神隠し、約束を舞った、恋探り。~二枚目天狗たちの花嫁争奪戦~

 それは、瞬きをする間に様々なことが起きた、あっというまの出来事だった。

 伽羅さんが咄嗟に船首近くに座っていた私を庇うようにして、前に出たのを皮切りに、彼の背中越しに見えたのは宙を舞う何匹かの獣のような、大きな黒い影。

 彼がそれに気を取られている間に、何故かぐらりと不安定な小さな舟が揺れて傾いだ。私は縁を必死で掴んで身体を支えようとしたものの、気が付いた時にはもう水中へと吸い込まれるようにして落ちていた。
 

◇◆◇


「っ……がほっ……ゴホゴホ……」

 大きな咳と一緒に水を吐いた私は、顔を横にして水中に居る時に飲み込んでいたらしい大量の水を吐いていた。窒息しかけていたせいか、肺の辺りがひりひりと灼けつくように痛い。

 結構な量の水は咳と共に吐いて、ようやく収まった。

「大丈夫だ。ゆっくりと息をして。吐いて……吸って」

 背中を優しく撫でてくれる人の声を聞いた時に、驚いた。私が予想した人の声では、なかったから。水中に落ちて意識を失ってしまう直前までに、一緒に居た伽羅さんの声じゃなくて、それは……。

「……那由多さん? どうして……ここに?」

 声を出したせいか、また小さく咳をした私を心配そうに見つめる目は、優しい。彼の美しい黒髪は水に濡れて、より色を濃くしているように見える。まさに、鴉の濡れ羽色。

「伽羅は、さっきまで居た。捕縛した妖狐を連れて、相模坊さまの元へ。相模坊さまが治めている天狗族の土地に敵対する一族が現れたので、急ぎ報告に行った。俺は……偶然。ちょうど近くに居て、君を救助出来た」

「ちょうど……近くに居た……」

「そう」

 とても苦しい説明のような、気がする。この山中って、伽羅さんが調子良く話してくれた中には、修行の場であること以外あまり使用されないって言ってたし。

 頷いて素っ気なく答えた那由多さんは、私の上半身を起こすのを手伝ってくれて自分が着ていた黒い羽織りを脱いでいる。

 那由多さんが着用している着物に使われている生地などは、かなり質の高いものだとは思うんだけど、べったりと水を吸って彼の身体に纏わり付いていて、まるで引き剝がすように服を脱いでいた。

 この山中へは、実は伽羅さんは結構な時間を掛けて飛んで来た。とてもじゃないけど街中で会って、あれ偶然だねと言って笑えるような距離の範疇ではない。

 もしかしたら、私たち二人を気になって後から追い掛けてくれたのかなとは思う。

 けど、那由多さんに対してその事を指摘して良いものか、暫し迷ってしまった。

 だって、私は彼の二人は出会ったばかり。名前を知ってから数日しか経っていない。

 こうした時に彼への対応をどうするのかという判断をまだまだし難いくらいに、付き合いが少な過ぎるからだ。

 ここでちょっとした冗談めいたことを言って良いのか、悪いのか。

 そこで気が付いたんだけど、現在の私は那由多さんからほんの少しでも悪印象を持たれたくないと考えている。嫌われたくないから、言葉ひとつを選ぶのも慎重になっていた。

 彼に奇跡的に好意を持って貰えているのなら、どうかそのままで居て欲しいと願っている。

 もしかして……そう、つまり。これは、人が言う恋と呼ばれるものなのではないだろうか。

「すまない。水を飲んでて苦しそうだったから、聖良さんの帯は切って解いた。そのまま立ち上がるのは、あまり良くない。濡れてはいるが、これを羽織って貰えないか」

 和装だった私は、帯もある程度締め付けていた。布が水に濡れれば、より締め付けがきつくなるのは仕方がない。

 水を多く飲んでいたので、那由多さんの選んだ処置は間違っていないと思う。これで彼を責めてしまっては、恩知らずと言えるくらいには。

「……あ」

 パッと胸元を確認して、慌ててそのままはだけてしまいそうだった濡れた着物を、両手で寄せた。

「あと……こういう事は、後から聞かされると嫌だと思うと思うので、言っておくが。人事不省になっていた君に対して人工呼吸をした。これは救命行為だったので、許してくれ」

 那由多さんの済まなそうな言葉が、心の許容量をオーバーしてしまったのは、仕方のないことだ。

 彼氏が産まれてから現在までに居たことがないってことは、そういう事をしたことがないという同じ意味である。

 もしかしたら、世の中には彼氏ではない人と、何かの弾みでそういう事をした人も中には居るかもしれない。けど、私はそうではなかっただけ。

 彼の告白を聞き顔は自然と熱くなるし、なんなら那由多さんの居る方向を直視することも恥ずかしい。

「……すまなかった」

 彼が何を思ったのかはわからないけど、那由多さんは恥ずかしくなって無言になった私の反応を、マイナスの方向へと取ってしまったのかもしれない。

「あ。ごめんなさい……嫌な訳じゃないです。こうして危ないところだったのに、命を助けてくれたのに。すぐにお礼を言えなくて、ごめんなさい」

「いや。当然のことだ。すまない」

 座ったままだった私にさっき脱いだばかりの大きな黒の羽織りを肩掛けてくれた那由多さんは、緩く首を横に振った。

 とにかく、こんな誰もいない場所で、彼と一緒に二人で濡れ鼠のままで居る訳にはいかない。

 自分の身が冷たい水に冷やされてしまっていたことを感じて、私が心配だったのは自分のことより那由多さんが風邪を引いてしまわないかということだった。不調を起こさぬように、出来るだけ温めてあげたい。

 ついさっき、自覚した彼には嫌われたくないという思いと、自分よりも彼の身を心配してしまった気持ち。

 そうだ。これは、間違いないと思う。

 私の気持ちは、もう決まった。こんな、彼と会って数日しか経っていないというのに。もしかしたら、経験豊富な誰かが、こういうことはもっと時間を掛けるべきだと忠告してくれるかもしれない。

 けど、何があったとしても、どうしても。私は、那由多さんが良いと思ってしまうだろう。

 きっと、これが恋という、誰かを恋しく思う言葉の意味だった。