「あいつはそんな弱いやつじゃないから。今はちょっと落ちてるだけで、またすぐ復活するから。だからちょっとの間そっとしといてやって」
「うん。わかった」
こんなに優しくて思いやりのあるお兄ちゃんがいるんだ。きっと、大丈夫。
そう思うと同時に、そんな存在がいることが純粋に羨ましいと思ってしまう自分が嫌いだ。
心の奥にどす黒い感情が見え隠れしているようで、自分の性格の悪さに吐き気がしそうだ。
「ただいま奈々美ちゃん、お兄ちゃん」
「おかえり。リハビリどうだった?」
「それがね?聞いてよ奈々美ちゃん、いつもの先生が急にお休みになっちゃって別の先生だったんだけど。今日の先生、すんごいスパルタだったの!手のね?───」
部屋に戻ってきた美優ちゃんの笑顔には、どこか力強さが見えた気がした。
「だから悔しくて悔しくて!明日もあの先生だったらどうしよう!ねぇ奈々美ちゃんどう思う!?」
「ふふっ、多分それ私の担当の先生だと思う。あの人すごいスパルタだよね?」
「え!?奈々美ちゃんの担当の先生だったの!?」
「うん、多分そうだと思う。もうね、あの先生は諦めた方がいいよ」
止まることのなさそうな美優ちゃんの愚痴に付き合っているうちに、胸の奥の黒いものは段々と薄くなっていくような気がした。
「美優ちゃんはすごいね」
「え?」
「私、美優ちゃんが同室になってくれて良かった」
「えー?奈々美ちゃん急にどうしたの?恥ずかしいよ」
「ふふっ、言いたくなっただけ」
「えー?変なのー」
美優ちゃんを見ていると、その強さに自然と励まされているような気持ちになる。
美優ちゃんがこんなにも笑顔で頑張っているんだ。それなら、私も暗い顔なんてできない。記憶を取り戻すためにも頑張んなきゃ。
そう思わせてくれる。
龍之介くんは私のそんな気持ちをよくわかっているのか、何も言わずに私たち二人の頭をくしゃくしゃと撫でてきて。
「ちょっとお兄ちゃん!?急に何!」
「龍之介くん!ちょっと!髪ボサボサになるって!」
「二人とも頑張りすぎだから。ちょっとは肩の力抜けよ」
それだけ告げて帰って行った龍之介くん。美優ちゃんとお互いの髪の毛を見て笑い合いつつ、
"肩の力"かあ。と布団に入った後にしばらく考え込んでいた。
真実が、必ずしも綺麗なものとは限らないから。
泥臭くても、かっこわるくても、
私は真実を追い求める。
─────
───
─
「桐ヶ谷さんって可愛いけどいつも一人じゃない?」
「そうなの?あれだけ可愛いんだから友達多いんだと思ってた」
「私入学してからずっと桐ヶ谷さんと同じクラスだったけど、特定の人と一緒にいるところ見たことないかも」
「え?そうなの?」
「うん、友達がいないわけじゃないんだけど、特別仲がいい子がいないっていうか……ほら、浅く広くって感じ?学校終わったらすぐ帰っちゃうし、遊びに誘っても絶対断られちゃうんだって」
「へぇー……そうなんだ。意外かも」
ふわり。夢の中で私はそんな会話を聞きながらどこかに浮かんでいた。
特別仲の良い友達はいない。その言葉に、なぜか納得した自分がいた。
自分の話題で盛り上がっている女子高生三人は、私が持っている制服と同じものを着ている。つまり先ほどの会話の流れからして、私の同級生のよう。
でもその顔はよく見えない。
三人の顔を見ようと、泳ぐように正面に向かう。
しかし三人の姿を追い越すどころか、どれだけ前に進んでも追いつかない。それどころかどんどん遠のいていて。
"待って"
そう叫んでいるつもりなのに、声は音にはならず空気に変わるだけ。
