◇プロローグ

そもそも家に電気がないってどういうことだ。

灯りも、電子レンジも、冷蔵庫も。スマホの充電だって思うようにできない。どうして俺が、こんな不便な生活を強いられなきゃならないんだ。

「唯一(ゆいち)、早くしないと肉が腐るぞ。さっさと歩け」
「家はまだかよ。あち~。コーラー飲みてぇ」

盛大に毒づいて、涼しい顔で前を歩く父親の後を追う。俺の方が背は高いし、断然若いのに、五十代くらいであろう父親を追い抜くことができない。むしろどんどん離されている。父親は両手に買い物袋を持つというハンデを背負っているにもかかわらずだ。

初夏の日差しのせいで、喉に何かが張り付いていそうなほどからからで、額からは汗がとめどなく溢れている。足もがくがくで、今にも崩れ落ちてしまいそう。この軽く二十度は超えていそうな激坂も、どんな嫌がらせだ。必死に足を前に出し続けるも、ゴール地点である家は全然見えてこない。

道の両脇には古い民家があって、大きく背を伸ばした木々が塀を乗り越え、必死な俺をあざ笑うかのように見下ろしている。それがまるでバカにされているようで、無性に腹が立った。道路の舗装もきちんとされてなくて、ところどこころ穴が空いている。白線は薄く消えかかり、それが一瞬蛇に見えて焦った。

こんな不便なところに家を借りて、しかも電気なし生活をしているなんて。十一年ぶりに会った父親が、まさかこんな変なやつだとは思いもしなかった。

あー、今すぐにでも自分の家に戻りたい。帰ってゲームして、パソコンいじって、好きなもの食って好きなものを飲みたい。

俺はどんどん遠くなる父親の背中に、無意識に舌打ちした。

◇◇◇

だいたいのものは、指一本で簡単に手に入る。流行の物はもちろん、クラス内での人気も。金の心配だっていらないし、大抵のことは思い通り。

今日も俺は、教室の片隅でぽちっと購入ボタンを押す。その瞬間、クラスメイトの篠原大輝(しのはらだいき)が、弾かれたようにやってきた。

「うわっ、唯一、お前またこんな高いもの買ったのかよ」

六万弱する高機能ヘッドホンを簡単に手に入れた俺と、購入しましたという画面が浮かぶスマホを交互に見ながら、大輝が大きな声ではしゃぐ。

その声に、他のクラスメイトからの、羨望の眼差しが注がれる。この瞬間が、なによりも気持ちいい。

「うんまぁ。あんまりよくなかったらお前にやるよ」
「まじ? やったね!」

大輝は嬉しそうに、ガッツポーズを決めている。最近また髪型を変えたらしく、緩めにかかったパーマヘアがふわりと揺れている。

俺が買った物の支払いは、母親のカードから落ちるようになっている。欲しいと思ったら今みたいに簡単にぽちるし、毎月どのくらい支払いが来ているかは知らない。

だからといって、母親から怒られることはない。もしかすると、母親自身も毎月いくら落ちているか把握していないかもしれない。

「さすが女優の息子だよな。俺も唯一の家に生まれたかったー」

腹の底から羨ましがるような声を上げる大輝に「ふーん」と曖昧に頷いてみせる。

大輝はよくそう口にするけれど、いいことばかりではない。週刊誌が家に来ることもあれば、酔っぱらった大人が夜中に押し寄せてくることもある。

俺の周りは生まれた頃から大人の声で騒がしく、常に慌ただしい。

「そういえば、昨日から橋田かんなちゃんのドラマが始まったんだけどさ、お前会ったことある?」
「いや、ない」
「でも親に頼めばアイドルに会えたり、サインもらえたりするんだろ?」
「現場についていけばな。最近は行かないけど」

この手の質問は物心ついたときから嫌というほどされている。通っていた学校の先生から聞かれたこともある。

あれは確か小学校三年生の時だった。自分は昔からとある女優さんのファンで、お母さんにサインを頼めないか? というものだった。

公私混同も甚だしい上、放課後わざわざ俺を呼びだし、なんの話かと思えばそれだったことにひどく失望した。

その時の俺は、放課後に学童に行くのが嫌で嫌で仕方なく、子どもながらに悩んでいた。それなのに、そのことにも気づかないで、自分の欲望を押し付けてくる教師に、ひどく吐き気がした。

だから俺はその日、勝手に学童から抜け出し、教師や母親を困らせてやった。もちろんこっぴどくしかられたし、母親にはゲーム機を没収させられそうになった。だがなんだかんだ母親は俺に甘い。もうしないと涙目で訴えると許してくれた。

母親は表向きは、どんな役どころもこなすカメレオン俳優なんて言われている。でも裏の顔はちょっとだらしなくて、いつも誰かにちやほやされていないとメンタルを維持できない弱い人。そしてちょっとぶっ飛んだところがある。

このよくわからない「唯一」という名前は、母親が「私の唯一の王子様」という意味でつけたらしい。「王子」と「唯一」で迷ったと聞かされ、唯一でよかったと本気で思った。

元々ぶっとんでいるが、妊娠中ということもあり、マタニティハイになっていたのだろうと、離婚した父親が言っていた。

父親と母親は俺が六歳のときに離婚していて、父親は今どこで何をしているのかも知らない。ただあの人も変わった人だったと記憶している。

そんな痛い母親だが、一つだけ感謝していることがある。美人といわれる母親のお陰で、俺は容姿に恵まれた。母親譲りの目鼻立ちがハッキリしたハーフっぽい顔に、身長も高めの一七八センチ。どこにいても目立つらしく、たまに街中でスカウトされるし、女子からもよく告白される。でも付き合ってもなぜか長続きしない。

大半が「唯一くんって、案外普通なんだね」と言われ振られる始末。自分から寄ってきたくせに、酷い話だ。逆に何を期待していたのだろうと、聞きたい。

「唯一、また何か買ったの?」

大輝との会話を聞きつけ、クラスメイトの相川咲奈(あいかわさな)が近づいてきた。俺の前にちょこんと座り込むと、頬杖を突き上目遣いでみつめてくる。

「いいな~、唯一は。ほしいものなんでも手に入って。そのスマートウォッチも新しいやつじゃない?」
「あぁ、うん」
「かっこいい! すごく似合ってるよ。あ、ねぇ、今日放課後暇? デートしない?」

