ブルームーンが空に浮かぶ夜、神社に行くと、願いを叶えてもらう代わりに、自分の何かを奪われる。
そんな、都市伝説めいた噂に惹かれて、今宵、神社に一人の少女がやって来ました。
生ぬるい空気が漂う真夏の夜に、僅かながら涼しい風がそよそよと吹いていました。空は雲ひとつなく、吸い込まれるほどの濃紺でした。また、瞬く星がはっきりと見えます。そして、黄色に煌めく無数の星達よりも、一段と輝く存在が、今日の夜空にはありました。
真っ青に光り輝く、ブルームーンです。
蒼く神秘的な煌めきを持つ、特別な満月。
今日は、そんなブルームーンが浮かぶ、とても美しい夜でした。
微かに虫たちが合唱している畦道に、一つの影が落ちていました。いや、実際には、ゆっくり動いています。
それは、少女の影でした。10代後半の、華奢で小柄な少女。取り巻くオーラは年相応ですが、その顔には少しばかり幼さが残っています。髪の色は、日本人にしては珍しい白銀で、瞳もお揃いの白です。
彼女はアルビノという体質を持っていました。生まれつきメラニンという色素が不足していて、肌の色や髪の色が白くなる、非常に珍しい体質です。
しかし、彼女は普通のアルビノとはまた違った体質でもありました。アルビノの人は普通、色素が薄いために視力がとても弱く、盲目になることもあります。
でも、翡翠の目は一般の人と同じように見えており、弱視でも失明でもありません。ただ単に色素が薄く、体のほとんどが白いのです。
そのため、一見、外国人に思えます。しかし、顔立ちは日本人そのものなので、とても不思議な雰囲気を持つ少女でした。
その少女の名は、翡翠と言いました。
月明かりを反射する髪を揺らしながら、翡翠は歩きます。手を胸の上に置いて、強ばった表情を浮かべながら。その姿は、まるで月の化身のよう。
ざっざっと小石が敷き詰められた道を、ゆっくりと、しかし力強く踏んでいきます。細長い畦道を渡って数分後、ようやく、長い長い道は終わりを遂げました。茶色い道は、そこまで深くない森の入り口で途切れ、その先は階段です。山の上へ続く階段、この先に、翡翠が行きたい場所があるのです。
翡翠はきゅっと口元を引き締めて、階段を一段ずつ登っていきました。暗くて足元が見えない上に、階段は凸凹していて、しっかりと踏まないと転げ落ちてしまいそうです。確実に、一段一段を踏みしめていった翡翠は、ようやく頂上に辿り着きました。
最後の一段を踏んだ途端、さぁっと、撫でるような心地いい風が通り過ぎました。その風たちに誘われるように、翡翠は顔を上げます。そして、色素の薄い瞳をいっぱいに開きました。
目の前には、なんとも立派な神社が聳え立っていました。暗がりでも朱色が映える鳥居。その奥に見える、太くて丈夫な木がどっしりと構えられた本堂。
こんな素敵な神社が、家の近くにあったなんて。
実を言うと、この神社に来たのは、今日が初めてです。なので、鳥居とも本堂とも初対面。驚きと感嘆で、翡翠は声が出ません。
しばらくぽーっと眺めていると、月明かりが翡翠を強く照らし始め、彼女を我に返らせました。はっと意識を戻した翡翠は、友達から聞いた噂を思い出し、慌てて鳥居を潜ります。もちろん、その時に一礼することも忘れなく。
翡翠は立派な本殿の前に来ると、お賽銭を投げて一礼二拍二礼を行います。そうした後、今度は何かをお供えすることはなく、指を組んで胸の前に持ってきました。
そして、丁度、仄かに蒼色を帯びた銀色の月明かりが鳥居を照らしたタイミングで、翡翠は目をぎゅっと瞑りました。
眉間に力を入れ、ありったけの思いを、言葉に込めて願います。
「どうか、琥珀くんと両思いになれますように」
脳裏に、ある男の子の姿が浮かびます。それは、同じクラスの男子。
スラッと細い体に、ストレートの黒髪。高身長で、どこにいても目立つ、存在感あるオーラを放っています。
普段は無表情で真面目な印象を受けるのに、時々見せる笑みが可愛らしい、そんな男子。
琥珀は、翡翠の好きな人でした。
高校に入ってから一目惚れし、更に彼の性格を知るうちに、もっと好きになってしまったのです。
今までは、ただ遠くから眺めていただけでした。でも、最近は年頃のせいか、見ているだけでは物足りなくなってきました。
話したい、一緒にいたい。
そんな願望が毎日のように強く膨らみ、どうしようもなく困っていた時に聞いたのが、この神社の噂です。
欲はあるのに、それを自分の力では達成できそうにない翡翠にはぴったりの話でした。
「お願いします。両思いにさせてください」
願いが聞き入れられるように、何度も繰り返します。
「両思いにしてください」
優しい風が、綿毛のようにふぁさっと翡翠の体を撫でました。
「両思いにしてください」
涼しいと感じられる風が、翡翠の横を通り過ぎて髪を掠めました。
「両思いにしてください」
すると、突然の突風が吹きました。一瞬だけ、台風が来たのかと錯覚するぐらいに強い風が。
「うわっ!」
唐突すぎる出来事に、翡翠は瞑っていた目をさらに強く閉じました。風が強すぎて、当たるだけで痛みを感じたからです。体感で言ったら、僅か数秒程。にも関わらず、体を指すような鋭さが、先ほどの風に感じました。
辺りが静まり返ってもなお、翡翠は体を硬直させたまま、瞳を閉じています。
一体、いつになったら開けて良いのでしょうか?
