これは、私と彼女の不思議な物語。

 「マイー、準備できた?」
「うん、ばっちり!」
生徒会室の扉付近から声をかけてくる友人にそう返事をしてから、近づいていく。
放課後ではあるけれど、廊下は同じ制服に身を包んだ生徒たちであふれている。
「あっ、クシロさんお疲れ様」
「マイちゃん頑張ってねー」
廊下を通過するだけでそんな声がどこからか聞こえてくる。
「ありがとー!」
笑顔を浮かべて返事をしながら、私は手に抱えたクリップボードに視線を落とす。そこには、ブラック校則廃止への署名の文字。
さて、今日も署名集めをやるとしますか。

 私、クシロマイは光丘中学2年生。自分で言うのもなんだけど、友達は昔から多いほうで、現在は友人の推薦から生徒会に所属している。
私の毎日は結構充実しているほうだ。

 「…ふぅ」
水飲み場付近の壁によしかかりながら、一息をつく。
ずっと立っていたのもあって、足が少し重たい。
署名は大分集まった。そろそろ帰ってもいいころだけど…。
窓の外にうつる夕焼けを見ながら考える。
家に帰ってもどうせ…。
その時、ふと目の前のベンチに縮こまりながら座る女の子がいることに気が付いた。
あれ、あんな子いたっけ…?
一人、どこかおびえた様子を見せる女の子にはなぜか見覚えはなかった。
それに何か違和感を感じる。
年は同じくらいには見えるけど…。
まぁ、いいか。
そう思い、女の子に近づく。
「あの、すみません。ちょっといいですか?」
しかし。
「…。」
女の子は聞こえていないのか、何も言わない。
「あの、すみません。…あの!」
「…へっ!?わ、私?」
「あ、はい」
その女の子はオドオドしており、みた感じは自分とは真逆。
しかもなぜか声をかけられたことに、ひどく困惑していた。
なんでこんなに困惑しているのだろう?
その困惑に、疑問感を抱きながらも私はボールペンをボールペンを手に取った。
「あの、署名に協力してもらえませんか?」
「あ、はい…」
困惑した目つきをしながらも、小さく頷いたので手の中のボールペンを女の子に渡す。
が、
カンッ!
ボールペンが私の手から離れた瞬間、そのまま落ちていった。
女の子の手にも触れずに。すり抜けて落ちてしまった。
「えっ…」
すり抜けた…?
目の前で起きた状況が信じられなくて頭が混乱する。
まさか。見間違いに決まっている。
そう思い込もうとした瞬間、廊下にいた友人の声が聞こえた。
「マイー?一人で何してるの?」
「え」
一人?だって、私の目の前には。
その瞬間、女の子にずっと感じていた違和感の正体がはっきりと分かった。
体が、透けてる。まさか、幽霊!?
「い、いやぁぁぁぁー!」
目の前の女の子が見えてはいけないものだと気がついた私は悲鳴を上げながらその場を離れた。

 「はぁ…、ただいま」
重たいため息をつきながら、玄関に座り込んでスニーカーを脱ぐ。
幽霊って、現実にいたんだ。
しかも、私が見える人だったなんて…。
さっきの光景を思い出すだけでゾゾっと背筋が凍る。
もう、思い出すのはやめよう。きっとあれは夢だったんだ。
そう思いこみ、立ち上がった瞬間声が飛んできた。
「マイ、遅かったわね。また生徒会?」
それは、ワイシャツに黒いロングスカートという服装に身を包んだ母親だった。
「…別に」
「ご飯は?もう出来てるよ」
「…後で食べるからいらない」
「でも、今日はお父さんの」
「うるさいな!あんたが簡単にお父さんのこと言わないでよ!」
そう叫んで、階段を上がり、そのまま自分の部屋の扉を勢い良く閉ざした。

