イイやつとはつまり、ちょっとアレなビデオのことで。
「逆に教えてくれよ!」
旭は嘆いた。
なんでもいいから現実逃避をしたかった。
「ちょ、どうした?本当に。いつもあんましこういう話には乗ってこねえじゃん」
「ちなみに俺のタイプは……」
「ちょっと旭クン、眠ろっか。じゃないとしょうもない性癖暴露することになるから!」
口を押さえつけられ、旭はそれ以上喋るのを辞めた。
確かに今日の自分はかなりおかしい。
恐怖と混乱と疲労で、頭の中が霞んでいる。
思えばそこまで飢えているわけではない。
「あーあ……」
「本当に大丈夫かよ」
「うー……」
がらり。
教室の扉が開く音がした。
この時間帯、扉の開閉は珍しいことではない。登校してくる生徒が1番多くなる時間なのだから。
しかしこの時は、誰もが吸い寄せられるように扉に目をやった。
そこには夜がいた。
闇を含んだ長い髪に、月明かりの如く白い肌。瞳は漣ひとつない湖のように静かで深く、唇は咲いたばかりの桜色。
教室にいる誰もが息を飲んだ。
それほどに美しく、神々しく、恐ろしかった。
「やっと来たね、眠り姫」
渉が面白そうに目を細める。
眠り姫、花守雛菊。入学式から2週間、噂を超えて美しい。
しかし旭は別のことで驚いていた。
昨日の少女だ。
背中を斧で割かれ、旭と共に生死を彷徨った、あの。
「おはようございます」
背筋を真っ直ぐ伸ばし、雛菊は完璧な角度でお辞儀をした。
その途端、止まっていた時間が動き出した。
「おはよう」
「おはようございます」
「はよー」
挨拶が飛び交う。
顔を上げた雛菊は、固い表情でくるくる辺りを見渡した。
「あ!花守さーん!席ならこっちだよ!」
渉が大きく手を振る。
ぱちり。
雛菊の大きな目に旭は捕まった。
心の準備ができていない旭は、咄嗟に渉の影に隠れる。
一歩一歩、雛菊が近づいてくる。
逃げてしまいたいと思ったが、急にどこかへ行くのも不自然だ。
こういう時に限って誰も呼び出しに来ない。
いつもならば他のクラスの友人が、やれ教科書を貸せだの、ジャージを貸せだのとやってくるのに。
いっそ教師でも構わない。放送でもなんでも良いから職員室に呼んでほしい。……呼び出されるようなことはまだしていない。もっとグレておくのだった。
あれこれ考えを巡らせる旭の横で、ついに足が止まった。
恐る恐る見上げる。
雛菊は再び、深々とお辞儀をしていた。
「花守雛菊です。ふつつか者ですが、どうぞ宜しくお願い致します」
ふつつか者。
この言葉を旭は、現実世界で初めて聞いた。
確か結婚する時の挨拶なんかでよく出るフレーズだったはず。
少なくとも初対面のクラスメイトに言うことではない。
「おもしろいね、花守さん」
渉がけらけら笑う。
「俺、鳥海渉」
「鳥海くん。はい、宜しくお願い致します」
「座って座ってー。花守さん、どこ中?」
「わたくしは……」
表情、姿勢、言葉遣い。
全てが崩れぬ雛菊は、完璧すぎて近寄りがたい印象だ。
よく話しかけられるな、と旭は感心して渉をの横顔を見た。
「遠いね。俺と旭……。あ、こいつが旭ね。俺たちは同じ中学なんだ」
「そうでしたか」
ぱちり。
雛菊と目が合う。
雛菊は唇を一文字に引き結び、軽く会釈してきた。
ここで名乗らないのもおかしいか。
旭は平静を装いつつ、軽く頭を下げた。
「名取旭です。宜しく、花守さん」
「名取……」
雛菊がごく小さく繰り返す。
なんだ、名取だからなんなのだ。
旭は泣きたくなった。
怖い、一挙手一投足が。
しかし旭の恐怖とは裏腹に、雛菊は初めて表情を崩した。
ふわり。
目尻が柔らかくなる。小さな花が散ったように見え、渉まで息を飲んでいた。
「宜しくお願い致します、名取くん」
「あ、うん」
呆気にとられた旭は、愛想もなにもない返事を垂れ流した。
その後も渉の社交性がいかんなく発揮され、旭はほとんど口を利かずに済んだ。
勿論、積極的に影を消し、それとなく避け続けた結果でもあるが。
恐らく夏頃には席替えがある。それまであまり関わらないように、そして彼女の中で変な目立ち方をしないようにすればいい。
地味で無能な自分の得意分野ではないか。
旭は胸を張ってこの目標を掲げた。ちっとも自慢できないことであるが、この時ばかりは誇らしく感じられた。
しかしこの斜め上な自信と誇りは、呆気なく砕かれることになる。
午前の授業が終わり、昼食を買いに購買へ向かった旭は、その帰りであっさり雛菊に捕まった。
「少し宜しいでしょうか」
まるで待ち伏せしていたように、雛菊は階段で旭の前に立ち塞がる。
教室のあるフロアまで、あと数段だったというのに。
「……っ」
旭は2段飛ばしで階段を下った。
登ってきた女生徒が、短く悲鳴を上げて肩をすくめる。
名取くん、と雛菊の呼ぶ声が上の方からした。
旭は校舎を出て、中庭を横切り、職員用の駐車場を越え、北校舎まで逃げた。
北校舎は主に、音楽室や科学室などがあり、授業や部活動以外での生徒の出入りはほとんどない。
その校舎の途中まで階段を登り、旭は座り込んだ。
息が乱れて苦しい。動悸が酷い。
落ち着け、落ち着け。
胸に手をあて、少しずつ取り込む酸素の量を増やす。
ここまで来れば……。
「名取くんは足がお早いのね」
ど、と。
旭の心臓が大きく弾んだ。
恐る恐る振り向くと、少し下の段に雛菊が立っていた。
涼しい顔でこちらを伺い、くすりと笑いを溢す。
「男の子らしくて素敵です」
「……ひっ!」
ぎゃあぁぁぁあああ!
