蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

 命令を受けた部下が、その巨体でのそりと倉庫地下に向かうことも確認しないまま、尾賀は辺りを見回して更に目を細めた。侵入者の気配を空気から察しようとするかのように集中し、鼻に皺を寄せる様子は、まさに鼠である。

「人の気配はまるでないね。一匹か、二匹か……多くても三人くらいだろうとは思うけどれどね」

 尾賀は今回、十五人の部下を連れていた。大学校舎駐車場に頭を突っ込むトラックに顔を向け、待機させていた残りの十二人に顎で合図を出す。

 はち切れんばかりに分厚い筋肉に覆われた男たちが、従順にトラックの荷台から降りてくるのを見て、富川は眉を潜めた。

「全員、ですか」
「今回は私のだけでなく、李の人員も使わせてもらうね。私の予感が当たっていれば、これはプロの殺し屋に違いないね。ここまでデカイ設備は見たことないがね、ロシアであったウルフマンなんとか、だったか――まぁ噂で聞いたところによると、たった数人の殺し屋が標的を殲滅させるために電気の檻が使われた、とかで持ちきりだったね」
「おいおい、殺し屋かよ」

 藤村が口を尖らせると、尾賀が小馬鹿にしたような顔を上げた。彼は「いいかね、藤村君」と鼻を鳴らしてこう続ける。

「私と李の部下は、君の部下より使えるね。特に李の部下は、よく出来た作りをされているね」

 あの化け物じみた野郎共か、と藤村は内心吐き捨てた。

 今まで倉庫にヘロインを運んでいた李の部下たちは、二メートルの長身に膨らんだ上半身を持った猫背の白衣姿の男たちだった。広い肩と面積のある胸部に対して腰回りがひどく細く、棒きれのような長い手足で二十キロのヘロインを軽々と運んだ。

 全員頭髪はなく青白い。身体の至る所にメスで切られたような傷跡が残り、本来目がついている場所には、暗視カメラが直に埋め込まれている。

 いい儲け話だが、本当に気味が悪いぜ。まぁ、味方なら心強いんだけどよ。

 藤村は体勢を戻すと、銃を握り直した。話し続ける尾賀に背中を向け、白鴎学園の塀を飛び越えてそびえ立つ、重々しい亜鉛色の有刺鉄線を見上げる。

「軍や警察が動いているのなら気配で分かるね、だから見事に気配がない今回は、プロの殺し屋に違いないね。ま、殺し屋であればうちで隠ぺい出来る。私が取引きしているお方も中々有名人だからね、こんなことはしょっちゅうある」

 そのときはいつも私の部下が役に立つね、と尾賀は相変わらず独特の東洋鉛が入ったような口調で言い、飛び出た歯を唇に乗せたまま笑んだ。
 富川は安堵し、いつものように後ろに両手を回して面持ちを緩めた。殺し屋という言葉で動揺した心は、今日口座に振り込まれる大金への喜びに戻っていた。こいつらが勝手に動いて私に大金を運んでくれる、とポーカーフェイスで構える。

 有刺鉄線をざっと見回した藤村が、倉庫から取り出されるヘロインを値踏みするように眺めた。その背中へ目を向けながら、尾賀が囁くように富川を呼んだ。内緒話を感じ取った富川は、そろりと自身の耳を尾賀へと傾ける。

「ネズミの駆除は私と李の部下がやるね。今回殺し屋を呼んだ奴は、とある方に頼んで見付けて頂き、後日キレイに処分してもらうから平気ね。君とは長いビジネスになりそうだから、この学園の理事とやらもついでに始末してやるね。何、心配は要らないね。私の後ろについているお方なら、君を理事の地位につけるぐらい容易い。その方が、もっと良い取引きが出来そうじゃないかね?」

 数秒遅れて、富川は「ありがとうございます」とひょこひょこ頭を下げた。怪訝そうに振り返った藤村に背筋を伸ばし、「尾賀さんと李さんがやってくれるから、心配いらんよ」とわざとらしく偉そうな口ぶりで話す。白鴎学園を手に入れるのも遅くはないと実感し、富川は内心笑いが止まらなかった。

