拾った狐は未来の旦那様

「今日は沢山採れたな。湊さんも喜んでくれるかな。」
いつになく上機嫌の陽香は山菜も採り終えたので、辺りを散歩することにした。獣道を通り抜け、あたり一面紅葉に飾られた風景を見るととても落ち着く。
足元の落ち葉を見ながら歩いていると、ふと一匹の犬、否、狐が蹲っている。直様駆け寄り、安否を確認する。
「良かった。生きてる。」
上下に動く腹を見て安堵するが、弱っているのは間違いない。山菜の入った籠を一旦置き、狐を抱き上げ、もう片方に籠を持って家ヘ帰った。
湊に籠を渡し、神社にある自宅へと戻るとさっそく玄関で狐の体を洗い、水を飲ませた。食べ物は何を食べるかわからないので、とりあえず栗の実と焼き魚を用意した。食べてくれたので、陽香は少し嬉しくなって頬が緩んだ。
「お前も大変ね。」
陽香は心からそう思った。あんなに弱々しくなっても仲間は周りにいない。そんな悲しい死に方はとてもじゃないけど真平御免だ。
両親は村の人達に見守られて息を引き取った。陽香としては死んでほしくなかったけど、看取られるだけ幸せかと思った。
思わず涙が零れそうになる。陽香は歯を食いしばり食している狐をじっと見る。
「…美味しいか?」
貪り食うような狐を見てクスッと笑う。
「そうかそうか。」
可愛いな。いっそのことうちで面倒見ようかな。
そんなことを考えていると、
ボフッ!
狐の回りが煙に包まれた。何が起こったか分からず呆気にとられていると、肩まで伸びた銀色の髪に、キリッとした銀色の瞳。年は二十歳ぐらいだろうか。人間離れした顔立ちによく似合う薄い紫の着物を身に纏っている。誰がどう見ても美男子と言わざるおえない。
「礼を言う。」
「いえ、だ、大丈夫で、す。」
「まだ名乗っていなかったな。私は銀狐と申す。この度は危ないところを救っていただき感謝する。」
「………銀狐?」
「あぁ。狐のあやかし、と言ったほうがわかりやすいか。」
…あやかし、って…
「えー…!」
−チャリン。
鈴の音が聞こえた頃には、銀狐は陽香の後ろにいて抱き囲むように口を抑えている。流石に驚いた陽香は固まったまま。
「大声を出すと村の人に聞こえるぞ。」
確かにその通りだが、驚くなと言っても無理がある。あやかしが、何しにこのようなところへ来たのか。そもそも、ここは神聖な場所なのにどうしていられるのか。いろんな疑問が尽きない。
銀狐はそっと口を抑えていた手を離し、陽香の方をじっと見る。居心地が悪くなり陽香は疑問をぶつけた。
「あの、何故あのようなところに倒れていたのですか?」
陽香の中で1番始めに気になったことを聞いた。
「あれは、事情があってね。」
…はぐらかされた。だが、他にも聞きたいことは山ほどある。
「何しにあの山へ?それに何故ここに居られるのでしょう?穢れ持つ妖かしでありながら。」
「全ての妖かしが穢れを持つとは限らぬぞ。それに私は御先(みさき)だ。何も問題無かろう。」
御先……神使のことか。ならば、(やしろ)に入れても問題ない。
「それと用があるのはあの山ではない。」
「なら、何処へ?」
「…それより、名は何と申す。」
「…陽香でございます。」
「陽香か、良い名だ。陽香。」
「はい。」
「私のところへ嫁入りしないか?」
「……はい!?」
嫁入り!?え!?そんなすぐに!?そもそも何故!?それより冷静であるかのように取り繕わねば!
