プロローグ
多くの国を巻き込んだ世界大戦が起き、その戦争は各国に甚大な被害と悲しみを生み出した。
それは日本も例外ではなく、大きな被害を受けた。
復興には多大な時間と労力が必要とされると誰もが絶望の中にいながらも、ようやく終わった戦争に安堵もしていた。
けれど、変わってしまった町の惨状を見ては悲しみに暮れる。
そんな日本を救ったのが、それまで人に紛れ陰の中で生きてきたあやかしたち。
陰から陽の下へ出てきた彼らは、人間を魅了する美しい容姿と、人間ならざる能力を持って、戦後の日本の復興に大きな力となった。
そして現代、あやかしたちは政治、経済、芸能と、ありとあらゆる分野でその能力を発揮してその地位を確立した。
そんなあやかしたちは時に人間の中から花嫁を選ぶ。
見目麗しく地位も高い彼らに選ばれるのは、人間たちにとっても、とても栄誉なことだった。
あやかしにとっても花嫁は唯一無二の存在。
本能がその者を選ぶ。
そんな花嫁は真綿で包むように、それはそれは大事に愛されることから、人間の女性が一度はなりたいと夢を見る。
婚姻し本当の伴侶となった花嫁。
けれどそれで終わりではない。
むしろ始まりなのだ。
伴侶となったことで、いや、伴侶になったからこそ多くの苦難が襲うだろう。
一章
柚子の目覚めは、スマホのアラーム音とともに、つい一週間ほど前に夫となった玲夜の腕の中で始まる。
目を開いた柚子の前には、すでに目を覚ましている玲夜の綺麗な顔がある。
柚子が目覚めるのを待ち構えていたように微笑む表情は、朝から破壊力抜群だ。
精巧に作られたように一片の欠点もない玲夜の容姿にはさすがに慣れたが、朝一番の微笑みはやはり柚子もまだ激しく心臓が動いてしまう。
まだまだ修行が足りないようだ。
「おはよう、柚子」
「おはよう……」
蕩けるような甘い眼差しに、柚子は直視できずに玲夜の胸に顔を埋めて視界を遮る。
だが、恥ずかしさを紛らわせる柚子の行動は甘えているように見えたのか、ただ玲夜を喜ばせただけであった。
柚子を引き寄せた玲夜の腕に力が入り、互いの鼓動が聞こえるほど近くぴたりと体を寄せ合う。
つい先日披露宴も無事に終えた。
あらかじめ招待客のリストには目を通していたので、人の多さは分かっていたはずなのだが、いざホテルで一番広い大広間を埋め尽くす人の視線が一斉に向けられた時には逃げ出したい衝動に駆られてしまった。
全体の招待客を比べてみると、柚子より玲夜──鬼龍院家関係の客がほとんどだった。
鬼龍院というあやかし界のトップであり、日本経済を支える大会社の関係者というだけあり、呼ばれた人たちは皆上流階級の人たちばかり。
中にはテレビや新聞でよく知るような経済界政界の重鎮などもいて、花嫁である柚子を値踏みするように見つめてくるのだ。
中にはあからさまな敵意を感じる視線を向けてくる者も。
それらはほとんど女性からである。
理由は言わずもがな。玲夜の隣に立つ柚子が妬ましいのだろう。
完全アウェーな空間に泣きたくなるのをぐっとこらえる柚子を落ち着かせたのは玲夜の言葉。
「気を楽にしていたらいい。これは柚子が俺のものになったと惚気るための儀式なんだから」
吐息とともに『俺の柚子』と耳に囁かれれば、もう玲夜以外のこと考えられなくなってしまう。
玲夜は柚子を落ち着かせようと思ってのことだろうが、その行動は最大限の効果を発揮した。
おかけで緊張がほぐれ、玲夜の言う、惚気るためのふたりの披露宴を楽しむ余裕ができた。
玲夜も始終穏やかな表情で柚子を甘く見つめるので、冷徹な玲夜しか知らない人たちは彼の態度に対して驚いている者も多くいたと、式の後に玲夜の母である沙良から楽しげに教えられた。
沙良も息子の門出を大いに喜んでいたようだ。
それとともに、新たに義理の娘となった柚子のことも温かく迎え入れてくれた。
「これで名実共に柚子ちゃんの母親になったんだから、これからはお母様って呼んでね」
そう笑いかけられた柚子は、披露宴の間には浮かんでこなかった涙が込み上げてきた。
柚子の祖父母は呼んだが、本当の両親は結婚式には呼んでいない。
呼べるはずがなかった。
娘を犠牲にしてでも自分たちのことを優先させる両親には愛想が尽きてしまったから。
きっともう会うことはないだろう。
だからこそ、沙良が自分が母親だと言ってくれたことが嬉しくてならない。
柚子へ向ける眼差しに、確かな母の情が映っているように感じたから。
ともあれ、無事に夫婦となれた柚子はそのまま新婚旅行に──というわけにはいかなかった。
ただでさえ鬼龍院という大会社の社長をしている玲夜は忙しく、にもかかわらず最近は式や披露宴の準備を時間を作るために仕事の方がおろそかになっていた。
結婚をするために溜めてしまった仕事を裁くため、結婚式と披露宴の翌日も普通に仕事に出かけてしまった。
もちろん、この日もである。
本当はこのままベッドの上でまったりとふたりの時間を過ごしていたかったのだが、新婚気分は終了だと告げるように、今度は玲夜のスマホが鳴った。
玲夜は途端に不機嫌そうに舌打ちしてスマホを取ると、そのまま耳に当てた。
「なんだ、高道」
どうやら玲夜の秘書である荒鬼高道からモーニングコールがあったようだ。
怒りを押し殺したように「分かっている」と返事をしながらも柚子を離さない玲夜は、電話を切った後も、柚子を抱きしめたまま。
「いいの? 高道さんからでしょう?」
「ああ。こっちは新婚だというのに、頭の固い奴だ。あいつが結婚した時にはちゃんと休暇をやったのに、俺には一日も与えられないなんて不公平だと思わないか?」
柚子に問われても仕事のことは分からないのでなんとも答えられないが、玲夜が休める状況ではないのは確かなようだ。
披露宴翌日は休むと言って聞かず、寝室に朝食を持ってこさせて柚子と引きこもっていたら、高道が乗り込んできたことがあった。
それほどに仕事が立て込んでいるらしい。
その日以降、玲夜を放っておくと自主的にハネムーンを満喫してしまうので、高道からのモーニングコールが始まったのである。
「仕方ない」
深いため息をついてベッドから起きあがる玲夜に続いて柚子も抜け出すと、柚子は自分部屋へ着替えに向かった。
そこには子鬼たちと、黒猫のまろと茶色の猫のみるく。そして龍が待ち構えていた。
「あーいあーい」
「あーい」
ぴょんぴょんと跳ねる子鬼は、それぞれ手に色違いの甚平を持っていた。
「子鬼ちゃん。今日はその服にするの?」
「する~」
「昨日は青だったから赤なの~」
それらは披露宴に参加した元手芸部部長から結婚祝いとしてたくさん贈られたものだ。
普段は甚平を着ていることから作ってくれたものだったが、なぜ子鬼に結婚祝いを渡すのか。子鬼の結婚式ではないのだが……。
そうツッコむ前に、いつも同じ服でいさせるなんてもってのほかだと柚子がお叱りを受けてしまった。
そもそもいつも子鬼たちが着ている甚平は、人が作った服とは違い、子鬼を作った時の付属品みたいなものなので、玲夜の霊力によってできているらしい。
なので汚れたり破れたりしても修復される、かなり高性能な服なのだ。
元部長から贈られた服はたくさんあるが、やはり最後は自分たちが作られた時に着ている甚平に着替えることから、その服が気に入っているのだなと思っていた。
しかし、どうやら甚平を気に入っていただけらしく、元部長からもらった甚平を日替わりで着て楽しんでいる。
これは柚子も予想外の反応で、もっと早く用意してあげればよかったと後悔した。
そんな何年にも渡る誤解が解けたのも、子鬼が言葉を理解できるだけでなくしゃべることができ、意思疎通が図れると知ったからなのだが。
言葉を話せなかった理由が玲夜のやきもちと知った時は本当にあきれてしまったが、子鬼にすら嫉妬してしまう玲夜をかわいらしくも感じる。
しかし、玲夜をかわいらしいと評するのは柚子ぐらいだろう。
「うんしょ、うんしょ……」
「着たー」
「今日もかわいいね」
着替えた子鬼を撫でてから写真に撮ると、元部長に送信してあげる。きっと朝から子鬼のかわいさに悶えるに違いない。
今後は定期的に甚平を作って送ってくれるらしい。
最初こそ断っていた柚子だが、元部長の熱意はすさまじく、玲夜を動かした。
月に数着子鬼の服を製作する代わりに報酬を出すと、玲夜と個人契約したのである。
契約金はさすが鬼龍院だと驚く破格の金額だったが、なんだかんだで玲夜も子鬼のことをかわいがっているからだろうとなんとも微笑ましかった。
とはいえ、実業家としても厳しい目を持つ玲夜を動かすとは、元部長もただ者ではない。
話によると、有名服飾メーカーのデザイナーとして就職予定だとか。
面接で元部長の作った服を着た子鬼の写真を見せながら子鬼と服への愛を訴えたのが決め手だというのだから、子鬼への想いは果てしなく大きいようだ。
『童子たちよ、我のリボンも結んでくれ』
「あーい」
「あいあい」
子鬼たちが毎日違う甚平を着るようになったからか、龍もファッションに目覚めた様子。
玲夜に一年では使い切れないほど大量のリボンをねだり、毎朝どれにしようかと悩んでいる。
当初、飾りなど必要ないと自分の鱗の美しさを語っていたのはどこのどいつだと問い詰めたい。
そんな龍とは別に、同じ霊獣でもまろとみるくはまったく興味がなさそうに大きなあくびをしている。
