拾った狐は未来の旦那様

「ぎゃーー!」
「出たぞ!」
「誰か、助けて下され!」
月夜に人々の悲鳴が響く。しかし、直ぐにその悲鳴も消える。
「やれやれ、煩いな、人間は。」
深夜の村に灯りがあるわけもなく、ただ正体のわからない暗い人影が騒ぐ人を億劫そうに斬りつける。
もう、4、5人の息の根を止めただろう。満足したのか暗闇へ消えていく。
月明かりに照らされた人影は僧のような格好をしていた。
「今宵も月が光っておるな。」
村から消えたのと同時に死んだ人々は跡形もなく消えていた。
「氷白様。お風呂の支度が整いましたよ。」
「様付けしなくて良いと前にも言わなかったか?」
「…ですが、」
「まさか、神使の命を蔑ろにするはずはないだろな?」
「分かりました、氷、白。」
最近では薄気味悪く笑う氷白に抵抗するのも億劫になってきた。
家の掃除も終わり、ゆっくりと茶を飲む。氷白が来てはや1ヶ月。
この前の騒動で、氷白は恐怖の対象となったが、美貌を見に来る者、もしくは陽香を陥れるためにいるのではと見当違いの噂が流れ陽香を按じて来る者もいて、追い返すのに大変だった。しかし、氷白の優しい人柄を知っていくとそんな噂もなくなり、今や村の美男王と言われている。
湊は氷白の礼儀の良い立ち振舞が大層気に入ったようで、一昨日又もやとんでもない事を言い出した。
「記憶が戻ったようで良かった。」
村で氷白の名が広まり、湊の耳にも入ってきたらしく、どうやら記憶が戻ったと思っているようだ。
…実際それは嘘なので乾いた笑いしか出てこなかった。
「お主のような者が、陽香を貰ってくれると良いのだがな。」
その途端、陽香は激しい頭痛がしてきた。
…きっと今のは聞き間違い…。
「私も陽香が貰えるのであれば幸せです。」
「…はい!?」
「そうかそうか!陽香にも立派な殿方ができたな。」
頭がついていかない。陽香が目眩に苛まれている間に勝手に話が進み、現在、何と正式に同居する事となった。
陽香が結婚は見極めてからと、お世話になった湊を悲しませないために嫌な気持ちを隠しながら意見した。不幸中の幸い、結婚の話は今のところ進展していない。
「陽香。」
「ひゃっ!」
耳元で急に名前を呼ばれ変な声が出た。振り返れば座っている陽香をまじまじと見ている。顔が近い。
「そんなに緊張しなくとも良い。」
悪戯が成功し、とても機嫌がいい。
……疲れる…。
「何でしょう?」
「私のところに嫁ぐのは嫌か?」
唐突に聞かれた質問に固まってしまう。
…聞き方が悪どい。これでは何と答えてよいかわからない。
「…嫌ではありませんが…。」
途中で口籠る。そこまで嫌ではないのは事実である。しかし、結婚しようかと言われても素直に頷く事はできない。
「嫌ではないのか?」
「はい。」
即答してしまい、思わず恥ずかしくなる。返事を聞いて氷白は嬉しそうに頬を上げる。
「それでは風呂に入ってくる。」
満足したのか陽香に背を向ける。陽香は結婚の話で赤くなってしまい少し外の空気を吸おうと立ち上がる。
チャリン。
鈴の音がした。氷白の方を振り向くと、歩みを止めている。
「何かございましたか?」
「………いやっ、大した事ではない。明日、私は用事があるのでここを留守にする。くれぐれもこの村から出るな。」
「……承知致しました。」
芳しくない顔で物を言う氷白に少し不安を覚えながら月を見上げた。
今日は少しだけ不気味に光る月を。
「それでは行ってらっしゃいませ。」
「あぁ、くれぐれも村の外から出るなよ。」
「承知しております。」
明朝、出かけると言った氷白は陽香に見送られている。
昨日様子がおかしかったせいか陽香は氷白の身を按じているように不安の色が顔から覗える。
その姿が愛おしく、氷白は陽香の頬に軽く口づけをした。
徐々に赤くなり、最後は照れ隠しして見送ってくれた。それを見て、何とも愉快になった氷白は微笑しながら村を出て、隣村へと向かった。
「さて、」
来てみたものの異常は見当たらず、皆におかしい様子もない。
