夏に消えたあなたを、わたしは永遠に忘れない。

 クーラーを効かせてもなお蒸し暑い車内から、どっと人が吐き出された。ガラガラのホームは白いセーラー服の群勢に埋め尽くされ、改札を目指しうごめいている。

 本来ならわたしも降りるべき駅だ。

 降りようとすると、足がすくむ。ガクガクと震える足が、これから先に進むなとささやいていた。
 このせいで、わたしはあの日から一歩だって進めていない。
 ぐわんぐわんと、車内のアナウンスが響く。ドアが閉まります──声は無常に告げた。

 ああ。
 今日もまた、学校へ行けなかった。

 ガシャン。電車の扉が閉まり、だんだん窓から見える景色が移り行く。学校とわたしの距離が、ものすごい勢いで離れていった。

 カタンカタン。無味乾燥とした音が車内に響く。
 快速電車は、わたしをどこか知らない土地へと誘う。どこまで行こうか、どこで止まろうか、どこで終わろうか──。どこか現実離れした現状に、絶望の色が混じる。ひと月前ならば、自分で命を絶つことなんて微塵も考えなかったのに。
 今は入水自殺が確実に訪れる未来のような気さえしてくる。

「さむ……」
 人のいない電車内は、真冬のように肌寒かった。その寒さが、わたしの心をより下へ下へ引っ張る。煉炭自殺もいいかもしれない。

「ねぇ」
「え?」

 下か窓しか見ていなくて気づかなかったが、目の前にわたしと同じ白いセーラー服を着ている高校生が立っていた。ショートカットに凛とした顔、まばゆい太もも。見た目は陸上部のエースのようだった。面識がないから、そうではないのだろうけれど。
 彼女は低い声で、わたしに問う。

「学校、行かないの?」
「そういうあなたこそ、学校行かないんですか? 同じ学校ですよね?」

 彼女はわたしの問いには答えず、隣の席に座る。ちょっとだけ、寒さがなりを潜めたような気がした。シトラスの爽やかな香りが鼻腔をつつく。

「行きたくないから行かない。……わかってくれるよね?」
 ちらりと艶かしさすら感じる目線を送られる。……いや、艶かしいのではない。理解してほしいという熱が、目線に帯びているんだ。

「はい。行きたくないというか、行けないというか。行こうとすると、足がガクガク震えて」
「ああ、わかるよ。さっきも見てたし」
 にやりと笑う彼女に、わたしはきょとんと首をかしげる。

「そんな前からいたんですか?」
「うん、ずっと。何なら二週間前から、きみの葛藤を見てた。話しかけようとは今までしてなかったけど……」
「けど?」

 今まで見られていた恥ずかしさより、翳りのある表情が気になって聞く。美形はこんな憂いのある顔も絵になるものだな、と半ば感心しつつ。

「自殺、考えてたでしょ?」
 違う?

 彼女は続けて問う。ギュッと、心臓を握り潰されるような感覚を抱く。
 たらり。こめかみから冷や汗が垂れた。わたしはどんな表情をして、どんな雰囲気を纏っていたんだ。クッと、唾液を飲み込む。

 この電車に乗っていたかもしれないクラスメイトは、わたしのことをどんなふうに思っただろうか。
 ざまあみろ? お前なんかそうなって当然だ? ……そう、わたしをほくそ笑んだだろうか。勝ち誇ったような学級委員長の顔が頭をよぎった。

 何も言わないわたしを見かねてか、彼女が慌てたように言う。
「違ってたらごめん。今まで学校行けてない感じだったし、足震えてて。苦しそうな顔だったから、もしかしたらなって思っただけ。それも微妙な感じだったし」

 軽く笑う彼女に、わたしは安心する。パッと見て軽蔑されるようなものではなかったらしい。
 それにわたしがいくら惨めな気持ちになっていても、もう遅い。わたしが二週間連続で欠席しているのは、クラスメイトにバレているのだから。

「心配させて悪いです。当たりですよ」
 へへ、と軽く笑って答える。

 最後の最期に、自分の苦しみをわかってくれる人がいてよかった。それだけで今まで憎くて仕方がなかった晴天も、青い空も、わたしがあの世へ旅立つ日を祝福してくれるように思える。

