オルフェウスとエウリュディケが機械人形であっても

 昨日任務で来た時とは違い、昼間なので移民街は人が多く活気で溢れている。オルフェは入り口である門を抜けると、市場で買い物をしている様々な人の群れが目に入った。子どもから老人、白人から黒人まで年齢や容姿が様々だ。
 オルフェは普段と違って、どこから探そうか迷っていた。いつもならセオリー通り動くのが当たり前だが、今回だけは違った。もちろん任務として冷静な行動を取っているはずなのだが、今この様子を見ている読者の目からは、早く見つけようと焦っているように見える。そう、早く見つけないと、永遠に彼女には会うことが出来なくなるのではないかと思うほどに……
 オルフェは市場を走り回った。人込みを掻き分け人とぶつかりながら、ただただ必死に。だが、見つけられない。漂う温かい香りに身を包まれながらも、なぜか周囲が冷たいように見える。移民街は晴れ。しかしオルフェの視界からは、暗く雨が降っている光景が見えていた。ここに彼女はいない。そう判断すると、暗い場所に引きずり込まれるかのように、移民街の奥へと入り込んでいった。
 移民街の暗い部分へと足を踏み入れると、前にも通ったことのある場所が目に入る。煤で汚れた大きな共同住宅が並ぶ路地を進むにつれて、この前の任務の記憶が蘇る。屋根から屋根へと跳び移りながら、徐々に犯人を追い詰めていったあの夜のことを……
 オルフェは戦闘や追跡を除いて、素早く動くことはほとんどない。普段は速歩きはせずに、歩調を変えずゆっくりと歩くことばかりだった。それもただ単にゆっくりと歩くわけではなく、人と同じようなごく自然の歩き方を心掛けていた。
 でも今回は違って移民街の市場と同様に、いつもより歩くスピードが速くなっていた。
 路地がどんどん狭くっていき、さらにそれを進んでいくと、昨日の事件現場へと辿り着いた。血痕がほとんど残っていない。昨日と変わることなく大量のごみ袋が置かれて、辺りの臭気がかなり酷いこととなっている。アンドロイドでもなければ、とても耐えられるものではないだろう。オルフェはこの場所を冷静な様子で見ていた。
 少しの間この場所の辺りを眺めていると、突然後ろから光が射し込んできた。まるで長い冬が終わって、ようやく訪れた春の始まりのような暖かな光だ。この微かな温もりが、オルフェにはどこか懐かしく感じられた。しかし何がそんなに懐かしいのかは、オルフェには分からない。だが、意識の隙間に入り込む断片的な映像を見る度に、オルフェにしては説得力に欠けるような確信に似たものが生まれた。「もしかしたら、これが郷愁というものなのか?」そうやって自分の体内にある人工知能が自問自答しながら、この場所を離れて光が流れ込んでくるその先へと向かった。
 先へ進み始めると、段々光が薄れていく。しかし、チェスターとの会話の中で出てきた女性のこと以外全く手がかりがないため、直感的にこの僅かな光の筋を辿るより他なかったようだ。この光が彼女の道しるべとなる根拠は無いのだが、それでもこの光の筋に縋るかのように、移民街のどこかにいる、若しくはいたという痕跡を掴もうと、歩くスピードをさらに早める。
 オルフェが任務で移民街に来たのは、これで3回目だ。地図や何かデータを渡されることもなかったため、この場所の地理にはどうしても疎くなる。だからこそ、今まで自分の通った道筋を繋ぎ合わせ、分析をおこない、人工知能の中に組み込まれている記録ファイルの領域に保存することによって対処していた。
 右の角、そして左の角を曲がったりしていき、気が付けば、一度も通ったことのない道を歩いていた。道はさらに狭くなり、周囲が暗くなった。しかし、このおかげで薄れた光の輪郭がはっきりと蘇り、一本の細い道筋を示してくれた。
 オルフェは迷うことなく足を進める。大きな住居と住居の間を通る細い光の道筋。決して強い光ではないが、迷える者を誘うようなこの独特の暖かさは、少しでも良心のある人であれば、とても居心地の良いものに感じられるだろう。この光に導かれるがままに歩いたおかげか、ようやく路地の出口付近へと辿り着いたみたいだ。視界から見える100メートル先には、昼間の太陽のような輝きが満ち溢れている。
