「だ、大丈夫です」
不思議、慶さんに抱きしめられて嫌じゃなかった。
今までは身体が拒否反応してたのに、今は慶さんの名前を口にしてドキドキした。
その瞬間、抱きしめられた事が嫌じゃなかった。
なんだろう、この気持ち。
「じゃ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
そして、慶さんは仕事に出かけた。
私も月曜日に休みを貰って、火曜日から仕事に行った。
私は戸倉美鈴になった事、引っ越しした事を上司に伝えた。
慶さんはちょっとした有名人だと言う事を初めて知った。
羨ましいじゃなく、なんで私みたいな冴えないアラフォーが戸倉慶と結婚出来たのと妬みの視線が痛く突き刺さった。
ただでさえ、四十歳を迎えて、職場に残る事が難しい状況で、戸倉建設社長夫人になったのに、なんでまだ働いているのって、あちこちからひそひそ話が、私に重くのしかかって来た。
仕事から戻って、夕食の支度をしていると、慶さんが仕事から帰宅した。
「ただいま、美鈴」
「お帰りなさい」
元気のない私の様子にいち早く気づいた慶さんは、すぐに声をかけてくれた。
「どうかした、美鈴」
「あっ、何でもありません」
職場の愚痴を慶さんに話せるわけないと、言葉を飲み込んだ。
「何でもない顔じゃないな、俺で良ければ愚痴聞くよ」
愚痴って、慶さんは何でもお見通しなの?
なんか気持ちがちょっと楽になって、職場の愚痴を話してしまった。
「そうなんだ、でも俺はそんなに有名人じゃないけどな」
「そんな事ないです、職場の女性は皆んな慶さんを知っていましたよ」
「いいな、その呼び方」
「あっ、すみません、つい」
「全然大丈夫、その呼び方にしてと俺が頼んだんだから、美鈴は俺の奥さんなんだから」
慶さんはニッコリ微笑んだ。
誰だって私を妬むよね、この笑顔を独り占めしちゃったんだから……
「なあ、美鈴、仕事辞めてもいいよ」
「えっ?」
「出来れば美鈴には俺を支えると言う仕事をしてほしいな」
慶さんを支える?
「会社に挨拶しに行かないといけないし、取引先のパーティーに同伴して欲しいし、その度に仕事を休んでもらうのも気が引けてたんだ、だから俺の妻としての仕事に専念して貰えると助かる」
私、慶さんの妻になったんだ。
そうよ、仕事しながら、慶さんの妻の仕事は出来ない、そんな甘い世界ではないと改めて自覚した。
「私、仕事を退職して、慶さんの妻としての仕事に専念します」
「ほんと?じゃあ決まりな」
「はい」
私は銀行の仕事を退職し、慶さんの妻としての仕事に専念することにした。
まず、慶さんの行きつけのブティックに出かけることになった。
「あのう、ここは?」
「パーティーに出席する為のドレスを作るんだ」
「誰のですか」
「美鈴のドレスだよ」
慶さんはそう私に伝えると、ブティックのスタッフに指示をして、試着が始まった。
隣にいる慶さんはラフな格好でいる為、ドレス姿の私と並ぶと、年の差がはっきりしてしまう。
「あのう、慶さん」
「どうした?このドレスが一番似合うと思うけど、気に入らない?」
「そうじゃありません、あまりにも私が慶さんの隣にいるには不釣り合いのような気がして」
慶さんは、ブティックのスタッフに預けておいた自分のスーツを出してもらい着替えた。
慶さんのスーツ姿はグッと年齢が上がる。
私の隣に並ぶと、まるで別人のようだ。
「どう?鏡見てごらん、お似合いのカップルだろう、十五の年の差があるとは思えないよ」
鏡越しに見つめ合った。
そして、隣にいるのが慶さんだと確認する様に直接慶さんの顔を見つめた。
しばらく時間が止まったかのように静寂が流れた。
どの位の時間が経過しただろうか。
慶さんが口を開いた。
「美鈴、そんなにじっと見つめられると恥ずかしいよ」
「えっ?あっ、ごめんなさい」
私は吸い込まれるように慶さんをじっと見つめていた。
どうして私を選んでくれたの?
どうして父の会社の借金を払ってくれるなんて思ったの?
どうして私との結婚生活をプラトニックでも続けようって思ったの?