「死なないで」

 彼女の双眸が、まっすぐにわたしの両目を見据える。幾重になった覚悟が、ぐらりと揺れた。

「泣かないで」

 重ねられる言葉に、やっと泣いていることを自覚する。頬に伝う涙の感触が、いやに気持ち悪かった。

「すみません、わたし、泣く資格なんて、ないのに、ごめ、すみ、ま、せ」
「謝らなくていいから。……それに、どんな悪人にだって泣く権利くらいはあるよ。医者を名乗るわけじゃないんだから、そんなのに資格は存在しないし」

 泣いて詰られた二週間前を思い出して、また震えた。あの人たちを悪者にすると、余計わたしが悪い人のように思えてくる。だからこの感情──どうしてわたしがこんな思いをしなきゃいけないんだという感情はひたかくしにしていたのに。
 どういうわけか、同じ学校の見知らぬ少女に感情をあらわにしていた。

「深呼吸しよう」

 黒いハンカチが、優しくわたしの頬を撫でる。こんなに優しくされたのはいつぶりだろうか。
 じんわりと心が弛緩してゆく。言われるがままにすぅっと息を吸い込むと、思考がクリアになっていった。美しい顔立ちも、数秒前よりはっきりしている。

「うん。泣いてないほうがかわいいよ」
「たらしですか」

 にっこりと王子のようなスマイルを見せる彼女に、軽口を言う余裕も生まれる。自殺願望も、今はなりを潜めていた。

「たらしだったらいいな。付き合ってくれるの?」
「まあ、うん、どうだろう……」
「はいと言えよ」

 さすがにわたしも会ってすぐの人と付き合える、なんて無責任なことは言えない。この人となら付き合っても楽しい日々が送れそうだとは思えるが。
 愉快な、けれど悲しそうな色も見える笑顔に、きゅっと胸が締め付けられた。彼女もまた何か悩み事があって、学校へ行かないのだろう。

 もっと知りたい。絶望の淵から救ってくれた人を、わたしもひとまずは救えたら。
 傲慢な感情を抱き、それを振り払うように手の甲をつねった。その傲慢さが原因で、わたしは教室から追い出されただろ。

「どこまで行く?」
 次の駅のアナウンスが終わり、彼女が口を開く。彼女はまだ、わたしと一緒にいてくれるみたいだ。

「じゃあ、とりあえず海まで」
「了解」

 何も考えずに口に出した提案に、彼女は楽しそうに頷いた。ふっと、安心する。何の話題も提供できないわたしを、彼女は受け入れてくれるんだ。

「あの、わたし、海瀬(うみせ)花葉(かよう)です」
 せめて名前を知れれば。普通の学校生活を送れるようになったとき、また彼女と交わることができたなら。
 一縷の希望に、わたしは全身を委ねる。彼女は「ああ、そういえば自己紹介がまだだったね」と歌でも歌うように言ってから。
夏野(なつの)晴翔(はると)だよ」
「……え」

 彼女の瞳は、窓の外を向いていた。開いた扉から流れ込んできた風が、彼女の白いセーラー服の袖を靡かせる。
 短い黒髪と、キリリと整った顔立ち。貴公子のような佇まいと、涼やかな雰囲気。女子校には似合わない名前なのに。

「似合う……」
 思わず口に出した。そんじゃそこらの女の子らしい名前よりも、よほど。

「そうかな。ありがとう」

 晴翔ははにかむと、ポリポリ頭を掻く。その仕草すらも格好よく感じる。
 シュー、ガチャン。電車の扉が閉まると、車内の時間は再びゆっくりと流れていった。
「夏野先輩はどうして、こんなところにいるんですか?」

 先輩だと示すものは何もなかったが、タメ口だということ、あとは高い身長を根拠に先輩だと結論づけた。

 当たっていたのだろうか、夏野先輩はそれについて何も言わず「そうだなぁ」と口に出してから、
「どうしようもないくらいクラスで浮いたから、浮かない場所に来た。かな?」
 どこか他人事のように言う先輩がおかしくて、固くなった表情が和らぐ。どうしようもないくらい、って何だ。

 飄々としている彼女は、わたしの表情も気にせずに「花葉はどうして?」と問う。タメ口といい名前呼びといい、そうとうフレンドリーな人らしい。見た目もそれに相応しいのに、どうして浮くのだろうか。

「人を傷つけてしまったから、教室にいられなくなったんです」
 不思議に思いつつも答える。ちくり、と二週間前の出来事がわたしの心を刺す。助けてもらえると思うな、罰から逃れられると思うな。だれのものかわからない声がわたしにささやく。

