「おはよう。」

 朝6時30分。笹木高志(たかし)は2階から1階の居間へ降りてきた。わが家は2階が子ども部屋になっていて、俺、高志はいつも身支度を全て済ませてから朝ご飯を食べに向かう。

 「おはよう。今日パンだから、自分で焼いてね。」

 「うん。」

 雪子(ゆきこ)は朝食と弁当とを一緒に作る。だから、パンの日にパンを焼くのと、ご飯の日にご飯を盛り付けるのとは、食べる人がするのが笹木(ささき)家のルールだ。

 「高志、おはよう。」

 恭介(きょうすけ)さんが散歩から帰ってきた。恭介さんは毎朝、雪子の次に目覚めて、散歩に行くのが日課になっている。出社時間が遅めの恭介さんは散歩帰りのジャージ姿のまま新聞を広げ、朝食をとる。

 「雪子、今日の夜ご飯は、寿司でもとるか。」

 「そうね。私もケーキ食べたいなって思ってたの。」

 「じゃあ、ケーキは頼んだ。寿司は、私が頼んでおく。」

 今日は笹木家にとって、少し特別な日なのだ。それを意識して、雪子も恭介さんも、夜ご飯は特別にしたいと考えていたのだった。

 「じゃあ、俺はどうしたらいい?」

 「あんたは寄り道しないで帰ってきなさい。」

 「はい…。」

 俺は笹木家唯一の学生。だから、何を買ってくるでもなく、早く帰ってくることが仕事だった。

 「実は、遊ぶ約束しちゃってるから、ご飯の時間までに帰って来れば行ってもいい?」

 「そうだな…。」

 新聞を広げたまま、恭介さんが回答を濁す。

 「今日はみんなで食べる日なんだ。6時には帰って来いよ。絶対だぞ。」

 「わかりました。」

 「雪子も6時で間に合うか?」

 恭介さんは新聞から目を外して、キッチンに立つ雪子に尋ねた。

 「うん。今日は定時で帰ろうと思ってたから、駅前でケーキ買っても、6時には帰ってくるよ。」

 「そうか。じゃあ、よろしくな。」

 「ごちそうさま。」

 早食いの俺が一番ノリで食べ終わった。これでも子どもの頃は少食でよく母を困らせていたらしい。食事が終わると、出来上がった弁当を持って高校に向かうのがいつもの流れ。

 「雪子。」

 食器を片付けながら、声をかけた。

 「弁当、ありがとうな。」

 真正面を向いて言うのは照れ臭いから、冷蔵庫に貼ってある雪子の給食献立表を見つめながら、つぶやいた。

 「ちょっと奮発したんだからね! 今日のは。いっぱい食べるんだよ。」

 「うん。いってきます。」

 「いってらっしゃい。」

 俺は雪子が作った弁当を持って行った。
 今日で最後の弁当を持って行った。

 笹木家で、俺の次に家を出るのが雪子だ。恭介さんは食事が終わるとコーヒーを2杯いれて、雪子の支度が済むのを待つ。そして、雪子がすっかり身支度を済ませたところで一緒にコーヒーを飲むまでが、恭介さんのルーティーンだった。

 「雪子。」

 恭介さんが声をかけた。

 「なに?」

 「わかってると思うけど、ケーキ、4つ頼むな。」

 「4つ? それとも、ホールにする? もう、ホールケーキなんて食べられなくなるでしょ?」

 「いやいや、もう若くないんだ。そんなにたくさん食べられないよ。」

 「わかった。じゃあ、4つね。」

 「うん。頼んだ。」

 コーヒーを飲み終えると、雪子は保育園に出勤する。恭介さんも身支度を整え、会社に向かう。
 今日は2月28日。笹木家は俺、高志の高校卒業を翌日に控えた、特別な日を迎えていた。

  *

 今日の授業は3時間で終わり。中身は、さまざまな配布物の返却と、明日の卒業式の予行練習。座って立って、お辞儀して。そんなことの練習に一日呼び出されるのは少々シャクだが、約1か月ぶりに友達と会えるのは嬉しいものだ。
 午前中で終わるから、弁当はなくてもいいのだが、今日はどうしても、雪子の弁当が食べたかった。