禍々しいものも感じられるが村人に何かおかしな事はなかったかと聞いても無かったと言われる始末。
ここに長居しても仕方がないと悟り、次の目的地へと行くことにした。


……魔界。妖かしの住まう賑やかな都。ここでは四六時中お祭り騒ぎなので、人間の住む世界とは別次元と等しいだろう。
「銀狐様。お久しゅうございます。」
「あぁ、久しぶりだな。」
「あら、銀狐様。お久しぶりでございます。お元気な様子で何よりです。」
「お前も元気そうで何より。」
通る度に顔見知りの妖かしに声をかけられ辟易していると、後ろからよく知っている声がした。
「銀。」
「荼枳尼天様。お久しぶりでございます。この度は隣村の件でお話しとうございます。」
振り返り挨拶をすれば、優しい笑みを向けてくる。その姿はまるで聖母のようだ。
……荼枳尼天。銀狐の主のような存在だ。聖母のような笑みとは裏腹に、人の死を前々から予知し死後、その肉や血を食らっている鬼神である。
「昨夜隣村で起きたことだな。隣村の僧が村人何人かを斬殺した。僧とは云えど人を憎む妖かしが人に化けている。そこらの人が相手になるまい。」
「で、その殺された人々の肉をまた食ったと?」
「まぁな。残忍かもしれぬがこれも又宿命よ。それに、食べる人もお主も知っておる通り限られている。」
正直言ってため息しか出ない。
「しかし、昼間度々探りを入れていたものの怪しい動きもなかった。それに、忘れられた人間などあのような小さな村にいると思えませぬが…?」
「…妖術でそうさせているのだろう。強力なものであれば解けぬ。」
…妖術で人の記憶から人を消す。考えるだけで虫酸が走る話だが、低級中級程度の妖術であれば、勝手に解けるか、解術を使えばすぐ解ける。が、上級であれば一生消えぬものもある。
私が陽香に忘れられたら……。
そんなことになれば、命を絶つだろう。それ以外考えられない。
氷白は改めて僧に(はらわた)が煮えくり返る程の憎悪を覚えた。
「銀。隣村の件任せたぞ。」
「言われずとも。そのために人間界ヘ参ったのですから。…それに、不意討ちでやられっぱなしでも癪に障りますからね。」
軽く会釈をし、急いで隣村に戻ろうとしたが、まさかの話題が出てきた。
「銀。巫女とはその後どうだ?」
陽香の話が出るとは思いもしなかった。
「何故それを?」
「昨夜少し様子を外からな。気取られぬよう警戒しておったが、わからなかったようで良かった良かった。にしても、お主があそこまでべた惚れとは珍しいのぅ。お主の両親と金に伝えぬままで良いのか?」
「知らせなくて結構です。では先を急いでおりますので。」
教えるつもりは毛頭ない。後々、騒がれてもこちらが疲れるだけ…。
氷白は、荼枳尼天が余計なことをしないよう願いながら、駆け足で向かった。
「もし、この村に寺があると聞いたが、何処にあるのだ?」
早速村に着いた氷白は、寺の場所を聞き出そうと小作人の老人に声を掛けた。
「あぁ、あります。しかし、貴方様のような方がこの小さな村に用があるとは思えばせぬ。何故でしょうか?」
「私は旅の者だ。訪れた地の寺にこの長旅が無事終えられる事を祈願しに参ろうと思ってな。」
「左様でしたか。寺ならここから西に歩けばすぐ見えてきますよ。」
警戒心を解いてくれたようで、すんなり教えてくれた。
「しかし、あまり行かぬほうが良いのでは?あの寺はちと評判が悪くてな。」
「何故だ?」
「…これ以上は言えませぬ。…ご武運を。」
「…お前も達者でな。」
そう言って、氷白は西ヘ歩き始めた。
いつ、帰ってくるのでしょうか…。
神社の掃除、神事を終わらせ、することがなくなった陽香は1人家でのんびりと過ごしていた。氷白が訪れてから1日も留守にしているのは初めてで妙な気持ちだ。
…昨日の鈴の音は一体…。
何か良くないことが起こっているのだろうが、村から出るなと言われた。自分の無力感に浸りつつも茶を啜る。
「陽香ー!」
「湊さん?どうされました?」
