私が「母」になったのは、12年前の今日。まさに、いまの高志と同じタイミングだった。
あのとき、高志はまだ小学校に上がるところで、お母さんの手をずっと握り続けていたのが忘れられない。お母さんがいなくなったのは突然だった。高校3年生になったころに病気が見つかって、今まで目指していた東京の大学を諦めて、自宅から通える短大に進路を変更した。こんな簡単に人生変わるなんて、思っていなかった。
お母さんが死んで、高校の卒業式は行けなかった。
人生が変わったのは、そこから、だった。
お父さんはあの日から、私たちきょうだいにお父さんのことを「恭介さん」と名前で呼ばせた。高志には、私のことを「雪子」と呼ばせた。
「いいか。今日から雪子が、うちの『お母さん』だからな。頑張るんだぞ。」
父の言霊か、高志の呼び方が通じたのか、私は本当に「母」になっていった。「雪子」と呼ばれるたびに「母さん」と呼ばれる気がした。恭介さんが仕事で力を出せるように、高志がのびのびと育つように、他人のために頑張る「母」になった。
短大に通いながらアルバイトと家事を両立させた。
確実に仕事がある、保育士になるために勉強した。
卒業後には、夢とは少し違う、保育士として家計を支えた。
自分で決めた道だと信じてきたけれど、今日のお弁当を食べていると、どうしても想いあふれてしまった。
「笹木先生、今日で最後ですものね。」
「す、すみません。なんか、最後だなって…。ごめんなさい。」
その場しのぎのウソだった。
たしかに今日で私は10年勤めたこの保育園を退職するけれど、そうじゃない。お母さんの弁当に想いあふれてしまったのだ。
私は野菜が嫌いな子どもだった。幼稚園のお弁当に入ったお野菜を何度残したことだろう。お母さんがちょっと甘く煮てくれたニンジンさん。高志の最後の弁当にと作ってみたら、私が高校生だったころの、12年前の味がした。
あのころ描いていた夢。
東京の大学で社会の先生になる勉強をすること。
都会の女になってみること。
お母さんと女子会を開くこと。
お母さんに孫の顔を見せること。
私にあったはずの未来があふれて、体の中には収まりきらなくなっていた。保育園の職員トイレで閉じこもる。こんな30歳を高校生の私は想像できなかった。
この生活も今日で終わり。明日の卒業式が終われば、私は恋人の家に引っ越すことになっている。恋人と結ばれて本当に「母」になる。高志と恭介さんの「母」は、もう、終わり。
「ゆきこせんせーい。」
帰り際に最年長の男の子が、私の足元に抱きついてきた。
「たかしくん。せんせいね、もう、かえらなきゃ、いけないの。」
「うん。ぼく、かなしい。もうあえないんでしょ?」
「そうなの。わたしも、かなしいよ。」
たかしくんはなかなか私の脚を離してくれない。
「かなしいけどさ、ぼくね、ゆきこせんせいが、ずっとニコニコしてたら、うれしくなるよ。」
「うん…。」
「ニコニコしててね。やくそくだよ!」
保育園、最後の勤務を見送ってくれた「たかしくん」は、笹木家の「母」になったばかりの私を見送る高志と重なって見えた。
*
家に着いたのは、約束の6時ちょっと前の午後5時50分頃だった。
お母さんの行きつけ、駅前のケーキ屋さんでケーキを4つ買って帰った。ショートケーキが2つと、チョコレートケーキが2つ。ショートケーキは恭介さんが好きなやつで、チョコレートケーキは高志が好きなやつ。私は余ったのをもらえばいいから。お母さんもそういう人だった。
「ただいまぁ。」
ジャバー!!!
