蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

 化け物がアスファルトを砕くほどの力で、ミサイルのようにこちらに突っ込んできた。そのコンマ一秒遅れでレンガ壁を蹴り上げて移動した雪弥は、異形の男が標的を見失ったように宙で動きを止めたのを見て、素早くその背後に回って思い切り足を振り回した。

 しかし、殺すつもりで化け物の背骨に強靭な蹴りを叩きこんだところで、雪弥は露骨に顔を歪めて舌打ちした。真っ二つに折ってやろうとした化け物の背中は、まるで何重もの骨と筋肉に覆われているように頑丈だったのだ。

「無駄に頑丈みたいだなッ」

 雪弥は小さく呻き、すかさず空中で瞬時に体制を変えて、その背中に足を突き落として第二派を放った。地面に叩きつけるべく、装甲車を叩き凹ませるほどの力を背骨に受けた化け物が、筋肉と骨を軋ませて地面へと引き寄せられる。

 しかし、その直後の刹那、化け物の首が百八十度反転してこちらを見た。

 一メートルの距離で目が合った雪弥が「げっ」と、気味の悪さに顔を歪めた瞬間、黒い左腕が軟体動物のように伸びてこちらに振るわれた。その腕が弾かれるように眼前に迫ったかと思うと、その鋭い爪が明確な殺意で持って襲いかってくる。

「くそッ、なんつーでたらめな身体してんだよ!」

 間一髪で鋭利な凶器から身をかわし、雪弥は悪態を吐いた。

 本気で集中しないとまずい相手だと判断し、ずっと持ったままであった鞄を仕方ないとばかりに放り捨てた。なびいた彼の髪先が、わずかに掠った銀色の鋭利な爪先に切れ、その風圧が耳元で凶暴な音を立てる。

 黒いフィルター越しに碧眼が淡く光り、はっきりと異形の標的を捕えた。そのコンマ数秒の間に雪弥は右手の指を揃えると、降下する化け物を追って共に地面へと向かった。


 化け物の身体が、アスファルトを砕きながら地面へと叩きつけられるのと、その肉体の一部が切断音を上げて宙に投げ出されたのは、ほぼ同時だった。


 砕かれたアスファルトが舞い上がり鈍い地響きが起こる中、数秒遅れで地面に到着した雪弥は、その場でバク転するとベンツの車体上部へ着地した。視線を地面にめり込んだ化け物の身体に縫い付けたまま、肩にかかったネクタイを、左手でブレザーの中に押し込む。

 そのタイミングで、一瞬にして切断されていた異形の右腕が落ちてきた。

 鋭利な爪を地面に突き刺すように着地したその腕の切断面は、まるで高速再生でも始まっているかのように、ゼラチン状の血がぶよぶよと振動していた。少し周りに飛び散った血液らしきものも同様で、液体化しないまま、気味悪く震え続けている。

 蹴った感触は確かに生き物だった。その感触を思い返しながら、雪弥は指先に付着したゼリーのような赤い物質を払い落した。

 痛みを感じていない化け物の様子は、先日レッドドリームで豹変した里久を思い起こさせた。しかし、骨格や筋肉の動きは常識を逸していた、吹き出しかけた血は一瞬で生き物のように切断面に引きこまれたのを見ていたし、飛び散ったゼリー状の血が、続いて固形化するように赤黒い石となるのも異様な光景だった。
「素晴らしい! 自身の爪で相手の腕を切り落とすとはね! まさか君が『爪』を隠しているとは思わなかったよ、実に素晴らしい!」


 速すぎて目で追えなかったよ、と愉快そうな声が聞こえて、雪弥はじろりと足元を見降ろした。車内に座っている夜蜘羅を想像し、気分を害して眉間に皺を作る。

 そのとき、地面に倒れていた化け物が、前触れもなくその上体を起こした。バネのように持ち上がった頭が、ぐるんとこちらを向いたかと思うと、地面に四肢をぐっと屈めて地面を弾くように突っ込んできた。

 風を打つほどの瞬発力に、爆音が発生した。

 化け物は柔らかい身体を捻じるように回転をかけ、車の上の雪弥だけを狙う。

「まだ動けるのかよ!」

 胸の中であらん限りの文句を唱え、雪弥は車体上部に滑り込んできた化け物の左爪を避けて、その巨体を飛び越えた先の地面へと着地した。攻撃態勢を整えるべく、その場で足を止めようとしたのだが――

