「ヘロインはまだ異物混入のされていない純白純正で、国内でそれだけの量が一か所に保管されているのも初めての事だ。自分の領地の異変に気付いて痕跡を辿った先を見て、尾崎はさぞかし驚いただろうな。理事の立場としてどうしたらいいのか分からないと、あいつらしかぬ困った声色だった。私も、それを聞いて驚いた側だが」
雪弥の言葉を無視して、ナンバー1はシガーライターで葉巻に火をつけ、つらつらと話しを続ける。
「あれだけのヘロインを持ち込めるとなると、東京の犯罪組織とは他にも、別の大きなグループがいそうだ。現在中国で大量のヘロインが広まっている事もあり、国外からの密輸業者は中国経由だと見て間違いない」
とはいえ、――と彼はそこで葉巻の煙を口の中に転がし、それを吐き出してからしばし思案してこう言った。
「小さい組織には、やはりそのような手配も用意もまず出来ん。裏にどんなグループが付いているのかは未知数だが、いまのところ、東京の奴らがうまい事その組織をそそのかして手引きしていると推測される。東京で起こっている例の薬物事件と繋がっている可能性が高いせいで、尾崎の要望に早急に対処する事も出来ん状況だ」
ナンバー1は、そこで射抜くような眼孔を雪弥へと向けた。
「東京の方では私が直々に動いているが、その学園に潜入し、情報収集を行いながら動いてくれるエージェントが欲しい。今回はいろいろと腑に落ちない点が多すぎてな、早急に事件の全容を把握したいのだ。そして、大本を叩く時そこも一掃する。国に害がある危険性が浮き彫りになった場合は、違法薬物といえど、うちのやり方で全て消すつもりだ。とにかく、情報が欲しい」
威厳ある重々しい決定指示の後、室内に沈黙が降りた。
リザが近くで静かに控える中、雪弥は、しばし彼の目を見つめ返していた。彼は緊張するわけでもなく、思案するような間を置いて口を開く。
「なるほどね、理事や校長としてその尾崎さんという人は動けない。いや、これからも尾崎理事、尾崎校長として居続けるためにも動いちゃいけないわけですね。それで、手っとり早くあなたに依頼を投げたわけですか」
言って、雪弥は溜息をついた。
その向かいでは椅子に身を沈めたナンバー1が、平然と葉巻の煙をくゆらせている。東京で大きな事件に携わっているとは思えないほど、彼はいつもと変わらぬ様子に戻っていた。
「うん、あなたが言いたい事はよく分かりますよ。でも、これくらい他のエージェントにだって出来ます。僕がやる必要性を全く感じない。というか、僕には出来ませんよ。はっきり言って無理です、高校生なんて。学生時代から生徒っぽくないって嫌われていたのに、大人になって潜入するとか、更に無理があります」
すると、ナンバー1が葉巻の紫煙を眺めながら、なんでもないようにこう言った。
「自分より頭が良い生徒を、好きになれる教師は少ないだろう。エージェントも同じようなものだ。しかし、我々はその嫉妬と嫌悪感を力で抑えつければいいだけの話だがな」
「恐怖政治のようですよね、まったく……」
雪弥がぎこちなく視線をそらすと、ナンバー1は腹に響くような声で笑って、ニヤリと凶暴に細めた目で彼を見た。
「最初は批判の意見が殺到したお前でも、すぐにナンバー4としてなじんだだろう」
「初めて顔を合わせる人とは、何度もそれを繰り返しましたけどね……しかも、年々出回っている噂に変な箔がついているみたいで、なじんできてからはよそよそしくされるし」
雪弥は遠い目をした。他のエージェントたちと一緒に仕事をしない事が多く、ほとんど単独行動任務なだけに、いざ下のエージェントたちの指揮を任されると決まって二つのパターンに別れた。