 「おう、高志。こんな時まで弁当かよ。」

 「ああ。弁当作ってもらえるのなんて、今日で最後だからな。」

 「そうだよな。俺らは最後の購買買ってくるよ。」

 こんな日に弁当を持ってきているのは、俺だけだった。明日の卒業式が終わると、昼食を食べることもなく、この学校に別れを告げなければならない。3年通ったこの校舎に通うのも明日で最後だ。
 春からは上京して、大学で経済学を学ぶ予定だ。まだ受験は継続中で、滑り止めしか結果が出ていないけれど、どう転んでも、上京することは決めている。
 思えば、小学生の頃から、お金に苦しい家なのかもしれないと思っていた。恭介さんも雪子も休みなく働いて、出前や外食は年に数回しか食べられなかった。中学校から高校に行くときに、私立に行く友達もいたけれど、わが家は公立校一択だった。
 経済に興味を持つのも必然だった。なぜこんなにうちは辛抱しないといけないのだろうと、子どもながらに思っていた。経済について勉強できる大学は家の近くにない。どうせ勉強するなら、都会に行って、いろんな人に出会って勉強するのがいい、と言ってくれたのは恭介さんだった。
 色々調べて、勉強したい大学を自分で見つけた。合格するために必要な勉強も、塾なしで偏差値を上げた。奨学金の借り方も勉強した。引越しやなんかにかかるお金は、お年玉貯金とアルバイトで貯めたお金をあてるつもりだ。
 家では頑張っている姿を見せるのが恥ずかしくて、この教室に残って勉強することが多かった。2月に家庭学習期間に入ると、教室から街の図書館に場所を変えた。でもやはり、一番勉強したのはこの教室だった。

 今日の弁当は、焼きそばと冷凍のハンバーグ、それと、ニンジンとブロッコリーを茹でたやつだった。
 母さんが作ってくれた弁当だった。
 雪子が今日という日にこれを作るのは、さすがだなと思った。ソースの味とともに、この街で過ごした18年間がよみがえってくる。弁当がなかなか食べられなかった幼稚園のころから一緒の友人たちとも、もう毎日会うことはなくなる。ぎゅうぎゅうに机が並べられた教室も、ありきたりの学ランも、何も変わらないように見える街並みも、急に焼きそばのソース色に染まって、エモさを感じさせる。

 ブー、ブー、ブー!

 あと一口で食べ終わるというときに、スマホが鳴った。
 ラインなら2回きり、通話なら4回以上のバイブが鳴るはずだ。聞きなれない通知にすぐに画面を確認した。

 「笹木高志 様
 一般入試B型選抜結果のお知らせ…。」

 メールだった。それも、大学入試の合否連絡だ。正式には郵送で届くのだが、最近はこうやってメールでも通知が来る大学もあるようだ。第一志望の大学なだけに、少々緊張したが、このまま結果を確認することにした。
 おそるおそる、スクロールすると、結果が出てきた。

 「経済学部 経済学科 合格
  経済学部 国際経済学科 不合格
  経済学部 地域経済学科 合格」

 第一志望の経済学科に合格した。相当冒険した国際経済学科は落ちてしまったが、自信がなかった地域経済学科も合格している。
 よかった。これで決心がついた。
 カバンの中から、残りわずかのルーズリーフを一枚取り出した。
 最後の弁当、最後の一口を味わった。残っていたのは母さんが作った味の焼きそばだった。

 「ごちそうさまでした。母さん。俺、卒業するよ。」
 「いってきます。」

 「いってらっしゃい。」

 何度となく、繰り返した朝。今日でこの生活も、あたりまえではなくなる。

 毎朝、毎朝。高志と雪子を見送ってきた。そんな今日で終わり。2人が家を出てから、スーツに着替える。そして、出社する。
 高志がここまで大きくなるまでに、そこそこ、それなりの地位を築いてきたつもりだ。給料が上がったか? といえば、雪子の収入に頼ってしまうこともあったくらいだが、私は社内での出世よりも、家庭での安定した生活を選んだまでだ。
 毎日決まった時間に帰宅し、雪子が作った料理を高志と食べる。
 それが私の幸せ。

 「結婚したら、毎日一緒にご飯を食べようね!」

 妻と付き合っていたとき、そんな約束をしたのを、妻はずっと覚えていて、たまたま仕事で帰りが遅くなると、噴火の如く怒り出すような妻だった。家族そろって食べることは簡単なようで、非常に難しい。私は決まった時間に帰って来るのに苦労しているのに、高志は家庭学習期間でも決まった時間に起きて、朝食を一緒に食べていた。その几帳面さは妻に似たのだな、と心の中にしまっていた。