長いまつげをバサバサと揺らしながら、上目遣いで俺を見る相川。さらっとした栗色の長い髪に、大きな二重の目。小さな顔の下には、華奢な胴体がついていて、そこからすらっとした手足が伸びている。

相川は学年一可愛いと言われている。そんな相川はどうやら俺に気があるらしい。それは俺の容姿が好きなのか、俺の立ち位置が好きなのかはわからないが、好意を向けられて悪い気はしない俺は、誘われたら遊ぶ。

もちろん付き合っているわけではない。二人でいると相川が告白してほしそうな空気をだしてくるが、自分から告るとか、行動にうつすのは面倒で、好意には気づかないふりをしている。

毎日飽きもせず笑顔を張り付け、いい奴を演じるのは正直疲れるが、そうすることで豊かな生活が送れている。今さらこの生活を捨てるなんて想像もできない。

「いいね。遊ぼうぜ」
「やった。じゃあハンバーガーショップ行って、その後カラオケでも行こうよ」
「おう、そうしよう」

短く返事をすれば、相川は嬉しそうにぴょこん立ち上がる。すると、ちょうどその後ろを誰かが通りかかった。タイミング悪くぶつかってしまい、相川が少しよろっとした。

「いった」

抗議の声を上げる相川の背後には「ごめんなさい」と、猫背気味で頭を下げる女子生徒の姿があった。クラスメイトの、影山美琴(かげやまみこと)だった。胸元には大事そうに何かを抱えている。

「もう、気をつけてよ」

目を尖らせる相川の視線の下で、影山さんは小さくなっている。こうやって並ぶと、二人が対照的なのがわかる。目立つタイプのいわゆる一軍の相川と、大人しく地味な影山さん。天変地異が起こっても、絶対に交わらないような二人だ。

「……ご、ごめんなさい」

影山さんはぺこぺこと何度も謝ると、席へと戻って行く。今のはどちらかというと、相川のほうが悪いような……。

いそいそと席に戻る影山さんを、同情の目で見送る。影山さんとは今年初めて同じクラスになったが、いつも教室の隅にいて、はっきりいって影が薄い。

黒くて長い髪を一つに縛り、制服を校則通りきっちり着こなす、まさに優等生。いつも俯いていてはっきり顔を知らないし、誰かと笑って話す姿も見たことがない。

しばらく彼女を盗み見ていると、影山さんはさっき手の中に抱えていた物を机の上に広げ、針と糸でそれを縫い始めた。

何してるんだろう。縫物をしているように見えるが、それが何かわからない。あれの何が楽しいのだろう。

「影山さんって、暗いよね。あの人苦手」
「え?」
「しかもいつもああやって、教室の端で手芸とかしてるよね。私家庭的なんですアピール、やめてほしいよね」

相川が吐き出すように言った。

家庭的アピールって……。なんでそんなこと。

「それに影山さん、けっこう唯一のこと見てるし」
「は? そうなの?」
「そうだよ。気づかなかった?」

相川の声色に、とげとげしさが滲んでいる。

「影山さん、あぁみえて意外とミーハーだったりして。どうする? 告白されたら」
「いや、ないだろ」

慌てて手を左右に振る。相川は「だといいけど」と言いながら、ふいっと彼女から目を逸らした。

よく見てる、か。まぁ見られるのには慣れているけど、まさかあの影山さんも俺を見ているのは意外だった。

生まれた時から芸能人の子どもということで、注目を浴びることが多く、学校でのポジションも必然と陽キャラ。そのほうが何かと得だということも、長年の経験から知っている。教師うけも女子うけもいいし、面倒な行事ごとも、押し付けられにくい。

でもこのポジションを維持するためには、それなりに努力は必要だ。いつ誰がどこでバズルかわからない時代に、アプデを怠ったら痛い目を見るだろう。

だから見た目はもちろん、流行のものには敏感でいるつもりだし、SNSだって常にチェックしている。女子グループのトップに君臨する相川だってきっとそうだろう。

俺は影山さん見たいな地味な学校生活は送りたくない。もっと友達とはしゃいだり、見た目にも気を遣えばいいのに。そのほうが楽しいに決まっている。影山さんはそういった努力が足りないだ。

「そういえば唯一、進路調査票だしたか?」
「いやまだ」
「今週中だろ? どうすんの? とりあえず大学?」

大輝に問われ、返答に迷う。高二のこの時期に、いまだに進路が決まっていないのはかなりやばい。担任からも早く進路を決めろと言われるが、すぐに夢なんてみつかるはずない。

「大輝は専門学校だっけ?」
「まぁーな、家が理髪店だし、美容学校行っていつかは家を継ごうかなって。なんだよ。唯一はまだ決めてねーのか? お前はあれになれば? 俳優とかアイドルとかさ。コネあるからちょろいだろ」

考えなかったこともない。なにせ、あのだらしない母親だってやっているんだ。家では家事もせず、洗濯から掃除までなにもかもお手伝いさん任せで、あの人の手料理というものを食べた記憶がない。

そんな母親が二十年以上、女優として最前線で働いているんだ。二世として売り出してもらえれば、そこそこいけるんじゃないだろうか。

「最悪それもありかもな」
「デビューしたらかんなちゃんに会わせろよ!」
「おう。任せろ」

冗談めかして言ったところで、なぜか影山さんが手を止め、真っ直ぐ俺を見ていることに気づいた。

やべ、まさか俺らが噂していたから怒ってる? 

全てを暴かれてしまいそうなクリアな瞳を向けられ、魔術でも掛けられたように、思考もなにもかもが止まる。

――なに?