そう思った時でした。
「目を開けて」
どこからともなく、囁かれるような声が聞こえました。
「えっ?」
翡翠は視界が暗いまま、首を振ります。
「誰…?」
呟くように尋ねると、またしても声が返ってきます。
「もう、瞳を開いて」
その言葉を信じて、翡翠は閉じていた目をカッと開きました。
そして、見たのです。
目を開いて、一番初めに視界に入ったのが、宙に浮いている少女でした。
「はっ?」
翡翠は戸惑いを隠せません。驚いているのに、感情に反して声は出ませんでした。
なんでこの子、浮いていられるの?
ただ、目の前にいる子の、頭のてっぺんから爪先までを、何度も見回します。
純粋な真っ白いワンピースを纏った女の子。年は10歳になったかた、なっていないかの辺り。腰まで伸びた真っ黒い髪は、月明かりの反射で、さらに漆黒が際立ちます。
瞳は澄んだブルーでした。しかし、顔立ちは日本風ですし、何より肌の色が、いかにもベージュでした。色素が薄いが故に雪のように真っ白い翡翠とは、少し違います。
そして何より、少女は宙に浮いていました。地面から30cmは離れているであろう空間に、落ちもせずに足の裏を離していました。
一体、どんな原理で浮いているのでしょう?
翡翠にはさっぱり分からず、ただ驚きと、すごいと称賛する気持ちばかりが膨れ上がりました。
翡翠は少女をじっくりと眺めた後、彼女の瞳に焦点を合わせます。
そして、訊かずにはいられない質問をしました。
「貴方は一体、だれですか?」
そう尋ねると、少女は元々笑顔だった表情をさらににっこりとさせた後、くるっと一回転して、優雅にお辞儀しました。ワンピースの白いレースがふんわりと靡いて、ドレスのような華やかさを醸し出していました。
そして、もう一度顔を上げ、翡翠に向かって口を開きました。
「今晩は。私はブルームーンの妖精、ルナです」
「えっ…よ、妖精?」
「ええ、そうよ。あやかしとも言われたりするはね」
いや、別に呼び方の違いはどうだっていいんだけど。翡翠としては、目の前の少女が人間ではないと言ったことが信じられません。
もしかして、からかっているのでしょうか?
こんな夜に、都市伝説なんて本気で信じて来たから?
しかし、ルナが人間ならざるものならば、宙に受けることは納得がいきます。人間が宙に浮くことなど、どうやったって出来ないのですから。
ルナの言葉を受け入れるか否か悩んでいると、ルナはクスリと笑いました。
「まぁ、突然そう言われても困るかもね。でも、私は正真正銘の妖精だから」
ほら、とルナは右手のひらをパッと開きました。すると、その中から幾つもの小さな星が現れました。ポップコーンが弾けるように、何もない手からどんどん星達は生まれてきます。
「ええっ!」
翡翠は叫んでルナの手を覗き込みます。その間も、星はルナの手によって生み出され、ルナの手のひらの上で踊っていました。
そして、ルナがパンッと手のひらを握ると、星は跡形もなく消えてなくなりました。
「どう?」
ルナは得意げに翡翠を見下ろします。
「……すごい」
「これでわたしが妖精だって信じてもらえたわね?」
「うん。あっ、でも、ならなんでそんな妖精がわたしの元に?」
新たに生まれた疑問を、翡翠はすかさずルナに投げかけました。
翡翠から溢れる質問に、ルナは呆れます。
「次から次へと…。まぁいいわ。答えてあげる」
ルナは人差し指を唇につけ、「それはね」と勿体ぶるような仕草を翡翠に見せました。
「貴方が呼び出したからよ」
「えっ、わ、私が…?」
「ええ。噂を聞いてやって来たんでしょう?」
「う、うん、そうだけど…。本当に願いを叶えてくれるの?」
正直、翡翠は不安でしかありません。
疑うように尋ねられたルナは、機嫌を損ねられたのか、少し顔をしかめました。が、次の瞬間には笑顔が戻り、自身の話を始めました。
「もちろん、叶えるわ。私はそのために生まれてきたもの」
「そうなの?」
「ええ、そうよ。月から生まれ、月と共に過ごし、月から人を見守る。それが私の使命」
「願いを叶えることは?」
「それはおまけ。でも、ちゃんと叶えるわ。噂の通りに、ね」
最後は翡翠に向かって、パチっとウィンクしました。
あどけない少女のようなのに、何処か大人びているように思えて、ミステリアスなルナ。
しかし、彼女の言葉は信用できそうです。
「さっ、貴方の願いは何?」
ルナは翡翠を右手で差しながら訊きました。
「何でもどうぞ」
月と同じ、真っ青な瞳で見つめられた翡翠は、一度目を閉じて深呼吸した後、何かを決意したように、カッと目力を込めました。
「私、琥珀くんと両思いになりたいんです!」
普段なら、恥ずかしすぎて声にも出さない言葉。なのに今回は、スラスラと喉から声が出て来てくれました。
