蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~

 白鴎学園周辺に潜伏した暗殺部隊は、雪弥の指示通り身を潜めていた。昨日こちらに到着した金島一行は、筋書き通り藤村組を「覚せい剤取締法、麻薬および向精神取締法」で逮捕する準備にかかっていた。


 昨日、二番目の被害者となった鴨津原健について、研究班はこう回答していた。


『調べてみたところ、彼はレッドドリームを摂取していませんでした。仕組みは不明ですが、ブルードリームのみで急激な変化が起こって細胞が自滅しちゃってます。他に例もないので断言は出来ませんが、恐らくそちらで出回っているブルードリームの特性の一つなのではないかと』

 研究班の男はそう続け、一般人への二次被害と国を脅かす危険性も示唆した。

『以前の里久という被害者同様、筋肉、骨格レベルでの変化も確認されました。外見の変化に向かう前に、細胞が自滅したという感じになりますね……つまり、へたすると一つの薬だけで「第二の里久」「第三の里久」が出来上がる可能性も、ゼロではなくなるわけです』

 引き続き研究班の方で調査は進められるが、その結果を踏まえて、ナンバー1は『一掃』との判断を下していた。

 雪弥は風呂をすませ、今日で最後となる高校生セットに身を包んだ。今夜の計画については心配していないが、普段自分が使っている携帯電話をしまい、変装道具の一つである代用の薄い携帯電話を手にとったとろで、そこにも暗雲を覚えて動きを止めた。

 そういえば先日の授業中に、兄から着信があったのをすっかり忘れていた。

 遅れてその事実を思い出し、もしやと思って「不在着信」のページを開いてみると、「蒼慶」の電話番号がズラリと並んでいた。雪弥は、またしても眩暈を覚えた。

 なんだか、嫌なことが起こりそうな……

 まるで、占いで「今日の運勢は凶ですよ」と告げられたような気分だった。

 蒼緋蔵の名が災厄を呼ぶなんて大げさな、と雪弥は気を取り直して外へと出た。玄関に鍵を掛けると、晴々とした空気を肺いっぱいに取り込もうと背伸びをしたところで、不意に、殺気混じりの気配に髪先がチリリと痛むような感覚があった。

 何者かに場所を探られている嫌な気配を覚え、雪弥は辺りをうかがいながら、エレベーターへ乗り込んだ。そのまま郵便受けがある広い一階フロアへと降り、建物の正面入り口からマンションを出る。


 歩き出してすぐ、静まり返った道路の向こうから、一台の高級車が走行して来るのが見えた。それは車体の長い黒ベンツで、窓ガラスも黒く覆われて分厚い装甲に改良されており、タイヤも防弾タイプで幅が太かった。


 嫌な予感を覚えて足を止めていると、滑るような走行を続けていたベンツが、マンション正面で速度を落とした。佇む雪弥のそばで停車したかと思うと、左後部座席の窓がわずかに開いた。

「やあ、はじめまして。蒼緋蔵家の雪弥君」
 昨日、スピーカー越しに聞こえた声が聞こえた。

 雪弥は、露骨にげんなりとした表情を作った。夜蜘羅と呼ばれていた男は、姿を窓ガラスの黒いフィルターに隠しながら「実物で見ると本当に若いな」といって、少し驚かされたとばかりにこう言葉を続けた。

「そもそも君、まだ子供じゃないか」
「……はぁ、見ての通り高校生ですよ」
「その割には、昨日はひどく手慣れた様子だったけれどねぇ」

 まぁ映像の画質も良くはなかったし、いいか、と夜蜘羅は興味もなく話を区切った。雪弥は「昨日の連中と関わりがある人ですか」と警戒して睨みつける。

 すると、車内で夜蜘羅が肩をすくめるような気配を上げた。

「まさか、濡れ衣だよ。私はもう少しで犯罪に巻き込まれるところだったんだ」

 上辺だけの言葉だったが、雪弥はへたにこちらの情報を与えたくなくて、それについては追及しない事にした。深く突っ込んで尋ねれば、怪しまれるのは目に見えている。

 折角うまく騙されてくれているようなので、高校生という設定でいこうと決めて、ひとまず怪訝そうに顔を持ち上げて「で、なんか用ですか」と尋ねてみた。すると、夜蜘羅が「少し話しがしたくてね」と言う。