 車に乗り上げた化け物が、不意に、その状態のまま残った腕を振るった。

 踵を返した瞬間だった雪弥は、反射的に地面を蹴って三メートル後退した。鋭利な爪が地面を裂いて食い込む様子を直視し、唖然としてしまう。

 あれに切られれば、強靭な肉体を持っていてもただではすまないぞと、自身の肉体がバラバラになる想像に顔が引き攣った。

「というか、百八十度ホラーチックに回る首とか、伸びてくる腕とかもナシの方向がいい……」

 思わず本音どころをこぼすと、バネのような両足で地面に着地した化け物が、地面に固定された自身の腕を引き寄せながらこちらを見た。長い身体が左右に揺れる様子は、どちらから切り裂こうかと考えているようにも見える。

 つまり、これは挑発されている。

 そう受け取った瞬間、プチリと堪忍袋の緒が切れた。

 化け物の毛や鼻の突起すらない顔にある赤い三つの目も、気味が悪いというよりは、それすら馬鹿にされているような気さえして思わず拳を作る。なぜか、自分のテリトリーを悠々と侵入されたような、動物的な強い不快感に殺意で頭の中が赤く染まった。

 鋭い殺気を覚えるがまま、雪弥は次の瞬間、激しく地面を蹴り上げていた。心が殺意で満ち、もはやコンタクトレンズでさえ隠せないほど淡く光る碧眼が、車の上にいる化け物をロックオンする。

「バラバラになるのは、お前の方だ」

 冷たい声を上げ、雪弥はコンマ二秒足らずで化け物に迫った。相手が鞭のように素早く身を翻すよりも速く、彼の指先が白銀の線を描いた。

 鈍い切断音を上げて、残っていた化け物の左腕が弾け飛んだ。

 両腕を失った化け物が車上から転がり落ち、軟体でもあるらしい背中と足だけですぐさま体制を整えて、怒り狂うように頭を振って裂け広がる口で咆哮した。こちらに向けられる赤い瞳には、動物的な怒りが宿っていた。
 雪弥は指をバキリと鳴らすと、強靭な脚力で弾丸のように前方へと飛んだ。化け物の足が一つの生物のように伸びてその爪が迫って来たが、躊躇せず突っ込みながらそれを僅かな差で避け、まずは化け物の腹部を普段の遠慮も飛ばして荒々しく蹴り上げる。

 戦車をも破壊する強靭な一撃に、化け物の腹部が大きく凹んで筋肉や内臓の一部が潰れた。強靭な骨が砕かれて、周辺の骨もダメージを受けたように軋む手応えが、蹴り上げた際の足から伝わってきた。

 怪物のような口からゼラチン状の赤い液体を吐き出す標的に対し、雪弥はすぐさま足を組みかえ、休むことなく第二派を放った。

 身構える暇もなかった化け物の巨体が、マンションへと吹き飛ばされて重々しい衝撃音を轟かせた。雪弥はそれを凝視したまま、本能的に止めを刺そうと地面を蹴った。化け物の首を切断するために構えられた右手の爪が、鋭利さと長さを増し――


 サイレンサー付きの銃砲が鼓膜に触れた瞬間、雪弥は反射的に踏みとどまって弾丸を避けていた。咄嗟に痙攣を起こす化け物から距離を取り、安全な位置まで後退したところで、攻撃を受けた場所へ目を走らせる。


 そこには先程の黒ベンツがあり、開いた窓の隙間から小さく覗く銃口が見えた。

「想像以上だ! 実にすばらしい! プレゼントとして殺させてあげたいのは山々だが、彼がいないと『近道』が使えなくてね」

 雪弥はわずかに乱れた呼吸を整え、銃口が隠れた後部座席に向けていた目を冷ややかに細めた。

 すると、ベンツの後部座席の奥から二人の男が言葉もなく現れ、マンションの壁にめり込んでいる化け物の回収を始めた。彼らは顔を隠すようにサングラスをしていたが、緊張するように強張った頬や口許から、化け物が両腕を失い意識を失っているという状況に対して、強く動揺しているような印象も受けた。