 
 数日後。
「…はぁ」
生徒会室の机に突っ伏して、そんな息を吐く。というか、吐いてしまう。
…困った。
「どうしたの?マイがため息吐くのって珍しい」
「あぁ…。うん、まぁ色々あってね」
作り笑顔を浮かべながら、そんな返答をする。
「ふぅん。…あ、私ちょっと職員室行ってくるね」
「うん、わかった」
言えるわけがない。
そう思って、横に視線を移すも。
「…はぁ」
悩みの元凶が目に入ってまたもやため息をついてしまう。
なんで…。
あの女の子を見かけてからのこと。
なぜかあの女の子に付きまとわれるようになってしまったのだ。
家でも、学校でも、道端でも。
それも、何か話すわけでもなく、ただいるだけ。
そして、今も。さすがに見慣れてもう驚くこともなくなったけど。
生徒会室の隅でうつむきながらたたずむ少女を見てふつふつとした疑問感が沸き上がる。
なんで、少女は私についてくるのだろうか?
幽霊が見えるとでも思われたのだろうか?
うぅん…。
もう、こうなったら…!
周りには誰もいない。なら今がチャンス!
我慢できなくなった私は少女に声をかける。
「あの、名前、聞いてもいいですか?」
「えっ、あ、私ですか!?」
幽霊らしくない、オーバーリアクションをみせる。
なんか、近くで見ると全然こわくないかも。
相変わらず透けてはいるけど。
「そうです」
なんだか段々と冷静になってきた。
幽霊に話し掛けるなんて、普通に考えたらありえないことだけど。
ていうか、幽霊に名前ってあるのかな?
「え、えっと…」
女の子はびっくりした表情を浮かべたままながらも答える。
「ヒライリンと言います」
小さな声ながらも、よく通る声だった。
「私はクシロマイです。えっと…リンちゃん、でいいですか?」
「あっ、はい」
「リンちゃんはどうして幽霊になったの?」
言ってから気がついた。
なんて質問なんだ、と。
こんなこと、幽霊に聞くもんじゃない。デリカシーのカケラもないじゃないか。
しかし、リンはそんな私の心配もよそに意外にも答えた。
「あの…、私、幽霊では無いと思うんです」
「っ、えっ?」
どういうこと?
疑問が頭の中を一斉にかけめぐる。
幽霊じゃない?思うんです?
「えっと…」
何も言葉が出てこない。自分で聞いておいてだけど。
そんな私を見かねてか、リンは静かに口を開いた。
「…私、つい数日前までマイさんのように、なんというか、普通に生活していました。学校行ったり、家族と過ごしたり。だけど、ある日突然、目が覚めたら自分のからだが透明になっていたんです。それから、私はみんなから見えないようになって、まるで幽霊みたいな体質になってしまったんです。だから、はじめてマイさんに話しかけてもらったとき、すごくびっくりしてしまって…」
なるほど。はじめて出会ったときにあんなにオドオドしてたのはそのためだったのか。とはいえ…。
「自分でも気が付かない間に事故とかに合って、幽霊になったっていうこともあるんじゃない?」
人間が突然透明になるなんてあり得るのだろうか?幽霊だって、信じれる話じゃないけど、人間が透明になるほうが信じられない。
だけど、リンは首を横に振った。
「その可能性もあると思って、見えなくなってからその日の事故や事件の情報は調べたんです。でも、私らしき人が亡くなった情報はありませんでした。それに…、なんだか景色が違う気がするんです」
「景色が、違う?」
「はい、なんて言えばいいのかわからないですが…。厳密に言えば、学校とか街の風景とか見えるものは同じなんです。ですが、人が、違うんです。私が生まれ育った街とは、住んでいる人が違う。同じ街のはずなのに…」
リンが話しながら、次第に下を向いていく。
そこには確実に重たい空気が漂っていた。
どうしたら…。
言葉が出て来なかった。
リンはずっと、孤独と戦っていたのかもしれない。
わからない理由で。わからない場所で。
それはどれだけ辛いものだったのだろうか。
そう考え、唇を噛み締めているとリンが顔を上げた。
「お願いします!私、元に戻りたいんです!図々しいお願いですが…。協力してくれませんか!?私、誰からも見えなくて。マイさんだけが頼りなんです!お願いします」
必死な顔で、リンが頭を下げた。
その声は、かすかに震えていた。
私は…。
考えるよりも、先に言葉が出た。
「分かりました。私にできることなら、協力します!」
そう言った瞬間、リンの顔がぱあっと輝いた。
「本当ですか!?ありがとうございますっ!」
後から思えば、私は同情からリンに協力を申し出てしまっていたのだろう。
リンの抱えるその本当の辛さなんて、知らずに…。