 しかし、この輝きを見た直後、オルフェの視界には運転中に見た夢のような映像が広がっていた。画像が乱れノイズ交じりのこの映像を見ていると、まるで大切な思い出を詰め込んだ古いビデオを見ているかのようだ。はっきりとは見えない。そして、思い出せない。でも、確かに知っている。まだ顔も思い出せない親しい誰かが手を差し伸べてくれる、そんな光景を……
 オルフェは右手を伸ばして、現実には存在しないその手を掴もうとした。そして、お互いの手が触れた瞬間、思いもよらぬことが起こったのだ。この時、互いの手が触れた感触が、本物のものと変わりがなかったからだ。たとえこれが幻だったとしても、手と手が触れ合った確かな温もりを感じた後、お互いの手が擦り抜けた瞬間、顔のはっきりと見えない誰かの微笑みを確かに感じたのだ。そして、現実世界へと視界が開けていった。
 光の霧を潜り抜けた先に見えたのは、大きな広場だった。この広場は移民街のどの場所とも異なり、とても清浄だ。石材で造られた地面の他、土に根を生やした緑でいっぱいだった。辺り一面地球に生息する高山植物で覆われ、所々に小さな花を咲かせている。正確には自然公園、いや庭園と言ったほうが良いのかもしれない。このアストロメリアのような衛星国家で暮らす者たちにとっては、とても目にすることができない場所だろう。人工美や退廃的な街並みが日常の者にとっては、ここはまさに非日常。感受性豊かな者なら、必ず感動するだろう美しい光景だ。
 オルフェはゆっくりと足を踏み入れる。そして、歩きながら周囲を確認する。ぱっと見回したところ、人の気配は無い。汚れた街の片隅に存在する小さな桃源郷に、オルフェは優しく向かい入れられた。
 先を進んでいくと、薄い霧の向こうにある大きな影が見えた。その存在を確かめようと歩み寄ると、天まで聳えるかと思うほどの大木が姿を現した。この大木は広場のちょうど中心に位置していて、まさにこの場所のシンボル的な役割となっている。地球時代の資料にあるような、太古から存在する壮大な外観だ。生気に満ち溢れ、ブナ科に似た葉を生やして、天まで緑を届かせるかのように思えた。
 オルフェは大きな1つの命を見上げた。オルフェのこの時の様子は、自分がこれから歩いていく道筋とその結末を確かめるかのようだった。
 しかし見上げてから数秒後、また幻覚に襲われた。辺りの景色が歪んで、いろんな色の混ざったサイケデリックな空間へと変わる。そして再び、顔の見えない誰かが目の前に現れた。それから周りの空間が膨張して収縮すると同時に、オルフェの身体から心臓の鼓動のような音が3回響き渡ると、現実世界へと戻った。
 幻の光景が目の前から消えた瞬間、オルフェは気配を感じた。大木の真下に視線を移すと、そこには探し求めていたガイノイドの姿があった。黒のワンピース姿と同じく黒のロングヘアーが、この広場一面に自然な形で溶け込んでいる。しかしそれとは反対に、ブルーグレーの瞳からは不自然なほど翳りのある鋭い輝きを解き放っていた。
 オルフェが視線を向けた時には、ガイノイドのほうもオルフェの存在に気付いたようだった。そう、お互い見つめ合っていた。近づくことも遠ざかることもなく、とても真剣に。
 オルフェは目が合った瞬間、自分の身体の中から強い鼓動を確かに感じた。そして、この時こう思ったのだ。
「知っている……なぜかは分からない。でも、確かに彼女を知っている……君は誰だ?」
 オルフェは殺さなければならない相手が目の前にいるにも拘わらず、銃を手に持つこともなく、相手の様子を窺っていた。初めて出会ったはずなのに、なぜか本能的に彼女を知っている。そんな奇妙な感覚に囚われたせいなのか、呆然としていた。
 彼女のほうもオルフェと同じ青く濁った瞳で、こちらの様子を窺っているようだった。しかし困惑した様子は一切なくて、どこか嬉しい気持ちを押し隠している感じで、微笑んでいるように見えた。
 今2体の機械人形が対峙しているこの光景が、とても感動的なものに見える。表情の乏しかったマリオネットが楽園を訪れ、運命の相手と出会えたようなこの感動シーンを、銀幕を通して読者全員の脳裏に焼き付ける。しかしこの劇も、物語にはよくある悪役によって、不吉な影を見せ始めていた。
 突然、どこから銃声の音が鳴った。彼女が左の方角に目を向けた時、その瞳には屋根の上から自分に銃を向ける黒スーツの若い男の姿が映った。