とてつもない水の音に出迎えられた。
「ちょっと、どうしたの?」
「いや、洗濯機を回そうとしたら、洗剤こぼしちゃって、いろいろいじっているうちに…。」
恭介さんの話もそこそこに、ケーキを安全な場所に置いて、カバンを放り投げて、洗濯機がある脱衣場に向かった。
「ホース外して蛇口開けたら、こうなるでしょ!」
慌てふためいている恭介さんを押しのけて、洗濯機の上についている、給水用の蛇口を閉めた。思わず「ふー」と息を吐く。
「ごめんな。母さんって大変なんだな。」
「大変だったのかな? 生きるにはこれしかなかったから。」
びしょ濡れで呆然と立っている恭介さんを差し置いて、洗濯機に入っていた「これから洗うタオルたち」で、恭介さんがまきちらかした水を拭った。
「ごめんください。寿庵でした。」
こんなタイミングで、お寿司が届いてしまった。居間には高志しかいない。本来、主役の高志が「いいよ」とつぶやいて、玄関にお寿司を受け取りに行ってくれた。台所に隠してある食費用の財布から、諭吉を取り出して寿司と交換する。
わが家の中では、諭吉が寿司屋に。洗濯物が洗濯機の中に。そしてお寿司がテーブルに。それぞれ収まるべきところに収まった。
「じゃあ、着替えてくおいでよ。」
「うん。」
あとは、仕事着を脱いで、楽な格好になれば今夜の宴を始められる。恭介さんにうながされて脱衣場をあとにし、玄関に置いたままのケーキは冷蔵庫に、そして私は2階の自室に戻って、収まるべきところに収まろうとした。
*
食卓の真ん中には、高志が受け取ってくれた寿庵のお寿司が鎮座する。冷蔵庫には私が買ってきたケーキが4つ控えている。台所に近い、窓側の恭介さんの席と、対角の1番玄関に近い私の席には、高志が用意したのかビールとコップが用意されている。高志の席には透明なサイダーのペットボトルが置いてある。
私が部屋着に着替えて席に着いたとき、まだ、恭介さんは家事にいそしんでいるようだった。
「すまない。待たせたな。」
「うん。まあ、食べようよ。」
私がうながして、まず恭介さんを座らせる。そこからコップにビールを注ぐのは高志の役割。あの日から変わらない。わが家の日常。
「じゃあ、高志。明日で卒業だな。おめでとう、乾杯。」
「乾杯。」
わが家の食事は、割と静かなほうではないかと思う。咀嚼音が響く、とまでは行かないが、無音を感じることが多い。しかも今日は年に数回しか食べられないお寿司だ。高志は大好きなサーモンを、恭介さんはお母さんが大好きだったウニを、そして私は鉄火巻きを、無心で食べ続けている。この3つがそろうのは、寿庵の最上級メニュー「松寿司」しかない。恭介さんは今日、この家族で食べる寿司にかけているのだということを思い知らされる。
高志が卒業する明日。高志と恭介さんは学校の謝恩会に出席する。私は明日午後、恋人の家に引っ越す。あさってになれば、高志も東京で家探しをすることが決まっている。家族で食べるのはこれが最後の夜ご飯だった。
「なあ、提案があるんだけど。」
無音になりつつあった食卓に、息を吹き込んだのは、恭介さんだ。
「もう、終わりにしないか? 家族に戻らないか?」
え? っと首をかしげる。私たちは家族だった。それはお母さんが生きていたころからなにも変わっていない。
「私たち家族じゃないの?」
斜め前の恭介さんにきく声は、震えが止まらない。
「家族さ。文恵と出会ってから、私たちはずっと家族さ。」
「俺もわかんねえよ。家族ならいいじゃねえかよ。」
高志も援護射撃だ。
「普通の家族に、戻りたいんだ。もう、親のことを名前で呼ぶのは、やめにしよう。」
恭介さんは、一人ひとりが同じ悲しみを共有する対等な「家族」から、普通の、親子としてときには優しく、甘えられる「家族」になりたい、と言い出した。
「たしかにな。みんな『おやじ』とか呼んでるから、なんか違和感はあったんだよな。」
「うん、うん。」
