好きの対義語は嫌いではなく無関心だと誰かが言った。
人は本当に興味ない人間には嫌いという感情すら持たないのだと。
じゃあ嫌いの対義語は何なのだろう。それもまた無関心ということなのだろうか。
無関心でいられたらどれだけ楽なのだろうと何度も思った。あの人は私の人生に何の影響も及ぼさない。一挙手一投足に振り回されることなく、何を考えているか気にしない。そんな風にあの人を割り切ることができれば……。
でも私はどうしようもなく子どもだった。
あの人の子どもだった。
どうしても無関心ではいられない。
だからこう言わざるを得ない。
私は母のことが嫌いだ。
*
……ちゃん。芽衣ちゃん」
誰かに呼ばれた気がして、いやこの夢から逃れたくて目を覚ます。うだるような暑さを和らげているシーリングファンが目につく。タイトルのわからないクラシック音楽と、コーヒーの匂い。目の前には私を夢から引き揚げてくれた七星がいた。
「おはよ」
子犬みたいなコロコロとした笑顔で七星が言った。
寝顔を見られていた恥ずかしさから視線を外しながらぶっきらぼうに答える。
「どれだけ寝てた?」
「んー30分くらいかな」
学校帰り、家に帰りたくなくてテスト勉強を理由に七星を喫茶店に誘った。事実、高校生の私たちには期末テストは大きなイベントの一つであり、その結果次第では夏休みの充実度が変わる。文字通り、夏の自由がかかっている。
だからテスト勉強は学生が必死に取り組むべきものであるし、付き合っている二人で放課後喫茶店に寄って教え合うということになんら違和感はない。
しかし私は毎回何かしらの口実をつけなければ七星を誘うことはできなかった。今回はそれがテスト勉強だった。
数学の参考書に向かおうと、目をぬぐったとき人差し指が微かに湿った。
まただ。
「どうしたの」
七星はその言葉の主語を示すように目元を2,3回叩いた。
「何でもない」
夢の内容はまるで覚えていない。ただ、たぶんだけど、母が出てきた。そして私はその夢から逃れたかった。知らない人に勝手に抱っこされた赤ん坊が暴れて泣きだすように、私は夢の中で外に出ようと足掻いていた。母を求めてではなく、母を避けるようにして。
だけど、そんな私がなんだか子ども失格のような気がして、それで涙が出る。いつもそんな感じ。
夢の中での母への嫌悪感。起きた後の自己嫌悪感。
心地よいとは言えないその両者に板挟みにされている。
「何でもない涙なんてこの世にないよ」
まっすぐに見つめてくる七星の視線から私はまた逃れることしかできなかった。七星はきっと心から心配してくれている。でもどこまで踏み込んでいいものかと思案もしている。他人のパーソナルスペースのようなものを明確に引いていて、それを踏み越えないように気を使っている。
彼は優しい。
その優しさに、私は狡く甘えていた。
黙っていれば彼が引いていくのを知っている。
今回もやはり彼は、線を踏み越えてはこなかった。
「無理しないでね」
汗をかいたアイスコーヒーを持ち上げると、小さくぽちゃんと音が鳴った。離れたくないものが必死で手を伸ばすような音だった。
非情にも私はそれを引き裂いて、アイスコーヒーに口をつける。
「僕は頼りないし気の利いた言葉も言えないけどさ。たまには頼ってほしいな。君が心に抱えている傷があるならそれを僕にも触れさせてほしい。僕は君の彼氏なんだ。君のことが好きなんだ。
正直、今は君が僕のことを好きでいてくれているかどうかさえ少しわからない」
彼は悲しそうに微笑んだ。
君のことが好きだと彼は改めて口にして伝えてくれた。けれどその言葉が私をじんわりと温めてくれることはなかった。私は無償の愛なんて知らないから。
彼と付き合って1カ月半。
私にだって彼のことが本当に好きかどうかなんてわからない。
彼は私にとって一人目の男の子だからずっと好きでいるのだ。
あの人みたいにはなりたくないから。
*
母は男をとっかえひっかえしている人だった。
ランドセルを背負い学校でもらった作文優秀賞の賞状を手にもって家に帰ると、知らない男物の大きな靴が乱雑に吐き捨てられていた。それはときに高級そうな革靴だったり、履きつぶしたスニーカーだったりした。
