幾重もある階段を慎重に降り、田圃が囲む畦道を歩きます。
 
 どこまでも直線に伸びる畦道が終わり、二人は翡翠の住む住宅街にやってきました。

 翡翠はコンクリートになった地面を進み、普段なら右に曲がる角を左に曲がります。そして、突き当たりを2回、右に曲がって最後に左に一回曲がると、とある家の前で足を止めました。

「ここが、琥珀くんの家」
 
 翡翠は左側に建てられた家につま先を向けます。つられてルナも琥珀の家に体を向け、興味深そうに眺めます。

 赤茶色の屋根に、日光を照り返す白い壁。ベランダの柵は木製で、ウッドハウスのようでした。

「ふうん、おしゃれな家ね」

「そうだよね」
 
 ルナの言葉を聞いて、何故か翡翠は嬉しそうです。

「で、これからどうするの?」

 翡翠が尋ねると、ルナやニヤリと笑みを浮かべました。

「まずはインターホンを押してきなさい」

「はあっ!」
 
 思わず出た驚きの声に、翡翠は慌てて自分の口を押さえます。そして、声のボリュームを落としてルナに言いました。

「そんな、用事もないのに。不審者みたいじゃん」

「用事なんて思いついたので構わないわ。とりあえず押してきて」

「やだよ」
 
 二人はあーだこーだ言い合います。
 
 すると、

「誰かいるのか?」
 
 涼しげな声が聞こえました。

「えっ」
 
 翡翠は咄嗟に振り向きます。
 
 そこには、琥珀が立っていました。
 
 家の前が騒がしかったので、気になって出てきたのでしょう。

「あれ、翡翠?」

「こ、琥珀くん…」
 
 翡翠は琥珀を見たまま硬直しました。目線を琥珀の瞳に合わせて離さず、頰はみるみる赤く染まっていきます。
 
 対して琥珀は、ばったりと出会った人が翡翠なのが意外だったのか、目を見開いて彼女を見つめます。

「珍しいな、こんなところにいるなんて。なんかあった?」

「いやえっと、その…」
 
 しろどもどになった翡翠は、紅い顔のまま琥珀から目線を外して、そっぽを向きます。

 何か言わなきゃ、と思うのに、口はうまく動いてくれず、いい言葉も見つかりません。

「その、友達と散歩してて…」
 
 ようやく紡ぎ出した言い訳。
 
 ルナもいるし、これなら不自然に思われないだろうと安心しかけた時、

「友達…?そっか。今その子はどこにいるの?」

「えっ?いや、ほら…」
 
 隣にいるよ、と言いかけた時、ルナが顔を寄せて耳打ちしてきました。

「私の姿はこの子には見えていないよ」

「なっ…!」
 
 早く言ってよ、と翡翠は心の中で突っ込みます。

「えっと、友達はもう、帰っちゃって…」
 
 頭の中が真っ白になりかけるも、翡翠は何とか声を絞り出しました。言い訳がましい言い方でしたが、琥珀は

「そっか」
 
 とあまり気にした様子は見せませんでした。

「うん」
 
 納得してくれた琥珀に、翡翠は今度こそ安心して頷きます。

「…」
 
 そのまま、お互いは無言になって、沈黙が漂い始めました。唯一の音があるとすれば、風が木の葉を揺らす音のみ。
 
 翡翠はごくりと唾を飲み込みます。
 
 そして、どうしよう、と内心焦りました。
 
 これ以上は話すことも何もありません。
 
 重い沈黙が続くこの空気も、呼吸するだけで胸が締め付けられるようです。
 
 スッと息を吸って、別れの挨拶を切り出そうとした、その時でした。

『翡翠はやっぱり可愛いな』
 
 突如として、頭に琥珀くんの声が聞こえてきました。

『普段はチラッと見るだけだけど、面と向かうとこんな綺麗な顔してるんだ』

「えっ」

 翡翠は驚いて顔を上げます。
 
 しかし、琥珀は何かを喋った様子はありません。
 
 でも、さっきの声は完全に琥珀のものです。
 
 今の声は一体…と不思議に思っていると、またも脳内に声が響きました。

『翡翠、黙り込んじゃったな。何か変なこと言ったかな?僕は喋るのが下手だから気を悪くさせちゃったかも…』
 
 あまりに不安げな言い方に、翡翠は思わず声を出してしまいました。

「だ、大丈夫。琥珀くんのせいじゃないよ」

「えっ?」
 
 今度は琥珀が驚きます。
 
 それはそうです。
 
 琥珀は自身の考えていたことを声には出していないのですから。
 
 それに気づいた翡翠は、しまった、と更に焦ります。うっかりと余計なことを言ってしまいました。

 居た堪れなくなった翡翠は、早口で告げました。

「じ、じゃあ私もう行くからっ!」

「あっ」

 何か言いかけていた琥珀を振り払い、翡翠は一目散にかけて行きました。
 
 翡翠は走っている一瞬だけ、後方を振り返りました。その時、微かに頭の中に声が響いてきました。
 
 小さく、それも走ることに一生懸命だったので確実かどうかは分かりませんが、こんな言葉だった気がしました。

『もっと翡翠と話したかったのに…』