"わたし"が死んで、"私"が生まれた日。




「急に来て悪かったな」


「ううん。助かったよ。ありがとう。……でも変な人がいてびっくりしたでしょ?」


「まぁ……。あの女、知り合いか?」


「……わからないの。でも見覚えがあるような気もするし、それにあの人、私の名前知ってるから。多分知り合いなんだろうとは思うんだけど……。頭が痛くなって、でも何も思い出せないの」


「家の人には?言ったか?」


「ううん。まだ。……ただでさえ私のことで日本に帰ってきてもらって忙しいのに、これ以上お母さんに迷惑かけたくなくて……」



だんだんと語尾を小さくしながら俺の前に麦茶を置いた奈々美の腕を掴むと、驚いたようにこちらを見た。


その額に冷や汗が見えて、袖でそっと拭う。


びくりと肩を揺らした奈々美の頭にポンと手を乗せた。



「それは違うだろ。それは迷惑なんて言わない。むしろ言わなきゃ心配かけるだけだ。あんなの只事じゃない。親御さんにはちゃんと言わないと」



目を見てはっきりそう告げると、奈々美は数秒押し黙ってから、ゆっくりと頷いた。



「……うん。そうだよね。言わなきゃいけないよね」



ありがとう。そう呟いた奈々美の顔は、記憶を取り戻したいと力強く言っていた時と同じ表情に戻っていた。




「……今日、帰ってきたらお母さんに話してみる」


「あぁ。それがいいよ」



安心して俺も表情を緩めると、奈々美は急に眉を下げて。



「話した後、夜に電話してもいい……?」



そんなこと、わざわざ確認する必要もないのに。



「もちろん。待ってる」



返事をした後のホッとしたような笑顔が、俺の胸に残る。


可愛い。俺がその笑顔を守ってやりたい。


それは、美優に対するものとは同じようで全く違う感情。


その感情に身を任せるように、立ち上がってから掴んでいた奈々美の腕を引く。



「え……?」



ぽす、と俺の胸におさまった華奢な身体。


少し力を入れたら折れてしまいそうなくらいに細い奈々美を優しく抱きしめると、腕の中で奈々美が固まっているのがわかって思わず笑ってしまった。



「なっ……龍之介くん……!?」


「安心しろ。俺はいつだって奈々美の味方だし、奈々美の力になりたいって思ってる」


「……」


「だから、奈々美ももっと俺を頼っていいから。つーかもっと俺を信用して頼れ。甘えろ」


「龍之介くん……」



もう少しだけ力を込めて抱きしめる。髪の毛からふわりと香るシャンプーの甘い匂い。


恐る恐る背中に回った小さな手が、俺の服をギュッと掴んだ時。


それが癖になりそうなほどに、このまま離したくないとさえ思うほどに、愛おしさが俺の頭の中を占めた。




*****


「え?どういうこと?」


「私のこと知ってるみたいで、ドアを何回も叩いてきて、"開けろ"って言ってて。急に怖くなっちゃって……」


「そう、そんなことがあったの。……ってことは、その人モニターに映ってるのよね?」


「う、うん……」



あの女の人の話しをお母さんにすると、怪訝そうに私から一度離れてインターホンのモニターを見に行く。


そこの履歴を開いて、お母さんも動きを止めた。



「……そう、その人。その人が何回もドア叩いてきたの」


「……本当に、この人が?」



昨日までの履歴もチェックしているお母さんは、そのまま言葉を止めた。



「うん。……お母さんも、知ってる人?」



待ちきれずに問いかけると、お母さんはゆっくりとこちらを振り向いて。



「知ってるも何も……」



その続きを聞いて、私は。



「───この人、今までずっと奈々美を預かってくれてた二軒隣のおばさんよ……?」



動揺しているお母さんの顔を、目を見開いて見つめる。



「二軒隣の、おばさん……?」



復唱した瞬間、私は頭を何か硬いもので殴られたような錯覚がして。



「奈々美!?奈々美……!───!?」



そのまま倒れるように意識を失った。












真実は、時に残酷だ。












─────
───



「あら、あなたが奈々美ちゃんね?こんにちは。ついこの間までこーんな小さい赤ちゃんだったと思ったけど。ちょっと見ない間にすごく大きくなったわねぇ」


「……あの、本当によろしいのですか?」


「気にしないで。孫ができたと思って可愛がらせてもらうわ。だから心配しないでね」


「本当になんとお礼を言っていいものか……」


「いいのよ。お仕事じゃ仕方ないもの。連れて行くわけにもいかないものね。そういう時は年配者に任せて」



いつもと違うお家。


見上げた先にいた一人のおばさん。その人に、私は



「はじめまして。ななみです……」



とたどたどしく挨拶をした。



「あらぁー。人見知りしなくていい子ねぇ。お母さんがお仕事の間、おばさんが一緒に遊んであげるからね奈々美ちゃん。ほら、行こうか」


「申し訳ありませんが、よろしくお願いします。なるべく早く帰りますので!」


「急ぎすぎて事故にでも遭ったら大変なんだから落ち着いて。ゆっくりでいいから気をつけて行ってらっしゃい」


「それもそうですね。すみません、よろしくお願いいたします」


「気を付けてね。ほら、奈々美ちゃんも。お母さんに行ってらっしゃいは?」


「……いってらっしゃい、おかあさん」



寂しさをグッと堪えて、手を振った。





……あれ、これはなんだろう。


記憶?私が忘れている、昔のことだろうか。


このおばさんは……あぁ、そうだ。インターホンをしつこく鳴らす、あの女性だ。


こんな優しい喋り方をする人だったんだ。


そして……そうだ。この人が、昔から私を預かってくれていた二軒隣の……。






