"わたし"が死んで、"私"が生まれた日。




「私、お父さんのことも夢で見たの。私を遊園地に連れて行ってくれるって言ってた夢……」


「そんなこともあったなあ。懐かしいよ。思えばあの頃が一番奈々美と一緒にいたかもしれないな」


「……うん」


「でも、これからはずっと一緒にいるから。遊園地もまた一緒に行こう。他にも奈々美が行きたいところにはどこでも連れて行ってあげるよ」



記憶は完全には戻っていないけれど、お父さんの顔を見ていると胸の奥からいろいろな感情が溢れてくる。



「……ううん。遊園地も行かなくていい。どこにも行かなくていいから、もう私を置いて遠くへ行かないで」



涙を堪える私に、両手を広げる。



「もちろんだ。今までのことは謝って許されるわけじゃない。だからこそ、これからはもうお前を一人にしないよ」


「……お父さん」



その胸に勢い良く飛び込むのはなんだか少し恥ずかしくて。


ゆっくりと近付いて、そして腕の中に閉じ込めてもらう。


力強くて、温かい。



「奈々美。生きててくれて、本当に良かった」



懐かしい香水の香りがして、また涙が滲んだ。




そんな親子の再会を果たしてから、一時間後。



「奈々美。覚えていることを教えて欲しいんだ」



お母さんからおばさんの話を聞いていたらしいお父さんの鋭い視線に、私は一つ頷いてから話し始めた。



「二週間くらい前から、急にインターホンが鳴るようになって、ドア開けようとしたり叩いたり。モニター見たら、そのおばさんが映ってて。私、怖くなって震えが止まんなくて……」



