一つだけ言っておきたいことがある。僕は別に、いじめられているわけではない。
 ならばなぜ言葉を交わしてくれる相手が自分には誰一人として存在しないのか。もちろん最初のうちはぎこちない笑い方で僕に接してくれた人もいた。
 入学当初はおそらくは誰もが不安だったのだろう。中学とは違い、高校は小学校の頃からの知り合いや家の近い幼馴染、あるいはクラスは違えど同じ高校に行くことになった同級生の誰かなどといった自分にとって唯一の救いともなる存在は数少ない。少なくとも僕にはそんな相手はおらず、入学式当日は緊張で腹を下すくらい孤独に苛まれていた。
 前述した通り、当然、そういう風に「緊張」という言葉を顔に張り付けてお腹を抱えていたのは僕だけではなかったが、中には入学前からLINEのグループで繋がっている人たちもいた。どこでそんなコミュニティが生まれたのかは甚だ謎であるが、そういう人たちは前もって繋がっていたおかげか初日から友達作りに成功していた。
 周りが次々と友達を作っていく中で、顔見知りのいない、積極的に話しかける勇気すらない内気な者たちだけが、だんだんと取り残されていく。それを横目で見ていると、不本意ながらもこの先のことを想像してしまい、憂鬱になった。
 それでも僕は誰かに話しかけるということが一向にできずにいた。おそらくはここが僕にとっての分岐点だったのだろう。先程も言ったように、僕にはぎこちない笑い方で接してくれる相手が一人だけいた。
 後ろの席の、僕と同じような根暗な男子だった。彼は授業の合間の休み時間になると、僕の背中を人差し指で二回ほどつつき、たびたび話しかけてきた。「好きなバラエティー番組ある?」「どこの中学校に通ってたの?」「じゃあ家は木更津の方?」と、およそどうでもいいと思うような質問を繰り返ししてきた。どうやら彼は最初の友達作りの相手として僕を選んだらしかった。
 一方で、まんざらでもなかった僕は、彼が話しかけてくるたびに体を捻り、いかにも後ろの席の友達と話していますというような様相を周りに見せつけていた。
 このときの僕は、彼と友達になるのだろうと漠然と考えていた。一年間という僅かな時間ではあるけれど、これで二人組のペアを組むときには困らないだろうし、昼食をとるときもきっと一人になることはないだろうと。しかしそれが安易な考えだったということを僕は一ヶ月後に知ることになる。
 異変に気づいたのは、授業中に後ろの席から声が聞こえたときのことだった。
 どうやら、彼が隣の席の男子と会話をしているようだった。最初はわからないところを教え合っているだけだと思っていた。実際にそうだったし、それで何か悪影響が及ぶこともきっとないと思っていた。だが日を追うごとに彼らの仲は深まっていき、ついには僕をも差し置いて休み時間中に話をするようになってしまった。
 そしてある日の昼休み、彼は弁当箱を片手に持ちながら「ごめん」と僕に言った。意味がわからなかった。彼は申し訳なさそうに目線を逸らし、離れた場所で机を囲んでいる他のクラスメイトのところに行った。そこには彼の隣の席の男子もいた。
 つまるところ、僕はフラれてしまったのだ。
 しかし「ごめん」と謝られた理由が未だに僕はわかっていない。わざわざそれを言う必要はあったのだろうか。罪の意識があるのなら僕をその場に誘えばいいだけの話だし、そんな同情するような目つきで謝られても心には何も響かない。
 そもそもの話、僕たちは別に一緒に昼食をとっていたわけではなかった。休み時間中に適度な会話をし、前と後ろという机を囲むにはうってつけな席であったのにもかかわらず、それぞれが黙々と弁当をつついているだけだった。だから謝る必要性なんてどこにもないのだ。むしろそれは僕に対しての冒涜だった。
 とはいえ結局、僕がもう少し積極的で、何事にも自分から誘えるような性格だったならこんなことにはならなかったのだ。少しの度胸さえあれば、独りになることはなかった。だからこそこれは彼が悪いというわけではないし、僕が腹を立てているのは、一向に変わることのできない僕自身に対してのみだった。