旭の悲鳴が校舎中に木霊した。
「なんでなんでなんで」
「はい?」
雛菊は旭の悲鳴に驚き、縮こまって怯えていたが、今の旭にそれを気遣う余裕はない。
「追いかけてきてる気配なかったじゃん!」
「ず、ずっと追いかけておりましたよ」
「嘘だぁ!」
「ほ、ほんとです」
雛菊は両手を胸の前で握り、またあの表情をする。
一文字に唇を結んだ、生真面目そのものの、あの顔を。
「少々ずるは致しましたが」
「ずる?」
「はい。ちょっとその、屋上から名取くんの姿を探しまして、直接こちらに……」
「こちらに?」
屋上?直接?
なにを言っているのだ、この子は。
ますます怖くなってきた旭の前で、雛菊は恥じらうように両手を組み、もじもじと目をそらした。
「はい。屋上からこちらの校舎の前まで飛び降りてきました」
「……」
目が点になるとはこのこと。
旭は急に冷静になった。
上を見上げ、雛菊を見下ろし、再び上を見上げ、頭をかいた。
「屋上から、なんて?」
「飛び降りてきました」
耳まで赤くした雛菊は、次の瞬間はっとしたようにこちらを真っ直ぐ見た。
「大丈夫ですよ!誰にも見られないように致しましたから」
そこではない!
あまりのずれ方に、旭は愕然とする。
普通の人間はまず、屋上から飛び降りて無傷ではいられない。
だというのに雛菊は、髪ひとつ、制服ひとつ乱さず、呼吸すら自然なままそこにいた。
ただ走ってきただけの旭は、衝撃もあいまってぜえぜえ言っているというのに。
ごくり、唾を飲む。
旭は意を決して雛菊と向き合った。
「君は一体何者なの?」
「私は」
「私は、吸血鬼」
「は?」
旭の口から間抜けた声が漏れる。
それもそのはず。
吸血鬼?
物語に出てくる、血を吸う化け物のこと?
思っていた回答と違い、旭は次第に焦り始めた。
旭は雛菊を、自分の家と同じ稼業の人間だと予想していたのだ。
つまり、魔術師であると。
現代社会に魔物はほとんどいないが、それでもゼロではない。
だから魔術師たちは己の土地を守るため、密かに魔物を狩っている。
旭の父や義兄もたまに仕事をしていた。
一晩悩み苦しんだ旭は、あの男は魔物で、彼女は魔物を処分しにきた魔術師と判断したのだ。
だから関わり合いにならないよう、昨日の話にならないよう、避けていたのに。
吸血鬼は高位の魔物だ。
「知りませんか?本当の悪魔は、人間のふりをして隣にいるものですよ」
雛菊は黙り込んだ旭を見て、悲しそうに目を伏せた。
「それでも気味悪いですよね」
「いや……」
違う、そうではない。
というより旭は、吸血鬼に対する印象まで感じられるほど、まだ頭が整理できていない。
ならば昨日のあれは、吸血鬼が殺人鬼を撃退してくれたということか。
それとも吸血鬼が魔物を殺そうとした?
魔物が魔物を?
「あの」
「はい」
「昨日はなにをしてたの?」
「昨日は協会からの依頼で、指名手配の魔物を追っておりました」
「協会?」
「人ならざる者が、現代社会を生きるためにつくられた組織です。主に力の弱い者の保護、人間に害をなす魔物の排除を目的としております」
「へえ……」
ますます分からなくなってきた。
狼狽える旭に向かい、雛菊は階段を登ってくる。
そして旭と同じ段に立つと、その場で深々頭を下げた。
「このたびはわたくしのせいで、とんだことに巻き込んでしまいました」
「え!?あっ!」
旭は激しく首を振る。
「花守さんのせいじゃないっていうか!そりゃ死にかけたけど、なんか大丈夫だったし!……ん?」
死にかけたけど、なんか大丈夫だった?
口にして、旭ははっとした。
そうだ、そこだ。そのなんかの部分がとても大事なのではないか。
「あの、昨日死にかけたと思うんだけど、どうして生きてるのかな」
自分も雛菊も。