白石さんと部活で印刷所に出かけてから数週間。
 中間テストを終えたある日、俺たちはげんなりしながらペットボトルに画材を携えてのろのろと歩いていた。
 日差しが強い。ペットボトルのお茶一本だけで足りるのかなと思う程度には、暑い。

「なにも課外授業、この時期にやる必要ってあるのかね」
「そうか? まだ梅雨じゃないし、真夏にやるよりはマシだと思うぞ」
「真面目ー」
「別にそんなんじゃないけど」

 相田は相変わらず優等生なこと言うなあと思いつつ、俺はげんなりとしながら溜息をつく。
 課外授業っていうのはなんてことはない。写生大会だ。
 美術を選択科目に取っていない生徒も強制参加のこの課外授業は、好きな科目に出席日数を加算してくれるということで、さぼり気味の生徒にも概ね好評だったものの、ほとんどの生徒は絵を描くのがそこまで好きじゃない。
 かくなる俺も、見る専門だしなあ。
 で、この手の自由に場所取りして作業する授業になると。
 俺は周りから感じるプレッシャーと声に、内心「げ」となっていた。

『早川どけ。隣に座るから』
 『相田くんって絵はどんな感じなんだろう?』
  『差し入れとかしたら、株が上がらないかな』
   『いっそのこと相田くんと早川くんが並んでるとこ模写させてもらえないだろうか』

 なんか混ざってる気がするけれど、相田の隣を狙って女子が互いを牽制し合っていて、おそろしいことこの上ない。当の相田は『建物描くの苦手だから、植物ばっかのところとかないかなあ』と写生しやすいもの探してきょろきょろと視線をさまよわせているというのに。
 俺もまあ、あんまり建物を上手く描く自信はないしなあと、植物だらけな場所を探していると。

『カリカリカリ、カリカリカリ』

 いつもの独特の擬音が聞こえてきて、振り返る。
 既に何人かは写生大会のために座って作業を開始していたけれど、その中には白石さんもいた。
 俺は相田に手を挙げる。

「あー、すまん。ちょっとあっちで絵を描いてきていい?」

 俺が相田にそう言うと、途端に相田は破顔する。だからなんなの、その反応。

「おう、行ってこい行ってこい」
『頑張れ頑張れ』

 だからそのむやみやたらと明るい応援やめろ、とは相変わらず言えない俺は、絵を描いている白石さんのスケッチブックを覗き込んだ。
 鉛筆で細かく描かれたそれは、かなり上手い。そういえば、前もソシャゲのキャラを一発で可愛く描いていたから、見たものをそのまんま描くのが得意なんだろうなあと思う。

「すごいな、写真みたいだ」

 俺が素直に言うと、鉛筆で描いていた白石さんは「あっ」と顔を上げる。

「こっちで絵を描くの?」
「おう。俺もそんなに絵が上手くないけど、やるだけはやっておこうかと」
「ええ? どんな絵を描くの?」
「無茶苦茶上手い白石さんに見せるの恥ずかしいよ。あ、ちゃんと水摂ってる?」

 まだ夏じゃないのに充分夏日みたいな日だから、水分摂ってないとまずいだろうと思って言うと、白石さんは「この下書き終わったら飲むよ」と教えてくれた。
 俺は隣に座って鉛筆を取り出して、ガリガリと描きはじめる。
 俺の絵が上手くないのは、謙遜でもなんでもなく本当に話だ。とりあえず下書きで形だけガリカリと書いたら、白石さんほど細かく下書きも描いてないけど、そのまんま絵の具を水で溶かして塗りはじめた。
 俺がさっさと筆を動かしはじめたのを見て、白石さんは俺の絵をまじまじと眺めはじめる……あれ、なんで?

『素敵な色……すごい』

 あまりにも素直な誉め言葉に、思わず俺はどっと頬に熱を持った。
 いや、ただ色を塗っただけで褒めるってなに。そもそも褒める要素がどこに……。
 俺がペタペタと塗りはじめると、ペットボトルのお茶を飲みつつ、白石さんはなおも俺を凝視してくる。たまりかねて「どうしたかな?」と尋ねると「あ、ごめん」と返してきた。

「本当にすごいね、早川くん。色が綺麗」
「色が綺麗って……色なんて、絵の具を水で溶いたら、皆同じ色を出せるんじゃあ……」
「ううん、混ぜれば混ぜるほど色って濁るから。色って三色以上混ぜないで塗るのがセオリーなんだけれど、早川くんはそれ以上混ぜても綺麗な色を出せるからすごいなと思って」
「え……それってそんな高度なことだったの?」
「うん」

