだか居心地が良いな、と雪弥は開いた窓の外へと視線を向けた。ナンバー1がいっていた「仕事の合間に休日を楽しめばいい」の意味が、少し分かったような気がして目を細める。

 耳に女教師が説明を再開した声が入り、生徒たちが緊張した様子もなく静まり返った。外には晴れ空が続き、下には穏やかな気候に包まれた運動場が広がっている。そこには中学生の幼さを残した男子生徒たちがいて、白い体育着で体育の授業を楽しんでいた。

 そういえば、僕が学生の頃って、こんな景色をゆっくりと見る暇もなかったな。

 何もしないまま、ぼんやりと過ごした記憶はあまりない。それを思い出して、雪弥は視線をそっと黒板に戻した。

 英字を書き綴り終わった小柄な女教師が、前列の女子生徒と話をしていた。彼女のお腹には、子供がいるようだ。少し膨らんだ腹部をさする姿に、他の生徒たちの雰囲気も穏やかなものに変わっていくのを感じる。

 そのとき、雪弥は不意に女教師と目があった。小さな丸い瞳が真っ直ぐに彼を見つめて、静かに微笑む。

「はじめまして、本田君」

 雪弥は、聞き慣れない名字に数秒遅れで顔を上げた。

 一瞬だけ「本田って誰だ」と思った直後に、今の自分がそうだったと再確認する彼に構わず、彼女はにっこりとして続ける。

「早速だけど、黒板に書かれている英文を読んでもらいましょうか」

 不意打ちを食らい、雪弥は自分に集まる視線を感じつつ硬直した。思考回路を高速回転させ、自分がどうするべきかを考える。

 学力の伸びに悩む生徒を演じたいが、ここは一つ、進学校に通っていた信憑性を高めたほうがいいだろうとコンマ一秒の内に彼は判断した。女教師に促されながらゆっくりと席を立ち上がり、「英語は得意だが他の科目の伸びに困っている学生像」を脳裏に思い浮かべる。

 数ヵ国語を話す雪弥にとって、黒板に書き綴られた長い英語を読むのは容易い事だった。質問攻めにされた際、国立国際大学付属高校から来たと彼は答えていたのだが、生徒たちの認識は「超難関大学へ続くハイレベルな進学校」から来たと事が大きくなっていた。
 こちらを見つめるクラスメイトたちの瞳には、「国際と付く進学校から来たのだから英語のレベルも高いだろう」という好奇心が浮かんでいる。雪弥はそれを感じながら、現地英語ではない、出来るだけ教科書に沿ったような英語を心掛けて口にした。

『――悲しみはときに残酷だ。懺悔の言葉も間に合うことなく、私はそれに打ちのめされる。ああ、愛しい人。あなたはどうして逝ってしまわれたのだ。私一人だけを、この世界に残して』

 しん、と教室が静まり返った。

 あまりにも静かすぎて、開いた窓から、運動場を走り回る少年たちの賑わいが聞こえてきた。どっと騒がしくなった隣の教室から「先生、この俺がその問題を解いてみせますよ!」と自信満々の声が上がり、「西田君うるさいッ」と女子生徒が毛嫌いするように一喝する声まで聞こえてきた。

 前列席で「委員長」と呼ばれていた男子生徒が、目を見開いたままゆっくりと眼鏡を押し上げる。他の生徒も、まさかという顔でぽかんと口を開けていた。

 しばし生徒達が黙っている様子を、女教師が不思議そうに見やった後、「素晴らしいわ、本田君、ありがとう」と拍手をしたところで、彼らは金縛りが解けたようにさわがしくなった。

「さっ、次はその和訳を、川島(かわしま)君にやってもらいましょうか」
「ええッ、俺っすか!?」

 前列の男子生徒が困ったように頭をかき、どっと笑いが起こった。

 先程のしばしの沈黙の間は「もしやへたを打ったか」と緊張したものの、結局なんでもなかったらしいと察した雪弥は、小さく息をついて席に座り直した。取り越し苦労だったようだ、と心の中で呟いて緊張を解く。