「申し訳ありませんが、今日会ったばかりの人間……狐に嫁ぐことなど誰ができましょうか。」
「その通りだ。だが、これから知っていけば良かろう。」
「そも何故そのようなことを仰ったのでしょう。知らぬ女など、信用できますまい。」
「なら、お前は何故知らぬ狐に飯をくれた?貧しい暮らしをしていながら。」
「助けるのは当然のことでしょう。たとえ見知らぬ者でも、狐であろうとも。」
「それと同じだと思えば良かろう。」
……言いくるめられた。反論しても無駄だろうし、もっと決定打のある理由を見つけねば…。
「…妖かしと人間では住む世界が違いましょう。そんな申し出は到底頷くことなどできますまい。」
「ふむ。それもそうだ。だが、惚れてしまえば仕方ないことである。」
惚れた?何言ってるんだこの人は…。
頭の中で考えていると1つの答えに辿り着いた。
「魚と栗の味に惚れても貴方様ならいつでも食べられるはずです。」
銀狐は一時呆気に取られたあと、ブハッと吹き出した。
「魚と栗ね…。陽香という者は面白い事を言う。」
はて、そんな笑うことがあるだろうか。
「あっ!客人なのに居間にも通さないで申し訳ありません。」
深く一礼すると、銀狐は温かい眼差しで笑っている。
「気にすることはない。」
すると、後ろから湊がやってきた。
「おーい!山菜の粥ができたぞ!…ん?誰だその美男子は?」
本音が出た湊の声は木霊し、今まで喋っていた相手が美男子であると再認識し、少し頬が赤くなる。
「どうも。道で倒れているところを助けていただいたのです。」
「あんたもか、さっき狐も倒れてたらしいではないか。倒れる奴が多いのだな。」
陽香は内心ドキドキしながら、2人の話を聞いている。隣の銀狐は余裕そうな笑顔をしている。
「で、あんた何処から来たんだ?」
「すみません。記憶が曖昧で。頭を強く打った後のことしか憶えてないのです。」
「そうか…。そりゃ済まないことを聞いたな。おい、陽香。」
「はい!」
急に名前を呼ばれ肩が跳ね上がる。
「お前、こいつを泊めてやれ。」
「…え?」
人がいいのか何なのか。そんなことを言い出すとは思いもしなかった。
「しかし、」
「怪我人には安静にしてもらわんといかんだろ?」
「そうですが、」
「なぁに、何かあれば儂がこいつを追い出してやるさ。」
「……分かりました。」
その会話を聞いて銀狐は満足そうな顔をしている。
「ほんじゃ、粥を食べようかね。」
今日からとんでもない日々の始まりだと陽香は悟った。
粥を3人で食べ終わり、家に戻って茶を用意した。
「これからどうするつもりですか、銀狐様。」
大変な事になった。妖かしと村の人にばれれば大惨事だ。隠し通さねばならない。
「一緒に住むのだろう?それ以上でも以下でもない。」
相手のどうでもいいような態度には少々肝を冷やす。
「とはいえど、貴方様は神使でございましょう?私のような者と居ても良いのですか?」
「あぁ。」
どことなく嬉しそうだ。何だか嫌気が差してきた。
「体調はどうですか?」
「もう問題ない。」
「……もう一度聞きますが何故このようなところへ?」
「……嫁を探しにな。」
「嫁がいるのに私に結婚の申し出を?…呆れた神使ですね。」
それとも、妖かしは皆そうなのか?