聞きたかったが、言葉が出てこなかった。

◇◇◇

学校が終わると相川と遊び倒し、帰宅したのは二十時だった。カラオケで歌って、そのあとゲーセンのユーフォーキャッチャーで相川が欲しがっていた、大きなあざらしの人形をとれるまでやった。一万円近くつぎこんでしまったが、相川も喜んでいたし、結果オーライということで。

家に帰ると、玄関前に置いてある宅配ボックスの中に、いくつもの荷物が届いていた。どれも俺が頼んだものだろう。何を頼んだのかも忘れたが、両脇にそれらを抱えると、誰もいない家の中へと入った。

23区内にある自宅は、5SLLDKと無駄に広く、使っていない部屋の方が多い。

地下には防音室もあり、カラオケやレコーディングもできる。一度だけCDを出したことがあるという母親が当時、一生懸命練習したらしいが、今はほとんど使われていない。ただの物置小屋と化している。

二階にある自室へと向かうと、ドアを開けた瞬間、ひんやりとする冷気が俺を出迎えた。部屋はキンキンに冷えていて、冷房をつけっぱなしで学校に行ってしまったのだと気づく。朝はぎりぎりまで寝ているせいか、つい冷房の電源を切り忘れてしまう。

でも帰ってきて涼しいのはラッキーだ。パソコンもつけっぱなしだったらしく、デスクトップの背景がくるくると変わっている。

荷物を適当に放り、ベッドにどかっと豪快にダイブすると、ぼんやりと天井を眺める。その間も、ポケットにしまっているスマホが、ひっきりなしに鳴っている。

相川か、大輝、もしくはクラスのグループラインってところだろう。大した用事もないのに、みんな何かしらメッセージを打ち込んでくる。

しぶしぶそれを取り出し見ると、さっき別れたばかりだというのに、相川からたくさんのメッセージが届いていた。

『今日は楽しかった』『ありがとう』『見て、とってくれた人形、さっそく飾ったよ』

人形と一緒に撮った相川の写真が、送られてきていた。背後に映るのは可愛らしい部屋で、いかにも女子といった感じ。

大輝からは『相川と一緒に帰ったんだって?』『いいな~』『なぁ、どうなった』『付き合うのかよ』などの文章が連なっていた。

クラスラインは遡るのも億劫なほど、たくさんのメッセージが入っている。内容はくだらないことばかり。担任がどうのとか、近くにできた店がなんだとか、誰と誰が付き合い始めたとか。心底どうでもいい。

「どいつもこいつも暇だな」

教室では絶対に口にしないことを、独り言のようにこぼすと、適当に返信した。すると、二人とも待ち構えていたかのようにすぐに返してきた。

『唯一何してるの?』
『今ご飯食べたところ』
『今からお風呂♡』

可愛い絵文字やスタンプを交え、俺が返さなくても頻繁に送ってくる。

『社会のプリントやった?』
『よるす』
『すぅーすぅー』

大輝に関しては意味不明。

いつも帰ってきてからもスマホは鳴りっぱなし。家に帰ってきてまで縛られることに、正直苦痛を感じることもあるけど、今の位置を維持するためには必要な行為。

本当の意味で独りになるということはできないけれど、常にだれかと繋がっていないと、怖いとも感じる自分もいる。疲れないのかと聞かれれば嘘になるけれど、そんな本音、誰にも言えるわけない。

夜の12時。相川から「おやすみ」のスタンプがきて、やっと終わったと安堵した。

だがそのあとも、相川や友人のSNSをチェックし、イイネをしまくった。これも必要な作業。相川のSNSには、俺以外からもたくさんの反応があった。ネット上でも、彼女は人気者らしい。

一通りパトロールが終わると、俺は部屋に置いてある冷蔵庫からコーラを取り出し、それを一気に飲み干した。

小さな冷蔵庫の中は物で溢れ、賞味期限があやしいのもある。整理しないといけないとは思うが、なかなか体が動かない。

来週、ハウスキーパーさんが来た時、この部屋の掃除もしてもらおう。そんなことを考えながら、届いていた荷物を開ける。

昨日頼んだものばかりだというのに、何を頼んだかよく覚えていない。中から出てきたのを見て、そうだったと思い出した。

新しいゲームのカードに、ブルートゥースイヤホン、某ブランドのリュックなどが出てきた。昨日の俺はこんなものが本当に欲しかったのか。しばらくそれらを眺めると、再び箱にしまいベッドに寝転んだ。

部屋には使わないまま放置された荷物が山積みになっている。オークションにでもだすか。いや、それも面倒くさい。そこに、玄関の扉が開く音がした。

「だから、私はそんなつもりでやってないの。それなのに、どうして今になって台本の内容が変わるの」

どうやら母親が帰ってきたらしい。夜中に帰宅することが多いが、今日は珍しく早い。

「視聴者の声を元に変更したそうです」
「はぁ……これだからドラマは嫌なのよ」

どうやらマネージャーと話している様子。しかもなにやら揉めているようで、気になった俺は吹き抜けになった二階のフロアから顔を出した。

「もうドラマの仕事はうけないから」
「わかりました」

マネージャーの時田さんが母親にぺこぺこと頭を下げている。最近クランクインしたドラマの話をしているらしい。

「はぁ、疲れた」

母親はリビングのソファに腰を掛けると、だらりと背中をソファに預け天井を仰ぐ。

必然と目が合う。

「あら、唯一、起きてたの」
「……あぁ、うん」

さっきまで怒っていたのに、俺の顔を見て、嬉しそうに微笑む。

「おかえりなさい。唯一くん」

時田さんも上を見上げ、可愛らしい笑みで言った。俺は目を逸らしながら、小さく頷く。

時田さんは確か三十代で、母親のマネージャー五代目の二年目。いつもニコニコしていて、俺にも優しい。学校は楽しい? 困っていることない? と、たまに様子を伺ってくる。

そんな優しくて温かい雰囲気の人だが、母親はいつも彼女に厳しかった。

「ねぇ、唯一。ドラマ見てくれた?」
「いや、見てない」
「もう、お母さんが出てるんだから見てよね~」

さっきとは打って変わってどこか甘えた声をだす。この豹変ぶりにはいつものこと。時田さんも慣れているのか、そんな母親を見ても別に驚きもしない。

本来の母親はこっちだろう。でもテレビの中の母親は、一切ふざけたり甘えた声をだしたりしない、真面目で清楚な女優。それが彼女が二十年間貫いてきたキャラだ。

「聞いてよ唯一。ここにきて、台本を変更するって言うの。ありえないよねー」
「へぇ、そうなんだ」
「もうドラマにはでない。映画だけにする」

なんだかよくわからないが、ドラマと映画は違うらしい。今回のドラマの役は、ネグレクトをするダメな母親役だと言っていた。聞いたとき、思わずぴったりじゃんと思ったが、どうやら気に食わないらしい。