「今度、二、三体殺させてあげようか。物足りないだろう?」
「結構です。僕はあくまで平凡なんです。あなた方の都合に巻き込まないでいただきたい」
 雪弥の言葉には、蒼緋蔵家に対する想いも含まれていた。夜蜘羅はそれを聞き流すように「蒼緋蔵家でなければ、すぐにスカウトしたのになぁ」と冷ややかな声で独り言を口にする。

 だって、君は絶対に『こっち寄り』でしょう……と彼はひっそりと呟いた。

 車内の中に消えたその呟きを優れた聴力で拾った雪弥は、「一体なんの事だろうか」と訝って眉間に皺を作った。殺したくて物足りないだろうと、続けて囁く夜蜘羅に対して「そんなわけないでしょう」と露骨に馬鹿なんじゃなかろうかという表情を返す。

 時間もかからず化け物がベンツに運び込まれ、「じゃあ、またね」と夜蜘羅の言葉を合図に、車が走り出した。雪弥は、二度と来るなと思って踵を返し、投げ捨てた鞄を探そうとしたところで、壊れた壁と地面に気付いて「勘弁してくれよ」と頭をかきむしった。

「これは僕のせいじゃないぞ」

 そう誰に言うわけでもなく呟き、落ちていた鞄を拾い上げて足早に学園方面へと歩き出す。

 歩きだして数分も経たずに、後ろから「なんだこれ!」という悲鳴が聞こえてきた。次々に人の気配が増え、朝の出勤や通学時間なので当然だろうなぁと考えた際、ふと、そういえば先程はまるで無人地帯だったなと不思議に思った。

 あれほど派手に暴れていたら、普通はマンションやその周辺住民がすぐに気付くはずである。それなのに、あの間、誰一人として顔を覗かせたり集まってくる事もなかったのだ。

「うわッ、事故でもあったのか?」
「昨日の夜、誰かがぶつけたんじゃないか?」
「朝ゴミを出したときはなかったわよ!」

 マンションの前に集まる人間が増える光景をちらりと見やって、雪弥は「ったく、後始末くらいしていけよな」と溜息交じりに呟いた。心身ともにひどく疲れ、朝早々からげんなりと肩が落ちた。

 やはり、蒼緋蔵家と関わるとろくなことがない。

 頼むから放っておいてくれと、雪弥は覚えた眩暈に歩調を緩めた。

 学園へと向かいながら、蒼緋蔵家から戸籍を含む全てを外すことを本気で考えてしまう。二度とこういうことを起こさないためにも、蒼緋蔵家から徹底して距離を置おいてもらうべく、この任務を終わらせて休みを取ろう、と彼は改めて決意を固めたのだった。
 藤村は事務所の三階オフィスにいた。爽快な青空を小窓から眺めつつ、先程から狭い室内を歩き回っている。

 赤と金が交差するワイシャツと、サイズの大きなグレーのスーツは、彼の勝負服であった。この日のために、事務所に隠してあった貯金で購入したのだ。

 常々メンバーから「なんでお前女じゃないんだ」といわれるほど家事が身についている平圓が、丁寧にアイロンを掛け直して準備したこのスーツからは、良いコロンの香りがする。おかげで動いているとその匂いが鼻先を掠め、緊張感も少しだけ和らぐのだ。

「藤村さん、本当に送迎だけでいいんすか」

 オフィスへ顔を出した若手メンバー、スキンヘッドの掛須(かけす)が開口一番に尋ねた。車やバイク、機器類をいじることが専門の男である。詐欺事件では携帯電話やパソコンを駆使し、低予算で環境を整えてメンバーに貢献していた。

 若い奴に心配されるのはプライドが許さない。藤村は、そこでようやく椅子に腰かけ、余裕たっぷりに「ああ、送迎だけでいい」と答えた。

「これまで、俺たちがあのクソ煩ぇ爺さんにパシられてたんだ。今回は尾賀さんたちに任せて、俺らは高みの見物だ」
「じゃあ、俺たち全員ここで待機って、本当の話だったんすねぇ……」
「帰ってきたら、大金をゲットしたお祝いすっぞ。シマと、あいつが連れてる理香って女も呼んでおけ」