だが、結婚式で柚子が首に結んであげたリボンは大事に隠していると龍が教えてくれ、ほっこりした。
龍が子鬼にリボンを結んでもらっている間に柚子も着替えると、食事を食べる部屋へと向かう。
後ろからトコトコ付いてくる子鬼と猫たち。
龍は我先に行ってしまった。
彼の目的は分かっている。
すでに玲夜が待っていた部屋には、これまでにはなかった新品の大きなテレビが設置されており、先に来ていた龍がリモコンを我が物顔で独占してチャンネルを変えている。
朝の情報番組を見るのが最近のブームらしい。
それなら柚子の部屋で見ればいいものを、加護を与えているのだからと家の中でもストーカーのごとく柚子のそばにいたがるから困ったものだ。
さすがに玲夜との時間を邪魔するような無粋なまねはしないが、食事の席では龍だけだなく子鬼もまろとみるくまで勢揃いする。
まろとみるくは雪乃からご飯をもらっているが、柚子たちが食事の間は暇を持て余すので、龍が部屋にテレビを置くよう要求したのが始まりだった。
テレビを買ってもらう代わりになにやら玲夜と取引をしたようだが、柚子は内容を知らない。
訪ねても教えてくれないのだ。
玲夜の頼み事なのでおかしなことはしないだろうが、なんとなく仲間はずれにされたようで寂しい。
龍はお決まりの番組にチャンネルを合わせると、ニュースを見ながら解説者の話にコメントしている。
『うーむ。なんとはた迷惑な奴がいるものだな。こういう者は法でびしっと成敗せねばならん。びしっと!』
「あーい」
「あいあい」
子鬼が時々相槌を打ちながら、ひとりテレビに向かって文句を垂れ流す龍を無視して、柚子は「いただきます」と手を合わせてから食事を始めた。
「玲夜は今日も帰り遅くなりそう?」
具が沈殿したお味噌汁を箸でかき混ぜながら玲夜に問いかけると、うんざりしたような表情で肯定した。
「ああ。仕事が溜まっているらしい」
「式の準備とかで休みを取ったから仕方ないと思うんだけど、さすがに忙しすぎない? 体調には気をつけてね?」
「あやかしは丈夫だからそこは大丈夫だ。忙しいのは式の準備で休んでいたからが問題じゃない」
「なにかあるの?」
聞いたところで、柚子には分からない話なので濁されるだろうと思ったら違った。
「一龍斎が原因だ」
首をかしげる柚子の横に、一龍斎と聞いてテレビよりこちらが気になった龍が移動してきた。
『一龍斎がなにかあるのか?』
過去、一龍斎の一族に囚われていた龍は彼らの話題には敏感だ。
「龍の加護を失い、当主の失脚もあって、一龍斎関連の会社は衰退の一途だったが、半数以上の会社を売りに出すことにしたようだ。外資系企業も手をあげる中、その大半をうちが吸収することになった」
「ええ、そうなの?」
「ああ。それもあって、今忙しくしている。一龍斎はもう駄目だろうな。こんな数年で崩れるとは、これまでいかに龍の加護に頼っていたかが知れるというものだ」
『うははははっ! それはなんとも愉快愉快』
龍はご機嫌でグルグルと部屋の中を飛び回っていると、黒目をランランと輝かせたまろがタイミングよくジャンプして、猫パンチで叩き落とした。
『ぎゃー!』
「アオーン」
「にゃんにゃん」
こっちにもよこせとばかりにミルクも参戦するのを、子鬼たちが慌てて止めている。
放っておいたら引きちぎりかねない勢いだった。
子鬼たちになんとか救出され、ボロボロになった龍が柚子の肩に乗る。
『酷い目に遭った……』
「学習しないからでしょう」
まろとみるくの前でうにょうにょと動けば、狙ってくださいと言っているようなものなのに、それを龍は未だに理解していない。
『それよりもだ! 一龍斎の本家の屋敷はどうなっておる?』
「屋敷だと?」
玲夜の眉間にしわが寄る。なにを言っているんだと言いたげな表情だ。
『そうだ。それだけ落ちぶれたのならばこれまで住んでいた本家の屋敷を手放してはおらんのか? あそこは土地が広大だから維持にも金がたくさんかかるのでな』
「いや、そこまでの情報は来ていない」
『ならばすぐに調べるのだ。そして、売りに出されていたらなにがなんでも買い取ってくれ。そなたならばできよう』
「なにかあるのか?」
龍にとっては近付きたくもない憎き一族の総本山だろうに、龍がそこまで気にするとは普通のことではない。
玲夜の顔の険しさが増す。
『大事なものがあるのだ。今となっては奴らも覚えてはいないが、決して他人に渡せぬ重要なものが』
それがなにかは明言しなかったが、玲夜はその場で高道に電話して調べるように伝えていた。
食事を終えて、お茶でひと息ついていると、雪乃が部屋に入ってきた。
「奥様」
未だ慣れない柚子に対する『奥様』という呼び方。
玲夜と結婚したことで名実ともにこの屋敷の女主人となった柚子は、使用人たちのこれまでの呼び方が奥様へと変わっていた。
なんとも言えないむずがゆさを覚え、最初呼びかけられた時には挙動不審になってしまい、使用人たちから微笑ましげな眼差しで見られ、それが余計に恥ずかしかった。
とは言え、使用人たちからの呼び方以外でなにか変わったところはなく、周りの態度も玲夜の溺愛っぷりも相変わらず。
正直言うと結婚したという実感があまりなかったりする。
もちろん式をした記憶は鮮明に残っているのだが、元より結婚しているのと変わりない生活を送っていたので仕方ないとも言える。
なにか結婚したと実感できるものが欲しいなと思う今日この頃。
思いつくものとしたら新婚旅行が一番に頭に浮かぶ。
残念ながら柚子と玲夜は新婚旅行に行けていない。
そんな暇が玲夜にないからである。
もしふたりきりで旅行に行けたら新婚気分を味わえるかもしれない。
そう思うも、今ですら休みが取れないほど忙しい玲夜に旅行に行く時間が取れるはずもなく……。
結婚したなら旅行には行きたいと思っていたのをずっと我慢していたが、考え始めると行きたくて仕方なくなってきた。
式の翌日も出社してしまい新婚旅行はどうするのかと言い出せずにいたが、一度駄目もとでお願いしてみようか。
いや、忙しい玲夜を自分の我が儘で煩わせるわけにはいかないと、柚子は自分を律する。
玲夜と結婚できただけで十分幸せなのだから。
どうも最近の自分は多くを望みすぎている気がする。
それだけ玲夜に甘えているということなのだろうが、それがいいのか悪いのかは判断に困るところだ。
「どうした、柚子?」
無意識のうちに玲夜を凝視していた柚子ははっと我に返り、ぶんぶんと首を横に振った。
「なんでもない! それより、雪乃さん。なにか用事ですか?」
無理やり意識を雪乃へと向けると、雪乃から手紙を渡される。
「今朝こちらが届いておりました」
「手紙?」
誰だろうかと宛先を探すが封筒のどこにも差出人の名前はなく、代わりに撫子の花と狐の絵が描かれていた。
不思議に思い封を開けるて中を見るが、そこには日時と参加か不参加かという文字のみ書かれた便箋が一枚入っている。
「これだけ?」
もう一度封筒の中を確認すると狐の形の折り紙が出てきた。
「狐の折り紙……?」
それ以外のものを探してみるが、やはり他にはなにも入っていない。
差出人も日時の意味も分からず、柚子は首をかしげる。
「どゆこと?」
「柚子、少し見せてくれ」
「うん。はい」
玲夜に手紙を渡せば、封筒と中に入っていた便箋に目を通すとすぐに返ってきた。
疑問符を浮かべる柚子とは違い、玲夜は心当たりがあるようで小さく笑う。
「なるほど。とうとう柚子にも来たか」
「玲夜はこの手紙がなんなのか知ってるの? 差出人もないし、普通に怖いんだけど」
「そう言うな。狐と撫子の花で思い浮かぶ人がひとりいるだろ?」
「狐と撫子?」
そう言われてもそんな人に覚えはないと言おうとして柚子はあっと声をあげる。
「妖狐のご当主!」
どうやら正解だったようで、玲夜がこくりと頷く。
「えっ、でもどうして妖狐のご当主から手紙が?」
妖狐の当主、狐雪撫子。
何度かあやかしの宴やパーティーなどで挨拶をしたことはあるが、特別親しい間柄というわけではない。
そもそも撫子自体があまり人の集まるところに姿を見せないのだから、親しくなりようがない。
日時の意味も不明だ。すると、玲夜がまた柚子に分からない単語を発する。
「花茶会のお誘いだろう」
「花茶会?」
柚子には聞いたことがないものだ。
「あやかしに嫁いできた人間の花嫁を集めて定期的に開かれる女だけの茶会だ。妖狐の当主と母さんが主催者でな」
「沙良様……じゃなくて、お義母様も?」
「ああ。あやかしに嫁いだ花嫁のために、母さんと妖狐の当主が始めたものだ。人間があやかしに嫁いでくるのはいろいろと気苦労も多いだろうから相談できる場が必要だと言ってな」
玲夜はわずかに苦い顔をする。
「他家の花嫁のことなど気にする必要はないだろうにと他人事でいたのに、まさか俺にも関わってくるとは当時は思わなかったな。きっと柚子が正式に俺の妻となったから花茶会の案内状を送ってきたのだろう」
「ということは、他にも花嫁の人が参加するの?」
「ああ。よほどの理由がない限りは主催者と花嫁だけの茶会だ。まあ、あやかし界すべての花嫁が呼ばれるわけではなく、毎回顔ぶれが違うらしいがな。問題なのは花嫁の夫でも閉め出される」