 雪弥は、彼が蒼緋蔵の名を口にしていたことを思って、「こっちだって濡れ衣ですよ」と先手を打つべく投げやりに言葉を吐き出した。

「僕の父親は、確かに蒼緋蔵家の者ですけど、愛人の子なんで縁がないんです。あなたが言っていた副当主とかなんとかの件についても、僕は無関係ですよ。子として認知されたのも、本家に関わる権力がないこと前提の話でしたから。というか、蒼緋蔵家からお呼ばれするような事態になろうと、こちらは断固拒否の姿勢です。そもそも、僕十八歳未満ですし」

 苛立ちから一気に言葉を捲くし立て、雪弥は唇をへの字に曲げて彼を思いっきり睨みつけた。

 当主や副当主などを含めた蒼緋蔵家の地位については、二十歳を越えた者であることが条件とされていた。それを夜蜘羅が知っている可能性があると踏んで、ひとまず未成年である事をアピールした。

 夜蜘羅と蒼緋蔵家が、どういう関係にあるかは知りたくもないが、こっちはとんだとばっちりである。来月行われる蒼緋蔵家の当主交代が決まった矢先、突拍子もない蒼慶の発言に巻き込まれかけているのだ。まったく勘弁してほしいと思う。

 しばらく間を置いた後、夜蜘羅が長い息をついた。

「なるほど、話は分かったよ。でも、私は蒼緋蔵の特殊筋である『番犬』が、ただの副当主になり下がろうと構わないんだ。『番犬』として資格を持っているらしい君に、個人的に興味を抱いていてね」
「は。番犬? 父さんは犬を飼ってませんし、そんな話は聞いたこともないですけど。あなたが何を言っているのかさっぱり――」
「ひとまず、我が家の特殊筋から生まれた『働き蜘蛛』と手合わせしてくれないかな」

 夜蜘羅が唐突にそう告げて、こちらの言葉を遮った。

 なんだか嫌な予感が的中したような台詞だと感じて、雪弥は思わず頬を引き攣らせて「はい?」と聞き返していた。
 ベンツの窓ガラスは、こちらから見ると周囲の景色を写し取るだけの黒だったが、その向こうで夜蜘羅が笑ったような気がした。それが苦手な兄の存在と重なり、思わずじりじりとあとずさってしまう。

 分かった、こいつは絶対ドSだ。

 しかも、優しさオプションがついた性質の悪いタイプの方の、超ドS。

 雪弥は手つかずになっている家の事情と、黒いベンツの彼と対峙してしまっている今の状況から逃げ出したい衝動を覚えた。しかし、こちらの気持ちもお構いなし、といった様子で夜蜘羅は続ける。


「手加減するようには言ってあるよ。これは『小蜘蛛』だから、君が殺すのには全然構わないんだけどね――ああ、でも帰る時は『糸』を辿らないと大回りになるし、さて困ったな」


 どうしようか、と夜蜘羅の声が笑んだとき、車体の下から強烈な殺気が溢れ出し、大きな黒い影が明確な殺意を持って飛び出してきた。

 それを敏感に察した雪弥は、反射的に地面を蹴り、マンションの三階部分の高さまで飛び上がっていた。ふわりとなびく前髪から地面を凝視した彼は、そこに人間とは呼べないモノがいることに気付いて、黒いコンタクトレンズがされた目を見開いた。

 車体の長いベンツの脇に、猫背のように盛り上がった屈強な肩を持ち、アンバランスなほど長い四肢をした二足歩行の『ナニか』が佇んでいた。

 二メートルほどあろうかという身体は、伸縮性の黒い服に包まれており、それはやけに細い腰周りをしている。ぴったりとした黒い衣服の袖口から覗いた手は、獣というよりは昆虫のごつごつとした棘のような剛毛に指まで覆われ、サージカルステンレスを鋭利に尖らせたような獣の爪が五本付いている。

 その剣のように太く弧を描いた爪は、一掴みで軽自動車のフロント部分を切り刻めるほどの大きさがあった。手首部分から先だけがやけに巨大で、それが重々しく地面に垂れ下げている光景も異様だ。

 否。異様なのは、全体的な骨格や形ばかりではない。

 晒された男の顔は、火傷跡のような黒い皮膚に覆われていて頭皮には毛がなかった。穴が開いただけの潰れた鼻下には、割れ広がった長く広い口があり、短い額に小さな三つの赤い瞳がそれぞれ違う方向に動いている。