 藤村は、殺風景な事務机に足を乗せて組んだ。「馬鹿な女だが、シマが気に入ってるからな」と言って腕時計へと目をやる。

 時刻は、午前十時を過ぎたところだった。

 掛須は毛のない眉を潜め、「なぁ藤村さん」と神妙な面持ちで二人掛けの古いソファに腰かけた。大金の使い道を考え出していた藤村は、怪訝そうに眉を引き上げる。

「あんだよ、俺の意見に文句でもあるってのか?」
「違いますよ、常盤だけ連れてくって聞いたもんですから」

 掛須は、とりつくろうように様子を伺った。藤村は眉間の皺をゆるめ「ああ、それか」と笑む。

「あいつは根っからの悪党だ。今のうちに、こっちの仕事を見せておこうと思ってな」
「まぁ、確かに……シマみたいに(やく)に溺れることもないですしね」
「頭がいいからな、俺たちとは出来が違う。あいつに足りないのは、経験さ」

 今夜の段取りについては、すべてが整っていた。

 まずは、夜に船でこちらに到着する李に引き渡す学生が、常盤によって大学校舎に集められる。その間、明美が尾賀と李の連絡係として動き、大学学長の富川はやってきた李と尾賀を出迎えて、彼ら双方の部下が麻薬を運ぶ雑用をこなすのだ。

「ん? そういや常盤は、やばい奴を見つけたって喜んでたな」

 思い出して、藤村は掛須へと視線を滑らせた。
「メンバーに入れるって言ってなかったか?」
「言ってました。殺しなんて普通にやってのける奴らしいっすけど、何か聞いてます?」
「いや、なんも聞いてねぇな。そんな物騒な奴この町にいたか?」

 藤村の問いかけに、掛須は首を横に振った。肩をすくめると大げさに息をつく。

「こっちは平和なもんですよ、警察が動くのもほとんどないっすから」
「だよなぁ……」

 しばらく沈黙を置き、掛須は「勝手に動かれちゃ困りませんか」と藤村に意見した。開いた膝の上に腕を乗せ、身を乗り出すように藤村を見つめる。陰った瞳は「常盤はまだガキなんすよ」と語るようだった。

 対する藤村は、特に気にする様子もなくセットされた頭髪を撫でた。

「何、やらせておけ。なんかあればすぐ連絡するだろ。人殺しも平気な野郎だったらすぐに使える人材だ、俺は大歓迎だぜ。尾賀さんの組織自体そういうやばい連中が勢ぞろいしているからな。うちも大きくなるから戦力は必要だろう。それに、常盤の目は確かだ」

 藤村は尾賀の人間性は嫌いだったが、彼が持っている組織とその地位に憧れを抱いていた。初めて会ったとき、尾賀はプロの暗殺集団を連れて茉莉海市を訪れたのだ。

 小柄で鼠のようにずる賢そうなその男は、殴り合いも出来ない人間でありながら強面の屈強な男たちを顎で使った。「私の後ろには大きな組織のお方がいらしてね」ときぃきぃと耳障りな声で自慢し、殺しの処理も情報操作も、警察すら動かすことが出来る立場に藤村は羨望した。

 今回は白鴎学園で初の取引ということもあり、尾賀自身がその様子を見るため訪れる。しかし、本来は自分で動く必要もない立場なのだ。そこもまた羨ましい。

 常盤がスカウトする人間については、藤村を含めるメンバー全員が詳細を知らないでいた。常盤は「後で決まり次第連絡するから」と昨日の夕刻、事務所を飛び出してからその件に関しては音沙汰がない状態だ。

 どういったことが決まるのかは分からないが、学校が終わった頃に連絡が来るだろう、と藤村は気楽に構えていた。賢く慎重に動く常盤が、自分たちの足を引っ張るような真似をするはずがないと彼は考えていたのだ。

 藤村は、何気なく腕時計を見やった。気が短い彼の性格を知っている掛須は、取引のことを考えているのだろうと受け取り、少しでも暇を潰せるものを考えてから「何か食べますか」とまずは声を掛けた。
「下で平圓が台所に立っていますよ」
「あ~……」

 藤村は打算して眉を潜めた。

 普段から、彼は昼前に目覚めて行動していた。しかし、今日に限っては早朝七時には起床し、久しぶりに時間のずれていない朝食を食べていたのだ。そのあとシマが冷蔵庫に入れていたチーズカマボコをつまみ、オフィスにあった煎餅もすべて胃に詰めていた。