「ごめん、悲しい気持ちにさせたかったわけじゃないんだ。……花葉が人を傷つけるような人だとは思えないけど」
「それは……。わたしがうまく擬態しているだけというか。根っこはもっと悪い人で」

 差し伸べられる手を振り払うように、わたしは言う。救われちゃダメだ、と自分に言い聞かせた。そうじゃないと、この手に縋ってしまう。
 拒絶したわたしに、先輩は首を傾げる。

「悪人はそんなこと言わないよ」
 まっすぐな言葉に、わたしは今度こそ否定もできなかった。先輩は言葉を重ねる。
「もっと楽観的に生きようよ。花葉の過ちは取り返しのつかないものじゃないでしょ?」
「そう、なのかもしれません」

 起こったことを思い出す。たしかにわたしは人を傷つけてしまった。しかし取り返しのつかないことだとは──思わない。
 何度も何度も謝れば、許してくれるかもしれない。

 そう考えて、即座に希望をかき消す。もうわたしは何度も謝ったじゃないか。それで何ともならなかったから、わたしはこうやってまだ電車に乗っているわけで。そもそも許してくれても、被害者の心にはちゃんと傷がある。ただ、わたしの傷が癒えるだけだ。

 ……少なくともわたしが二度と教室に姿を表さなければ、被害者の心は癒える。退学でもすれば、あいつの人生はめちゃくちゃになったと思ってもらえるはずだ。
 やっぱりわたしに、幸せになる資格なんてない。

「まーた表情が暗くなってる」
 先輩の言葉にハッとする。せめて先輩を不快にさせないように振る舞わなければ。

「ま、暗い気分になりたいときは存分に浸ってみるのもアリだと思うけど。よくなる可能性が少しでもあるなら、そこに全部賭けてみるのもいいんじゃない?」
 柔らかく笑う先輩が眩しい。それと同時に、不思議にも思う。どうしてそんな思考を身につけることができたのだろうか。

「先輩の悩みが、よくなる可能性はないんですか……?」

 湧き出た問いに、先輩は固まった。やっぱり──。
 よくなる可能性があるなら賭ける。そう言っているのに、先輩は今ここにいる。教室とはまったく異なるこの空間に。
 重苦しい空気が、夏の爽やかな空気を上書きする。聞くんじゃなかった──後悔すると同時に、先輩は固く閉ざした口を開く。

「……そうだね」
 放たれた声は、さっきよりも低い。わたしがあの出来事を思い出したように、先輩もまた辛いことを思い出してしまったのだろう。

「すみません。わたし、先輩のことなんて考えずに聞いて」
 そんなことだから、わたしは。
 グッと手の甲をつねる。その手をサッと先輩は撫でた。

「自分を傷つけないで。別に気にしてないから。……ただ、ちょっと怖かっただけ」
「怖い?」

 先輩の容姿や振る舞いは『強い女性』を具現化したようなものだった。先輩とは似合わない言葉に、首をかしげる。

「うん。自分の欠点がバレてしまわないか、心配で心配で。教室にいられなくなったのも、それが原因だし」
 よくなる可能性がない原因で、教室にいられなくなる。
 それがどういうことか、わたしにはわからない。途轍もなく辛いことだということ以外は、何も。

「わたしは先輩にどんな欠点があっても、拒絶しませんよ」
「そう?」

 勇気を出して放った言葉は、先輩には届かなかったのかな。浮かない表情で問われる。

「絶対に。わたしだって自分の悪行がバレたら、こんなふうに接してもらえないかもしれないって怖いんですよ」
「そっか。それならお互い様だね」

 わたしが続けて言うと、先輩はやっと表情を綻ばせた。空気も重苦しいものではなく、涼やかなものになっている。
 お互い様──その言葉が、やけに心に沁みた。最近、一方的に糾弾されることが多かったからかもしれない。