「オルフェ、ここまでご苦労だった」
 オルフェは身体を彼女の方向へ向けたままだったが、目線だけ右に動かした。50メートル以上の距離があったが、男が白人であること、紫とピンクの混じったレジメンタルタイを付けていることまで、外見のことならある程度詳細に確認できた。少しくせのある黒のミディアムヘアーの持ち主であるこの男の顔立ちはなかなか整っているが、どこかエリートを気取っているような鼻につく印象を与える。
「監視役か?」
「長官の命令だ。おまえが与えられた任務を、ちゃんと全うしたのか確認するためのな。さぁ、後はそいつを始末するだけだ」
 監視役の男はこう言うと、オルフェに銃口を向けた。オルフェに向けられたこの宇宙銃は、政府が極秘に開発しているある化学物質を中に仕込んでいる特別な銃弾を装填できるように作られている。見た目は普通の拳銃と大して変わらないが、銃弾に強い衝撃が加わり変形した瞬間、化学反応を起こして強力な威力を発揮する。まともに喰らえば、アンドロイドであっても致命傷となりかねない代物だ。
 オルフェは男から視線を逸らすと、真っ直ぐ彼女を見つめる。彼女を殺すことが任務だということは、当然理解している。それと彼女を殺さないと、自分自身も不良品として処分されてしまうことも。しかし、再び彼女と目が合った瞬間、彼女が自分にとって一体何者なのかという疑問が湧き出てきた。このことによって、なぜだか彼女を知っているように感じている自分自身が一体何者なのかという、漠然とした疑問が脳裏を掠めた。そう、この時初めて知りたいという願望を持ったのだ。
 監視役の男はオルフェがなかなか殺そうとする素振りを見せないので、痺れを切らし始める。
「どうした?早く始末しろ……もしかして、殺すことをためらってるのか?フフフッ、まさかな。人間でないおまえが情けを感じる心があるとはね。ただの機械人形のくせに、人の真似をするとは……人間様を舐めるなよ、オルフェ」
 男はきれいな二重瞼を細めて、先ほどよりも冷酷な顔つきへと変わった。
「ほら、早く殺せ!殺さないと、おまえも始末されることは分かってるよな。いや、スクラップって言うほうが良かったのかな。ハハハハハッ!」
 男は不気味な笑みを浮かべると、銃を握る手に力を入れた。しかし、オルフェは真っ直ぐ彼女の方向を向いたまま、銃を抜いて構える素振りを見せない。
 オルフェは迷っていた。ただ任務を全うする道具として生きてきた今までと、ついさっき生まれた感情が芽生え始めた今の自分との間で、大きく揺れている。自分が本当にやるべきことは何なのか、初めての大きな選択に酷く戸惑っていた。
 男はオルフェを蔑んで嘲笑うと、あることを口にした。
「オルフェ、おまえが工場地帯で会った老人、チェスターって言ったっけ、おまえがあのテントを出たすぐ後に、国家反逆罪として逮捕した。もう、刑の執行も済ませてある。ぐずぐずしているおまえと違ってな。命令を守らなければ、おまえもこうなる」
 男は後ろを振り返ると、何かを引き摺ってきた。そこには拷問を受けて息絶えたチェスターの姿があった。外傷が少ないのがせめてもの幸いといったところで、ぴくりとも動かないその亡骸、それだけで充分残酷だ。
 オルフェは顔を男のいる方向へと向けた。しかし、その視線は男ではなくて、チェスターに焦点を合わせた。オルフェの瞳は、怒りとも悲しみとも取れない、屈折した輝きを放っていた。
「……子どもはどうした?」
「子ども?」
「チェスターと一緒にいた子どもだ」
「あぁ、あのガキか。一緒に仲良くあの世へと送ってやろうと思ってたんだがな、この爺さんが上手く逃がしたせいで、取り逃してしまった。まぁ、ここは衛星国家だ。どうせ逃げられない。後でゆっくりと探し出して始末するだけさ。だからまずは、そこにいる機械人形からだ」
 オルフェは男のいる方向から、彼女の方向へと視線を移した。お互い見つめ合ったまま動かない。それからというもの、一刻ほどの時間が経過したように思えた。しかし、実際はほんの刹那だ。
 男の手に力が入り、銃弾が発射されようとしていた。オルフェはその動きを察知して、素早く腰に下げている銃に手で触れる。そして、男と同じ宇宙銃ではなくて、旧式のオートマチックを右手で取り出して、素早く銃弾を放つ。オルフェの撃った銃弾は、男の銃に命中して弾け飛んだ。
