「ふふっ、あ、でもね?今個室に入ってる奈々美ちゃんと同年代の女の子が、もうすぐ大部屋に移るって話になってるから、多分この部屋になると思うよ」
「そうなの?いつ?」
「うーん、早くて来週かな?」
「そっか……」
「それまでちょっとだけ我慢しててね」
「だから、寂しいわけじゃないからっ……」
「ははっ、うん。そうだね。……ほら、血圧測るから深呼吸して」
「はーい」
立花さんに言われて深呼吸をする。
その間に腕に血圧計を巻かれ、立花さんが空気を入れていく。
腕が締め付けられる感覚。次第に脈が自分でも聞こえてくる。
その圧迫感から解放されて血の巡りが良くなったのを感じて、再び深呼吸をした。
「……よし、頑張りました。血圧も問題ありません。じゃあもうすぐ夕食だからちょっと待っててね」
「うん」
「今日はカレーだって。良い匂いしてるよー?」
立花さんはニヤッと笑って私の頭を撫でてから、病室を出ていく。
カレーが出る日、私が密かに喜んでいるのを知っているようだ。顔に出ていたのだろうか。それもまた恥ずかしい。
立花さんの言う通り、運ばれてきた夕食はカレーライスだった。
病院の食事は薄味ばかりでなかなかおいしいと思えなかったけれど、このカレーライスはたまねぎの甘味がたっぷりでとってもおいしい。
初めてここのカレーライスを食べた時に思った。
"甘口で良かった。辛いの苦手だし"
それは、ここに来る前の私の記憶だろう。
記憶喪失になってから自分のことを思い出したのはそれが初めてだったため、嬉しくてそれからこのカレーライスを食べるのが楽しみになっていた。
どうやら私は右利きらしく、左手で食べるのはなかなか難しいもののどうにか食べ終える。
その後は特にすることもないため、部屋についているテレビを見て時間を潰す。
お笑い番組を見ても、面白いとは思うけれどそこに出ている芸人さんのことは特に知らない。
もしかしたらあまりテレビを見ない生活をしていたのだろうか。ドラマや情報番組を見ても、特に知っている出演者はいなかった。
事故に遭うまでの私は一体どんな生活をしていて、どんな人間だったのだろう。
目を閉じてみると、なんだか闇の向こうにうっすらと見えるような気がするのに、何も思い出せない。
テレビの下にある引き出しから、一冊のノートと鉛筆を出した。
それは担任の教師である広瀬先生という女性に貰ったものだ。
私が記憶喪失だと聞いて、何かできないかと思って用意してくれたそう。
広瀬先生は学校で吹奏楽部の顧問をしているらしく、忙しいながら時間を作っては何度か私に会いに来てくれていた。
"これ、何か思い出したこととか、感じたこととか。不安な気持ちとか嬉しい気持ちとか。良いことも悪いことも、何でも良いから書いてみて。そうしたら、そこから何か思い出すかもしれないでしょう?"
そう言って渡された時に、クラスメイトも私に会いたがっていると教えてくれた。
しかし、私の体調や怪我のこと、記憶喪失のこともあり、急に大勢でお見舞いに来ると私の負担になるから、と落ち着くまではまだ行かないようにと言ってくれているらしい。
広瀬先生以外誰も来てくれないのは寂しい気持ちもあるけれど、自分にも友達がいたことに安堵したのを覚えている。
まだ白紙だったノート。それを開いて、一番最初に"甘口のカレーライスが好き。辛いものは苦手"と書いた。
利き手じゃない左手で書くのはなかなか難しいものの、元々器用だったのか読めはする。
"担任の先生は広瀬晴美先生。私にも友達がいるらしい。安心した"
"スマホが壊れてた。新しいのが欲しい"
"この病室に同年代の女の子が来るみたい。仲良くなれるかな"
と時間をかけながら続けて書くと、ノートをパタンと閉じる。
なんだろう、少し満足感があった。
テレビも消して、消灯時間よりも早いものの寝ようと部屋の電気を消す。
ゆっくりと目を閉じると、すぐに夢の中に落ちていった。
────数日後。
この病院で目が覚めた日から、一ヶ月ほどが経過したある日。
私は目に見えて緊張していた。
「はじめまして。乙坂 美優です」