「あ、そうそう。映画で思い出した。唯一に話があるの」

明日の天気でも告げるかのようなトーンで、母親が続ける。なんだか嫌な予感がした。

これは長年の勘だが、さもついでかのように告げるときは全然ついでのような内容ではないことが多い。父親と離婚するときも、転校するときもそうだった。

『あ、そうそう。唯一、私、お父さんと離婚するから』

そうあっさり言ったのを、六歳だったにもかかわらず鮮明に覚えている。俺は思わず、顔に不穏な影を走らせた。

「来月から海外撮影になっちゃって。一か月家を空けることになりそうなの」
「そうなんだ」

なんだ、それはラッキーだ。一人暮らしなんて最高だ。別に母親がいようがいまいがさほど変わらないが、いないにこしたことはない。こんなふうに相手する必要がないのだから。

無視すると「唯一が反抗期~!」と騒ぎ立てるし、黙って話を聞いていたら、脈略のない話に、頭痛がしてくる。そう、やっぱりいないほうがいい。食事だって、普段からお手伝いさんの料理か、デリバリーだ。今さら困ることは一つもない。

けれど、どういうわけか、時田さんが俺を同情するような目で見ていることの気づく。その矢先、母親がとんでもないことを言いだした。

「唯一、あんた一か月間、お父さんのところにいきなさい」
「はぁっ?」
「未成年一人でおいておけないでしょ。お父さんの了承はとってるから」
「待て待て、そんな勝手に……!」

慌てて階段を駆け下りる。けれど母親は、すました顔で台本に目を落としている。

なんで今さら父親のところに? 意味が分からない。小学生のガキじゃないんだ。一か月くらい、一人で生活できるに決まってる。

「俺は一人でも大丈夫だって」
「あんたが大丈夫でも、お母さんが大丈夫じゃないもの」

こっちを見ることもせず、ケロリとした口調で告げる。まるでずっと前から決めていたような言い草に、腹が立った。いつもそうだ。大事なことは俺に相談せず、勝手に決めてしまう。こういうところが、気に食わない。

「飯だってどうにでもなるし。朝だってちゃんと起きて学校に行く。試験勉強だってやるよ」
「そう言うことを言ってるんじゃないの」
「じゃあなんだよ!」

語気が荒ぶる。そんな俺に、母親がやっと視線を向けた。

「星野瞳が、未成年の子どもを放って海外に行くなんて、体裁悪いじゃない。ネットで叩かれたくないもん。だからお願い。お父さんのところに行って」

体裁って……。一理あるけれど、だからってもう何年も会っていない父親のところで暮らせって。うまくいくはずないだろ。俺は犬や猫じゃない。

「じゃあ、いつも来てくれるお手伝いさんに、住み込んでもらえばいいだろ」
「ダメダメ、あの人は来月娘さんが出産するから、しばらく休むことになってるの」
「じゃあ他の人を雇ってよ」
「よく知らない人を住まわせるなんて嫌よ。もう決まったことだから、ごねないで。唯一は昔から良い子なんだから、ね? ずっとお母さんの味方でいてくれたじゃない。大丈夫、お父さんの家からも学校には通えるから」
「そういう問題じゃ……」
「6月に入ったら行くって言ってあるから。それまでに荷造りしておいてね」

母親は自分の言いたいことだけ告げると、時田さんと打ち合わせを始めてしまった。

無茶な要望を押し付けられた俺は、魂の抜けた、ただの肉の塊と化していた。

◇◇◇

どんなに理不尽なことがあっても、朝は必ずやってくる。正直、昨日の怒りは収まっていない。それに俺はまだ納得していない。

あれからどうやって父親の家に行くのを回避しようか、考えをあぐねいていた。だがそうこうしているうちに、いつの間にか眠ってしまい、考えがまとまらないまま朝になっていた。

母親はあれから遅くまで仕事をしていたらしく、リビングには酒の空き瓶や、つまみが散乱していた。

俺が未成年じゃなかったら。大人だったら。こんな理不尽、押し付けられることなかったのに。子どもは不便で、いつだって親に振り回される。あぁ、早く大人になりたい。

しかも6月からって言ってたけど、今日は5月25日。つまり、一週間後には、父親の家にいかなければいけないということだ。

「あー、まじで最悪」

独り言をこぼしながら教室のドアをくぐると、いつもの風景があった。男子が教室の隅でたむろし、女子が鏡と睨めっこしている。朝飯を食うやつもちらほら。

「おはよ、唯一! で、あれからどうなったんだよ。もったいぶんないで教えろよ」

大輝が俺を見つけるなり、元気をまき散らしながら駆け寄ってきた。しかめっ面の俺の後を、小さく跳ねながらついてくる。大輝はいつも呑気で、悩みなんてなさそうで羨ましい。

俺は昨日のことが今もこびりついていて、正直誰とも話したくない気分。でもこの空間に来れば、そうもいかない。振り絞るようにして、声を発する。

「なんだよ朝から」
「相川のことだよ。なんか進展あったか?」
「別に。なんもない」
「はぁぁ!? なんでだよ! もったいねー!」

地獄でもみたような大輝の叫びに、思わず鼻で笑ってしまった。というか、なんでお前がそんなに必死なんだよ。

「早く付き合っちゃえよ。お前と相川が付き合い始めたら、俺みんなに自慢するのになぁ」

一人で勝手にそんな妄想をして、盛り上がっている。だからなんでお前が自慢するんだよ。

そう、心の中で突っ込んで自席に着くと、大輝も俺の前の席にどかっと腰を下ろした。しかもまだ「あーあ」とか、「せっかくのチャンスが」とかほざいている。

大輝がどうしてそんなに俺と相川をくっつけたがっているのかは知らない。そんなことより、自分が彼女作ればいいのに。大輝だってモテないわけじゃない。

髪型はいつだってお洒落だし、チャラそうに思われがちのようだが一途らしいし。中学のときは、三年間付き合っていた彼女がいたとか。大輝の彼女になった子は幸せだろうな、なんて、想像したこともある。