家の中に入ると大抵、初めましての知らない男がリビングに座っていて「芽衣ちゃん、こんにちは」と甘ったるい声で話しかけてきた。私は不愛想に軽く頭を下げるだけで、手に持っていた賞状やら授業参観のプリントやらを机に置き捨てて、すぐに自分の部屋に下がっていった。そんなときには決まって背中から「お父さんって呼ぶのよ」という母親の声が追いかけてくるようだった。
あるときは、家の奥から甘くて甲高い声が聞こえてきた。言葉を覚える前の赤ん坊がぐずっているときのような文字にならない声。耳をふさぎたくなった私は、その鳴き声に負けないくらいの声量で「ただいま」と叫んだ。いつもなら部屋に入っていくが、この日に限って玄関から進むことはしなかったのは動物に備わっている防衛本能というやつだろう。
母がシャツを羽織っただけの淫靡な格好で、バタバタと玄関に走ってきた。
「芽衣。今お母さん忙しいからこれ持ってどこか遊んできて」
母は私に千円札を一枚握らせた。
紙幣は汗で母が握っていた形のまましわくちゃになっていて、どこか気持ち悪かった。
結局、小学校中学校を通して授業参観に来たことはなかった。家庭訪問は何度か担任の先生に母が家にいる時間帯を聞かれたけど、いつの間にかそれも聞かれなくなった。
一度だけ運動会で母の姿を見たことがあった。つばの広い帽子とサングラスをした母の姿が友達のお母さんと違って嫌だった。隣にはやはり知らない男の姿があった。その時の母の男だったのか、誰か別の生徒の父親がたまたま隣にいただけなのかは今となっては知らない。私にとってはどちらでもよかった。
私に話しかけることもなく、私から話しかけることもなく、母は大玉転がしが終わったころいなくなっていた。
もし親ガチャというものが本当にあるとするならば、生まれる前の私は一体いくらで母を買ったのだろう。転がり落ちてきた母親を見てニコリとしたのだろうか。
一体いくらで売ることができるのだろう。
否、売ることができないから親ガチャなのだ。
*
期末テストのメリットなんて学校が早く終わるくらいのことしかない。特に可もなく不可もなく。七星とした勉強の成果も出たとは言い難い手ごたえだった。
途中のハンバーガーショップで適当に昼ご飯を済ませ帰宅すると、家に母はいなかった。
最近母とは会っていない。母は根っからの夜型人間だ。詳しくは知らないが、いつも日が暮れてから家を出て朝に帰ってくる。母が帰ってくる時間より私が学校に行く時間のほうが早いことすらある。男と逢瀬を重ねているのか、夜のお仕事をしているのかは、知らないし興味もない。机の上にお金を置いて、冷蔵庫を適度に補充しておいてくれればそれでいい。私にとって母とはその程度の存在だ。
それでも無関心でいることはできず、やはり嫌いだと再確認する。
この時間は家で寝ているかと思っていたが、いないようだ。
ソファに腰掛けるとドッと疲れが襲ってくる。
「ふぅぅ」
落ち着いてリビングを眺めてみるとなんとも統一性のない部屋だと感じる。ソファは足のついた少し背の高いものなのに、目の前にあるのはローテーブルだ。ソファに座りながらご飯を食べようと思えば猫背にならざるを得ない。
テレビ台はあるのに、テレビはない。テレビがないことで不便を感じたことはないのだけれど、テレビ台だけあるというのはとても不格好に見える。テレビの代わりに載っているのはなぜかクマの木彫りとスノードームだった。
テレビ台の横には我が家でも異質な存在感を放っているサーフボードがかかっている。もう何年も使われている様子はなく、色あせている。
その手前には平積みされたたくさんの本。何年か前に流行した小説や自己啓発本、『恋愛黒心理学』などという怪しげな表紙の本が床に乱雑に置かれていた。
統一感がないのはきっといろいろな男の影響を受けているからだろう。言うなればリビングはこれまでの父親のエッセンスが詰め込まれた巣窟だ。
そんな私にとってリラックスとは遠く離れたところに位置する場所ではあったが、テストの疲れはやはり私の身体をむしばんでいた。
学生にとってテストは毒だ。
なんて考えながら微睡んでいると、玄関のドアがガチャリと開く音がする。