それからというものの、どうしたらリンの手助けをすることができるのか。
それを考えて、とりあえず手始めにリンのことを周りに聞いてみることにした。
「ねぇ、ちょっといいかな?聞きたいことがあるんだけど…」
「あの、すみません。少しお時間いいですか?」
友達から近所に住む人まで、数え切れないほど多くの人に聞いた。
けど…。
「…はぁ」
帰り道の小さな公園の端っこにぽつんと置かれたベンチに座りながらため息をつく。
あれだけ多くの人に聞いたのに、リンの名前すら、知ってる人はいなかった。
「難しい…」
「すみません。なんだかご迷惑をおかけしてしまって」
申し訳なさそうな顔をしながら、リンがうつむく。
「あっ、ううん。全然大丈夫だから!」
「でも…」
「気にしないで。私が決めたことだし、そう簡単に行くとは思ってもないしね!」
そう言って、無理にでも明るく振る舞ってみる。
こうでもしないと、リンはこのままどこか行ってしまうかのような、そんな儚く暗い顔を見せるんだ。
そう、気を抜いてしまった私に似ているような。
そんな顔を。


その後もどうにかリンの謎を解くために色々模索してみたものの、中々難しいことだった。
だけど、それと比例するかのようになんだかリンと過ごす時間はかけがえのない特別なように思えた。
どうしてかはわからないけど、リンとはなんだか似ているような部分が多かった。
そして、リンが自分を頼ってくれていた、それが嬉しくてなんとか期待に応えようとして。
だから、この時は知らなかったんだ。
これから起こる事なんて。

「ふわぁ…」
朝7時。
部屋にはすでにまぶしいほどの日光が入り込んでいる。
そんな部屋で、私は眠気のこもったあくびをしながら、制服に身を包み、教科書類を鞄の中に詰め込んでいく。
えーっと、後は国語の教科書を入れれば…。って。
「あれ?どこやったけ…」
目当ての教科書が見当たらず、あたりを見まわす。
だけど、なかなか見つからない。
「えー!どこだ?」
「あっ、マイさん。これじゃないですか?」
ふと隣からそんな声が聞こえて、首を回す。
そこには、私の足元を指すリンの姿があった。
「あぁ!こんなとこにあったんだ。ありがと」
「いえいえ」
そう謙遜しながらも、嬉しそうに微笑む。
私と出会うまで学校に寝泊まりしていたということを聞いて、だったら家に来れば?なんて言って早2週間。
こんな生活にも慣れつつある。
「…っと、まだこんな時間かぁ。今日はまだゆっくりできそうだ」
そう言いかけて、カバンのチャックを閉めた瞬間、ドアが2度、ノックされた。
それを聞いた瞬間、思わず顔が凍る。
「マイ、そろそろ行く時間じゃない?」
母親の声がドア越しに響く。
「…いちいち来なくていいから」
「…そう。今日はおじいちゃんとおばあちゃんが来るから早めに帰ってきてね。じゃあ、お母さん行くから…」
トーンを落とした、まるで今にも消え入りそうな声でそう言って、それから階段を下っていく音が聞こえた。
「…はぁ」
重苦しい心を無理やり吐き出すため息をして、そのまま後ろのベットに頭を乗せる。
一気に見える景色が重く、暗くなる。
胃に穴が開くような気がする。
「…マイさんは、時々空気が変わりますね。特に、お母さまが来た時に」
ふっと軽く微笑みながら、リンが天井を見つめてそう言う。
リンが家にいるということは、こんなシーンもすでに何度も見られてる。
「まぁ、気が付くよね。でも一応理由はあるわけで」
そう口にして、壁にかかった時計を見つめる。
時間はまだ大丈夫そうだ。
スッと息を吸って、ゆっくりと瞬きをする。
「…うちは元々母親がバリバリ働いてて、父親が仕事をしながらも家事とか私の世話をしてくれていた。まぁ、そういう家庭はほかにもあるだろうし、別にそのことについては何も不満はなかった。不満があったのは一つだけ」
「一つ…?」
リンが不思議そうな顔をする。
その表情に一つ、うなずいて口を開く。
「母親が全く私たちに関わろうとしなかったこと。仕事ばかりで、私や父親と関わろうとしない。帰ってこない日も多くて、ひどいときは一か月以上顔を合わせることもなかった」
お父さんが愛情をもって私に接してくれていたから、寂しくはなかった。
けど、それでもやっぱり周りを見て、どうして私のお母さんは他とは違うのだろうと思ったことも何度もある。
「そして1年半前、父親は病気で亡くなった。入院している間もほとんど母親は見舞いにも来なかった。…私はそれが許せなかった。お父さんが死んでから急に母親ぶって私に関わるようになったことも…っ」
言葉に出すうちに、視界が水浸しになっていく。
たくさんの愛情を注いでくれたお父さんが大好きだった。
そして、その分お母さんのことが嫌いになった。
それは今もずっと。
「…そう、なんですね」
少しだけ気まずそうに、でも嫌なほどではない程度にリンがうなずく。
「ごめん、変な空気にしちゃったね」
「いえ。でもこんなことを言うのもなんですけど、マイさん、なんだかお母さんのことそんなに嫌いそうには見えませんでしたよ」
「えっ?」
それってどういう意味なのだろう。
私は、お母さんのこと嫌いなはずなのに。
その答えを聞くまえに、リンがあっ、と声を上げた。
「マイさん、時間!もうでないと学校送れちゃいますよ!」
「あっ、本当だ!やばい、もう出よっ!」
その言葉でリュックを持ち上げ、私たちはそのまま慌ただしく家を出た。

