"わたし"が死んで、"私"が生まれた日。




三日後。


朝、仕事に向かうお母さんを見送ってから家に戻って二階にある自分の部屋の中を物色する。


この家に戻ってきてから、私は毎日記憶に繋がる手がかりを探していた。


目ぼしいものはあまり見つからないため片付けも兼ねて色々見ていた時。


家のインターホンが鳴って、ゆっくりと階段を降りる。


モニターを見ると、そこには一人の女性がいた。


その女性がカメラに向かって顔を上げた瞬間。



「ヒッ……!?」



その、少し垂れ下がった皺のある奥二重の目と白髪混じりの髪の毛には、見覚えがあって。


急に痛む頭。全身に鳥肌が立って、震えが止まらなかった。


立っていられなくなり、そのまま逃げるように後ろに尻餅をつく。



「あっ……え、あ……いやっ……」



依然として突き刺すようにこちらに向けられた視線。


言葉にならない声は、まるでモニターの向こうにも聞こえているかのような錯覚がした。


それから何度も鳴るインターホン。


次第にドアをガチャガチャと何度も引く音が鳴り、


さらにはドアを手で叩くような音も聞こえて。



「いるんでしょ?奈々美ちゃん。開けて!開けなさい!」



その声から逃れるように、思わず手で塞いだ両耳。


膝を立てて、そこに頭を埋めて。いつのまにかこぼれ落ちていた涙に、グッと下唇を噛む。


「お母さん……龍之介くんっ……」



無意識に呟いた声は、誰にも拾われることなく地に落ちていき。


声が止んだ一瞬の隙に、逃げるように階段を静かに駆け上がり自分の部屋のベッドの中に潜り込んで枕で頭を押さえた。





どうやらそのまま泣き疲れて眠ってしまっていたようで、気が付いた時には部屋は暗くなっており外は夕焼け色に染まっていた。


自分の身に何が起こったのか、しばらくボーッとしてるうちに午前中の出来事が蘇る。


また震え始める身体を自分の両腕で抱き締めながらベッドに座り、深呼吸を繰り返す。


どんなに辛い記憶でも、思い出したい。そう皆に宣言したのは私なのに。


襲ってくる恐怖心に押し潰されそうになってしまった。


ここで負けるわけにはいかない。……でも、怖い。


頭の中で繰り広げられる葛藤。そうしているうちに喉の渇きを感じて、震える足に鞭を打って部屋を出て階段を降りる。


どうやらまだお母さんは仕事から帰ってきていないようで、リビングも暗いままだった。


滲む冷や汗を拭いて水を飲んでから部屋に戻り、お母さんに新しく買ってもらったスマートフォンを見るといくつか通知が来ていて。



"奈々美、家での生活はどうだ?何かあったらいつでも話聞くから、電話して"