「じゃあ、玲夜は一緒に来られないの?」
「そうだ」
それを聞いて激しく不安になる。
それというのも、これまでいくつかのパーティーに参加はしたが、そのどれも玲夜が常にそばにいてくれた。
柚子ひとりで社交することは一度もなかったのだ。
「玲夜がいなくてちゃんとできるかな……」
自分のせいで鬼龍院の名を貶めてしまうことを柚子は気にしている。
しかも相手は玲夜ですら礼節を重んじる妖狐の当主で、彼女が主催する茶会だというのだから、柚子の緊張度もうなぎ登りだ。
「そう気負わずとも気楽な茶会らしい。母さんが発案者のひとりという時点で、小難しい腹の内を探り合うような集まりになることはないだろう」
それは沙良に対してかなり失礼だが、柚子は思わず納得してしまった。
沙良が花嫁のために始めたものなら、本当に花嫁のことを思って開催しているだろうと。
「場所は妖狐の当主の屋敷だ。気が乗らないなら俺からうまく断っておくがどうする?」
「うーん……」
玲夜が一緒ではないことに不安と心細さがあるが、花嫁だけの茶会というものに興味もあった。
「お義母様もいるの?」
「ああ。主催者のひとりだからな。それに、毎回桜子を手伝い人として連れていっているらしい」
それは柚子にとっては嬉しい情報だ。
いつもそれとなく柚子をサポートしてくれる桜子がいるのは心強い。
「じゃあ、行ってみようかな。お義母様と桜子さんがいるなら安心だし」
「そうか。なら、その狐の折り紙に参加すると答えてみろ」
「えっ、折り紙に向かって?」
「ああ」
戸惑いながら手にした狐の折り紙に向かって「参加します」と告げる。
すると、折り紙が一瞬で形を変え、手のひらサイズの子狐になった。
柚子は驚きのあまり声が出ない。
ハクハクと口を開閉している間に、柚子の手に乗っていた狐は手から飛び下りて歩いて行き、スッと姿を消した。
その様子に驚いているのは柚子だけ。
玲夜も、そしてその場にいた雪乃を始めとした使用人たちも当然のような顔で見ている。
「なななな、なに、今の!?」
ひとり動揺する柚子に、周りは生暖かい目を向けており、玲夜もクスリと笑った。
「妖狐の当主の妖術だ。見るのは初めてか?」
「ようじゅつ……」
すぐに理解するのは難しかったが、玲夜に「子鬼のようなものだ」と説明され、すんなりと受け入れられた。
「なるほど」
柚子はテレビに夢中の子鬼に目を向ける。
子鬼は玲夜の霊力にとって生み出された使役獣。
まあ、今は霊獣三匹分の霊力を分け与えられたせいで、普通の使役獣と言っていいのか分からないぐらいに強いが。
恐らく先ほどの狐も同じように霊力によって生み出されたものなのだろう。
「さすが、あやかしの当主」
柚子の常識の範疇を軽く超えてくる。
「今ので参加するって伝えられたの?」
「ああ。先ほどの狐が当主に伝えるだろう。後はその紙に書かれている日に当主の屋敷に行けばいい」
「そっか」
納得したところで柚子は大事なことに気付く。
「服装は? なに着ていけばいいの!」
「なんでもいいだろ」
「よくないよ! 洋装なの? 和装なの?」
鬼の当主夫人と妖狐の当主の茶会に普段着でいけるはずがない。
きちんとしたフォーマルな服を用意しなければならないが、和装か洋装かでも変わってくる。
柚子の記憶の限りでは撫子はいつも和装だったが、沙良は和装だったり洋装だったりと様々だ。
どちらに合わせるべきなのか、初めて花茶会に呼ばれた柚子が判断できるはずもない。
悩む柚子に玲夜が助言する。
「後で桜子に聞いてみたらどうだ?」
「そうか、桜子さん!」
花茶会に手伝いで参加しているというなら、場の雰囲気もよく知っていることだろう。
なんと頼りになるのだろうか。
「後で電話してみる」
「ああ」
ようやく話もまとまったところで、玲夜が腕時計に視線を落とすと、面倒くさそうにため息をついて立ち上がった。
「残念ながら時間だ」
「そっか……」
新婚なのに一緒にいられないもどかしさに気落ちする。
しかし、我が儘と言ったところでどうにかなる問題でもない。
玲夜を玄関まで見送る。
「いってらっしゃい。頑張ってね」
「ああ、いってくる」
そのまま出ていくのかと思えば、玲夜はなにやら考え事をするようにじっと柚子を見つめる。
「……柚子、今の仕事がひと段落いったら……」
「いったら?」
玲夜はなにかを言おうとして、途中で止めた。
「いや、なんでもない。それよりも学校の準備はできているのか?」
「うん。ばっちり」
「そうか」
玲夜は今にも舌打ちしそうな不愉快げな顔で眉をひそめる。
「そんな不機嫌な顔しないでよ。玲夜も納得してくれたことでしょう?」
「納得はしてない。今からでもやめたいなら遅くないと思っている」
「また、そういうことを」
柚子は苦笑する。
なんだかんだありながら料理学校に行くことを許してくれたと思っていたが、やはり自分の目の届かないところで柚子が活動しているのは気に食わないようだ。
それでも無理に止めたりはしないし、学費も柚子が自分で払うつもりだったのに、玲夜が払うと言って聞かなかった。
柚子が学校に行くのを嫌がってはいても、柚子の生活に関わるすべてに手を出さずにはいられないようだ。
玲夜なりの葛藤がそこにはあるのだろう。
最初こそ支払いを拒んでいた柚子も、玲夜に甘えることにした。
「まあ、その話はまた今度だ」
学校の話になると平行線を辿るのは目に見えているので、早々に切り上げると、玲夜は柚子の頬にキスをしてから出社していった。
玲夜が出かけると、柚子は次に自分の準備を始める。
今日は猫田家で、友人である透子と、雪女のあやかしである白雪杏那の三人で女子会をする予定なのだ。
女子会と言っても、透子を花嫁に選んだ猫田東吉はなんだかんだで顔を出しに来るだろうし、杏那の恋人で柚子の友人でもある蛇のあやかしの蛇塚柊斗も来るそうだ。
柚子たちが女子会をしている間、東吉たちは東吉たちで男子会をするらしい。
そして結局最後は皆集まって騒ぐことになるのだろう。
披露宴では招待客が多く、ひとりずつゆっくりと歓談できなかったので、柚子はこの日を楽しみにしていた。
披露宴の時に撮ったアルバムを鞄に詰め、柚子も屋敷を出る。
当然のように柚子の両肩には子鬼がおり、腕には龍が巻きついている。
言わずとも付いてくる柚子の大事なボディガードたちだ。
「あいあい」
「あーい」
子鬼たちは見慣れた道のりだろうに、車の中から流れる風景を見てぴょんぴょんはしゃいでいる。
そこらのあやかしぐらいなら軽く吹っ飛ばしてしまう力を持つ子鬼だが、精神年齢は幼い。
まあ、そこがかわいいのだが。
『童子たちよ、騒ぎすぎて頭をぶつけるでないぞ』
「あーい」
「あい!」
いつもはまろとみるくに追いかけられている情けない龍も、子鬼と接する時はまるで保護者のようだ。
玲夜の屋敷──結婚したので今は柚子の屋敷と言っても差し障りないだろう──から、そう遠く離れていない猫田家には車で数十分もすれば着く。
透子が花嫁に選ばれた時から何度も遊びに来ている柚子のことは、猫田家では知らぬ者などいない。
柚子が顔を見せたらすぐ中に通してくれる。
「お邪魔します」
柚子も猫田家の使用人に挨拶をしつつ、勝手に透子の部屋へと向かっていく。
それだけ柚子がこの家に馴染んでいる証拠だが、実際のところ玲夜の花嫁となった当初は鬼の気配を怖がられて誰も案内どころか近付いてすらくれなくなったので、仕方なく勝手に向かうしかなかったのだ。
そんな猫田家も、玲夜がちょこちょこ訪れることでだいぶ鬼に慣れてきたようで、突然の玲夜の来訪にも驚かなくなっているとか。
最初は阿鼻叫喚、蜂の巣を突いたような騒ぎだったのが嘘のようだ。
誰しも慣れというのは怖ろしい。
そんなこんなで勝手に透子の部屋に行きノックする。
「はーい」
「透子、来たよ」
「あー、柚子ね。ちょっと待って」
しばらく部屋の外で待っていると、扉が開く。中から出てきた女性の使用人がニコリと微笑んで会釈をしてから去っていった。
彼女の腕には透子と東吉の第一子である莉子がいたのを柚子は見逃さなかった。
「あ~、莉子ちゃん行っちゃった」
莉子を抱っこしたいなと楽しみにしていたので、連れていかれて残念である。
「柚子入っていいわよ」
透子からのお許しが出たので意気揚々と部屋に入る
「お邪魔しまーす」
「いらっしゃい」
「あーい」
「あいあーい」
自分たちもいるぞと子鬼がかわいらしく自己主張すれば、透子も顔をほころばせる。
「子鬼ちゃんたちもいらっしゃい」
「ねえ、透子、莉子ちゃんは?」
「さっき母乳あげてたのよ。飲んだらお腹いっぱいになったみたいで寝ちゃったから連れていってもらったわ。ここは莉子を世話してくれる人がいるからほんと助かるわね。むしろ世話されすぎて私が母親か忘れられないか心配するぐらいよ」
「莉子ちゃんかわいいから取り合いになってるかもね」
クスクスと柚子が笑えば、透子も苦笑する。
「それ洒落になってないわよ。使用人の間で莉子用シフトってのがあるらしくてね」
「なにそれ?」
「莉子の世話をする順番を決めたシフトよ。だれが夜中にミルクをあげるか、抱っこするか遊び相手になるか取り合いになってるらしいわ。まあ、念願の花嫁から生まれた霊力の高い子供だから皆が大事にするのは分かるんだけどね。にゃん吉の両親も毎日莉子に玩具買ってきて溺愛してるしね。母親の出る幕なしって感じ」