 男が怯んだ隙に、オルフェは彼女の下へと走り出す。そして、左手で彼女の右手を握った。彼女の手に触れた時、オルフェの脳裏に夢のような映像が浮かんだ。それは実験室のような部屋の真ん中にある手術台の上に、オルフェと彼女が手を繋いで寝ている光景だった。オルフェはこの光景を胸の中に秘めながら、入ってきた方向とは反対の出口へと全速力で駆け抜けた。
 亡霊共が蠢いているかのような暗く狭い路地の中、オルフェと彼女は追手から逃れるため、全力で走っていた。まだ追手が来る気配はないが、見えない亡霊に怯えるかのように、とにかく必死だ。
 オルフェは無謀な選択をしてしまった。このまま2人で逃げ切れる保証なんて、どこにもない。地球ならまだ可能性はあるが、ここはスペースコロニー。逃げ切れる確率は、ほぼゼロに近い。オルフェ自身の体内に位置情報を示す機器が内蔵されていれば、今すぐにでも2人まとめて処分される可能性が充分ある。だが、オルフェはそんなことを一切考えず、ただ彼女の手を離さないことを気にしていた。
 なぜこのような行動を取ったのか、オルフェ自身分かっていない。アンドロイドとして生まれたオルフェにとって、あまりに非合理的な行動だ。自分が処分される可能性が大きいにも拘わらず、なぜ彼女を知っていると思ったのか、このことをはっきりさせたいという衝動に駆られていた。
 オルフェは後ろを振り返り彼女を見た。噎せ返るような空気の中を走り回ったせいなのか、目立たないものの近くで見ると黒のワンピースが汚れているのが確認できて、ヒールも少し欠けていた。彼女は下を向きながら、オルフェに話しかけた。
「……なぜ助けたの?」
 オルフェはこの問いに、すぐには答えられなかった。自分でもどうして助けたのか分からないため、何と言ったら良いのか判断に一瞬迷ったのだ。
「わたしを殺すことが命令だったのでしょ?それなのに、どうして……」
「なぜ助けたのか、よく分からない」
「……」
「ただ、今はっきりしていることは、こうしている間にも、僕たちを殺そうとする連中がやって来ることだ」
「……」
「ねぇ、君の名前は?」
「エレン……」
「僕はオルフェ。よろしく、エレン」
 オルフェに自分の名前を呼ばれると、エレンは顔を上げた。そして、真っ直ぐオルフェの瞳を見つめた。表情の変化の少ない2体のアンドロイドが見つめ合う様子が、とても奇妙に感じられるが、この時もしかしたら彼らなりに真剣だったのかもしれない。
 オルフェはエレンの手を離すと、エレンのほうに身体を向けて右手を出して、握手を交わした。これに応えるように、エレンもきれいな細長い手に力を込めた。
「そろそろ別の場所へ移動しよう。いずれ、ここにも追手がやって来るだろうから」
「そうね。その前に、この靴捨てるわ。このままだと足手纏いになりそうだから」
 エレンは婦人靴を脱いで、その辺に放り投げた後、再びオルフェのほうを向いた。
「さぁ、早く行きましょ」
 オルフェが頷くと、今度はエレンが右手でオルフェの左手を優しく握った。この時オルフェには、エレンが楽しそうに笑っているように見えた。そして、まるで恋人同士が手を繋いで寄り添うように、暗く淀んだ道を歩き始める。こうして見ると、彼らが幸せそうに見える。しかしその背後には、国家警察とは別の暗い影が迫っていた。
 オルフェとエレンの逃避行が始まってから時間が経たないうちに、ウェズルニックの下へと情報が入った。長官室の中の自分のデスクの上で、部下からの報告を一部始終聞いた。報告が終わると、机の上に肘を付けて手を組んだ。そして、一瞬狂気を感じさせる笑みを浮かべた。
「フフフッ、まさか愛の逃避行とはね。それで、GPSで位置情報は掴んだのか?」
「そのことなのですが……ちょうどオルフェがガイノイドを連れて逃亡した頃に、全てのGPS衛星が機能を停止しました。恐らく、何者かの手によって破壊されたものと思われます」
 この情報にウェズルニックは戸惑う様子を全く見せない。予想の範囲内といった表情をしていた。
「もしかしたら、例の秘密結社の仕業かもしれん。可能性としては充分考えられる。特殊工作部隊に情報を集めさせろ。そして、諜報部はオルフェの捜索を続けろ」