 「えー、というわけで、これから卒業装飾の作り方を説明します。まず、この紙を半分に折って…」
午後2時半。
いつもは先生がいるはずの教壇に立って、見慣れない景色を見る。
その中で、教壇に置いた説明書を見ながら紙を折っていく。
毎年2月ごろは卒業する三年生に向けての卒業装飾を生徒会が中心となって、生徒たち全員で作ることになっている。
私も今年は生徒会の一員として、みんなに装飾の作り方を教えるんだけど…。
「…で、ここを広げたら完成…ってあれ?」
完成したものをみて首をかしげる。
本来ならば立体的な花が出来上がっているはずなんだけど…。
そこにあったのは、ぐちゃぐちゃになった紙だった。
「マイ、ぜんっぜん出来てないよ」
「うん。それじゃあ説明にもなってないもん」
「うぅ…」
クラスのあちこちから笑い声と共に、そんな不満が出てくる。
不器用だとは常々感じてはいたけど、まさかこんなにだったなんて…。
自分の能力のなさに落胆し、落ち込む。
「でも、どうしよう…。これじゃあ教えられないし…って、えっ」
そこまでつぶやいたところで、手元にきれいな立体の花が置かれていることに気が付いた。
「意外と難しいですね、これ」
それに手を添えながら、隣に立つリンがいつものように微笑んだ。
ていうか、触れたんだ。紙。
そんなことを思っていると、クラスメイトたちが続々と反応した。
「えっ、それめちゃくちゃきれいじゃん!マイが作ったの!?」
「本当だ!やるじゃん」
「じゃあ、さっきのは俺らを和ますためだったとか?」
「なるほどな。じゃあ、もっかい教えてよ!」
「うん、教えて!」
「えっ、」
きらきらと目を輝かせるクラスメートたちを見て、思わずそんな声が漏れる。
そうだ、リンは私にしか見えないからみんな勘違いしてるんだ。
でも、ここで私がつっくたんじゃないって言ってもみんな訳わからないだろうし。
かといって、もう一回教えてもさっきと同じ結末になるのは見えているし…。
うぅ、どうしよう…。
「…マイさん、よかったらお教えしましょうか?一応これでも美術部員だったので」
困っている私を見かねてか、リンがそう声をかけてくる。
「ぜひ!お願いします!」
もう手はないと思い、二つ返事でお願いした。
その私の必至な形相にリンが少し笑って、それからうなずいた。
「わかりました。じゃあ、まず紙を半分に折ります。この時、角と角はなるべく合うように丁寧に折ってください」
「えぇっと…。まず、紙を半分に折る。角と角はなるべく合うように丁寧に」
そう口にして、折っていくとそれを聞いてか、クラスメートたちの手も動いた。
「次に、これをさらに半分に折って…」