 「恭介さん、お弁当、持って行ってね。」

 わが家の「母」が、弁当を持たせてくれた。

 「今日で最後だったな。」

 「うん。明日は高志の卒業式で、そのあとは作れなくなるから。」

 「いままでありがとうな。」

 「うん。」

 雪子は少し顔を赤らめて、返事をした。自分は少し小ぶりな弁当箱を持って、私にはその2倍くらいの弁当箱を残している。

 「雪子。いってらっしゃい。」

 「いってきます。」

 わが家の「母」が家を出た。

 誰もいなくなった家の中を、残ったコーヒーを含みながら見回す。高志が小さかった頃につけていた、柱の身長記録は、小学生になったところで止まっている。今はもう、その倍近い身長になっている。
 それにしても、わが家はずいぶんと片付いている。会社にある私のデスクは常に散らかっているので、この綺麗さは雪子がしっかりしているから保たれているのだろう。居間の一角にある仏壇スペースに目を向けると、新しい花が供えられていた。きっと雪子が用意してくれたんだ。そんなに気がきく雪子に「ケーキは4つな」なんて、ちょっと言い過ぎだったのかもしれない。

 「すみません。今夜の出前をお願いしたかったのですが。」

 「はい、よろこんで!」

 「松寿司1つ、お願いします。」

 「松1つですね。お時間は?」

 「夜6時、18時に届けてください。」

 「わかりました。お名前、ご住所、お願いします。」

 「はい。笹木恭介といいます。住所は…。」

 会社についてから注文してもいいのだが、時たま忙しくて電話すらかけられないということもあるので、今日ばかりは絶対に注文しなくてはならないと考え、受話器を取った。
 松寿司はいつも注文している寿司屋で、一番豪勢なセットメニューだ。妻が好きなウニもしっかり入っている。高志が好きなサーモンも、雪子が好きな鉄火巻きも。少々値は張るが、今日贅沢をせずに、いつ贅沢ができるんだと考え、思い切った選択をした。雪子に怒られるかな? でも、今日なら許されるはず。

 「ご注文確認させていただきます。笹木様、松寿司1つ、18時、夜6時でお間違い無かったでしょうか?」

 「はい。お願いします。」

 「お箸、茶碗蒸しは3つでよろしいでしょうか?」

 「いや、4つお願いできますか? 追加料金が必要なら払いますので。」

 「いえ、サービスですのでお代は変わりません。それでは夜6時にお届けにあがります。」

  *

 いつも通り、駅に向かう。
 いつも通り、電車に乗る。
 いつも通り、会社に行く。

 今日が2月28日であること以外、何も変わらない一日だった。年下の上司から仕事をうけ、年下の後輩から人生相談を受け、気がつくとこれといった成果がないまま昼休みになっていた。これもいつも通り。

 弁当箱を開けると、思わず息を呑んだ。
 妻が子どもたちに作っていた弁当そのものだった。ご飯に焼きそば、そして茹で野菜がいくつか。
 わが家は基本的に全員同じ弁当を持っていくので、私がこの弁当なら、高志も、雪子も、同じ弁当ということになる。彼らはこの弁当箱に、何を想うのだろう?
 高志が小さかった頃は、少食で、幼稚園に持っていった弁当をいつも残して帰ってきていた。その残りを食べるのは私の仕事だった。高志の背が伸びず、私の腹が出てきたのはそのせいもあるのかもしれない。家でもなかなか食べない高志に妻がよく作っていたのが焼きそばだった。具材は豚肉とよく炒めた玉ねぎだけ。ソース味が高志のお気に入りだった。
 今ではなんでも食べる青年になったが、この焼きそば弁当を見て、高志はあの頃のことを、思い出してくれるだろうか?

 雪子の焼きそばは、少々味が控えめな、やはり雪子の焼きそばだった。でも、たまに、あの頃の焼きそばの味になる。ソースで濃く味つけられたあの焼きそばの味が。
 周りで一緒に弁当を食べている同僚が何人かいたはずだったが、気づくと全員席を立って、別の場所で食べているようだった。さらに焼きそばの味が濃くなる。
 ふと顔をあげると、いつも乱雑なデスクに置かれた書類が、さらに曲がって見えた。

 ポタ。

 焼きそばを摘んでいた右手に雫が落ちる。慌ててポケットからハンカチを探す。
 ない。
 そうさ、このだらしない私がハンカチを持ち歩く習慣など、あるわけがないのだ。もしや、と考え鞄の中をあさってみる。