龍之介くんから来ていたメッセージ。


それを見て、スッと心が軽くなるような気がした。



「……会いたい」



無意識に押した通話ボタン。


切ろうかとも思ったものの、すでにコール音が鳴り始めていたためとりあえず耳に当ててみる。




突然かけたにも関わらず、龍之介くんは五コールで電話に出てくれた。



『……もしもし?奈々美?』


「あ……龍之介くん」


『何かあったか?』


「……ううん。ただちょっと、龍之介くんの声聞きたくなったから」



聞き慣れた低い声。再び心が少し軽くなる。


初めての電話は、衝動的にかけたからか話題なんて無くて。


言葉に詰まってしまって、沈黙が続く。


特に用は無いのに電話をして無言になってしまった私に、龍之介くんは



『なんか、ほとんど毎日のように会ってた時期もあるからこうやって電話で話すのも変な感じするな』



と話題を振ってくれて。


お互いの近況や、美優ちゃんの話をしているうちにあっという間に時間が過ぎ去っており、気が付けば一時間以上が経過していた。



「ごめんね。もうこんな時間」


『いいよ。俺も暇だったし。奈々美と喋りたかったし』



少し笑いを含んだ言葉に、胸が高鳴る。


電話越しに聞く声は、ダイレクトに耳から頭に響くからいつも以上に照れくさい。


じわりと熱を持つ顔に冷たい手を当てながら上を向いた。



「っ……ありがと龍之介くん。ちょっと落ち込んでたんだけど、龍之介くんの声聞いたら元気出た」


『やっぱ何かあったんだな?今度会った時に話聞かせろよ』


「うん。ありがとう」



今話してみろ、と言わないところが龍之介くんの優しさだ。


私自身、何が起こったのかよくわかっていないしまだ全く整理ができていない。今龍之介くんに話をしたところで支離滅裂もいいところだろう。


頭の中の整理ができたら、お母さんと龍之介くんに話してみよう。


近いうちに一緒に美優ちゃんに会いに行こうと約束して、電話を切る。


その時ちょうど玄関の鍵が開く音がして、再び部屋を出て階段を降りていった。





「ねぇお兄ちゃん。奈々美ちゃん、いつ来てくれるかな」


「どうだろうな。新しい生活で忙しいんだろう。記憶のこともあるし、多分大変なんじゃないか?」


「……そうだよね」


「……もしかして、このまま奈々美が来ないんじゃないかって心配してんの?」


「そんなこと……うん。実はちょっと思ってた」



奈々美が退院してから二週間が経過した。


奈々美から一度電話が来たきり、数回メッセージを送ってはいるものの返事は来ていない。


美優も寂しがっていて、俺も何かあったんじゃ?と気が気じゃなかった。


最初にこの病室で出会った時は、こんなに大切な存在になるなんて思っていなくて。


所詮美優が入院してる間だけの関係だって思ってたから、退院してからもこうやって自分から連絡していることに自分が一番驚いていた。


奈々美は、不思議なやつだ。


長い黒髪と、大きな目。綺麗なその瞳に、初めて会った時から吸い込まれてしまいそうだと思ったことを覚えている。


いつも柔らかな笑顔を浮かべていて、楽しそうに美優と喋る姿からはまさか記憶喪失になっているなんて微塵も感じさせなかった。




中庭で倒れた時にその余りに重い事実を知って、あんな華奢な身体と笑顔の裏でどれだけのものを背負っているのかと俺の方が怖くなった。


俺が力になりたい。家族以外の誰かのためにそう思ったのはもしかしたら初めてかもしれない。


だからこそ、今のこの連絡が取れない状況がもどかしくてたまらない。



「お兄ちゃんは、奈々美ちゃんはまた来てくれると思う?」


「あぁ。だってアイツはお前の友達だろ?」


「うん……。でも、そう思ってるのは私だけなんじゃないかとか考えちゃって」



美優がそんな弱音を吐くことは滅多に無くて。


急に大部屋に一人になったのが相当ストレスになっているのだろうと想像ができる。



「美優はさ、奈々美のどんなところが好きなわけ?」


「奈々美ちゃんの?」


「うん」


「そりゃあ、笑顔が可愛くて、優しくて、頭も良くて、しゃべっててすごく楽しくて。本当のお姉ちゃんみたいに思ってるの。……最初は一人部屋じゃなきゃいいって思って大部屋に移ったけど、もし同じ部屋なのが奈々美ちゃんじゃなかったら、きっともっとつまんない生活だったなあって思って」



奈々美の話をする美優は、とても嬉しそうだ。


最近は側から見ても姉妹に見えてくる二人。


似たような怪我をしたからか、通じるものがあったのだろう。


だからこそ、急に会わなくなって不安が募っているのだ。





「学校の子たちが来てくれるのももちろん嬉しいし、翼が来てくれるのももちろん嬉しい。でもやっぱり私は奈々美ちゃんともお話ししたい。お兄ちゃん、奈々美ちゃんと連絡取れる?」



美優の不安そうに揺れる目に



「わかった。もう一度連絡してみるよ」



と答えながらも、実は俺も漠然とした嫌な予感がしていた。どうせまだ暗くなるまで時間はある。この後奈々美の元を訪ねてみようかと決意した。


美優の病室を出て、以前美優が手紙を出したいからと聞いていた住所に向かう。


思っていたよりも病院から近かった住宅街で、何か大きな音が聞こえて恐る恐る進むと、広い庭の向こうにある一軒の家のドアを何度も叩いている女がいた。



「奈々美ちゃん!いるのはわかってるのよ!開けなさい!開けなさいってば!」



奈々美?