もちろんそれに三人が気付いてくれるわけがなく。
「そういえば駅前に新しいカフェできたの知ってる?」
「知ってる知ってる!行きたいなって思ってたの!」
「私も!じゃあ今日の放課後行こうよ!パフェがおいしいんだって!」
「うん、行こ行こ!」
気が付けば三人の話題は全く別のものに変わっており、そのまま廊下の角を曲がり見えなくなってしまった。
─
───
─────
一ヶ月の月日が経過した、とある日。
私はリハビリの効果か、もう自分の足で歩くことができるようになっていた。
とは言えまだ病室の中を行き来することしかできないけれど。
それでも自分の足で歩くことができるのが、すごく嬉しい。
美優ちゃんも少しずつ回復に向かっており、今では志望校を目指して必死にリハビリと勉強に打ち込んでいる。
龍之介くんは夏休みが終わったためまた学校が始まり、お見舞いに来る回数は減ったものの必ず週に一回は美優ちゃんに会いに来ている。
残暑がまだまだ寝苦しい今日この頃、私のノートは二冊目に突入していた。
夢で昔の記憶の断片を思い出すことが多くなり、毎朝起きるとすぐにノートに夢の内容を書くことが日課になっていた。
ある時は同級生の噂話、ある時は学校行事の一コマ。ある時は高校の合格発表に一人で向かっている夢も見た。
一番印象に残っているのは、両親らしき二人と共に誕生日ケーキのろうそくの火を消しているところ。
ハッピーバースデーを歌ってもらい、ご機嫌で息を吹いたらひとつだけ火が残ってしまい。それを笑ってもう一度吹き消すと、二人から"おめでとう"と言ってもらった夢だ。
夢の中のことなのに、嬉しくて、幸せで。それと同時に泣きそうなくらいに苦しくて。
朝起きたら涙の跡がくっきり顔についていた。
そんな今日は、ついにお母さんが私のお見舞いにくる日だ。
立花さんに言われた時は驚きの方が大きかったけど、当日を迎えて朝からずっとそわそわしている私がいた。
今日ということしか知らなくて、何時に来るのかはよくわからない。
いつも通りリハビリをこなして部屋に戻る。
ドアをノックする音が聞こえて、立花さんが私を呼んだのはそんな時だ。
美優ちゃんに断りを入れて病室を出て、立花さんと一緒にデイルームへ向かう。
柔らかな光が差し込むデイルームの奥のテーブル席で、一人の女性が座っていた。
茶髪のショートカットが上品にさえ感じる後ろ姿にどこか懐かしさを覚えながらも
「奈々美ちゃん」
立花さんに促され、一つ頷いてその女性の元へ向かった。
「……あ、の」
「……奈々美!」
パッと振り向いたその女性の顔を見て、私は目を大きく見開いた。
しかしすぐにその女性が立ち上がって私にぎゅっと抱きついてきたため、条件反射でそれを受け止める。
「奈々美、ごめんね。今まで一人にして、本当にごめんね……」
私の肩口に顔を埋めて涙を流す女性。
先ほど見たその顔は、私が夢で見たあの女性と同じものだった。
……じゃあ、やっぱりこの人がお母さん。そして、あの夢は私の幼い頃の、記憶。
その瞬間、再び強い頭痛がした。
「っ……」
"お母さん。わたし───"
何かを思い出せそうなのに。
「奈々美!?どうしたの!?」
"奈々美、いつも通り───"
"だからお母さん、わたしは"
いつもと違って、砂嵐のようなザーッとした音が記憶を思い出すのを阻むように頭の中を掻き乱す。
"また来週───"
"嫌だよ、───"
"そんなこと言わないで"
会話がよく聞こえない。
「奈々美!頭が痛いの!?看護師さん!奈々美が!」
"奈々美!"