そこまで気が付いて。急にぐるんっ!と変わった場面。








「おかあさん!」


「ただいま奈々美」


「おかえりなさい」


「……本当にありがとうございました。何か娘がご迷惑をおかけしませんでしたか……?」


「大丈夫よ。とーってもいい子だったわ。こっちが心配になるくらいに聞き分けが良くて。びっくりしちゃった」



帰ってきたお母さんに抱きつく私と、そんな私の頭を撫でるおばさんのしわしわの手。



「おばさんとね!いーっぱいおりがみしたの!あとね、おえかきと、ねんどと、しゃぼんだま!」


「まぁ、そんなにたくさん!」


「あとでおかあさんに、しゅりけんつくってあげるね!」


「ありがとう奈々美。楽しみにしてるわ。……本当に、ありがとうございました」



何度もおばさんにお礼を告げるお母さんと、お母さんから離れたくなくてずっとくっついている私。




……そうだ。私は定期的に、あのおばさんの家に預けられていた。


お父さんはこの時から海外出張が増えて。


お母さんも仕事が忙しく帰ってこられない日や地方へ向かうことが増えて。


そのたびに、私はおばさんの家に預けられていた。



最初は良かったんだ。けれど、途中から私はそれが嫌で嫌でたまらなくて。




「おかあさん、つぎにとおくにいくときは、わたしもつれてって!」



そう何度も懇願した。


しかし、



「ごめんね。一緒に行きたいのは山々なんだけど、お仕事だから連れて行けないのよ。それに向こうはとても危ないところなの」



日本でも、海外でも。見知らぬ土地にまだ幼い子どもを連れて行くことはとても危険で怖いことだろう。


当たり前のことなのに、当時の私には何も分からなくて。



置いて行かれる。そればかり考えていたんだ───






*****


「……あれ……?」


「奈々美!奈々美!?」


「……お、かあさん……?」


「奈々美!良かった……」



目を開けた時、一番に飛び込んできたのはお母さんの泣きそうな表情だった。



「先生呼ばなきゃ……!」



お母さんがそう言って慌てたように視界からいなくなり、何度か瞬きするとなんだか見慣れた白い天井が見えた。


起きあがろうとすると頭が痛み、それを手で抑えながらどうにかゆっくりと上半身を起こす。


どうやらここは入院していたあの病院で、点滴などはしておらずただベッドに寝かされていたらしい。



「桐ヶ谷さん、目が覚めたって?」



おそらくお母さんが呼んだのだろう、二週間ぶりの東海林先生が優しく微笑んでいた。



「全く君は。退院したばかりでまた戻ってくるなんて」


「ははは……」


「すみません、私が気が動転してしまって」


「いやいやお母さん、ただの冗談です。気にしないで」



意地悪く笑った東海林先生は、私に向き直ると聴診器で診察をする。



「……うん。問題は無さそうだ。具合の悪いところは?」


「頭痛が、少し」


「鎮痛剤はいるかい?」


「そこまでじゃないので、大丈夫です」


「わかったよ。少し休んだら今日は帰っていいからね。次は健診の日に会いましょう」


「はい。ありがとうございます」



冗談混じりで笑った東海林先生と入れ替わるように入ってきた立花さんが、



「桐ヶ谷さん、お手数ですがお会計は受付で……」



とお母さんに事務的な話をしている。




お母さんはそれに何度も頷きながら頭を下げて、



「ごめんね奈々美。お母さん、パニックになっちゃって救急車まで呼んじゃって」



と眉を下げた。


まさか救急車で運ばれていただなんて思わなかったため、落ち込んでいるお母さんに「ううん、ありがとう」と笑って答える。


どうやら私はお母さんからあのおばさんの話を聞いて、ショックで倒れてしまったらしい。


頭は打っていなかったらしく、パニックになったお母さんによって救急車で運ばれはしたもののただ気を失っていただけで、今の今までずっと私が起きるのをお母さんはそばで待っていてくれたようだった。


時刻はすでに夜中に差し掛かっており、明日もお母さんは仕事で忙しいはずなのに迷惑をかけてしまった、と今度は私が落ち込む番だった。


しかしお母さんは



「明日は仕事休みなの。おばさんのこと、どうにかしないといけないし。……それに、明日は奈々美にサプライズがあるのよ」


「……サプライズ?」



首を傾げる私に、お母さんは嬉しそうに微笑んだ。





サプライズ。


その言葉通り、次の日の朝。私は自宅リビングで驚いて言葉を失っていた。



「……奈々美。大きくなったな」


「……お、とう、さん?」


「あぁ。奈々美は優しいな。何年もお前を置いて仕事ばかりになってしまった俺を、まだお父さんって呼んでくれるのかい?」


「だ、って。お父さんは私にとって一人しかいないから……」


「……奈々美」



目の前の光景が信じられなかった。


夢で見た、お父さんがそこにいた。


白髪が混じる短い髪の毛は、仕事帰りなのか綺麗に分けた状態でムースで固められているらしく、"仕事ができる人"なのだろうと容易に想像ができる。


実はお父さんはまだ海外勤務の任期はあったらしいものの、今後のキャリアを捨てて私のために日本に帰ってきてくれたのだ。



「今まで、本当にすまなかった。入院中も一度も見舞いに行けなくて、本当にすまない」


「……うん」


「でも、お父さんは奈々美を愛していないわけじゃないんだ。自分勝手なのはわかっているが、それだけは誤解しないでほしい」


「うん。わかってるよ」



夢で見た両親はすごく仲が良くて。


私も、お父さんのことが大好きで。


きっと、私のためにお仕事を頑張ってくれていたのだろう。