「見て、海が見えてきたよ」
 先輩の爽やかな声に、窓を見やる。目の覚めるような青色が、わたしの心を晴らしてゆく。

「綺麗ですね」
「ああ」

 ぽつんと呟いた感想に、先輩は短く同調する。

 広い海を見ていると、教室に入れないことなんてどうでもいいことのように思えてきた。不安も恐怖も、水平線に吸い込まれてゆく。

 心が夏の温度に染まった。
「七月になったら、けっこう人いるもんだね」
「ですね。思ったより多い」

 とはいえ、まだ本格的に夏休みが開始したわけではない。泳いでいる人もちらほらいるけれど、ほとんどが散歩か子どもたちが砂浜で遊んでいるだけだ。
 何となく歩いていると、小学生のときの記憶が蘇る。できるだけ遠くに泳いで、砂浜でビーチバレーをした楽しい時間。

 学校に行け、クラスで問題を起こすな。そうやってわたしを責め立てる人とは別人のように優しいお母さん。いっそ本当に別人だったらよかったのに。そうすれば、わたしのなかの『お母さん』はずっと優しくて綺麗なままでいられたから。

「よし、青春イベントを始めよう」
「え?」

 先輩はそう言うが否や、海へ走る。軽やかな動きに追いつこうと足を動かすが、砂のせいでうまく走れない。

「ちょ、待ってくださいよ、先輩!」
「はははー!」

 わたしが叫んでも、先輩は止まる様子を見せなかった。むしろモタモタしているわたしを楽しんでいるようにも見える。

 高らかな笑い声を上げる先輩は、波が来てもギリギリ濡れないであろう位置にスニーカーと靴下を脱ぎ捨てて、バシャバシャと海のなかへ入ってゆく。ちゃんとタオルや、最低ハンカチは持っているのだろうか。

 後先考えない様子は、まさしく青春の光景だった。

「ほら、はやくはやく!」
「ああもう、待ってくださいよ!」

 飛沫を上げながら手招きする先輩を、わたしはやはりモタモタしながら追いかける。ローファーをどこに置くのか迷ってから、先輩の隣に置くことに決める。波が来るかもしれないが、そうなれば先輩と同じくスニーカーで登校しよう。

 半ばヤケになって、海水に足を浸す。蒸し暑い夏に、ひんやりとした海水が染み渡った。
 膝の下あたりだった裾を上げる。このままでも濡れないだろうし、今までも上げようと思ったことすらなかったのに、なぜか今は上げたくて仕方がなかった。広い海と青く澄み渡った空が、わたしを開放的にさせたのかもしれない。

「おらっ」
 パシャリ、と頬に海水がつく。白いセーラー服にも飛沫が飛んでいた。

「ちょっと、何するんですかぁ」
 ささやかな仕返しとして、わたしも海水を先輩のほうへ飛ばす。「うわっ!」顔を腕で覆うものの、服にはべったりと海水の跡がついていた。

「やりやがったな、このー!」
 口調こそは好戦的だったが、表情は愉快に満面の笑みが浮かんでいる。わたしはそんな先輩に、また「えいっ」と海水をかけた。
 しばらくバシャバシャと、ふたりだけの世界に浸って海水を掛け合っていたら、不意に先輩が口を開いた。

「あのさ、この夏で中退するんだ。高校」
「ええっ?」

 思わず手を止めた隙に、先輩はひときわ大きく水の塊をわたしにぶつけた。なんて汚い手を使うんだ。

 そうなると本当に中退するのかも疑わしかったが、表情には哀の色が見える。海に入るときに言っていた『青春イベントを始めよう』も、意味が百八十度回転する。

「中退って……。通信制とかに転校するんですか?」
「ううん。高卒認定試験受けて、専門学校か大学に行くつもり。プログラマーかシステムエンジニア目指してるんだ。フリーランスにもなりやすいから。もう制服なんて着たくないんだよね」

 制服を着たくない。息苦しいのだろうか。
 わたしは着る服によって特に気分が左右されることはない。着たい服も着たくない服も存在しないから、その点でも先輩の気持ちはわからなかった。
 だけど、他人の感情なんてわからないのが当たり前だ。だからわたしは寄り添うことに徹する。

「そうなんですか。先輩なら、どこでも成功する気がします」
「へへ、ありがとう。()の名前を肯定してくれただけあるね」

 爽やかな声の一人称に、若干の引っ掛かりを覚える。先輩には似合っていたものの、やはり女子校には似合わない一人称だった。
 それで先輩は、教室にいられなくなったのだろうか。似合わない、変えろ、と詰られて。