慌てて跳び起きたが、間に合わなかった。
「あれ、芽衣。あんた学校は?」
リビングの出入り口をふさぐような形で母がいる。どこに行っていたか知らないが、母にしてはこざっぱりした格好だ。カバンもブランドものというわけではなかった。
私はわざと聞こえるように舌打ちをする。
「テスト」
「あ、そう。じゃ、私寝るから」
出入口を明け渡して自室へと下がっていった。
もう眠気など感じなかった。久々に話した母に、ただただイライラした。たった一言の会話が耐えられなかった。
この場にいない母への怒りを込めて、積まれた本を蹴り上げた。
何人目の男の趣味だろうか。数冊崩れて、ドラッカーの『マネジメント』が新しく一番上の本となって、大きな文字が目に入った。その表紙にすらイライラしてもう一度本の山を蹴りつけた。
*
夏休みに入っても私はまだ七星の優しさに狡く甘えていた。
言いたくないことは言わず、でも七星は求めればすぐに来てくれた。彼をいいように扱っている様が母親と被って自分自身がウザくなる。そんな日は七星の優しさをより求めてしまう。
今日も同じだ。
珍しく今日も母は昼から出かけていたが、帰ってくる予感がした午後6時過ぎ、私は家を出て七星を呼んだ。
特に行く当てもなく二人、夏の夜を彷徨っていた。夕暮れというにはまだ明るくて、夏の長い昼を持て余した時間帯。あまり文学的な言葉は知らないが、もしかしたら今が逢魔が時などという仰々しい名前の付いた時間なのかもしれない。
逢魔が時にはまだ星は見えなかった。見えたところで星に詳しくない私には北極星とその近くにある北斗七星くらいしか知らないのだけれど。
そう思ったらふと気づいたことがあった。
「七星の名前って星が由来なの?」
「え、なんで」
唐突に話しかけたからだろうか、七星の返事が少し遅れた。
「北斗七星からとったのかなって」
男子にしては少し珍しい『ななせ』という名前。その由来が北斗七星だというのであれば、詩的でとても素敵だと思った。
しかし、七星は星の見えない空を見上げて違うと言った。
「よく間違われるんだよね。僕もそうならいいと思うんだけど」
少し困ったように笑っていた。七星は一体いくつの笑い方を持っているのだろうか。すべての感情を柔らかくするため彼は効果的に笑顔を使った。
「北斗七星よりよっぽど汚い星が由来の安直な名前だよ。ほらこれ」
七星は携帯でとある画像を差し出した。それは私もよく知るとあるタバコの写真。
「セブンスター。知ってる?」
「うん、まあ」
何を隠そう、母が一番吸うタバコがセブンスターだった。いつでも部屋の中にあった銘柄。タバコを吸うためにベランダに出る母の後ろ姿が幼少期は少し寂しくもあった。
それがなくともタバコなんて毛嫌いしていた。
「親父さんがセブンスター大好きだったんだよ。今でも本数こそ減ったけど、やっぱり吸うときはセブンスターなんだってさ。セブンスターだから七つの星で七星。バカみたいでしょ」
今度は自虐的な笑みを浮かべていた。でも私はそこに楽しそうな七星を見出していた。
自分が家族の話を避けていたからか、七星の家族について初めて聞いた。高校生にして自分の父のことを親父さんと呼ぶ距離感が、七星の家の悪くない家庭事情を表しているようだった。
「そんなこと、ない、と思う。なんて言えばいいかわからないけど、なんかお父さんの愛が詰まってる感じがする」
「確かにドストレートな愛だよね。母さんへのプロポーズも薔薇100本贈ったらしいからね」
その大胆な告白には二人で笑うしかなかった。
父親の愛が新品のタバコみたいにギッシリ詰め込まれた七星という名前にうらやましいと感じた。豪快な愛の名を冠した、繊細で優しい男の子。
北斗七星なんかに負けないほど彼は眩しかった。
「芽衣ちゃんは? なんで芽衣なの」
「私に名前のことで話すことなんて何もないよ。5月生まれだから芽衣。白い犬にシロってつけるくらい何も考えられていない名前」
悩んだとしたら芽衣にするか皐月にするかくらいではないだろうか。私が生まれたのは5月1日の午前4時。もう数時間早く生まれてきていたとしたらどんな名前になったのだろうか。