 これは人間じゃない、と呟いた言葉が唇の上を滑り落ちる。

 化け物の三つの赤が、途端に雪弥を追うように宙へ向けられた。その様子を車内から見ていた夜蜘羅が「素晴らしい!」と感嘆の声をもらす。「なるほど、身体能力は五分五分といったところかな? ますます楽しみでならないよ」という言葉が聞こえた。

 雪弥はそれに反応を返す余裕もなく、警戒したように化け物を注視したまま、マンションのレンガ壁に垂直に着地した。


 ブレザーの裾とネクタイが宙を舞い上がり、それが重力に従って落ち着く時間も与えないかのように、唐突に化け物がその身を揺らして一気に跳躍した。
 化け物がアスファルトを砕くほどの力で、ミサイルのようにこちらに突っ込んできた。そのコンマ一秒遅れでレンガ壁を蹴り上げて移動した雪弥は、異形の男が標的を見失ったように宙で動きを止めたのを見て、素早くその背後に回って思い切り足を振り回した。

 しかし、殺すつもりで化け物の背骨に強靭な蹴りを叩きこんだところで、雪弥は露骨に顔を歪めて舌打ちした。真っ二つに折ってやろうとした化け物の背中は、まるで何重もの骨と筋肉に覆われているように頑丈だったのだ。

「無駄に頑丈みたいだなッ」

 雪弥は小さく呻き、すかさず空中で瞬時に体制を変えて、その背中に足を突き落として第二派を放った。地面に叩きつけるべく、装甲車を叩き凹ませるほどの力を背骨に受けた化け物が、筋肉と骨を軋ませて地面へと引き寄せられる。

 しかし、その直後の刹那、化け物の首が百八十度反転してこちらを見た。

 一メートルの距離で目が合った雪弥が「げっ」と、気味の悪さに顔を歪めた瞬間、黒い左腕が軟体動物のように伸びてこちらに振るわれた。その腕が弾かれるように眼前に迫ったかと思うと、その鋭い爪が明確な殺意で持って襲いかってくる。

「くそッ、なんつーでたらめな身体してんだよ!」

 間一髪で鋭利な凶器から身をかわし、雪弥は悪態を吐いた。

 本気で集中しないとまずい相手だと判断し、ずっと持ったままであった鞄を仕方ないとばかりに放り捨てた。なびいた彼の髪先が、わずかに掠った銀色の鋭利な爪先に切れ、その風圧が耳元で凶暴な音を立てる。

 黒いフィルター越しに碧眼が淡く光り、はっきりと異形の標的を捕えた。そのコンマ数秒の間に雪弥は右手の指を揃えると、降下する化け物を追って共に地面へと向かった。


 化け物の身体が、アスファルトを砕きながら地面へと叩きつけられるのと、その肉体の一部が切断音を上げて宙に投げ出されたのは、ほぼ同時だった。


 砕かれたアスファルトが舞い上がり鈍い地響きが起こる中、数秒遅れで地面に到着した雪弥は、その場でバク転するとベンツの車体上部へ着地した。視線を地面にめり込んだ化け物の身体に縫い付けたまま、肩にかかったネクタイを、左手でブレザーの中に押し込む。

 そのタイミングで、一瞬にして切断されていた異形の右腕が落ちてきた。

 鋭利な爪を地面に突き刺すように着地したその腕の切断面は、まるで高速再生でも始まっているかのように、ゼラチン状の血がぶよぶよと振動していた。少し周りに飛び散った血液らしきものも同様で、液体化しないまま、気味悪く震え続けている。

 蹴った感触は確かに生き物だった。その感触を思い返しながら、雪弥は指先に付着したゼリーのような赤い物質を払い落した。

 痛みを感じていない化け物の様子は、先日レッドドリームで豹変した里久を思い起こさせた。しかし、骨格や筋肉の動きは常識を逸していた、吹き出しかけた血は一瞬で生き物のように切断面に引きこまれたのを見ていたし、飛び散ったゼリー状の血が、続いて固形化するように赤黒い石となるのも異様な光景だった。
「素晴らしい! 自身の爪で相手の腕を切り落とすとはね! まさか君が『爪』を隠しているとは思わなかったよ、実に素晴らしい!」