 藤村が「俺の仲間だって殺し屋ぐらい」と愚痴りだしたとき、「なんじゃい尾賀!」と雷が落ちるような強い叫びが上がった。

 そこにいたのは、尾賀と同じぐらい小さな背丈をした老人だった。小麦色の肌を真っ赤に染め上げて、荒々しく歩いてくる。

 彼は、今回中国からヘロインを運んできた自称科学者の李だった。いつも狭い肩を怒らせ、白衣に包まれた身体は、脂肪が詰まった腹を突き出している。顔や首、手先は皮膚が垂れて痩せ細った印象はあるが、衣服で隠れた背中も腕も太腿も丸い。

 李は依頼通りの麻薬を配合できる闇の売人である。中国人だった亡き父を尊敬しており、顔も分からない母方の日本人名ではなく「李」を名乗っていた。母親の血筋が強いため、容姿も皮肉を叩く口調もまるで日本人にしか見えない。中国の血が強く出ている尾賀を、なんとなく嫌っている老人である

「お前のせいでこけたぞ! 埃まみれじゃわい!」
「短い足を滑らせただけじゃないかね」
「短足ブサイクのうえ似非中国人のお前に言われたかないわい!」

 李が怒りをぶちまけている間に、藤村が「背中に埃がついてますね」と何食わぬ顔でそれを払い落した。李は悪くもなさそうにちらりと視線を滑らせ、ぶっきらぼうに「謝謝」と言ったあと、勢い良く富川と尾賀を振り返った。
 李は下手(したて)に出る人間が嫌いではない。むしろ、人間は自分を一番に優遇するべきだという考えを抱いていた。それさえ知っていれば扱いやすい。

 藤村は李の感謝の意もこもらない声に「いいえ、別に」と上辺だけで答えた。べらべらとうんざりするほど長話をする尾賀より、李が幾分かマシだと思っていたのだ。

 こっちはいつも働かされてんだから、話し相手はてめぇでやれよ富川。

 藤村の視線の意味にも気付かず、富川は一方的に李の怒号を浴びせられた。

「ネズミがどうした! ヘロインの数量があってるかじゃと? そんな事どうでも良いことじゃわい! その侵入して邪魔しようとしている奴らというのは、わしの実験体共を横取りしようとしているんじゃないだろうな!」
「あの、李さん、落ち着いて下さ――」
「これで落ち着けるか馬鹿者が! あの人間どもは誰にもやらんぞ! あれはわしの物じゃ! 若く健康な実験体は滅多に手に入らんのじゃからな!」

 口を挟んだ富川は、罰が悪いように口をすぼめた。尾賀が「やれやれだね」と呆れ返った様子で口を開く。

「だからこそ、そのネズミを早々に処分しておこうと思っているね。検体を横取りされる可能性も低くはないからね、君のためを思って、私も十二体の駒を出してるね」

 李は、怪訝そうに皺を寄せて尾賀の部下へと目を向けた。二メートルの巨体に、細いサングラスを掛けた男たちは全員唇を強く引き結んでいる。特徴は大きな体格といかつい顔ばかりで、どれも似たり寄ったりの容姿であった。

「ふん、なるほどな」

 李は尾賀のトラックの奥に聞こえるよう「一号!」と叫んだ。彼は今回の取引で、用心棒兼部下を乗せた自分の改造大型トラックを一台だけ持ってきていた。引き取る学生を詰める運搬用として、別に二台のトラックを約束通り尾賀が用意してくれていたものの、その大きさが少々不満で、先程は出会い頭に言い合いの喧嘩になっていた。

 富川から実験体は三十六人だと聞いて、李はいつも以上に気が入り、今回は船に乗せていたすべての部下を引き連れての出動だった。忍者のような服の上から白衣をはおった、異様な容姿の部下たちである。

 トラックの向こうから、李の部下の一人が跳躍するように素早くやってきた。男は大きく広がった胸部からの重さに耐えきれないように背を丸め、頭髪のない頭部に張り付いた耳を李に寄せた。

 李が中国語で短く囁くと、彼がだらしなく口を開いたまま頷く。長いガニ股の足をのそりと動かせたかと思うと、同じように跳躍を繰り返して、トラックの奥へと消えて行った。

「四肢は十分に弄ってある」

 李が誇らしげに言った。藤村は「化け物かよ」と喉元に上がった言葉を押しとどめた。自分に害がないと自負している富川は「心強いですなぁ」と、他人事に傍観を決め込む。
「さぁ、わしの部下十五人すべてがネズミの駆除に回ったぞ! お前の部下は十二人! これでじゅうぶんじゃろう。ヘロインは残った三人の手駒で勝手に運び出しておけ、ヘロインの数量は確かに注文道りじゃ、わたしは先に実験体を見てくる!」