ちゃんと間違えずに願いを言えたことに、翡翠はそっと胸を撫で下ろします。
「ふーん、成程…。恋愛成就ね」
かくいうルナは、翡翠の願いを聞いて興味深そうに目を細めました。そして、何度か頷いた後、唐突に口を開きました。
「なんで、その願いを、こんな都市伝説に叶えてもらおうとするの?」
「えっ?」
突然の質問に、翡翠は戸惑います。
「なんで…って」
まさか、そんなことが聞かれるなんて。
「えっと…、自分だけの力じゃ、無理だって思ったから」
「なんで?」
「だって、見た目がおかしいじゃない」
自嘲するように、翡翠は悲しい笑みを浮かべました。
「周りの人と、見た目が全然違う。そんな病気なんだから」
「病気?」
「そう、だって病気みたいでしょ?」
「うーん……」
ルナは顎に手を当て、翡翠を眺めます。しかし、彼女が思うのは美しい、または綺麗、という言葉ばかり。翡翠が嫌がっている理由が分かりません。
「そんなに変かしら……?」
「うん、そうだよ。きっと、みんなに変だって思われてるもん」
「それはないと思うけど?」
「そんなことないよ。私はおかしい。こんな自分は嫌い」
「うーん…」
ルナはもう一度翡翠を見ました。爪先から頭のてっぺんまで。何度も何度も、視線を上下させて、翡翠という少女を知ろうとしました。でも、やっぱり彼女が嫌がる意味は分かりません。
ルナは感想を素直に述べてみることにしました。
「見た目は変って、とっても綺麗じゃない。白銀の髪の毛とか、透き通るような白い瞳とか…」
「私はそれが嫌なの」
ルナの言葉を遮って、翡翠はピシャリと言い返しました。あまりの声の鋭さに、ルナは一瞬、気圧されます。
「そう、そうなのね…」
ルナは分かった、と言うように、静かに微笑みを讃えました。目を瞑って、腕を組んだまま、何やら考え始めます。そして、数秒間下を向いていた後、視線を戻して、翡翠を見ます。
「つまり、自分の見た目が嫌いだから、恋が実らないと思う。その恋を叶えてほしいというわけね」
「はい、そうです」
「分かったわ」
ルナは、誰が見てもわかる程、力強く頷きました。その、頼もしいルナの姿に、翡翠は少し安心感を覚えました。
ほっと息を吐き出し、朗らかな笑顔になった翡翠に、ルナは告げます。
「じゃ、願いを叶えてあげるから、明日また、ここに来て」
「えっ、今日じゃないの?」
期待していた言葉とは違うことに、翡翠は驚きと落胆を抱えました。
「今すぐには無理だわ。それに、貴方のことももう少し詳しく聞きたいし」
「じ、しゃあ代償は?払わなくていいの?」
「払わなくていいわけではないけど…。それは後払いなの。だから大丈夫。さっ、帰って。また明日ね」
不思議な見送りをされた翡翠は、戸惑いながらも神社を背後にして歩き出しました。
本当にこんなんで大丈夫なのかな?
数歩進んだところで、また、とても強い風が吹き通りました。翡翠は思わず髪を押さえます。
そして、風が去った後。
翡翠はなんだかさっきと違う雰囲気を感じ取り、ふっと振り返りました。
視界に、神社が大きく映ります。神社には、ただ、しめ縄が揺れているだけでした。
さっきまでいたはずのルナが、どこにも見当たりません。まるで、消えてしまったかのように。
「なんだったんだろう……?」
翡翠は夢見心地のような気分で、神社の階段を降りていきました。
小鳥の囀りが聞こえてきます。朝を告げる音です。
窓から差し込む柔らかな光に照らされて、翡翠は目を覚ましました。
大きく伸びをして、布団から出ます。
「ああーっ、今日も夏だなぁ」
そして、シャッとカーテンを開いて、朝日をたっぷりと浴びました。
体温が上昇し、全身の細胞が働き始めたのが感じ取れます。
1日の始まりです。
着替えをぱぱっと済ませた後、階下に降りて行きました。
1階では、母が朝食を作っています。翡翠が階段を降りて台所に顔を出すと、丁度母と目が合いました。
「おはよう」
「おはよう」
この会話が、翡翠に朝を告げます。
出来立ての朝食が並んだテーブルに座って、翡翠は手を合わせました。
「いただきます」
箸を握るなや否、翡翠は素晴らしい早さで米を口にかき込みます。途中にはおかずの目玉焼きやベーコンを詰めて、口内調味料として味変を楽しみます。
「ごちそうさま」
ものの15分後、翡翠の目の前の食器は、綺麗に空っぽになっていました。
その様子を見た母が笑います。
「相変わらず、食べるのが早いわね。もっとゆっくりしなさい」
「だって美味しいんだもん」
翡翠は食器を母に渡しながら、笑顔で返しました。
歯磨きを手短に終わらせ、翡翠はまた、自室に戻ります。