 これだけ絵を描くのが上手い子が言うんだったら本当のことなんだろうけれど、色をつくるのが上手くっても、実際の絵がこれじゃあなあ……。
 小学生よりはマシだとは思うけれど、とてもじゃないけれど高校生の描いた絵には見えないそれが、俺の顔面に広がっている。
 一方白石さんもようやく筆を取って下書きを塗りはじめたけれど、その様子はおかしかった。
 彼女はどうにか絵を塗ろうとしているものの、彼女が色を塗ると、あれだけ上手かった下書きの線がどんどんと死んでいくように、立体感が消えてぺったんこな絵になっていく。
 白石さんは泣きそうな顔をして、その絵に筆を動かしていた。

「あの、白石さん……?」
「わたし……色を塗るの下手だから……絵を描くのは好き。線を描くのも好き……でも色を塗るのはいくら練習しても苦手」
「なるほどなあ……」

 あれだけ絵が上手い子がどうして美術部に入らずに文芸部に入ったんだろうとは思っていたけれど。美術部に入ったら、彼女の欠点はすぐにばれるし、美大卒の先生にボロクソに言われるのが目に見えている……うちの美術の先生は、絵に関してはあまりにもスパルタが過ぎて、選択科目を選ぶ際に他学年から注意勧告が来たくらいだから、選ばれし人たち以外は美術を選択していない。
 ふと声が聞こえてきた。

『情けないところ、早川くんには見せたくなかったなあ……』

 いや、いやいやいや。
 苦手な部分があるのは当たり前だし、そんなところで遠慮しなくっても。
 俺はどう言ったもんかなと思いながら、ふと思いついた。

「じゃあ俺が白石さん用に絵の具を溶くっていうのは? 俺はただ絵の具を溶いただけだし、これなら俺が代わりにやったとかいう反則にもならないと思うけど」
「え? でも……早川くんの絵は?」
「俺、どっちみちちゃんと描いてないから、もうちょっとで終わるから、残り時間は白石さんに絵の具を溶くよ」
「えっと……うん」

 実際に俺は形だけわかればいいやと、外郭しか描いてないから、筆をたっぷりと動かして全部塗ったら、それでおしまいだ。
 残りは「どの部分の色が欲しいの?」と、白石さんの絵の具チューブを借りて絵の具を白石さんのパレットに溶きはじめる。

「えっと……じゃああそこの桜の樹」
「了解」

 俺が茶色に少しだけ緑色を混ぜると、それを取って白石さんは色を塗りはじめた。俺は絵の具を溶いただけだというのに、白石さんの絵は見る見る見違えたように綺麗になっていく。
 俺はペットボトルを傾けながら、白石さんが綺麗に絵を塗っていくのを眺めていた。
 書きあがった絵は、制限時間を思えばかなり綺麗な出来栄えだった。俺は「ヒュー」と口笛を吹く。

「すごいな、白石さん。本当に」
「え……そうかな?」
『早川くんが絵の具を溶いてくれなかったらこんな綺麗な絵は描けなかった。ありがとう』

 その反応がいちいちむず痒い。それぞれ出来上がった絵を、向こうにいる先生たちに提出しながら言う。

「俺は白石さんみたいにすごい絵は描けないよ。これは白石さんの実力だ」
「そんなことないよ」
『早川くんは、すごいよ』

 そうしっかりと力説され、とうとう俺は顔を火照らせて、目を逸らしてしまった。
 ……いや、今のはずるいだろ。フツメンが勝手に美少女の誉め言葉を聞いて勘違いすることほど恥ずかしいことはないのに。
 絵を提出してから、こちらに生暖かい声が聞こえたけれど、スルーした。

『なんでマイナスイオン様と仲良くしてんだ?』
 『あいつ誰? どこのクラス?』
  『マイナスイオン様が、笑ってる……だと?』

 そういえば。そこでようやく俺は気が付いた。
 心の声が聞こえているから、白石さんは淡白な表情をしているだけで素直な子だとは知っていたけれど、彼女が素直に感情を表に出していたことに、今更ながら気が付いた。
 彼女が笑うと、朝顔の花が開いたように華やぎ、儚く思えるんだ。