「分かりました。では、私も任務に戻ります」
「あぁ、頼むよ。それにしても、オルフェの身体にあらかじめ爆弾を仕込んでおけば、今すぐにでも遠隔操作で処分できるのだが……とは言っても、最近動きを見せ始めている某秘密結社のような連中に、逆にテロとして利用されることも充分考えられる。政府関係者の中に紛れ込んでいる可能性もあるからな。スパイから少しでも細工されていれば、一発でドカンだ。こっちが爆発に巻き込まれるなんて、まっぴらごめんだ。そういうことも考えられるということで、爆弾をボディー内部に設置する案は通らなかったわけだが、今この現状を考えると、やはり仕込んでおいたほうが良かったみたいだな。まぁそれでも、今まで我が国ではアンドロイドが表社会に存在することは一度もなかったわけだし、関係のある事件も一度も起きなかった。まさか自分が長官の座についている時に、こんな面倒な事件が起こるとは、全くやってくれるよ」
「同感です」
 ウェズルニックは立ち上がってネクタイを締め直すと、退室しようとする部下にこう言った。
「技術部の連中を中心に取り調べをやれ。ネズミが潜り込んだせいで、こうなったのかもしれん。それともう1つ。動くごみを早く始末しろ」
 オルフェとエレンは、まだ暗い路地の中を彷徨っている。手を繋ぐことをやめて、オルフェが先立って前を歩いていたが、次の角を曲がろうとしたその時、オルフェはピタッと動きを止めた。目をいつもより大きく広げて、瞳はまるで獲物を狙う山猫のように鋭い光を放っている。
「気をつけて。誰かにつけられてる」
 オルフェは小声で伝えると、再び歩き出す。そして、いつでも戦闘状態になってもいいように、銃を下げている腰の辺りに右手を近づけた。
 空気が刺々しく感じられる。気温は15℃程だが、この辺りの湿度が異常に高いせいなのか、周囲が霧深くなっている。このおかげで、緊張がさらに高まっていく。見通しのきかない異質な空間を進んでいくと、急に視界が開けていった。
 今までの路地とは異なって、華僑が多く暮らしている安アパートや賭場、そして飲食店が並ぶエリアへと姿を変えた。どの店も寂れていて、赤色に緑の漢字を書いた看板以外は、どれもがとても汚らしく感じられる。まさにサイバーパンクでよく描かれている光景だった。
 オルフェは頻りに周囲を気にする。顔の向きは真っ直ぐでも、絶えず眼球を動かして、僅かでも動くものがあれば殺すかと言わんばかり。鋭い灰色のダイヤの輝きは、暗がりに獲物を狙う黒豹そのものだ。
 2人の頭上にある安いピンクやメロンソーダ色のネオンが、10秒間隔で点滅しては大きな火花を散らせている。点検を怠っている証拠だ。足元には煙草や酒瓶などのごみが散らばっていて、より一層探偵小説らしい世界観を醸し出している。
 風の音、切れかけの電線の音、生ごみを漁るドブネズミの音、小さな掠れた音が響く度に眼球を動かして、自分たちに迫って来ている暗い影を探していた。オルフェはゾッとするほど生暖かい風に身を委ねながらも、表情を一切変えない。しかし、突然上のほうで大きな物音が聞こえて、そして辺りは急に静まり返る。その数秒後、辺り一帯の灯りが消えて、再び暗くなった。
 オルフェとエレンは虹彩に微量の光を吸収して、自分たちが進んでいく先を確認する。そろそろ相手が仕掛けてくると、2人とも同じ判断をした。オルフェもエレンも微かに光を集めた瞳が銀色に輝いて、夜の森を彷徨う番いの狼そのものとなっていた。
 辺りが沈黙し始めてから風も止んだ。空気はさらに淀んで、怪奇を連想させる。まだ昼間だというのに、この暗さは異常だ。しかし、これがアストロメリアの現実なのだ。金や権力がある者は伸し上がって、金が無くて立場の弱い者はその踏み台とされてしまう。この問題に関して、政府関係者や都市部で暮らす誰かが関心を持ってさえいれば、少しは改善できたことであろう。でも……誰もいない。そう、これが現実だ。しかし今の2人には、こんな社会問題を語り合う時間なんてどこにもない。もう、逃げることしかできないのだ。
