暇を持て余した夜中の過ごし方は、インターネットの徘徊に限る。

これがわたしの中ではいちばんだった。



8月3日。夏休みまっただなか。適度に課題をやっつけながらも、高校二年生のいまから進路課題が多すぎて実感があまりわかないというかグダグダ過ごしてしまう。



最近入学したばかりな気分で全然自覚がない。一年後には出願準備をしているかもしれないなんて。

いまゆっくり過ごしているこの時間が命取りになるんだぞ、とかなんとか言われても、実際そんなふうにいまは思えないわけで。だからこそゆっくりしちゃうわけで。



早く寝たらいいはずなのに、せっかくの夏休みをいい子に過ごしきるのは無駄使いな気がしてしまって、夜更かしとインターネットの徘徊ばかりになっていた。

とはいえ、わたしはつぶやくことも写真を投稿することも全然ない。

好きな漫画のファンアートを見たり、好きな作家さんのアカウントを眺めたり。時折好きな作品のタイトルやキャラクター名で検索をかけて、アンチのつらねた文字を踏んでしまって、なんとか気持ちを殺しながらそっとミュート対象にする。同じように好きだと言っているひとには、握手をしにいきたいくらいの気持ちを封じこんでいいねを押す。



とくに目的があるわけでなくてもなんとなく開いてしまうSNS。

これこそが時間の無駄使いで、きっと健康にもよくなくて、わかっているのにやめられない。



まわりのみんなはどうしたらバズれるか、と言いながら動画や写真を撮るのに必死だし、高校生の心情ってこういう感じで普通なのかな。



やる気はないし簡単に夏バテできそうだけど、今日もとくに後悔なく生ききったからまあいっか。とくに幸福もなかったとはいえ。





「ん?」



作業のようにスクロールしていた指を、止める。

ざっと文章に目を通して、ああこのひと、引退するんだ、と理解した。好きなイラストレーターさんのいいねから表示されたものらしかった。



たしか、バーチャルな存在の配信者だったはず。



そういうかたちで配信を始めるひとが増え始めて嬉しい、というふうなつぶやきは最近よく見ていた。わたしはまだこういう方々の動画や配信はみたことがなかったけれど、いまさらながら興味が湧いてくる。



彼らは、配信者さんのカメラとこちらの見える配信画面とで世界を繋ぎ、ただ二次元的存在ではなく、人間的魂のこもったひとりとなる。



もちろんひとじゃないこともあって、でもやっぱり、人間的ではあると思う。人間そのものでないとはいえ、カメラの操作とか、配信ができる環境とか。なんていうんだろう……いるな、って感じられるような、身近なひとに近い温度感を得られるみたいな。



よし、見てみよう。



暇を持て余している夜中の好奇心ほど、抗いづらいものはないと思っている。

どの配信者の動画から見たら界隈初心者向けなのかもわからず、首をかしげながら、もういちど目の前の文章をしっかりと読み込んだ。



『綾です。あらためてみんな、こんばんは。さっきの配信でもお知らせしたんだけど、俺はこの8月いっぱいで配信活動を休止することにしました。動画の削除はしないから、俺という存在が消えないかぎり見てくれたら嬉しいよ。』



読みながら、俺という存在が消えないかぎり、とつぶやく。



見てくれたら嬉しいと言えるだけの自信があるところが、格好いいと思った。わたしには言えないだろうひとことで、言えるだけのことをしているのだろうと考えて。

すごいな、と、語彙力の欠片もなく浮かべる。



あのイラストレーターさんも好きだって言ってるし、きっと、この綾さんから見始めても大丈夫だよね。いままで、綾さん以外の配信者が好きだというエピソードは聞いたことがなかったし、綾さんなら界隈初心者でも入れる気がする。

でもこのひと引退しちゃうんだよなあ、なんて思いながらチャンネルアカウントに飛び、最新──からふたつめの動画を開く。



最新のものは引退のお知らせ配信だろうなとタイトルでわかったから。





いま開いたこの動画は、ホラーゲーム?

