"わたし"が死んで、"私"が生まれた日。




「奈々美、落ち着いて」


「りゅうのすけっくんっ……苦しいっ」


「あぁ。わかってる。だからまずは落ち着いて」



背中をさすってくれるものの、涙で視界はゆがみ自分が今どんな体勢なのかもよくわからなくなる。


意識も朦朧としてきて視界がぐるりと反転しそうになった時。






「───奈々美、ちょっとごめん」


「……んんっ……」





どうして謝るの。そう思うと同時に突然、何かに唇を塞がれた。



それは柔らかくて、温かくて。



グッと目を開くと、涙の膜のすぐ向こうで人の顔が見えた。



……龍之介くん……?



一度瞬きをすると、溜まっていた涙がこぼれ落ちて視界が開ける。


薄目を開けた龍之介くんと視線が絡まった。


これは、何?


キスされてる……?



それに気が付いた瞬間、恥ずかしがる間も無く龍之介くんは唇を離した。



「……まずは落ち着け」



なんてことないように告げた龍之介くんに、私は顔を真っ赤にしながら頷いた。




「……まずは落ち着け」



なんてことないように告げた龍之介くんに、私は顔を真っ赤にしながら頷いた。



「さっきコンビニ行った時のビニール袋しかなくて悪いけど。とりあえずこれ口に当てといて。これで大丈夫だと思うから。まずは落ち着いて、息を吸うことよりもゆっくり吐くことを考えて」