 暗くなり静かになってから、10分ほど経過した。はっきりとは見えないが、チャイナタウンから、また別の場所へ来てしまったようだ。そう……何というか、コナン・ドイルが描いたシャーロック・ホームズの世界。紳士的なブラックユーモアを持った殺戮の街が、徐々に影を見せ始めた。切り裂きジャックに狙われる若い女性たちに、今の2人は奇妙なぐらい重なっていた。
 エレンが街の様子に気づいた時、暗い空から丸い卵菓子のような形をした白い暖かな光を放つものが、姿を見せ始めた。そう、地球で見える月そのものだ。
 誰にも知られていない1人のアーティストによって作られたこのサイバーアートが、この暗く近未来から取り残された街全体へと展開している。1人でもいい、誰かに気づいてほしいようにひっそりと……
 人工で作られた月がはっきりと姿を見せた頃には、視力の良い者なら問題なく歩ける明るさになっていた。辺りの光景が益々英文学の世界に近づいていったが、それでも虚構に変わりない。紛い物のこのロンドン郊外の街を進んでいくと、前方に橋の影が見えてきた。オルフェはまだ姿を見せない敵に警戒しながら、エレンを連れて橋のあるほうへと向かった。
 近くまで行くと、石材で造られた古い橋が、2人の目の前にはっきりと映った。ヴルタヴァ川に架かるカレル橋のような外観だ。オルフェとエレンは一度顔を見合わせて、同時に石橋に足を踏み入れた。ためらいはない。でも、ゆっくりと慎重に……
 橋を渡り始めると、微かだが何かの音が聞こえてくる。最初は野兎でしか聞こえない程度だったが、2人が月明かりに照らされながら進むごとに、少しずつ大きくなっていく。どこから聞こえてくるのか分からないが、ベートーヴェンの名曲月光の調べが、この辺りを凛としたピアノの音色を通して包み込んだ。最初はゆっくりとした演奏が、2人が橋の中心部へ近づくに従って、テンポが速まり音がさらに大きくなっていく。
 ちょうど橋の中心部へと辿り着くと、オルフェは殺気を感じて上を見上げる。オルフェの視線には、時計台のシルエットをした建物の上に黒い人影があった。そして、その黒い人影がこっちに向かって飛び降りてきた。目の前に着地した人影が、直ぐ様オルフェに後ろ回転横蹴りを入れてきたが、オルフェは間一髪顔の近くで両腕をクロスさせて頭部への直撃を避けることに成功した。しかし蹴りの威力が余りに強くて、後ろに下がっていたエレンの下へと突き飛ばされてしまう。これにエレンは素早く対応して、オルフェの背中をしっかりと受け止めた。オルフェは振り返ってエレンの顔を見ると、優しく微笑んだ。そしてエレンも微笑を浮かべると、2人は今まで姿を見せなかった敵に真っ直ぐ視線を向けた。
 オルフェとエレン、2人の瞳には黒の戦闘服を着た男の姿が映っていた。背丈はオルフェと同じぐらいで、髪の毛も同じく黒。そして目元を白いヴェネチアンマスクで覆っている。薄い月光に照らされているおぼろげに浮かんだその姿は、この辺りを彷徨う怨念のように不気味だ。
「何者だ?」
 男はオルフェの質問に、唇を一切動かさず沈黙で答える。
「……そしてその動き、おまえもアンドロイドだな。国家警察の者か?」
「……」
「いや、違うな。もしそうだったら、あの監視役の男も同伴しているはずだ」
「……」
「どこの組織の者だ?どうして僕たちを狙う?」
 オルフェの言葉の後、再び少しの沈黙。言葉にしてみれば、ほんの少しの間のことのように感じるかもしれない。しかしこの僅かな沈黙が、あのブラックホールのように月の僅かな光と共に自分をも吸い込んで、永遠に闇の中を彷徨い続けなければならないのかと思えるほどだった。そう思える間にも時は経ち、沈黙が破られる。後ろにいるエレンが、掠れた声でオルフェに伝える。
「彼よ……」
「彼?」
 オルフェは後ろを振り返らずに、エレンの次の言葉を待つ。
「彼がやったのよ。ねぇオルフェ、今日移民街で殺人事件があったことは知ってるでしょ?彼が殺したのよ。潜入捜査官の男を殺して、自分と同伴していた同じ組織の人間の男を犯人に仕立て上げた。つまり、ハメたのよ。たぶん、彼は人を信用していないみたいね」
「そうなのか……でも、なぜ詳しく知っている?君は一体……」
「恐らく、わたしも彼と同じ組織の一員。今まで直接会ったことがなかったけど……でも間違いない。彼のことを知ってるわ。同じ組織の仲間から聞いたことがある……」