「そういう事ではない。お前は何処か抜けているな。」
「そんなことございません。」
真剣に答えたつもりだが、笑いだした。
イマイチツボがわからない。
「私と結婚してくれる相手を探しているのだ。」
「…妖かしは妖かしとしか結ばれないのでは?」
「私は神使であろう。神使は普通の妖かしでも人間でも駄目なのだ。」
「私も普通の女ですが?」
「お前…自分の力を知らないのか?」
「……え?」
力?私は普通の人間だ。巫女であるが特別な力など持ち合わせていない。
「まぁいい。とりあえず、世話になる。」
「はい。」
疑問が尽きず、結果眠ることができずに一晩明けたのだった。
数日が経ち、今や平常心で銀狐と過ごせている。
今日もいつものように、ほうきで落ち葉を集めていると後ろから声がした。
「陽香、私がやる。」
「いえ、昨日もやって頂いたのに今日も任せては無礼にもほどがあります。」
「いいから。もし嫌であらば私に接吻をすることだな。」
「そんなことをして貴方様に何の利益があしましょう。」
銀狐は少し顔を赤らめる陽香の姿を見逃さなかった。
「はは!やはりいじり甲斐があるものだな。」
そう言って私の手からほうきを取り上げる。
「あっ!ちょっと。」
「これは神使からの命だ。断ることは断じて許さぬ。」
そう言われてしまえば陽香は身動きがとれない。そうして罪悪感が溜まっていく。けれど、明日は神楽の舞を踊らねばならない。なら、休ませていただこうと考えられるため、罪悪感も薄れていく。
「そういえば、ずっと人の形をされていますが、何故狐にお戻りにならないのですか?」
「先祖は狐だが、神使となり人の形となった。それからというもの、赤子は狐の形をし、5歳ほどで人の形となり、人の寿命(とき)を生きて死ぬ。」
永久を生きるのかと思っていたが違ったようだ。神使であろうと天に還るということか。
「なら何故、あの日狐の姿を?」
「あれは、山にいるときは狐のほうが何かと都合がいいからだ。」
「なるほど。」
「銀狐様は御年何歳になられましたか?」
「18だ。」
思った以上に若い。鋭い目つきや貫禄があるからかもしれないがまだ二十歳になっていないとは。
「それより、銀狐と名乗ったのはいいが、何とも格好悪いし、私のことを知っている人間もいるだろうから違う呼び名のほうがいいな。」
そんなに有名人…有名狐だったのか。無知は罪、今更ながら知らなかったことへの羞恥心が高まる。
「陽香。」
「はい。」
「名を付けてくれ。」
そんなことを急に言われても…。銀色に…氷のような…。白金……。
「……氷白(ひはく)…はどうでしょう。」
「うむ。それにしよう。」
良かった。嫌ではないようでほっとする。
「私も聞いてもいいか?」
「はい。」
「お前はこの神社を独りで守っているのか?」
「はい。両親は幼い頃に病死したので。」
「親から死際に何か言われなかったか?」
「あの頃は両親がいなくなって心身ともに辟易していましたから、覚えておりません。」
小さい頃の記憶は両親が亡くなってずっと独りで泣いていることぐらいだ。そこに湊と奥さんが来て陽香をここまで育ててくれた。実の親のように可愛がってくれたことを今でも忘れない。
「そうか…。それともう1つ。その腕の怪我は何だ?」
今は巫女装束を着ているため見えていないが、夕飯の支度をしているときに見えたのかもしれない。
前に菜月に棒で殴られた跡だろう。特に気にしてもいなかったし、バレていないと思っていたので少し驚いた。
「…転けて痣ができただけです。すぐ治りますよ。」
明るく微笑む。そんな陽香を痛々しく見つめる。
「……何かあったら私に言え。」
「お気遣い有り難とうございます。」
そう言って家の中へと戻っていった。
後日、神社には村の人達が大勢来ていた。
今日は舞を披露する日だ。巫女舞は村の平和を願って行われる。
それを見に来る人も多いが、村一の美人が舞うのだ。特に年頃の男共が多い。
「氷白様。」