「俺の名前、本当は晴翔なんてものじゃないんだ。本当は晴那って名前してんだよ」

 先輩は海面を細い足で蹴った。先輩はその女子として完成された足を、どのように捉えているのだろう。
 ぽちゃん。海水を掬うことをやめた指から、雫が滴り落ちる。

「制服も、みんなが使ってる一人称も、女子校の環境だって。親がこれ以外の進路を認めないからって進学したけど、やっぱり合わなかったみたい」

 先輩が淋しく独白すると、しんみりした雰囲気をかき消すように両手で大きく海水を掬う。バシャリ、と避けもしなかったから制服が海水に濡れた。じっとりと制服が肌に張り付く。
 応戦して、わたしも海水を先輩にぶつけた。軽やかな身のこなしですべて避けられる。

「辛いのに二年半近くも耐えられて、すごいと思います!」
 当たらなかった悔しさを、叫び声に変える。先輩は動きを止めたのちに、「あはは!」とひときわ大きく笑った。

「俺、1年! まだ入学して3ヶ月!」
「ええっ⁉︎」

 少なく見積もっても百六十五センチはある身長と低い声に、わたしはおののく。百五十センチしかない二年(わたし)の立場がなかった。

「先に言えよ、このやろっ」
 雑に足で飛沫をかける。そういえば先輩って言ってたね、と気にしたふうもなく晴翔は笑い続けた。

「まさか学年のほうを気にされるとは思ってなかったなぁ」

 晴翔の目には涙が溜まっていた。びっくりして、足を止める。

「こんなふうだから、教室に馴染めないし。女子校だったら『ワンチャン王子ポジション狙えるんじゃね?』って夢も見てたけど、異質すぎたのかそんなこともなくて。変だよねって裏で陰口言われる毎日過ごして、限界で、だけどどうしたらいいのかわからなくてっ……」

 人の自覚する性別なんて、変えられるものではない。だけど女子校では、共学だったって晴翔の肩身は狭かったのだろう。
 叩けるものはすべて叩く人も一定数存在する。晴翔もその被害者になってしまったのか。

 わたしだけは晴翔の思う晴翔を、受け止めてあげたい。

「辛かったね」

 近寄って、晴翔の肩に手を置いた。潤んだ目とわたしの目が合う。晴翔はふにゃりと笑った。

「ありがとう」
 左手で涙を拭って、言葉を重ねた。

「花葉と会えて、本当によかった」

 波の音にかき消されそうなその声は、たしかにわたしの耳に入った。
「わたしもだよ」
 そう言ったわたしの声は、彼に聞こえただろうか。
「わたし、責められたから一応ごめんごめんって謝ってるけど、本当はなんでこんな理不尽な目に遭ってるのかわからないんだよね」

 海の家で焼きそばをすすりながら、何でもない話をするように話す。晴翔も深刻な表情なんて一切浮かべずに「そういうことってあるよね」と同調してくれた。
 朝の絶望が嘘のようだ。自分のしでかしたことについて、こんなにも開き直れるなんて。
 クラスメイトに聞かれたら、また叱られちゃうなぁ。なんて思いながらしゃべる。

「わたし、めっちゃ勉強できるの」
「おお、それはそれは」

 不登校の理由を話しているというのに、晴翔はまったくお気楽そうだ。ハフハフとたこ焼きを食べて「うまっ」とつぶやく。その軽さが、わたしには心地いい。みんな深刻に捉えすぎなのだ。

 海の広さが、わたしの世界の矮小さを物語っている。

「それで数学の先生から『あんまり勉強が得意じゃない子に解きかたを教えてあげて』って言われたの。場合によっては休み時間返上でやらなきゃいけないのに。お前がやれって感じだよ」
「うわぁ、その時点で理不尽だね」

 初めて晴翔が顔をしかめる。教室での理不尽な出来事を思い出してしまったのだとしたら、申し訳ない。

「事件が起きた日も補習のアシスタントとして駆り出されてたんだけど」
「ふむふむ。あ、たこ焼き1個食べていいよ」
「マジで? ありがとう」

 たこ焼きを食べてから、話を再開する。ちなみにたこ焼きは専門店がやっているのか、トロトロしていてかなり美味しかった。

「ひとりだけ、全然できない子がいてね。数学だけじゃなくて全科目が苦手科目なギャル」
「ああ」

 話の行き先を悟ったのか、晴翔は悲嘆の声を上げる。やっとわかってくれる人が現れた、と安心して結論を述べた。

「夜の七時まで根気よく教えてたんだけど、全然わかってくれなくて。どこがわかってないのかわからないみたいだったから、遡っていったら中学生の範囲になっちゃったの。そのとき『あたしはこんなにバカじゃない!』って泣いちゃって」
「あらら」