受け取ったビニール袋。今度はちゃんと落ち着いて言われた通りにすると、数分で苦しさから解放されたような気がした。


呼吸が安定すると自然と涙も止まり、朦朧としていた意識もハッキリとしてくる。



「これ、まだ口つけてないから。飲んでいいよ」


「でも、これ龍之介くんの……」


「いいから。飲んだら少し落ち着くから」


「うん……」



言われた通りにもらったスポーツドリンクを一口飲む。


冷たさが身体に染み渡るのを感じて初めて外の空気が肌寒いことに気が付いた。


ぶるっと一瞬震えた私に、龍之介くんは着ていた上着を脱いで私にかけてくれる。



「ありがと」


「気にすんな。……それより、過呼吸起こすなんて一体何があったんだ?」



上着の上から私の肩に手を置いて視線を合わせた龍之介くんに、大きく頷いて。











「……私、思い出した」


「え?」


「全部、思い出したの」





頭に響いていた耳鳴りが治った頃。


私の頭の中には今までの記憶が全て戻っていたのだった。










私は、自分が孤独であることをずいぶんと幼い頃から知っていた。










*****


わたしがお父さんとお母さんと、楽しく毎日を過ごすことができたのは、幼稚園まで。


小学生の頃、初めて二軒隣のおばさんの家に預けられた。


たった一日。お母さんはお仕事だから、仕方ない。


おばさんも優しそうだし、一緒に遊んでくれるって言うんだからいいじゃないか。


子どもながらにそう思ったわたしは、お絵かきや折り紙がしたいなあと漠然と思いつつおばさんの家に入った。


最初は良かった。可愛がってくれたし、いっぱい遊んでくれて楽しかった。


時には勉強も教えてくれて、家では出てこないような味の染みた煮物なんかもすごく美味しくて、あっという間に一日がすぎた。


それから、両親の出張のたびにわたしはおばさんの家に預けられるようになって。


それが何度か続いたある日。



「奈々美ちゃん、今日はね、お手伝いしてほしいことがあるの」


「おてつだい?」


「そう。いつもおばさん、奈々美ちゃんと遊んでるでしょ?」


「うん」


「だからね、今日はおばさんのお手伝いしてみない?」



それが、悪魔の囁きだったのだ。


食器を洗うお手伝い、洗濯物を畳むお手伝い、布団を干すお手伝い。


最初は楽しくやっていた。誰かの役に立つことが、純粋に嬉しかった。



────しかし、すぐにそれは"お手伝い"からわたしの"仕事"に変わった。




「今日はお風呂掃除をお願いね?それが終わったら、トイレもお願い」


「でも、わたし今日は宿題やらなきゃ……」


「なあに?泊めてあげるのに、おばさんの言うこと聞けない?」


「……ごめんなさい。お掃除やります」


「そう。それでいいのよ。終わったら教えてね」



無言の圧力が怖くて、従うしかなかった。


帰ってきたお母さんに伝えようにも、



「あんたがいなきゃ、ご両親ももっと仕事に集中できただろうにねぇ」


「あんたの存在が母親の仕事の邪魔になっているのに、ここに来るのがイヤだなんて言ったらもう仕事辞めるしかないかもしれないねぇ」



悪魔の囁きがわたしを恐怖で支配する。


おばさんに申し訳なさそうに何度も頭を下げて菓子折りを渡すお母さんを見て、もしおばさんの言う通りだったら。そう考えたら、もう何も言えなくなってしまっていた。


勇気を出して言っていれば何かが変わっていたかもしれないけれど、多分その頃にはすでにおばさんに洗脳されていたと思う。


中学生に上がると、もうわたしも何も言わなくなった。


その頃には両親は海外に行っていたため家に一人で。


さすがにもう泊めてもらうような歳ではなかったものの、



「今まで預かってあげてたんだから、恩返しくらいしなさいよ」



と言われてしまえば頷くしかなくて。


学校から帰るとまず家に荷物を置いて、二軒隣のインターホンを押す。




「おかえりなさい。今日はカーテンを洗ってくれる?その後に夕飯もお願いね」


「はい」



おばさんに言われたことをこなして、洗い物まで終わらせてからわたしは何も食べずに家に帰り、洗濯などの自分の家事をして予習と復習をしてから寝る。


空腹なんて感じなかった。ただ、疲れていた。




本当は部活もやりたかった。
けれどおばさんに怒鳴られるのがわかっていたからやめた。


放課後に友達と遊びに行ってみたかった。
けれど次の日おばさんの機嫌を損ねて仕事が増えると思うとそれはもっと嫌だったからやめた。


皮肉にも勉強ばかりしていたため成績は上がり、家事は得意になった。


そしておばさんからの要求は日に日に増えていく。


高校に入った時にはもう、自宅にいるよりも村元家で家事をしている時間の方が長くなっていた。


一種の虐待を受けているのではないか。自分でもなんとなくわかっていた。


でも、殴られるわけじゃない。


そもそも、親じゃない。


行政に相談する?でもそうなったら、責められるのは確実にわたしを置いて海外にいる両親だ。


それは嫌だった。両親のことは好きだ。迷惑をかけたくない。だからまだ黙っていた。



学校で話しかけてくれる友達にも、こんな生活をしているなんて知られたくないから必要以上に仲良くならないようにした。


遊びに行こうと誘われても、断るしかなかった。




部活もしたかった。

友達と遊びに行きたかった。

テスト前に皆で勉強会もしてみたかった。

バイトだってしてみたかった。

同じ家で、両親と普通の生活がしたかった。


当たり前のことを、したいことを全部我慢して、寂しさも苦しさも、何もかもを我慢して飲み込んで。人前では明るく笑って。悟られないようにして。


自分の感情を押し殺して生きてきたわたしは。







───ある日、もう何もかもがどうでも良くなった。







ストン、と笑顔が抜け落ちた虚ろな目で登っていた階段。


それがどこのものかはあまり自分では把握できていなかった。


おそらくどこかのマンションの屋上へ続く階段だ。


屋上に出られなかったらそのまま帰ろう。そんな風に思っていたわたしが掴んだドアノブは、錆びていたものの簡単に開いた。


ドアの向こうには、夕焼けでオレンジ色に染まる空が一望できる屋上。


とても綺麗なところだった。


落下防止のフェンスがあったものの、高校生くらいなら頑張れば乗り越えられるほどの高さ。


乗り越えた先の狭いスペースに足を置いて、前を向く。


一歩でも足を動かしたら、あっという間に落ちてしまうほどの不安定さ。


そんな場所でただ正面を見つめるわたしに強い風が幾度も吹き抜け、わたしの制服のスカートを巻き上げる。下着が見えそうだ。


それを手で抑えることもせずに、わたしは沈みゆく太陽を目に焼き付ける。





自ら身を投げる人はその瞬間、一体何を思うのだろう。


恐怖?絶望?安堵?
それは人それぞれだろう。


眼下を歩く人々。行き交う車。


おもちゃのようなそれらを見て、わたしはこう思う。



"弱いわたし、さようなら"


何も言えないわたし、さようなら。
弱くて何もできないわたし、さようなら。

もし、もしも。生まれ変わることができるなら。


────来世では、もっと強い人になりたい。




その瞬間、わたしの身体は屋上から宙を舞い。


心臓が持ち上がるような不快な浮遊感の中、強烈な空気の抵抗を受けながら目を見開くと真っ逆さまに落ちて行く身体。
近付く木々の先にあるコンクリート。わたしはそれに受け身を取ることもせずに、そっと目を閉じて。



辺り一面に響く轟音。


全身を襲う、言葉にならないほどの痛み。


動かない身体。上手くできない呼吸。



ほんのわずかに開いた目に見えたのは、鮮やかな赤い海。



……夕焼けで、海が真っ赤に染まってるんだ。すごい、綺麗だなあ。



朦朧とする意識の中では、その血溜まりは海に見えた。


綺麗な夕焼けが映った、大きな海に見えた。


それが幻覚だと認識する余裕もない。


響く女性のつんざくような悲鳴と救急車のサイレンの音。それが煩わしくて。



うるさいなあ。綺麗な海が、見られないじゃないか。



自然と上がった口角。



その瞬間を最後に、わたしはぷつりと意識を手放したのだった。