 李は、そう尾賀にまくしたてたかと思うと、次に富川を振り返った。「さぁ、実験体共はどこにおる!」と喚く声に、富川は尾賀から離れる口実になると考えて笑みを浮かべた。しかし彼が「案内しますよ」というよりも先に、藤村がさっと李の前に進み出た。

「俺が案内しましょう」

 ヘロインを運び出す間、お喋りな尾賀が黙っているはずがないと藤村は知っていた。一度会ったあと、電話でも散々うんざりさせられていたからだ。だから今日の取引では、尾賀の相手を富川に押し付けることを決めていた。取引の後まで、話に付き合わされるようで嫌だったからである。

 ちっ、藤村め。

 富川は嫌々ながらも、去っていく藤村と李を見送ると、尾賀に愛想笑いを浮かべた。彼は満足げな表情で、大学校舎へと入っていく李の後ろ姿を見据えている。

「腕はいいんだがね、あの短気な性格はどうにもならんね」

 肉体を強化された三人の男たちによって運び出され続けている、純白のヘロインを眺めた。途中李の喚き声が遠くから小さく聞こえたが、本人がいないだけでもずいぶん静かだと二人は思った。

 そういえば、常盤はどこにいるんだ。

 富川は、尾賀に聞えないように口の中で呟いた。人殺しを仲間に迎えるといっていた常盤は、まだ校舎から出て来ていなかった。午後十一時までにはスカウトした人間を連れてくる、と聞かされていたが、それらしい人影がやってくる気配もない。

 この瞬間を一番心待ちにしていた常盤の姿がないことに、富川は違和感を覚えた。


「ネズミを処分次第、他の部下にも運び出させるね」


 尾賀のそんな言葉が聞こえたとき、もしかしたら、という富川の心配事は吹き飛んだ。普通の犯罪者よりも危険そうな部下がいれば、どんな取引も安泰だろうと構える。

 富川は顎の辺りを手で撫でた。人質を任せている常盤は、考えてみれば数十分前に薬をやったばかりである。利口な常盤のことを考えると本部長の子に手を出していることは想像できず、スカウトした人間と、本部長の息子にくっついていた友人にちょっかいを出している可能性を思った。

「まぁ、大丈夫だろう」

 それから富川は、尾賀の長い話に付き合うことになった。
 富川が、きいきい声で話す尾賀から海外にある別荘の件を聞かされ始めた頃、李と藤村は、大学構内へと足を踏み入れていた。

「ここに詳しいのか?」
「何度もお邪魔してますよ」

 疑うような李の視線を背中に受け、藤村は歩きながら即答した。
 
 藤村は覚せい剤に手を出していた女子大生と何度が校内で会っていたので、大学校舎には詳しくなっていた。ヘロインを倉庫へとしまうついでに、常盤と高等部校舎を散策したこともあり、どちらも歩き慣れている。

 二階へと続く階段を上がれば、学生たちが集まっている教室までもう少しである。しかし、階段を上がりながら李は「もう少し早く歩けんのか」と藤村を叱った。老体だと気を使っていた藤村は、口を開けば愚痴が飛び出そうだったので、大股歩行で応えた。

 階段を上がると、全校舎に共通している白い床が続いていた。革靴の底を響かせる硬い床は、磨かれた表面が滑らかに反射する真新しさが残っている。

 校舎床はほとんどすべて、滑り止めのような薬剤が塗られているため、水に濡れても滑らないという優れ物だった。藤村は富川からその話を聞かされていたのだが、興味もなかったので、どんな加工がほどこされた物かは覚えていなかった。

 尾崎という理事が、かなりお金を掛けてこの学園を建てたらしいことは記憶している。子供が学ぶ場所に関して、その安全性や学びの環境には徹底してこだわっていたという。

 二人の進路方向である廊下の先には、一点だけ光が漏れている場所があった。蛍光灯で照らし出された廊下が、月明かりも霞むほど白く浮かび上がって見える。

 藤村の後ろで、李が顔を輝かせた。「早く進まんか」と急かすこともせず、李はにやけて皺だらけの手を擦り合わせる。

「どんな活きのいい実験体ちゃんがいるのか、楽しみじゃのぉ」

 女の身体を見て欲情するような声を上げると、李は小さな唇を舐めた。

 この変態が、と藤村は思い掛けたところで、ふと、小さな違和感に気付いた。普段パーティーが始まったとき聞こえていた、あの独特の賑わいが一つもないのだ。そして、常盤の様子を見に行ったときと雰囲気というか、向こうから漂ってくる空気も違っている気がする。
 藤村は、一時間前と違う異様な雰囲気に促され、明るい教室の光りが差す廊下先へ目を向けた。廊下に差す教室の明かりは、明るい黄色ではなくなっていた。所々が淡く影って見える。