 「そして、これをゆっくりと広げていけば…、はい完成です!」
「これをゆっくりと広げて…っと、おぉ!出来た!」
手のひらにのったものを見て、感激する。
そこには、さっきのようなぐちゃぐちゃになった紙ではなく、きちんと花の形をしたものが乗っていた。
「ありがとう、リン!」
私がそう感謝の思いを述べると、リンは嬉しそうな恥ずかしそうな顔をした。
それと同時にクラスからも多くの声が上がる。
「わぁ!出来た!」
「本当だ!めっちゃきれいじゃん」
みんなの手のひらには私と同じく立体的な花が乗っている。
「うん、すっごく分かりやすい説明だった。ありがとう、リンちゃん!」
「えっ…」
そのクラスメイトの声を聞いて、私とリンは顔を見合わせる。
今、リンちゃんって言った…?
「わ、私のことが見えるんですか?」
「えっ?当たり前じゃん」
「そうだよ、何言ってんの!?」
「うん、ちゃんと見えてるって」
リンの言葉に驚きながらもクラスメートたちがそう返していく。
なんで、突然…。
その事実に驚いていると、リンが隣で瞳を潤ませた。
「わ、私、いますっごくうれしいです。ありがとうございます!」
なんか、よくわからないけど…。
「リン、よかったね。元に戻れて」
「はい。マイさんのおかげです。もう、感謝してもしきれません!」
「そんな、大げさな」
そう言って視線をリンから、正面に戻したところで異様な違和感に気が付いた。
周りが、なんか変…?
そこまで考えて、ハッとした。
リン以外の人と目が合わない。
自分の影も見えない。
それに気が付いた瞬間、鼓動がうるさく鳴り響く。
うそでしょ?そんなまさか…。
震えそうになる手を何とかこらえながら、床に落ちているチョークを拾おうと手を近づける。
だが。
「え…」
その手はチョークに触れることができずに、すり抜けてしまった。
そっと、自分の足元に目を向けると、透けているようにも見えた。
まさか、私は…。
「マイさん?どうかしましたか?」
異様な私を見て、リンが心配そうに声をかけてくる。
リンはまだ、何も気が付いていないようだった。
「あぁ…、私、今日は早く帰んないといけないんだった。だから先、帰ってるね」
「え?あ、はい…」
リンに必死に気が付かれないように、無理やり笑顔を作ってそのまま教室を飛び出した。

 外はいつの間にか雨雲で暗くなり、ひどく雨が降っていた。
だけど、それにも気が付かないくらい、私は必死に走った。
まるで、自分の運命から逃れるように。

 私は見えない人になってしまった。
リンが見えるようになった代わりに、私が見えなくなってしまった。
私たちはきっと、一人の人間の体に存在する二人の人格なんだ。
そして、私はきっと偽の人格。
本物が体を取り戻した以上、きっと私はもう戻れることができない。
それでも、あの人ならきっと私の存在に気が付いてくれるかもしれない…。