まるで雪弥の背後にナンバー1が立っているかのような、よそよそしい態度を取る方がほとんどだ。残りの少数は「本当にあなたがナンバー4ですか」と疑うような眼差しを向け、しばらくは雪弥がエージェントである事すら信じない。前者よりも性質が悪いのは、雪弥本人が主張してもなかなか受け入れてもらえない所にある。
ぎしっと椅子が軋む音がして、雪弥はナンバー1へ視線を戻した。
彼の上司はリザが控える側で、肉食獣のような気迫を漂わせた眼孔を細め、くわえた葉巻を今にも噛み潰さん顔をしていた。
「東京でマークしている例の金融会社に、うちのエージェントが潜入している。近々、そいつらとその学園で大きな取引があるという情報だけは掴んだ。お前はこの学園に潜入し、私の指示があるまで情報をかき集めろ。私は早急に事の全容を調べる。情報課に書類があるから、目を通しておけ」
「……はいはい」
自分に拒否権がないと知って、雪弥は降参のポーズを取って諦め気味に答えた。
複数で潜入すると怪しまれるので、どうしても単独による行動がこの仕事には最適だった。他の上位ナンバーでは歳が上過ぎるので、ナンバー1の指示を受けて迅速に現場の指揮に回れる雪弥が適任である。
渋々リザから残りの書類を受け取った雪弥に、ナンバー1が葉巻を口から離しながら言った。
「尾崎と話して、入学手続きはもう済ませてある。今回高等部に入れるのは、まだ覚せい剤が出回っていないらしいという尾崎からの意見もあって、歯止めのためにも捜査員を配置する事にした。高校側にも少なからず協力者がいて、使用者もいるだろうとは推測されるが――尾崎としては、高校生という事も胸が痛いのだろうな。これ以上覚せい剤などが出回らないように見て欲しい、という気持ちも感じた」
教育者としてある尾崎の事を思うように、ナンバー1が声色をやや和らげる。
「現場にお前を知る人間はいないが、念には念を入れて電車などの交通機関を使え。制服と必要なものは後で全て送らせる。新しく発行しておいた偽造身分の確認も怠るなよ。お前の希望通り名は雪弥のままにしてあるが、名字だけは違うからな」
「……はぁ、了解。この仕事終わったら、ちゃんと休みをくださいよ」
唇を尖らせて言い、溜息とともに歩き出した雪弥の背中を、ナンバー1とリザが無言で見送った。
成人男性にしては、やはりどこか幼さの残る背中だ。一見すると平均的な厚みがあるような体躯が中世的に見えてしまうのは、見た目よりも華奢で細いせいだろう。その後ろ姿には、彼が国家特殊機動部隊総本部一の殺人鬼である面影はない。
出会ってから今年で八年目になる。ナンバー1とリザは、数年前から時を止めてしまったような青年を見つめていた。
静かにオフィスを出ていった雪弥を見届けたあと、しばらく二人の視線は閉ざされた扉から動かなかった。
ナンバー1のもとから出た雪弥は、すぐ地下ニ階にある情報課に行き、用意されていた分厚いファイルを受け取って閲覧室で目を通した。
本部は二十四時間フル稼働しているので照明灯も変化はなく、窓が一つもない冷たい地下は時間の流れすら分からない。しばらくファイルをチェックした後、ようやく一息ついたタイミングで何気なく腕時計を見て、彼は驚いた。
もう夜の九時を過ぎていた。
手に収まらないファイルの分厚さは圧倒的で、雪弥は「無駄にあり過ぎだろ」と愚痴りながら似たような内容のページをめくっていった。速読する事さえ面倒になり、必要がなさそうな文章は読まずにぼんやり見やるだけで飛ばし、最後の一ページだけゆっくりと目で読んでファイルを閉じた。
ふうっと息をつき、座ったまま凝った身体をほぐすように背伸びしたところで、雪弥は、ふと動きを止めた。
「……電話するの忘れてた…………」
思い出して、雪弥は係りの者にファイルを返すと、エレベーターで屋上へと上がった。休みがあればすぐに問題は解決しているだろうに、と思いながら屋上の扉を押し開けて外へ出る。