 エレンの言葉が一旦途切れて、また少しの沈黙。しかし、冷たい風が吹き抜け、再び彼女の言葉が動き出す。
「彼は組織の殺し屋。組織の脅威となる存在を、あの世へと送り届ける暗殺者。彼に一度狙われた獲物は、決して逃れることはできない。どこまでも追いかけてきて、獲物の喉を掻き切る機会が訪れるその瞬間まで決して姿を見せない。獲物は殺されてしまうその時まで、まるで何かに憑りつかれたかのような狂気の表情を見せて、最後を遂げていく」
 エレンの言葉がまた途切れた後、再び冷たい風が吹き抜けていく。そして、エレンは僅かに声を震わせながら、オルフェにこう言うのだ。
「死へと誘う冥府の神。そう、死神よ」
 エレンの言葉が消えたその瞬間、死神が速いスピードでオルフェに向かって走ってくる。オルフェは急いで腰にぶら下げている宇宙銃を取り出した。しかし、撃とうとした瞬間銃を左手で抑えられ、横腹に蹴りを入れられそうになる。オルフェは左腕を盾代わりにして蹴りを防ぐと、死神は一歩ほど後ろに下がって後ろ回し蹴りでオルフェの頭部を狙う。オルフェはスウェーで攻撃を避けると、ハンドスプリングで後ろへと下がった。そして再び銃を向けると、相手の胸を狙った。しかし、死神は無駄のない動きで銃弾を躱すと、跳び横蹴りでこちらへと向かってきた。オルフェは体勢を低くして、死神の蹴りを避ける。2人の身体がちょうど横から見てクロスに交わった瞬間、2人とも振り返った状態でお互いの顔を見ていた。オルフェの瞳が死神の視線を捉えた瞬間、暗闇から銃声が鳴り響き木霊する。そして、再び音の無い世界が広がった。
 オルフェと死神が対峙している間、エレンは少し離れたところから様子を窺う。同じ組織の仲間を援護すべきか、出会うまで敵同士だった男を庇うべきなのか、エレンは判断に迷っているようだった。オルフェから死神、死神からオルフェへと交互に視線を移していて、顔にも困惑している様子が確認できる。
 しかし、突然無音が破られる。暗闇からたくさんの足音が聞こえてきた。暗い霧の中、オルフェとエレンを始末しにやって来た大勢の警官たちが、灯りを携えてこちらに向かってくることが確認できた。死神はここは一旦退くべきと判断したようで、後ろへと下がり闇に吸い込まれるように消えていった。
「いたぞ!あそこだ!!」
 オルフェたちのところへライトが向けられ、居場所がバレてしまった。何人もの警官がこちらへと向かってきているのを見て、オルフェはエレンの手を掴んで、ライトの灯りに当たらないように気をつけながら、警官たちのいる反対方向へと全速力で駆け抜ける。警官の1人が銃を抜いて発砲しようと照準を合わせた時には2人の姿が見当たらず、川に何かが落ちた大きな音だけが聞こえた。
 オルフェとエレンは現在、地下道を歩いている。国家警察に見つかり橋を全速力で渡り切った際、オルフェは建物の裏側に微かに見えるマンホールの存在に気付いた。オルフェは橋の近くにあった石材の大きな欠片を足で蹴って川に落とすと、エレンを連れて近くにあった古い木箱で蓋を隠しながら地下へと降りていった。このような経緯から、2人は現在地下道にいる。
 地下道の中はとても真っ暗だ。人間の目では全く先が見えず、限り無く闇に近い。水の滴る音が所々聞こえるだけで、後はとても静寂。普通の人間であれば、とてもじゃないが正気を保っていられない。そう思わせられる状況だ。
 しかし、オルフェやエレンにとっては、微かに存在する光の粒子のおかげで、薄暗い道へと姿を変えていった。それでも暗い場所にいることに変わりはない。2人は慎重になるべく足音を立てず先を進んでいく。
 2人の間に会話は無い。会話が無くとも微かに見える光の道筋だけが頼りという共通認識。オルフェとエレンも特に考えるまでもなかった。
 しばらく歩いていると、水の滴る音以外にも別の音が聞こえてくる。地下水の流れる音、それに隠れて聞こえてくるネズミの鳴き声、そして、地下水の流れる音が他の音を包み込んでいるため、2人の周囲の緊張が一層強まる。
 数分ぐらい地下道を歩いてると、オルフェたちの視線の先に今まで通った道幅よりもやや広い空間が微かに視認出来た。オルフェはそこから地上へと上がれるだろうと思い、エレンの先を歩いてゆく。そして、そこまで後少しで辿り着こうとしていた。