「でも、育児疲れとは無縁そうだね」
一般家庭では使用人なんて存在普通はいないのだから。
「ええ。夜は交替で見てくれるおかげで夜泣きに起こされて睡眠不足になることもないから体調も絶好調よ。使用人の中には育児のベテランママさんもいるから助言ももらえるし、ほんとに恵まれてるって最近よく思うわ」
しみじみとした口調の透子の様子に、よほど助かっているのだろうと感じる。
「柚子もその時が来たら、きっとありがたみがよく分かるわよ」
「そうかも。でも子供ができたら玲夜がどうなるやら、そこが心配かも」
透子の場合は東吉が親馬鹿に豹変したが、玲夜が自分の子供にデレデレになっている姿が想像できない。
かわいがってくれるとは思うが。
「あー、確かに若様は不確定要素が多すぎるわね。でも、しばらくは新婚を満喫するんでしょ?」
「うん。私も料理学校に行くしね」
「ならその時がきたらどうにかなるわよ。子供のおかげで親も成長するんだから」
「さすが新米ママさん。言うことが大人になったね」
ふふんとドヤ顔の透子。
柚子はふとテーブルの上に視線を移して目を見張った。
「透子、それ」
柚子が指さしたのは、テーブルの上に乗った手紙だ。
見覚えのある狐と撫子の花の絵が描かれた封筒は、すでに封を切られている。
「ああ、それね。にゃん吉が言うには花茶会のお誘いだって。その様子だと、もしかして柚子にも来た?」
「うん。透子は参加するの?」
「猫又の花嫁が妖狐の当主のお誘いを断れるわけないでしょ」
「それもそっか」
透子は軽快に笑っているが、あやかしの世界で猫又の地位は決して高くない。
それ故に気苦労や気を遣うことも多いという。
だが、妖狐の当主に気を遣わなければならないという点では柚子も透子とそう違わないだろう。
それだけ妖狐の当主はあやかしの世界で確固たる地位を築いていた。
なので、透子が口にした『当主のお誘いを断れない』というのは、柚子が失念していたことだ。
沙良と桜子がいるから参加を選んだが、断ったら失礼ということまで気が回らなかった。
不参加にせずによかったと胸をなで下ろす柚子だった。
「それじゃあ、透子にも狐の折り紙入ってた?」
「ああ、あれね。マジでびびったわ。猫田家ではあやかしらしい力を見せられたことがほぼなかったから、柚子のおかげで不思議体験してなかったら腰抜かしてたわね」
あやかしと言っても猫又はあまり霊力が強くないので、人外の力を目にする機会はほぼなかったようだ。
それとは反対に、柚子の周りには玲夜の作った子鬼を始め、龍のような霊獣や人ならぬ力をよく目にする機会が多いので透子も耐性がついていたようだ。
しかし、鬼の作る炎をよく目にする柚子からしても折り紙が狐に変わるのは驚きだった。
「私もびっくりした。普通の折り紙だったもの。玲夜によると子鬼ちゃんみたいなものなんだって」
「らしいわね。にゃん吉に同じようなことしてって頼んだけど、霊力が足りんって拒否られたわ。いまいちその辺りのこと私じゃ分からないのよね」
猫又は弱く鬼は強いと大雑把なことは分かるが、なにができてなにができないかを人間である柚子や透子が理解するのは難しい。
「私も子鬼ちゃんみたいな使役獣が欲しかったわ。花嫁を得たあやかしは霊力が強くなるらしいんだけどねぇ。そもそもが弱いから焼け石に水らしいわ。若様はどう?」
「そんなの私に分かるわけないじゃない。霊力なんて言われても感じたことないもん」
「そりゃそうだわ。そういう話も花茶会に行けば教えてもらえるのかしら?」
「花嫁のための集まりらしいから、教えてもらえるかもね」
これまでに抱いてきた疑問が解消されるかもしれないという期待感とともに、透子が一緒だということがなにより嬉しい。
「なんにせよ、透子が一緒みたいで安心した」
「それはこっちの台詞よ。妖狐の当主の家でお茶会なんて、考えただけで胃が痛くて仕方なかったもの。柚子がいてくれるだけで心強いわ。なにか粗相があったら助けてね」
「その前に私が粗相しそうで怖い。そしたらだれに助けを求めたらいいか……」
「言っとくけど私は無理よ」
そこは嘘でも自分が助けると言ってほしいが、正直な透子は素気なく切り捨てる。
すると、子鬼が柚子と透子の前に飛び出してきた。
「あーい」
「あいあい!」
ドンと胸を叩いて任せろと言わんばかりの表情の子鬼にほっこりするが……。
「気合い入れてくれてるところ悪いんだけど、花嫁だけのお茶会だから子鬼ちゃんたちは中に入れないかもよ」
透子が言いづらそうにしながら告げられた言葉に、子鬼はガーンと激しくショックを受けている。
それが聞き捨てならない者がもう一匹。
『なに!? それは我もか!』
龍がずいっと透子の前に身を乗り出す。
「たぶん? 私もにゃん吉に聞いただけだから、詳しいことは若様に聞いた方が早いと思うわよ」
『これは一大事! 童子たちよ作戦会議だ』
「あいあい!」
子鬼たちは慌てて部屋の隅でなにやら話し始めた。
それを一瞥してから柚子は透子に問う。
「透子は服装どうするの?」
「いや、それ私も気になってたのよ」
よくぞ聞いてくれましたというように、透子が身を乗り出す。
「妖狐のご当主の家に普段着ってわけにもいかないでしょうし。柚子はどうするの?」
「私も困ってて。いつもお手伝いで桜子さんが参加してるらしいから電話して聞こうかなって思ってるの」
「それなら今連絡してよ。私も教えてほしいから。場違いな服で行ったことでにゃん吉に迷惑かけちゃうの嫌だし」
「だよね」
玲夜はなんでもいいだろうという姿勢だが、普通はすごく気になる問題だ。
透子も必要なことだしと、柚子はその場で桜子に電話することにした。
数度のコール音の後、桜子が電話に出た。
「もしもし、桜子さん」
『あら、柚子様。どうなさいましたか?』
「実は、妖狐のご当主から花茶会の案内状が届いたんです。それで桜子さんにお窺いしたい問題がありまして……」
『まあ、今回は柚子様もご出席されるのですね。私でお答えできることでしたらなんなりとおっしゃってください』
柚子が参加すると聞いて、若干声の調子が弾んだ桜子に柚子は率直に聞いた。
「当日の服装なんですが、和装か洋装かで迷ってるんです。玲夜に聞いてもはっきりしなくて、そこで、桜子さんに相談を」
すると電話口の向こうから小さな笑い声がする。
『玲夜様はそういうものに無関心ですからね。熱意を見せたのは柚子様の衣装を選ばれる時だけですから』
これには柚子も言い返せない。
普段の服だけでなく、結婚式の衣装ですら玲夜は自分のものには関心が薄く、その反面柚子の衣装には散々口を挟んできたのだから。
『服装は皆様フォーマルな格好をされますよ。どちらかというと洋装より和装の方が多い印象でしょうか。ですが、招待客の方がどちらを選んでも気まずくならないように、毎回沙良様が洋装で、撫子様が和装で出席されますよ。ですから気にせずお好きな方をお選びになったらよろしいかと思います』
「そうなんですね。ありがとうございます! 助かりました」
話の途中でツンツンと服が引っ張られたのでなにかと目を向ければ、子鬼と龍が期待に満ちた輝く眼差しで柚子を見あげている。
『柚子、我らもついていっていいか聞いてくれ』
こくこくと頷く子鬼たちに促されて柚子も桜子に聞いてみる。
「あー、えっと、桜子さん。その花茶会っていうのは花嫁だけのお茶会なんですよね?」
『ええ。毎回ランダムに花嫁様に招待状が送られます。お呼びする主席者も少なく、肩肘張らない大人の女子会のようなものでしょうか』
「子鬼ちゃんや龍を連れていくことは……」
『先ほど柚子様がおっしゃったように花嫁のための集まりですので、基本的に花嫁以外の出席は不可となっております』
桜子のせいではないのに『申し訳ございません』と遠慮がちな声で謝る桜子に申し訳なくなってきたのは柚子の方だ。
「いえ、そういうことなら仕方ないですね。ちゃんと言って聞かせます。ありがとうございました!」
『どういたしまして。また分からないことがありましたらお電話ください。花茶会でお会いするのを楽しみにしておりますね』
最後まで品のいい桜子との電話を切り、柚子は告げなければならない。
「やっぱり子鬼ちゃんも龍も連れていっちゃ駄目だって」
『なんと!』
「あい!?」
なんで!?という顔の子鬼と龍には悪いが、駄目なものを柚子の我が儘で押し通すわけにはいかない。
「ごめんね。残念だけど当日はお留守番しててね」
「あーい……」
「やー……」
しょぼんと落ち込んだ子鬼はかわいそうだが仕方がない。
「透子、服装はフォーマルなら和装でも洋装でもいいみたい」
「ありがと。じゃあ久しぶりに着物でも着ようかしら。柚子もせっかくだから着物の色を合わせましょうよ」
「うん。それいいね」
問題が解決したところで、タイミングよく杏那の来訪が使用人から教えられる。
すぐに柚子たちがいる部屋へと通された杏那は、柚子たちを見てはにかんだ。
さすがあやかしだけあって、柚子や透子では及びもしない容姿のよさだ。
雪女特有の白い髪は、小柄な杏那の愛らしさを存分に引き立てている。
「いらっしゃい、杏那ちゃん」
「お招きありがとうございます」