 「…はぁ、はぁ」
無意識のうちに見慣れた風景が目の前にあった。
数時間までいたはずの自分の家。
家を見た瞬間、こんな状況なのに少しだけ安心感が与えられる。
「…ふぅ」
台風のように荒れ狂う心の中を少しだけ落ち着かせるように、一つ深呼吸をしてから慣れた手つきでドアノブに手をかける。…が。
「…あっ、」
またもやその手はドアノブをすり抜けてしまった。
掴めない。
その事実で簡単に絶望へと落ちそうになる。
雨はまだ降り続いていて、全身はぐっしょりと重たくぬれている。
いつもは遠くに見える鉄塔も、今はぼやけて見える。
「そんな…。どうしたら」
もしかしたらドアをすり抜けることはできるのかもしれない。
でも、それをやってしまえば本当に自分が見えない存在だと認めざるを得なくなってしまう。
それは、辛いんだ。
そこまで思ったとき、玄関横にある窓から家の様子が目に入った。
壁が薄いからか、ほんのり声も聞こえる。
「あっ、ちょっと、お父さん飲み過ぎよ!」
「いいじゃないか、今日くらい。なぁ、みのりもそう思うだろう?」
「あ、みのりにそんなこと聞かないでよ!」
「みのりねー、こへたべたいの」
そこにいたのは、笑顔を浮かべるお母さんとおじいちゃんおばあちゃん、そして叔母さんといとこのみのりだった。
そういえば、今朝来るって言っていたっけ。
外から見ていても分かった。分かってしまった。
笑顔な、幸せな家庭なんだ。
私の存在が無くても、普通に生活して、笑顔が浮かぶ。
じゃあ、私の存在って一体…。
そこまで考えた瞬間、ぶわっと目頭が急激に熱を帯び、辛い感情が波打ってやってくる。
と、その時家の窓が開いているのに気が付いた。
あそこから入れば…!
そう思い、窓まで駆けていく。
窓の大きさは高さ幅共に1メートルほど。
入れない大きさではない。
「…ふっ、」
そんな声を出しながら、足を大きく上げて家の中へと入れる。
そして、そのままの勢いで体をかがめながら全身も…入れることができた。
そのことに一度安心してそのまま家の中を進む。
ただでさえ辛いのに、なぜ家の中に入ったかは自分でもわからなかった。
前進していくと、さっき外から見えた風景がすぐ近くにあった。
みんな、笑いあって、楽しそうに話している。
もしかしたら…。
一筋の希望を夢に見て、「ねぇ!」と一言声を出す。
その声は涙で震えていた。
でも、その声に返答するものはだれもいなかった。誰とも目が合わなかった。
いつも私の目を見て話そうとしてくれるお母さんでさえも…。
家の中の様子はいつもと変わらないのに、私の存在はここにはない。
耐えられなくて、みんなのいるリビングを出て階段近くの壁に体重を預ける。
そうか、リンはいつもこんな感じだったんだ…。
私、全然わかってなかった。
ただなんとなく同情して、簡単に協力するとか言って。
リンの辛さを勝手にわかったふりをして。
リンは本当はもっとつらかったはずなのに…。
「…っ、」
涙をなんとかこらえようと、上を見上げた瞬間、リビングから母親が出てきた。
そのことに一度大きく心臓が跳ね上がる。
だけど、私の前を素通りして階段の手すりに手をかけた。
やっぱりお母さんからは私の姿は見えていないようだった。
私の存在も、もう忘れてしまっているのかもしれない。
階段を上っていくお母さんの背中を見ながら、震える唇をかむ。
もう、一生この背中に触ることすらできないんだ。
だったら、もっとちゃんとお母さんと話せばよかった。
私、本当は知ってたんだ。
仕事で忙しいのに、私のことを思って学校で使うバックやマフラー、上履き入れを毎年作ってくれてたこと。
お父さんが入院した時には、私に気づかれないようにしながら毎日お見舞いに行っていたこと。
お父さんがいなくなって落ち込んでいた私を励まそうと思って、仕事を変えていろんなところに連れていってくれたこと。
毎日、お父さんの仏壇に手を合わせていること。
全部、全部知っていたのに、なんで素直になれなかったんだろう…。
「…っつ、うぅっ」
こぼれ出た大粒の涙は、天井にある蛍光灯の照明を受けて、それは白く透明に光った。
その瞬間だった。
「…えっ、」
お母さんが私を抱きしめた。
正確には、抱きしめたといっても本当に触れているわけではい。
けど、お母さんの腕の中に私はいた。
「どうして…」
「…なんでかわからないけどね、なにかすごく愛しい存在がいるような気がするの」
気づいてくれた。
見えないはずなのに。
ひどいこといっぱいしたのに。
やみくもに涙があふれだす。
「…っつ、お母さん!」
そう言った瞬間だった。
お母さんと目があった。
偶然なんかじゃない。しっかりと、目があった。
そして、
「マイ…?」
お母さんに話しかけられた。
今、話しかけられた…?
その事実に驚きながら、震える手をゆっくりとお母さんの肩に添えた。
その手はすり抜けることなく、しっかりと肩の硬い感触をつかんだ。
もう感じられないと思っていたその感触が、手から全身へと伝わってくる。
戻ったの?
私、見えるんだ。
もう、一人じゃないんだ。
「…っ!」
それに気が付いた瞬間、全身からうれしさがこみ上げてそのまま目の前のお母さんに抱きついた。
安心できるぬくもりが伝わってくる。
お母さんの腕の中でこんなに泣いたのは、お父さんが死んだとき以来だった。