 ドンマイ、と晴翔はわたしの頭を撫でた。優しい手つきに、何だか涙が出てくる。
 寄り添ってほしい。その願いが、果たされた。

「補習の現場は騒然。数学の教師も別の問題児を教えてたから、そこでやっと問題点に気づいたって感じだったね。先生はちゃんと理解してくれたら嫌われてもいいってスタンスの人も多いけど、わたしは嫌われたくないし。先生にすら嫌われたくないから、こうやって引き受けちゃったわけで」

 晴翔は神妙な顔つきで頷いてくれた。さっきまでたこ焼きに夢中だったくせに、この。
 憎めない後輩に笑いかけながら、続きを話す。

「同じクラスの人も多くて、前からわたしを『偉そうに』って嫌ってた人も多いから、すぐにわたしを罵りだしてさぁ。お前の教えかたが下手なせいで、ちょっとテストの点が高いから調子に乗りやがってって。他のクラスの人まで乗ってきて、もう補修は地獄。先に帰らされたけど、次の日登校したらクラスメイトの全員がわたしの悪口を言ってるか黙ってる状況。すぐ十人くらいに取り囲まれて、学級委員長まで『お前が悪い』『謝ろう』ってわたしを詰ってきたから──」
 一拍置いて、わたしは続けた。

「逃げたの。登校して、五分も経たないうちに」

 すぅっと、深呼吸する。バクバクと鳴る心臓がうるさい。
 晴翔は何も言わず、わたしの手をさすっていた。じんわりと伝わる体温が、恐怖を和らげる。晴翔がいてくれてよかった、と心の底から思った。

「そこから怖くて、学校から逃げ続けてるの。学校がある日は毎日行こうと頑張ってるけど、心のどこかでは『もう学校に行けないんだろうな』って思ってた。最近は通信制高校について調べたりもしてたくらい」

 お母さんには事情を話していないから、ただサボっているだけだと思われている。だから毎日行けと催促されるし、晩にはどうして行かなかったと詰られる。まるであの日のように。

 それでもひとりに詰められるのと、十人に『謝れ』と呪文のように言われるのは訳が違った。何度やられても、あの恐怖には慣れるものではない。

「晴翔と出会わなかったら、そうなってたんだと思う」

 まっすぐに、晴翔と目を合わせた。
 どう足掻いても現実は変わらなくて、学校を出ることにした晴翔。わたしは現実を変えて学校で過ごすことができる。

「現実を変えるために、賭けてみるよ」

 強く、わたしは宣言した。『変えられる可能性』を求めても手に入らなかった晴翔に報いられるように。
 晴翔はふっと、満足そうに笑った。

「よかった。もし賭けに負けても、そのときは俺がそばにいてあげる」

 名前しかわからないから、そんなことできるはずがないのに。
 けれど、その言葉がわたしの力になった。やってみよう──決意が固くなって、熱を帯びる。

「ありがとう。その言葉、絶対忘れないよ」

 重ねられていた手を、わたしはぎゅっと握る。晴翔は「やめろよ」と恥ずかしそうにはにかんだ。
 眼前には太陽の光を反射して輝く、青い海があった。朝は入水自殺でもするかと闇に満ちていたのに、今は光そのもののように思える。

 きっとこれからわたしは海を見るたびに、晴翔のことを思い出すのだろう。自分も辛い思いをしながら、辛い思いをしている人を救おうとした強い人のことを。

 海瀬という自分の苗字が、いっそう好きになれた。

「ねぇ、急だけどこれから泳がない? 水着とか貸してくれるところあるでしょ」
「本当に急だね。まあでも、いいよ。これまで交際費とかゼロだったから、お小遣いも貯まってるし。メンズとラッシュガード貸してくれないなら、近くの服屋で購入するけど」
「それでいいよ。時間はまだたっぷりあるし」