 しかし、オルフェの肩に水滴が落ちたその瞬間、オルフェの頭上から何者かが飛びかかってきた。オルフェは上を見上げると、橋の上で戦ったあの死神の姿が目に入る。オルフェは腕をクロスさせ、死神の蹴りを何とか防ぐ。重い蹴りでオルフェは後ろに吹き飛ばされそうになったが、前回の戦いと同様エレンがオルフェの背中をしっかりと受け止めたおかげで、オルフェは直ぐ様反撃が出来た。オルフェは死神に向けて銃を撃つ。しかし弾は当たらず、死神はホラー小説に出てくる亡霊のように音も立てず闇の中へと消えていった。
 オルフェは死神の姿が消えていった目的の場所まで辿り着くと、銃を構えながら周囲の状況を確認する。この場所は今までの地下道よりも少しばかり幅が広い程度で形が円状となっている。円状と言うのは平面的な意味で、正確に言うと円柱の形となっていて、オルフェたちが来たちょうど反対側にはまた同じような道が続き、そして右側には梯子が設置されていた。
 オルフェは上を見上げた。上からは今まで以上の光の粒子が舞い降りてくる様子が確認出来る。そして、オルフェはエレンのほうに振り返った。
「さぁ、行こう」
 エレンは頷くとオルフェの手を取った。
 オルフェがマンホールの蓋を開けるとそこは移民街だった。市場で買い物をしている人がまだ大勢いる。マンホールは市場がある建物の裏手にあったため、直ぐ様外に出るとエレンと人混みに紛れ込む。
 市場の人混みを観察する限り、国家警察の姿は見当たらない。だが当然、制服姿の警官だけでないことはオルフェたちも当然分かっている。なるべく目立たないように人混みの流れに身を任せながら、出来る限り速やかに市場から離れようと動いていた。
 しかし、危惧していた通り上手くはいかないものだ。移民街の住人に紛れ込んでいた国家警察の手のものが、いきなり2人に向けて銃を撃ってきた。弾は2人に外れたもののそのうちの1発は見事に黒人の若い男の顔を吹っ飛ばした。
 オルフェはエレンの手を掴んで走った。オルフェが確認出来るだけでも4、5人はいる。今までの任務で会ったことのない連中ばかりだ。オルフェは銃を取り出し応戦する。1発、2発、見事に1つずつ相手の銃に命中させていく。
 市場にいた者たちの多くが悲鳴を上げて散り散りになっていく。オルフェたちも上手く紛れ込んで逃げようとするのだが、これもまた上手くはいかない。移民に扮した警官が数人真っすぐ銃を向けながらこっちに向かって走ってくる。オルフェは警官たちの銃を撃ち落としていくのだが、全く怯む気配が無い。警官たちは直ぐ様腰に携帯している別の銃を手に取りこちらに近づいてくる。
 オルフェはエレンとの逃亡の際、無駄な殺生を避けてきた。だが、このままではいずれやられてしまう。そう判断したオルフェは今までと異なり、躊躇うことなく直ぐ様相手の頭を撃ち抜く。
 1人、2人、3人、見事なまでに相手の眉間に銃弾を撃ち込んでいく。確実に相手の動きを止めるには脳を狙うしかない。移民に扮したこの警官たちは確実に特別な訓練を受けている。もしくは薬物で洗脳や人体改造もされているのかもしれない。今までの犯罪者や警官たちと異なり、明らかに戦闘慣れしていて捨て身だ。
 オルフェも段々と余裕が無くなってきた。エレンを守りながらだとどうしても限界が出てきてしまう。オルフェは敵の姿を捉えながらも逃亡に最適なルートを探していた。
 しかし、オルフェの処理能力にも限度がある。背後から狙うスナイパーの存在にオルフェが気づくのが少しばかり遅かった。スナイパーの銃弾が発射される。銃弾はエレンの後頭部に目掛けて進んでいく。オルフェはエレンを庇い横に押した。銃弾はオルフェの背中を掠めて地面に小さく爆発した。オルフェは建物の上にいるスナイパーに銃を向けると眉間を撃ち抜く。
 最適な逃走ルートを探している余裕は無い。そう判断したオルフェはエレンを連れて一番近い建物の裏路地へと向かう。裏路地へと向かって走っている間、オルフェはまた夢のようなビジョンが頭の中に浮かんできた。実験室のようなところで知ってる誰かと向かい合っているところ、そしてそれが紛れのなく彼女、エレンであるということが。

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