私の名前にはきっと愛は入っていない。
「安直だね」
七星はそう言って笑ってくれた。馬鹿にするわけではなく、申し訳ないという感情がこもっていたわけでもなかった。バランス感覚に優れた七星だから返せる絶妙な技。
5月になるたび、名前を呼ばれるたびに、私はより母のことが嫌いになっていった。私から名前の話を持ち出したのに、自分の由来を聞かれることは得意ではない。そんなこと予測できただろうに、と自虐的に笑った。
話題を変える。
「七星の家族ってどんな人なの」
さっき彼が父親の話をしたときの、ほのかに楽しそうな表情が脳裏に残っていた私は尋ねてあげた。でもきっと知りたかったのだと思う。七星を形成した人たちがどんな人なのか、七星は普段どんな人たちに囲まれて生活しているのか。
どんな人かって言われると困っちゃうね。と少し時間をかけて七星は一人ずつ説明してくれた。
父親は名前のエピソードで感じた通り、豪快な人物であるらしい。昭和の香りのする頑固な親父さんだけど、やっぱ外で戦ってくれているし僕たちへの愛があってのことだってわかってるからね。と彼は述べた。
母親はとてもおしとやかな人だという。いまだに少女という言葉が似合うような人物で、手袋なんかは手芸で自作してしまう。今でも使っていると言ったから冬になったらそれを恥ずかしそうにつける七星が見られるのかもしれない。話を聞く限り、七星の性格は母親に似たものなのだろう。
姉は私も一度だけ会ったことがある。七星よりも7つ上の姉はもうすでに大学を卒業し、現在看護師として近くの総合病院で働いている。闊達な性格のようで、「宿題やったの?」といういわゆる母の小言は姉から受けていたらしい。
一通り説明してから彼はこんなことを言った。
「ありきたりな家族だと思うよ」
私は眉をひそめた。なら父のいない私はありきたりの範疇に入る資格がないということなのだろうか。
私の怪訝そうな表情に彼は慌てて付け足した。
「家族構成がとかじゃなくてね。なんて言うのかな、家族への愛情と憎しみの比率みたいなものが、かな」
「愛情と、憎しみ……」
「うん。親父さんとも母ちゃんとも姉さんとも僕はそこそこ仲いいとは思ってるけれど、当然好きだけではやっていけないわけでさ。同じ家に住んでいて常に顔を見合わせる状態だとやっぱり嫌な部分も見えてくる。親父さんにこのわからずやって悪態ついたことだって、母ちゃんのご飯を食べなかったことだって、姉さんのおせっかいに舌打ちしたことだってある」
七星のそういった姿は想像がつかなかった。それと同時に彼の素が見れて安心する気持ちもあった。
「好きだけじゃなくて嫌いもある。好きじゃ嫌いは消えないと思うんだ。例えば親父さんのことを100好きだとして、一方で50嫌いだとする。じゃあプラスマイナスで50好きなんだね、とはならないよ。どれだけ100好きでも50嫌いは存在しているんだから。その好きと嫌いとが同居している感じはきっとどこの家族でも一緒なんじゃないかな。いや家族だけじゃなくて、人と人とが付き合うってのはそういうことなのかな」
「ってごめん。何言ってるかわからないよね」
彼は頭をくしゃくしゃと掻いた。
夏の夜に蝉の鳴き声がこだまするのをしばらく聞いていた。
私に100好きだと言える相手はいないと思った。結局私の家族はありきたりに入らないとも思った。けれど、心にスッと入ってくるものがあったことも事実だ。
確か昔、似たようなことを言われたことがあった。
*
私が小学校6年生の夏だったと思う。そのころには当然のように母のことはもう嫌いで、数えることすらやめた何人目かの父親がいた。とても背の高い人でおそらく185センチはあっただろう。母は私に似て、(というより私が母に似てだが、)小柄なタイプだったのでデコボコした気が合わない2人なんだろうなと勝手に思っていた。しかし、その父親は他の男たちよりも長い期間を私の家で過ごしていた。名前は佐といった。きっと人を助ける人になってほしいという親の願いの入った名前なのだろう。
その父親と母と私で近所の海に遊びに行ったことがあった。歩いて30分ほどの近場とはいえ、私にとって記憶にある唯一の家族旅行と言っていい代物だった。