"奈々美"
頭の中に響く、私を呼ぶ様々な声。
それが酷く耳に残る。
「奈々美ちゃん。一度座って深呼吸しようか」
隣から穏やかな立花さんの声が聞こえて、少し安心したら息を止めていたことに気がついた。息が吸えるようになり、いくらか頭痛がマシになる。
それでもまだ痛む頭。ぎゅっと目を閉じると、ぐるっと大きく場面を転換したように飛び込んでくる記憶の断片。夢よりも鮮明なそれは、必死で私に何かを思い出させようとしていた。
"奈々美はいい子ね"
"いっぱい食べて大きくなるのよ"
"ほら、早く寝ないと大きくなれないわよ?"
よく子どもに言い聞かせるような言葉がいくつも頭の中に流れてくる。
そのどれもが優しい声で、心の奥が温かくなるようなもの。
"おかあさん、だーいすき!"
"おかあさん、ずっといっしょにいてね!"
幼い私が擦り寄るようにそう言って指切りを求めて。
"ふふっ、可愛いわね。もちろんよ"
優しく微笑みながら小指を絡めてきた、今より若いお母さん。
"奈々美、お父さんのことは?"
"んー……、おとうさんはおしごとばっかりだから、ちょっとすきだけどきらーい"
"えぇ!?"
私の言葉にショックを隠しきれずに落ち込むお父さん。
"ふふっ、あなた、日本にいる間にたくさん遊んであげて?"
"うんっ、あそんであそんでっ!"
"……そうだな。よし、奈々美、お父さんと何して遊ぶ?どこか行きたいところはあるか?"
"うー……ん"
"あ、わかった奈々美、遊園地に行こうか!"
"ゆうえんち!?ほんとう!?やったああ!"
そんな、微笑ましい親子の触れ合いが幾度も頭の中に映像と共に流れてきて。
パズルのピースがひとつずつハマっていくような、そんな不思議な感覚がした。
お母さんとの対面は私の体力が持たないという理由で、今日は一旦やめることにした。また明日来てもらうことにして、私は病室でカーテンを閉め切って眠る。
途中、龍之介くんが来ていたのは知っていたけれど、正直それどころじゃなくて。
お母さんの、傷ついたような表情が忘れられない。
「……奈々美、いつでも話聞いてやるからな」
カーテン越しにかけられたそんな言葉。今はその優しすぎる言葉が、苦しいくらいに胸に沁みていく。
「……ありがと」
布団の中で小さく呟いたか細い声が龍之介くんまで届いたかはわからないけれど。
枕を濡らさないように目からこぼれ落ちる涙を拭うのが限界だった。
翌日の朝。
昨日よりは落ち着いて対面することができた私は、ゆっくりとお母さんと会話をした。
病院でのできごとや、お母さんとお父さんの話も。記憶がなくなっており、最近夢で二人の姿を見ることも。
夢を見ると知ったお母さんは驚きつつも嬉しそうに頷いてくれた。
私の両親は、父親が外資系の商社に勤めており母親が海外に向けて事業を展開している経営者。
二人とも昔から海外や地方への出張が多く、私を二軒隣のお家に預けることが多かったらしい。その家は子どもが巣立った後で、定期的に私を預かることを快く引き受けてくれたそうだ。
私が中学生になった頃には父親の海外赴任が決まり、追いかけるように母親も海外に仕事の拠点を移したらしい。
私は何度もついて行きたいと言ったらしいが、仕事中に治安の良くない海外で私を一人にするくらいなら、と日本に留まらせたのだとか。
「それがこんな結果になってしまったのかと思うと、あなたには本当に申し訳ないことをしたと思ってる。今まで本当にごめんなさい」
「……」
記憶が無い状態で謝られても、正直ピンと来ていなくて。
もし記憶が戻ってからもう一度謝られたとかしたら。私は平常心でいられるのだろうか。
それから中庭や院内を少し散歩して、これからのことについてを話し合う。
デイルームに戻ってきた頃には一時間ほど経っていた。