 そのとき、不意に前席の修一がこちらを振り返った。雪弥は「どうしたの」と言いかけて、思わず言葉を詰まらせて後ろへと身をひいた。

 
 修一が、好奇心と尊敬できらきらと瞳を輝かせていたのだ。これまでそんな瞳で見つめられたことがなかった雪弥は、気圧されるように身をそらせていた。真っ直ぐに向けられる無垢な輝きに耐えきれず、口許が引き攣る。

 今すぐ逃げ出したい衝動を堪えて、雪弥は先に声を掛けた。

「えっと、何かな? 比嘉君……?」

 どうしてそんなにきらきらしているの、とは言えずに、雪弥は言葉を濁らせる。すると、修一が気にした様子もなくけらけらと笑った。

「修一でいいって。やっぱお前、頭良いのなぁ。めっちゃ格好良かったぜ!」
「そ、そうなんだ……あの、別にすごい事ではないから。ほら、授業中だから前を見よう――ね?」
「おう、邪魔して悪かったな!」

 ニカッと笑って、修一が前に視線を戻していった。

 雪弥は内心ほっとしたが、別方向からの強い視線に、思わず作り笑いが再びピキリと引き攣った。横目にこちらを睨みつけていた暁也に気付き、ぎこちなく顔を向けて、仏頂面を更に顰めた彼を見つめ返す。

「あの、何かな金島く――」
「暁也だ」

 暁也が無愛想に口を挟んだ。女教師が別の生徒を指名して新しい英文を読ませ始めたタイミングで、一度黒板へと視線を戻したものの、彼はすぐこちらへと視線を滑らせる。

 何か聞きたいことでもあるんだろうか、と雪弥が頬をかいたとき、暁也は表情の読めない鋭い瞳でこう続けた。

「お前、外国にいたことがあるのか」
「え? なんで?」
 雪弥は尋ね返したあと、彼が優秀な頭脳を持っている生徒だと思い出した。聞き慣れている者はそれが本格的な現地の英語なのか、日本人形式の英語なのか分かるのである。

 とはいえ、これくらいの英会話能力を持った学生は、探せばいくらでもいた。国際社会とあって、日本人の大半が英語技術を磨こうとしている時代である。「本田幸也」の設定は、国際大学付属高校に通っていたという事になっていたので、そんな生徒が英語を得意としていてもおかしくはない。

「お前の英語、完璧だったからよ」

 憮然とした様子で暁也が述べた。雪弥は「そう?」とすました顔で言って、自然な笑みを作る。

「まぁ、前の学校ではすごく得意だったよ」
「ふうん」

 暁也が片眉を上げて、数秒の間押し黙ったあと、興味もなさそうに前へと向き直った。その会話を耳にしていた生徒たちが、「本田君、英語が得意なんだねぇ」と感心したような声を上げる。

 雪弥はノートを取りながら、あとは微調整で他の教科点を落とすだけだと考えていた。それが終われば、英語だけが得意な進学に悩む生徒像が完成するだろう。


『ここにいるのは、やっぱりつまらない人間ばかりだ』


 英語で語る暁也の声が聞こえて、雪弥は、ふと手を止めると彼を見た。

 修一は暁也が何を言ったのかさっぱり分からず、「突然どうしたよ」と怪訝そうに声を潜める。しかし、暁也は面白くもなさそうに黒板の方を眺めたまま、唇をへの字に曲げて腕を組んでいた。

 暁也の静かな声色は、答えの返ってこない独り言だとして呟かれたものだった。発音は日本人独特のもので、癖がなく聞き取りやすい。

 その独白に至るまでの事情は知らないが、大人である雪弥としては、何やらそれなりに悩みでもあるのだろうか、と感じてしまう。どうしようかと悩んだものの、彼より少し人生経験が長い身として、少しだけ助太刀するつもりで呟きを返す事にした。

 この子は英会話にも心得があるようなので、きっと伝わるだろうと思った。

『詳しい事は知らないけれど、つまらないと思うから、そう見えてしまう事もあるんじゃないかな。――ここは、とてもいいところだと僕は思うよ。何もかも穏やかで、平和だ』

 きちんと頭で和訳出来たかも雪弥には分からなかったが、暁也が少し驚いた顔をしてこちらを振り返った。「だから、突然どうしたよ」と修一は交互に二人を見やるが、答える人間はいない。
 なるほど、どうやら優等生らしく正しく英文を和訳できたらしい。