母が海の家に昼食を買いに行ったとき、その父親と二人きりになった。いくら期間が長いとはいえ、ほとんど会話をしたことはなかったから私は目を閉じて、遊び疲れて眠ったふりをしていた。
「淑乃さんのことは嫌い?」
男はもしかしたら眠っていてもかまわないという気持ちで口に出していたのかもしれない。それくらい誰かの耳に届けようとする気のこもっていない言葉だった。
そのことを意外に感じ、思わず目を開けて横を見上げると男とバッチリ目が合ってしまった。
淑乃とは私の母のことだ。あの母に「淑やか」という字が用いられていることに因縁めいたものを感じずにはいられない。
しかし母側の人間であるその父親に馬鹿正直に打ち分けるわけにはいかず、私は適当にお茶を濁した。
「別に。そんなこともないけど」
「フフフッ。正直でいいね」
まだ母が戻ってくる気配はなかった。
「ごめんごめん。嘲るつもりはこれっぽっちもないんだ。でも覚えておいて、『そんなこともない』は『その通りである』とほとんど同じなんだよ」
「はあ」
「そっかあ、淑乃さんのこと嫌いかあ」
男は口調ほど深刻にとらえてないように聞こえた。それはまるで中学生の娘が彼氏と別れたと報告してきたときのような長閑さだった。
膝を抱えていた手を後ろにつくように伸びて、海開きに最適な太陽の下で気持ちよさそうに長い息を吐いた。
「でも芽衣ちゃんも、どこかに淑乃さんを好きな気持ちは必ず持っているよ。今はおじさんとか、前のおじさんとか、前の前のおじさんとかが邪魔して見えなくなってるかもしれないけど。嫌いな原因ってほとんどおじさんたちでしょ? でももしいつか、淑乃さんと正面から向き合ってみたときに芽衣ちゃん自身で気づくときが来ると思うよ。お母さんのことは誰もが嫌いで誰もが好きだからさ。そして気づいたときは……」
そこで男は一旦言葉を区切ると、遠くを指さした。
「ああやって淑乃さんは大きく手を振って待っていてくれるよ」
両手にプラスチック製の容れ物に入った焼きそばを抱えた母が指の先にいた。水着だらけの家族連れや中高生のカップルの間から母は確かに主張していた。両手がふさがっているから当然手は振っていないのだけれど、肩や首や腰を揺らして手を振っていたように私には見えた。
焼きそばを持って戻ってきた母が、
「二人で何話していたの?」
と聞いたら、父が
「Girls, be ambitiousみたいなことだよ」
と答えていた。けれど、北の大地の名言は無知な母の辞書には入っていなかったみたいだった。そんなことも気にせず、言った本人はおいしそうに焼きそばをほおばっていた。
結局日が暮れるまで私たちは海にいた。
海水に浸かりすぎてふやけそうだった。家に帰る道でペタペタと残るサンダルの足跡が面白くて無駄に足踏みした。灼けた背中がジンジンと痛むからシャワーはそっと浴びた。
なんだろう。
思い出せば思い出すほど、この1日だけは楽しんでいたような気がする。
*
「海へ行こう」と誘ったのは私の方だった。思い出したらそこに行くという気持ちがあふれて仕方ない。私はカレーの匂いを嗅いだ日の夕食は安直にカレーにするタイプだ。
あっという間に逢魔が時は過ぎ去り夜と呼んでもいい時間帯になっていたが、断られることはなかった。途中のコンビニで手持ち花火を買い、歩いて30分ほどの海へと向かった。
ここへ来るのはあの思い出の日以来だった。あの父親はそれからもしばらくは父親をやっていたが、結局次の夏を迎える前に消えた。海はあの日と何も変わらないでいた。海洋汚染も海面上昇も実感できるような身近なところにはいない。
昼は営業していたのであろう海の家の残骸が海岸に打ち捨てられていた。少し規模が小さくなったかと思ったけれど、すぐにそれは私が成長したからだと納得する。
「ここは来たことあるの?」
「あるよ。小学生のころに、母と、……父親と」
夜の砂浜は余計な体温を気持ちよく下げてくれた。
波のさざめきが、月の灯りが、隣の七星が、夏夜の砂浜を魅力的なものとしている。得も言われぬ高揚が、一瞬でまた砂浜に奪われていく。
今ならどんな告白でもうまくいきそうな気がするなんて柄でもないことを考えてしまった。