 あった。

 雪子が鞄の中に、ハンカチとポケットティッシュを忍ばせていた。ティッシュには妻が好きだったウサギのキャラクターが描かれている。

 「雪子。母、合格。」

 その成長が喜ばしい反面、ここまで苦労をかけてしまったことに、また、想いがあふれてしまう。少ししょっぱくなった弁当を完食し、私は休暇をとる算段をとった。幸い、今日の午後はこれと言って急ぎの仕事がなかったので、年下の上司に嫌な顔されることもなく、帰路に着くことができた。

 たった3時間。
 ほんの少しだが、雪子のためと思い休暇を取ったのは実は初めてだった。雪子が帰るまでの3時間。私はいつも雪子がしてくれている家事を全てやることにした。洗濯、掃除、茶碗洗い。そして今日と明日の服の支度。雪子がしたら、なんてことないのかもしれないが、私がすると、逆に後退してしまうこともあり、難航した。

 「ただいま。おい、何してんだよ!」

 雪子より早く帰った高志が見かねて、洗濯機の前にこぼれた洗剤を拭いてくれた。

 「高志、おかえり。早かったなぁ。」

 「ああ。俺以外にも家でご馳走するんって家があって、早めに解散することにしたんだ。」

 「そうか。」

 「俺も弁当箱、自分で洗いたくなっちゃって。最後くらいね。恭介さんもそんなところだろ?」

 「ああ。ご覧のとおり、結局汚してばかりだけどな。」

 洗濯機の前は洗剤だらけ。食器洗いも、掃除機も全部中途半端で、雪子が帰る午後6時はもうすぐそこに迫っている。

 「なあ、恭介さん。」

 「どうした、こんな時に。」

 洗濯機の前の洗剤はきれいになったが、肝心の水が出てこなくて、男2人が洗濯機の周りで右往左往しているという時に、高志が話しかけてきた。

 「そうだ。合格したよ。大学。」

 「そうか。おめでとう。」

 「実は、もう住むとこ決めててさ。今週末に一回東京に行くよ。そこで契約して、来週には都民になるつもり。」

 「早くないか?」

 合格した。までは想定内だとして、すでに家が決まりつつあるとは初耳だった。素直な感想がとなりの風呂場にも、大きく響く。

 「恭介さんにも雪子にも、心配かけたくないからさ。滑り止め決まった時点で考えてたんだよ。」

 「そうか。お前もできた息子になったな。昔は私が弁当食べてやってたのにな。」

 「ああ、それ。俺も弁当食べながら思い出したよ。その節は。どうも。」

 周りのことを考えて、先々を見通して行動できる、できた息子に育ったのが誇らしかった。

 「母さんにも、伝えるんだぞ。」

 「ああ、雪子にはラインしたよ。『おめでとう、うれしいよ』だってさ。」

 「違う。お母さんに伝えてきなさい。」

 高志は一瞬動きを止めて考えこんだが、事態を把握して、居間のに急いだ。

 「あ、これか?」

 洗濯機の上にあった蛇口をひねると、水が流れる音がした。

 「よし! 洗濯できるぞ!」
 私が「母」になったのは、12年前の今日。まさに、いまの高志と同じタイミングだった。

 あのとき、高志はまだ小学校に上がるところで、お母さんの手をずっと握り続けていたのが忘れられない。お母さんがいなくなったのは突然だった。高校3年生になったころに病気が見つかって、今まで目指していた東京の大学を諦めて、自宅から通える短大に進路を変更した。こんな簡単に人生変わるなんて、思っていなかった。

 お母さんが死んで、高校の卒業式は行けなかった。
 人生が変わったのは、そこから、だった。

 お父さんはあの日から、私たちきょうだいにお父さんのことを「恭介さん」と名前で呼ばせた。高志には、私のことを「雪子」と呼ばせた。

 「いいか。今日から雪子が、うちの『お母さん』だからな。頑張るんだぞ。」

 父の言霊(ことだま)か、高志の呼び方が通じたのか、私は本当に「母」になっていった。「雪子」と呼ばれるたびに「母さん」と呼ばれる気がした。恭介さんが仕事で力を出せるように、高志がのびのびと育つように、他人のために頑張る「母」になった。
 短大に通いながらアルバイトと家事を両立させた。
 確実に仕事がある、保育士になるために勉強した。
 卒業後には、夢とは少し違う、保育士として家計を支えた。
 自分で決めた道だと信じてきたけれど、今日のお弁当を食べていると、どうしても想いあふれてしまった。

