待ち合わせ時間の十分前に映画館の前に着くと、すでに祐樹くんが待っていた。
「早いね」
「今日は葵先輩より絶対早く来たかったんで」
「次は負けないよ」
「俺だって負けません」
 最初の時とは違い、お互いに軽く冗談が言い合えるのが嬉しかった。細いエスカレーターを上って中に入り、券売機で見る予定だった映画チケットを買った。
「ポップコーン買う?」
 私が言うと祐樹くんは頷き、二人で列の後ろにならんだ。
「どっち味が好き?」
 祐樹くんが言いかけたたとき「待って」と私は言った。
「せーので言おうよ」
「「せーの、キャラメル」」
 あまりに声が揃って笑った。後ろのカップルもそんな私たちを見て笑っていて、少し恥ずかしくなった。
「じゃあ大きいキャラメル味のポップコーン一つ頼みましょうか」
「うん、そうしよう」
 私たちの番が来て、ポップコーン一つとそれぞれ飲み物を買った。代金を請求されて、祐樹くんが出そうとしたが、その手を私が止めた。
「だめ。今日は私の番でしょ?」
 遊園地の屋台で奢ってもらう光景を思い出す。
「俺が払います」
「先輩の言うこと聞きなさい」
 私は祐樹くんの手を制止しながら代金を出した。
 チケットを渡して指定したシアターまで廊下を歩く。廊下は外の光が届かず、ほの暗い。
 シアターの中は廊下よりも少し暗かった。上映時間にはまだ時間があり、座席に座る人は少なかった。チケットを見ながら私たちは指定の席に座って、ポップコーンを間に置いた。オレンジの淡い光でほのかに照らされるシアター、スクリーンに映画の予告編が流れる。面白そうなコメディ映画の予告で笑っていると、隣の祐樹くん笑っていた。上映時間が近づくと徐々に人は増え、人影が頭を下げて前を通り抜けていく。
 予告編が流れなくなると、シアター全体が暗くなって映画が始まった。余命宣告された女性が残された時間を愛する人とどう過ごすのかを描いた映画だった。女性の相手は当然のように男性だった。愛に性別は関係ないなんてみんな言ってるけど結局いつだってヒットするのは男と女のラブストーリーだ。映画の最初の方はそう心の中で文句を垂れていたけれど結局最後は泣いてしまった。祐樹くんはもっと泣いていた。「見ないでください」と祐樹くんは肩の袖で一生懸命涙をぬぐった。純粋な人だな、と思った。
「どこかでご飯食べますか?」
「今日、私の行きたいところでもいい?」
「いいですけど、どこ行くんですか?」
「内緒」
 私たちは大通り沿いを、映画館から十分ほど歩く。映画館から離れていくにつれ、徐々に都会っぽさが失われていく。ガラス張りの高いビルの数々が、小さな商業ビルに変わり、さらに先の方には住宅街が見えた。ビルと住宅街、その境界線にある建物の前で私は足を止めた。
 二階建ての小さな建物には木の引き戸に曇りガラスが張られている。その中で動く人影が見え、張り上げた声が聞こえる。
「ここが葵先輩の行きたいのお店ですか?」
「うん」
 私は一呼吸おいて「入ろうか」と言った。
 引き戸を開けると、「いらっしゃい!」とカウンターの中から白髪で短髪の店主が声を張り上げた。
 店内には、左手にカウンター、右手から奥にかけて座敷席がそれぞれ十席ほどある。カウンターにはスーツを着たサラリーマン風の男の人、手前の座敷には小さな子供を一人連れた家族が座っている。席のさらに奥には階段がある。
 内装は木目調の落ち着いた雰囲気であるが、店主がその雰囲気を覆すほどの明るさを放っている。私たちは案内されるがままに店内を進み、奥の座敷に座った。机の中心には大きな鉄板がある。
「ほいほいほいっと。はいこれお水ね」
 慌ただしく店主がやってきて、小さなお盆に乗せた二つの水の入ったコップを私たちの前に置いた。水が少し跳ねて、机に水滴が付いた。
「おっと、ごめんな!」
 店主はカウンターの方から台拭きを取りに行った。
「元気な人ですね」
「でしょ」