 苛立つことが多い藤村も、のんびりとしたメンバーの中にいると大人しい。暴力が絶えず情け容赦ないほど金を巻き上げる悪人は、今空腹か否かと考え込んだ。

「……昼食の下準備してんなら、平圓の奴つまみ食いだって小言するだろう」
「今準備しているのは、夜にやる打ち上げに使う食材のチェックです。買い出しは、昼食あとに俺と平圓さん、上村(かみむら)さんの三人で行くんですよ。ピザと寿司は、シマさんが理香と買ってくるみたいなんで」

 掛須が「上村」と呼んだ男は、シマの先輩メンバーに当たる男だった。藤村同様乱暴で金に目がなかったが、非常に食い物と縁がない不運な男である。

 藤村組に入る前、腹が減ってラーメン店に入ると「ヤクザお断り」と言われて大喧嘩になり、その後警察に追われて「何か買うか」とポケットを探れば大きな穴。当時入っていた組の仕事を空腹のため失敗し、袋叩きに遭ってゴミ捨て場に置き去りにされたところを、平圓が拾ったのだ。


 家事全般に隙がない平圓は、野良猫を集めるような男であった。

 リーダーなりたてだった若い藤村が「拾ってくるな、うちにそいつを飼う余裕はねぇ、捨てて来い!」と一喝しても「お腹がすいているんよ、可哀そうに」と、少ない食糧で料理をごちそうしたのである。


 荒々しい性格の上村は、あれからというもの平圓にだけは自分から進んで「お手伝いします」とやった。掛須は藤村のスカウトだったが、あのシマも平圓が勝手に拾ってきたメンバーの一人である。

「…………そこに上村がいるんだったら、平圓も奴に相手して手がいっぱいだろ」
「いいえ。他のメンバーが寝てるんで、上村さんは一人黙々と麻雀してますよ」

 一人でか、と言葉を濁した藤村に、掛須が「そうっす」と複雑な表情で肯いた。

 上村は「一人チェス」「一人オセロ」「一人ババ抜き」をすることがあった。一匹狼の名残だと本人は格好つけていたが、家族同然につるんでいる一同にとっては「こいつ、めっちゃ寂しい男なんじゃ」と仲間想いを激しく揺らせる衝撃の光景である。

 藤村はわざとらしく咳払いを一つし、「やれやれ」といって立ち上がった。

「そういえば小腹がすいた気もするな。麻雀でもしながら、平圓の料理を待つか」
「そうっすね、確かセイジが地下にいたと思います。奴を呼びましょう」

 一番若手の元走り屋の名を口にし、掛須も立ち上がって、藤村と共にオフィスを出た。
 不審なベンツは見られず。

 いつも通り「本田雪弥」として登校した雪弥は、一時間目の授業が終わったタイミングで携帯電話に入ったその報告について、ぼんやり考えていた。

 学園に入る前、雪弥は夜狐を呼び出して夜蜘羅の乗った車を探らせた。しかし、返ってきた報告は「ベンツすら確認出来ず」というものだった。潜伏していたエージェントも誰一人として、該当するような車を目撃していないらしい。

 夜狐はあのとき、道路を歩いている雪弥を見つけてそばについていたと言った。逆に「いつ部屋を出たのですか」と尋ねられて、雪弥はまさに抓まれたような気分になった。

 その余韻は午前中いっぱい残った。けれど、もう会う事もないだろう、自分には関係のない男なのだと思うと、考えるのも馬鹿らしくなって悩むのをやめた。

 四時間目の授業も問題なく終えて、修一と暁也の話し声を聞きながら自分たちの教室へと戻る道を歩く。昼休みの時間を使ってナンバー1に連絡を取る予定もあったので、まずはこの少年たちを少しの間、自分から引き離す簡単な方法を思い浮かべる。

 おつかいに向かわせるのが手っ取り早いだろう。そう考えながら、戻ってきた教室の机に教科書をしまおうとしたところで、雪弥は自分の机の引き出しに、知らないメモ用紙が入っている事に気付いた。

 それは小さく折り畳まれており、中には綺麗な字でこう書かれていた。


『旧帆堀町会所で君を見たよ。放課後ショッピングセンターの交差点で待ってる。
                         常盤聡史』


 情報を引き出すために、本人に接触出来たらいいなと考えはいたが、まさか昨日の旧帆堀町会所の名が記載してあったのは予想外だった。どこまで見られたのはか気になるうえ、どういった意図で呼び出されているのか見当もつかない。
 