慌ててこちらへ来る様子に只ならぬ緊張感を覚える。
「大変じゃよー。隣村の僧が来てなー。お主を娶りたいと言っておるんじゃ。」
「………はい?」
隣村の僧の存在は聞いたことがあるが、それ以上知らない。ましてや、会ったこともないのだ。何が何だか、頭が混乱している。
「とりあえず、来てくれるな?」
「…分かり、ました。」
重たい足を必死に動かし、僧のもとへ向かった。

「お初にお目にかかります。私が陽香でございます。」
「あぁ、やはり噂通りの絶世の美女ですね。」
ニコッと笑いこちらを上から下まで見る様子に少し恐怖を覚える。否、会ったときから、僧の回りから嫌なものを感じられる。
年は三十路ぐらいであろうか。少し髭が伸びていて、ほっそりとした体つきをしている。
今すぐ逃げ出したい陽香は話を終わらせようと試みた。
「申し訳ありませんが、貴方様のところへ嫁ぐのはお断り致します。」
「ほう。これはなかなか手厳しい。」
「お話は終わりでしょうか?」
「いやー、しかし、何処ぞか分からぬ地から来た者よりもよっぽど信頼関係が築けるた思うのですがねー。」
少し肩が動く。今、言われたのは氷白の事だろう。確かに最初はそのようにお待っていたが、今ではとても信頼できる。それに、氷白よりも目の前にいるこの男のほうが余程恐ろしい。
…姿形は人でも中身は違うもののような異質な感じがする。
変な緊張感で気を抜けば、この場に崩れ落ちてしまいそうだ。
力を振り絞り声を発した。
「失礼ながら、あの御方は貴方様よりも信頼できます。どうかお引取りを。」
初対面の方に酷い事を言ったかと言い方を考えなかった自分に後悔しつつも、これで退いてくれることを願う。
「……そうですか…。」
今での笑顔は消え、声も少し低くなっている。
僧は恐怖で動けない陽香に近づき、隣の湊に聞こえぬほどの小声で陽香に言った。
「これ以上、無駄な犠牲を出したくなければ、私と一緒に来なさい。まぁ、村の人々が苦しみ悶えながら死んでもいいと言うなら構いませんが。」
陽香の顔は一気に青ざめた。
「それでは、失礼致します。」
再び笑っているが、目は笑っていない。
その目はどうなるかわかっているだような?、と脅しているように見えた。
陽香は咄嗟に動いた。
「…私、貴方様のもとへ嫁ぎます。」
「え!?いいのか!?お前には…」
「そうか。私の勝手な申し出を受け入れてくれて有難うございます。」
驚いた湊の声を妨げ、お礼の言葉を言う。
陽香から見てその姿は、悪鬼にしか見えなかった。
…何処へ行ったのだろうか。
寺に行ったものの僧はおらず、来た道を辿っていた。
竹藪の細い通り道を通っていると、前から菅笠(すげかさ)を冠った男が後ろに大荷物を抱え歩いている。
お互い通り過ぎたところで氷白は立ち止まった。
通り過ぎた者に声を掛けたが、驚くほど低い声が出た。
「おい。お前、その無駄に大きい袋は何だ?」
「単なる壺ですよ。最近花を生けるのに流行っていましてね、大きな作品を作ろうと思ったらこれくらい大きいのを買ったほうがやり甲斐がありましょう?」
その男の口元には薄っすらと笑みが浮かんでいる。
「無駄口も大概にしろ、僧。人間界に着いてすぐ出会い頭に背後から気力を吸い取っただろう。陽香が来たから立ち去ったようだが…、礼を返しに来たぞ。」
「何を仰るやら。貴方のほら話には付き合ってられぬ。それでは、御暇させていただきます。」
再び歩き出した僧を再び呼び止める。
「おい、鬼。」
僧の肩が大きく揺れる。
「陽香を返せ。」
その言葉降参したのか、不気味な笑い声が聞こえる。
振り返れば、袋から陽香の姿が現れた。気絶した彼女を見て目の前の者に憎悪しか感じられない。
上級の鬼のようだがそんなことはどうでもいい。
−チャリン。
鈴の音が聞こえた頃には僧との距離は無きに等しい程近かった。
油断していた僧を火だるまにし、素早く陽香を僧から取り上げた。
「返してもらうぞ。」
「ゔぁーー!」