私は夜の重なりに惑わされていた。
だから、
「好きだよ」
という言葉がすんなりと耳に通る。私の声ではなく、七星の声。
同じように惑わされた七星が、隣で何かの決意を固める音がする。
「僕は芽衣ちゃんのことが好きだよ」
いつかシーリングファンが回る喫茶店で言われたセリフ。もっと遡れば、高校の屋上に通じる階段で言われたセリフ。
けれど、いつもみたいに聞き流すことができなかった。
七星ははっきりと私を見つめている。闇の中に力強い双眸が2つ。
「だから知りたい。芽衣ちゃんが抱えていること、芽衣ちゃんが悩んでいること。それから、芽衣ちゃんの家族のこと。聞かせてほしい」
まっすぐで誠実な思いに私は悟った。
これは黙っていても退いてくれないな、と。
一度視線を外して海を眺める。
今までずっと七星の優しさに狡く甘えてきた。けれどそれも今日で終わりにしなければいけない。
今なら言える気がした。母への嫌悪感、父がいないという恥ずかしさ、私の弱さ。すべて包み隠さず言えば七星ならきっと聞いてくれるだろう。私が泣き出せば彼ならぎゅっと抱きしめてくれるだろう。なによりも必要な温かさをそっとくれるだろう。
あと私に必要なのはほんの少しの勇気だった。
微かな風が頬を撫でる。
「七星には関係ないよ」
でも私は言えなかった。
七星の優しさを酷く裏切った。
勇気が出なかったと言えばそれまでだが、それ以上に母を許したくなかった。私の弱さを認めることは母を許すことのような気がして、七星に言うことができなかった。
私は母が嫌いだった。
「関係ないことないだろ!」
初めて七星が少し声を荒げた。
「うるさいな」
「なんでそうやっていつも誤魔化すの」
「誤魔化してるわけじゃないし。助けてほしいなんて頼んだことはない」
七星が眉を下げて悲しそうな顔をした。その悲しみを柔らかくするような笑みは含まれていなかった。
「なんでそうなこと言うんだよ。芽衣ちゃんの力になりたいって言ってるのに」
「だから七星には、関係ないことだから」
「そんなことないだろ。僕はいつも苦しんでいる芽衣ちゃんを見てきたんだから」
「苦しんでたこともないし、関係もないよ。これは私の問題だから」
「好きな人が問題を抱えているなら、協力したいと思うのは当然だろ」
「じゃあ、もう好きな人やめよ。もう好きじゃない」
惑わされた私はもう止まることはできなかった。海の家の残骸も、コンビニで買った手持ち花火も、空に浮かぶ北斗七星も、私たちには見えなかった。
「それ本気で言ってんの?」
「うん。もともと最初の人だから好きだっただけだし」
どこかで、最低だなと冷静に見ている自分がいる。愛してくれている七星を傷つけるようなことを言って、母親と一緒じゃないか。結局お前もあの女の娘だったんだな。
苦しい。七星はもっと苦しい。
鈍器となった言葉が、あっという間に私たちの関係をぐちゃぐちゃにつぶした。
隣で七星がスッと立ち上がった。
下から見上げたからだろうか。こんなにも背が高かったんだと、どうでもいいことを考えていた。
「ちょっと距離置こう。少し頭を冷やしたほうがいい。僕も芽衣ちゃんも」
こう言い出せる七星は、私よりも遥かに冷静な大人だったのだろう。
夏夜の砂浜以上に冷やしてくれる場所なんて知らない。
しかし七星は沈黙を肯定と受け取ったようだった。そもそも今の私に「待って」と言える資格などない。私は彼を傷つけたのだから。
「今はじゃあね。芽衣ちゃんが大変な時期にそばにいてやれないのは申し訳ないけど」
「どういう意味?」
「そのまんまの意味だよ。ごめん、知ってるんだ。お母さんの病気のこと」
「は?」
七星の言っている意味がわからないのは、きっと熱くなっているからだけではないはずだ。脳が理解することを拒んでいる。
「姉さんに聞いた。お母さんが通っている病院、実は姉さんの勤務先なんだ。担当看護師ではないらしいんだけど、入院手つづ」
「待って」
追いつかない頭の処理に、大事なところをハッキリさせようとする。
「誰が病気なの?」
「え? だから芽衣ちゃんのお母さんが。じゃないの?」
「そんなの知らない……」
あの人が、病気?