「『でしょ』?」
 祐樹くんは訝しげに首を傾げた。店主が戻ってきて膝をついたとき、私と目が合った。
「あれもしかして嬢ちゃん、バレー部の子じゃないかい?」
「覚えててくださって嬉しいです」
「おお!よく来てくれたな!」
 机を拭きながら店主が言った。祐樹くんが感嘆する店主と私を交互に見る顔の動きが目の端に見えた。
「また食べに来てくれて嬉しいなあ。今日は彼氏さん連れてきたのかい?」
 私は祐樹くんの方を一度見て「はい」と答えた。店主はすでに水滴が拭き取られて綺麗になった机を拭き続けている。
「そうかいそうかい。いいねえ若いってのは」
 店主がそう言うと、座席に座る家族の父親が「すいませーん」と声を上げた。
「おっと、呼ばれてるから行かねえと。晃は最近塾で忙しいみてえだからいねえけど、まあゆっくりしていってな」
 せっかちな店主は階段の方を指さして言ってから私たちの元を離れ、「はい。何でしょう?」と家族の机に到達する前に大きな声を上げた。その背中を目で追っていると、祐樹くんが尋ねた。
「葵先輩、ここって?」
「ここね、晃先輩の実家なんだ」
「へえ、てことはここが食事会やったところなんですね」
 祐樹くんは店内を見回した。
 このお好み焼き屋は晃先輩のお父さんが一人で経営している。白髪ではつらつとした短髪の店主こそが晃先輩のお父さんである。
 この店にはバレー部の先輩たちの引退後にみんなで食べに来たことがあった。そのときは店を貸し切って大いに盛り上がったが、まだ入部して間もない一年生を誘うのは酷だろうとその食事会は二、三年生で行われた。だから祐樹くんがここに来るのはおそらく初めてで、祐樹くんの反応を見るにそれは正しかった。
「この階段上がると、晃先輩の部屋があるらしいよ」
 私は席の横にある階段を指差した。
「へえ」
「食事会のときみんなで晃先輩の部屋覗きに行こうってことになってすごい面白かったんだよ。みんなで押し入ろうとして晃先輩が必死で止めてさ。先輩のお父さんも行け行け!ってみんなの背中押して」
 その三か月前のやり取りを懐かしく思って、思い出すと今でも笑みがこぼれてしまう。
「楽しそうですね」
 そういう祐樹くんは何だかいつもより少しぶっきらぼうに見えた。店内を照らす照明による陰影のせいだろうか。
「何食べる?」
 机の端に置かれたメニュー表を立てて開いて、二人でそれを眺める。以前と変わらず、達筆な字でメニューが書かれている。このメニュー表の字は習字を習っていた晃先輩が書いたらしい。
「どれがおすすめですか?」
「そうだねえ。全部おいしいんだけど……。あ、これ!これね、前、晃先輩がおすすめしてくれたやつ。おもちとチーズが入ってるやつなんだけど、すごいおいしいかった」
 私はメニュー表を指差して言った。
「あとこのもんじゃも晃先輩が焼いてくれて美味しかったよ」
「じゃあ、両方とも頼みましょうよ」
 店主を呼んで、お好み焼きを二つともんじゃ焼きを頼んだ。店主は嵐のようにやってきて去っていく。
 視線を祐樹くんに戻すと、祐樹くんはやはり不機嫌そうに口を尖らせているように見えた。
「どうしたの?」
「いや、何でもないです」
「そう?」
「はい」
 祐樹くんがカウンター内の厨房の中を覗く。中で店主は忙しく動いて冷蔵庫を開けたり閉めたりしている。
「何か晃先輩と印象違いますね。晃先輩はクールって感じなのに、お父さんは元気はつらつって感じで」
「確かにね。まあどっちもいい人なのは間違いないけど」
「それは確かに間違いないですね」
 少しした後、店主が大きな黒い器を持ってきた。
「お待たせ!これもんじゃね!」
 そう言って私たちの机に乗せた器は座敷の家族の机に乗っているものよりも明らかに大きく、その上、器の淵をはみだすほどの量の具材が入っていた。
「これ、量おかしく――」