 思いつきで提案すると、晴翔もノリノリで乗ってくれた。楽しそうに「俺、クロールだったらめっちゃ速いよ」と話す晴翔は、充実した高校生そのものだった。

 そうだ、わたしたちにはたっぷり時間がある。だけどクヨクヨしている時間なんて、一瞬たりともない。

「今日は遊びまくるよ、晴翔」
「もちろん、花葉」

 焼きそばのトレーをゴミ箱に捨てると、砂浜の上をダッシュする。少しでも長く、友達と楽しい時間を過ごせるように。
 カタンカタン。わたしと晴翔の乗る電車が揺れる。晴翔は疲れたのか、うつらうつらと眠りかけていた。
 学校の最寄り駅に着くと、さきほどまでの静寂が嘘のように車内に喧騒が満ちる。座席を取られた高校生が、不服そうにつり革に掴まってスマホを操作し始めた。

「……あ」

 視界の隅に、同じように憂鬱そうな顔をした高校生──あのギャルが映る。
 じっと見つめていたから、わたしがいることに気づいたらしい。ちらりとわたしを一瞥すると、顔を歪めてそっぽを向く。何か言ってこないだけマシだ。

 ──期待していたわけではない。

 ぎゅっと、スカートを握る。そう、彼女だってもう怒ってはいないし、きっと他の人が言うようにひどく傷ついてもいない。元気に学校へ行っているのがその証拠だろう。

 ──もし、言いすぎたとひとことかけてくれれば。

 潰えた希望を眺める。
 彼女がそう言ってくれたら、わたしの詰られた記憶も薄れてくれるのに。

 駅員のアナウンスが車内に鳴り響く。わたしにとっての終点、自宅の最寄り駅への到着を知らせる声だ。

「晴翔」

 晴翔がどの駅で降りるのかはわからないが、最後にひとこと感謝を告げるために声をかける。
 眠りが浅かったのか、案外すんなりと起きてくれた。あと一回は言葉を交わせる、そのことに安堵したのも束の間「最寄りじゃん、起こしてくれてありがとう」と目を擦りながら言われる。

「晴翔の最寄り、ここだったんだ」
「そうそう。どっち方面?」
「南口だよ」
「ああ、俺は北口だわ。そろそろお別れかな」

 思ったより近いところに、晴翔は住んでいた。わたしたちがまだ『先輩と後輩』でいられるなら、何度も今日みたいに遊べただろうか。
 考えて、思考を振り払うように立ち上がる。

 どうせ過去は変えられない。だけど未来はよくなる可能性に満ち溢れている。だからわたしは賭けるんだ。

「またどこかで、会えたらいいね」

 今日みたいに、電車内で。駅の構内で。あるいは砂浜で。有名になるというのもいい。
 どこかでこの恩人と、また友達になれる可能性を信じて。

「ああ、どこかで。……俺の存在をそのまま認めてくれた人がいるってこと、忘れないから。いつまでも」

 晴翔もふっと笑い、立ち上がって電車から降りる。「ありがとう」という、喧騒にかき消されそうな声が聞こえた。放つ声は涙声だった。

 わたしも言い足りない。せめて駅の構内で、陽が落ちるまで喋ることができたらいいのに。
 そんなわたしの願いとは裏腹に、晴翔は人を掻き分けて改札へ向かう。乗降客が多いため、電車から降りるのも一苦労だ。

 待って、置いていかないで、もっと一緒にいたい。

 その一心で、出口へ向かう。
 続いて駅のホームに降り立とうとしたその瞬間、誰かに制服の袖を引かれた。

 誰だ、こんなときに。
 泣きそうになって振り返ると、同じく泣きそうになっているギャルがいた。どうしてあんたが泣きそうなんだ──。

「海瀬さん、ごめんね」

 凛とした声で短く謝罪すると、彼女は頭を下げた。すっと、先ほどまでの焦燥感が消える。

「ありがとう」

 にっと笑って、ホームから小さく手を振った。
 夏の爽やかな空気が肺に満ちる。見渡す場所に、あのショートカットはいなかった。

「……ありがとう」

 もう駅構内から出て行ってしまった、一日限りの友人に向かって呟く。あなたがいてくれたから、わたしは生きてあの言葉を聞くことができた。未来を変えることが、できたから。

 街路樹が涼風にそよぐ。ザァァ、と鳴り響く葉音は波の音のようにも聞こえた。

 明日は学校に行って、わたしもあのギャル──宮野さんにもう一回謝って、今度こそちゃんと数学を理解してもらおう。まだわたしを責める人がいれば、ちゃんと事情を説明してやろう。

 夕方になっても、空は朝と同じように澄み渡るような青色だった。あなたがいなくなった夏が、始まった。

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