思わず勢いよく背後を確認してしまう。夜中にひとりきりの部屋で見るホラーゲームはすごく怖い。怖いけれど、でも、負けたくなさが出てきた。

夏だし。暑いし。たまには自分を試すみたいにさ、って頭の中でいくらか並べていると、やがて最初の待機画面のような表示から背景が切り替わった。



そうして画面外から現れる、彼。



「みんなこんばんはー! 綾だよ。こんばんは。うん、こんばんは。綾くん今日夜ご飯何食べた? オムライスだよ。同じだ! ほんと? おんなじ?」



彼は次々と流れていくコメントを少しずつ読み上げて返答しているようで、ひとりで進められていく会話に最初は驚いてしまった。

でもすぐに、楽しくなってくる。



「最近やらかしたこと? んー……あ、パジャマでコンビニ行っちゃった挙句前後ろ逆だったよ」

「……ふふ、なにそれ」

セピア色の猫っ毛な髪や、猫を擬人化したらこうだろうなと思うような目のかたち、薄くグレーのかかったような白い瞳、白い肌。口元から覗く八重歯。



見た目はかわいくて強そうで、という、猫そのもののような感じ。

それでいて声は、ほんわかしたようなおっとりしたような、あたたかくてまるみのある音程なのに、声質としてはよく通る澄んだもの。



気がつけば引き込まれるように、三時間にも及ぶホラーゲーム配信が終了していた。



ゲームが始まる前の雑談からたくさんわらっていたけれど、ゲームが始まってからはもうとにかく話が面白くて、面白くて。ゲームも上手いからわたしが自分でやったら得られないであろうスピード感とハラハラ感があった。



3時間も配信してるなんて長いな、と思っていたのは見る前だけで、すべて見終えてしまったいまはあっという間だったなという感覚しかない。



そうして時間を確認して、夜中の二時だと気がついてはっとした。

寝ないと。

目が覚めたら、他のゲーム配信や雑談配信、それから引退のお知らせ配信も見よう。









わたしが綾くんにどハマリして毎日配信アーカイブを見るようになるまでは、完全に時間の問題だった。

ホラーゲーム配信から始まって次に引退のお知らせ配信、その次に脱出ゲーム。次の日は課題に集中しようとがんばって机にかじりついていたけれど、そのまた次の日に綾くんの三十分ほどの雑談配信を見てから同じ動画を流しながら勉強したほうが効率がよくて驚いてしまった。



これが、沼、というものなんだろうなと思う。いままで見たことがなかったのが嘘のように、綾くんに首根っこを掴まれて沼に引きずり込まれたみたいだ。

実際にはそんなに物騒なことじゃなかったけど。



呼び方もすっかり、他のファンの方々と同じように綾くんで定着した。本人が綾くんって呼ばれると嬉しいと照れくさそうに話していたのも大きい。



引退のお知らせ配信──というよりも、わたしがそうだろうと思っていたアーカイブを見てわかったことだったのだけれど、綾くんは引退をするわけではないらしかった。

活動を休止する、という言葉が、てっきり、引退という言葉のポジティブな言い方だろうと踏んでいた。しかしちがうらしい。



「資格をね、とりたくて。なんの資格? ないしょー。俺は俺でがんばるから、みんなはみんなでがんばりたいことがんばれてたらいいと思うんだ。比べることじゃないしね、だから、内緒」



それが活動休止の理由。



「もどってくるの? ……どうだろう。ごめんね、わかんない。これはほんとうにごめんけど、わからないんだ。俺の中で、資格とれなかったな、しんどいなって思ってるのに言っちゃったから配信しなきゃってなるのは嫌だし。とれててもすぐできるのかってわからないから、無責任な約束はしたくない。俺は自分自身と向き合ってこの決断をくだしたと思ってるけど、この決断をめちゃくちゃ後悔することもあるかもしれない。──うん、ごめんね。わかんない」