不思議な事だらけで慶さんの気持ちがわからない。
「柔らかい感じのワンピースも頼むよ」
「美鈴、会社に挨拶に行く時のワンピースも着てみてくれる?」
「あっ、はい」
私は言われるままにスタッフの方が用意してくれたワンピースに着替えた。
「うん、これもいいね」
ヒールやアクセサリーなど、スタッフの方が合わせて揃えてくれた。
「あのう、贅沢過ぎます」
「美鈴は欲がないんだな、大丈夫だよ、俺は美鈴に何でもしてあげたいんだ」
慶さんは微笑んで私を見つめた。
マンションに戻ると、慶さんは「お疲れ様」と言ってくれた。
「明日、会社に挨拶に行くから、よろしくな」
「はい、あのう、今更ですけど私で大丈夫でしょうか」
「大丈夫だよ、誰にも文句は言わせないよ」
慶さんの笑顔にドキッとしてしまった。
顔が熱ってくるのを感じて、恥ずかしくて俯いた。
慶さんはゆっくりと私に近づき、そして手を握った。
でもすぐに慶さんは手を離して「ごめん」と一言。
「大丈夫です」と私。
プラトニックはどこまでか、私は少しずつ慶さんに触れられることに拒絶反応は無くなっていったのである。
次の日、慶さんは会議がある為朝早く出社した。
「美鈴は後で迎えが来るから、ゆっくりおいで」
「はい」
私は、運転手の山田さんが迎えに来てくれて会社に向かった。
会社に着くと、空高くそびえ立つビルの前に降りた。
私はビルを見上げて「わあ、なんて大きな建物なの」としばらく上を見上げていた。
「奥様、はじめてお目にかかります、私は社長秘書を任せて頂いております、近藤真莉と申します、よろしくお願い致します」
私に挨拶して来たのは、すらっと背の高い色気がある美女だった。
なんて綺麗な人なの、こんな女性に迫られたら、誰だって断らないよね。
私はじっと秘書の女性を見つめていた。
「あのう、私の顔に何かついていますでしょうか」
「えっ、あっ、すみません、とてもお綺麗な方だなあって見惚れていました」
「そんな事はございません、社内をご案内致しますので、どうぞお入りください」
もっとニッコリすればいいのにと、羨ましい反面残念な気持ちになった。
私は秘書の女性に案内されて、社内を一通り見て回った。
最後に最上階の社長室へ向かった。
「あのう、すみません、化粧室に行きたいんですが……」
「その角を曲がった所にございます、私はこちらでお待ちしておりますので、早めにお願い出来ますでしょうか」
「あっ、はい、すぐに」
別にトイレに行きたいわけではなかった、慶さんと顔を合わす前に、自分の姿をチェックしたかったのだ。
鏡の前で、笑顔をしてみた。
社員の方々は私を見てなんて思うだろう。
冴えないおばさんって思われるな。
慶さんに恥をかかせてしまうかな。
気持ちの整理がつかないうちに「もうそろそろよろしいでしょうか」と声をかけられてしまった。
「はい、今出ます」
私は化粧室から廊下に出た。
いよいよ、慶さんが待つ社長室の前に着いた。
秘書の女性がノックをする。
「はい、どうぞ」
「失礼します、奥様をお連れ致しました」
社長室に足を踏み入れると、慶さんは私に近づいて「美鈴、すごく綺麗だよ」と声をかけてくれた。
あんな綺麗な秘書の女性の隣で引き立て役みたいな私を綺麗と褒めてくれる慶さんの美的感覚を疑ってしまう。
「真莉、ご苦労様」
「大丈夫です、では会場の準備が済みましたらお迎えにあがります、失礼致します」
秘書の女性は社長室を後にした。
私は一瞬我が耳を疑った。
今、慶さんは秘書の女性を真莉って呼び捨てにしたよね。
秘書の女性は慶さんにニッコリ微笑んだよね。
二人付き合ってるの、慶さんの彼女は真莉さん?
だから、私とプラトニックでも問題ないの?
「美鈴?顔色悪いけど、大丈夫?」
「えっ?あっ、はい、大丈夫です」
やだ、私ったら、ヤキモチ妬いてるの?
気持ちの整理が出来ないまま、会場の準備が出来たと呼ばれて、二人で会場へ向かった。
「お忙しいところお集まり頂きましてありがとうございます、わたくしごとではありますが、この度、葉村美鈴さんと入籍を済ませました事をご報告させて頂きます、これから公私共に精進して参りますのでよろしくお願い致します」
慶さんと一緒に頭を下げた。
全て無事に終わり、会場を出ると、そこから慶さんとは離れて行動することとなった。
「奥様、お疲れ様でした、この後社長は打ち合わせがございますので、先にマンションに帰っているようにとの伝言です、それと食事は済ませて帰るとのことです」
「わかりました」
わかってる、社長は忙しいんだから、でも慶さんが直接言ってくれてもいいと思うけど……
「あのう、化粧室に寄りたいんですが」
「廊下の突き当たりを右です」
「ありがとうございます」
私は化粧室の個室に入っていると、女子社員の噂話が耳に入って来た。
「ねえ、なんで社長はあの人を奥さんに選んだんだろうね」
「ほんと、真莉さんと結婚するとばかり思ってたけど」