翡翠は朝日が差し込む窓に近づいて、鍵を開けます。2箇所ある窓のどちらも開きました。
途端、ふぁさぁあっとした柔らかな風が、翡翠の部屋中を包み込みました。
換気です。
古い空気を返して、新たな空気を取り入れることで、この部屋にも新しい1日が訪れます。
たっぷり30分、夏の陽気な風を楽しんだ後、翡翠は窓を閉めました。
ここまでが、彼女のルーティンです。
やるべきことが終わった翡翠は、部屋の中心で仁王立ちします。
「よし、行こう」
そう呟くと、タンスから靴下を出して履き、駆け足でまた階段を降りました。
そして、
「ちょっと散歩してきまーす」
靴を履いたところで、玄関から叫びます。
「いってらっしゃい」
程なくして、母の優しい声が聞こえてきました。翡翠はにっこりと微笑むと、勢いよくドアを開けます。
外は、既に直射日光のスポットライトが大量に降っていました。地面の黒いアスファルトは、普段よりも輝いて見えます。
アルビノでありながら太陽の光を浴びられるというのも、翡翠の特殊なアルビノの体質の一つでした。
アルビノの人間は、紫外線に弱く、浴びすぎると発癌に繋がります。そのため、素肌で太陽の元に出ることができません。
なので、白髪に白眼でありながら日光を浴びることができる彼女を、両親は神様の贈り物と言っていました。
神様なんて信じない翡翠も、これを聞いた時だけは神様に感謝です。
暑さが漂う道路のステージでは、蝉達が思い思いに合唱を繰り広げていました。
夏特有のBGMが、そこらじゅうに鳴り響いています。
翡翠は太陽を細い目で見た後、てくてくと歩き出しました。翡翠の家は、山と街の狭間に建てられた住宅街にあります。
規則的に並べられた家の間を通り抜ける道を、翡翠は軽い足取りで進みます。まっすぐ行って、右に曲がって、また右に曲がる。
すると、住宅街の出口が現れました。
家という垣根が途切れた道に出ると、目の前はすぐ畦道です。顔を少し上げて見据えると、遠くには緑が深い山がそびえ立ちます。
田舎感が溢れる田んぼ道を、翡翠は躊躇いなく、むしろ嬉しそうに歩いて行きました。
一直線の茶色い地面を、音を立てながら踏み込んでいきます。
やがて、さっきは遠かった山に着き、てっぺんに繋がる階段を登り始めました。
毎度のことですが、足場の悪い階段では、踏み外さないように細心の注意をします。
ようやく最後の一段。
顎に伝った汗を拭って、頂上の土をタンっと踏みました。ふーっと息を吐きながら顔を上げると、視界にはあの神社が映ります。
そして、
「やっと来たわね」
腕を組んで、仁王立ち(足は地面に付いていませんが)しているルナが、翡翠を待っていました。
「…」
翡翠は無言のまま、ゆっくりとした足取りで前へ進んできます。
何も言わない翡翠に、ルナは首を傾げました。
「どうしたの?」
「…いや、やっぱり現実なんだなって」
翡翠は今だに信じられないといった目つきで、目の前に浮かぶ精霊を眺めました。
そんな彼女からの視線が気に入らないのか、ルナは口をへの字に曲げました。
「嘘だと思った?」
「ちょっとは」
「安心しなさい。本物だから」
ルナは誇らしげに胸を張ります。
「あなたの願いも、ちゃんと叶えるわよ」
「本当に!」
「もちろん。昨日も言ったでしょ」
キラキラと輝く瞳で自分を見つめる翡翠を見て、ルナは満足げに微笑みました。
「さて、あなたの願いは恋愛成就ね」
「そう。同じクラスの琥珀くんと両思いになりたいの」
頰を赤く染め、目の奥にハートを浮かべている翡翠は、恋する乙女そのものでした。
そんな彼女をよそに、ルナは何やらぶつぶつと呟き、考えます。
「あなたは確か、自分の容姿が嫌いなのよね」
「そうだけど…。あんまりその話はしないで」
嬉しそうな表情から一転、翡翠はプイと視線を逸らしました。その様子から、見た目に触れられるのはかなり嫌なようです。
「分かった」とルナは頷きます。
そして、
「それじゃ、早速始めましょう」
と言いました。
「やった!何をするの?」
おもちゃを買って貰えると聞いた子供のようにはしゃぐ翡翠に、ルナは淡々と質問します。
「その、琥珀って男子の家は分かる?」
「分かるけど…?」
「その子の家に行きましょう」
「へっ?」
ルナが突然言い出したことに、翡翠は驚きで言葉も出ません。
固まる彼女に、ルナはもう一度、
「家を知っているんでしょう。私をそこへ案内してよ」
はっきりと言い切ります。
迷いのないルナの選択に、翡翠は戸惑いました。
「行ったところで、どうするの…?」
「いいから。それはついてからのお楽しみ」
ルナは悪戯っぽく笑って、「さっ、連れてって」と翡翠を促しました。
翡翠は困惑します。
琥珀くんの家に行って、何をする気なのでしょう?
