パーティのその日、直接開催されるホテルのロビーで哲と待ち合わせをした。先に来ていた哲は僕を見るなり、手を振って呼んだ。
「こっちだ、隼八」
 僕はたくさんいる人にぶつからないようにしながら駆け寄った。
「うわぁ、こんな立派なホテルのパーティだなんて緊張するな」
「別に大丈夫だよ。とにかく今日は初対面の人と話す事に慣れようぜ」
「初対面っていっても、みんな大人でビジネスマンなんだろ。中学生の僕たちがそんな人と気軽に話しても大丈夫なのかな」
「この場所にいるということは、みんなが会社の関係者っていうことさ。例え俺たちが中学生であってもだ。ほら、これ首からかけとけ」
 哲はゲストと書かれたタグがついた紐を手渡した。僕たちはそれを身につけてパーティ会場へと向かった。
 重いドアを開けたら、まぶしい光が目に飛び込んで、思わず目を瞬いた。たくさんの大人たちが小さなグループをそれぞれ作ってグラスを持ちながら談笑している。
 部屋の端では豪華な料理がテーブルに彩り緑に置かれていて、お皿を持っている人たちが集まっていた。
「すごいんだね、哲のお父さんの会社。こんな世界があるなんて想像したことなかったよ」
「世界なんて自分でイメージすればなんでもありなんだよ。その都度、順応すればいいだけさ。とにかくどんなところであれ、楽しめばいい」
「でも、なんか場違いな気がして」
「隼八は今、恐れや不安があるだろ。そういうのをまず一番に取り除くんだ」
「そんな簡単に言われても、慣れなくておどおどしてしまう」
「背筋を伸ばせ。そしてどんな時もなんとかなると構えるんだ。そしたら心配も不安も消えるから」
 哲は僕に度胸をつけさせようとしている。慣れない場所で、堂々と出来るようにする練習だ。
「いいか、不安でいっぱいになったとき、それは物語でいうところの起伏だ。そこからどう切り抜けたらいいんだろうって物語りも面白くなっていくだろ。その 後は必ずそれを土台にする何かが起こるようになってるんだ。父がいつもいってる。ピンチになった時ほど、チャンスのときだって。常に自分で考えて切り抜け ろって」
「ピンチがチャンス?」
「そうだ。そう考えたら、困難もウエルカムって思えて怖くなくなってくるのさ」
 哲はにかっと笑った。そこに父親から学んだ事をすでに実行している余裕を感じる。
 僕はすぐには哲のようには行かないけど、考え方次第でその場がひっくり返るかもしれないということだけはなんとなくわかった。まずはおどおどしないこと。
 意識して背筋を伸ばした。
 周りは、みな堂々として話したり、名刺交換をしたり、握手をしたり、大げさに笑ったりして、ビジネスのために行動していた。
 学生服を着ている僕たちには無縁な感じがしたけども、哲はその辺りにいた女性に声を掛けた。
「そのドレス素敵ですね。よくお似合いです」
 あんな台詞僕には恥ずかしくて絶対に言えない。
「あら、ありがとう」
 女性は素直に喜んでいた。
 僕は離れてそのやり取りを見ていた。
 哲は、次に若いビジネスマンに近づき、ネクタイを褒めた。
「センスがいいですね。それどこで買われたんですか」
 見えすぎたお世辞っぽいのに、ビジネスマンは素直に喜んで、得意気にネクタイの事を話していた。どうやら高いブランド物で自分でも自慢したいところがあったようだ。哲はきっとあのネクタイのブランドをすでに知っていたのだろう。
 会話が終わると、哲は僕の側にやってきた。
「哲、すごいな。物怖じせず話しかけるなんて」
「父が言ってたんだけど、相手のいいところを見つけて褒めるって大切なんだって。普段から練習しとけってさ。そうじゃないと慣れてないと、そういう言葉は出てこないんだ」
「うん、わかる。僕、そんな言葉恥ずかしくていえない」
「だけど、人から褒められると、絶対に悪い気はしないんだ。たとえそれがお世辞であっても、ポジティブな言葉は人にいい影響を与える」
「頭では分かるんだけど、僕は口下手で」
「だから、このパーティで度胸をつけるんだよ。なんのためにここへ連れてきたと思う? 好きな女の子に話しかけられるようになるためだろ」
「でも、だって」
「ほら、『でも』と『だって』なんていってたらいつまでもあの子と話せないぞ」
「だけど」
「『だけど』もだめだ」
 哲にアドバイスを貰うのだけど、僕はどうしてもそれを実行できないでいた。