 速すぎて目で追えなかったよ、と愉快そうな声が聞こえて、雪弥はじろりと足元を見降ろした。車内に座っている夜蜘羅を想像し、気分を害して眉間に皺を作る。

 そのとき、地面に倒れていた化け物が、前触れもなくその上体を起こした。バネのように持ち上がった頭が、ぐるんとこちらを向いたかと思うと、地面に四肢をぐっと屈めて地面を弾くように突っ込んできた。

 風を打つほどの瞬発力に、爆音が発生した。

 化け物は柔らかい身体を捻じるように回転をかけ、車の上の雪弥だけを狙う。

「まだ動けるのかよ!」

 胸の中であらん限りの文句を唱え、雪弥は車体上部に滑り込んできた化け物の左爪を避けて、その巨体を飛び越えた先の地面へと着地した。攻撃態勢を整えるべく、その場で足を止めようとしたのだが――

 車に乗り上げた化け物が、不意に、その状態のまま残った腕を振るった。

 踵を返した瞬間だった雪弥は、反射的に地面を蹴って三メートル後退した。鋭利な爪が地面を裂いて食い込む様子を直視し、唖然としてしまう。

 あれに切られれば、強靭な肉体を持っていてもただではすまないぞと、自身の肉体がバラバラになる想像に顔が引き攣った。

「というか、百八十度ホラーチックに回る首とか、伸びてくる腕とかもナシの方向がいい……」

 思わず本音どころをこぼすと、バネのような両足で地面に着地した化け物が、地面に固定された自身の腕を引き寄せながらこちらを見た。長い身体が左右に揺れる様子は、どちらから切り裂こうかと考えているようにも見える。

 つまり、これは挑発されている。

 そう受け取った瞬間、プチリと堪忍袋の緒が切れた。

 化け物の毛や鼻の突起すらない顔にある赤い三つの目も、気味が悪いというよりは、それすら馬鹿にされているような気さえして思わず拳を作る。なぜか、自分のテリトリーを悠々と侵入されたような、動物的な強い不快感に殺意で頭の中が赤く染まった。

 鋭い殺気を覚えるがまま、雪弥は次の瞬間、激しく地面を蹴り上げていた。心が殺意で満ち、もはやコンタクトレンズでさえ隠せないほど淡く光る碧眼が、車の上にいる化け物をロックオンする。

「バラバラになるのは、お前の方だ」

 冷たい声を上げ、雪弥はコンマ二秒足らずで化け物に迫った。相手が鞭のように素早く身を翻すよりも速く、彼の指先が白銀の線を描いた。

 鈍い切断音を上げて、残っていた化け物の左腕が弾け飛んだ。

 両腕を失った化け物が車上から転がり落ち、軟体でもあるらしい背中と足だけですぐさま体制を整えて、怒り狂うように頭を振って裂け広がる口で咆哮した。こちらに向けられる赤い瞳には、動物的な怒りが宿っていた。
 雪弥は指をバキリと鳴らすと、強靭な脚力で弾丸のように前方へと飛んだ。化け物の足が一つの生物のように伸びてその爪が迫って来たが、躊躇せず突っ込みながらそれを僅かな差で避け、まずは化け物の腹部を普段の遠慮も飛ばして荒々しく蹴り上げる。

 戦車をも破壊する強靭な一撃に、化け物の腹部が大きく凹んで筋肉や内臓の一部が潰れた。強靭な骨が砕かれて、周辺の骨もダメージを受けたように軋む手応えが、蹴り上げた際の足から伝わってきた。

 怪物のような口からゼラチン状の赤い液体を吐き出す標的に対し、雪弥はすぐさま足を組みかえ、休むことなく第二派を放った。

 身構える暇もなかった化け物の巨体が、マンションへと吹き飛ばされて重々しい衝撃音を轟かせた。雪弥はそれを凝視したまま、本能的に止めを刺そうと地面を蹴った。化け物の首を切断するために構えられた右手の爪が、鋭利さと長さを増し――


 サイレンサー付きの銃砲が鼓膜に触れた瞬間、雪弥は反射的に踏みとどまって弾丸を避けていた。咄嗟に痙攣を起こす化け物から距離を取り、安全な位置まで後退したところで、攻撃を受けた場所へ目を走らせる。