少し湿った涼しい夜風が吹きこんで、雪弥は反射的に目を細めた。月明かりで照らし出された屋上は、雪弥にとっては十分な明るさがある。屋上を取り囲むように飛び出ている塀に歩み寄ると、静まり返った駐車場と直立不動している警備員が見えた。
「……御苦労なことで」
柵に身を預けながら呟き、雪弥は携帯電話取り出した。ふと何も食べていない事を思い出し、一階の購買で何か買ってくるべきだったかと口の中で呟く。
話しをすませてから食べようと決めたのは数秒後で、そのとき既に、携帯電話を慣れたように操作して耳に当てていた。
『はい、蒼緋蔵ですが』
凛とした、はっきりと言葉を切る女性の声が上がった。
ずいぶん久しぶりに聞く声だったが、それが亜希子のものだと雪弥はすぐ分かった。音楽教師をしていただけあって、亜希子は容姿もさながらに美しい声をしているのだ。
「亜紀子さん? 僕、雪弥ですけど――父さんはいますか?」
『まぁ、雪弥君なの! すごく久しぶりねぇ、元気?』
「はい、すごく元気。父さんお願いします」
『うふふ、棒読みねぇ。相変わらず目的の用件以外は、あまり興味がないって感じかしら。いいわ、電話を繋げるから、ちょっと待っていてちょうだい』
ぷつっと通信が途切れ、代わりに電子音楽が流れた。昔から変わる事のない「エーデルワイス」の曲である。
それは亜希子と紗奈恵が気に入っていた曲で、雪弥たちが訪れる度に蒼緋蔵家ではその曲が流れた。亜希子がピアノを伴奏しながら、紗奈恵と共に優しく歌い上げるそれは、耳にした者がしばらく動きを止めるほど心地よいものだったのを覚えている。
思い出しながら、雪弥は駐車場に一台の高級車が入って来るのを意味もなく眺めた。重い鉄の門が機械制御によって滑らかに動き、元の位置に戻って行く。静寂を震わせる耳元の曲はワンフレーズが終わると、初めの演奏から繰り返された。
見慣れた都心の明かりは、すっかり夜空の星の輝きを消してしまっていた。強く主張し続ける月に小さな光たちが、遠慮して輝きを止めているようだ。その月明かりさえ打ち消す人工のきらめきに、雪弥はエージェントが今夜も仕事をしているのだろうな、と静かに思った。
そのとき、不意に曲が途切れた。
『私だ』
「あ、父さん? 僕、雪弥ですけど」
『待っていたぞ。もう少し早めに掛けられなかったのか?』
「ごめん、その、ちょっと忙しかったもんだから……」
他の言い訳が思いつかず、雪弥は思わず苦笑した。
無愛想な口調は蒼緋蔵家当主の特徴である。言葉は上からでぶっきらぼうな印象があるが、その声色はどこか柔らかい。
電話から聞こえる父の声は、少し疲れているようだった。仕事疲れや、次期当主とその周りの配役選出の気疲れに加え、紗奈恵の子供である自分を心配している事を雪弥は知っていた。だから強くそれを感じる時、毎回こう言わずにはいられなかった。
「父さん、僕は大丈夫だから、心配しないで」
その言葉が、何の役にも立たない事は理解していた。心配しないでと言っても、雪弥の仕事内容を薄々勘付いている彼は心配してしまうのだ。一人の息子として心配してもらえる事は嬉しかったが、それで彼の寿命が縮まってしまうような心労は、出来れば感じて欲しくないとも思っていた。
蒼緋蔵家当主は、約二十近くも年が離れている妻と結婚し、今では六十歳を過ぎている。兄弟がなく従兄弟に五十代、四十代の男が数人いたが本家には招かれていなかった。
彼らも他の蒼緋蔵家親族と同様、雪弥や紗奈恵を強く妬んでいたが、それでも身の程知らずと知って権力を握ろうとする事はしなかった。蒼緋蔵では血筋によるものがあるらしく、全員が若い時期当主を押している状況だった。
性悪く業が深い人間が蒼緋蔵分家には多かったが、彼らは揃って雪弥の兄を高く評価した。雪弥たち世代の従兄弟では、一番若い大人でも三十歳を過ぎているのだが、誰もが自分よりも若い雪弥の兄に忠誠を尽くしていた。切れすぎる頭に屈服したのかと、雪弥は首を傾げるばかりである。
