正確に言うならば七月の一日から二十日までの間を、何の目的もなしに延々と繰り返しているのだった。終わる見込みもないので、永遠と言った方が正しいのかもしれない。
 最初は何かの冗談かとも思った。しかし二十日の夜に眠ると、目覚めるのはいつも一日の朝だった。妙な実態を伴っているし、さすがに十回も繰り返しているのでこれが僕の勘違いであるということもないだろう。
 それどころか日数にしてみると二百日はここに閉じ込められていることになるのだ。はっきり言って馬鹿げているとしか言いようがない。この学校生活を二年耐えなければならないとのたまっておきながら、僕はすでに一年もの間このくだらない学校生活を続けている、はたまた、続けさせられていた。
 ただ、その所為で精神異常をきたしたりだとか、常識から逸脱した行為を取ってしまうだとかの、いわゆる人体実験などにおける心理的作用は働かなかった。どれだけこの夏を繰り返そうとも、僕は至って正常だった。
 たとえば親に黙って学校を休むことだったり、授業中、机に突っ伏して本気で寝てしまうことだとか。あるいはふとした瞬間に死にたくなって線路をじっと見つめてしまうというのも、僕がこの不可思議な体験をする以前から発症していた、日常的な発作のようなものだった。そのうえ僅かずつではあるけれど、僕はこの状況に慣れつつある。
 何しろこの生活を続けるうえで必要なことが現時点では何一つないからだ。思えば僕が緊張や不安といった感情に苛まれるのは、決まって明日のことについて考えるときだった。この先に何が起きるのかを事前に知っていれば、そんな感情に悩まされることはない。ただ同じ時間をなぞって、同じ行動をし、同じだけの活力で明日を迎えればいいだけのことなのだ。そうするだけで無難にこの日常をやり過ごすことができる。
 けれどもそれが五年、十年続くというのならば話は別だ。
 一見すると僕にとっては都合のいい世界も、孤独という点では以前と何も変わらない。たとえ僕がこの場所で友達を作ろうとも、七月の二十日を超えた段階ですべてがなかったことにされてしまう。それはとても虚しいことではないだろうか。
 僕が求めているのはそういうことではない。ただ、人並みに生きていければそれだけでよかった。それが何年先の話になるのかはわからないけれど、あのとき、僕が苦しくても退屈な学校生活を耐え抜いて来れたのは、漠然とした将来への期待があったからだった。あまりにも曖昧で、けれども僕にとっては確かな期待。
 今、僕の世界にはそんな将来はどこにもない。自分が何事もなく笑って過ごせる未来も、あのときあんなことがあったねと過去を笑い話にできるいつかさえも。
 だからこそここで僕が彼女に声をかけてしまったのは、言ってしまえば気まぐれではなく必然だったのではないかとも思う。途轍もなく不甲斐ない話ではあるけれど、僕は今さらになっていつまでも変わらずにいる自分に変化を求めたのだ。

 梅雨の心地よさに、そろそろ苛立ちを覚えてくる時季のことだった。真昼間だというのに校舎の中は不穏な物暗さが染み渡っていて、なぜだか、夜の学校に忍び込んだときみたいな背徳感が胸に湧いた。窓ガラスを叩く雨はいつになく弱々しくて、歩いていると、廊下から滲み出る湿気臭さに喉が詰まった。
 クラスメイトの女子三人組から追いかけられるのが、もう何回目になるのかは数えていない。昼休みになって僕が席を立つと、それを見計らったかのように彼女たちがつけてくるので、数える方が無駄だということを早々に悟った。
 ただ、途中で飽きてしまうのか、彼女たちは七月の十日を過ぎたあたりから僕を追いかけなくなる。そのため、僕が彼女たちに追いかけられるのは梅雨の間だけだった。
 そしてその日も例にたがわず、サボり気味だった学校に久ぶりに登校したかと思えば、昼休み、僕は彼女たちに追いかけられる羽目になったのだった。完全に忘れていた、と思った。最近は学校に行く意味を見出せず、無断で学校を休んでは街でぶらぶらすることが増えていたのだ。散々だと思いながらも、定石通り僕はトイレに逃げ込んだ。