 一体なんだろうな、と彼が廊下に気をとられていると、後ろにいた李が「なんてことだ!」と突然喚いた。弾かれるように顔を上げた藤村は、走り出した彼を追って明るい教室を見た瞬間に絶句した。


 教室に面する全ての窓ガラスが、血飛沫で真っ赤に染まっていた。

 室内の白い床や壁には大量の血液が飛び散り、死体からは生々しい赤が溢れて血溜まりを広げ続けている。


 開いたままの扉に駆け寄り、李が真っ先に室内へと飛び込んだ。続いて入った藤村は、むせるような強い匂いを充満させた生温かい空気に顔を顰めた。四方に散った血液はまだ乾燥しておらず、むっと立ちこめる生臭さがそこにはあった。

 教室いっぱいに無残な死体が転がっている。

 滴り続ける血は、惨殺されてからまだ時間が経っていないことを物語っていた。逃げ惑って壁際に追い込まれたであろう生徒たちは、そこで頭部を潰され内臓を撒き散らされていた。

 高さのある天井が赤く染まっていることに気付いた藤村は、すぐそばにぼとりと落ちた物を見てぎょっとした。それは、長い頭髪がついた頭蓋骨の一部だった。

 藤村は、吐き気を堪えて辺りを見回した。中央にいる生徒の数人は、彼が見慣れた銃殺死体だった。扉の出入り口そばに転がっていた生徒たちは身体の原型が残っていたが、鋭利な刃物で首の半分がかき切れられている。

 うつ伏せに倒れている男子生徒は、捻じられた首が千切れかった状態でだらしなく舌を出し、忌々しそうな目を藤村に向けていた。それと目が合ってしまい、彼は喉から混み上がり掛けた悲鳴を咄嗟に抑え込むと、中央まで進んだ李を追うように、そろりと足を踏み出した。

 床が足の踏み場もないほど血で染まっている様子を見降ろし、慎重に足を運んだ藤村は途中で「ひっ」と声を上げてしまった。

 服を着たままの四肢が散乱している中、力の入らない足を持ち上げようとして触れてしまった生首が、嫌な音を立ててぐしゃりと分裂したのである。切断面が分からないほど綺麗に切られた女の顔は、額と頬下から切断面が滑り落ちて、脳や肉片をぶちまけた。

 視線を逃がそうとした時、広がった赤い液体の行方を追った藤村は、そこに腹部から切断されている男子生徒の姿を見つけた。床に転がった上体からは内臓が露わになり、倒れこんでいる下半身はばらばらに切り裂かれている。


 藤村は、生々しい殺戮現場に四肢から力が抜け、思わず足を止めてゆっくりと室内を見回した。


 どこもかしこも真っ赤だった。散乱する肉片は誰の物であるのかも分からない。
 室内の扉側とは違い、奥の死体はすでに人の形を成してはいなかった。散らばった指先、顔面の半分が抉れた頭部、血に染まった衣服をまとわりつかせたバラバラの身体。壁や天井に張り付いた肉片は、血と共に滴り落ちていく。

 藤村はこれまで、多くの人間が殺される現場を見てきた。彼自身も実際に人間を殺したことがある。しかし、これほどまで悪夢のような惨劇の光景は初めてだった。

 込み上げる吐き気と格闘する藤村の前で、李は怒りに震えていた。小さな身体を強張らせ、深く息をつきながら再び室内の様子を確認して吠える。

「許さん! 許さんぞ!」

 怒号し、李は怒り狂った。胴体から切り離された青年の首を蹴り飛ばし、血溜まりにある大腸の一部を足で何度も踏み潰した。

 白衣の懐から鋭利な光りを反射させるメスを取り出すと、李は下半身のない女の死体に馬乗りになって、その顔面へメスを刺し続けた。息絶えたばかりの死体は、肉を裂かれ骨が砕けるたびに血を噴き出し、抉り出された眼球は白濁色と赤が混ざり合った粘膜の糸を引いた。