そんなわけはない。
とは言い切れない自分がいた。
あの人は根っからの夜型人間で、若いころからチャラチャラしていたことは想像に難くない。一緒にご飯を食べることはないから食生活は知らないが、ろくなものを食べていないだろう。セブンスターは今でもゴミ箱に溜まり続けている。体のどこかが不調を訴えたところで何も不思議な点はない。
それに看護師の姉という存在が、それが事実であるという何よりの証拠であった。
「そう、なんだ」
「大丈夫?」
「行かなきゃ。家に帰らなきゃ」
急に義務感のようなものが生じて、帰路に着く。ついさっきまで距離を置こうと言っていた七星が心惜しそうに見送った。
家に帰ったところであの人はいないかもしれない。というより別に心配はしていない。あの人が病気になったところでどうだっていい。どうだっていいけれど、やはり無関心ではいられなかった。
夏の海岸線に、波が寄せては引いて。寄せては引いていく。
家に帰ってもまだ母はいなかった。時計の針は2つが仲良さげに上を向いている。隣近所は寝静まっていて、冷蔵庫のブーという音が寝苦しい夜のように耳に響いた。
この時間に母がいないのはいつものことだ。どうせ十何人目かわからない男とよろしくやっているのだろう。
そう思い込もうとするが、七星の言葉がそれを邪魔する。
『入院手続き』
彼は間違いなくそう言おうとしていた。
入院するということなのだろうか。するとするならばいつから。そもそもいつから通院していたのだろうか。何の病気なのか。今どこにいるのか。
私は母のことを何も知らなかった。
母がいないのならば帰ってきても何もすることはなく、外出していた姿のままベッドに倒れこむ。カーテンの隙間から月が覗く。アルファベットのDを少しだけ太らせた半月だった。ここは家の中で唯一心が安らぐ場所。母も私の部屋に入ってくることは絶対にない。
そんな私の場所で母への憎悪を膨らませようとした。
母は責任とか覚悟とかそんな言葉とは無関係に私を産んだ。本当の父親のことは何も知らない。それから父親を何人も作って、そのたびに捨てていった。私を産んだことを後悔しているのではないかと幾度も考えた。私は産まれてこないほうがいい人間なのではないかと。そう自問しなければいけないのもすべてこの不安定な『家族』が原因なのだ。母のせいで思い出を描く絵日記の宿題が怖かった。名前の由来を聞いてくる宿題が怖かった。ファミレスが、芸能人の不倫報道が、母の日が怖かった。
七星のこともそうだ。七星に恋愛にまっすぐに向き合えないのも母のせいだ。母のようになりたくない。母のようになるくらいなら恋愛なんてしたくない。石碑に刻まれるかのように絶対的に君臨する私の訓示は、小学生低学年のころから形成していた。母を見て育ってきたのだから、母を反面教師にするしかなかったのだ。
私が今イライラするのだって、今まで辛かったのだって、この先も苦しいのだって全部あいつのせいだ。
靄がうっすらとかかっている。憎しみの上にベールをそっとかぶせる何かがいる。私の中に怒りと憎悪をどれだけ煽ろうとも、それに火がついてくれることはない。
それが病気というものだとすれば、狡いと言いたくなる。
病気にかかっているというだけであの人がしたすべてを許せるわけがない。母に対して持つ嫌悪は風に吹けば飛ばされるようなヤワなものではないはずだ。
でも実際に消化しきれないもやもやがあった。心配なんてものには遠く及ばない、とても女々しいもの。