 雪弥はそれ以上何も言わず、口元に微笑をたたえて意味もなく手の中のシャーペンをもて遊んだ。しばらくそうしていると、二人の少年が「気のせいだったのかな」という顔で目配せをして、正面に向き直っていった。


 その時、重々しいチャイムが鳴り響いた。心臓を震わせる音色に、すべての生徒が魔法にかかったように動きを止める様子に目を向けて、雪弥は回していたシャーペンを止めた。


 ああ、懺悔の鐘か。

 聞いてすぐ、エージェントだった尾崎が設置したのだろうと察した。それは特殊機関本部を含めたすべての支部に定期的に流れる音色であり、罪を犯してはならない、犯した罪を忘れてはいけない。それでいて同じ過ちを繰り返してはならない、という意味があった。

 自分たちに寄越される依頼は、ほぼ処分決定が下ったものがほとんどだ。生きて返さず、命を取る事で任務が終了する。

 皮肉なものだ、といったナンバー1の言葉が雪弥の脳裏に横切った。お前は人が子孫を残す遺伝子レベル同様に、命を奪うこと、殺すという行為を本能的に知っているのかもしれない、と言って彼はらしくないほど悲しげに笑った。

 雪弥は十七歳の頃、彼に「だからこそ、命が消えるという重みを理解し難いのだ」と言われた。なぜかその言葉が鋭く突き刺さったのを、今でもはっきりと覚えている。

 その思い出に引きずられるように、殺すために生きているのだろう、とどこかのエージェントに一方的に非難された出来事が蘇った。サポートにあたっていた同僚たちが嘔吐する中で、サポートリーダーだった男がこう喚いたのだ。


――なぜッ、なぜ必要もなく『標的』共をバラバラにしたんだ! チクショーお前は、血も涙もない化け物だ! 俺はッ、俺は……! 

――お前とだけは一緒に仕事をしたくない!


 怨念のような呪いの声のすぐあと、ナンバー1がよく口にしていた「それでもお前は人間なんだ」という言葉が記憶の向こうから聞こえた気がした。別に気にしていないというのに、どうしてか彼は、そう言われて非難されるたび茶化しもしないで、雪弥が人間である事を勝手に肯定してくる。

 命は大事だ。僕はそれを知っている。

 生きている者は、壊れないように優しく扱わなければいけない。

 脳裏に焼き付いて離れない様々な声を、自分の言葉で塗り潰し、雪弥は授業終了を告げるその音を聞きながら、祈るように目を閉じた。
 何故そうなったのか、雪弥自身分からなかった。

 必要最低限の情報を与えたはずだと気を許した午前最後の授業後、彼は突然集まった女子生徒たちに、めまぐるしい質問攻めをされた。血液型、正座、好きな子がいるのか、可愛いと思う女優やモデルは誰か、どんなお菓子が好きなのか……

 思わず空いた口が塞がらないといった他の男子生徒たちの中で、修一が冷静に対応して雪弥をそこから連れ出した。

 授業終了直後、もう一つあった驚きは、暁也がまるで脱兎の如く教室を飛び出していった事だろうか。雪弥は彼の行方を知らなかったが、どこからか朝聞いたぼそぼそ声が「あ~き~や~く~ん~」と無気力に低く響き渡ったのを聞いた。

 なるほど。生徒指導か何かであるらしい。

 そう察して聞こえない振りをしたのは、雪弥以外の少年少女も同じだった。


 修一は雪弥を連れて売店を案内がてら食糧を確保した後、教室から連れ出したさい耳打ちした「ゆっくり出来る最高の場所」へ向かった。


 三年一組の教室前を過ぎた先にある階段は、普段使用されていない。窓も電気もないばかりか、中腹の折れ目から階段は人が二人並んで歩ける幅しかなく、換気の行き届かない湿気臭さが残っている。