 「…落ち着いた?」
「うん、ありがとう」
お母さんのその言葉に短く返答して、ミルクの入った温かいそのマグカップを机の上に置く。
あれから、涙が止まらない私をずっとお母さんは見守ってくれた。
おじいちゃんたちには、とてもじゃないけど会って話せるような状況じゃなかったので今日は帰ってもらうことになった。
「それで、何があったか教えてくれる?」
「うん。実は…」
私はこの数日の出来事をすべて話した。
ある日、見えない存在だったリンと出会ったこと。
見えない理由を探している間に仲良くなったこと。
今日、リンが見えるようになった代わりに私が見えなくなってしまったこと。
そして、私がまた見えるように…。
そこまで話して、ハッとした。
「リンは!?私のせいで、また見えなくなったのかもしれない!」
「ちょ、マイ!?どこに行くの?」
お母さんの言葉も振り切って、私はまた学校へ向かって、来た道を駆け抜けた。
雨はいつの間にか、もう上がっていたけどそんなことも気にならないくらい私は必死で走った。

 「リン!」
学校に着いた瞬間、そんな声を出して首を回転させる。
だけど、どこにもリンの姿は見当たらなかった。
リン…。どこにいるの!?
しびれを切らして、下校しようと廊下を歩く生徒に声をかける。
「リン、どこにいるか知りませんか!?ヒライリン!」
「えっ…。聞いたことない子だけど…」
私のその勢いに圧倒されながらも、首をかしげた。
隣に立つ生徒もうんうんとうなづいている。
「そんな」
すると、さっきまで一緒にいたクラスメイトの一人が廊下を歩いているのが見えた。
同じ教室にいたんだもん。
あの子なら、知ってるはず!
「ねぇ!リンのこと知ってるよね!?さっき花の作り方教えてくれた」
「…リン?知らないけど…。作り方を教えてくれたのはマイだったよ?自分で忘れちゃったの?」
そう言って、不思議そうな顔を浮かべて廊下を再び歩いて行った。
「じゃあ、リンはまた…」
私のせいでリンはまた見えない存在になってしまったんだ。
『わ、私、いますっごくうれしいです。ありがとうございます!』
涙で瞳を潤ませながら、そうとびっきりの笑顔を浮かべたリンを思い出す。
私は、あの笑顔を奪ってしまったんだ。
心が締め付けられたみたいに苦しくなる。
「リン…」
「はぁ、はぁ…。マイ、お母さんの話を聞いてくれる?」
後ろからそんな声がして振り向くと、そこには膝に手を当てて息を切らすお母さんの姿があった。