高志の顔も恭介さんの顔も見られない。ずっと手元に残った、醤油皿のいくらの粒を見つめている。それはいつか、丸から星形になって、弾ける。
背中に温かいものを感じた。
お母さんの手のひらと一緒だった。
「恭介さんが『お父さん』なら、雪子は『アネキ』でいいのか? まあ、そうしないか?」
高志の手が背中をさすると、喉の奥で、目の奥で、ツンと熱く、ヒリヒリするのを感じている。
まぶたの裏に見えるのは、お母さんが私の背中をさすってくれた時の光景。お母さんがそうしたように、私が高志にそうする光景。きっと多くの人にはある、お母さんと恋バナをして、彼氏を紹介して、ニコニコ笑ってくれる。そんな光景。
「雪子には、いっぱい、ガマンさせちゃったもんな。なんて言っても、取り返せないけど、ごめんな。」
「恭介さん。わ、わたし…。」
「アネキ…。」
行きたいところも、やりたいことも、たくさんガマンしてきた。それが私の生きる道で、幸せだと思っていたから。高志があのときの私と同じ歳になって、私も家庭をもつことになって。もう、潮時なのかもしれない。
「ねえ、お、お父、さん。」
「雪子、ありがとうな。」
「私、卒業しようと思う。笹木家の『お母さん』卒業しようと思うの。お母さん、許してくれるかな?」
仏壇に置かれた、ハガキサイズのお母さんの遺影は、父の白髪頭とは打って変わって、若くて品がある、素敵な笑顔を見せていた。
「なあ、アネキ。」
「んん?」
「『お母さん』、卒業、おめでとう。」
*
つわりが辛くなって、お父さんの家に帰ることになった。
「おはよう。」
「おお、雪子。おはよう。」
2階から降りて、朝食に向かう。あの頃と同じく、お父さんが散歩から帰ってくる。朝食が終わるとお父さんがコーヒーを2杯、たんぽぽコーヒーを1杯いれて、出勤前の語らいが始まる。
「最近はこうやって、文恵のことを考えているのさ。」
お父さんが向けるお母さんの仏壇には、お母さんの写真と、あのとき高志が贈ってくれたルーズリーフの卒業証書が飾ってあった。私たちが大好きだったお母さんと、お母さんだった私のことをたたえた卒業証書。
2人の名前が刻まれた即席の卒業証書は、私たち家族の宝物になっている。
あのとき、高志はまだ小学校に上がるところで、お母さんの手をずっと握り続けていたのが忘れられない。お母さんがいなくなったのは突然だった。高校3年生になったころに病気が見つかって、今まで目指していた東京の大学を諦めて、自宅から通える短大に進路を変更した。こんな簡単に人生変わるなんて、思っていなかった。
お母さんが死んで、高校の卒業式は行けなかった。
人生が変わったのは、そこから、だった。
お父さんはあの日から、私たちきょうだいにお父さんのことを「恭介さん」と名前で呼ばせた。高志には、私のことを「雪子」と呼ばせた。
「いいか。今日から雪子が、うちの『お母さん』だからな。頑張るんだぞ。」
父の言霊か、高志の呼び方が通じたのか、私は本当に「母」になっていった。「雪子」と呼ばれるたびに「母さん」と呼ばれる気がした。恭介さんが仕事で力を出せるように、高志がのびのびと育つように、他人のために頑張る「母」になった。
短大に通いながらアルバイトと家事を両立させた。
確実に仕事がある、保育士になるために勉強した。
卒業後には、夢とは少し違う、保育士として家計を支えた。
自分で決めた道だと信じてきたけれど、今日のお弁当を食べていると、どうしても想いあふれてしまった。
「笹木先生、今日で最後ですものね。」
「す、すみません。なんか、最後だなって…。ごめんなさい。」
その場しのぎのウソだった。
たしかに今日で私は10年勤めたこの保育園を退職するけれど、そうじゃない。お母さんの弁当に想いあふれてしまったのだ。
私は野菜が嫌いな子どもだった。幼稚園のお弁当に入ったお野菜を何度残したことだろう。お母さんがちょっと甘く煮てくれたニンジンさん。高志の最後の弁当にと作ってみたら、私が高校生だったころの、12年前の味がした。