 そこまで私が言いかけたとき、店主は人差し指を口に当てて、にかっと笑った。店主はそれだけすると、新たに入ってきた客の対応へ向かった。
 あんないい人からはいい人が生まれるだろうな、と思って実際そうだったことに気づく。 
「本当いい人ですね」
「本当だね」
「じゃあ、食べましょうか」
「うん。そうしよう」
 大きな黒の器から具材を鉄板に落とす。それを二人で夢中になってコテで細かく刻んだ。『もんじゃの作り方』とこれまた達筆で書かれた紙に従いながら、水分が飛んでしなしなになった具材をドーナツ状に並べる。その中心に汁を垂らす。ジュウっと気持ちいい音が聞こえる。具材の隙間から汁が逃げて私たちは慌てながら汁を中心に押し込むが結局諦めて、すべて混ぜた。
 それでもちゃんと美味しくて私たちは声を揃えて感嘆した。
 それから頼んだお好み焼き二つとサービスのもう一つを平らげ、私たちはお腹も心も満たされた時間を過ごした。不機嫌そうに見えた祐樹くんも食べ始めてからは終始笑顔で、きっとそう見えたのは気のせいだった。
「「ごちそうさまでした」」
「おう、また来てな!葵ちゃん!祐樹!」
 店主は外まで顔を出してダイナミックに激しく左右に手を振った。私たちが駅に向かって歩き出しても、後ろを振り返ると店主は手を振っていた。しばらくすると、中にいる客に呼ばれたのか「はいよ!」と言って店の中へ戻ってきた。
「美味しかったね」
「はい。また来たいです」
 また同じ大通り沿いを通って駅まで歩く。私たちはオレンジ色の夕陽に照らされて、後ろの歩道には長い影ができた。空は暗くなり始め、薄っすら星が見える。横を車が通り抜けたとき、そういえば行きも帰りも祐樹くんが車道側を歩いてくれていたことに気が付いた。
 住宅街は遠のき、徐々に景色は都会に染まっていく。私たちは商業ビルの群れに囲まれる。そしてその隙間に、小さな公園を見つけた。
「ねえ、あそこで少し話さない?」
 私はベンチを指さした。
「夜になるとちょっと寒いですね」
「そうだね」
 ベンチに座ると、肌寒い風が頬を撫でた。その風は秋の予感を孕んでいる気がした。
 少し話そうと私が誘ったくせに、喋りだせないでいた。静かに時間が流れて、初めて二人で遊園地に行った日のことを勝手に思い出した。私は喋り出すタイミングを失い、間を埋めるために凍えた腕をさすった。その静寂を切り裂いたのは祐樹くんだった。
「葵先輩って」
 祐樹くんはそこで言葉を止めた。
「何?」
「やっぱり何でもないです」
 祐樹くんはそっぽを向いたから、私は「気になる」と彼の顔を覗き込んだ。すると祐樹くんはまた顔を逸らした。私が覗き込もうと何度も顔の位置を変えていると、祐樹くんは四回目で逃げるのを止めた。
「葵先輩って晃先輩のこと好きだったんですか?」
 頭の中に疑問符が浮かんだ。祐樹くんがどうやってその結論に至ったのかわからなかった。
「なんで?」
「葵先輩、俺と付き合ってくれた日、元気なかったじゃないですか。その日がちょうど晃先輩が付き合い始めた時期と重なるって同期から聞いて」
 妙に鋭くてどきりとした。晃先輩が付き合い始めた時期というのは、当然ながら美玖が付き合い始めた時期と等しい。女の子が男の子を好きなる、という先入観さえなければ、祐樹くんは私の心理を見事に言い当てたことになる。
「今日、晃先輩の話するとき、すごい楽しそうだったから。もしかしたらと思って」
「あ、だからちょっと今日機嫌悪く見えたの?」
 言ってからデリカシーのない言い方だったかなと口をつぐんだが、もう遅かった。
「すみません。自分ではそんなことないと思ってたんですけど、俺、意外と嫉妬深いのかもしれないです」
 日は沈み、さっきまであったオレンジが消えてなくなっていた。その代わりに祐樹くんの顔が赤みがかっているのが、公園を照らすわずかな灯りでも分かった。