 慣れたようにその階段を上がった修一は、「立ち入り禁止」の看板がかかった屋上扉の前で立ち止まった。

 白鴎学園は、高等部も大学校舎も屋上への出入りが禁止されている。まだ比較的新しい校舎とはいえ、ほとんど開閉のされていない扉は、先に二十年ほど時を過ごしたように所々錆かかっている。しかし、修一は掛かっている鍵も「立ち入り禁止」の看板も構わず、ポケットから小さな物を取り出してドアノブへと近づいた。

 まさか、と雪弥が思っているそばから、数秒もかからずにカチっという金属音が上がった。片手に食糧を持ったまま、修一がドアノブに伸ばした手を右へ左へと動かし、数十秒もしないうちに扉の鍵を開けてしまったのである。

「へっへーん、こんなのちょろいぜ」

 修一は扉を押し開けながら、卒業した先輩から教えてもらったのだ、と自慢げに語った。雪弥は呆れて物も言えなかったが、ドアノブごと素手で切り落とす自分よりはマシかと思い直し、大人として注意することもなく屋上へと足を踏み入れた。

「暁也が来るから、鍵は開けたままにしておくぜ」

 こちらへの説明とも、楽しげな独り言ともつかない修一の声を聞いて、雪弥は「はぁ」と間の抜けたような返事をした。

 修一が先に屋上の中央部分で腰を下ろし、売店で買った紙パックのジュースとパンを広げ始めた。授業風景を見て思っていたが、二人は昼食を共にするくらい仲がいいのだろうか、と一人悩む雪弥を脇に、ふと空を見上げて「あの雲、俺が買ったメロンパンみたいじゃね?」と楽しそうに言う。

 白鴎学園高等部の屋上は、外壁や内装の色とは違い、灰色に近い白をしていた。

 高等部正門に対して後方となる西側には、白い壁で造られた大学校舎が見える。こちらからは双校舎の間にある中庭は確認できないが、二メートルの金網フェンスを覗きこめば見下ろすことが出来るだろう。

 雪弥は思っただけで、行動に移すことはしなかった。国立の大学や名門大学に比べると敷地はやや小さい、研究所や分館に似た印象を受ける大学校舎を静かに眺める。
「立派なもんだろ?」

 じっとそちらを見つめていると、先に腰を降ろしていた修一がそう言った。座ることを忘れていた雪弥は、うっかりしていたとは表情に出さず「そうだね」と答えて、彼の向かい側に腰を下ろす。

 陽差しはあるのだが、地面はひんやりとして冷たかった。風も時々強く吹き、排気ガスにも汚れていない新鮮な空気が心地よく身体を包みこむ。白鴎学園の規模についての感想は胸にとどめ、雪弥は修一の意見を肯定するように頷いて見せた。

「あれは、大学だったよね? パンフレットに載っていたのを見たよ」

 何気ない雪弥の切り出しに、パンの袋を開けていた修一が声を弾ませた。

「おう。教員免許が取れる付属の大学さ。うちで教師目指してるやつらの大半は、あっちに進学希望を出してるぜ。設備は良いし就職にも強くてさ。それに、地元に住んでいれば学費も安いんだ」
「ふうん、でも廊下歩いているときちらりと見たんだけど、ほとんどの生徒は教室で受験勉強していたね」

 そうなんだよな、と修一は手元に視線を戻して相槌を打つ。

「まぁ付属の高校って言っても、一般入試とかは他校の受験生と変わんないと思うし、進学がかかっていることにかわりはねぇじゃん? 就職サポートもしっかりしてるし、入学金免除で授業料も破格。金銭面で進学を諦めていた奴らも絶対合格するって勢いだし、県内にある他の大学とか、県外の大きい所に進学希望している奴らもいるから、俺らの学年だけぴりぴりしてんのよ」

 袋からチョコパンを取り出した修一は、そういえば、という顔をして手を止めた。

「そうそう、うちの高校はさ、付属の大学じゃなくてもいろいろと手助けしてくれる制度があるんだよな。試験会場までの交通費支給とか、試験代が免除とか、小難しい名前の……なんとか支援ってのがあるわけよ。確か、えぇっと、県か市のやつだったかな?」