『雪弥、蒼慶のことなんだが……』
父の口から長男の名が出て、雪弥は前回父が語っていた、蒼緋蔵家の次期役職選を思い起こした。まず脳裏に浮かんだのは、次期当主が本物の当主となる日が決まったという可能性である。
蒼緋蔵家の長男は、名を蒼慶といった。東洋人にしてはすらっとした長身に、はっきりとした顔立ちをした男である。冷静沈着で世の策略家にも劣らない頭脳を持っており、名に「蒼」という家名の一部をもらい、幼少期から次期当主としての教育を受けていた。
黙って座っていると、物語に出てくる西洋貴族や王子を思わせる男だ。顔立ちと堂々とした態度、洗練された物腰や頭脳に女たちはときめいたが、彼が背負う圧倒的な雰囲気に軽々しく声を掛ける者はいなかった。
蒼慶は幼くして、自分が動かずとも部下に指示して物事を運ぶことを知っていた。彼は生まれながらにして、天性の策略家である。彼が引き継いだ当主の無愛想は更に箔が掛かり、その上亜希子の強い気性まで備わっているものだから大変だった。
次期当主として日々着々と権力を固めつつある蒼慶は、今年二十八歳を迎える前に最年少議員として国会に進出していた。蒼緋蔵家親族は大絶賛で応援したが、そこには母と父の反対意見を彼自身が押し通して「反論意見なし」とした困った話もある。
自分の意見を押し通す蒼慶が、部下や親族たち全員を驚かせた事が大学生時代にもあった。大学在学中に突然スポーツに励み出し、勉強の合間をぬって身体をこれまで以上に鍛え始めたのである。
蒼緋蔵家の人間はもともと一通りの護身術や武道を学ぶことを義務づけられていたが、スポーツは別物だった。尋ねた大人たちに「これからの体力と精神力を鍛えるためだ」と宣言した話は有名で、実際、その話を渡米したばかりの現地で聞いた雪弥は「あの人、一体何やってるんだ?」と驚いた。運動派ではなかった長男が、義務付けられてもいない事で自ら動いて汗を流す姿など、想像もつかなかったからである。
蒼慶は、父のクローンのような男でもあった。常に眉間に皺が寄った仏頂面に、有無を言わせない圧倒的な威厳と威圧感を漂わせていた。雪弥があの家から距離を置き始めた頃から、それが一層ひどくなったと嘆くのは母である亜希子ばかりではない。
時々彼から電話が来るたび、雪弥は厳しい口調で刺々しい言葉を浴びせられていた。蒼慶はいつも不機嫌そうな声色で一方的に話しをすると、雪弥の言葉も聞かずに勝手に電話を切るのだ。
嫌われているのかと考えるが、思い当る節もなく雪弥は悩んでいた。蒼慶は幼い頃から仏頂面ではあったが、彼らと過ごした短い時間の中で、嫌われるようなことをした覚えが一つもなかったのだ。
「父さん、蒼慶兄さんがどうかしたの?」
雪弥が咳払いのあとに尋ねると、父がひどく重々しそうに言葉を返した。
『…………蒼慶が来月中に、私のあとを継ぐ事に決まった』
「そっか、良かったじゃない。無事に決まったんだね」
雪弥は、心の底からほっとした。蒼慶が自分を嫌いに思っているのは、きっと跡取り問題があったからだろうと考えていたからだ。父もこの件で忙しく動いていたので、ようやく肩の荷が下りるだろうとも思った。
喜ぶ雪弥とは正反対で、父の声は重く沈んでいた。
『秘書の席には、緋菜が就くことになった。結婚するまではうちが持っている会社でも、十分に社会経験が詰めるだろうと蒼慶が意見してな』
「へぇ、兄さんが緋菜を?」
『大学を出て大手企業の秘書をやっているが、見合い話の多さに亜希子が心配してな。蒼慶も緋菜の器量の良さを認めていて、外で秘書をさせるより自分の元にいるほうが能力も伸びるだろうといっている。私たちも、十分にその役職が務まるだろうと判断して推薦した』
「うん、そうだね。緋菜はしっかりした良い子だから」