酷い叫び声が聞こえてくるが、聞こえてないと言わんばかりに背を向け、陽香の安否を確認する。
髪が乱れ、打撲している箇所や切り傷がいくつもあるが、無事生きているので安堵しそれはそれは優しく抱きしめた。
「おのれ!おのれ!よくもー!」
角を生やし、ぎょろりとした目と牙を持った赤い鬼が叫び声と共に飛び掛かった。
「うるさい。」
陽香を優しく寝かせ、鬼に向き直った。既に物理攻撃をしようとしていた鬼に蹴りを入れる。まともにくらった鬼は吹っ飛び、地面へ叩きつけられる。
「がはっ。……くそっ。もう少しで巫女を喰えたのに……。」
「ふざけるな。何故巫女を喰う?」
「何故?あそこの村だけ手出しができなかった。人を殺すことができなかった。」
「…だから、人々を知れず守っていた巫女を喰おうと?」
「あぁ、それに巫女は喰えば力が増すしな。」
クククッと笑う姿は正に悪鬼そのものだった。
「…もういい。喋るな。」
高ぶった感情のためか、妖力が今までよりも込められた火を悪鬼に放った。悪鬼は、それを避け、すぐに態勢を整える。
その後も妖力のぶつけ合いが続き、地面が揺れる。
陽香が目を覚ますとすぐに悪鬼が近づこうとした。
「陽香に近づくな。下賤。」
目が鋭くなり、悪鬼が気圧される。流石、神使といったところか。悪鬼の少しの隙を見逃すことなくねじ伏せ、回りを火で覆う。何やら氷白が唱え始めると、悪鬼は悶え始め、火が消えて陽香の目に入った頃には泡となって天に昇っていった。
役目を終え、氷白は陽香の元へ行く。
「氷、白…?ここは……。」
「大丈夫か?」
「はい、あ、有難う、ござい、ます。」
涙を流した陽香を今度は強く抱きしめた。「怖かっただろう。よく頑張ったな。」
優しく声を掛けると、幼い子供のように泣いた。氷白は、とても可愛らしく感じたが、同時に危険に晒したことの罪悪感と無力感に苛まれた。
「すまなかった。お前を1人おいていくべきではなかったな。」
「いえ、無事なのは氷白…のお陰です。」
その後、怖くて立ち上がれない陽香を抱き上げ家に帰った。
「だ、大丈夫です!自分で歩けます。」
恥ずかしがりながら反論する姿はとても幼く見えて微笑する。すると、陽香は更に顔を赤らめた。それが堪らず面白く、声を上げ笑った。
「はは、愉快だな。黙って捕まっていろ。」
「嫌です。降ろしてください。」
「そのように騒いでは幼子のようだぞ。」
煽るように笑みを浮かべると、幼子と言われたのが嫌なのか頬を膨らまして黙った。
…これまた愉快。
「はは。陽香はまだ幼いな。」
「な!?」
氷白は頬を捻られながら家路を辿った。

村に着けば湊が泣きながらお礼を言うは、村人達から囲まれるはでとても大変だったが、2人きりになれば落ち着くことができた。
夜になり、大体の話は陽香から聞くことができた。陽香に縁談の話を持ちかけ神社に戻ろうとする陽香を後ろから不意打ちで狙い、村では巫女の加護があるため隣村に連れ帰ったようだ。話を聞くともう1度痛い目に合わせてやりたくなった。
「今日は月が綺麗ですね。」
「そうだな。」
隣りにいる陽香は傷だらけになっており痛々しいが、笑っている。
静かに輝く月を見ながら和やかな時間を過ごした。
あれから、陽香はあの僧が鬼であったこと、巫女としての自分の力、その他諸々の事実を氷白に告げられた。そして元々は嫁探しに来たのではなく、単に隣村で起きている人殺しを無くすためだということも。そうだろうなと納得できたが、何故か胸が少し苦しくなった。それよりも天に召された人々が安らかに眠れるよう簡易的な墓を作り、祈りを捧げた。
…それより村人を護る加護の力などがあるらしいけど、全然分からない。
来た理由以外話についていけず、目を回しそうになるので聞き流すことにした。しかし最近、どうにも氷白を直視できない。あのような醜態を晒したからか幼子扱いされなからか。自分でもよくわからないが、氷白と話す度、心臓の音がよく聞こえる。
…もしや、氷白のことを?