「初めまして。……桐ヶ谷 奈々美です」
思っていたよりもスムーズに自分の名前を言えたことに、私自身が一番驚いた。
乙坂 美優ちゃん。新しく私の隣のベッドに移動してきた女の子。
歳は私よりも二つ下。中学三年生だと言う。
小麦色に焼けた肌とショートカットのこれまた少し焼けて焦げ茶色になった髪の毛。ほどよく付いた筋肉は、とても入院するようには見えないくらい健康的。
長い睫毛が目を引く、とても快活で可愛らしい女の子。
しかし、私と同じように足に添え木をつけて吊るされているところを見るに、事故か何かで骨折してしまったのだろう。
頭にも包帯が巻かれ、手足もガーゼや包帯だらけだ。多分、見えていない部分はもっとひどい怪我をしているのだろう。
「個室寂しくて、無理言って大部屋に移動してもらったんです。よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
「私の方が年下なんですから、敬語いらないです。美優って呼んでください」
「……それなら私も敬語いらないし、奈々美でいいよ」
「じゃあ、奈々美ちゃんで」
「うん。よろしくね、美優ちゃん」
美優ちゃんは、笑顔がとても可愛らしい明るい子だった。
ぱっちりとした二重から覗く黒目がとても澄んでいて綺麗だ。
話を聞くに、美優ちゃんは近くの中学校で陸上部に所属しているらしく、一週間ちょっと前の練習帰りに交通事故に遭ってしまったらしい。
全身の打撲と手の指と足の骨折。特に足の骨折が少しややこしいらしく、リハビリに時間がかかりそうだと言っていた。
「入院患者の割には日焼けしすぎてて、恥ずかしいんだけどね」
「そんなことないよ。それだけ頑張って練習してたってことだもん」
「へへっ、ありがとう奈々美ちゃん」
美優ちゃんは、大怪我をして入院しているとは思えないほどに明るく笑っていた。
しかし陸上部と言っていた。その笑顔の裏に、きっと計り知れないほどの涙があったのだろう。そう思うと素直に笑顔を返せない。
しばらく二人で探り探り会話をしていると、病室のドアが控えめにノックされた。
「失礼しまー……す、あ、美優」
「お兄ちゃん!」
「ほら、着替え。母さんが持ってけって」
「もぅ、お母さんまたお兄ちゃんに押し付けたの!?やめてって言ったのに」
「母さんは仕事なんだから仕方ねぇだろ。それに別にお前の服やらパンツになんて興味ねぇよ。お前が入院してからは洗濯してんのも干してんのも俺なんだし」
「そういう問題じゃないの!」
入ってきたのはどうやら美優ちゃんのお兄さんらしい。
細くて背の高い男の子。
少し長めの黒いマッシュヘアとその奥に見えるのは美優ちゃんと同じぱっちりとした二重。彼も黒目が澄んでいてとても綺麗だ。
面倒臭そうに美優ちゃんに荷物を渡すかっこいい男の子。それが第一印象。
ベッドのカーテンを開けていたから、当たり前のように彼と目が合ってしまった。
「……あ、どうも」
気まずそうに会釈されて、私もそれに「こんにちは」と会釈を返す。
「お兄ちゃん!もうちょっと愛想良くできないの!?」
「っるせぇな。俺は人見知りなんだよ」
「もー……奈々美ちゃん、ごめんね。この人私のお兄ちゃんなの」
「初めまして。桐ヶ谷 奈々美です」
「……初めまして。美優の兄の乙坂 龍之介です」
人見知りだと言ったのはどうやら嘘でもなんでもないらしく、戸惑ったように名前を言ったっきり彼は黙ってしまい。
「……じゃあ、俺もう行くから」
と気まずそうに病室を出て行ってしまった。
「あ!ちょっとお兄ちゃん!……もー、ほんとごめんね奈々美ちゃん。うちのお兄ちゃん、人見知りで全然愛想無くて」
「ううん。気にしてないよ」
美優ちゃんは申し訳なさそうに言うけれど、私は本当に全く気にしていなかった。
急に見知らぬ患者と目が合って会話しろなんて言われても、普通戸惑ってしまうだろうし。
「お兄ちゃんね、私の一個上なんだ。だから奈々美ちゃんと私のちょうど間なの」
「そうなんだ。美優ちゃんとお兄さんって、結構そっくりだったね」
