証拠として集めていた写真やら動画を消され、結局僕は何もすることができずに七月一日に戻された。本来なら振り出しに戻ってしまったことを悔いるべきところだが、どうであれ、僅かでも自分の目的が達成されたのであればそれは喜ぶべきことだった。
「怪我の方は、大丈夫そう?」と藤原さんに言われた。人のいない別棟の渡り廊下だった。
「大丈夫。今はもう全然痛くないから」と僕も手を振って答えてみせた。
 あれから変わったことがある。客観的に考えれば本当に些細なことだけれど、彼女が僕と会話をしてくれるようになった。結論から言ってしまえば、自分への接触をなかなかやめようとしない僕に彼女が折れたという形だ。「私が迷惑って言っても、新堂くんは、いつまでもやめてくれないんでしょ?」ということらしい。
 そしてもう一つの要因は、そう、自分たちがお互いに夏を繰り返していること。これまでは目先の目的にとらわれそれを忘れてしまっていたが、そもそも僕たちは同じ状況の中にいる。そこに僅かな親近感を覚えてしまうことは特段おかしなことではない。
 そういうこともあり、話の流れから僕たちは放課後にファミレスに行くことになった。そこで僕は藤原さんがいじめられることとなった原因を教えてもらった。
 もともと彼女たちは同じ女子グループで、一年生の頃はいつも四人で一緒にいた。僕も同じクラスだったのでそれを何度も目にしたことはあるが、あのときはまだ彼女らの関係が拗れているようには見えなかった。
 放課後は毎日のように四人で駄弁り、休日も暇さえあれば四人で集まっていたのだと言う。さらには彼女たち四人のLINEのグループもあった。
 どこにでもいるような、ありふれた女子高生四人組。他と違うところを上げるとするならそれはクラスカーストのトップに位置するということだけで、カラオケにも行くし、テーマパークにも遊びに行くし、四人でプリクラを撮ったこともあった。
 しかし一年生の三学期、これもどこにでもあるような話ではあるのだと思う、彼女たち四人組の中の一人に、気になる男子ができた。当然、藤原さんを含めた他の三人は、それを応援することに決めた。別に三人ともがその男子に好意を向けているわけではなかったからだ。
 ときには恋愛相談に乗ったこともあったし、それとなくその男子が気になっている女子のことを聞くこともあった。だがどこで行き違ってしまったのだろう。
「あんまり話しかけてたわけじゃなかったんだよ」と藤原さんは言った。「でもあの子にはそれが気に障ったみたい。私がね、その男の子に話しかけてるのが嫌だったみたいで、だったらそう言えばいいのに、言わないまま、だんだん距離が離れていくようになった。それからかな、ちょっとずつ、三人から無視されるようになったのは」
 朝、教室に入っておはようと挨拶をしても、誰も反応してくれなくなった。LINEのメッセージも無視されるようになって、移動教室のときに勇気を振り絞って「一緒していい?」と誘ってみたが、他の二人はやや気まずい表情を浮かべるものの、元凶であるもう一人の女子が「早く行こ」と素っ気なく言い放った所為で、他の二人も言葉を返さぬまま藤原さんの前から消えてしまった。
 後から聞いた話によると、その女子は藤原さんの知らないところで気になる男子に告白していたらしい。そしてそれを断られたことが理由で、藤原さんに腹いせをしているのか八つ当たりをしているのか、もしくは単に自分がフラれた理由を藤原さんの所為にしたいだけなのか、そういう意味のない行為を繰り返すようになった。
 それから徐々に徐々に行為はエスカレートしていき、七月一日、ついにはトイレで水を被せられるまでに至った。今日は僕の提案もあり、学校をサボって放課後になるまで一日中外で暇を潰していた。「それがいいよ」と僕は言った。目の前にあるドリンクバーを一口すする。
「無理に学校に行く必要なんてないんだよ。行きたくなかったら行かなければいい」
「でも」彼女が首を振る。膝の上でぎゅっと両手を結んで、僅かに俯いていた。「お母さんを心配させたくないの。私が学校をサボってるなんて知れたら、どうなるか。それにいじめのことも、パパ活のことも。ただでさえ心配ばかりかけてるのに、これ以上は……」
「そっか……。きっと僕たちは、生きることに真面目すぎるんだね」ぽつりと、そんな言葉が漏れていた。「ちょっとくらいはしゃいでも悪いことなんてないよ。それに、今は独りじゃないんだ。心配することなんて何一つない」
「じゃあ、新堂くん、何か怒られるようなことがあったら、私と一緒に怒られてくれる?」
「もちろん」と僕は肯いた。「怒られるのは得意ですから」
「なにそれ」と彼女が苦笑した。
 釣られて僕も笑った。「とにかくさ、僕は藤原さんが苦しんでるところをみるのが耐えられないんだ。ちょっとでも楽になれる選択肢があるなら、そっちを選んで欲しい」