 そこには先程の黒ベンツがあり、開いた窓の隙間から小さく覗く銃口が見えた。

「想像以上だ! 実にすばらしい! プレゼントとして殺させてあげたいのは山々だが、彼がいないと『近道』が使えなくてね」

 雪弥はわずかに乱れた呼吸を整え、銃口が隠れた後部座席に向けていた目を冷ややかに細めた。

 すると、ベンツの後部座席の奥から二人の男が言葉もなく現れ、マンションの壁にめり込んでいる化け物の回収を始めた。彼らは顔を隠すようにサングラスをしていたが、緊張するように強張った頬や口許から、化け物が両腕を失い意識を失っているという状況に対して、強く動揺しているような印象も受けた。

「今度、二、三体殺させてあげようか。物足りないだろう?」
「結構です。僕はあくまで平凡なんです。あなた方の都合に巻き込まないでいただきたい」
 雪弥の言葉には、蒼緋蔵家に対する想いも含まれていた。夜蜘羅はそれを聞き流すように「蒼緋蔵家でなければ、すぐにスカウトしたのになぁ」と冷ややかな声で独り言を口にする。

 だって、君は絶対に『こっち寄り』でしょう……と彼はひっそりと呟いた。

 車内の中に消えたその呟きを優れた聴力で拾った雪弥は、「一体なんの事だろうか」と訝って眉間に皺を作った。殺したくて物足りないだろうと、続けて囁く夜蜘羅に対して「そんなわけないでしょう」と露骨に馬鹿なんじゃなかろうかという表情を返す。

 時間もかからず化け物がベンツに運び込まれ、「じゃあ、またね」と夜蜘羅の言葉を合図に、車が走り出した。雪弥は、二度と来るなと思って踵を返し、投げ捨てた鞄を探そうとしたところで、壊れた壁と地面に気付いて「勘弁してくれよ」と頭をかきむしった。

「これは僕のせいじゃないぞ」

 そう誰に言うわけでもなく呟き、落ちていた鞄を拾い上げて足早に学園方面へと歩き出す。

 歩きだして数分も経たずに、後ろから「なんだこれ!」という悲鳴が聞こえてきた。次々に人の気配が増え、朝の出勤や通学時間なので当然だろうなぁと考えた際、ふと、そういえば先程はまるで無人地帯だったなと不思議に思った。

 あれほど派手に暴れていたら、普通はマンションやその周辺住民がすぐに気付くはずである。それなのに、あの間、誰一人として顔を覗かせたり集まってくる事もなかったのだ。

「うわッ、事故でもあったのか?」
「昨日の夜、誰かがぶつけたんじゃないか?」
「朝ゴミを出したときはなかったわよ!」

 マンションの前に集まる人間が増える光景をちらりと見やって、雪弥は「ったく、後始末くらいしていけよな」と溜息交じりに呟いた。心身ともにひどく疲れ、朝早々からげんなりと肩が落ちた。

 やはり、蒼緋蔵家と関わるとろくなことがない。

 頼むから放っておいてくれと、雪弥は覚えた眩暈に歩調を緩めた。

 学園へと向かいながら、蒼緋蔵家から戸籍を含む全てを外すことを本気で考えてしまう。二度とこういうことを起こさないためにも、蒼緋蔵家から徹底して距離を置おいてもらうべく、この任務を終わらせて休みを取ろう、と彼は改めて決意を固めたのだった。
 藤村は事務所の三階オフィスにいた。爽快な青空を小窓から眺めつつ、先程から狭い室内を歩き回っている。

 赤と金が交差するワイシャツと、サイズの大きなグレーのスーツは、彼の勝負服であった。この日のために、事務所に隠してあった貯金で購入したのだ。

 常々メンバーから「なんでお前女じゃないんだ」といわれるほど家事が身についている平圓が、丁寧にアイロンを掛け直して準備したこのスーツからは、良いコロンの香りがする。おかげで動いているとその匂いが鼻先を掠め、緊張感も少しだけ和らぐのだ。

「藤村さん、本当に送迎だけでいいんすか」

 オフィスへ顔を出した若手メンバー、スキンヘッドの掛須(かけす)が開口一番に尋ねた。車やバイク、機器類をいじることが専門の男である。詐欺事件では携帯電話やパソコンを駆使し、低予算で環境を整えてメンバーに貢献していた。