 決別のため。それが祐樹くんを晃先輩の実家へ連れてきた理由だった。晃先輩が育ったあの場所で、彼に嫉妬することなど忘れて祐樹くんと食事を楽しむことができれば、私たちはきっとうまくやっていける。そんな自信が持てると思った。だから私は晃先輩の名前を言ってみた。その名前に負の感情を乗せないように、わざとらしく、楽しそうに彼の名前を言ってみた。
 その私の行動が、祐樹くんの嫉妬の原因になっていたのかと気づいた。
「違うよ」
 私がそう言うと、祐樹くんはほっとした表情を浮かべたのが横顔で分かった。次に来た沈黙は私が破った。
「あのさ!」
 思ったよりも大きな声が出て、祐樹くんは私を見て少し驚いたような顔をした。私は恥ずかしくなって声を落とした。
「ずっと気になってたことがあるんだ」
「何ですか?」
「祐樹くんはどうして私のことを好きになってくれたの?」
「突然ですね」
 私が祐樹くんの目を見つめ続けると、彼はその真っすぐな目を逸らした。そしてもう一度彼の目が私の目を見た。祐樹くんは一回深く呼吸をして口を開いた。
「葵先輩のこと知りたいって思ったんです」
「知りたい?」
「普段葵先輩って自分の気持ちを押し殺してるように見えて。何か辛そうなときに無理して笑ってるように見えるときとかがあって、本当はこの人何考えてるんだろうって思ったんです。もしそれが正しくて、無理して笑ってるなら、俺が助けてあげないとって。そう思ってたら、どんどん先輩のこと知りたいって思うようになって、気づいたときには好きになってました」
 曇りない眼で祐樹くんは私の目を見つめた。
 私は少し驚いた。ずっと一人だと思っていた。親友のことを好きになって誰にも相談できずにいた。誰にも気づいてもらえないと思っていた。祐樹くんは心のうちに留めていたの孤独の存在に気づいてくれていたのか。そう思うと胸が無性にあったかくなった。
「葵先輩はどうして俺と付き合ってくれたんですか?」
 祐樹くんが聞いた。
 私はその答えを用意してきた。それが正しかったと今確信した。
「こんなに真っすぐ私を好きでいてくれる人だったら――」
 最初は心の傷を癒すためだった。でも今は違うと思える。
「祐樹くんだったら私を幸せにしてくれるかなって思ったの」
 この言葉は嘘じゃない。祐樹くんはきっと私のことを幸せにしてくれる。
 今日、晃先輩に嫉妬なんてしなかった。ただ祐樹くんといるのが楽しかった。一つ一つの思い出が祐樹くんを運命の人に変えていく。私も祐樹くんの運命の人に変わっていく。私たちはきっとうまくやっていける。
 祐樹くんの口角が暗闇の中で小さく上がった。私の口角もきっと上がっている。
「祐樹くん、敬語やめにしない?」
「いいんですか?」
「だって恋人同士でいつまでも敬語っていうのも変でしょ?」
「分かりまし……、あ、分かった」
 照れくさそうに言う祐樹くんの表情が、愛らしく思える。
「ねえ、祐樹くん」
「なに?」
「キス、したい?」
「へっ!?はっ!?」
 祐樹くんは分かりやすく戸惑う。その姿に私は微笑して、そのまま目を閉じた。
 温かな感触が唇に触れた。
 顔を離して目を開けると祐樹くんは顔を赤くして目を逸らした。その仕草を愛おしいと思った。
「な、なんか照れくさいですね」
「あ、また敬語」
「ほんとだ」
 二人で笑いあった。
「祐樹くん」
「なに」
「好きだよ」
 私は、初めて人に好きだと言った。

 家の建付けの悪い門扉は、いつもよりも軽く感じた。
 玄関と廊下を抜け、リビングに入る。リビングの扉は少し重たかった。中で、お母さんはソファに寝転がりテレビを見ている。いつも通りの光景だった。そんなお母さんにいつも通り「ただいま」と声をかけた。
「おかえり。ご飯いらないっていうから葵の分作ってないけど」
「うん。食べてきたから大丈夫」
「ふーん。それならよかった。何食べてきたの?」
「お好み焼き」
「あら、もしかして前言ってた先輩のお店?」
「そう。晃先輩のお父さんがやってるお店」
「美味しかった?」