 「笹木先生、今日で最後ですものね。」

 「す、すみません。なんか、最後だなって…。ごめんなさい。」

 その場しのぎのウソだった。
 たしかに今日で私は10年勤めたこの保育園を退職するけれど、そうじゃない。お母さんの弁当に想いあふれてしまったのだ。

 私は野菜が嫌いな子どもだった。幼稚園のお弁当に入ったお野菜を何度残したことだろう。お母さんがちょっと甘く煮てくれたニンジンさん。高志の最後の弁当にと作ってみたら、私が高校生だったころの、12年前の味がした。
 あのころ描いていた夢。
 東京の大学で社会の先生になる勉強をすること。
 都会の女になってみること。
 お母さんと女子会を開くこと。
 お母さんに孫の顔を見せること。
 私にあったはずの未来があふれて、体の中には収まりきらなくなっていた。保育園の職員トイレで閉じこもる。こんな30歳を高校生の私は想像できなかった。

 この生活も今日で終わり。明日の卒業式が終われば、私は恋人の家に引っ越すことになっている。恋人と結ばれて本当に「母」になる。高志と恭介さんの「母」は、もう、終わり。

 「ゆきこせんせーい。」

 帰り際に最年長の男の子が、私の足元に抱きついてきた。

 「たかしくん。せんせいね、もう、かえらなきゃ、いけないの。」

 「うん。ぼく、かなしい。もうあえないんでしょ?」

 「そうなの。わたしも、かなしいよ。」

 たかしくんはなかなか私の脚を離してくれない。

 「かなしいけどさ、ぼくね、ゆきこせんせいが、ずっとニコニコしてたら、うれしくなるよ。」

 「うん…。」

 「ニコニコしててね。やくそくだよ!」

 保育園、最後の勤務を見送ってくれた「たかしくん」は、笹木家の「母」になったばかりの私を見送る高志と重なって見えた。

  *

 家に着いたのは、約束の6時ちょっと前の午後5時50分頃だった。

 お母さんの行きつけ、駅前のケーキ屋さんでケーキを4つ買って帰った。ショートケーキが2つと、チョコレートケーキが2つ。ショートケーキは恭介さんが好きなやつで、チョコレートケーキは高志が好きなやつ。私は余ったのをもらえばいいから。お母さんもそういう人だった。

 「ただいまぁ。」

 ジャバー!!!

 とてつもない水の音に出迎えられた。

 「ちょっと、どうしたの?」

 「いや、洗濯機を回そうとしたら、洗剤こぼしちゃって、いろいろいじっているうちに…。」

 恭介さんの話もそこそこに、ケーキを安全な場所に置いて、カバンを放り投げて、洗濯機がある脱衣場に向かった。

 「ホース外して蛇口開けたら、こうなるでしょ!」

 慌てふためいている恭介さんを押しのけて、洗濯機の上についている、給水用の蛇口を閉めた。思わず「ふー」と息を吐く。

 「ごめんな。母さんって大変なんだな。」

 「大変だったのかな? 生きるにはこれしかなかったから。」

 びしょ濡れで呆然と立っている恭介さんを差し置いて、洗濯機に入っていた「これから洗うタオルたち」で、恭介さんがまきちらかした水を拭った。

 「ごめんください。寿庵(ことぶきあん)でした。」

 こんなタイミングで、お寿司が届いてしまった。居間には高志しかいない。本来、主役の高志が「いいよ」とつぶやいて、玄関にお寿司を受け取りに行ってくれた。台所に隠してある食費用の財布から、諭吉を取り出して寿司と交換する。
 わが家の中では、諭吉が寿司屋に。洗濯物が洗濯機の中に。そしてお寿司がテーブルに。それぞれ収まるべきところに収まった。

 「じゃあ、着替えてくおいでよ。」

 「うん。」

 あとは、仕事着を脱いで、楽な格好になれば今夜の宴を始められる。恭介さんにうながされて脱衣場をあとにし、玄関に置いたままのケーキは冷蔵庫に、そして私は2階の自室に戻って、収まるべきところに収まろうとした。

  *

 食卓の真ん中には、高志が受け取ってくれた寿庵のお寿司が鎮座する。冷蔵庫には私が買ってきたケーキが4つ控えている。台所に近い、窓側の恭介さんの席と、対角の1番玄関に近い私の席には、高志が用意したのかビールとコップが用意されている。高志の席には透明なサイダーのペットボトルが置いてある。
 私が部屋着に着替えて席に着いたとき、まだ、恭介さんは家事にいそしんでいるようだった。