 彼は既に抹殺リストにも入っているものの、昨日の旧帆堀町会所の現場を見た、という文面からの呼び出しが個人的には気になった。走り書きからすると、一人で待っているという印象も受ける。

 殺すところを見ていたのなら、通常であればすぐにその当人と会おうというような考えにはならない気もする。

 目的は不明だが、ここで起こっている厄介な事件は今夜で全て終わる。作戦開始までは少しくらいなら時間も空いており、そのついでに今後役立つような情報を引き出す接触が図れる可能性もあるのなら、会う方が都合もいいのかもしれない。

 雪弥は冷静にそう思考していたが、無意識にその置き手紙を握り潰していた。

「どうした?」

 不意に修一に問われ、雪弥は、なぜ常盤からの手紙を潰したのか分からぬまま、それをポケットに押し込んで笑顔をとりつくろった。

 昼休みの時間になったというのに、そういえば移動教室の授業から真っすぐ一緒に教室に戻ってきたうえ、今も教室を飛び出す様子がない二人の少年に気付いて、素直に疑問を口にする。

「今日は走り出さないんだね」
 雪弥が小首を傾げると、暁也は「そばパンって気分じゃねぇし」とぶっきらぼうに言い放った。修一は八重歯を覗かせて「今日は普通に焼きそば買おうと思ってさ」と愛想良く答える。


 そばパンをゲット出来た三組の西田が、食堂の販売窓口で感動の声を上げたのはその頃であった。そこには珍しく常盤の姿もあり、彼は三組の男子生徒たちをやかましそうに横目で見たあと、弁当を一つ買って中庭へと向かった。

 そんな常盤が中庭で偶然、大学三年生の里久と居合わせて話しを始めた頃。


 雪弥は二人の少年たちに、今持ちあわせている五千円札を渡して「僕の分と併せて、君たちの好きなのを買ってきてもらってもいいかな」とやったあとで、先に屋上入口に立っていた。

 ナンバー1と連絡を取るため、修一と暁也をしばらく自分から引き離したのである。屋上扉には鍵が掛かっていたが、修一が来るまで待つ選択肢はなかった。雪弥は一秒ほど扉を眺め、躊躇なくドアノブに右手を振り降ろした。

 わずかに金属音が上がったあと、辺りは静けさに包まれた。

 ドアノブから壁にかけて何かがめり込んだような亀裂が入り、虫も殺せない顔で強行突破された鍵は、見事に機能を失って右にも左にもくるくると回るようになった。ドアノブごと切り落としたらさすがに不審がられるだろう、と彼なりに考えての結果だった。

 雪弥は屋上へ出ると携帯電話を取り出し、後ろ手でそっと扉を閉めた。雲一つない青空を眩しそうに見やり、携帯電話を耳に当てて歩き出す。

 しばらくコール音が続き、前触れもなくぷつりと途切れた。


『今夜の作戦事項がすべて決まった。今、時間はあるか』


 低い男の声が響いた。ナンバー1である。雪弥は「大丈夫ですよ、どうぞ」と言いながら歩み続けた。

『先日死亡した榎林を含むメンバー、および里久に関してはすでにエージェントが成り変わって現地に入っている。今日取引に関わる組織は、東京の丸咲金融会社第一支店の尾賀、白鴎学園大学部学長富川、藤村組、そして中国からの密輸業者であり、裏で自称科学者を名乗っている李の四者だ。藤村組に関しては、事務所に残ったメンバーを容疑者としてあげる。他の処分リストはすでに作成済みだ』

 雪弥が上空を飛ぶ鳥へと目を向けたとき、ナンバー1は一度言葉を区切った。『ちゃんと聞いているだろうな』と声を掛けられ、雪弥は空を仰ぎながら「いい天気ですよねぇ」とそのままの心境で返した。

 電話越しに大きな舌打ちが響き、咳払いのあとナンバー1の説明が再開した。

『二十三時に集まるメンバーはリーダー藤村、富川学長、尾賀、李の四人とその部下だろう。何人集まるかは分からんが、一時間前には大学校舎にてブルードリーム使用者の大学生が全員集まる情報は掴んでいる。我々は、取引の材料に使われるのではないかと踏んでいる』
「自称科学者、というのが気になりますね」