一学期の期末試験は七月の中旬ごろに五日間続けて行われる。一日二科目ほどで、計十一教科のテストをその五日間に詰め込む。テスト期間中は午前中で帰ることができるので、僕たちはテストを終わらせるとさっそく二人で反省会を開いた。ここの問題がわからなかったとか、ここの問題が難しかったとか、また七月二十日を過ぎれば元に戻ってしまうというのに、そのときの僕たちは怯むことなく馬鹿みたいに真剣だった。
今まで真面目に受けてこなかったと言っても、僕はこのテストをもう何度も経験している。ずるいことをしているのはわかっているし、それでテストの出来がよかったとしてもたぶん周りに誇れたりはしない。しかしそれでもよかった。これを彼女と行うことにこそ意味があったからだ。
僕はそう思って順位表を眺めていた。廊下に張り出されている順位表には、トップ十人の名前が明確に記されていた。そこには僕たちの名前もちゃんと記されていた。
想像していなかったわけではないが、いざそれを目の前にすると不思議な高揚感に包まれる。早くこの思いを彼女と共有したい。待ちきれずに体の向きを変えた――、そのときだった。
廊下の向こう側から、女子生徒の悲鳴のようなものが聞こえた。
騒がしかった廊下が一瞬にして静まり返る。先程まで残念そうに顔を見合わせていた女子たちも、何かを囃し立てるように笑い合っていた男子たちも、そこにいる誰もがあちら側を見て固まっていた。
僕は息を呑んだ。その方向は確か藤原さんの教室がある場所だった。再び騒がしくなった二学年の廊下を、僕の足は荒波をかき分けるようにして進んでいた。
心臓の鼓動がやけにうるさく聞こえた。まるで鬱蒼と生い茂る木々のざわめきのようだった。足早に進んでいく足をはたと止めて、人だかりの出来ている教室の前で、僕は胸の奥にある不快な感覚を沈み込めた。おそるおそるその教室を覗いてみると――直後、一人の女子生徒が教室の中心で誰かに押し飛ばされ、机にぶつかりながらも地面で横転した。
藤原さん、だった。
「カンニングしたんでしょ、あんた」そう言ったのは、藤原さんを突き飛ばした内巻き髪の女子生徒だった。「じゃなきゃ期末テストで一位なんか取れるわけないでしょ。あんたみたいな馬鹿がさ」
彼女らを中心として、クラスメイトは輪を作るように教室の隅で固まっていた。教室外にいる野次馬も、ヤジを投げ入れることもなく、その光景をただじっと見つめているだけだった。仲介しようなどという者は誰一人として現れなかった。
「ねぇ、聞いてんの?」
不満そうに眉を吊り上げた内巻き髪の女子は、藤原さんの前にしゃがみ込むと、彼女の前髪を掴んで顔を上げさせた。しかし藤原さんは何も言わなかった。鋭い瞳でその女子生徒を睨みつけるだけだった。
それが気に障ったのだろう。その女子生徒は、「なっ」と声を上げると、衝動を抑えられずに空いている方の手を振り上げた。またどこからか悲鳴のような声が聞こえた。
何もかもがスローモーションに見える意識の狭間で、自分がまだ変われずにいることに僕は気がついた。あと一歩を踏み出せず、また僕は何もできずに傍観している。
しかし本当にそれでいいのだろうか、と僕は思った。いいわけがなかった。怖いとか逃げたいだとかそんなのはただの言い訳だ。この世界では怪我や他人の記憶が簡単に消えてしまうものだとしても、僕たちの心の痛みは一生消えることはない。そんなことはもうとっくの昔に理解していたはずなのに。
僕は拳を握り締めると、人混みをかき分け張り裂けるくらい大きな声で叫んでいた。
「藤原さん!」
それに反応して、藤原さんがばっと振り向く。彼女は震えた唇を引き結ぶと、涙目で僕のことを見た。そして目の前に差し出された僕の手を、迷いもなく受け取った。
気がつくと僕たちは街中の河川敷を二人して走っていた。手を繋いだまま、あのどこまでも続いてゆく細長いひこうき雲を追いかけていた。
「私、やばいことしちゃった」