「堅苦しい挨拶はいいから、座って座って」
透子に勧められるままに座った杏那に、子鬼たちが挨拶をしにトコトコと向かう。
「あいあい」
「あーい」
「こんにちは。相変わらず柚子さんのSPはかわいらしいですね」
杏那に褒められて照れる子鬼たちを微笑ましく眺めている間に、透子が杏那の前にお茶を置く。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。蛇塚君は一緒じゃないの?」
「いえ、柊斗さんも一緒に。けれど、玄関で東吉さんに連れられて行ってしまいました」
「なんだ、じゃあ、こっちはこっちで女子会しましょ」
そう言うと、透子はテーブルの上にドンドンお菓子を載せていく。
「透子、ちょっと多すぎない?」
「大丈夫よ。そこに大食漢がいるから」
透子が指をさしたのは龍だった。
確かにこの龍は、酒と聞けば一升瓶をラッパ飲みし、食事だと言えば五人前をペロリと平らげる。
山積みにされたお菓子ぐらいなら平気で食べてしまうだろう。
本当に小さな体のどこに消えていくのやら。未だに謎だった。
特にお酒が大好きなようで、披露宴では次から次に酒瓶を空にし、そのまま酔っ払って謎のダンスを踊りながら各テーブルを回っていっては、招待客に絡んでいくという大迷惑な行動を起こした。
そのせいでいくつかの催しができなくなってしまい、スケジュールから演出まで練りに練って考えた高道が青筋を立てて怒りに震える事態に。
その後、龍は怖いほど笑顔の高道に広間から連れ出されると、広間の外からなにやら悲鳴が聞こえ、しばらくするとがっくりと肩を落として戻ってきた。
どうやら酔いも覚めた様子で、子鬼たちに慰められていた。
高道は怒らせまいと柚子が誓った瞬間だったが、龍の暴走を止めてくれて助かったとも思う。
龍を放っておいたら、披露宴は散々な結果になるところだった。
「柚子も披露宴のアルバム持ってきたんでしょう? 見せてよ」
「うん」
披露宴ではプロの写真家が撮影したくれており、なん千枚と撮った写真のデータの中から、柚子が気に入ったものをピックアップして印刷してもらいアルバムにしたのだ。
写っているのは柚子と玲夜の写真が多く、それ以外には柚子が招待した祖父母や友人の写真である。
鬼龍院の招待客の写真をまとめたアルバムもあったが、正直あまり興味がない。
しかし、披露宴に来てくれた人たちの顔ぶれは今後パーティーなどに出席する時のため覚えていた方がいいと、高道が気を利かせてまとめてくれたのだ。
さすが、玲夜の有能な秘書である。
さらには、その妻の桜子がアルバムに分かりやすく説明を入れていてくれたので、今後かなり重宝するアルバムになることだろう。
アルバムをめくりながら話に花を咲かせる柚子たち。
「若様はなに着せてもイケメンね。友達全員若様が入場してきたとたん黄色い悲鳴あげて写真撮りまくってたもの。まあ、その中には私も含まれてるんだけど」
これには柚子も苦笑いする。
「皆、私じゃなくて玲夜撮ってたもんね」
「そりゃあ、仕方ないってもんよ。若様の美しさの前じゃあね。けど、柚子も綺麗だったわよ。オーダーメイドだけあってすごく柚子に似合ってたもの」
「ありがと」
とってつけたような賛辞に悲しくなるなるが、自分が招待客の立場だったら同じことをしているだろうなと思うので怒るに怒れない。
「若様って披露宴ではタキシードだったけど、本家で行った式は和装だったんでしょ?」
「うん」
柚子は鞄から別のアルバムを見せる。
こちらは鬼龍院の本家で行われた結婚式の写真がまとめられている。
「こっちも綺麗ね。あ~、私も結婚式したかったわ」
残念そうに柚子のアルバムに目を通す透子は、莉子を妊娠したことで式はせず、写真しか撮れていなかった。
「だったらにゃん吉君に頼んでみたら? 莉子ちゃんも生まれたことだし、別に後からしても問題ないじゃない。ねぇ、杏那ちゃん?」
「はい。子供が産まれてから式をする方もいますし、全然問題ないと思います!」
杏那にも力強く肯定され、透子も段々その気になってきた。
「ウェディングドレス着て皆に見てもらいたくない?」
「……もらいたい」
「フラワーシャワーに、お色直しやケーキ入刀。着飾った友達にお祝いされながらドレスで写真撮影」
「したいに決まってるじゃないのよぉぉ」
柚子の披露宴を見たからこそ余計に羨ましく感じるのだろう。
「なら、ここはにゃん吉君に直談判するしかない!」
「そうよね。別に柚子みたいな盛大な結婚式は望んでないのよ。家族と友達だけのアットホームな結婚式がしたい!」
それは柚子も同感だ。
できればこじんまりとして和気あいあいとした結婚式にしたかったが、鬼龍院の家格がそれを許さなかった。
その一点においてはちょっと不満が残るが、式すらできなかった透子からしたら我が儘がすぎるだろう。
「ちょっと言ってくるわ!」
「えっ……」
思いついたらすぐ行動するのが透子である。
柚子や杏那が制止する前に、あっという間に部屋を出ていってしまった。
「…………」
残された柚子と杏那の間に変な沈黙が落ちる。
「……たぶんしばらく帰ってこないからお菓子食べてよっか」
「あっ、はい」
お菓子をもぐもぐと食べているとふと気になった。
「そう言えば杏那ちゃんたちはどうするの?」
「どうとは?」
「蛇塚君との結婚だよ。やっぱり杏那ちゃんが大学卒業したら結婚するの?」
なんの気なしに聞いた質問だったが、問いかけた直後に杏那の顔が真っ赤に染まっていく。
「なな、そん、そんな、わたっ私が柊斗さんと結婚!?」
激しく動揺する杏那。
「そんなに驚かなくても、杏那ちゃんならいい奥さんになると思うな」
「ひぅ! 柊斗さんの奥さんになるなんてっ! そんなそんな、恥ずかしい~っ!!」
その瞬間、杏那から大量の冷気が噴き出し、部屋の中を一気に冷凍庫にしていく。
『ぬあぁぁ!』
「あいー!」
「あいあい!」
慌てる龍と子鬼たち。
もちろん柚子も急いでコートを引っつかんだが、着てきたスプリングコートでは杏那の冷気から体を守れない。
杏那対策を怠っていたと激しく後悔したところで、部屋の扉が開かれ東吉が顔を見せた。
「おい、柚子。透子になに吹きこん──さぶっ!」
部屋に入った瞬間に寒さに震える東吉が天使に見えた。
「にゃん吉君、助けて……」
続いて顔を見せた透子が、凍える柚子を見て悲鳴をあげた。
「きゃー、柚子が凍死するぅぅ!」
「お、おい、柚子! 蛇塚、早く来い。杏那を止めろ!」
透子の後ろからやって来た蛇塚が杏那のそばに行き、肩に手を置く。
「杏那、杏那」
正気に戻そうと肩を揺すった蛇塚の行動により、杏那は蛇塚の存在に気がついたが、間近にいた蛇塚にさらに興奮してしまう。
「ひゃぁぁぁ! いつの間に柊斗さんがぁ!」
ここは雪山かと錯覚するような吹雪が吹きすさび、全員遭難しかけている。
「こら、蛇塚! 悪化させてどうすんだ!」
「そんなこと言われても……」
東吉から理不尽に叱られた蛇塚は困ったように眉を下げる。
「柚子、あんたなに言ったのよ」
「結婚するの?って聞いて、杏那ちゃんなら蛇塚君のいい奥さんになるって……」
歯をガチガチさせながら、透子から渡される毛布を羽織る。
「なるほど。私も気になってたんだけど、今度から禁句だわね」
「そうみたい……」
聞く度に吹雪かれてはたまったものではない。
結局、杏那が落ち着くまでしばらくかかり、我に返った杏那は無惨に荒れた部屋を見て透子に平謝りだった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
杏那に蛇塚の惚気話を聞くのはやめておこうた心に留めた。
二章
透子のお宅訪問から約一週間後。
この日は花茶会のある日。
柚子は朝食の後、すぐに準備に取りかかったのだが、その顔にはありありと不機嫌さが現れていた。
それというのも……。
「そう膨れた顔をするな」
透子と相談して決めた淡い黄色の着物を着付けてもらっているそばで苦笑しているのは、普段ならとっくに仕事で屋敷を留守にしているはずの玲夜だ。
「だって、まさか今日に限って玲夜がお休みだなんて聞いてない」
「仕方ないだろう。予定していた会議が取引先の都合でなくなったんだ」
今日一日はその取引先のためにあけていたため、予定していた仕事が延期されたのだ。
手をつけなければならない仕事がなくなったわけではないが、ずっと仕事で休暇のなかった玲夜をおもんばかって高道が休みにしたのである。
本来なら喜ぶべきことなのに、柚子は花茶会に出席しなければならない。
「こっちも延期したい……」
「構わないぞ。今から妖狐の当主に使いを出すか?」
意地悪く口角をあげる玲夜は、柚子が今さら拒否できないと理解していて言っているのだ。
「そんなのできっこないって分かってるくせに」
これが透子とのいつもの女子会ならば日にちを変更してもらうが、妖狐の当主を待たせている約束とあっては、今からやめますとも言い出せない。
「あ~、せめて一日ズレてたらよかったのに。そしたら玲夜と一緒に出かけたりできたのにぃ」
頭を抱える柚子に、「動かないでくださいな」と、雪乃に叱られる。
「すみません……」
着付けをしてくれる雪乃の邪魔をしないよう大人しくなった柚子。