雪弥は、妹が蒼緋蔵家の役職に就く驚きよりも、正直な感想を述べて肯いた。
家名の「緋」の文字を与えられた一つ年下の妹、緋菜は小、中、高、大学をトップ成績で卒業した、兄に継ぐ優秀な頭脳を持った和風美人だった。
雪弥は成人式以来彼女に会っていなかったが、美しい黒髪を背中に流したその姿を容易に想像できた。「着物が良く似合うわね」と紗奈恵に言われてから、緋菜は癖のないロングヘアスタイルを変えた事がなかったのである。
今年彼女が大学を卒業した際は、蒼緋蔵家や別の財閥が会場に入っていたので、雪弥は祝いの言葉をつけた花束とプレゼントを送っただけで、顔を出す事はしなかった。毎年家族の誕生日やお祝い事には、欠かさず花やプレゼントを送っている。
最後に家族と顔を合わせたのは、二年前に仕事の途中抜け出して会いに行った、緋菜の成人式会場だ。
大手企業で緋菜は社長秘書をして三か月も経っていないが、雪弥に不安はなかった。厳しい蒼慶であっても、実の妹には優しい事を知っていたからである。亜希子や父の次に緋菜を良く知っている蒼慶は、うまく彼女の良さを伸ばせるだろうと雪弥は思った。
「ほんと良かったよ。あとは補佐をする副当主と……副当主って、確か蒼緋蔵グループの副社長の役職だったよね? で、各支店の代表と、それから兄さんの執事――はもう決まってたね、強烈な人が…………で、ええっと『選定』と『経理』と『記録』と……よく覚えてないけど、そういう役職を埋めるだけだね」
委員会とかいろいろと面倒なことも多いみたいだけど、と続けて雪弥は肩をすくめた。
「僕は蒼緋蔵のことはよく知らないけど、あとは兄さんが決めるんだから問題はないでしょう。父さんも気楽に構えていいと思うよ。副業でやっている小説家の方にさ、これからは力を入れてもいいんじゃないかな。ほら、ゆっくりそうやって暮らしたいって言っていたでしょう? 地下に大きな書斎室と図書室まで作ってあるんだしさ」
『確かにな』
鼻で笑うような口調だったが、強張った父の声色から力が抜けたような気がした。ほっと安堵の息をつくと、不思議な事にはっきりとした空腹を感じた。
雪弥は、柵に背を持たれて夜空を見上げた。話を終わらせようと言葉を切り出す。
「就任式とかやるんだったら、日取りが決まり次第連絡してよ。僕は立場上正式に参加することは出来ないけど、当日に間に合うように、匿名でメッセージを添えて花くらいは送るから」
『雪弥、それが少しまずいことになっていてな……』
緊張を含んだように、父の声色が低く沈んだ。一体何が父さんを困らせているんだろう、と雪弥は小首を傾げて尋ねる。
「経営はすごく順調だよね? 役職だって、いろいろとすごい人がいるって前に聞いたし……他に何かあったの?」
『実はな、蒼慶が右腕となる役職に、お前を置くといって聞かんのだよ……』
父の言葉を理解するのに、数十秒を要した。
一瞬止まり掛けた思考をフル回転させ、雪弥は事態を飲み込み絶句した。右腕の座とは、つまり当主の補佐役であり、または会社の副社長の地位なのである。
「父さん、ちょっと待って、僕を『当主の右腕』に? それってつまり副当主――というか、兄さんどうしちゃったのさ? そんなんじゃ反対されて、そこで話が止まって他の役職なんか決まるわけがないでしょう!」
『それがな、他の者も全員一致でそれに賛成で――』
「はっ? 皆兄さんに口で負けたってこと?」
雪弥は柵に頭をもたれたまま、左手で顔を覆った。
愛人の子供をそばに置くなんて、普通に考えても危険である。特に、蒼緋蔵家のような歴史を持つ大きな家にとってはそうだ。雪弥にその気がなくとも、周りは黙っていない。
そのはずなのに、今回は雪弥たちを毛嫌いしていた者たちもそれに賛成しているというのだ。もはや驚愕である。一体、本家の方で何が起こっているのだろうか?