綾くんのこの想いを聞いて、また、格好いいと思った。

多くのひとが望んでくれているから、と流されることなく、自分を持っている。そうして自分を持っている上でわかりきっているとは思わず、様々な可能性を考えている。





わたしは、まわりのひとたちから美術部だから絵が上手いだろう、と、文化祭のポスターを描いて欲しい、と頼まれたとき、みんながわざわざわたしを選んでくれたし、なんて、やりたかった当日の案内キャストではなく、宣伝ポスターや内装で使うイラストをたくさん描く仕事にまわった。

それが去年の秋の話で、もう一年近くが経つというのにずっと後悔していた。せっかくの文化祭の楽しい思い出だったのに、ほんの少しあのときああしていたらと考えている感覚があるのが、さみしくて。

みんなから信頼のうえで頼まれて、喜んでもらえて、わたしも楽しく描けて、幸せは確実にあったはずなのに。



だから、綾くんが自分を持っていて、嫌、とか、後悔、とかをはかる基準として抱けているのがすごく格好よく感じられて、憧れの単語が彼のかたちをするようになった。



「引退っていうより無期限活動休止って言葉が近いと思う」



見ていたアーカイブから聞こえた綾くんの声で、じゃあやっぱり、今後がどうなるかわからないとはいえ、確実なのは8月いっぱいで配信はなくなることだけなんだ、とあらためて思う。



言いきれる綾くんを尊敬すると同時に、ほんとうにいなくなってしまうと実感して、心の奥底のほうがきゅう、となる心地がした。

シャープペンシルを持つ手が止まったまま動かせそうにない。



進路課題。



どこの大学、どの学科に、どうして行きたいのか。そこにいくために必要な勉強は。試験方法は。学費は。最寄り駅は。オープンキャンパスはいつか。



行きたい大学はなんとなく決まっている。でもなんとなくしか決まってきなくて、どうしてもそこに行きたいのかというと自分で自分に首をかしげてしまう。

だから、どうして行きたいのかがはっきりと言葉になってくれない。

必要な勉強も試験方法も学費も最寄り駅も、オープンキャンパスの予約も、すべてネットで調べてたら簡単なのに。



どうしたら大きな決断ができるんだろう。





昔から小説を読むのが好きだから、もっと文学について学びたいから、文学部かなあとは思っている。けれど、学校で紹介される進路の決め方エピソードが、獣医になりたくて、とか、警察官になりたくて、とか、わたしの考えていたものとは遠くてしかたがない気がして。

こういう、何が好き、とか、とりあえず仕事にしたいわけではないけどもっと知りたい、とか、そういう考え方じゃだめなのかと腑に落とされるような。



美術部に入ったのは、そういう特殊なものが欲しかった、というのがきっかけだった。



いまでは絵を描くのが大好きだけれど、高校入学当時はそんなことは全然なくて、趣味も特技も将来の夢もとくになくて、趣味で読書というと真面目なひとのように思われるからなんとなくみんなの視線が集まる自己紹介では言いづらくて、だいぶうじうじしていたと思う。



だから、たまたま校内の廊下に掲示されている美術部のポスターに、『自由にやりたいことを表現しよう!』と書いてあったのを見たとき、ここに入れば、わたしらしい自由が、わたし特有の自由が、見つかるんじゃないか、って思ったんだ。



構図が好きなイラストレーターさんと似ているかな、みたいに不安になることはあれど、模写しているわけでもないからこれが好きなんだなと、わたしらしい好きを見つけることができるようになってきた。たぶん。

だから、成長はできてきているはずなんだけどな。



「でも大学で美術を学んでそのままそういう仕事につくのかっていうと覚悟が……、けど、文学も好きとはいえ仕事にするかはわからないなあ」



ぶつぶつとひとりごとをこぼしながら考えて、ちらりと時計を見る。



「……あっ、バイト!」



バイトに出ないとそろそろ間に合わなくなってしまう時間だった。急いで支度をし、家を出る。アルバイト。仕事。一生ものの仕事に、いましている飲食店の接客業は選ぼうと思わない。

楽しいけれど、そうでなくて──やっぱり、好きなことを仕事にしたいって思いはきっとあるんだろうな。



いまの店舗は高校生でも歓迎してくれるから申し込みをして採用してもらったけれど、生涯の仕事は、と思い始めると難しい。