「唯一、おはよ」

俺らの会話を割くように、相川の声が届いた。

今日もバッチリ化粧をしていて、アップにした髪型も可愛い。

「昨日私の投稿見てくれたんだね、ありがとう。昨日買ってくれたリップも届いたら載せるね!」
「あぁ、うん」

それだけ言うと、相川は機嫌よくいつものグループのところへ行ってしまった。

昨夜相川が投稿したSNSに、俺との関係を匂わせたようなものがあった。ちらっと映った自分の横顔に『絶対かっこいいでしょこの人』といったというコメントがいくつもあって、やっぱり俺ってイケてるんだと、思わず口元が緩んだ。

でもそれがどうしたと反論する自分の声もする。俺がまとう武器は、どれも最強のはずなのに、時々満ち足りないような気持ちになる。

相川との放課後デートだって、別に心から楽しいと思ってやっているわけではない。帰ってもすることもないし、勉強なんてもってのほか。それなら相川と遊んでいるほうがましというだけ。

それから少しして、担任の宇都宮、通称「ウツボ」が、出席簿をもって入ってきた。

ウツボは三十歳独身で、ひょろっと縦に長い。目が三白眼で、少し離れ気味なところがウツボに似ているといえば似ている。誰がそう呼び始めたのかは知らないが、自分がそう呼ばれていることを奴は知っている。やめろと言わないところを見れば、案外気に入っているのかもしれない。

「全員いるな。つーことで、今から林間学校のグループ決めをやる」

出席を取り終えると突然、林間学校のグループ決めをすると言い始めた。周りからは「えー最悪」「だるーい」というブーイングが起こっているが、気に留める様子もなく、教壇で生徒達を見ながら「うるせー、黙れー」と笑っている。

しかも「俺の独断と偏見で決める!」というのだ。なんて横暴な。でも好きな奴と組めと言われてもそれはそれで困る。決めてくれた方が楽でいい。

うちの学校は、夏休み前に二泊三日で林間学校に行かされる。飯盒炊飯をやったり登山をしたり、レクレーションをしたり。なんの目的かは知らないが、受験前の思いで作りみたいなものだろう。はっきりいって面倒くさい行事だ。

ウツボは、男女別に出席番号で分け、それらを組み合わせるやり方で、六つのグループを作った。

俺は偶然にも、大輝と相川と同じだった。そしてクールで大人っぽい秦玲奈。もう一人は影山さんという組み合わせだ。このメンツで二泊三日過ごすのか……。偶然とはいえ、濃いメンツが揃ったな。

「じゃあ、係決めまでやれー。終わったらリーダーが報告に来い」

ウツボは騒がしくなる教室を見渡しながら、偉そうな口ぶりで言う。こんな行事必要なのか? 誰得なんだよ。まじでだるい。

山で蜂の大群に追いかけられるわ、友達が迷子になるわで最悪だった。はっきり言っていい思い出はない。

進路を真剣に考えている連中はこういった行事でも真面目にこなし、評価を得ようと必死になっているようだけれど、俺には関係ない。適当にやり過ごすことだけ考えよう。

「唯一! やったね! 同じ班だよ」

頬杖を突き、ぶすっとしていると、相川が嬉しそうに飛んできた。その後に続くように、大輝がニヤニヤしながら近づいてくる。

「よろしくね、星野くん。星野くんと一緒だなんて嬉しい」
「おう、よろしく」

秦もやってきて、慌てて余裕そうな笑顔を向ける。秦とはあまり話したことはないけど、彼女もまた相川と同じ一軍。大人っぽくて、ちょっとミステリアスな雰囲気がいいと男子の中でも評判だ。

年上の彼氏がいると聞いたことがあるけれど、それが本当かは知らない。でもいそうな雰囲気はする。

「誰がリーダーやる?」
「私嫌だー」
「俺だっていやだし」

早速四人で和気あいあいと話し合いをしていると、そこに影山さんがやってきた。のそっと入ってきて、驚きのあまり体が跳ねた。まったくと言って気配を感じなかったのだ。

「あの……よろしくお願いします」

一瞬シーンとした。影山さんの声を聞いて、みんな驚いているんだろう。いつも誰とも話さないし、授業であてられたときも、くぐもって聞こえないことが多いから。

「あ、えっと……よろしく、こっち座りなよ」

大輝がおずおずと声をかけると、影山さんは小さく頷いて俺の隣に腰を掛けた。

やっぱ大輝っていいやつだよなと改めて思う。俺はこんなふうにできない。言われたらやるけど、そうじゃなければ、やろうと思わない。滑ったらださいし、そんな姿を誰かに見られたくないから。

ふと隣に視線を落とすとあることに気がついた。

影山さんって、ちっこいんだな。おそらく相川より小さい。身長何センチだろう。膝に置かれた手だって、子どものものみたいだ。

手首だってめちゃくちゃ細い……ってあれ? 手首に青あざがある。新しいものではなく、少し古いもののように見えた。傷の一つや二つ俺にもあるけど、女子だし嫌だだろうな。

俺の額には、三センチほどの傷跡がある。子どものとき、どこからか落ちそうになって怪我をしたのだとか。その時の記憶はあまりなく、母親に聞いても渋い顔をされるだけで教えてくれない。まぁ、どうでもいいけど。