頭の中に浮かんだ疑問を必死に振り払った。そもそも嫁探しという泊めてもらうための口実だっただろうし、あれだけ慕ってくれる者が多いなら陽香よりも美人で器量も良く、財が富んでいる者がいるだろう。
それ以前に、氷白は役目を終えた。もうすぐ、ここから出ていくだろう。陽香はお役御免というわけだ。次々に湧いてくる事実に少し悲しくなる。そして、気持ちの正体に気づいてしまった。
どこか上の空で朝食を作っていると、後ろから名を呼ばれた。
「陽香。」
「わっ、はい。何でしょう。」
「お前、あれから傷はどうだ?」
呼ばれた時は心臓が飛び出るかと思ったがとても心配そうに聞いてくる氷白が可愛らしく少し笑えてきた。
「大丈夫です。」
にっこり堂々嘘をつけば氷白は陽香を座らせた。陽香が首を傾げている間に、右足首を左右に動かそうとしている。少し右に動かしたところで。
「いっ!急に何をするのです!」
少し苛立った陽香は氷白を軽く睨みつける。…………が、氷白はもっと恐ろしく般若のような顔をしている。先程まで睨んでいたのに怯んでしまった。
「大丈夫?この様でか?」
「ひ、氷白の力が、強かったからです。」
何とも苦しい言い訳であろうか。ゆっくりと慎重に動かしていたのに。
「当分の間、家事はするな。身の回りのことは私がしよう。いいな?」
「そんなっ、」
「いいな?」
「…はい。」
気圧され、折れた陽香は心の中で鬼は氷白の方ではと疑問が出てきた。
そして、背を向け朝ご飯の支度を引き継いだ氷白に聞こえてない程度で確信した事を口にした。
「…氷白の鬼。」
我ながら子供っぽくなったなと先程の失言を後悔する。
まぁ、聞こえてないから…。当然氷白は聞き逃さずこちらに来たので、おろおろとしてしまう。
「誰が鬼だって?」
笑っているが、目がしっかり笑っていない。
「い、いえ。何も。」
あははと笑って誤魔化せるかと思ったが、氷白の顔が迫ってきている。座り込んだまま後退りしてもついてくる。
心臓の音が凄い。
今にも飛び出るんじゃないかと思えるほど聞こえてくる。
「しっかりと聞こえているから安心しろ。」
…それ安心できません。
「さぁ、どうしようか。少しばかり、罰を与えてもいいよな?」
笑っている顔も笑ってないように見えてきた。否、元から笑ってないけど。
「いぇ、堪忍してください…。」
どんどん小声になっていく。両手を前に出して横を向いた。恥ずかしいし、怖いしで陽香の心の中は複雑である。
「…何故横を向く?」
「あっいやーあのっ。」
「何だ?」
凄い圧で問い詰められ、陽香は捨て鉢になった。
「氷白の圧が強くて怖いのです!誰だってこの圧を受けたらこうなりますよ。それに、何故か氷白の事が頭から離れないのです!顔が近いから恥ずかしいし、さっきだって氷白がこの家から出ていかれるのが悲しく感じられ…。」
左手を引っ張られた反動で氷白の顔が更に近くなった。一気に顔が赤くなる。
べらべらと、とんでもない事を…。
また横を向くが、左手を掴んでいる手とは逆手で頬を掴まれ、正面を向かせられる。
目の前には先程の笑っていない笑顔ではなく、ニタニタと笑っている氷白の顔がある。
「ほぅ。そんなことを考えていたのか。」
「ち、違います。」
熱が出たときのように頭が回らない。これでは本当に子供だ。
「…一応言っておくが、人間界(ここ)に来たのは役目があったからだ。そして、泊まらせてもらっているのもそのためだ。」
「重々承知です。」
「だが、お前を慕っているのは本当だ。だから、これからもここに居ようと思っている。」
「…え?」
「良いだろう?」
そうやって目を細めて悪戯に微笑む姿は、まるで作り物のように繊細で清らかで、とても綺麗だった。
「宜しく、お願い致します。」
泣きそうになり俯くと、氷白が抱きしめてくれた。
「あぁ。…にしても、陽香は初めは大人しかったのに今では子供らしいな。」
「……そんなこと…。」
「別に良い。好きなだけ甘えろ。」
氷白はクスクスと笑っている。それに対して陽香はムスッとしている。
けれど、今思い返してみれば、親がいなかったから、あまり甘えたこともない。育ててくれた湊夫婦には迷惑をかけまいと甘えなかった。こうして甘えられる人ができて今では少し嬉しい。
「氷白、朝食は!?」
「もうできておる。」
2人で食べる朝食はいつもより美味しく感じられた。
…どうか、この平和な日々が続きますように。

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