しかし、体は動かなくとも、このうちに渦巻く憤りはすぐには静まってくれない。
「ねぇ、玲夜。花茶会っていつもどれぐらい時間かかるんだろう」
早く終われと言っているみたいで主催者に対して失礼この上ないが、実際に早く終わってくれないかと思っている。
花茶会の開催時刻は正午ちょうど。
それからどんな話をしてどれ位の時間を過ごすのかは、初参加の柚子には分からない。
玲夜ならば知っているかと思ったが、玲夜も詳しくない様子で……。
「さあな。だがそこまで長時間拘束はされないだろう」
「そうかなぁ」
だといいのだがと思っている自分に気付き、柚子はがっくりする。
「透子も行くからお茶会を楽しみにしてたのに、玲夜が気になって素直に楽しめないかもしれない」
愚痴混じりの言葉がこぼれ落ちると、玲夜がくくくっと小さく声を出して笑う。
「玲夜」
玲夜にじとっとした眼差しを向ける柚子は、自分がかなり我が儘を言っている自覚があるも、仕方ないではないかとも思う。
披露宴以降、玲夜と一日ゆっくりとできた日はないのだから。
貴重な機会がタイミングの悪さで潰えてしまった。
だれが悪いというわけでもないので、余計に不満の持っていきどころに困ってしまう。
「柚子がそうやっていつまでも俺と一緒にいたがってくれればいいんだがな」
「えっ?」
ようやく着付けが終わった柚子が振り返ると、玲夜はどこか寂しそうな目をしていた。
「私どもはこちらで失礼します」
着付けを終えて部屋を出ていく雪乃たち使用人に、慌てて「ありがとうございます!」とお礼を言ってから玲夜に視線を戻す。
「どうしたの、玲夜?」
いつもと少し様子の違う玲夜のそばに行くと、メイクを崩さないようにそっとふれてくる玲夜の大きな手に頬を寄せた。
そうすれば玲夜の表情がいつものように甘さを含んで緩み、柚子はほっとする。
「母さんと妖狐の当主がどうして花嫁のための茶会を開くか分かるか?」
「人間はあやかしの世界をよく知らないからじゃないの?」
「それもある。だが、一番は花嫁を旦那から離すためだ」
「えっ?」
玲夜の言葉をよく理解できなかった柚子は首をかしげる。
「あやかしにとって花嫁は大事な存在。真綿でくるむように大事に大事に囲うんだ。人間の間ではあやかしの花嫁に選ばれることは幸福だと考えるものが多くいる。確かにあやかしの多くは裕福で社会的地位も高いから、玉の輿に乗ったと思えば幸せなのだろう」
不意に玲夜の目の奥がほの暗く光る。
「だが、それと引き換えに与えられるのは窮屈な生活だ。大事だからと外に出すことなくあやかしの作った箱庭の中で一生を終える。そんな生活に嫌気がさし、夫との生活に息苦しさを感じる花嫁は少なくない。そればかりか蛇蝎のごとく嫌う者もいる。逃げようとしても権力も持ち合わせたあやかしから逃れる術はない。そんな花嫁たちの息抜きの場として整えられたのが花茶会だ。花嫁以外の出席を許さない。つまり、花嫁の夫たちを一時的にでも引き離し、花嫁の心を休息させるための時間を作るのを目的としている」
花茶会にそんな裏事情があったのかと驚く柚子に玲夜は苦しそうに告げる。
「花茶会に呼ばれることを楽しみにしている花嫁は少なくない。わずかな時間でも自分のためにあつらえられた綺麗な牢獄から逃れるためにな。いつか柚子もそんな花嫁たちのように俺を嫌悪の対象として見るようにならないかと不安になる。だが、そうなったとしても逃がしてはやれない。だからどうか、今のままの柚子でいてくれ」
自嘲するような玲夜の笑み。
それに対して柚子は満面の笑みを浮かべた。
「それなら私たちは大丈夫ね」
「どうしてそう思う?」
「だって、玲夜は私の意志をちゃんと尊重してくれるもの。まあ、料理学校の時はちょっと危うかったけど、本当は嫌なのに玲夜自身の気持ちじゃなくて最後は私の心を優先してくれたでしょう? 花嫁を囲うのが当たり前のはずなのに、玲夜はそうしなかった。いつだって私を一番に考えてくれるもの。そんな玲夜だから大好きよ」
今の自分の心のうちを、感謝の念を含んで好意とともに告げる。
玲夜に対するこの愛おしい想いが変わることはないと信じて。
いや、時を経るごとに大きくなっていくのを感じながら。
「本当に強くなったな」
もうそこに浮かんでいたのは危うさのある自嘲的な笑みではなく、眩しいものを見るような喜びを感じる微笑み。
柚子が好きないつもの自信にあふれた優しい顔だ。
「だから、玲夜の用意する牢獄なら喜んで入るわ。暮らしやすく整えてくれそうだし。でも、牢獄の鍵は私に渡してね」
「鍵を渡したら意味はないだろう」
玲夜はこらえきれない様子で珍しく爆笑している。
「出入り自由じゃないと学校に行けないし、お店もするんだもの」
「きっとこんなに活動的な花嫁は柚子ぐらいだろうな」
「そのせいでいつもにゃん吉君に怒られちゃうんだけどね。鬼龍院様が不憫だろう!って。でも、それを許してくれる玲夜の懐の広さを自慢するといいと思うよ」
「そうだな。なら、懐の広い俺は快く柚子を送り出すとしよう」
結い上げられた髪を崩さないように後頭部に手を置いた玲夜に引き寄せられ、熱をもった甘すぎるキスを受けると、玲夜の唇には柚子の口紅の色がついてしまう。
「あっ」
気付いた柚子が思わず手を伸ばすがその手は玲夜に握られ、玲夜は親指で自分の唇を拭うと、まるで柚子に見せつけるように口紅のついた指を舐めた。
不敵な笑みを浮かべる玲夜から顔を逸らす柚子の顔は口紅のように赤い。
柚子が時計を見て、そろそろ透子が来る時間だと逃げるように部屋を出た柚子を雪乃が声をかけて止める。
「柚子様、少しお待ちを」
「なんですか?」
「失礼いたします」
雪乃の手には口紅と筆があり、ささっと口紅を塗り直してくれた。
まるで口紅を塗り直す必要があることを予見していたかのような用意周到さだ。
なにも言わない雪乃の気遣いが逆に恥ずかしい。
別の使用人が鞄を持たせてくれたが、彼女たちの顔をまともに見られなかった。
羞恥に震える柚子とは反対に玲夜はひょうひょうとした様子で、雪乃から渡されたちり紙でついてしまっていた口紅を拭っている。
そんな玲夜と玄関の外で待つ。
足元では不機嫌な様子を隠そうともしない龍と子鬼がうろうろしている。
『鞄に隠れていたらバレないのではないか? もしくは着物の袖の中とか』
「龍は霊力強い」
「すぐバレる」
『うーむ』
などと、どうにかしてついていこうとしている龍を子鬼ふたりが止めていた。
花茶会へは、透子と一緒に鬼龍院の車で行く予定である。
スマホに届いた『もうすぐ着く』というメッセージの通り、何分もしないうちに猫田家の車が到着した。
車から下りてきた透子は柚子と同じ淡い黄色の着物を着ている。
柄はそれぞれ違うが、まるでおそろいコーデのようだ。
着物の裾に気を遣いながら車から下りた透子は、はつらつとした笑顔で手を振ってくる。
「柚子~。よく似合ってるじゃない」
「透子も綺麗」
「ふふん。馬子にも衣裳でしょ」
透子に続いて下りてきた東吉が玲夜に向かって頭を深く下げる。
「鬼龍院様、本日は透子もご一緒させていただくことになりましてありがとうございます」
「気にするな」
相変わらず玲夜を相手には緊張した様子の東吉。
猫又からすれば鬼は気を遣わねばならない相手なのだろうが、東吉の気遣いは透子には伝わっていない。
「にゃん吉ったら固いわね。もう長い付き合いなんだから気楽にしなさいよ」
「お前はもっと気にしろー!」
くわっと目を剥く東吉は、いつか透子が玲夜の逆鱗に触れないか心配なようだが、玲夜は案外透子のその気安さを気に入っている節があるので、多少の無礼は目を瞑ってくれると思う。
「うっさいわよ、にゃん吉。それより柚子と一緒に写真撮ってよ」
了承する前に透子は東吉にスマホを渡し、柚子の腕を組んでポーズをする。
東吉は透子への説教をあきらめて、やや疲れた表情でスマホをかまえた。
「ほら撮るぞー」
「いいわよ」
透子とふたり並んで撮られた写真はその場で柚子にも共有される。
「ふたりして着物でお出かけなんて滅多にないから記念になったわね。あっ、若様のところにももちろん送っといたんで」
「ああ。礼を言う」
こういうさりげなく、なおかつ嫌みも下心もない玲夜への媚びが透子が気に入られているところなのだろう。
「じゃあ、そろそろ時間だし行きましょっか。猫又の花嫁ごときが妖狐のご当主を待たせたらえらいことだわ」
「そだね。玲夜、いってきます」
「ああ。なにかあれば母さんか桜子を頼るといい」
さすがに透子たちのいる前でいつも出かける前にしている挨拶代わりのキスをするのは恥ずかしく、玲夜も柚子シャイな性格をよく理解しているので無理強いすることもない。
代わりに優しく頭をポンポンと撫でた。
我先にと鬼龍院家の車に乗り込んだ透子が窓から東吉に手を振る。
「行ってくるわね」
「頼むから主宰者に失礼な態度だけはしないでくれ。頼むから」
念を押す東吉からは、必死の願いが伝わってくるようだ。
「あいあーい」
「あーい」
玲夜の肩に乗った子鬼たちが、ついていけないことに落胆した顔で見送っていた。
「ごめんね、子鬼ちゃん。すぐ帰ってくるから」
そうして走り出した車内で、柚子は深いため息をついた。
「なによ。どうしたの、柚子は。そんなに花茶会が憂鬱なの?」