しかし、妖精がそうはっきりというなら、何か考えがあるのかもしれません。
迷いに迷った挙句、翡翠は心を決め、「分かった」と受け入れました。
「着いてきて」
翡翠はくるっと踵を返して、神社に背を向けて歩き出しました。
その後を、ルナも浮きながらついて行きます。
幾重もある階段を慎重に降り、田圃が囲む畦道を歩きます。
どこまでも直線に伸びる畦道が終わり、二人は翡翠の住む住宅街にやってきました。
翡翠はコンクリートになった地面を進み、普段なら右に曲がる角を左に曲がります。そして、突き当たりを2回、右に曲がって最後に左に一回曲がると、とある家の前で足を止めました。
「ここが、琥珀くんの家」
翡翠は左側に建てられた家につま先を向けます。つられてルナも琥珀の家に体を向け、興味深そうに眺めます。
赤茶色の屋根に、日光を照り返す白い壁。ベランダの柵は木製で、ウッドハウスのようでした。
「ふうん、おしゃれな家ね」
「そうだよね」
ルナの言葉を聞いて、何故か翡翠は嬉しそうです。
「で、これからどうするの?」
翡翠が尋ねると、ルナやニヤリと笑みを浮かべました。
「まずはインターホンを押してきなさい」
「はあっ!」
思わず出た驚きの声に、翡翠は慌てて自分の口を押さえます。そして、声のボリュームを落としてルナに言いました。
「そんな、用事もないのに。不審者みたいじゃん」
「用事なんて思いついたので構わないわ。とりあえず押してきて」
「やだよ」
二人はあーだこーだ言い合います。
すると、
「誰かいるのか?」
涼しげな声が聞こえました。
「えっ」
翡翠は咄嗟に振り向きます。
そこには、琥珀が立っていました。
家の前が騒がしかったので、気になって出てきたのでしょう。
「あれ、翡翠?」
「こ、琥珀くん…」
翡翠は琥珀を見たまま硬直しました。目線を琥珀の瞳に合わせて離さず、頰はみるみる赤く染まっていきます。
対して琥珀は、ばったりと出会った人が翡翠なのが意外だったのか、目を見開いて彼女を見つめます。
「珍しいな、こんなところにいるなんて。なんかあった?」
「いやえっと、その…」
しろどもどになった翡翠は、紅い顔のまま琥珀から目線を外して、そっぽを向きます。
何か言わなきゃ、と思うのに、口はうまく動いてくれず、いい言葉も見つかりません。
「その、友達と散歩してて…」
ようやく紡ぎ出した言い訳。
ルナもいるし、これなら不自然に思われないだろうと安心しかけた時、
「友達…?そっか。今その子はどこにいるの?」
「えっ?いや、ほら…」
隣にいるよ、と言いかけた時、ルナが顔を寄せて耳打ちしてきました。
「私の姿はこの子には見えていないよ」
「なっ…!」
早く言ってよ、と翡翠は心の中で突っ込みます。
「えっと、友達はもう、帰っちゃって…」
頭の中が真っ白になりかけるも、翡翠は何とか声を絞り出しました。言い訳がましい言い方でしたが、琥珀は
「そっか」
とあまり気にした様子は見せませんでした。
「うん」
納得してくれた琥珀に、翡翠は今度こそ安心して頷きます。
「…」
そのまま、お互いは無言になって、沈黙が漂い始めました。唯一の音があるとすれば、風が木の葉を揺らす音のみ。
翡翠はごくりと唾を飲み込みます。
そして、どうしよう、と内心焦りました。
これ以上は話すことも何もありません。
重い沈黙が続くこの空気も、呼吸するだけで胸が締め付けられるようです。
スッと息を吸って、別れの挨拶を切り出そうとした、その時でした。
『翡翠はやっぱり可愛いな』
突如として、頭に琥珀くんの声が聞こえてきました。
『普段はチラッと見るだけだけど、面と向かうとこんな綺麗な顔してるんだ』
「えっ」
翡翠は驚いて顔を上げます。
しかし、琥珀は何かを喋った様子はありません。
でも、さっきの声は完全に琥珀のものです。
今の声は一体…と不思議に思っていると、またも脳内に声が響きました。
『翡翠、黙り込んじゃったな。何か変なこと言ったかな?僕は喋るのが下手だから気を悪くさせちゃったかも…』
あまりに不安げな言い方に、翡翠は思わず声を出してしまいました。
「だ、大丈夫。琥珀くんのせいじゃないよ」
「えっ?」
今度は琥珀が驚きます。
それはそうです。
琥珀は自身の考えていたことを声には出していないのですから。
それに気づいた翡翠は、しまった、と更に焦ります。うっかりと余計なことを言ってしまいました。
居た堪れなくなった翡翠は、早口で告げました。
「じ、じゃあ私もう行くからっ!」
「あっ」
何か言いかけていた琥珀を振り払い、翡翠は一目散にかけて行きました。
翡翠は走っている一瞬だけ、後方を振り返りました。その時、微かに頭の中に声が響いてきました。
小さく、それも走ることに一生懸命だったので確実かどうかは分かりませんが、こんな言葉だった気がしました。
『もっと翡翠と話したかったのに…』
がむしゃらに猛ダッシュをして、琥珀の家から随分と離れた場所で、翡翠は足を止めました。
ブロック塀に手をついて、上がった息を抑えます。
「はぁ…はぁ…びっくりした…」
胸に手を当てて肩で息をする翡翠をよそに、ルナは「ははっ」と優雅に浮かびながら笑っていました。
「だめだよ、翡翠。いきなり逃げたりなんかしちゃ」
それは元はと言えばルナのせいじゃないか、と罵倒したくなる思いはなんとか飲み込みます。
しかし、怒りの感情だけは落ち着かないらしく、翡翠はキッとルナを、睨みました。
翡翠の険しい表情に、ルナはヘラヘラとした笑いを消し、申し訳なさそうな笑顔を浮かべながら言いました。
「ごめんね、驚かせて」
彼女が少しは反省してると分かったのか、翡翠はふぅーっと肩の力を抜いて「いいよ、別に」とルナを許します。
「それより、あれ、いったい何なの?」
突然聞こえた、琥珀の声。
「何であんな声が?」
耳から聞こえたのではなく、頭に直接語り掛けられるような声に翡翠は疑問を持っていました。
翡翠の質問に、ルナはにっこりと愛らしく微笑んで答えます。
「あれはね、あなたにこっそり魔法をかけていたの」
「魔法?」
「そっ。他人の心の声が聞こえるという魔法をね」
ぱちっとウィンクしたルナに、翡翠は文句を言う気も失せ、はぁー、と大きくため息混じりに二酸化炭素を吐きました。
そういうことか、と翡翠は肩の力を抜きます。
予想はついていたけど、やはり驚きです。
他人の心の声…つまり、あれは本当に琥珀くんの心を声を聞いたのでしょうか?
