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「母様、行って参ります」

「あぁ春野、気をつけて行ってらっしゃいね」





番傘を叩く雨音の中、私は女学校への道を足速に歩いた。五年生になったばかりの私の胸元には、鮮やかなえんじ色がたなびいている。お父様に買っていただいたばかりの新しいリボン。けれどこの色が、私の心を憂鬱にした。


「うわっ!えんじだ!えんじ!」

「ほんとうだ、えんじだー!」

「女が勉学だなんて、ズウズウシイよな!」

「そうだよな、女のくせにー」


男の子が二人ばしゃばしゃと、傘もささずに私の脇を駆けてゆく。跳ねた泥がおろしたての足袋を汚す。それで私はまた一層深く、番傘を被りなおすのだった。


女が漢字の名前を持っているというだけで、鼻につくと言われるような時代だ。女が高等学校に通っていることは、まだまだ珍しいことだった。その中でも私は、四年制ではなく五年制の学校に通っている。えんじ色のリボンといえば五年生の色と、ここらの人間で知らぬ者はいないだろう。この制服を着て歩いているだけで、後ろ指をさされることも早五年。もう慣れたつもりでいたのだけれど、やはり胸元にえんじというのは余程目立つらしい。先のように野次られることも、この春から一段と増えたように思う。 


番傘は良い。低く持てば、顔も胸元の色も隠してくれる。頭上を叩く雨音が心を落ち着けてくれた。





酒屋さんが通りの向こうに見えてきた。そこは母様がお父様のお酒を買うのに懇意にしている酒屋だった。店の主はもういい歳のお爺さんで、私が通りかかるのに気がつくと、声をかけてくださる気さくな方だ。家事の類は全て女中さんに任せている母様だったけれど、お爺さんとお話をするのが楽しいからと、お酒だけは自ら買いに出られる。店主のお爺さんは、それほど明るく気の良い方なのだ。だからその日も、お爺さんがいらっしゃらないかと私は少しだけ番傘から顔を出してみたのだった。


がたいの良い男の人が一人、店から出てくるのが見えた。その人はいつもお爺さんが付けているものと同じ前掛けをしていた。店の前には木箱をたくさん積んだ荷車。彼はその木箱の中の一つをよいと持ち上げ、そのまま店の中へと消えて行った。見覚えのない人だった。最近新しく雇われた人だろうか?確かに力仕事はお爺さん一人では大変だろうと、先日お父様と母様がお話ししてらしたところだった。


私が足を進める間にも、彼は店から出てきては、よいっと箱を持ち上げ店の中へと運ぶことを繰り返した。雨の中傘もささぬ彼の背中は、どんどんと濡ってゆく。その姿に私はつい、番傘を被り直すことも忘れてしまっていた。





酒屋まであと一間となる頃にはもう、荷車はすっかり空っぽになっていた。さきの彼も最後の箱とともに店の中へと飲み込まれたきり。今日はお爺さんはいらっしゃらないのかしら?と仄暗い入り口を覗き込んでみようとして、私は軒下の隅に何やら白い塊があることに気がついた。


「あら...?」


雨粒の向こう側へと目を凝らすと、それはどうやら仔犬のようだった。その子は小さくうずくまり、雨の中ふるふると震えていた。雪のように白かったであろうその毛も、所々土色に汚れてしまっている。


「まぁ...可哀想に」


助けてあげたかった。けれど外にいる生き物に無闇に触ってはいけないと、普段からお父様と母様に口酸っぱく言われていた。お父様の弟は幼い頃に犬に噛まれて病気になって死んでしまったから、お前も気をつけなくてはならないよと。それでもびしょ濡れで震えているその子があまりに不憫で、私は気付けば店の前ですっかり足を止めてしまっていた。すると入り口の暖簾がめくれて、さきの彼が店から出てきた。その手には手拭いと缶詰があった。


背中を丸めて及び腰に、大きな体で恐る恐るというように小さな仔犬に近づいてゆく彼。一歩、また一歩。へっぴり腰になりながらも彼はその犬へと足を進めた。そうして大きく深呼吸をひとつ。彼は仔犬に向かって手拭いをふわりと投げかけた。白いそれははらりはらりと舞い落ちて、仔犬の臀部に上手に着地した。小さく息を呑んだ私の存在に、彼は一切気づいていない様子だった。そのまま彼は緊張の面持ちでそろりそろりと缶詰を地面に置くと、すぐさま大袈裟なほどに後ずさり、ふぅと大きく息をついた。大きな体には似合わないその行動の一部始終に、私は思わずくすりと笑ってしまった。





雨の中、私達はそれぞれ仔犬を見守った。息も殺して見守った。しばらく手拭いの中で震えていた仔犬は、やがておずおずと缶詰に近づくと、そっと口をつけた。
 

「あぁ」


無意識に声が口からこぼれてしまった。もうすっかり彼と一緒になって仔犬を介抱しているつもりになっていた。けれど思えば今の私は、彼の行動をこっそり盗み見していたようなもの。しまったと顔を上げたその瞬間、彼とはたと目が合った。
怪訝な目をされるかと身構えた私をよそに、彼は驚いたように目を見開いた後、少し照れたようにはにかんで会釈をくれた。雨の中、私達は無言の挨拶を交わした。


通学路は好きではなかった。この制服を着て、胸元にえんじをたなびかせ歩かねばならない時間。後ろ指を刺され続けた四年間。けれどそんなことを人に相談できるはずがなかった。我儘だと言われるに決まっていたから。
ここ一帯の土地を管理する裕福な家に生まれ、十五になる今まで何不自由なく育ててもらった。それなのに、どうしてだろう。ずっと、どこか満たされないような気持ちを抱えて生きてきた。高価な装飾品でも、山盛りのご馳走でも、満たせない何かがずっと足りないように思えていた。まるで何かを探しているような、そんな感覚。けれどそんな事を人に言うには、自分があまりに恵まれた環境にいることもわかっていて。だから毎朝心を押し殺すように歩いていた。何かを探しながら。それが何なのかもわからないまま。けれど、今日は。


優しい瞳。仔犬を見守る彼の姿が、私の目に、耳に...心に、不思議なほどに焼きついた。
番傘を叩く雨音とともに、心の中、ぽっかりと空いたままだった隙間が、少しずつ満たされていくような、何故かそんな心地がした。