第三章『夜光虫夢』


 紙上に綴られた文字が形を帯び、色と光と湿度と質量を持ち。役者たち一人一人の感性で物語は完成していく。同じ演目内容でも完全な意味での〝同じ〟演劇は二度と見られない。その日のコンディション、天気、体調、演じるキャストが変われば受け手の解釈も変わるに決まっている。
「ご依頼されていた資料一式、ここに置いておきますね」
 アシスタントの一人が段ボールを置いていく。一心不乱に原稿を埋めてから数分後、不意に漂ってきたコーヒーの香りでようやく意識が現実へと浮上した。いつから注がれていたのか、スタッフの誰かが用意してくれたらしい。黒い陶器が窓からの光を浴び、マネキンのように完成された図式を提示してくる。
 時計の時刻は深夜0時半、書いて寝て。劇作家として現場に指導を入れながら、また書いていく。この十数年ただひたすらに『書く』ことしかしていなかった。一般事務や重労働に勤しむ人間から見れば羨ましいと思うかもしれないが、実際は逆かもしれない。『これをやってくれ』とあらかじめ指定された業務がない、『ここまでやれば大丈夫』というボーダーラインもない。すなわち、己の力量一つで成功も失敗も左右する。ギャンブラーと大差ない仕事だ。
「……」
 本棚をびっしりと埋め尽くす書籍は、若い頃から今日に至るまでに自分が買い漁り、これまでの戯曲の土台となった物語だ。フィクションもあれば実話を元にしたドキュメンタリー風の小説、自叙伝に研究論文も。
 最初、アシスタントから始まり現場を汗水垂らして駆け回っていたあの時代は。ごくわずかな余暇や空き時間を使って純粋に書きたい物を書いていた。その根底は今も変わっていないが、絶対に揺るがない『要素』が、ある瞬間より脚本に追加された。それは誰もが憧れる輝きであり、誰もが決して手に入れることのできない事実でもある。
言葉遊びのようだが真実だった。少なくとも俺の中では。
「できた」
 『洞窟の星』、『偶然の輪』、『Pride』……己の手で生み出してきた戯曲たち、もっと時間を費やせば無限に思い出せた。公演の情景一つ一つを、その時の劇場の雰囲気を、観客と役者たちの表情を。どれもその瞬間において最高の過去だと思う、だがそこに甘んじて思い出に浸るつもりは微塵もない。