雪弥は鈍痛と眩暈を覚えた。嫌な憶測が次々に脳裏を横切り、思わず「嘘だろ」とぼやく。その言葉が聞こえた父が、『まずは話を聞きなさい』といって続けた。
『雪弥、事情は少し複雑なのだ。皆、お前がその席に就くべきだろうという意見も上がりだして――』
「冗談じゃない、僕は兄さんたちの足を引っ張る存在になるなんて、真っ平ごめんだ!」
雪弥は本心からそう叫び、思わず父の言葉を遮った。
母が倒れてしばらく過ぎたあの日、自分は断腸の想いで形上彼らとの縁を切った。家族でありながら自由に会いにも行けず、気を遣って会いに行く事を遠慮していたら、すっかり足も遠のいてしまった。
それに面倒事に巻き込まれるのは嫌だった。複雑でねちねちとした蒼緋蔵のど真ん中は、彼にとって一番避けたい場所だったのだ。
もしかしたら、蒼緋蔵家の異分子を完全に叩くため、蒼緋蔵家親族たちは自分を呼ぼうとしているのではないか?
叫んだあと、雪弥の脳裏に嫌な憶測ばかりが浮かんだ。
蒼慶のことを彼らはとても慕っている。蒼慶の次に、当主の座に近い雪弥が実際副当主の役職に就いたとき、「ほら見ろ、愛人の子に蒼緋蔵家の役職など務まるはずがないのだ」と証明し罵倒することが目的ではないのか。
考えたらきりがなかった。蒼緋蔵家親族たちと同じように、雪弥も彼らのことが嫌いだった。高価なスーツと宝石で身を飾り、地位と権力に酔いしれながら一般人を蔑むように見やる彼らに、反吐が出そうなほど嫌悪感を抱いていた。
「とにかく、僕は絶対に嫌だからね! 他に相応しい人がたくさんいるでしょう? 分家に、議員とか弁護士とかいるし」
『しかしな、雪弥。これは本当に複雑で――』
雪弥は、そんな父の台詞を遮った。
「父さん、僕は今の仕事を辞める気はないよ。こっちの方が僕には合っているし、副社長とか副当主とか柄じゃないことは出来ない。そっちに行っても、きっといい事は何も起こらないよ。僕が近くにいたら、父さんたちに迷惑がいってしまうだろうし……というか、時々電話してくる兄さんも、一方的にストレスぶちまけてくるみたいな感じで疲れるんだけど」
そう思い出して、雪弥は夜空を見上げた。彼の黒いコンタクトレンズが入った瞳が、淡く水色に光り瞳孔が開く。
「ねぇ父さん、買収した衛星で時々僕のこと覗くの、やめてって兄さんに伝えてくれない? これ、絶対法に触れると思うんだよね。プライベートの侵害ってやつで」
『雪弥、いいから聞きなさい。蒼緋蔵家は血筋が――』
「はいはい。でも、僕には関係ないよ。蒼緋蔵家の籍にも入っていない身だし、とにかく、父さんは兄さんの暴走を止めてあげて。うん、きっと父さん以外に止められる人はいないと思う」
呼び止める声も聞かず、雪弥は通話を切った。
携帯電話を胸ポケットにしまい、深い溜息と共に肩を落とす。無茶ぶりを請求された新しい仕事と、突拍子もなく上がった家の問題には頭が痛くなった。
休みがあれば、すっきり片付けられると思うんだけど……と、ここ最近休みもくれない上司を思い浮かべた。もう一度深く息をついて頭上を仰ぎ、誰に言うわけでもなく吐息交じりに言葉を吐き出す。