 難しい部分をすっ飛ばし、修一はパンにかぶりついた。

 雪弥は「それ、尾崎理事、もとい尾崎校長が個人で建てた財団だよ」とは言えずに口をつぐんだ。返す言葉も思いつかず紙パックの苺牛乳にストローを差した時、もう一度パンにかぶりつこうと、口を大きく開いた修一が、思い出したように声を掛けてきた。

「考えたらさ、お前いい時期に転入してきたな。皆進学の事で頭がいっぱいだから、転入生騒ぎも数日続かないと思うぜ」
「それは嬉しいな」

 パンにかぶりつく修一を前に、雪弥は乾いた笑みを浮かべた。これ以上若い子が思いつくような話題を続けられるねような言葉も見つからずに、自分もパンの袋を開ける。

 言葉使いを不審がられても困るので、必要以上に話すことは避けたい。そう思いながら口にしたメロンパンは生地が硬く、表面にたっぷりとつけられた砂糖がぼろぼろと落ちて風に飛んでいった。
 雪弥はパンをゆっくりと噛みしめながら、なんだか少し悲しい気持ちになった。

 今回の任務内容を知ったとき「絶対無理だよ」と思ったそれが、今見事に成功しているのだ。疑う生徒や教師がいないばかりではなく、自分はすっかり架空の高校生「本田雪弥」として白鴎学園高等部に溶け込んでいる。


 とはいえ、全く心は落ち着かない。学生の中におじさんが一人混ざっているなんて、くつろげるものではない。


 十代だった頃は地元の学生を装うことも平気だったが、すっかり大人となった今では、コスプレで町のド真ん中を歩いている心境であった。「せめて教師の設定にして欲しかった……」と彼は思わずにはいられない。しかし、教師に変装した場合、なんだかその方が返って怪しまれそうな気もする。

 雪弥は、胃がきりきりと痛むような居心地の悪さを堪えた。味も分からぬまま、ゆっくりとメロンパンを食べ進める。

 素性がばれるような財布や携帯は、ナンバー1の指示通りマンションに置いてきた。現在ポケットに入っているのは、小銭と札を一緒に入れるタイプの小さな財布と、『グレイ』だけが登録された替わりの携帯電話だけである。

 現在の潜入状況だと、言動と行動に気をつければ「二十四歳になるおっさん」だとばれる可能性はないだろう。念のため、同じ大人である教師との対話は避けた方がいいかも……と、雪弥は苺牛乳で渇いた喉を潤した。

「なぁ、雪弥」
「え? ああ、何?」

 腕時計も置いてきたし大丈夫だろう、と自分を落ちつかせていた雪弥は、コンマ数秒遅れで返事をした。修一は顔をこちらに向けたまま、オレンジジュースの紙パックから伸びているストローをくわえている。

「やっぱり新しい学校だと、落ちつかないだろ」
「え、うん、そうだね。落ちつかないな」

 雪弥は、答えながら視線をそらした。無線で代わりに話してくれる部下がいればいいのに、と心の中で呟きながら次の言葉を探す。

 そんな彼の思考を中断したのは、陽気な少年の声であった。

「大丈夫! すぐに慣れるさ」

 そう言った修一は、無邪気な笑みを覗かせて新しいパンへと手を伸ばした。次は大きめのクリームパンである。顔いっぱいに笑みを浮かべたその表情は幼く、体格が大人に近いとはいえまだまだ子供だ。

 雪弥はすぐに「そうだね」と答えたかったのだが、慣れるという言葉には頷けず、ぎこちない笑みで沈黙を取り繕った。それは無理だろ、と言いかけた口を素早く別の言葉に置き換える。

「えっと、そうだね。僕は内気で人見知りだから、君がいてくれて心強いよ」
「お? そうか?」

 修一はまんざらでもなさそうに言って、クリームパンの入った袋を景気良く開けた。先程食べたチョコパンの袋は、風で飛ばないように腿の下に挟まれている。

 雪弥は半分になったメロンパンを持ったまま、中央に広げられている食糧へと視線を落とした。

 焼きそばパンが三つ、チョコチップメロンパン、カメの形をしたクリームパン、アンパン、梅オニギリが二つ、鮭オニギリが三つ、野菜と卵のサンドイッチお菓子のポッキーとジャガリコが一つ……

「それ、全部食べるつもり?」