「七月になったら、けっこう人いるもんだね」
「ですね。思ったより多い」

 とはいえ、まだ本格的に夏休みが開始したわけではない。泳いでいる人もちらほらいるけれど、ほとんどが散歩か子どもたちが砂浜で遊んでいるだけだ。
 何となく歩いていると、小学生のときの記憶が蘇る。できるだけ遠くに泳いで、砂浜でビーチバレーをした楽しい時間。

 学校に行け、クラスで問題を起こすな。そうやってわたしを責め立てる人とは別人のように優しいお母さん。いっそ本当に別人だったらよかったのに。そうすれば、わたしのなかの『お母さん』はずっと優しくて綺麗なままでいられたから。

「よし、青春イベントを始めよう」
「え?」

 先輩はそう言うが否や、海へ走る。軽やかな動きに追いつこうと足を動かすが、砂のせいでうまく走れない。

「ちょ、待ってくださいよ、先輩!」
「はははー!」

 わたしが叫んでも、先輩は止まる様子を見せなかった。むしろモタモタしているわたしを楽しんでいるようにも見える。

 高らかな笑い声を上げる先輩は、波が来てもギリギリ濡れないであろう位置にスニーカーと靴下を脱ぎ捨てて、バシャバシャと海のなかへ入ってゆく。ちゃんとタオルや、最低ハンカチは持っているのだろうか。

 後先考えない様子は、まさしく青春の光景だった。

「ほら、はやくはやく!」
「ああもう、待ってくださいよ!」

 飛沫を上げながら手招きする先輩を、わたしはやはりモタモタしながら追いかける。ローファーをどこに置くのか迷ってから、先輩の隣に置くことに決める。波が来るかもしれないが、そうなれば先輩と同じくスニーカーで登校しよう。

 半ばヤケになって、海水に足を浸す。蒸し暑い夏に、ひんやりとした海水が染み渡った。
 膝の下あたりだった裾を上げる。このままでも濡れないだろうし、今までも上げようと思ったことすらなかったのに、なぜか今は上げたくて仕方がなかった。広い海と青く澄み渡った空が、わたしを開放的にさせたのかもしれない。

「おらっ」
 パシャリ、と頬に海水がつく。白いセーラー服にも飛沫が飛んでいた。

「ちょっと、何するんですかぁ」
 ささやかな仕返しとして、わたしも海水を先輩のほうへ飛ばす。「うわっ!」顔を腕で覆うものの、服にはべったりと海水の跡がついていた。

「やりやがったな、このー!」
 口調こそは好戦的だったが、表情は愉快に満面の笑みが浮かんでいる。わたしはそんな先輩に、また「えいっ」と海水をかけた。
 しばらくバシャバシャと、ふたりだけの世界に浸って海水を掛け合っていたら、不意に先輩が口を開いた。

「あのさ、この夏で中退するんだ。高校」
「ええっ?」

 思わず手を止めた隙に、先輩はひときわ大きく水の塊をわたしにぶつけた。なんて汚い手を使うんだ。

 そうなると本当に中退するのかも疑わしかったが、表情には哀の色が見える。海に入るときに言っていた『青春イベントを始めよう』も、意味が百八十度回転する。

「中退って……。通信制とかに転校するんですか?」
「ううん。高卒認定試験受けて、専門学校か大学に行くつもり。プログラマーかシステムエンジニア目指してるんだ。フリーランスにもなりやすいから。もう制服なんて着たくないんだよね」

 制服を着たくない。息苦しいのだろうか。
 わたしは着る服によって特に気分が左右されることはない。着たい服も着たくない服も存在しないから、その点でも先輩の気持ちはわからなかった。
 だけど、他人の感情なんてわからないのが当たり前だ。だからわたしは寄り添うことに徹する。

「そうなんですか。先輩なら、どこでも成功する気がします」
「へへ、ありがとう。()の名前を肯定してくれただけあるね」

 爽やかな声の一人称に、若干の引っ掛かりを覚える。先輩には似合っていたものの、やはり女子校には似合わない一人称だった。
 それで先輩は、教室にいられなくなったのだろうか。似合わない、変えろ、と詰られて。

「俺の名前、本当は晴翔なんてものじゃないんだ。本当は晴那って名前してんだよ」

 先輩は海面を細い足で蹴った。先輩はその女子として完成された足を、どのように捉えているのだろう。
 ぽちゃん。海水を掬うことをやめた指から、雫が滴り落ちる。

「制服も、みんなが使ってる一人称も、女子校の環境だって。親がこれ以外の進路を認めないからって進学したけど、やっぱり合わなかったみたい」

 先輩が淋しく独白すると、しんみりした雰囲気をかき消すように両手で大きく海水を掬う。バシャリ、と避けもしなかったから制服が海水に濡れた。じっとりと制服が肌に張り付く。
 応戦して、わたしも海水を先輩にぶつけた。軽やかな身のこなしですべて避けられる。

「辛いのに二年半近くも耐えられて、すごいと思います!」
 当たらなかった悔しさを、叫び声に変える。先輩は動きを止めたのちに、「あはは!」とひときわ大きく笑った。

「俺、1年! まだ入学して3ヶ月!」
「ええっ⁉︎」

 少なく見積もっても百六十五センチはある身長と低い声に、わたしはおののく。百五十センチしかない二年(わたし)の立場がなかった。

「先に言えよ、このやろっ」
 雑に足で飛沫をかける。そういえば先輩って言ってたね、と気にしたふうもなく晴翔は笑い続けた。

「まさか学年のほうを気にされるとは思ってなかったなぁ」

 晴翔の目には涙が溜まっていた。びっくりして、足を止める。

「こんなふうだから、教室に馴染めないし。女子校だったら『ワンチャン王子ポジション狙えるんじゃね?』って夢も見てたけど、異質すぎたのかそんなこともなくて。変だよねって裏で陰口言われる毎日過ごして、限界で、だけどどうしたらいいのかわからなくてっ……」

 人の自覚する性別なんて、変えられるものではない。だけど女子校では、共学だったって晴翔の肩身は狭かったのだろう。
 叩けるものはすべて叩く人も一定数存在する。晴翔もその被害者になってしまったのか。

 わたしだけは晴翔の思う晴翔を、受け止めてあげたい。

「辛かったね」

 近寄って、晴翔の肩に手を置いた。潤んだ目とわたしの目が合う。晴翔はふにゃりと笑った。

「ありがとう」
 左手で涙を拭って、言葉を重ねた。

「花葉と会えて、本当によかった」

 波の音にかき消されそうなその声は、たしかにわたしの耳に入った。
「わたしもだよ」
 そう言ったわたしの声は、彼に聞こえただろうか。