 個室に入り、しばらくの間便器の上でじっとしていた。それから数十分後、これもまたいつもの通りに、昼休み終了間際の時間を見計らってトイレを出た。
 彼女が現れたのは、そのときだった。
 そう。少なくとも僕がこの世界のことを理解し、加えて周りを刺激しないように努めるようになってからは、彼女と鉢合わせることはなかったはずだった。およそ二百日の間この夏を繰り返しているけれど、間違いなくそうと断言できる。
 思いがけない出会いにふと足を止めて、僕はその女の子を見た。
 彼女は中央階段を挟んで向こう側の、女子トイレからゆっくりと出てきた。僕のいる男子トイレとは反対側のその入り口で、俯いたまま濡れたスカートを握り締めていた。しかし、唇を噛み締めて悲しそうに震えている、ということはなく、まるで能面でも張り付けたかのような無表情でその場に佇んでいた。
 瞳は虚ろで、若干の影になった肌はそれでも驚くほどに白く見えた。彼女がそのようにしてそこに佇んでいるのには、確かな理由が各所にあった。
 肩先に触れるか触れない程度の髪の毛先から、ぽつりぽつりと水滴がしたたっている。
 彼女は、まるで雨にでも打たれてきたかのように全身がびしょ濡れだった。そんなはずはないのに。ぴたりと肌に吸い付いた長袖シャツが、薄っすらとその下着を浮かび上がらせていた。思わず目を背けてしまうくらいに。
 それが只事ではない状態ということくらい、僕はわかっていたのだ。わかっていて今までずっと見て見ぬふりをしてきたのだ。
 いつからだっただろう。それは僕が初めてこの場所に訪れたときだったかもしれないし、夏が繰り返されるようになって数日が経ってからのことだったかもしれない。あるいはそのもっと前の出来事だったような気もするけれど、彼女はいつだってどこか濡れているように見えた。その瞳も、その心の奥底でさえも。
 もちろん部外者である僕が彼女の感情を完全に推し量れるのかと問われればそんなことはないけれど、自分の立場になって考えてみればそれが決して快いものではないということくらい理解できていた。いや、そうでなければおかしいのだ。なぜなら彼女のその姿は決して自然なものではなく何者かによって水をかぶせられたものだったからだ。
 いじめ、だった。それももっとも性質(たち)の悪い陰湿で悪質ないじめ。
 僕がこの目で見たのは本当に数える程度のものでしかなかったけれど、虐げられていると判断するにはおそらくは十分だった。たいていは僕がこのトイレに逃げ込んだ後――つまりはクラスメイトの女子三人組から逃れ切った後に、また別の女子たちがこの場所にやって来る。
 静まり返ったこの場所では、僕のいる男子トイレからでも女子たちの高笑いが聞こえた。階段を挟んで反対側の女子トイレ。そこにはおびただしい数の嘲笑もあれば、惨たらしいほどの悪罵も含まれていた。そして数分後にはさっさとどこかに消えていってしまうけれど、その余韻と標的にされていた少女だけがここに残る。その少女も数秒後にはどこか別の場所に消えてしまうけれど、どうやらこの日は違ったようだった。
 どうしてだろう、と僕は思った。本来ならそれは決して起こり得ないことなのだ。非常に情けのない話ではあるけれど、僕は彼女を避けていた。関わりたくないからと言ってずっと見て見ぬふりをしてきた。手を差し伸べられるだけの度胸はないし、差し伸べたところでこの世界ではすべてがなかったことにされてしまう。それならば最初から関わらなければいいだけの話だった。
 しかしいつもならすでにいなくなっている彼女が、この日はまだ女子トイレの前にいた。
 もしかすると、僕が普段とは違う行動を無意識に取ってしまったために、それが影響して彼女の方も以前とは違う行動を取ってしまったのかもしれない。