「うん」
「それなら私も今度行ってみようかしら」
 お母さんはそういうと、またテレビに集中し、お笑い芸人の漫才を見て鼻で笑った。話している間、お母さんは一度も私の方を見なかった。私がお母さんに初めてちょっとした反発をしてしまってから、彼女との距離感を妙に意識するようになった。お母さんは私のあの小さな反逆を、ただ私が少しイライラしていただけだと捉えたのだと思う。あれから少しの間、気まずくなることもあったが、気づけば元の関係性に戻った。正確にいえば、元の関係に戻ったとお母さんは思っているのだと思う。だけど私の口の中にはまだあの時の渋味が残っている。
 私は自分の部屋に戻るため、廊下に足をふみいたところでふと立ち止まった。廊下の方から私は顔を出して、お母さんの姿を見ると、彼女はまだテレビに夢中になっている。そんなお母さんを振り向かせたくなって、私は「お母さん」と口に出した。
「何?」
「私、恋人できた」
 ソファでテレビを見ていたお母さんは、俊敏に振り返った。ソファの背もたれに手を置いて、乗り出すようにリビングと廊下の間に立つ私の方を見ている。
「葵、今なんて言った?」
「恋人ができた」
 その言葉を確認するとお母さんの表情はみるみる明るくなった。
「そう良かったわねえ。お父さんと一緒に心配してたのよ。孫の顔が見れないんじゃないかって」
「もう失礼じゃない?」
「もしかして、今日ご飯一緒に行った子?」
「うん」
「どんな子なの?」
「バレー部の後輩の子だよ」
「あら、やるじゃない葵」
 お母さんは顔の皺がくっきりと浮き出るほど大きく笑った。この人もこんなに笑うのかと、初めて知った。その時玄関の扉が開く音がして、廊下の方からご機嫌な鼻歌が聞こえた。
「ただいま~」
 廊下の暗がりからお父さんが現れた。
「おかえり」
「お、どうした葵?こんなところで立ち止まって」
 私はリビングの方へ一度避けて、そこをお父さんが通り抜けた。
「お父さん、今日帰るの早いね」
「ようやく仕事がひと段落してなあ」
「よかったわねえ」
「あれ、お母さん今日機嫌よくないか?」
「うふふ」
「なんだよ。少し気味が悪いぞ」
「ちょっと失礼ねえ」
 お父さんはスーツをハンガーにかけて、ネクタイを外しながら言うと、お母さんは皺をくっきりとさせたままキッチンに去っていく。お父さんは困り顔で私を見て肩をすくめた。すると、キッチンの方からお母さんの声がした。
「お父さん聞いて、葵に彼氏ができたんですって」
「お、そうなのか葵」
「もう、お母さん。勝手に言わないで」
「ごめんね葵、つい嬉しくて」
「どんな子なんだ?」
「バレー部の後輩なのよねえ」
「お母さん!」
 キッチンの方から、お母さんはお父さんのごはんを机に運んでくる。お父さんはご飯が並べられた近くの椅子に座って、「うまそうだ」と呟いた。
「葵、彼氏できるのは初めてか?」
「うん」
「そうか。そいつはちゃんとした男か?」
「すごくいい人だよ」
「もし変な男だったら俺がぶっ飛ばしてやるからな」
「ちょっとお父さん」
 お父さんはシャツの腕をまくってファイティングポーズをとって、もう一度ごはんを運びに来たお母さんがそれをなだめた。
「今日、赤飯はないのか?」
「もうお父さんからかわないで」
「彼氏と食べてきたからいらないわよねえ」
「お母さんも」
 わざとらしく、怒って見せても、ぷっと笑ってしまった。
「今度二人に紹介するね」
 それだけ言って、私は自分の部屋に戻った。
 私に彼氏ができただけで、この家はこんなにも明るくなる。温くて幸せな家庭。会話と笑顔に溢れて、絵にかいたように愛が溢れる素敵な家族。私がこの家の歯車を止めていた。その歯車が、きちんと動き出して本来の姿に戻った。
 私のことを好きになってくれた男の子と一緒になる。これがみんなが幸せになれる唯一の方法だったのだ。
 これでいい。
 これでいいんだ。