翡翠は頭に直接聞こえてきた琥珀の言葉を思い出します。
『もっと翡翠と話したかったのに…』
あんな事を、本当に琥珀くんが思っているのでしょうか?
「聞こえた声って、本当に琥珀君が心で喋っていることなの?」
「もちろん。だってそういう魔法だもの」
ルナはにっこりと笑ってから、ふっと表情を鋭くして、澄んだ青い瞳で翡翠を見つめました。
「これで分かったでしょう?あなたは変なんかじゃない。むしろ、魅力があるのよ」
「…」
真っ直ぐと刺さるルナの視線を、翡翠も何と言わずに、ただ見つめ返しました。
黙りこくっている翡翠に、ルナはさらに強く訴えます。
「あなたは、自分の見た目が変とかいう理由をつけて、現実から逃げているだけよ。自身も勇気も持てない自分自身に対して、何かと都合のいい口実を付けて、自ら行動することを諦めているだけ」
今までにないルナのキツイ言い方と言葉に、翡翠は唇をグッと噛み締めて、胸のあたりを抑えます。
「だって…無理なものは無理だもん。きっと、私なんて誰にもの何とも思われていない、どうでもいい人間なんだよ」
翡翠は自分自身に、ルナに言われた以上のキツイ言葉を浴びせます。
本当はわかっていたのです。
翡翠は、自分が弱いという事を。
自らを知っていた翡翠に、ルナはそっと、今度は優しく囁きかけます。
「無理なものはないわ。ただ、勇気と本気の思いを持てばいいの。あなたなら、翡翠ならできるわ」
初めてルナから名前を呼ばれた翡翠は、地面に落としていた視線を上げます。
ルナはもう、怖い顔をしていませんでした。
むしろ、穏やかに微笑んでいます。
「こんな私でも、認めて貰えるかな?」
「ええ、大丈夫よ。あなたならできる」
ルナの声は、これ以上ないくらい優しいもので、まるで、晴天の日に降るにわか雨のようでした。
「私ならできる」
ルナの言葉を繰り返しながら、翡翠は立ち上がります。
そして、曇りのない晴れ切った表情で、空を見上げました。
「なら、私、頑張るよ!」
太陽に届くほど高らかと拳を突きつけた翡翠を見て、ルナは嬉しそうに笑いました。
「その意気でね」
言った後、ルナは翡翠の背中にポンッと軽く触れました。
ルナの手が当たった翡翠の背中の一部から、一瞬だけ無数の星が飛び散り、やがてその星がルナの手の中に吸い込まれていったのを、翡翠は気づきもしませんでした。
ピーンポーン
高音のチャイムが、目の前にある家からくぐもって聞こえてきます。
翡翠はインターホンを押した震えている指を、ボタンからそっと離しました。
口をキュッと結んで、バクバクとうるさい心臓を落ち着かせるようにスカートの裾を握りしめます。
『大丈夫。あなたならできる』
昨日ルナに言われた言葉を、頭の中で何度も繰り返します。
今日、ルナはいません。
神社に行ってみたのですが、彼女の姿はどこにもありませんでした。
代わりに、琥珀の時のように、頭に直接響く声が聞こえてきました。
『1人で頑張っておいで。あなたならできるわ』と。
きっと、神社に戻ったのでしょう。
願いを叶えると、あれほど言っていたのに…。
やはり、結局は自力で叶えないといけないということを思い知らされました。
だからでしょうか。
代償というものを払わなくても、ルナは何も言っていませんでした。
きっと、願いを叶えるという契約そのものが無くなったと等しくなって、ルナは消えたのでしょう。
でも、ルナは翡翠に勇気を残していってくれました。
私はできる…。
翡翠は自分に言い聞かせるように、「大丈夫」とおまじないのように唱えます。
こうすると、不思議と心の底から温かいものが込み上げてきて、私を勇気づけてくれるのです。
チャイムが3回程鳴ったところで、「はーい」と返事が聞こえました。
途端、翡翠の心臓はバクンと盛大な音を鳴らします。
大丈夫、大丈夫、大丈夫…。
目を瞑って深呼吸をしていると、ガチャっと扉が開いて、中から男の子が顔を覗かせました。
途端、ドクンッと心臓が高鳴ります。
ドクドクと苦しいほど強く脈打つ心臓を抑えて、翡翠は笑顔を作ります。
「どちら様…って、翡翠?」
「えっと、こ、こんにちは、琥珀くん」
出てきた琥珀に、翡翠は何とか笑顔で声を掛けました。昨日に引き続き、今日も翡翠から会いに来ています。
突然の翡翠の訪問に、琥珀は驚きを隠せません。
「えっ、な、何で…?」
「急にごめんね。今、暇かな?」
困惑している琥珀に、翡翠は積極的に話し掛けます。
「え、うん。暇だよ」