私の説明でモニターをもう一度確認したお父さんは、難しい顔をして私の元へ戻る。



「二週間も一人で耐えてたのか……?」


「うん。でも、毎日じゃなかったから。ただいつまた来るかがわからなくて、怖くて家からは出られなかったの」


「そうだったのか……」



今までなんの疑いも無く私を預けていたおばさんの奇行に、両親は言葉を無くす。


龍之介くんから聞いた話もすると、お父さんとお母さんは二人でおばさんの元を訪ねようかと話し合っていた。


そんな時だった。


インターホンが、今日も鳴り始めたのだ。


モニターを見ると、おばさんの姿。


それを見て私はまた身体がガタガタと震え出す。


そんな私を見かねて、お母さんが私を抱きしめてお父さんが玄関へ向かった。


何度目かのインターホンが鳴った時。


お父さんが玄関ドアを開けた音とともに、



「もう奈々美ちゃん!あんたって子はまったく……っえ!?」



驚きに満ちたおばさんの声が聞こえた。




「こんにちは。ご無沙汰しております」



お父さんの軽快なのにドスの効いた声に、私はお母さんと一緒におばさんから姿が見えないところで待機する。



「あ、え、っと……ご主人、本当に久しぶりねぇ。日本に帰ってらしたのね。お元気そうでなりよりです」


「えぇ、おかげさまで。その節は娘が大変お世話になりました。……それで、今日はうちには何の御用で?」


「え、あぁ。あの、奈々美ちゃんが退院したって聞いたのでね、快気祝いに手料理でもご馳走しようかと思ったんですけどね、毎日留守のようだから」


「だからって大声で叫んだりドアを何度もあんなに強く叩いたりしますかね普通」


「いや……えぇっと……」



だんだんとしどろもどろになっていくおばさんは、適当な理由をつけて今日は帰って行った。


去り際に、



「近いうちに今まで娘を預かってくださったお礼に伺いたいのですが、ご都合悪い日はありますか?」



とお父さんが声をかけた時に



「いやいいのよ!私も好きでやってたことだから!お礼なんて全然!気にしないで!」



と捨て台詞のように吐き捨てていったのが印象的だった。



「奈々美」


「……」


「これからは、どんな些細なことでもお父さんとお母さんに教えてくれ。一人で抱え込まないでくれ」


「うん。わかった」



その日の夜に両親は何かを話し合っていたようだったけれど、両親の雰囲気がとてもピリピリしていて私が聞いてはいけないことだと思って部屋に篭っていた。





*****


「それで?その後は?」


「うん、それ以降は来てないんだ」


「そっか。でもそれは……良かった……のか?」


「うん。多分良かったんだと思う」



数日後。私は龍之介くんと一緒に美優ちゃんのお見舞いのために病院に来ていた。


おばさんの問題が一旦落ち着いたことを報告すると、笑って私の頭を撫でてくれる。



「それでね、私今度引っ越しすることになったんだ」


「引っ越し?」


「うん。おばさんから離れた方がいいって」


「確かに。あれは普通じゃなかったからな。それは俺も賛成」



二人の仕事のこともあるから、あまり遠くには引越しできない。


同じ区内でセキュリティの良い家を探そうと二人が話していたのを聞いた。


二十四時間体制で管理人さんがいるような、しっなりしたマンションを探すらしい。その方が不審な人がいればすぐに通報してくれるし、私も両親も安心できる。



「……でも、何で私はあんなにあのおばさんが怖いんだろう」



面会用のカードを首からぶら下げて美優ちゃんの病室に向かう道中、頭を捻って考える私に龍之介くんも不思議そうな顔をする。



「そこなんだよな。確かにあのおばさんやばかったけど、それでも奈々美の怖がり方も尋常じゃなかった。多分、昔あのおばさんと何かがあったんじゃないか?それを事故がきっかけで忘れてしまった。でも実は奈々美の身体は全部覚えてて、自然と反応しちゃう……みたいな感じだと思う」



龍之介くんの意見は、お父さんとほとんど同じものだった。


あのおばさんが、私の記憶に関して重大な関わりがある気がする。


それなのに、何も思い出せないことにもどかしさすら感じてしまう。




「……私、いつになったら全部思い出すんだろう」



不意にため息のように溢れた声は、龍之介くんの耳にも届いていた。



「いつも言ってるだろ?焦るなって。焦ったっていいことねぇよ」


「うん。それはわかってる。頭ではわかってるけど、やっぱりどうしてももやもやして、早く思い出したいって。気持ちばっかり焦っちゃう」



龍之介くんも美優ちゃんも、東海林先生も立花さんも。もちろんお父さんとお母さんも。

皆、私に焦らないようにと言ってくれる。


でも、本当に思い出せるのだろうか。


もし、このまま何も思い出さなかったら?


過去の自分を思い出せないまま、これからの長い人生を生きていかないといけなくなったら?


……そんなの、苦しすぎる。



「でも、怖がってるうちはきっと思い出したところで、その過去に喰われるぞ」



"過去に喰われる"