 そういうことは少なくなかった。たとえば学校を無断で休んだ日に、来るはずもなかった親からの連絡が来たり、話しかけてくる予定のなかったクラスメイトが、僕の遅刻を理由に先生からの伝言を伝えてきたり、些細な食い違いによって生じる言動の差異はこれまでにも多々あった。
 今回もそうなのだと思った。そこに特別な理由などなく、ただ単に僕の取った行動によってこの世界が僅かながらに歪められてしまっただけなのだと。だから彼女のことなど気にせずに、何事もなく通り過ぎれば何の問題もないはずだった。そうすればまた元の日常に戻ることができる。
 しかし、気がつくと僕は彼女の前まで足を進めていた。自分でも理解できぬまま、彼女のところに向かっていた。
 おそらくはこれを何かのきっかけとでも思ってしまったのだろう。今の今まで見て見ぬふりをしておきながら、いざこんな状況になってしまったら、声をかけずにはいられなかったのだ。こんなことをしても何が変わるわけでもないのに。
「……大丈夫、ですか」
 そう言ってハンカチを差し出してみるが、反応はなかった。
 彼女は俯きながら、自分の足元をじっと見つめているだけだった。足でこすってしまえば簡単に消えてしまう程度の、小さな水たまりだった。そこに映る自分の顔と目を合わせるように、彼女は長い間沈黙を保っていた。
 無視されているわけではなさそうだった。ただ単に、僕よりも足元に広がる水たまりの方が重要だったというだけだ。流れる静寂が痛い。なけなしの勇気を振り絞って、僕は「濡れてますよ」ともう一度彼女にハンカチを差し出した。
 視線がハンカチに向く。それから彼女はゆっくりとそれを受け取った。まるで操り人形のように意思の感じられない動作だった。実際にそれは間違っておらず、彼女自身もどうしてそれを受け取ってしまったのか信じられないみたいに、はっと口をわななかせた。
 揺れた瞳を一瞬だけこちらに向けて、次の瞬間にははじかれるように僕に背を向けていた。そして何も言わずに走り去ってしまった。残された僕は感情の行き場がないまま立ち尽くすことになった。

 ……実を言うと、僕はあの女の子のことを知っていた。
 彼女とは一年生の頃に同じクラスで、あちら側から五回ほど話しかけられたことがある。初めの四回はクラスの打ち上げに誘ってくるなどの実にありふれたものばかりだったけれど、最後の一回はちょっとだけ違った。
「いつも一人でいるけど、寂しくない?」と彼女は僕に言ったのだ。
 憐みとは違う、純粋にこちらを気遣ってくれているような目で。事実、彼女以外に僕をクラスの打ち上げに誘ってくれた人など今までに一人もいなかった。その時点で彼女だけは他のクラスメイトとは何かが違った。そのときの僕は「一人でいるの好きだから」と強がったことを言ってしまったけれど、「そっか。何かあったらいつでも私に言ってね」と微笑んだ彼女の言葉に、ちょっとだけ救われたことは確かだった。
 あのとき、ださくても彼女のことを頼っていれば、もしかしたら僕にも友達というものができていたのかもしれない。しかしそこまでして友達が欲しいわけではなかったし、ましてや異性にそれを頼むなんてのは自分のプライドが許さなかった。
 ――とにかく。かけ値なしに言ってしまえば、彼女はそういう子だった。
 嫌いな人間など誰一人もいないのではないかと思えるくらい、誰にでも優しかった。クラスの中心的な位置に存在する女子グループに所属していて、いつも何かしらの話題で笑っている印象があった。サッカー部や野球部の男子ともよく話していることがあったし、クラス外にも誰かしら友達は存在していて、(はな)から僕なんかとは住む世界が違うように思えた。
 そんな彼女がいじめられているというのが、どうにも未だ信じられずにいた。
 しかし関わってしまった以上、もう後戻りをすることはできない。僕はおもむろに廊下の窓を見据える。
 雨はまだ降り続いていた。