「じゃあ、リーダーになりたいやつー」

ぼんやりしていると、大輝を中心に係決めが始まった。こいつがいてくれて助かった。

「って、いるわけねーよな。どうする? とりあえずじゃんけんする? それともくじがいい?」

そんな明らかに面倒くさそうな役、やりたいやつなんているわけがないよな。もし当たったら最悪だな。あー、途端に気分が滅入ってきた。

「はーい、影山さんがいいと思いまーす」

すると、相川がスッと手を挙げた。そして向かいに座る影山さんに視線を送っている。突然名指しされた影山さんは、目をしばたたかせ、明らかに動揺していた。

「去年学級委員もしてたし、慣れてるっぽいし」

自然とみんなの視線が、影山さんに集中する。

「そうなんだ。えっと……影山さんどうかな?」

大輝が遠慮がちに聞くと、影山さんはすっかり俯いてしまった。

絶対適任じゃないだろ。その学級委員だって、押し付けられたに決まっている。陰キャラの宿命というか、なんというか。

「リーダー会議とかあるだよね? 私部活で忙しいし、やってくれると助かる」

秦がその意見に賛同するように口を開く。

「じゃあやっぱり部活に入ってない影山さんがいいじゃん」

その言い分はちょっと無理があるような……。だって俺も相川も大輝も、部活に入っていないんだから。

「影山さん、進学狙ってるんじゃないの? それなら絶対やっておいたほうがいいよ」

このままじゃ、女子二人に押し切られそうだ。本当にこれでいいのか。でも庇うようなことをすれば、俺に矛先が向く可能性がある。

仮にここで俺がやると言えば、株は上がるかもしれない。でもリーダーらしくできなかったら、「カッコ悪い」とか「意外」と言われるんだろう。そんなの、絶対に嫌だ。

ごちゃごちゃ考えていると「私やります」と、蚊の鳴くような声が耳に届いた。見れば影山さんが、控えめに手を挙げた。

え……? まじか。

「いいの? ありがとー、影山さん」
「ありがとう、助かる」

女子二人が大袈裟に拍手する。大輝もサンキュー、さすが! なんて言葉で、もてはやしている。本当にいいのか。なんだかもやっとする。

ちらっと影山さんの様子を伺えば、膝に置いた手を一点に見つめていて、それ以上口を開く気配はない。

「じゃあ私、飯盒係してもいい? 料理得意だから」
「私も」

女子二人が意気揚々と立候補する。リーダーをなすりつけていたときとは打って変わって、その顔は爛々としている。その激変ぶりに、思わず顔が引きつりそうになった。とはいえ、俺も同罪だけれど。

「じゃあ俺キャンプファイヤー。つうことで、唯一は生活係な」

リーダーが決まってしまえば、他の係はあっという間だった。

「影山さん、報告よろしく」

大輝が言えば、影山さんは席を立ち、教壇で待ち構えるウツボの元へ報告に行っていた。

その間、相川と秦が「すぐ決まってよかったね」「ラッキーだったわ」などと話しながら、自分の席に戻っていく。

仕方ないよな、これが世の中のルールみたいなもの。弱いものが負ける。それが嫌なら、もっと目立つようなことをしたり、無理にでも人に合わせて生きて行かないと。

ちらっと影山さんを見ると、ウツボに報告を済まし、こっちに戻ってくるところだった。天井から糸でつられたような姿勢で、まっすぐ歩いてくる。その姿はすごく落ち着いていて、やっぱり他の女子と少し雰囲気が違うと改めて感じた。

そんな彼女を見ていると、気付いたら「あのさ」と声をかけていた。影山さんは驚いたように俺を見上げる。

「あの、その……リーダーやってくれてありがと」

こんなふうに影山さんに自分から話しかけたのは、初めてだった。だからか、声が僅かに上ずった。

「いや、その。別に俺がやってもよかったんだけどさ」

頭を掻きながら、あははと笑ってみせる。なんで笑ってるんだろう、俺。あ、そうか。影山さんが笑ってくれたら、自分がホッとするからだ。

影山さんはいきなり声をかけられ驚いているのか、うつむいたまま黙っている。それを見て相川が言っていたことを思い出した。俺のことをよく見ているという、あの話を。

もしかすると、照れてるのかもしれない。男子に免疫なさそうだし、急に話しかけて悪いことをしたな。

「ごめんね、いきなり。困ったことがあったら言って。協力するから」

そう告げ立ち去ろうとしたところで「大丈夫、気にしないで」というか細い声が、背後から聞こえた。ホッとしながら振り返る。

「そっか、それならよかっ……」
「そんなに必死に弁解しなくても、私は星野くんのこと、嫌いだから」
「は?」

◇◇◇

面と向かって誰かに嫌いなんて言われたのは、生まれて初めてだった。影山さんの声が耳の奥に張り付いて取れない。思い返せば返すほど、ムカムカしてくる。

まともに話したこともないのに、開口一番があれってないだろ。俺のことをよく見ていたのは、嫌いだから見ていたのか? 普通逆だろ。嫌いなら見ないだろ。ちょっと勘違いしそうになっていた自分が恥ずかしい。

でも俺、なんか嫌われるようなことしたかな。これまで誰にも嫌われないように、必死に自分を作ってきたのに。

「なんなんだよ」

かばんを放りドカッとベッドに腰をかけると、一人ごちる。それでも気分は晴れず、いつもの通販サイトを開いた。どれも変わり映えのしないものばかりで、心躍るような気持ちにはならない。

でもこうする以外に満たす方法を知らない俺は、欲しくもないものをぽちりまくった。値段も見ず、次から次に購入ボタンを押す。それはただのボールペンから、折りたたみ自転車まで。購入しましたのメールが届くたび、小さくほくそ笑んだ。

きっと大輝や相川に羨ましがられるに違いない。

でもどういうわけか、今日ばかりは買っても買っても気分が晴れない。むしろどんどん空っぽになるような気がする。

途端に虚しくなってスマホを放り投げ、真後ろに倒れた。

『私は星野くんのこと、嫌いだから』

「くそっ、俺が何したって言うんだよ」

静まり返った部屋に、俺の声がむなしく空を切った。

◇◇◇

「あっちぃ」

声に出すと余計に暑く感じると言うが、嘆かずにはいられない。

六月初旬の日曜日。じめっとした風に、雲の切れ目からは時折見え隠れする太陽が、立ち尽くす俺を容赦なく照りつけている。街中にある湿度計は60%を示していて、誰もが不快と感じる暑さだ。それなのにもかかわらず、父親は待ち合わせ場所に一向に現われない。

十一時にこの駅で待ち合わせと聞いていたのに、かれこれ三十分は待っていると思う。どこか店に入るか。いや、もう来るだろ。その繰り返しだった。

しかし青梅線なんて初めて乗った。改めてぐるりと街中を見渡す。俺が住んでいるところと比べてだいぶ田舎だ。

結局俺は、父親の家で一か月間暮らすことになった。最後までごねたが、母親は聞く耳を持たなかった。俺は負けたのだ。

「この駅で、本当にここであってんのか?」 

不安になり、母親に電話をかけてみようとスマホを取りだす。だが、充電があと数パーセントしかないことに気付く。

「なんだよ、ったく」

いつも寝ている時に充電するが、荷造りに忙しく、忘れてしまったらしい。父親の家に着いたらさせてもらおう。つうか、父親はどんな家に住んでいるんだろう。単身だし、マンションか? 俺を家に呼ぶってことは、再婚はしてないんだろうな。昔の写真すら家になく、どんな人なのか想像もできない。

母親も父親が今なんの仕事をして、どんな家に住んでいるのか、よくわからないと言っていた。世間話とか、近況報告をすることもなく、ただ単に「唯一を一か月間よろしく」と伝えただけなのだと。

相手のことをあまり知らないのに、よく俺を任せるなと思う。凶悪犯にでも変貌していたら、どうすんだ。

「唯一」

するとそこに、俺の名前を呼ぶ声が耳に届いた。顔を上げれば、無精ひげをはやし、糸目を和らげる男が立っていた。

身長は俺より少し低めで、一七〇センチといったところだろう。中年男性のわりにほっそりとしていて、ポロシャツに短パン、足元はギョサンサンダルというラフっぷり。

これが……俺の父親?