「様付けしなくてよい。それより何だ?」
「狐になってください。」
「……何故だ。」
とても嫌そうな顔をしている。しかし整っている顔なので、然程変ではない。
「何故って村の方々は知らないのですよ?怪しまれては困ります。」
「湊は知っておろう。隠す必要が何処にある。」
「しかし、ある意味面倒なのです。」
氷白のような美男子が傍らにいれば、当然気に食わず、何かしら動いてくる人物がいる。……菜月だ。それだけでなく、村の未婚の女に質問攻めにあうだろう。それは億劫なので避けたい。
「…まぁ理由はともあれ、断る。」
「そんな…。」
「それに、ここに来ている男共は陽香目当てであろう。なら見せつけるいい機会だ。」
悪者のような邪悪な笑みを浮かべている。隣の陽香は今にも逃げ出したい。
「見せつけるも何も巫女舞に見に来てくださっているのですから、変なことはお止めください。」
「はぁ…、お前は本当に疎いな。」
「そんなことございません。大体何を見せつけるというのですか。」
「仲睦まじい恋人…といったところか。」
「恋人ではありません!」
今度は憎たらしい笑みを浮かべている。子供扱いも大概にしてほしいものだ。
「とりあえず、狐に、ほら、早く!」
「分かった分かった。」
渋々といったような感じで煙に巻かれ狐と化した。その狐を抱きかかえ陽香は家へ向かう。その抱き心地と言ったら綿あめを抱いているようで幸せな気分になった。
「そんなに、抱きたかったのか…。」
屈辱そうに言っているが、理由は違うものだ。半分抱きたかったのは事実だが…。
「あら〜、縁談の話のこない陽香さんではありませんか〜。」
面倒なのに出会した。
「菜月様、御無沙汰しております。」
「腕に抱いているのは狐?銀色の狐なんて珍しいこと。案外物好きなのねぇ~。」
ニタニタと笑う姿は実に気色悪い。
「それでは支度があるので失礼…」
バシャッ。
後ろを向いた瞬間冷たい水を浴びせられた。
「あらー、大丈夫?その巫女装束じゃぁ出られないわねー。残念。」
そんな言葉はどうでもよく、氷白が濡れていないか心配だ。抱いていた腕のお陰であまり濡れていないようなので安堵する。
「それでは失礼します。」
家の中へと入ると戸越しに嘲笑う声が聞こえてくる。もう慣れている陽香は気にせず、新しい装束に着替える。
すると、真下から怒りを必死に抑えているような声がした。
「あの女、少し懲らしめてもいいのではないか?」
「…氷白、着替え中です。」
「…すまない。」
素直に後ろを向いた。
「…懲らしめなくとも大丈夫です。」
「しかし、痣もあやつの仕業であろう。陽香の縁談も白紙にして虐めていたのだ。罰があっても良かろう。」
「…ん?縁談を白紙に?」
初耳だ…。そんなことまでしていたのか。というか何故知っているのだろう。
「私だって一応神使だ。神から告げられることも時々ある。水を掛けられることを知っていながら防ぐことができず申し訳ない。」
…だから、狐になりたくないと言ったのだろうか。それより、天は全て見越しているというのは本当らしい。
後ろを向くといつの間にか人の姿へと戻っている。
「大丈夫です。運命(さだめ)は変えることなどできるはずございません。それに心配して頂けただけで十分です。」
聖母のような笑みを向けると、氷白が力強く抱きしめてきた。
「優しいな、陽香は。」
そう言って目を細めて笑う氷白を見て一瞬ドキッとする。
「…さて、舞を始める時間ですね。」
「しっかり拝見させてもらう。」
神使に見てもらうのは少し緊張する。
それでもやらねば!
天冠と巫女鈴を用意し、持っていく。氷白はまだ家の中にいる様子なので1人庭へ駆けていく。
大樹の木陰に入ったところで、また後ろから水を掛けられた。
「これではもう舞うことができませんね〜。あら、残念。」
もう、替えはない。仕方なくこれで踊ることにしよう。
幸いにも髪と手元に持っている天冠と巫女鈴は濡れておらず、安堵する。