 入学したての頃、僕がもっとも恐れていたのは独りになることだった。そしてあのときから僕に友達ができたことは一度もない。二年生に進級した今でもそれは変わらない。

 とても残念な話ではあるけれど、二学年というのは入学当初と違いすでに仲の良いグループができあがっている。一年生の頃のように誰かが話しかけてきてくれるわけではないし、そのときにはもう僕は友達を作ることは諦めてしまっていた。
 居心地の悪さを解消するための処世術として、机に突っ伏することを覚えた。周りの視線から逃れるための対処法として、本を読むことに徹した。粋がって芥川賞やら直木賞やらを読み漁ってみたが、もともと本が好きではなかったので内容はほとんど覚えていない。ページをめくって、戻して、その繰り返しだった。
 そんな僕に憐みの視線を向けてくるクラスメイトは少なくなかった。「あいつ、いつもひとりだよな」「友達、いないのかな」「かわいそうだから話しかけに行ってやれよ」などと、彼らが実際にそう言っていたわけではないが、目が合うたびに僕を蔑んでいるのではないかと思うと、途端に息が苦しくなった。
 そしてあるとき、僕には理解ならない事態が起きた。
「この人、絶対寝たふりしてるよね」
 僕が休み時間中に机に突っ伏しているときのことだった。僕の前の席で、女子たちがひそひそと何かを話し合っていた。話の内容こそわからなかったものの、一言だけ聞き取れたその言葉に僕は傷ついた。――この人、絶対寝たふりしてるよね。
 彼女たちは隅の方で特定の友達とだけつるむような、あまり自分からは主張しないタイプの人たちだった。だから僕のような人間のことはある程度理解できていたのかもしれないし、だからこそ僕が寝たふりをしていることを簡単に見抜けたのだろうとも思った。
 しかしそれだけにとどまらず、彼女たちは昼休みになると、奇妙な笑みを浮かべて僕の後をつけてきたのだった。尾行に気づいたのは本当にたまたまだった。廊下を歩いている最中、教室の窓ガラスに視線を向けてみると、彼女たちがそこに映っていた。ごぼうのような体をしたのっぽな女子と、にやにやと笑いながら僕を凝視する女子、そして肌荒れの酷い足を丸太のように振り回すふくよかな女子。
 なぜ尾行されているのかわからなかった。当然わかるはずもない。ただ、後をつけられたことによるデメリットはこのときの僕には間違いなく大きかった。
 一年生の三学期から、僕は昼休みになると別棟のトイレを使用するようにしていた。そこは僕にとっての安息の地だった。人通りも少ないし、ここなら誰にも邪魔されずに落ち着くことができる。ただ、さすがにトイレで昼食をとることには抵抗があったので、昼休みの間はスマートフォンを延々といじり続けるのが日課になっていた。
 そんな僕のテリトリーに、彼女たちは堂々と踏み込もうとしていた。
 もしかすると、いつも僕が昼休みになるといなくなる理由、それが気になって暇つぶしがてら突き止めようとしているのではないか。そのいやらしい表情を見ているとますますそう思えた。彼女たちは僕を退屈しのぎのオモチャとして利用しようとしているのだ。
 僕は怖くなって全力で走った。廊下の角を曲がると、二段飛ばしで階段を駆け下りた。すると背後から得体のしれない笑い声が聞こえた。女子たちが僕を追いかけていた。
 僕と同じように二段飛ばしで駆け下りることはせず、一段一段を恐ろしいスピードで駆け下りていた。そのため、彼女たちの姿が遠のいてゆくどころか、むしろだんだんと距離が縮まっているようにさえ思えた。
 心臓の鼓動がやけにうるさい。僕は必死になって廊下に出ると、とりあえずそこにあった男子トイレに身を隠した。
 しばらくして、女子たちの気配が消えた。
 トイレの個室に入って便座に座ると、乱れていた呼吸が次第に整っていく。それから冷静になったところで、ふいに猛烈な悔しさが湧いた。自分はいったいこんな場所で何をしているのかと。
 僕はこんなことをするために高校に入ったわけではないのだ。あの頃思い描いていた学校生活は、もっと刺激的で華やかだったはずだ。そうでなくとも、普通に友達を作って、普通に授業を受けて、普通に歳を取っていければ何の文句もないはずだった。
 あわよくば恋人でも作れたら、なんて考えていたあの頃の自分が恥ずかしい。そんなものはこの学校のどこにもなかった。あるのは好きでもない女子にしつこく追いかけ回される未来と、選択を間違えてしまったという自分への後悔だった。
 もともと、僕はこの学校に入るつもりがなかった。さして頭もよくないのに高望みをして受験した結果が、この――滑り止めの私立高校に入ることになった理由だ。しかしそのことを素直に認められなかった僕は、この教室で自分だけが特別なのだと驕っていた。そしてこれまでにあった数々の不快な経験がその思いに拍車をかけた。
 教室で馬鹿話をするクラスメイトたちが、むさ苦しく思えて仕方なくなった。その内容の半分以上は下ネタで構成され、話が変わったかと思えば身の程もわきまえずに気になっている女子の査定に入る。顔を寄せ合わせて声を潜めたかと思えば、また下品な言葉が教室内を飛び交っていく。まるで動物園だった。僕はこのわけのわからない混沌とした檻の中に、間違って放り込まれてしまったのだ。
 いつしか、いつになったらこの生活から抜け出せるのかということを真剣に考えるようになっていた。卒業するにはどう頑張ってもあと二年は耐えなければならない。その間に友達を作ろうという思いはないし、あちら側からしても僕を友達にしようとは思わないだろう。中学生の頃、クラスメイトから「話しかけるなオーラが出ている」と言われたことがあったが、今の僕はまさにそれだった。誰にも話しかけて欲しくなかった。
 ただただこの二年間をどう生き延びるのか、それだけを念頭に置いて生きていた。
 僕は机に突っ伏していた顔をおもむろに上げると、教室の喧騒を傍目に薄ぼんやりと瞼をまばたかせる。梅雨が終わり、どうしようもない夏が始まった。窓の外からは絶えず蝉の声が聞こえていて、隙間から入り込んできた風が生温くて気持ち悪かった。
 それだけに、なぜ自分が未だこの風景を眺めているのかわからなかった。
 あれからどれくれいの月日が流れただろう。もう終わっているはずの夏は、気づけば再び始まっていた。それはまるで自分一人だけが閉じ込められているかのような鬱陶しい夏だった。

 僕はこの七月を、少なくともすでに十回は繰り返している。