「なら、少し、その…散歩に付き合ってくれない?」
「えっ、散歩?」
琥珀は目を見開きます。
驚くのも無理はないよね、と誘った翡翠も顔を赤くしました。
当然です。
今まで、琥珀とはまともに話した経験は少ないのですから。増してや、自分から話しかけに行くなんて初めてです。
でも、ルナの強い言葉に心を動かされ、勇気を出すと決めたのでした。
ここで逃げるわけには行きません。
翡翠はドキドキと高鳴る心臓を抑えて、なんとかこの場に留まります。
しかし、琥珀が無言になって沈黙が漂い始め、空気が怪しくなってきました。
もうダメかも…と諦めかけた時、琥珀がようやく口を開きました。
「僕なんかでよければ。いいよ、一緒に行こうか」
「えっ、いいの?」
翡翠は驚いて顔を上げます。
そして、とても優しい笑顔を向けている琥珀を捉えます。
目を見開いて自分を見つめてくる翡翠に、琥珀は言いました。
何処となく、頬を赤らめながら。
「僕も丁度暇だったし」
「あ、ありがとう」
表情こそ変えませんでしたが、翡翠は内心、天にも登るくらいの幸せで満たされていました。
「じゃ、行こう」
そう言うなり、琥珀は家から出てきます。
「う、うん。行こう」
こうして、ぎこちなくも、二人は何処か楽しそうに散歩に出かけました。
家に囲まれた道を、翡翠が少し前を歩いて、二人は住宅街を出ました。
風景が、おしゃれな街並みから一転、自然豊かな田圃に変わります。
緑色の稲がいくつも立っている水田に沿った砂利だらけの道を、翡翠は躊躇うこともなくゆっくりと進んでいき、琥珀も翡翠のペースに合わせて彼女の隣を歩きます。
肩を並べて畦道を散歩している二人の間には、なんとも言えない雰囲気が漂っていました。
おしゃべりをしたいのに、いざとなるとどんな話題をすればいいのか悩みます。
そして、結局会話を交わすこともできません。
それどころか、翡翠はずっとドキドキしっぱなしでした。
なにせ、好きな人と並んで歩いているのですから。
体は暑いし、心臓は壊れそうです。
翡翠はチラッと、隣を歩く琥珀を見ました。
サラサラの黒髪が、前方から吹いてくる風によって揺らめいています。
少し長めの前髪から見える瞳は、黒く澄んでいて美しいです。
引き締まった口元に、一点を真っ直ぐと見ている彼の横顔は、とても綺麗で、一生眺めてられそうでした。
思わず、じっと見惚れていると、視線で気づいたのか琥珀が翡翠の方に顔を向けてきました。
「ん?どうしたの?」
「あ、いやっ!」
咄嗟のことに、翡翠はバッと顔を背けます。
そんな翡翠を不思議そうに眺めつつ、琥珀は尋ねました。
「ところで、何処へ向かっているの?」
「あっ、言ったなかったね。あの、神社に行こうと思って」
答えると、琥珀は何かを思い出したかのように「ああ」と声を上げました。
「あの、山の上にある場所?」
「うん、そう」
「あそこって確か、隕石が降ってきた場所なんだよね」
「えっ!そうなの?」
そんなの初耳です。
翡翠は驚いて琥珀を見ました。
「そうだよ。ちなみに、理由は分からないけど、降ってきたのは月の石だって言われてる。だから、実はあそこだけ標高が低いんだよね」
そんなの全く気にしたことがありませんでした。
確かに、見た目よりも登らずに着くな、とは思ったことがありましたが。
「それから、あそこは月の神様がいると言い伝えられているんだって」
「神様?妖精じゃなくて?」
「確かに、正確に言えば妖精かもしれない。でも、妖精って神と人間の中間の存在なんだ。むしろ、神に近いかも。だから、神様と同じような存在だと認識していいと思う」
「そそ、そうなんだ…」
翡翠は琥珀の口から出てくる言葉を、ただあんぐりと口を開けながら聞いていました。
神社にまつわる歴史がそんなすごいものだったことにも驚きましたし、何より、そんな事を知っている琥珀に驚きました。
「す、すごいね。そんなこと初めて聞いたなぁ…」
「別に、そこまで大層なことじゃないよ」
照れ隠しのためか、琥珀はそっぽを向いて頭を掻きました。
そんな彼に、翡翠は心から感心の言葉を言います。
「凄いことだよ。私なんて、自分で行くと言いながらそんなこと1ミリも知らなかったもん」
「良かったら今度、もっと教えるよ」
「いいの!」
「まぁ、街の歴史とか好きで、調べているから…」
「ありがとう」
「…うん」
最初よりも随分と緊張が解けた会話をした二人は、いつの間にか神社に着いていました。
「着いたね」
「そうみたいだね」