…まぁ装束は濡れてしまっているが……。
時間が押してきている。陽香は駆け足でその場を後にし身支度を済ませた。
いよいよ舞が始まった。
「陽香、濡れておらぬか?」
「何事じゃ?」
出てきて聞こえてきたのはそのような声だった。しかし致し方ない。
篳篥の音が響き渡り、他の楽器も続く。それに合わせ舞う。
「何と…。」
「水飛沫が誠に綺麗だ。」
舞うたびに、飛ぶ水飛沫が陽香の誠実さを表しているかのよう。16歳とは思えぬ色気が出ている。本人はただ祈りを込めて舞っているだけだが…。
感嘆しているのは、村人だけでなく氷白も同じだった。
「綺麗だ。やはり欲しいものだ。」
雄一、妬ましく思っているのは菜月だろう。立ち去りたいだろうが、村長の娘という肩書のせいでその場にいる。

無事、舞を終えることができた陽香は一安心。もう日も暮れ始めた頃だ。
夕飯の支度の準備をしていると、湊が駆け寄ってきた。
「陽香。とても綺麗だったぞ。水浸しの装束を見て始めは驚いたがな。」
「ありがとうございます。」
褒めてもらえてとても嬉しくなった。じゃぁなと湊が帰ると、村の男、女達が一勢に押し寄せてきた。
「陽香!美しかったぞ!」
「俺のとこに嫁いできてくれ!」
「巫女ではなく天女ではないのか!?」
「陽香ちゃん、綺麗!」
「私のお嫁さんにどうか!」
陽香は驚いた。そんなに褒めてもらえるなんて思いもしなかった。それより、濡れたまま舞ってしまい咎められると思っていたので少し拍子抜けだ。
…それより嫁いでや嫁と聞こえたけれど、聞き間違いかな…。
未だに男、女達の大群から抜け出せないでいると聞き慣れた声が聞こえてきた。
「陽香。」
落ち着いたその声で一気に静まり返り声の主の方へ一勢に視線がいく。
……氷白だ。女共はその美貌に絶叫し、男共はその美貌に絶望を覚える。
「……陽香…、あの者は?」
「えっと、その、倒れていてしばらくの間私が面倒を見ている氷白という者です。」
「そんな……。」
「俺らの天女の世話に……。」
「きゃー!」
「何と白銀の髪の強かなこと…。」
色を無くした目や、妬み、憎悪の目、うっとりした目とそれぞれの感情が滲み出ている。しかし、氷白の1言で一変する。
「私は、陽香を貰おうと思っているがな。」
より一層発狂するもの、憎むもの、中には崩れ落ちて魂が抜けているものがいる。
どうすればいいのか…?
そこで菜月が声を荒らげた。
「そんなの嘘!?こんな綺麗な方がこんな何の取り柄もない陽香を愛でているはずない!」
周りからは何を言っているんだ、というような顔で見つめられる。陽香を囲んでいる者の中には話を持ち込んだ者をいたからだ。陽香が黙って俯いていると氷白が怒りを露にした。
「おい娘、お前が陽香の縁談を握り潰していたんだろ?」
氷白から迫力のある鋭い目で睨みつけられ、菜月は動揺しながら口を開く。
「な、何を仰いますか。万が一それが本当だとして証拠は?無きに等しいのに何故そのようなことが言えるのです?」
「お前の家に行けば有るのではないか?」
「くっ…。」
菜月は反論する言葉もなくし、口を噛んだまま突っ立っている。
「は!?」
「ふざけるな!」
「ありえぬ…。」
周囲からは非難の声が聞こえてくる。
「…ひ、陽香が悪いのよ。私を虐めて、だからその腹いせに!」
「さっきからヌケヌケとよくもまぁそんな洞が吹けたな。」
「本当の事です!貴方のような美しい方に相応しい相手ではありません!」
村の人達は軽蔑の目を向けている。もう既に見限っているのだろう。
しかし、菜月の言葉に氷白が激怒した。
「相応しくないだと?貴様こそ身の程を知れ。」
その場に居合わせた人々は氷白の殺気混じりの威圧感に怯え、立っているのにやっとだ。菜月は顔が真青になり、体中が細かく震えている。
「しかし、私は、酷い仕打ちを受けて、」
「黙れ。貴様が虐めていた立場なのによくもまぁ堂々と居られるな。」