「そっちも気になるけど、今は別問題。玲夜がお休みだったの」
「あー、そう言われたみれば若様いたわね」
今気がついたというような透子に、柚子はここぞとばかりに愚痴る。
「高道さんも私が今日出かけることは知ってたはずなのに、先方の都合とは言え今日に休みをぶつけてくるなんて裏を感じる……」
「気のせいじゃない?」
「高道さんは玲夜至上主義だからなぁ。まだ玲夜の奥さんとして認められてない気がする」
一応表面上では柚子を立ててくれるし、披露宴でも柚子の要望を叶えてくれたりと、ある程度は認めてくれているとは思うが、完全にではないと感じる。
「まあ、前の婚約者が絶世の美女の鬼山桜子さんじゃあねぇ。柚子には太刀打ちできないわ」
親友ながら容赦のない言葉に、ぐうの音も出ない。
柚子の価値と言えば花嫁であることぐらい。
それ以外の品性も知性も容姿も桜子にすべて劣っているのは間違いない。
「透子はにゃん吉君と一緒にいて劣等感を覚えたことないの? にゃん吉君にも透子が花嫁に選ばれるまでは婚約者がいたんでしょう? 玲夜と一緒で家が選んだ政略らしいけど一応いたわけだし」
同じあやかしとなると、婚約相手は人間の透子よりずっと美人であることは間違いない。
だというのに、透子ときたら……。
「ないわね。さらに言うと婚約者の存在を気にした記憶もないわ。ミジンコほども」
ほとんど考える間もなく否定した。
さっぱりした性格の透子らしいといえば透子らしいのだが、もう少し悩んでもよさそうだ。東吉のためにも。
政略とはいえ好きな人に婚約者がいたのだから。
「そもそも、にゃん吉が私を選んだんじゃなくて、私がにゃん吉を選んであげたんだもん。劣等感なんかあるはずないわよ。おほほほほ!」
劣等感?なにそれ美味しいの?と言わんばかりである。
透子のように強気な態度に出られたらどれだけ楽だろうか。
羨ましさを通り越して尊敬する。
柚子なんかは、玲夜に婚約者がいると聞いて悩みすぎるほど悩んだというのに、このあっさりさは見習いたい。
「なんかちょっとにゃん吉君が不憫に思えてきた」
まあ、透子の態度は今に始まったことではないのだが。
「私と結婚できて不憫なわけないでしょうよ」
「透子には玲夜が心配してたような問題は起こらなさそうね」
「なにそれ。どういうこと?」
「花茶会を始めた理由があるらしいんだけどね……」
柚子は玲夜から教えてもらった花茶会を開催にいたった経緯を透子にも伝える。
すると納得の様子で頷いた。
「はー、花茶会にそんな裏があるなんてね。でも花嫁達の気持ちも分からないでもないわね」
「透子に分かるの?」
散々東吉を振り回しておいて、囲われる花嫁の気持ちを理解できるのかと、柚子はちょっと失礼なことを思った。
「柚子、あんた私をなんだと思ってるわけ?」
透子は心外だと言わんばかりの表情。
「私だって、にゃん吉の束縛にうんざりする時けっこうあるもの」
「そうなの?」
「そりゃそうよ。あれは駄目これも駄目っていろいろと行動を制限してくるしさ。普段は私の我儘にもすぐ折れてくれるくせに、私の行動については絶対におれてくれないんだから」
とてもそうは見えないのだが、透子は不満そうな顔をすると、柚子をびしっと指さした。
「というか、柚子は若様が相手でめちゃくちゃ恵まれてるんだからね! 花嫁を得たあやかしで柚子みたいに自由にさせてくれる人ってほんとに珍しいんだってば。若様の寛大さをもっと自覚した方がいいわよ」
「分かってるよ」
「分かってない! これまでにバイトして料理教室に通って、学校にも行かせてもらうことになって、果てには自分の店を持ちたいって。あんたどんだけ我儘なのよ!」
まるで東吉に対する鬱憤を晴らすように、柚子への非難が止まらない。
「えー」
「私なんか高校に行ったらバイトするのが楽しみだったのに、少しの時間ですら許してもらえなかったのよ。なのに、いくら若様が決めた場所とはいえ働くのを許してもらうなんて普通あり得ないんだから」
「私はごく普通のお願いをしただけで……」
「そのごく普通が花嫁には許されないから、心を病んじゃう人とかいるってことなんじゃないの? 私だって外で働けるものならしてみたいけど、にゃん吉が絶対に許さないもの」
力関係で言うと透子が完全に東吉を尻に敷いているのだが、確かに高校に入って同じカフェでバイトしようと透子とふたりで面接に行こうとして東吉に止められた当時を柚子は思い出した。
あの時は、透子と東吉が大喧嘩した上で、結局柚子ひとりで面接に行くことになったのだ。
普段泣かない透子が大泣きしたいたのを覚えている。
だが、柚子ももの申したい。
「でも私だってそれまでバイトしてたお店を玲夜に勝手に辞めさせられたのよ。けっこうひどくない?」
「その後、ちゃんと若様の会社でバイトしてたじゃない」
「まあ、確かに」
一瞬で透子に言い負かされてしまう。
結局そのバイトもなあなあのうちに辞めされてしまったが、働かせてくれたのは間違いない。
「若様は多少折れて代替案を出してくれてるでしょ? にゃん吉にはそれがないのよね。花嫁だから駄目の一旦張りよ。ほんと、若様の爪の垢を煎じて飲ませたやりたいわ。でも、花嫁の世界じゃにゃん吉が普通で、若様の方が異端なのよね。きっと今日花茶会に来る他の花嫁も私と似たような扱いじゃないかしら」
これまで幾度となく東吉に花嫁たるものはと苦言を呈されたきたが、最終的には玲夜が許してくれるからと右から左に流していた。
しかし、柚子が思っている以上に玲夜は柚子に甘い対応をしているようだ。
「……ねぇ、透子。もしかして私かなり我儘女?」
「今さら気付いたの? 馬鹿柚子。若様をもっと労りなさい」
「はい……」
がっくりと柚子はうなだれた。
透子は小さくため息をつくと、達観したような表情で窓の外を眺める。
「大切にしてくれるのはありがたいんだけど、花嫁を持ったあやかしは度が過ぎるのよ。でもそれがあやかしの本能らしいから仕方ないってあきらめるしかないわけ。逃げようものなら地獄の果てまで追ってくるわよ。その愛情の深さを重いと感じてしまったらきっともう終わりなんでしょうね。それまで許せていたすべてが憎しみと嫌悪に変わっちゃう」
「透子はまだ大丈夫よね?」
あまりにも感情の乗ったその言葉に、柚子は心配になってしまった。
「私は大丈夫よ。その気になったら柚子に助けてもらうから。なんせ、子鬼ちゃんに霊獣が三匹。さらには恐怖の大王が背後に立ってるんですもの」
ケラケラと軽快に笑う透子に、柚子はほっとした。
やはり透子は元気いっぱいでなくては、調子が狂う。
そうこうしていると、妖狐当主の屋敷に着いた。
「わぁ、すごいお屋敷」
「さすが妖狐のご当主が住んでるところね。絶景絶景」
鬼龍院本家の屋敷に負けぬ厳かな雰囲気の和風のお屋敷で、和風は和風でも、まるで平安時代にタイムスリップしたかのような気分に陥る景観だ。
あまりの広さに迷子にならないか心配になってくるところは本家と変わらない。
気のせいだろうか。門の中に足を踏み入れた途端に空気が澄んだように感じた。
清浄な風がどこからともなく吹いてくるよう。
その感覚は車から下りて、家人に案内されて屋敷の中を進むごとに強くなる。
「ねぇ、透子。なにか感じない?」
「なにが?」
なにと問い返されても困ってしまう。
だがなにか不思議な感覚がした。
「まさかまたなんかあるの?」
透子が心配そうに聞いてしまうのも仕方がない。
柚子は他の誰にも感じなかった龍や過去の怨念の存在にただひとり気がついたりと、その直感を無視できない経緯がある。
「また変な怨霊が出てくるんじゃないでしょうね」
「いや、そんな悪いものじゃなくて、もっと神聖な感じ? 私もうまく説明できないんだけど……」
どうやら透子には感じられていない様子。気のせいかと思っていたところ──。
『それならば、この敷地のどこかにある社のものだろう』
柚子の袖からにゅっと飛び出してきた龍に、柚子と透子はぎょっとする。
「うわっ!」
透子は思わず後ろにのけぞってしまい、柚子も思わず大きな声が出た。
「なんでいるの!?」
『にょほほほほ。柚子が車に乗り込んでいる隙にこっそり袖の中に隠れたのだ。気付かなかったであろう? 霊力を最小限まで抑えていたから、運転手も気付かなかったようだ。我とてやればできる!』
龍はご機嫌に笑いながらうにょうにょするが、柚子は困ったことになったと焦る。
「今日は花嫁以外の参加は駄目だって言ったでしょう!」
ぷいっと顔を逸らせる龍の態度に、柚子は半ギレる。
龍を鷲掴んで袖から引きずり出すと、グルグルと回した。
『ぬおぉぉぉ!』
「柚子、ヤバいんじゃないの?」
「透子、どうしよう!?」
龍を回してお仕置きしている場合ではないと離せば、龍はほっと息をついている。
「どうしようって言っても来ちゃったものは今さら帰せないし……」
「あああ~。ご当主になんて言えば……。先に桜子さんに相談できないかな」
柚子は頭を抱えた。
散々ついてきては駄目だと忠告したのに、この龍ときたら自由がすぎる。
仕方なく龍がどこかに行かないように捕まえたまま、家人の後についていくことに。
案内された二十畳ほどの和室の部屋には、撫子の花が飾られており、華美さはなくとも品のよさが伝わる和室の雰囲気に合うテーブルと畳用椅子が並んでいる。