「うーん……なら、さ」彼女は目線を逸らし、困ったように頭を悩ませると、「月曜日と木曜日、その日ならサボってもいいよ。この日なら時間割からしても比較的いじめられることもないし、気持ち的には楽なんだ」と言った。
「わかった。じゃあ、その日にしよう」
 月曜日と木曜日というのは少ないように見えて、しかしこの夏をもう何十回と繰り返している僕たちにとっては、決して少なくない数だった。
「あともう一つ、僕からもいいかな」
「なに?」彼女が首を傾げる。
「二週間後に定期試験があるでしょ。だから、その勉強をしたいんだ。大したことじゃないんだけど、何か目的があった方がいいと思って」
 僕がそう言うと、彼女が名案だとでも言う風に肯いた。
「テストでいい点数を取って、みんなを見返してやるって言うのもいいかもしれないね。少しだけずるい気もするけど」
「うん。まあ、時間は有り余ってる。どうせ終わらないなら、この夏を目いっぱい有効活用して、存分に謳歌しようよ」
「そうだね」と藤原さんは微笑んだ。「どうせ終わらないなら」

 勉強をすると言っても、実際のところそれは僕だけだった。あまり真剣に取り組んでこなかった僕とは違い、どれだけ夏が繰り返されようとも、藤原さんは真面目に定期試験に臨んできた。これまではわざと間違えて怪しまれないようにしていたが、もうその必要もなく、出題される問題はいついかなるときでも変わらないので、今はほとんど満点しか取りようのない状態だった。
 そのため、勉強をするときは毎回、僕が藤原さんに教えてもらうという形だった。場所はフードコートやファミレスが大半で、ときには学校の空き教室なども使うことがあった。外で集まるときはなるべく同じ学校の人と鉢合わせないように遠くの場所を選んだ。
 しかしこうして見ると、なかなか気まずいものでもある。
 別に僕らは付き合っているわけではないけれど、一見すればそう見えなくもないほど距離が近いように感じるし、放課後はこうして毎回のように会って勉強しているので、形だけで見ればそう勘違いされてもおかしくはない様相をしている。現に僕らは机に向かうときも向かい合わせで座ることなく隣り合わせで座っているけれど、たまに目が合ったり指先が触れたりするとぎこちない空気が流れたりするので、たぶん、お互いにそういうことを意識していないわけではなかった。
 帰り道は毎回お互い一緒に帰っていた。明日になればすぐに忘れてしまう程度のくだらない会話をしながら、二人して梅雨明けの夜道を歩いた。
 独りじゃないんだと思った。もう僕たちは孤独に苛まれることはないのだと。
 その証拠に、これまでみたく夜に泣きたくなることがなくなった。
 それは僕たちが寝る前に三十分ほど通話をしていることも少なからず影響しているのかもしれなかった。家に帰り、夕飯を食べ、風呂に入ってから、先に寝る前の準備を整えた方が電話をかける。その会話の内容もさほど大したことではなかったけれど、耳に当てたスマートフォンから聞こえる、お互いの声に、ある一定の心地よさを感じていたのは確かだった。

 お互いがお互いに、これまで掬い取れなかった日常の断片を、今さらになってかき集めている。本当はあるはずだった学校生活の思い出、授業中に現れる退屈の二文字、眩しいほど輝く放課後の夕焼けとか、あるいは、暑すぎる夏のこととか、この恋のことだとか。
 それらはすべて言葉では言い表せないくらい尊い時間の中に集約されていて、ふと思い出したときに寂しさとも悲しさともつかない切なげな感情を胸に湧き上がらせる。
 気持ちが暮れていくみたいに、落ち込むのとはちょっと違う、何か特別な胸の痛みを。
 しかし、そういう人々が青春と呼ぶようなものを僕たちは青春とは呼ばない。そんな安っぽい名前で片づけてしまうと気持ちが廃る気がしたからだ。だから僕はこの感情に名前はつけない。いつまでも胸の奥で強く痛んでくれるように、大切に保管しておくことに決めた。
「雨だ!」
 まあ、夕立を浴びながら二人して走っていて、そんな臭いことを思われても説得力の欠片もないだろうけれど。

 藤原さんの家が近くにあるということで、とりえずそこで雨宿りをすることになった。
 玄関に入ると、真っ先に廊下の奥から彼女の母親が顔を出してきた。僕がお辞儀をしたのに合わせて、母親もにこりと微笑んでお辞儀した。その柔和な表情は藤原さんとよく似ていた。
「私の家、母子家庭なの」
 ここからは彼女の話だ。
 藤原さんは僕を自分の部屋に案内し、濡れた髪をバスタオルで拭くよう促すと、ぽつぽつとそんなことを語りだした。
「小学生の頃かな、それくらいの時期に、両親が離婚したの。父親の浮気が理由で」
 僕は隣で座り込む彼女の表情をうかがいながら、ちらりと窓の外を眺めた。年季の入った五階建ての団地だった。僕の家も団地だけれど、部屋の構造がどことなく似ている所為か変な気分になった。