聞き慣れた名前に、その敷地の前にある表札を確認した。


桐ヶ谷と書かれたそれを見て、慌てて玄関へ向かう。



「奈々美ちゃん!?」


「あの」


「っ!?誰!?」



声をかけると、慌てたように振り向いたその女は俺の顔を見て数歩後ろに下がる。



「この家に何か用ですか?」


「あんたには関係ないでしょ!?私はねぇ!この家の娘に用があるの!」


「でも、そんな大声出してドア叩いてたら怪しいし十分不審者ですよ。警察呼びますね」


「なっ……!?」



スマートフォンを取り出して通報する素振りを見せると、その女は慌てて俺を押してその場から逃げていく。




敷地から出たのを見て、呼吸を置いてからインターホンを押そうと手を伸ばす。


しかし一旦手を止めて、もう一度スマートフォンを出して電話をかけた。


一分間ほど、コール音が鳴り続けただろうか。



『……りゅ、のすけ……くん』



聞こえた声に、



「うん。俺。奈々美、今奈々美ん家の前にいるんだ。さっきの変なおばさんは逃げてったから、もう大丈夫」


『え……?うちに来てるの?』


「あぁ。奈々美に会いに来たんだ。ドア開けてくれるか?」


『ち、ちょっとまってて……!』



家の中から、階段を駆け降りてくるような音が聞こえて。


すぐにガチャリと鍵が開いた。



「龍之介くん……!」



開いたドアから飛び込むように抱きついてきた奈々美を驚きつつも受け止める。



「奈々美、怪我は無いか?大丈夫だったか?」


「うん、うん……。大丈夫」



大丈夫と口では言いつつも、全身が震えているのがよくわかる。その背中をトントンと数回叩き、



「一回入ってもいいか?」



となるべく優しい声をかけた。



「ご!めん……!ごめんねせっかく来てくれたのに。入って……」



慌てて俺から離れて招き入れてくれた奈々美に



「お邪魔します」



と声をかけて入る。


ドアを閉めて鍵をかけたのを確認して、靴を脱いで中に上がらせてもらった。




「急に来て悪かったな」


「ううん。助かったよ。ありがとう。……でも変な人がいてびっくりしたでしょ?」


「まぁ……。あの女、知り合いか?」


「……わからないの。でも見覚えがあるような気もするし、それにあの人、私の名前知ってるから。多分知り合いなんだろうとは思うんだけど……。頭が痛くなって、でも何も思い出せないの」


「家の人には?言ったか?」


「ううん。まだ。……ただでさえ私のことで日本に帰ってきてもらって忙しいのに、これ以上お母さんに迷惑かけたくなくて……」



だんだんと語尾を小さくしながら俺の前に麦茶を置いた奈々美の腕を掴むと、驚いたようにこちらを見た。


その額に冷や汗が見えて、袖でそっと拭う。


びくりと肩を揺らした奈々美の頭にポンと手を乗せた。



「それは違うだろ。それは迷惑なんて言わない。むしろ言わなきゃ心配かけるだけだ。あんなの只事じゃない。親御さんにはちゃんと言わないと」



目を見てはっきりそう告げると、奈々美は数秒押し黙ってから、ゆっくりと頷いた。



「……うん。そうだよね。言わなきゃいけないよね」



ありがとう。そう呟いた奈々美の顔は、記憶を取り戻したいと力強く言っていた時と同じ表情に戻っていた。




「……今日、帰ってきたらお母さんに話してみる」


「あぁ。それがいいよ」



安心して俺も表情を緩めると、奈々美は急に眉を下げて。



「話した後、夜に電話してもいい……?」



そんなこと、わざわざ確認する必要もないのに。



「もちろん。待ってる」



返事をした後のホッとしたような笑顔が、俺の胸に残る。


可愛い。俺がその笑顔を守ってやりたい。


それは、美優に対するものとは同じようで全く違う感情。


その感情に身を任せるように、立ち上がってから掴んでいた奈々美の腕を引く。



「え……?」



ぽす、と俺の胸におさまった華奢な身体。


少し力を入れたら折れてしまいそうなくらいに細い奈々美を優しく抱きしめると、腕の中で奈々美が固まっているのがわかって思わず笑ってしまった。



「なっ……龍之介くん……!?」


「安心しろ。俺はいつだって奈々美の味方だし、奈々美の力になりたいって思ってる」


「……」


「だから、奈々美ももっと俺を頼っていいから。つーかもっと俺を信用して頼れ。甘えろ」


「龍之介くん……」



もう少しだけ力を込めて抱きしめる。髪の毛からふわりと香るシャンプーの甘い匂い。


恐る恐る背中に回った小さな手が、俺の服をギュッと掴んだ時。


それが癖になりそうなほどに、このまま離したくないとさえ思うほどに、愛おしさが俺の頭の中を占めた。