「悪い、待たせたな」
「あ、うん」

あまりにも普通に話しかけてくるものだから、そんな返答しかできなかった。これが数十年ぶりに会った親子の対面か? もっとなんか感動的な何かがあると思っていた。 

昨夜いろんな想像を張り巡らせていた自分が恥ずかしい。スマホの充電をし忘れたのも、荷造りのせいだけじゃない。正直言うと、ちょっと緊張していたのだ。

「地図もってないからちょっと迷った。相変わらずここらへんは複雑だなー。ったく、ジャングルかよ」

ぽつぽつと建つビルを睨みながら、呆れたような声を上げる。スマホの地図アプリを使えば一撃だろうに。変なこと言う人だ。まさかスマホが使えないとか? いまだにガラケーだったりして。ださ。

「じゃあ行くか。ここからちょっと歩くけど、大丈夫か?」
「え? 歩く?」

思わず素っ頓狂な声がでる。僻地だと言っていたし、てっきり車で来ているのだと思っていた。歩くってどのくらい歩くんだろう。早く家で充電したい。このまま放っておいたらおそらく切れてしまうだろう。

「歩くってどのくらい?」

敬語で話すべきか、ため口でいいのか悩んだ挙句、ため口で話しかけていた。父親との会話って、どうするんだ。世の中のやつらは、どうしてるんだ?

「一時間くらいかな」
「い、一時間!?」

嘘だろ。暑さで干からびるんじゃ……。

学校だって徒歩10分くらいの距離にある。そんなに歩いたことは、ここ最近ではない。

「ほらいくぞ」

戸惑う俺を気にする様子もなく、父親はさっさと歩き始めた。こんなにも暑いのに、涼しい顔で。

俺はリュックを抱え、父親の後を追った。背中のリュックには、充電器やゲーム機、パソコン、着替えなどが入っている。

早く冷え冷えの家でのんびりしてぇ。コーラ飲んで、ダラダラしたい。

「元気してたか」

そんな想像をしていると、父親がハツラツとした口調で聞いてきた。

「え? あぁ、まぁ」

つうか、足速い。それに、短パンから出ているふくらはぎは、筋肉がしっかりついている。肌はこんがりと日焼けしていて、なにかスポーツでもしているような体躯だ。結婚していた時は普通のサラリーマンをしていたと言っていたが、そうは見えない。

ここはジャングルか、ってさっきぼやいていたけど、自分こそジャングルから出てきたんじゃないのか。奥地から市街に降りてきた、ターザンのようだ。

これが俺の実の父親か……。なんかちょっとイメージ違ったな。

「今日は天気がよくないな。夜は魚を焼こうと思ってたけど、難しそうだな」

空を見上げ、恨めしそうにつぶやく。天気と飯がどう関係あるんだ。意味不明すぎ。

ちょっと変わっているとは聞いていたけど、なかなかやばそうだぞ。大丈夫なのか。

「唯一、学校は楽しいか」

まるで小学生の子どもにするような質問だなと思いながら、その背中に「まぁまぁ」と答える。もう何年も離れていたんだ、今さら会話が弾むわけがない。

そういえば、俺は両親がどうして離婚したのか、理由を知らない。気がついたら父親はいなくなっていて、きちんとさよならをした覚えもない。どうせ原因は母親にあるんだろうと、想像はつくけど。

そう思うと、そんな母親のお願いを今回よく父親は聞いたなと思う。いったいどういう心境なんだ……。

それからも、二人で他愛もない話をしながら歩き続けた。会話といっても、さっきみたいに父親が質問をしてきて、俺が適当に返すだけ。

額からは汗がぽたぽたと落ち、喉はカラカラ。足も震えていて、すでに限界寸前だ。

「あのさ、家まだ?」

もう何度目かわからない質問を、前を歩く背中に投げる。

「あと少しだ。もう疲れたのか? 体力ないな」

くくっと喉の奥で笑われ、ムカッとした。

「なんでタクシー呼ばないんだよ。その方が絶対早いのに」
「そう焦ることはないだろ」

いやいや、こっちは暑くて干からびそうなんだよ。それに早く充電がしたい。みんなが今どこで何をしているのか気になって仕方ない。スマホをチラチラ見ながら歩いていたら、とうとう充電が切れてしまったのだ。

ずっと繋がっていると、鬱陶しいと思うこともあるが、繋がっていないと不安にもなる。俺のいないところで遊んでいたり、楽しいことをしたりしていたらなんか悔しいし、イラっとする。

だから普段から絶対に充電は切らさないようにしてたのに、今日ばかりはしくじった。

「あのさ、家に着いたらすぐ充電させて。昨日し忘れちゃって」

すると父親は、何かを思いだしたように「あ、そうだった」と足を止めた。なんだか妙な胸騒ぎがした。

もしかして、再婚して妻子がいるとか? そこに一緒に住めとかいうんじゃ……。もしくは妻子じゃなくても、彼女がいるとか。思わず顔がひきつる。どちらにしても、気まずいだろ。

「うち、電気ないからな」
「は?」
「いるんだったら自分で作れ」
「つ、作れって……!?」

まったくといって脳が処理しきれず、ただその言葉だけが頭の中でリフレインしている。顔は鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしているだろう。そのくらい驚きを隠せずにいた。