椅子の数からいうと、呼ばれているのは十人ほどなのだろうか。
主催者である沙良と妖狐の当主。手伝いだという桜子を入れると、柚子の予想より少ない人数だった。
すでに沙良と桜子は部屋におり、他にも花嫁と思われる数名のご婦人が座っていた。
柚子の姿を見ると沙良が立ち上がって笑顔で近付いてくる。
「柚子ちゃん、よく来てくれたわね」
桜子も沙良より一瞬早く椅子から立ち上がって柚子に向けて一礼すれば、それを見た他のご婦人まで倣うように椅子を立つ。
すると、微かにご婦人たちの声が聞こえる。
「もしかしてあの方が?」
「そうみたい。鬼龍院の花嫁の……」
「まだお若いわね」
どうやら柚子の顔を知らないらしい。
これでも一応様々なパーティーや集まりに玲夜と出席しているのだが、柚子も彼女たちは知らなかった。
「柚子ちゃんの隣はお友達の透子ちゃんね。披露宴で挨拶したから覚えてるわよ」
「この度はお招きくださいましてありがとうございます」
かくりよ学園で身につけた礼儀作法を遺憾なく発揮して綺麗な礼をする透子を見て、柚子も慌ててお辞儀をする。
「そんなかしこまらなくていいのよ。今日はうるさい男たちはいない女だけのお茶会ですもの。無礼講よ」
あやかしのトップに立つ鬼龍院当主の妻でありながら、そう感じさせない気さくな人だと柚子はほっこりする。
透子も最初こそ緊張した顔をしつつも、少し表情が緩んでいる。
これはもう沙良の人柄ゆえだろう。
千夜も似た雰囲気だが、どうやらふたりの人当たりのよさは玲夜に微塵も受け継がれなかったようだ。
とはいえ、千夜の場合は見せかけだけで、玲夜の父親だと納得の黒さを時折垣間見せるので、密かに柚子の要注意人物に指定されていたりする。
空いた席を見るに、どうやら撫子はまだ来ていない様子。告げるなら今しかない。
「あの、お義母様。ちょっと不測の事態がありまして」
「あら、なぁに?」
柚子は鷲掴んだ龍を申し訳なさそうに見せた。
ぶらーんと、沙良の前に突き出された龍はに、沙良も目を丸くする。
『なんという雑な扱い。我って結構すごい霊獣なのに……』
龍がなにやら不満を口にしているが、誰ひとり聞いていない。
「ついてきちゃ駄目って念を押してたんですけど、いつの間にか潜り込んでたみたいで……」
「あらまあ」
近くに寄ってきた桜子も「どうしましょう」と困ったようにしている。
「大人しくさせときますので、一緒でもいいですか?」
そんな会話をしている間も続々と招待客が訪れ席が埋まっていき、未だ立ったままの柚子たちを不思議そうに見ている。
「一応花嫁だけのお茶会だから……」
沙良はうーんと唸りながら、頬に手を置いて部屋の中を見回す。
「霊獣さんだけ別室で待機してもらおうかしら」
後は撫子の訪れを待つばかりとなった状態で、早く対処せねばと気が焦る柚子は迷わず頷いた。
しかし……。
「いや、一緒でも問題なかろうて」
部屋の入り口から聞こえてきたしっとりとした声にはっとすると、集まっていた花嫁たち全員が立ちあがって深く頭を下げた。
柚子も慌てて礼をした相手は、妖狐の当主、狐雪撫子だ。
波打つ白銀の髪は美しく輝いており、妖艶な顔立ちと雰囲気に、女性ですらドキリとしてしまう。
彼女の存在感は強く、一気にその場の空気を支配してしまう。
立っているだけで周りに自分を注目させてしまうそのカリスマ性は、玲夜も持ち合わせているものだ。
シンプルな着物の上に色打ち掛けを羽織っており、撫子が歩くたびに衣擦れの音がする。
柚子が結婚式で着た色打ち掛けも華やかで綺麗だったが、撫子のものは華やかさだけでなく色気と品を感じさせる。
これは着ている者の違いがそう感じさせるのかもしれない。
「よいよい。皆面をあげよ」
言われるままに頭をあげて姿勢を正す。
撫子に対して頭を下げなかったのは沙良だけだ。
あやかしの頂点にいる千夜の妻なのだからそれもおかしくないが、それ以上に沙良は撫子に対して親しげに話しかけた。
「でも撫子ちゃん、花嫁のお茶会だしぃ」
「それを言うならば桜子とて花嫁ではないじゃろ。相手は誇り高き霊獣。なにか問題を起こすわけでもなし、そう厳しくせずともよかろう。皆はどうじゃ? 霊獣がともにしてもよいかえ?」
撫子にそう問われて嫌だなどと言える強者がいるはずもない。
「私はかまいませんわ」
「ええ。私も」
「私もです」
なんだか無理やり言わせてしまったような気がしないでもないが、怒られずに済んで柚子は心の底から安堵した。
「ありがとうございます」
柚子はまず撫子に頭を下げ、次に他の花嫁たちにも同じように礼を言った。
『むふふ、さすが妖狐の当主だけあって懐が大きいではないか』
偉そうな口をきく龍を、とりあえず締めあげて黙らせることにした。
『むぐうぅぅ、むがぁぁ』
普段は子鬼たちに龍の世話を任せていたが、かなり骨が折れる仕事のようだ。
今さらになって子鬼の苦労を理解する。
「お願いだから大人しくしてて! でないと、帰ったらボールに縛りつけて、まろとみるくの前に転がすからね」
『う、うむ。分かった! 我はいい子にしておる』
不安を残しながら始まった花茶会。
本来ならば沙良か撫子が上座に座るのが常なのだろうが、今回ばかりは新参の花嫁ということで、柚子と透子が主賓として上座に座らされる。
当然それとなく遠慮したが、花茶会に初めて参加する花嫁には恒例なのだそう。
沙良や撫子を差し置いて上座に座ると思うと冷や汗が止まらなくなるが、隣にいる透子はもっと顔色が悪い。
なにやらブツブツ「ヤバいヤバいヤバい」と言っているのを隣にいる柚子だけが聞こえたが、恐らく五感の発達したあやかしである沙良と撫子と桜子には聞こえているのだろう。
桜子が透子を見て不憫そうにしていた。
「では始めよう。今回はふたりの花嫁が新たに加わった」
撫子の開始の言葉とともに視線が柚子と透子に集まる。
撫子の後に続くように沙良がふたりを紹介する。
「龍を連れているのが私の新しい娘になった柚子ちゃんで、その隣が猫又の花嫁になった猫田透子ちゃん。ふたりとも新婚ほやほや、ラブラブ真っ只中よ~。はい、拍手~」
パチパチと柚子と透子に向けて拍手がされる。
披露宴を行うよりなんだか気恥ずかしい気がする。
皆、歓迎するように微笑んでくれていたが、中には憐れみを含んだ眼差しで見てくる者もいて気になった。
今度は新参者の柚子たちに対して、沙良がここのいる花嫁の紹介を端からしてくれる。
人数が少ないとはいえ、顔と名前を一致させるのはすぐには無理そうだ。
それでもできるだけ覚えるべく、真剣に耳を研ぎ澄ませる。
「花茶会では下の名前で呼ぶのが決まりだから、ふたりとも覚えておいてね」
「はい」
「承知しました」
全員の紹介が終わると、お昼時とあって、茶菓子ではなく料理が運ばれてきた。
目にも鮮やかな松花堂弁当が運ばれてくる。
使用人ではなく桜子が汁椀をそれぞれに運んでくれていたので、柚子は桜子だけにさせるわけにはいかないと手伝おうとしたが、やんわりと席に戻される。
「これは私のお役目ですから」
有無を言わせぬ力があり、柚子は大人しく座り直した。
すると、ふたりの様子を見ていた沙良がふふふと笑う。
「桜子ちゃんはもともと玲夜君の婚約者だったでしょう? だからね、いずれは私の代わりに花茶会の主催者の役目を引き継いでもらおうと、桜子ちゃんにお手伝いに来てもらっていたの」
「なるほど」
花嫁しか出席できないはずの花茶会に、花嫁でも主催者でもない桜子が参加している理由を知る。
「でも玲夜君には柚子ちゃんという伴侶ができたし、桜子ちゃんも高道君と結婚したでしょう? 今後どうしようかと悩んだんだけど、桜子ちゃんは人をまとめるのがとっても上手だから、柚子ちゃんの補佐としていてくれたら柚子ちゃんも心強いかなってね」
にっこりとした笑顔でとんでもないことを言い出し、柚子は焦る。
「えっ! 補佐ってそれはどういう意味ですか?」
「いずれはこの花茶会を柚子ちゃんに任せたいのよ。だって鬼龍院の次期当主である玲夜君の奥さんだもの。ねっ?」
「ねって急に言われても……」
今日始めて参加するお茶会を任せられても困る。
「大丈夫よ。花茶会のことは桜子ちゃんがよぉく知ってるし。私と撫子ちゃんが現役のうちはちゃんと私たちで主催するから。なにせ私たちが始めたことだし、急に全部柚子ちゃんに押しつけたりしないわよ」
先を促すように沙良が撫子の方を向けば、撫子もゆっくりと頷いたので、柚子もわずかに安心する。
「沙良にとってのそなたや桜子のように、妾には任せられそうな者がおらぬでな。妾たちが始めたものをふたりで続けていってくれると嬉しいよ。花嫁たちのためにも」
「花嫁の……」
ぐるりと見渡せば、花嫁たちの切望する眼差しが柚子を突き刺す。
無言の圧力を与えられて、柚子は気圧される。
こんな場面で嫌と言える勇気は柚子にはない。
「わ、分かりました」
「ほほほ。期待しておるぞえ。基本不定期に開催して、参加者も毎回変わる茶会じゃが、次からは勉強のためにも桜子と一緒に必ず参加しておくれ」
「はい……」
なんだかうまく丸め込まれたような気がしないでもないが、今さら嫌とも言えない。
隣から向けられる透子の気の毒そうな眼差しが痛い。