そう掛け声を合わせた二人は、顔を見合わせてから、階段を登り始めました。
幾つものある石の段を越すと、立派な神社が翡翠と琥珀を迎えます。
「こんなに綺麗な神社だったんだ」
琥珀は、来たのは初めてなのか、目の前に聳え立つ本殿をまじまじと眺めます。
「綺麗だよね」
「そうだな」
2人は暫く、鳥居をくぐることもなく神社の前で立ち尽くしていました。
夏風が、翡翠と琥珀の間を通り抜けて、2人に夏を届けて行きました。
騒音が聞こえない山の上は、蝉の声がやけにはっきりと響いています。
「…」
翡翠と琥珀は、お互い何も喋らず、どうしていいかも分からない視線を、何となく神社に合わせていました。
普段ならあまり気にしない沈黙も、静かな場所だと際立ちます。
翡翠は唾をごくりと飲み込んで、自分に言い聞かせるように「大丈夫」を心の中で唱えると、意を決しました。
くるっと踵を回転させて、琥珀に体を向けます。
「こ、琥珀くん!」
突然名前を呼ばれた琥珀は、驚きながらも、優しい笑顔を浮かべて、「何?」と聞き返しました。
翡翠は服の裾を両手でぎゅっと握りしめて、ふっと息を吸って、琥珀の瞳をまっすぐに捉えます。
今だ、私の思いを伝えるときは!
「好きです!ずっと、あなたのことが好きでした。私と、つつ、付き合ってください!」
前のめりになりながら、渾身の想いを、言葉として琥珀にぶつけました。
今まで閉まっていた思いを声という形にしたことで、なんだかスッキリとした気がします。
琥珀は、と言うと、翡翠の告白に表情も体も動かさず、固まってしまいました。
琥珀は今までとは比べ物にならないくらいまで目を見開いて、翡翠の方を見ています。
それは、翡翠という人物を見ているのか。
はたまた、驚きで固まってしまった視線がたまたま翡翠の方に向けられていたのか。
真相は分かりません。
ただ、現時点ではっきりしていることは、翡翠は勇気を振り絞って自身の思いを琥珀に伝えたこと。
翡翠は琥珀の返事を待つだけのこと。
琥珀は翡翠の思いに返事をしなければならないことです。
翡翠は自分がしたことに恥ずかしさを覚えながらも、その感覚に押しつぶされないように自らを奮い立たせます。
「…」
長い長い、永久に感じられるほどの沈黙が、2人を取り巻きました。
耳が痛くなってきて、心臓も、どんどん鼓動を早くします。
翡翠は胸が苦しくなって、もう逃げてしまおうか、なんて考えた時。
「…マジで?」
琥珀の震えた声が、とうとう痛い程の静けさを破りました。
それは、戸惑いを隠せず、驚きも纏った声色。
「うん、本気だよ」
翡翠はさっきとは打って変わって小さな声ですが、ちゃんと答えます。
すると、琥珀は徐々に頰から耳までを真っ赤に染めて、それだけでは足りなかったのか、口元を腕で隠しました。
「…すごく嬉しい」
「えっ?」
琥珀のボソリとした呟きを聞いた翡翠は、思わず彼を2度見します。
琥珀は胸に手を当てて深呼吸を2〜3回繰り返すと、いつもの、真面目な表情を少し解けさせた笑顔になりました。
そして、真っ直ぐな瞳で翡翠を捉え、口を開きます。
「僕も、ずっと翡翠が好きだった」
「えっ、嘘…。本当に?」
「うん」
琥珀の口から語られた驚きの事実に、今度は翡翠が赤面します。
沸騰しているんじゃないかと思うぐらい緋色に染まった翡翠に、琥珀は「ふはっ」と安心したような、嬉しそうなような笑いを溢しました。
そして、翡翠に手を差し伸べて、
「僕からも言わせて」
甘い声で、諭すように翡翠に語りかけました、
「君が、翡翠が好きだった。綺麗な容姿も、優しい性格も、照れているところも。だから、」
まるで王子様のように、翡翠の前で膝まずきます。
「僕と付き合ってください」
琥珀からも、愛の言葉が紡ぎ出されました。
目の前で起きていることが夢のようで、翡翠は一瞬世界を疑います。
自分が見ている光景は、果たして現実なのか。
でも、そっと掴んだ琥珀の手は暖かく、安心する温もりが翡翠の体に伝わってきました。
それで、この出来事が現実だと知ります。
翡翠は目にうっすらと涙を浮かべながら、それでも満面の笑みで琥珀の手を握りました、
「…はいっ」
お互いに、幸せの花が咲き乱れた瞬間でした。
まるで、結婚を誓い合った王子様のお姫様。
そんな2人の周囲を、向日葵の花びらを運んだ風が包み込みました。
その風はやがて鳥居をくぐり、神社の本堂の中へと入って行きました。
まるで、中にいる神様に、外での出来事を伝えるかのように。