「着いたら詳しく説明する」
「あ、おい、ちょっと……!」

再びすたすたと歩き始めた父親の後を懸命に追う。電気がないってどういうことだ?このご時世電気がないとかありえるのか? 俺はとんでもないことに巻き込まれたんじゃ……? そう直感した。

◇◇◇

言っていた通りだった。ここには、ないのだ。電気が。

クーラーもテレビも冷蔵庫も、電子レンジも。家にあって当たり前の物が、どこを探しても見当たらなかった。そもそも電気メーターがない。つまり、電力会社と契約をしていないということだ。

家の中はがらんとしていて、薄暗くて、異彩な雰囲気が漂っている。中に入った途端、俺は眩暈がして倒れるかと思った。でも父親は会ったときと変わらぬ元気の良さで、せっせと家中の窓を開け放っている。

「唯一、お前の部屋は奥だ。好きに使っていいからな」

部屋の真ん中で呆然と立ち尽くす俺に向かって、父親があっけらかんと告げる。

家は木造の平屋で、2LDKという間取り。玄関から入って左手に、昭和感が漂うキッチンがある。壁にフライパンやお玉などをぶら下げ、タイルがむき出しになったシンク。

その正面に十畳ほどの和室があるが畳は日差しのせいか、ところどころ色が変わっていて、ささくれができている個所もある。父親は今、その和室の窓を開け放っているところだ。

その奥には二十畳ほどのリビングがあり、さらに奥に部屋があるっぽい。だがどの部屋も物がほとんどなくて、あるとすれば、本棚とちゃぶ台くらい。あとなぜか部屋の中央にエアロバイクがある。

良く言えば古民家風だが、お世辞でも住みやすそうな家だとは言い難い。歩けば床がぎしぎしと鳴るし、ドアの開閉もしにくい。家の周りは本当に同じ都内なのかと思うくらい静かで、鳥の鳴き声が聞こえてくる。庭は雑草が生い茂っていて、今にもたぬきや猪が出てきそうだった。

「あのさ……電気なしで、どうやって暮らしてんの」

もしかして、電気代も払えないほど貧乏なのか? 仕事をしているふうにも見えないし、もしかして離婚してやさぐれてしまったとか……。

「電気なんてなくてもいきていけるさ」
「嘘だろ……スマホの充電は? 冷蔵庫なくて生ものどうするんだよ」

部屋の真ん中の立ち尽くし、意のまま質問をぶつける。

「どうしてそんなに充電が必要なんだ」
「友達と連絡とれねーだろ! わかるだろそんくらい!」

俺の知らないところで、盛り上がっているかもしれない。悪口を言われているかもしれない。下手したら、俺の居場所が……。

「そうか。じゃあ徒歩三十分かかるコンビニにいくか、そのエアロバイクを一時間漕ぐかだな。一時間も漕げば少しまかなえるだろ」
「は?」

俺の方を振り返り、挑戦的な目で見る。こんなふうに、人に試されるのが、俺は死ぬほど嫌いだ。これまでずっと期待されるような目で見られてきて、期待に応えられなかったら、案外普通だとか、できないんだとか残念がられる。

体育祭の徒競走にしたって、勉強にしたってそう。だからかいつしか本気をださなくなり、逆にかわし方を覚えた。

「もういい、寝る」

俺は仏頂面で奥の部屋にこもると、床に滑り込んだ。部屋は一二畳ほどで、木のローテーブルしかない。あるとすれば、掃き出しの窓が一つあるだけ。

充電は明日学校でしよう。今日だけの我慢だ。飯だって日持ちのするものを買いこめば、一か月くらいどうにでもなる。今日はリュックに詰めてきたお菓子でしのごう。

あいつの世話になんて、なるものか。そう自分に言い聞かせると、天井を一睨みし目を閉じた。

それから、何度か父親が俺の名前を呼んでいた。飯だとか、風呂に行くぞとか。どうやらこの家は風呂もないらしい。

俺はその声を聞きながら、エビのように丸くなり、ごろごろしていた。カーペットもなくて体が痛い。部屋はシーンと静まり返って薄気味悪いし、ないものだらけで本当に嫌になる。

正直腹は減ったし、風呂にも入りたい。でもあんな啖呵を切っておいて、どの面下げて出ていけって? さっきから部屋の隙間からいい匂いが漂ってきて、俺の心を揺さぶっていているが、今さら引くに引けない。

「腹減った……」

それにしても、電気がないのにどうやってご飯を作っているんだ? 天気がどうのって言っていたが、まさか太陽の熱で? 調べてみようと思い立ち、床に置いていたスマホに手を伸ばす。だがすぐ天井を仰いだ。

「あー、充電切れてたんだった」

情けない声が部屋に響く。いつもだったら簡単に答えを見つけられるのに。なんて不便なんだ。

「はぁ……」

ごろんと寝返りを打ち、腹ばいになったところでふと気がついた。窓の外はすでに真っ暗になっていて、空には無数の星が出ていることに。しかも、山の頂上を、電気をつけたみたいに明るく照らしているのだ。

「……すげぇ」

しみじみしたような独り言がこぼれる。まるでプラネタリウムみたいだ。星が静かに瞬き、吸い込まれてしまいそうな不思議感覚。家では絶対に見られない光景だ。

そういえば小学校低学年のとき、テレビがきっかけで宇宙に興味をもち、図書館でよく宇宙の図鑑を借りていた時期があった。休み時間のたびにそれを眺め、いつか俺も宇宙に行ってみたいと夢を膨らませていた。

だがある時、友達が寄ってきて「お前本なんて読んでるのか? だせー」と言われた。ショックだった。ただ好きなことをしているだけなのに、それが悪いと言われているようで。しかも極めつけに「唯一っぽくない」とも。

悔しかったが、恥ずかしい気持ちのほうが勝り、俺は反論することなく、教室で本を読むことをやめた。

そしてそのとき男子の間で流行っていたサッカーを、人一倍練習した。母親にボールやスパイクなど、一式買ってもらったような気がする。お陰で友達にはさすがだと言われ、女子にもモテた。

結局それ以来、図鑑を開かなくなり、宇宙への興味は徐々に薄れていった。まさか今になってそんなことを思い出すなんて。

「唯一、飯ここに置いておくからな」

あんなにイライラしていたのに、扉の向こうから聞こえてきた声に俺は「あぁ、うん」と、無意識に返事をしていた。