「ぼく、絶縁しているんだけどなぁ、なんで分家の人も今更……。というか、高校生になりきるなんて、まず無理だよ」
煙草やってなくてよかった、と雪弥は力なく続けた。酒は好きだが、行った先の冷蔵庫に缶ビールを詰め込んでおけば問題はない。あとは仕事の間、居酒屋やBARを我慢すればいいだけである。
「あーあ、何日もつことやら」
囁く声が、静まり返った夜に溶けて消えていった。
薄暗い客間に、高級スーツを身に付けた六人の男たちが、アンティークの革ソファーに腰かけていた。換気が行き渡った部屋は、静かに立ち上る葉巻の煙も気にならない。
ランプのような弱々しい光ばかりが灯った室内で、男たちがそれぞれ押し黙ったまま見つめ合っていた。
「――蒼緋蔵家の長男が、予想通り当主の席に就く事になったな」
長い沈黙を破ったのは、急かすような早い口調の声だった。狭まった喉から出すような高く掠れた声色は、静寂の中いびつに響き渡る。
発言者の隣にいた小太りの男が、グラスに入った赤ワインを持ち上げた。金色に光る歯を見せながら不敵な笑みを浮かべ、バイオリンの調子外れな音に似た声を上げる。
「家名の字をあてがわれた男、だったか」
「娘のほうは、とても美しい女に育ったと聞いておるぞ」
「どんな美女なのか、拝んでみたいものだよ」
最後の笑いを含んだ心地よいアルトの声に対して、沈黙を破った男が気の短さを露出するようにテーブルに手を置いた。
「蒼緋蔵家にある番犬の役職が、今世代に正式に復活するかもしれないと小耳に挟んだ。番犬といえば、あの方が懸念しておられた存在だろう。蒼緋蔵家先代当主にもいたと聞いたが、あれは『蒼緋蔵家の番犬』ではなくただの副当主だったらしい――……あの方がようやく動き出せている今のタイミングで、あの一族が『番犬』に対する動きに出ているのが気掛かりだ」
何か聞いているか、と問う苛立ちを含んだその声に、室内がまた静寂に包まれた。
小太りの男が、飛び出た唇の奥に金の歯をしまいながら、喋り方が異様に早い隣の人間を眺めた。面白くもなさそうに視線をそらすとワインを口にし、味も分からぬ癖に美味いという顔をしてそれをテーブルの上に戻す。風船のように膨らみ上がった彼の短い指には、銀色の結婚指輪と巨大な翡翠の指輪がはめられていた。
「まぁ、少し落ち着きたまえ」
向かい合うソファを正面に眺める、質の違う革椅子に腰かけた男が場を制した。
それは四十代半ばを越えた長身の男であった。顎が突き出たような面長の顔は堀が深く、少しつり上がった細い瞳は奥二重で凛々しい。目の輝きは無垢な子供のそれにも近いものがあったが、威圧感を漂わせた瞳は冷たい鋭利さを秘めていた。
静かなその声色に含まれた気迫に気圧され、男はテーブルに置いた手を反射的に下げて「軽率だったな」と早口に言った。灰皿に乗せていた葉巻を急くように口にくわえて、ニ、三度吹かせる。
「榎林さんは、その件についてあのお方から何か聞いておるのか」
整えられた白髪と、白い髭をたくわえた痩せ細った男が、そう言って垂れた瞳を持ち上げた。
肉が削げ落ちた頬の上が膨れ、不健康そうなほど青白い肌をした老人だった。目尻にかかるようにして大きなホクロがあり、濁った双眼にかかる長い白眉は問うように上がっている。