そう言って陽香の前に立ち、華奢な腕をその場の者達に見せた。痣だらけの痛々しい腕。見た人々は絶句した。
「巫女にこれだけのことをしたのだ。神が易易と許すことはなかろう。直、天罰が下る。娘、精々死なぬことだな。」
その言葉にさらに青ざめ、その場を立ち去っていった。
それに続いて村人も帰っていく。
「この度は誠に有難うございます。」
「私の方こそ、大事な時に護ってやれず不甲斐ない。」
「そんなことございません!」
勢いよく否定した。氷白のお陰でこのようになったのだ。謝られる筋合いは一切ない。
…それよりも
「氷白様、夕飯に致しましょう。今日は鮎が捕れたそうで分けて頂きました。今日は塩焼きですよ。」
家に入るよう促すと、氷白が陽香の髪を一束取る。陽香はそんな氷白を訝しみ、どうかしたのか、と尋ねた。
「お前は清らかな人間だな。」
優しい眼差しで陽香に向き合う。氷白の顔が近づいてきて思わず、目を瞑る。
額に何か柔らかい物が当たった。数秒後接吻さらたのだと気づき、顔が赤くなる。
「はは、それでは鮎を頂くとしよう。」
その日、陽香は落ち着いて寝ることができないのであった。
「ぎゃーー!」
「出たぞ!」
「誰か、助けて下され!」
月夜に人々の悲鳴が響く。しかし、直ぐにその悲鳴も消える。
「やれやれ、煩いな、人間は。」
深夜の村に灯りがあるわけもなく、ただ正体のわからない暗い人影が騒ぐ人を億劫そうに斬りつける。
もう、4、5人の息の根を止めただろう。満足したのか暗闇へ消えていく。
月明かりに照らされた人影は僧のような格好をしていた。
「今宵も月が光っておるな。」
村から消えたのと同時に死んだ人々は跡形もなく消えていた。
「氷白様。お風呂の支度が整いましたよ。」
「様付けしなくて良いと前にも言わなかったか?」
「…ですが、」
「まさか、神使の命を蔑ろにするはずはないだろな?」
「分かりました、氷、白。」
最近では薄気味悪く笑う氷白に抵抗するのも億劫になってきた。
家の掃除も終わり、ゆっくりと茶を飲む。氷白が来てはや1ヶ月。
この前の騒動で、氷白は恐怖の対象となったが、美貌を見に来る者、もしくは陽香を陥れるためにいるのではと見当違いの噂が流れ陽香を按じて来る者もいて、追い返すのに大変だった。しかし、氷白の優しい人柄を知っていくとそんな噂もなくなり、今や村の美男王と言われている。
湊は氷白の礼儀の良い立ち振舞が大層気に入ったようで、一昨日又もやとんでもない事を言い出した。
「記憶が戻ったようで良かった。」
村で氷白の名が広まり、湊の耳にも入ってきたらしく、どうやら記憶が戻ったと思っているようだ。
…実際それは嘘なので乾いた笑いしか出てこなかった。
「お主のような者が、陽香を貰ってくれると良いのだがな。」
その途端、陽香は激しい頭痛がしてきた。
…きっと今のは聞き間違い…。
「私も陽香が貰えるのであれば幸せです。」
「…はい!?」
「そうかそうか!陽香にも立派な殿方ができたな。」
頭がついていかない。陽香が目眩に苛まれている間に勝手に話が進み、現在、何と正式に同居する事となった。
陽香が結婚は見極めてからと、お世話になった湊を悲しませないために嫌な気持ちを隠しながら意見した。不幸中の幸い、結婚の話は今のところ進展していない。
「陽香。」
「ひゃっ!」
耳元で急に名前を呼ばれ変な声が出た。振り返れば座っている陽香をまじまじと見ている。顔が近い。
「そんなに緊張しなくとも良い。」
悪戯が成功し、とても機嫌がいい。
……疲れる…。
「何でしょう?」
「私のところに嫁ぐのは嫌か?」
唐突に聞かれた質問に固まってしまう。
…聞き方が悪どい。これでは何と答えてよいかわからない。
「…嫌ではありませんが…。」
途中で口籠る。そこまで嫌ではないのは事実である。しかし、結婚しようかと言われても素直に頷く事はできない。
「嫌ではないのか?」
「はい。」
即答してしまい、思わず恥ずかしくなる。返事を聞いて氷白は嬉しそうに頬を上げる。