あのころ描いていた夢。
東京の大学で社会の先生になる勉強をすること。
都会の女になってみること。
お母さんと女子会を開くこと。
お母さんに孫の顔を見せること。
私にあったはずの未来があふれて、体の中には収まりきらなくなっていた。保育園の職員トイレで閉じこもる。こんな30歳を高校生の私は想像できなかった。
この生活も今日で終わり。明日の卒業式が終われば、私は恋人の家に引っ越すことになっている。恋人と結ばれて本当に「母」になる。高志と恭介さんの「母」は、もう、終わり。
「ゆきこせんせーい。」
帰り際に最年長の男の子が、私の足元に抱きついてきた。
「たかしくん。せんせいね、もう、かえらなきゃ、いけないの。」
「うん。ぼく、かなしい。もうあえないんでしょ?」
「そうなの。わたしも、かなしいよ。」
たかしくんはなかなか私の脚を離してくれない。
「かなしいけどさ、ぼくね、ゆきこせんせいが、ずっとニコニコしてたら、うれしくなるよ。」
「うん…。」
「ニコニコしててね。やくそくだよ!」
保育園、最後の勤務を見送ってくれた「たかしくん」は、笹木家の「母」になったばかりの私を見送る高志と重なって見えた。
*
家に着いたのは、約束の6時ちょっと前の午後5時50分頃だった。
お母さんの行きつけ、駅前のケーキ屋さんでケーキを4つ買って帰った。ショートケーキが2つと、チョコレートケーキが2つ。ショートケーキは恭介さんが好きなやつで、チョコレートケーキは高志が好きなやつ。私は余ったのをもらえばいいから。お母さんもそういう人だった。
「ただいまぁ。」
ジャバー!!!
とてつもない水の音に出迎えられた。
「ちょっと、どうしたの?」
「いや、洗濯機を回そうとしたら、洗剤こぼしちゃって、いろいろいじっているうちに…。」
恭介さんの話もそこそこに、ケーキを安全な場所に置いて、カバンを放り投げて、洗濯機がある脱衣場に向かった。
「ホース外して蛇口開けたら、こうなるでしょ!」
慌てふためいている恭介さんを押しのけて、洗濯機の上についている、給水用の蛇口を閉めた。思わず「ふー」と息を吐く。
「ごめんな。母さんって大変なんだな。」
「大変だったのかな? 生きるにはこれしかなかったから。」
びしょ濡れで呆然と立っている恭介さんを差し置いて、洗濯機に入っていた「これから洗うタオルたち」で、恭介さんがまきちらかした水を拭った。
「ごめんください。寿庵でした。」
こんなタイミングで、お寿司が届いてしまった。居間には高志しかいない。本来、主役の高志が「いいよ」とつぶやいて、玄関にお寿司を受け取りに行ってくれた。台所に隠してある食費用の財布から、諭吉を取り出して寿司と交換する。
わが家の中では、諭吉が寿司屋に。洗濯物が洗濯機の中に。そしてお寿司がテーブルに。それぞれ収まるべきところに収まった。
「じゃあ、着替えてくおいでよ。」
「うん。」
あとは、仕事着を脱いで、楽な格好になれば今夜の宴を始められる。恭介さんにうながされて脱衣場をあとにし、玄関に置いたままのケーキは冷蔵庫に、そして私は2階の自室に戻って、収まるべきところに収まろうとした。
*
食卓の真ん中には、高志が受け取ってくれた寿庵のお寿司が鎮座する。冷蔵庫には私が買ってきたケーキが4つ控えている。台所に近い、窓側の恭介さんの席と、対角の1番玄関に近い私の席には、高志が用意したのかビールとコップが用意されている。高志の席には透明なサイダーのペットボトルが置いてある。
私が部屋着に着替えて席に着いたとき、まだ、恭介さんは家事にいそしんでいるようだった。
「すまない。待たせたな。」
「うん。まあ、食べようよ。」
私がうながして、まず恭介さんを座らせる。そこからコップにビールを注ぐのは高志の役割。あの日から変わらない。わが家の日常。