「お母さんから直接聞いたわけじゃないの。ほら、ここって団地でしょ? 壁が薄いからさ、毎晩言い争いとかしてると、会話の内容とかぜんぶ聞こえてきちゃうわけ。それでお父さんが浮気してるだの、それはお母さんにも原因があるだの、あの頃の私には受け入れられない事実がたくさん耳に入ってきた。お父さんは私には優しかったからね。そんなことをする人だなんて思えなかったし、第一、夫婦の仲も浮気が発覚するまでは結構よかった気がするんだ」
「でも、結局違ったみたいだね」
「うん。離婚したってことがすべて」
 そう言って俯いた彼女に、僕はどう声をかけてあげるべきかわからなかった。ただ、共感してやることはできた。僕も母子家庭で、父親は物心ついたときにはすでにいなかった。中学の頃に母親が再婚して、高校生になった今に至るまでその再婚相手の父親と暮らしている。もちろん初めの頃は喧嘩も絶えなかった。
「だから、あまり心配かけたくないんだ」と藤原さんは言った。「離婚してから、お母さんは私を養うために、ひとりでたくさん頑張ってくれたの。本当は大変なはずなのに、そんな素振りを見せたことは一度もなかった。お弁当も作ってくれて、そのお弁当をぐしゃぐしゃにして帰って来ちゃったときも、笑って許してくれた」
 お弁当をぐしゃぐしゃにして帰って来たときのこと、というのはもしかしたらいじめられたときのことかもしれないな、と僕は思った。藤原さんは体育座りのような姿勢で膝を抱えていた。
「死んだらきっと、もっと心配をかけて、迷惑をかけることになる。あのとき私は新堂くんに『死にたい』なんて言っちゃったけど、本音は違ったの。本当は死にたくなんてなかった。お母さんを悲しませたくなんてなかった」
 そのとき、部屋の扉がゆっくりと開いた。藤原さんの母親が、お菓子と飲み物を持って入ってきたのだ。今の話は聞かれていなかったようだが、僕たちは事前に「勉強をするためにここに来た」ということを伝えていたため、何もせずに座っているだけの今の状態を見られて少し戸惑った。
 だが、藤原さんの母親は「ゆっくりどうぞ。おかわりはいくらでもあるから」と言って部屋を後にしていった。二人きりになった部屋の中で、僕たちはまた静寂に身を置く。
「優しそうな人だね」と僕は言った。
「……うん」と彼女も口元を緩ませて肯いた。それから僕の方を向いて目尻を下げた。「新堂くんのおかげなんだよ」
「え」
「新堂くんのおかげで、お母さんを悲しませなくて済んだの。あのときの私はね、一歩間違えてたらたぶん死んでた。心では死にたくないとは思ってても言動だけは違ったんだ。どうせこの夏は終わらないんだもん。一度死んだところで、どうってことはないでしょって。もしくはこれで終わることができれば、楽になれるかもしれないって。でも私が死んだら、お母さんは絶対悲しむの。これ以上ないまでに苦しむの。そういうことは一度だってあっちゃいけないんだ。……だから、新堂くんには感謝してる。とっても、心の底から」
 僕は思わず目を背けてしまった。そこまで感謝されるほど僕はできた人間じゃなかったからだ。
「ねえ、一つだけ訊いていい?」と藤原さんが言った。
 僕は少しの間の後に、うん、と小さく肯いた。
「どうして、私を助けようと思ったの?」藤原さんは真剣そのものの目のようなもので僕を見ていた。どうして、と訊かれて、見ていられなかったからとか、耐えられたかったからだとかしか、答えようがなかった。
 罪悪感だった。このまま見過ごした先に明るい未来はないだろうという常識に則られた感覚。たとえるならば電車の中で目の前に腰を悪そうにしている老人がいて、誰も動こうとはしないので仕方なく自分が席を譲ってやるような、そんな感覚に似ていた。それが彼女でなければならなかった理由にはならないし、自分の中のもやもやを解消することができればあとはどうなっても構わなかった。
 しかし本当にそれだけだろうか、と僕は思った。そればらばここまで彼女に肩入れする必要はない。
 その理由を知っているのは、案外彼女の方なのかもしれなかった。
 一瞬、やわらかな匂いが鼻孔をくすぐる。採れたての果実のような甘い香りだった。唇に触れた感触に驚いて、そのとき僕は何が起こったのかわからず固まっていた。
 それから数秒が経ち、目の前にあった彼女の顔が、ゆっくりと離れていく。
「……こういう、こと?」
 睫毛の長い大きな瞳が、じっとこちらを見つめている。こういうことです、と僕は肯いた。顔全体が熱っぽくなっていることに気がついた。
 赤くなった頬に手の甲を当てて、「勉強しようか」とか細い声で言った。すると隣から、「そうだね」という声が聞こえた。
 二人して教材とノートを開く。定期試験は、いよいよ明日に迫っていた。