 何もかもが異常だった。

 人間はこんな風に死ぬべきではない、死んだ人間を更に殺すべきでもない。

 惨殺死体の中にいると、藤村の常識は曖昧に霞んだ。今まで自分が行ってきた殺しこそが陳腐に思え始めたとき、突然の怒号に彼は我に返った。

「ネズミを殺せ! ネズミを殺すのじゃ! 切り刻んで犬の餌にしてくれる!」

 茫然と立ち尽くした藤村を、李が血のついた手で押しのけて、薄暗い大学校舎の奥へと消えていった。

 藤村はゆっくりと視線を巡らせて、李のメスが突き刺さった女子学生の死体を振り返った。唾を呑みこむとゆっくりと後退する。

 震える足をどうにか動かそうと身をよじると、どの部位にある肉片かも分からない物を踏んでしまい、ひゅっと息を吸い込かだ。ぷちっと音を上げた彼の踵には、先程三つに分かれた人間の頭だった物があった。

「……こんなの、人間がやることじゃねぇ」

 藤村は、恐怖に押し潰されそうになった。けれど視界に入っていた死体の数々に、彼の思考と感覚は麻痺してしまっていた。


「人間って、こんなにも簡単に死ぬものなんだよなぁ」


 自分でも分からない笑みが込み上げて、しゃっくりに似た声が上がった。喉からヒュウヒュウと抜ける笑いは、静まり返った廊下に反響する。

 そうだ、どうせ皆死んじまうんだったら、俺が殺してやらぁ。

 藤村はおぼつかない足で身体を支えると、銃を二丁取り出して一歩、二歩と足を踏み出した。

 自分の身体が、不自然に揺れるだけで笑いが止まらなかった。死体をめった刺しにしていた李も、悪夢のような死体を作り出したネズミもどうでもよかった。ただ、無性に殺したくてたまらない。

 ああ、なんて息苦しいんだ。

 藤村は両手に銃を持ったまま、一番近い人間をまずは殺してやろうと、あの小さな白衣の老人を追ってアンバランスに左右の足を進めて駆け出した。
 雪弥は月明かりに照らし出される廊下を、高等部校舎に向かって歩いていた。

 数分前、雪弥は暁也たちを屋上へと向かわせた直後、屋上でノートパソコンを立ち上げられてしまう前にと、大学校舎に素早く移動して学生が集められている部屋を探した。そして、夜目に眩しい室内に集って馬鹿騒ぎする大学生たちを全員殺してきたのだ。

 教室で覚せい剤を使用していた生徒たちは、その場で皆殺しだった。半狂乱になって暴れ始める若者が現れても、雪弥は躊躇しなかった。

 身体能力が上がり始めた人間については、力に自惚れた自信と攻撃性を肉体ごと叩き潰した。出だしで数発の銃弾を使用していたが、隠しナイフもコート内側に並んだままだった。ほとんどの学生を、彼は自身の手で殺した。

 三十六名か、と、雪弥は殺した学生の数を口にした。

 たった数分の出来事である。それでも、彼の呼吸は少しも乱れてはいなかった。

 殺戮を終えた直後に彼が考えていたことは、屋上へと辿り着いた暁也と修一には、広がった血溜まりの熱で死体の様子がぼやかせてくれているだろうか、といった事だった。


 先程手を洗っているとき、暁也から屋上へついたとの無線が入って『こっちの校舎にいっぱい入ってきてる』と連絡を受け、雪弥は今、その足で高等部校舎へと向かっていた。


 手にべっとりとついた血は水道で洗われていたが、スーツ奥にある白シャツには、まだ乾いていない返り血が染み付いていた。

 研ぎ澄まされた五感で、高等部校舎に人の気配が集まるのは感じていた。連絡を受けても驚きはなかったのだが、続いて少年組の声が聞こえたとき、自分が高等部校舎の屋上へ標的を向かわせないようにしなければいけない事を遅れて思い出した。

『なんか、こっちの校舎にいっぱい入ってきてんだけど!』
「落ち着いて。――距離は?」
『一階の裏口ッ』

 屋上との距離はまだまだあったが、心が急くと足取りも自然と早くなった。

 雪弥は手っ取り早く、高等部と隣接する大学校舎一階の職員室の壁を拳で打ち砕いて進んだ。好きにしてくれて構わないと許可をもらっていたので、このような急ぎの用だと思えば、校舎を破壊することにも躊躇を覚えなかった。