「じゃあ、高志。明日で卒業だな。おめでとう、乾杯。」
「乾杯。」
わが家の食事は、割と静かなほうではないかと思う。咀嚼音が響く、とまでは行かないが、無音を感じることが多い。しかも今日は年に数回しか食べられないお寿司だ。高志は大好きなサーモンを、恭介さんはお母さんが大好きだったウニを、そして私は鉄火巻きを、無心で食べ続けている。この3つがそろうのは、寿庵の最上級メニュー「松寿司」しかない。恭介さんは今日、この家族で食べる寿司にかけているのだということを思い知らされる。
高志が卒業する明日。高志と恭介さんは学校の謝恩会に出席する。私は明日午後、恋人の家に引っ越す。あさってになれば、高志も東京で家探しをすることが決まっている。家族で食べるのはこれが最後の夜ご飯だった。
「なあ、提案があるんだけど。」
無音になりつつあった食卓に、息を吹き込んだのは、恭介さんだ。
「もう、終わりにしないか? 家族に戻らないか?」
え? っと首をかしげる。私たちは家族だった。それはお母さんが生きていたころからなにも変わっていない。
「私たち家族じゃないの?」
斜め前の恭介さんにきく声は、震えが止まらない。
「家族さ。文恵と出会ってから、私たちはずっと家族さ。」
「俺もわかんねえよ。家族ならいいじゃねえかよ。」
高志も援護射撃だ。
「普通の家族に、戻りたいんだ。もう、親のことを名前で呼ぶのは、やめにしよう。」
恭介さんは、一人ひとりが同じ悲しみを共有する対等な「家族」から、普通の、親子としてときには優しく、甘えられる「家族」になりたい、と言い出した。
「たしかにな。みんな『おやじ』とか呼んでるから、なんか違和感はあったんだよな。」
「うん、うん。」
高志の顔も恭介さんの顔も見られない。ずっと手元に残った、醤油皿のいくらの粒を見つめている。それはいつか、丸から星形になって、弾ける。
背中に温かいものを感じた。
お母さんの手のひらと一緒だった。
「恭介さんが『お父さん』なら、雪子は『アネキ』でいいのか? まあ、そうしないか?」
高志の手が背中をさすると、喉の奥で、目の奥で、ツンと熱く、ヒリヒリするのを感じている。
まぶたの裏に見えるのは、お母さんが私の背中をさすってくれた時の光景。お母さんがそうしたように、私が高志にそうする光景。きっと多くの人にはある、お母さんと恋バナをして、彼氏を紹介して、ニコニコ笑ってくれる。そんな光景。
「雪子には、いっぱい、ガマンさせちゃったもんな。なんて言っても、取り返せないけど、ごめんな。」
「恭介さん。わ、わたし…。」
「アネキ…。」
行きたいところも、やりたいことも、たくさんガマンしてきた。それが私の生きる道で、幸せだと思っていたから。高志があのときの私と同じ歳になって、私も家庭をもつことになって。もう、潮時なのかもしれない。
「ねえ、お、お父、さん。」
「雪子、ありがとうな。」
「私、卒業しようと思う。笹木家の『お母さん』卒業しようと思うの。お母さん、許してくれるかな?」
仏壇に置かれた、ハガキサイズのお母さんの遺影は、父の白髪頭とは打って変わって、若くて品がある、素敵な笑顔を見せていた。
「なあ、アネキ。」
「んん?」
「『お母さん』、卒業、おめでとう。」
*
つわりが辛くなって、お父さんの家に帰ることになった。
「おはよう。」
「おお、雪子。おはよう。」
2階から降りて、朝食に向かう。あの頃と同じく、お父さんが散歩から帰ってくる。朝食が終わるとお父さんがコーヒーを2杯、たんぽぽコーヒーを1杯いれて、出勤前の語らいが始まる。
「最近はこうやって、文恵のことを考えているのさ。」
お父さんが向けるお母さんの仏壇には、お母さんの写真と、あのとき高志が贈ってくれたルーズリーフの卒業証書が飾ってあった。私たちが大好きだったお母さんと、お母さんだった私のことをたたえた卒業証書。
2人の名前が刻まれた即席の卒業証書は、私たち家族の宝物になっている。