 「すまない。待たせたな。」

 「うん。まあ、食べようよ。」

 私がうながして、まず恭介さんを座らせる。そこからコップにビールを注ぐのは高志の役割。あの日から変わらない。わが家の日常。

 「じゃあ、高志。明日で卒業だな。おめでとう、乾杯。」

 「乾杯。」

 わが家の食事は、割と静かなほうではないかと思う。咀嚼音が響く、とまでは行かないが、無音を感じることが多い。しかも今日は年に数回しか食べられないお寿司だ。高志は大好きなサーモンを、恭介さんはお母さんが大好きだったウニを、そして私は鉄火巻きを、無心で食べ続けている。この3つがそろうのは、寿庵の最上級メニュー「松寿司」しかない。恭介さんは今日、この家族で食べる寿司にかけているのだということを思い知らされる。
 高志が卒業する明日。高志と恭介さんは学校の謝恩会に出席する。私は明日午後、恋人の家に引っ越す。あさってになれば、高志も東京で家探しをすることが決まっている。家族で食べるのはこれが最後の夜ご飯だった。

 「なあ、提案があるんだけど。」

 無音になりつつあった食卓に、息を吹き込んだのは、恭介さんだ。

 「もう、終わりにしないか? 家族に戻らないか?」

 え? っと首をかしげる。私たちは家族だった。それはお母さんが生きていたころからなにも変わっていない。

 「私たち家族じゃないの?」

 斜め前の恭介さんにきく声は、震えが止まらない。

 「家族さ。文恵と出会ってから、私たちはずっと家族さ。」

 「俺もわかんねえよ。家族ならいいじゃねえかよ。」

 高志も援護射撃だ。

 「普通の家族に、戻りたいんだ。もう、親のことを名前で呼ぶのは、やめにしよう。」

 恭介さんは、一人ひとりが同じ悲しみを共有する対等な「家族」から、普通の、親子としてときには優しく、甘えられる「家族」になりたい、と言い出した。

 「たしかにな。みんな『おやじ』とか呼んでるから、なんか違和感はあったんだよな。」

 「うん、うん。」

 高志の顔も恭介さんの顔も見られない。ずっと手元に残った、醤油皿のいくらの粒を見つめている。それはいつか、丸から星形になって、弾ける。
 背中に温かいものを感じた。
 お母さんの手のひらと一緒だった。

 「恭介さんが『お父さん』なら、雪子は『アネキ』でいいのか? まあ、そうしないか?」

 高志の手が背中をさすると、喉の奥で、目の奥で、ツンと熱く、ヒリヒリするのを感じている。
 まぶたの裏に見えるのは、お母さんが私の背中をさすってくれた時の光景。お母さんがそうしたように、私が高志にそうする光景。きっと多くの人にはある、お母さんと恋バナをして、彼氏を紹介して、ニコニコ笑ってくれる。そんな光景。

 「雪子には、いっぱい、ガマンさせちゃったもんな。なんて言っても、取り返せないけど、ごめんな。」

 「恭介さん。わ、わたし…。」

 「アネキ…。」

 行きたいところも、やりたいことも、たくさんガマンしてきた。それが私の生きる道で、幸せだと思っていたから。高志があのときの私と同じ歳になって、私も家庭をもつことになって。もう、潮時なのかもしれない。

 「ねえ、お、お父、さん。」

 「雪子、ありがとうな。」

 「私、卒業しようと思う。笹木家の『お母さん』卒業しようと思うの。お母さん、許してくれるかな?」

 仏壇に置かれた、ハガキサイズのお母さんの遺影は、父の白髪頭とは打って変わって、若くて品がある、素敵な笑顔を見せていた。

 「なあ、アネキ。」

 「んん?」

 「『お母さん』、卒業、おめでとう。」

  *

 つわりが辛くなって、お父さんの家に帰ることになった。

 「おはよう。」

 「おお、雪子。おはよう。」

 2階から降りて、朝食に向かう。あの頃と同じく、お父さんが散歩から帰ってくる。朝食が終わるとお父さんがコーヒーを2杯、たんぽぽコーヒーを1杯いれて、出勤前の語らいが始まる。

 「最近はこうやって、文恵のことを考えているのさ。」

 お父さんが向けるお母さんの仏壇には、お母さんの写真と、あのとき高志が贈ってくれたルーズリーフの卒業証書が飾ってあった。私たちが大好きだったお母さんと、お母さんだった私のことをたたえた卒業証書。
 2人の名前が刻まれた即席の卒業証書は、私たち家族の宝物になっている。

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