「隼八、恥をかくことを恐れるな。とにかく当たって砕けるんだ」
 それが恥ずかしいから出来ないというのに。
 そのあとも哲は見本を見せてくれるのだけど、哲の話が弾んでいくと僕は圧倒されてどんどん哲から距離が出来てしまった。
 哲の知っている人もいたみたいで挨拶に忙しそうだから、暫く哲と離れてしまった。
 ひとりになると心細い。邪魔にならないように端に寄ろうと後ろ向きに歩いていた時、ドンと何かにぶつかった。
「ああ、すみません」
 慌てて振り返って頭を下げた。
「いいんですよ。ちょっと触れたくらいですから」
 顔を上げると少しふくよかなおじさんが、笑っていた。よく見れば頬に珍しいハートマークに似た染み、もしくは痣がついていた。
 僕はついそこを見てしまう。
「どうかしましたか?」
「あっ、いえ、その頬のハートマークが……」
 そこまで言った時、こういうことは口に出してはいけないのではと焦ってしまった。でもここまで言った以上途中でやめるわけにも行かなくなった。
「そ、その、頬のハートマークが素敵ですね」
 こんなところで哲のアドバイスに従うなんて、汗が出てきてしまった。
「はははは、これが素敵ですか」
「はい。さ、桜の花びらみたいにもみえます」
 焦ってしまって、僕はさらに例えてしまった。こういう顔のシミや痣なんて気にしている人が多いというのに、僕は何を褒めているんだ。
「そんなこと面と向かっていったのは、あなたが初めてです。みな気を遣って見て見ぬふりをしますからね。そうです。実は私も密かに気に入ってました」
「そうですよね」
 汗がでてきた。
「あなたは、もしかしたら哲の友達の隼八君ですか?」
「えっ? そ、そうですけど」
 もしかしたらこの人は……と思ったとき、哲が戻ってきて「お父さん」と言った。
 やっぱり。僕は笑うしかなかった。ハハハハ。
 その後、哲は僕を哲のお父さんに正式に紹介した。哲のお父さんは僕に会えた事を本当に喜んでくれて、僕は恐縮して身が竦む。
 忙しそうだったので、あまり長くは話せなくて、しどろもどろになり過ぎて招待してくれたお礼を言うのも忘れてしまった。あまりにも圧倒されて、ドキドキと心臓が口からせり出しそうになっていた。
「そんなに緊張することないって」
「どうしよう、礼儀正しくできなかった。ああ!」
「何言ってんだよ。隼八は見ただけでどういう人物か父にはすぐに分かったと思う。好印象だったさ」
「でも僕、頬の痣のことを口にしちゃって」
「そんなの全然気にしてないよ。どうせなら目の周りにあったらロック気分でよかったのにっていってたくらいだぜ」
 どこか感性が違う。
「哲のお父さん、なんかすごい貫禄だった」
「まあね。でも家ではあんな感じじゃないな。母にヘコヘコして尻に敷かれてるもん」
「えっ、そうなの?」
「まあ、色々あるってこった。それより、これで少しは話すコツを掴んだかな」
「いや、その、そうだといいんだけど」
 僕は頼りなく笑って誤魔化した。

 そしてその後、無理してコミュニケーション力を上げるよりも、僕はやっぱり猫の餌やりに力を入れることにした。いきなり彼女に声を掛けて、髪が素敵な色ですねなんてやっぱり思ってても言えない。
 ようやく梅雨も明け、同時に暑さが強くなってきた。騒がしい蝉の声が耳につくようになった時、やっと猫に会えた。
 近づいても僕を無視し、そのまま去っていこうとしたところ、僕はおやつを手にして猫に見せた。それを見るなり猫はまっしぐらに僕に掛けて来た。手に持っているものが何だか判別できるくらい、このおやつが好きみたいだ。
 初めての餌やりは何の問題もなく、激しく食いついた。一心不乱にぺろぺろと舐めている姿はすさまじい。あの女の子もこれをみていたのだろう。あの笑顔が思い出された。
 これで彼女がやっていたように、猫に餌を与えるようになって、僕もこの近所のルールを破った。
 こっそり餌やりして黙っていればいい。僕もあの猫と仲良くなりたかったし、彼女と話すきっかけを作りたかった。きっとその時がやってくると思っていた。
 暫く猫に懐いてもらうため、餌やりに専念した。お陰で猫は僕を見ると寄ってきてくれるようになった。あとは彼女さえ現れれば、これで話すきっかけができる。
 そう喜んでいたのだけれど、あの張り紙が新たなものに差し替えられたとき、僕はもっと慎重になるべきだった。