「小耳に挟んだと報告したが、そのときは何もおっしゃらなかった」
短い一呼吸の間に素早く言葉を並べ、榎林は落ち着かないように葉巻を二度口にして短く吐き出した。薄くなった頭部の髪が、浮いた脂汗に濡れて額に張り付いている。
今まで口を閉じていた大男が、テーブルに固定していた細い瞳を上げた。薄い唇に対して口が大きく、垂れ下がった小さな二つの眼がある小麦色の顔には生気がない。
「俺は『あのお方』に会った事がないんだが、時々蒼緋蔵家の名は耳にする。あなたたちがいう、その一族の番犬とは一体なんだ?」
口の中でこもる、抑揚のない低い呟きを発したその男は、口も顔も大きく、存在感のある体格も目を引いた。
二メートルはあろうその背丈が、同じように座っていながら一同の頭一つ分出ているのを見やった榎林が「朴馬(ほくば)さんはまだ来て浅かったな」といって口から葉巻を離す。
「蒼緋蔵家ではたびたび、副当主の役職名がそう変わるときがあるらしい。もともと蒼緋蔵は戦闘に優れた一族で、当主の次に優秀な頭脳と一番の戦闘能力を持った者がなるようだが、あの方の話を聞いていると別に理由があるようだ。――というのも、もともとも蒼緋蔵家もまた特殊筋の家系で、あのお方が三大大家の中でも一番気に掛けておられるのが『番犬』というキーワードなのだ」
「特殊筋は、現代にもひっそりと息づいているからねぇ」
歌うようなアルトで言い、六人の中で一番若作りの男が優雅に足を組み変えた。ウェーブの入った栗色の長髪は小奇麗にセットされ、微笑み一つで女性を虜にしそうなほど美男である。
「特殊筋はいろいろとあるけれど、朴馬さんも、夜蜘羅(よるくら)さんのそれを見た事があるだろう? まぁ、あのお方も僕もその血族だけど、それぞれが全く違うんだよね。簡単に見せてあげられるようなものじゃないから、機会があれば朴馬さんも見られると思うよ。僕たちも計画以外の詳しい事は聞かされていないけど、蒼緋蔵家の番犬とやらがもし、あのお方の計画を脅かすような力を持った特殊筋だったら、どうしようかっていう話さ」
夜蜘羅という名前が出て、話す男を除いた一同の視線が移動した。
双方の長椅子に挟まれた位置に席を構えていた男、――夜蜘羅が鋭い眼光に面白みを含んだ笑みを浮かべた。
「門舞君のいう通りだ。計画に差し支えなければ、特にこちらが動く必要もない。数少ない特殊筋の人間だし、才能がありそうなら引き抜こうと私は考えているんだけどね」
「蒼緋蔵家は、表十三家に仕えていた三大大家の一つですぞ。そんなことは不可能ではありませんか」
恐怖しながらも鋭い声を上げた老人に、夜蜘羅が「頭が硬すぎるよ、尾野坂君。それは大昔の話だろう」と楽しそうに言いながらワイングラスを持ち上げた。細身の老人、尾野坂は硬い表情のままテーブルへと視線を戻す。
しばらく会話はなかった。小野坂の隣で、門舞が背伸びを一つしてソファに背をもたれた。その向かいにいた短身の榎林が、そわそわしたように灰皿に短くなった葉巻を置く。長身の朴馬の間に座っていた男は榎林と全く同じ背丈にも関わらず、手足の長い門舞の仕草を意識したように足を組んだ。