 若い奴に心配されるのはプライドが許さない。藤村は、そこでようやく椅子に腰かけ、余裕たっぷりに「ああ、送迎だけでいい」と答えた。

「これまで、俺たちがあのクソ煩ぇ爺さんにパシられてたんだ。今回は尾賀さんたちに任せて、俺らは高みの見物だ」
「じゃあ、俺たち全員ここで待機って、本当の話だったんすねぇ……」
「帰ってきたら、大金をゲットしたお祝いすっぞ。シマと、あいつが連れてる理香って女も呼んでおけ」

 藤村は、殺風景な事務机に足を乗せて組んだ。「馬鹿な女だが、シマが気に入ってるからな」と言って腕時計へと目をやる。

 時刻は、午前十時を過ぎたところだった。

 掛須は毛のない眉を潜め、「なぁ藤村さん」と神妙な面持ちで二人掛けの古いソファに腰かけた。大金の使い道を考え出していた藤村は、怪訝そうに眉を引き上げる。

「あんだよ、俺の意見に文句でもあるってのか?」
「違いますよ、常盤だけ連れてくって聞いたもんですから」

 掛須は、とりつくろうように様子を伺った。藤村は眉間の皺をゆるめ「ああ、それか」と笑む。

「あいつは根っからの悪党だ。今のうちに、こっちの仕事を見せておこうと思ってな」
「まぁ、確かに……シマみたいに(やく)に溺れることもないですしね」
「頭がいいからな、俺たちとは出来が違う。あいつに足りないのは、経験さ」

 今夜の段取りについては、すべてが整っていた。

 まずは、夜に船でこちらに到着する李に引き渡す学生が、常盤によって大学校舎に集められる。その間、明美が尾賀と李の連絡係として動き、大学学長の富川はやってきた李と尾賀を出迎えて、彼ら双方の部下が麻薬を運ぶ雑用をこなすのだ。

「ん? そういや常盤は、やばい奴を見つけたって喜んでたな」

 思い出して、藤村は掛須へと視線を滑らせた。
「メンバーに入れるって言ってなかったか?」
「言ってました。殺しなんて普通にやってのける奴らしいっすけど、何か聞いてます?」
「いや、なんも聞いてねぇな。そんな物騒な奴この町にいたか?」

 藤村の問いかけに、掛須は首を横に振った。肩をすくめると大げさに息をつく。

「こっちは平和なもんですよ、警察が動くのもほとんどないっすから」
「だよなぁ……」

 しばらく沈黙を置き、掛須は「勝手に動かれちゃ困りませんか」と藤村に意見した。開いた膝の上に腕を乗せ、身を乗り出すように藤村を見つめる。陰った瞳は「常盤はまだガキなんすよ」と語るようだった。

 対する藤村は、特に気にする様子もなくセットされた頭髪を撫でた。

「何、やらせておけ。なんかあればすぐ連絡するだろ。人殺しも平気な野郎だったらすぐに使える人材だ、俺は大歓迎だぜ。尾賀さんの組織自体そういうやばい連中が勢ぞろいしているからな。うちも大きくなるから戦力は必要だろう。それに、常盤の目は確かだ」

 藤村は尾賀の人間性は嫌いだったが、彼が持っている組織とその地位に憧れを抱いていた。初めて会ったとき、尾賀はプロの暗殺集団を連れて茉莉海市を訪れたのだ。

 小柄で鼠のようにずる賢そうなその男は、殴り合いも出来ない人間でありながら強面の屈強な男たちを顎で使った。「私の後ろには大きな組織のお方がいらしてね」ときぃきぃと耳障りな声で自慢し、殺しの処理も情報操作も、警察すら動かすことが出来る立場に藤村は羨望した。

 今回は白鴎学園で初の取引ということもあり、尾賀自身がその様子を見るため訪れる。しかし、本来は自分で動く必要もない立場なのだ。そこもまた羨ましい。

 常盤がスカウトする人間については、藤村を含めるメンバー全員が詳細を知らないでいた。常盤は「後で決まり次第連絡するから」と昨日の夕刻、事務所を飛び出してからその件に関しては音沙汰がない状態だ。

 どういったことが決まるのかは分からないが、学校が終わった頃に連絡が来るだろう、と藤村は気楽に構えていた。賢く慎重に動く常盤が、自分たちの足を引っ張るような真似をするはずがないと彼は考えていたのだ。

 藤村は、何気なく腕時計を見やった。気が短い彼の性格を知っている掛須は、取引のことを考えているのだろうと受け取り、少しでも暇を潰せるものを考えてから「何か食べますか」とまずは声を掛けた。