「えー、そうかな?小さい頃は確かによく言われてたけど。どの辺が似てる?」
「うーん、目かな。睫毛が長くてぱっちり二重のところ」
「あぁ、それは多分お母さんに似たんだと思う」
「そうなんだ」
そんな他愛無い話をしているとあっという間に食事の時間になり。
これが美味しいとか、これが味が薄いとか、フルーツが出る日は貴重だとかサラダにドレッシングをもっとかけてほしいとか。
お互い食事に対する文句が多かったけれど、笑い合いながら久しぶりに楽しい食事時間を過ごした。
翌日からはお互いに検査だったりで話す時間は限られたものの、就寝前には決まってカーテン越しに小声で会話をしては夜勤担当の看護師さんに怒られたりもした。
そんなある土曜日の午前中。珍しく病室が賑やかだった。
「美優!お見舞いに来たよー」
「え!皆で!?忙しいのにありがとう!」
「乙坂、調子はどうだ?」
「先生まで。うん、まだ痛いけど、ここに運ばれた時よりは大分マシかな!」
どうやら中学校の部活動の仲間と、その顧問の先生らしい。
私はそっと会釈してから、カーテンを閉めた。
「それより、大会どうだった!?」
「じゃーん!アツシが新記録だしたんだよー!」
「えー!すごい!」
美優ちゃんと他の子達の会話は当たり前だが筒抜けで、私はそっとテレビの電源を入れてイヤホンを耳につける。
それは美優ちゃんのお兄ちゃんである龍之介くんが来る時も。美優ちゃんのご両親や親戚が来る時も同じ。
何があるわけではないけれど、美優ちゃんのお見舞い客が来る時は必ずそうしていた。
特に何か美優ちゃんから言われたわけではない。ただ、なんとなく家族の時間だったり友人との時間だったり。
美優ちゃんには元々過ごしていた乙坂 美優としての時間があって、それは私と過ごす今の時間とは別の世界だ。私の知らない世界。本来ならば交わることが無かったはずの世界。
そこに私は入ってはいけないんじゃないかと思ってしまって。
むしろ美優ちゃんは気にしなくて良いと言ってくれるけれど、所詮私は他人なんだから、と私が気になってしまう。
とは言え、テレビを付けたところで午前中はテレビショッピングばかりで大して面白いものはやっていないから、聞き流しながら引き出しからノートを出して、そこに日記のように思ったことを書いてみる。
"うらやましい"
左手で力無く書いた六文字には、様々な思いがこもっていた。
鉛筆をぎゅっと握りしめる。
本来ならば交わることがなかったはずの世界、だなんて。そんな綺麗事はただの建前だ。
私は、美優ちゃんに少なからず嫉妬していた。
私には広瀬先生しかお見舞いに来てくれないのに。
記憶が無いのに、何も思い出せないのに。友達どころか両親ですら来てくれないのに。
美優ちゃんの元には家族も来るし、こうやって友達も来る。それが、羨ましいと思ってしまった。
"フキンシンな自分が、イヤになる"
漢字で不謹慎と書くことができなくて、カタカナで書いてからノートを引き出しにしまった。
───それから、二週間が経過した。
足のレントゲンを取った帰り、車椅子を立花さんに押してもらっている時に病室から声がした。
「あ、奈々美ちゃん!おかえり!」
「ただいま……あ、こんにちは」
「……どうも」
「だからお兄ちゃん!愛想悪すぎ!」
「お前はうるせぇなあ」
美優ちゃんのベッドの隣には、丸椅子に腰掛けた龍之介くんの姿があった。
お互いに軽く会釈して、ぷりぷり怒っている美優ちゃんに苦笑いしながら立花さんに押してもらって自分のベッドに戻った。
カーテンは開けたままだったため、立花さんに介助されながらベッドに寝転がる姿が龍之介くんからも丸見えだ。
それがすごく恥ずかしくて、居た堪れない気持ちになった。
「じゃあ次は美優ちゃん、レントゲン行きますよ」
立花さんの声に、美優ちゃんはどこか嫌そうに「はーい」と返事をする。そして思い立ったかのように、
「あ、お兄ちゃん。お母さんが迎えに来るまでどうせ暇でしょ?奈々美ちゃんとお話ししてたら?」
とニヤニヤしながら提案してきて。
「は?」
「え、美優ちゃん?」
同じタイミングで戸惑いの声を上げた。