その通りだと、大きく頷いた。


結局は、自分が強くなるしかないのだ。


おばさんを怖いと思う感情にも、もちろん理由があるはずで。


心に根付いてしまっているはずの、その理由に。


私は、自分自身の力で、打ち勝たないといけない。


そうしないと、いくら記憶を取り戻しても今度は潰されてしまう。喰われてしまう。




「だから焦らず、ゆっくりでいいんだ。確実に受け止められるくらいに、成長するんだよ」


「……うん」


「でも、一人で抱え込むのは別だからな?苦しくなる前にちゃんと周りを頼れ。誰かに甘えるのも勇気なんだから」


「甘えるのも、勇気。……そうだね。うん、わかった」



頷いていると美優ちゃんの病室の扉が見えてきた。


つい数週間前までは私もここに泊まっていたのに、今はお見舞い客として訪ねてきたのがなんだな不思議な感覚。


龍之介くんがノックして、中から「どうぞー」という美優ちゃんの声を聞いてから引き戸を開けた。



「お兄ちゃん。……奈々美ちゃん!」


「美優ちゃん、久しぶり」


「久しぶり!え、奈々美ちゃん来るって知ってたら私お出迎えに行ったのに!」


「はぁ?じゃあ俺ん時も出迎えろよ」


「お兄ちゃんはいいのー!ほら、奈々美ちゃん、こっち座って?」


「ありがと美優ちゃん」



久しぶりに聞く兄妹の馴れ合いのようなやりとりに笑みをこぼしながら、促されるままに美優ちゃんのベッドの隣の丸椅子に腰掛ける。



「ずっと奈々美ちゃん来るの待ってたんだよ?もっと早く来てくれると思ってたのに」


「ははっ、ごめんね。いろいろ忙しくて中々来れなかったの」


「もー。お兄ちゃんの顔は見飽きたし、こんなこと言ったらアレだけど、奈々美ちゃんがいた頃が恋しいよお……」



泣き真似をする美優ちゃんの頭をよしよしと撫でていると、



「見飽きたとはなんだ」



と龍之介くんが不貞腐れながら軽く小突く。


美優ちゃんも退院の目処がそろそろ立つらしく、それに向けてリハビリと勉強も続けて頑張っているらしい。




「退院したらすぐ受験のために勉強頑張んないと」


「うん。応援してるよ」


「ありがと奈々美ちゃん」



三人で楽しく会話しているところに、「失礼しまーす」と立花さんが入ってきて。



「奈々美ちゃん、これ。遅くなってごめんね」


「……ありがとうございます」



受け取った紙袋の中には、約束していた立花さんが昔着ていた高校の制服が入っていた。


おばさんのことで忙しく、まだ学校をどうするかは話し合っていなかったため、もしかしたらこの制服も必要なくなってしまうかもしれない。


でも、せっかく持ってきてくれた立花さんにそんなことを言えるわけもないため、ありがたくいただくことに。


紙袋の中をちらっと見たらしい龍之介くんが、「あ」と声を漏らしたため聞き返すものの。



「……いや、なんでもない」



と何かを考えるように黙ってしまった龍之介くん。


私は首を傾げながらも、美優ちゃんに話を振られたためすぐに意識はそちらに持っていかれてしまった。


家に帰り、龍之介くんの言葉を思い出す。



"だから焦らず、ゆっくりでいいんだ。確実に受け止められるくらいに、成長するんだよ"



じゃあ、どうすれば成長できるだろう。


どうすれば、私は強くなれるのだろう。


考えても答えが出ずにため息を吐いた頃。


部屋に置いてある卓上カレンダーが目に入る。


三日後の日付が、青い丸で囲まれていた。



「……相談してみよう」



それは、カウンセリングの日を示すものだった。





*****


「強くなる方法?」


「はい。教えてください」


「そうねぇ……」



カウンセリングの日。


私は前のめりになってカウンセリングの中原さんに強くなりたいと告げていた。


記憶を取り戻すため。取り戻した時に、それがつらい記憶だったとしても受け止められるくらいに強くなりたい。


中原さんはしばらく悩む素振りをした後に私の目を見て微笑んだ。



「無理して強くならなくても、いいんじゃない?」


「……え?」


「だって、あなたは一人じゃないでしょ?」


「どういう、意味……」



強くなりたい。その相談をしたかったのに。
強くならなくてもいい?……意味がわからない。


混乱している私に、中原さんはお茶を用意してくれて目の前に湯呑みが置かれた。



「そもそも、精神的に強くなるって、とっても難しいことだと思うの」


「……」


「これは私の持論だけど。肉体的な強さなら、トレーニングしたり鍛えればそれなりに強くなれる。でも精神面って、そう簡単じゃない。鍛えようが無い。そもそも強さなんて人それぞれで基準が違う。悩みの重さも違う。感じている苦しみも違う。奈々美ちゃんが抱えているトラウマがどれだけ大きいものなのかも、奈々美ちゃんが思い出してみないとわからないでしょう?」



難しい話に頷きつつも、湯気が立ち上る湯呑みを口元に傾ける。




「解離性健忘ってね、事故だけじゃなくて、心に大きな傷を持ってしまっていてそれが強いストレスになって起こってしまうこともあるの」


「はい。私も心因性じゃないかって言われてます。だから思い出した時、もしつらくて忘れたかった記憶なら私が耐えられないかもって、東海林先生も言ってました」



確かにきっかけは事故による怪我だったのだろう。


それによって私は記憶を失ってしまったけれど、少しずつ思い出していく中で、事故はただのきっかけに過ぎなくて。


もっと根本的なところで、私は何かトラウマを抱えているような気がする。


それがきっとあのおばさんに関係することで。


私はそれを思い出した時に、落ち着いて受け止められる気がしなかった。



「そう。人によっては何度もフラッシュバックしてしまうこともある。記憶が戻ったとしても、その後にPTSDっていう別の病気になってしまう人もいる。それは精神的に強いとか弱いとか、そんな問題じゃなくて。どんなに強い人だって傷付くことはある。だから、そのトラウマがどれだけその人の心を苦しめているのかだと思うの。……だから、あなたが今悩んでいることは、あまり意味が無いことなのよ」


「……そっか……」



私のトラウマ次第、ということか。