僕に引っ張られながら走る藤原さんは、やってしまったという風にどこか茫然としていた。彼女は僕の手を取ったとき、それと同時に内巻き髪の女子生徒を強く押し倒してしまったのだ。
「それの、何がいけないの?」
「だって。今まで仕返しなんて一度もしたことなかったのに。しかもあの子の言ってることは間違ってなくて。私、ずるいことしちゃったんだ。ずるして一位になっちゃったんだ」
「そんなこと言ったら、僕も同罪だよ」と僕は言った。「でもそれを悪いことだとは思ってない。悪いのは終わらないこの夏なんだ。それに藤原さんは、もしテストで出題される問題が今回と違ったとしても、きっと一位になれてたはずだよ。だってさ、僕に教えるだけにとどまらず、自分でもたくさん勉強してたじゃないか。それが報われないのってなんだか不公平じゃない?」
そうかな、と藤原さんは落ち込んだ声で言った。
そうだよ、と僕は落ち着いた声で返した。
群青色の空が僕たちを永遠に覆い尽くしている。見上げていたはずのひこうき雲はいつの間にか消えていて、目の前に見えるのは蜃気楼みたいにぼやけた街の影たちだった。片田舎みたいな何もない僕たちの街が、蝉の声と夏の熱気で溢れかえっていた。
そんな喧騒の中で僕は彼女に語り掛けていた。何を語り掛けていたのかはもう忘れてしまった。とにかく、彼女が落ち込まないようにくだらない話ばかりを繰り返していた気がする。
やがて周囲には建物も人も見当たらなくなった。代わりにヤシの木と堤防がこぢんまりと鎮座していて、蝉の声と夏の熱気だけがここに残った。陽炎の立ち上るアスファルト道路を二人して超える。それから僕たちは目線の先にある青い海に駆け出した。
「もうどうでもいいかも」と藤原さんが言った。「今日だけは、何もかもどうでもいい」
その言葉通り、僕たちは制服のまま海に飛び込み、しまいには波打ち際で仰向けになっていた。
波の音が耳に溶け込んでいる。こんなにも暑いのに、海だけは不思議と冷たかった。
「一旦、立ち止まってみてもいいのかもしれないね」僕は空を眺めながら言った。眩しくて片目が開けられなかった。「今まではさ、僕たちが周囲と遅れてるから、それに追いつけるように夏が繰り返されてた……そう思ってたんだ。でも今は違う気がする。僕たちが前へ前へ進みすぎるから、夏がそれに追いつこうと躍起になってるんだよ。だから待ってやってもいいのかもしれないって、思った。夏が僕たちに追いつくまで、一旦、立ち止まってやってもって」
じゃあ、と彼女が思いついたように言った。
「夏は、私たちの安息地帯になるね、これからは」
僕が彼女の方を向くと、目が合った。お互いがびしょ濡れになって、海に寝転がっていた。
「安息地帯」と僕は繰り返した。
「そう、安息地帯。夏が私たちに追いつくまで、私たちはここで休憩するの。嫌なことから解放されて、いつまでも遊び惚けるの」
「そしたらきっと、夏は終わってくれるかな」
「うん」と彼女が肯いた。「終わってくれるよ、きっと」
馬鹿みたいな話だ、と二人して笑った。僕たちはそれから変わりゆく空をずっと眺めていた。青色から茜色へ、茜色から夜の景色へ。暗くなってもまだ、家に帰ろうとはしなかった。このまま夏の終わりを見よう、と彼女が言った。七月二十日から七月一日になる瞬間を、この目で目撃しようと。名案だと僕は肯いた。
頭上で星々が瞬いている。
もしもまた夏が繰り返されるようなことがあったなら、僕はまた、同じような行動をするだろう、と思った。今回は失敗してしまったけれど、彼女が悲しまないような世界を作りたい。それでいて、いつまでも楽しめるような世界を。
あまりにもありふれた答えだった。しかしそのありふれた答えを、僕は今までで一度だって成し遂げられたことがなかった。この世界で死という概念が存在するのかはわからないけれど、もし本当に死んでしまうことがあるのなら、僕はそういう風にして死んでいきたい。
何も成せずに死んでいくよりかは、その方が幾分かましなはずだから。