「暁也、修一、君たちのいる校舎に入ったよ」

 君たちのところは大丈夫、と耳にはめた小型無線マイクのボタンを押して続けながら、雪弥は両肩に掛かった瓦礫を払った。

 大学の職員室と並んでいたらしい保健室の破壊具合を今一度眺め、ちょっと冷静になって考えてみたところで、これ以上壊さないようにしようと心に決めて歩き出す。

『な、なぁ雪弥? 俺、修一だけど…………お前さ、今どっからうちの校舎に入――』
「標的は僕の位置からどのあたりかな」

 雪弥は、さりげなく話しを遮って保健室から出た。がらんとした職員室前を機敏な足取りで通過する。

『え、ああっと、そこから一年の教室沿いに三に――三つが一番近い!』
「了解」

 修一があえて「三人」ではなく「三つ」と数え直したことを、雪弥は何も尋ねなかった。無線機越しに再度「辛かったら見ないでも構わないから、自分たちが危険になったら必ず言うんだよ」と囁いたが、それに関して暁也と修一から応答はなかった。
 一学年の教室沿いは、灯り一つなく整然としていた。作りは三学年のフロアと全く同じである。瞳孔が収縮した雪弥の碧眼には、陰る廊下や教室が鮮明に見えていた。

 三メートル先にのそりと動く人影を捕え、隠しナイフを手にとって投げ放つ。

 すると、そこにいた男が気付いたように振り返ったが、そのとき男の拾い額にはナイフの先端がすっと入りこんでいた。鋭利なまでに刃筋を尖らせたそれは、柔らかい肉を切り裂くように貫通し、男は後頭部からどっと血飛沫を上げて崩れ落ちた。

 黒いスーツが、膨れ上がった巨大な身体にピッチリと張り付いていた。沈黙した死体は、かなりの大男で、大きな顔にめり込むような細長い黒のサングラスをかけている。

 悲鳴すら上げる暇もなかったのだろう。雪弥は、男の呆気ない絶命を思いながら頬をかいた。

「……ちょっと強かったかな」

 頭の中にとどめるつもりだったのに、と呟かれる独り言が廊下に広がった。

 特殊機関が用意する刃物は、すべて肉も切断するほど鋭利になっている。それでも、持ち手には当然のように刃がついていないので、どんなエージェントが投げても柄が頭蓋骨を砕いて貫通することはなかった。

 指で弾いた場合でも、雪弥は時速百キロを上回ってしまうので、木の枝や鉛筆、シャーペンであろうと人体を貫通させてしまうのである。


 雪弥が男の死体を通り過ぎようとしたとき、二つ目の教室の窓ガラスが内側から砕け散った。


 白衣が宙を待って廊下へと躍り出る。長く細い手足が廊下に着地すると、その顔が動いて、暗視スコープのような機器が埋め込まれた目が雪弥の方を向いた。男は決色の悪い顔に笑みを浮かべ、白衣が翻る間もなく両手にメスを構えて地面を蹴る。

「おいおい、いちいち派手に壊すなよ」

 つか、なんで医療道具を武器にするんだよ、と続けながら、雪弥は鋭利なメス先を避けた。突っ込んできた男と間合いを詰めると、その勢いを殺す事なく、男の折れるほど細い腹部に素早く左手を伸ばした。

 ぐしゃり、と音が上がって男の身体が激しい痙攣を起こした。

 からん、と床に乾いた音を上げてメスが転がり落ちる。男の背中に舞い降りた白衣の中央が赤く染まり、彼の腹部を貫通した雪弥の手が白衣の裾に触れた。

「隙がありすぎだ」

 雪弥は、無造作に男の腹部から左手を引き抜いた。男の身体が崩れ落ちるのも構わず、前方を見据えたまま鋭く尖った爪先についた血肉を振り払う。

 その直後、ふわりと地面に吸い込まれていく白衣の後ろから、突然突き出た頭部ほどある巨大な拳を「見えてるよ」と右掌で受け止めた。それは白衣の男と同種ではなく、先程見たブラックスーツの大男と同じ姿をしていた。

 サングラスを掛けたその屈強な顔は、先程の大男と同じように眉一つ動かなかった。雪弥は受け止めた男の拳を砕いたが、その大男がまるで反応しない様子を見て「なるほど」と察した。


「白衣にしろスーツのやつにしろ、どちらも人体改造済みってわけか」