 「はぁ…。マイ、足速くなったわね…」
「そうかな」
「じゃあ、お母さんの体力が落ちたのね…」
木製のベンチに腰を掛けながら、お母さんがそうつぶやく。
あれから、人気のない場所まで移動してきた。
そういえば、リンと初めて出会ったのもここだったっけ。
そう思い出に浸っていると、お母さんが大きく深呼吸をして、声を出した。
「この町にはね、ある逸話があるの」
「逸話?」
こんなところまで追いかけてきて、何を話すのかと思ったら…。
逸話?
話の展開が見えなくて困惑する。
「えぇ。世界には、私たちが住む次元と、もう一つ、別の次元があるといわれているの。どちらの次元もルールや、見た目など別に違いはない。まぁ、次元が違うからそれを知る事すらないんだけどね。ただ、その二つの次元がまれに何かのきっかけで一瞬交差してしまうことがあるの。そして、交差した瞬間、ある選ばれし一人の人間の体にそれぞれ別の次元の二つの魂が存在することになる。その過程で体に二つの魂が交互に入ったり、出たりすることがあるの。出た方は幽霊のようになってしまい、自分と同じ体を使用してる人以外からは見えなくなってしまう。これはつまりあなたたちのことなのよ」
「えっ…」
あまりにも現実離れした話で、とてもじゃないけど信じられなかった。
二つの次元。それが交わった瞬間に、一つの体に二つの魂が入ってしまうだなんて。
でも、私たちが見えない存在になったり、見える存在になったりしたのは現実の出来事だ。
それを考えれば…。
「信じるしかない…」
その私のつぶやきにお母さんはこくりとうなずいた。
「誰が選ばれるのかは、ランダムに決められる。だから、本当は出会うはずのないあなたたちが出会ったのは、言ってしまえば運命だったのかもしれないわね」
「運命…」
その言葉は、どうしてかは分からないけどすぐに納得できた。
そうしてそのまま私の心にスッと入っていった。
「それにね、一定時間経てば次元の重なりは自然にもとに戻るの。だからリンちゃんは、きちんと見える存在になって、もう元の次元に戻ったんじゃないかな」
「そうなんだ。よかった…」
リンのことを考えて、安心してほっとするのと同時に、寂しさが波のようにやってくるのを感じる。
リンはいつまでたっても、丁寧語が抜けない真面目でやさしい女の子で、でもよく恥ずかしがりながらも笑みを見せてくれた。
最初は正反対とか思っていたけど、今思えば私たちはたくさん似ていたと思う。
ちょっと気が抜けているところ。お互いに国語が好きなところ。目元にほくろが二つあるところ。
リンとの時間はいつだって楽しく、笑顔に満ちてた。
その分、今は…。
まるで胸の奥にぽっかりと穴が空いたようだ。
何かが足りない。
そのさみしさにグッと上くちびるをかみしめる。
「リン…」
リンと過ごした街並みを目に焼き付けておこうと、立ち上がって後ろの窓に視線を向けた時だった。
「わぁ…」
空を見上げるときれいな虹が出ていた。
きれいに七色に分かれている。
真っ青な空に架かるその姿は、なんだかとても幻像的だった。
「この虹、リンも見てるかな…」
自然とそう口にすると、なんとなく笑顔で空を見上げるリンの姿が浮かんできた。
その姿を想像すると、さみしいはずなのに勝手に笑みがこぼれてくる。
「あ、いたいた。マイ!」
そんな声が聞こえてきて、体の向きを変える。
そこには、縦横1メートルほどのなにか大きなパネルを持ったクラスメイト達の姿があった。
「あ、みんな…」
「探したんだよ~。見てほしいものがあってさ」
「見てほしいもの?」
そう聞き返すと、クラスメートたちがニコニコとしながらパネルを見せてきた。
「あっ…」
そこにはさっき作った色とりどりの花々が並べられていて、そしてとてもきれいだった。
リンが教えてくれたもの…。
「装飾がさっきできたから、マイに見てほしくって!マイ、いろいろ教えてくれたでしょ?」
「…うん、すごくきれいだと思う」
リンの想いや気持ちが、ここにはたくさん詰まっているような気がした。
リンと出会えてよかった。
リンとの思い出はこの胸にずっとあるんだ…。
そう考えると、自然と笑顔が浮かんだ。
「リン、ありがとう」
その笑顔はリンにもきっと伝わった気がした…。

 私はこの物語のような、日々を決して忘れない。
リンが教えてくれたこと、過ごした日々、大切なものがたくさん詰まっているから。