「それでは風呂に入ってくる。」
満足したのか陽香に背を向ける。陽香は結婚の話で赤くなってしまい少し外の空気を吸おうと立ち上がる。
チャリン。
鈴の音がした。氷白の方を振り向くと、歩みを止めている。
「何かございましたか?」
「………いやっ、大した事ではない。明日、私は用事があるのでここを留守にする。くれぐれもこの村から出るな。」
「……承知致しました。」
芳しくない顔で物を言う氷白に少し不安を覚えながら月を見上げた。
今日は少しだけ不気味に光る月を。
「それでは行ってらっしゃいませ。」
「あぁ、くれぐれも村の外から出るなよ。」
「承知しております。」
明朝、出かけると言った氷白は陽香に見送られている。
昨日様子がおかしかったせいか陽香は氷白の身を按じているように不安の色が顔から覗える。
その姿が愛おしく、氷白は陽香の頬に軽く口づけをした。
徐々に赤くなり、最後は照れ隠しして見送ってくれた。それを見て、何とも愉快になった氷白は微笑しながら村を出て、隣村へと向かった。
「さて、」
来てみたものの異常は見当たらず、皆におかしい様子もない。
禍々しいものも感じられるが村人に何かおかしな事はなかったかと聞いても無かったと言われる始末。
ここに長居しても仕方がないと悟り、次の目的地へと行くことにした。


……魔界。妖かしの住まう賑やかな都。ここでは四六時中お祭り騒ぎなので、人間の住む世界とは別次元と等しいだろう。
「銀狐様。お久しゅうございます。」
「あぁ、久しぶりだな。」
「あら、銀狐様。お久しぶりでございます。お元気な様子で何よりです。」
「お前も元気そうで何より。」
通る度に顔見知りの妖かしに声をかけられ辟易していると、後ろからよく知っている声がした。
「銀。」
「荼枳尼天様。お久しぶりでございます。この度は隣村の件でお話しとうございます。」
振り返り挨拶をすれば、優しい笑みを向けてくる。その姿はまるで聖母のようだ。
……荼枳尼天。銀狐の主のような存在だ。聖母のような笑みとは裏腹に、人の死を前々から予知し死後、その肉や血を食らっている鬼神である。
「昨夜隣村で起きたことだな。隣村の僧が村人何人かを斬殺した。僧とは云えど人を憎む妖かしが人に化けている。そこらの人が相手になるまい。」
「で、その殺された人々の肉をまた食ったと?」
「まぁな。残忍かもしれぬがこれも又宿命よ。それに、食べる人もお主も知っておる通り限られている。」
正直言ってため息しか出ない。
「しかし、昼間度々探りを入れていたものの怪しい動きもなかった。それに、忘れられた人間などあのような小さな村にいると思えませぬが…?」
「…妖術でそうさせているのだろう。強力なものであれば解けぬ。」
…妖術で人の記憶から人を消す。考えるだけで虫酸が走る話だが、低級中級程度の妖術であれば、勝手に解けるか、解術を使えばすぐ解ける。が、上級であれば一生消えぬものもある。
私が陽香に忘れられたら……。
そんなことになれば、命を絶つだろう。それ以外考えられない。
氷白は改めて僧に(はらわた)が煮えくり返る程の憎悪を覚えた。
「銀。隣村の件任せたぞ。」
「言われずとも。そのために人間界ヘ参ったのですから。…それに、不意討ちでやられっぱなしでも癪に障りますからね。」
軽く会釈をし、急いで隣村に戻ろうとしたが、まさかの話題が出てきた。
「銀。巫女とはその後どうだ?」
陽香の話が出るとは思いもしなかった。
「何故それを?」
「昨夜少し様子を外からな。気取られぬよう警戒しておったが、わからなかったようで良かった良かった。にしても、お主があそこまでべた惚れとは珍しいのぅ。お主の両親と金に伝えぬままで良いのか?」
「知らせなくて結構です。では先を急いでおりますので。」
教えるつもりは毛頭ない。後々、騒がれてもこちらが疲れるだけ…。
氷白は、荼枳尼天が余計なことをしないよう願いながら、駆け足で向かった。